「家族形態」史から分かる日本人の「居場所づくり」いろいろ(4) |
日本人にパラダイム転換発想あり
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2017年 10月 29日
「中国史のなかの家族」飯尾秀幸著 山川出版社刊 発 「秦代以降、貧富の差が徐々に拡大していた里内に、ついに田牛を所有する者が出現した。その前提には、牛を購入できる富の蓄積と、製鉄技術の向上による犂の軽量化にともなった牛耕における一頭一人挽きへの改良があった。 田牛の所有を実現した者にとっては、牛の共同利用などに機能していた里内の共同体的な諸関係はもはや必要なくなった。 こうして彼らは牛耕を利用しての個別な開墾などで農耕地の拡大をはかった。 さらに彼らは蓄積した富でもって貧者に貸しつけ、債務超過の貧者から土地の用益権を収奪するなどして農耕地を拡大させた。(中略) 農耕地を広げた彼らは同族との結合を強化し、拡大した農耕地を同族結合によって経営し、自らの集団の経済力を拡大していった。 この血縁関係で強く結びついた同族集団、これを豪族という」 後漢時代には、買地券が出現し、土地の売買が法的に認められていたことを示す。 また、副葬品に豪族の生前の栄華として描かれたのだろう、大型住居が記録されている。里内には高楼建築と小型家屋が併存していた。 「豪族層は、農耕地のみでなく、集落である里の周辺の山林・池・沼・原野を囲い込み、独占した。 そこは本来ならば里人によってその資源などが共同利用されていた場所である(筆者注:前項(3)で検討した、秦代に生まれたすべての土地と人民が皇帝に帰する「公地公民」の制度と理念では)。 そのため、里内に居住する一般の里人にとっては豪族の出現とその経済力の成長によって、その生活自体が圧迫されることになった。そして貧困化した里人は豪族とのあいだに貸借関係を結ぶ。それが債務となって宅地・農耕地を手放す。その後は、ある者は流亡したり、債務奴隷に身を落としたり、そうでなくても、豪族の経営する農耕地で労働力を提供する仮作(かさく)と呼ばれる存在になる」 少し話を脱線させていただく。 私はアメリカの西海岸のサンフランシスコからロスアンゼルスまでレンタカーで移動したことが何回かある。その際、地平線の見える平原をカントリーソングなど流しながらドライブしたのだが、ルート沿いの広大な土地に有刺鉄線が張り巡らされていることに違和感を覚えた。 なぜなら、見渡す限り不毛の平原に誰かが立ち入ったからと言って何も盗るものはないのである。石油が採掘できる所はあったと思うが、立ち入ってすぐに出て来る物盗りはどうみてもする対象がない。 しかしその鉄条網は、立ち入りを見咎められればライフルで撃ち殺されでもしそうな緊張感を感じさせた。小用をするべく路肩的な土壌に停車していたらパトカーがやってきて警官に移動を命じられた。走っているクルマはほとんどなかったから、交通上の規制というより私有地の侵犯を警戒されたように感じた。 おそらく日本人には分からない、西部開拓者たちの文化的遺伝子のもたらす共通感覚がアメリカの私有地の所有者や警官にはあるのだろう。 ひるがえって、私が暮らす伊東市郊外の国道は山林を抜けるところがある。誰かの私有地の筈だが鉄条網はない。入っていこうと思えば入っていけるが用がないので立ち入ったことはない。 日本には古来、天皇のものでも共同体の利用に供された山があり、共同体の構成員なら誰でも日常的に利用できる里山があり、日本人にはそういう所有観念の希薄、共有観念の濃厚が一般化していると言えよう。 私のそんな日本人としての共通感覚が、アメリカ西海岸のルート沿いに延々と続く有刺鉄線に違和感を覚えさせたのだと思う。 この有刺鉄線は、西部開拓者たちの縄張りについての共通感覚を象徴している。 縄の代わりに有刺鉄線を張っていることは、ある意味とてもプリミティブである。 なんでこのような脱線話をしたかというと、 中国古代の豪族による広大な土地や山林の囲い込みの厳格さは、今の私たち日本人はよほど意識しないと想像できない可能性を感じるからである。 むしろ、アメリカ西海岸の有刺鉄線で囲まれた広原の縄張りの厳格さに通じたと想定したい。 豪族は、土地と財産を自衛するための軍事力を発揮した。豪族の広大な縄張りには、国家権力の及ばない治外法権域もあった筈で、困窮の農民や流浪の難民が侵入を見咎められれば盗人として逮捕され私刑に処されても致し方ない、そういう緊張感もあった筈だ。 「豪族層は、その内部で貧富の差が生じれば、同族の組織を媒介として富家が貧家を援助するなどして同族結合を強化する」 それは、広大な私有地を領有して、域内の人間を支配し域外の人間を排除するには信頼できる多人数が必要であり、血縁関係を頼りに同族結合を強化するしかなかったからである。 このことに関する厳格と緊張は、私たち日本人には漫然と想像しても思いも寄らないもので、アメリカの個人主義の大土地私有のそれを参照して代替するしかない。 よく中国人は、自分たちはアメリカ人と考え方が似ているという。その理由は、英語と中国語の文法的な共通性などいくつか上げられるが、こうした自己防衛が基本の広大な土地私有をしてきた文化的遺伝子の共通性もあげらるのではないか。 後漢時代の豪族の生活を記録した資料には、 「豪族の血縁結合を示す語として『宗人(そうじん)』『宗族(そうぞく)』『婚姻』などや、地縁関係などを示す『父友』『郷党』『耆老(きろう)』などの語がみえ、豪族が血族を中心として地縁的にも幅広い関係を構築していることがわかる」 その上で著者は、祭祀を重視するこの資料に「里祠がみえない」ことを重視して、 「豪族が、それまで大切にされていた集落における地縁的な関係よりも、自らの血縁関係を重視する姿勢を反映したもの」 としている。 この傾向は、現代の一般的な中国人が、異郷において親戚と協力しあい同郷人と親交するのに加えて、親戚ではない同姓の者同士の交流を国を超えて活発にしていることにも息づいている。 つまり、中国人が意識する血縁関係とは、日本人が意識する血縁関係よりも広範に及び、しかも現実の生活や仕事により密接に関係する。たとえば今日でも、同姓の者を一族の者と擬制して結婚を禁止する制度「同姓不婚」を意識したり、「同姓団体」を通じて国際的なビジネス上の信頼関係「関係guanxi」が展開したりする。 (なまじ日本人と中国人は同じ漢語を使うために、自分たちの用語法やニュアンスで相手のことも推し量ってしまう。しかしそこには大きな違いがあることが多く、それが重層すればまったくの見当違いになってしまう。) 漢代の「里祠」には、日本の律令神道に至るその前身の信仰状況を検討する重要なヒントがある。 日本の古代の神道については2つの側面を見る必要がある。 一つは、下から自然発生する「文化」としての側面。 これは中国南部で土着の自然崇拝から道教が発生したように、日本列島でも土着の自然崇拝から神道が発生したという側面である。中国南部は海に山が迫った照葉樹林帯で日本列島と似通った風土で、人類普遍の<部族人的な心性>として似通った原始信仰(日本側では縄文信仰)が展開したと言える。 いま一つは、上から構想普及された「文明」としての側面。 中国の為政者が土着的な道教の前身を国家宗教の道教として採用しそれがまた民間信仰にフィードバックしたように、日本の為政者が土着的な神道の前身を律令神道として採用しそれがまた民間信仰にフィードバックした展開である。 土着的な神道の前身は、土着的な道教の前身と似通った原始信仰だったと考えられる。 このような観点をもって著者の論述を検討していこう。 「里祠とは、漢代では国家が祀る社(筆者注=上から構想普及された「文明」)のほかに、もともと里人が集落において祀っていた里社(筆者注=下から自然発生する「文化」)と同等のものと考えてよいと思われる。 その里社について、前漢後半ころより変化が起っている。 (筆者注:ある記録は) 富者は社などを祀らずに勝手に自然を相手にした祭祀をおこなっていて(筆者注=上から構想普及された「文明」)、社を祀っているのは貧者のみである(筆者注=下から自然発生する「文化」)ことを非難の意を込めて指摘している」 ここで留意すべきは、 本来、漢語の「社」は、祖先神と、祖先が開拓した土地の土地神を祀るものに限定されていた (国家の「社」の場合、祖先神=王の祖先神、土地神=国土の土地神で、祭祀は建国神話、国生み神話をベースとする。そのこと自体は人類普遍的に見られる展開) ということである。 つまりは、人類普遍の<部族人的な心性>の原始信仰の媒体ないし拠点のことであった。 ところが、豪族は他の一族の土地も自分の一族の土地として囲い込んで行った訳で、本来の「社」は豪族の経営拠点としての祭政拠点に再編統合されてしまった。ここで働いたのは、時と場合、主体と状況によって内容や構造が異なる<社会人的な心性>である。 中国古代の豪族の場合、勝手に自然を相手にした祭祀をしたのであって、その媒体ないし拠点となった祭政拠点は「豪族が私的に建てた社」であった。 この ①本来の「社」における祖先神と土地神の信仰 ②「豪族が私的に建てた社」における風土に根ざした自然信仰 という中国における順序は、 日本人にとってとても重大である。 なぜなら、 日本では、 縄文人が①をやっていて、渡来した弥生人が②をやり出した、ということで、 「実際に起ったこと」の順序としては同じなのだが、 磐座や山を御神体とする自然信仰がもっぱら縄文信仰に結びつけて理解されてきた からである。 しかし、 新石器時代人である縄文人部族がやっていた①は、自分たちの祖先と自分たちの縄張りへの信仰であって、その枠組みの中での自然信仰はあったが、 祖先や縄張りと関係ない山やその中の磐座を御神体とする発想は、弥生人の②を待たねばならない。 ここで思いあたるのが古事記の出雲神話である。 「国譲り」の前段で、オオクニヌシに協力して「国造り」をしてきたスクナヒコナが退場し、代わりにオオモノヌシが登場する。 オオモノヌシは、オオクニヌシ(オホナムチ)の和魂であると「前からいたんだよ」的な説明をして、大和国の三輪山に自分を祀ることを希望した。周知のようにそれを由緒とする大神神社が、本殿は設けず三ツ鳥居を通して三輪山を拝するという原初の神祀りを伝える最古の神社である。 大和国の三輪山はオオクニヌシの縄張りでも交易対象でもなかったから、 この信仰は、 ①本来の「社」における祖先神と土地神の信仰 ではなくて、 ②「豪族が私的に建てた社」における風土に根ざした自然信仰 に他ならない。 じつは、 大和地方や出雲地方に分布する磐座も、鉄生産民が鉱物資源を求めて山間を探索して見出されたと考えられている。つまり、縄文人ではなく、鉄生産する弥生人が介在しているとされる。 ともすると私たちは、縄文信仰=自然信仰、弥生信仰=より人工的な信仰と短絡して、プリミティブな巨石信仰の方が原初的と考えがちだ。イメージ的にはしっくりくるし、人類普遍性もありそうに感じる。 しかし日本列島で「実際に起ったこと」としては、必ずしもこの短絡は正しくない。 私が思うに、 古事記の出雲神話における、人工的かつ先進的な知識や技術を象徴するスクナヒコナが退場して、代わって自然的かつ原初的な信仰を象徴するオオモノヌシが登場するという物語展開は、 意図的に、 中国の常識=弥生人の常識としては ①本来の「社」における祖先神と土地神の信仰 よりも後に展開してきた ②「豪族が私的に建てた社」における風土に根ざした自然信仰 を、 日本の常識=ヤマト王権の構成員の常識としては (「豪族」を、オオクニヌシの「出雲族」とそれから「国譲り」を受けた「天孫族」に置き換えて) ①本来の「社」における祖先神と土地神の信仰(=じつは縄文人の信仰でもある) よりも前から普遍的に展開してきたかのようにミスリードさせている と言える。 スクナヒコナは、日本書紀でタカミムスヒ、古事記でカミムスヒの子とされる天つ神で、血統的には「天孫族」の同格以上だった。「国譲り」に協力するが国つ神のオオクニヌシに過小評価されて去った。 オオモノヌシは、その後釜の協力者として登場する。聞けばオオクニヌシの幸魂・奇魂だった。 そして結果的に、オオクニヌシは「天孫族」に「国譲り」して出雲神話は終わる。 「実際に起ったこと」としては、私個人的には「国譲り」はヤマト王権の初期勢力が神武東征で「邪馬台国」を降伏させた後だと考える。 また、崇神天皇の治世に、オオモノヌシを祀ることで疫病や百姓流離が鎮静し五穀豊穣がもたらされたと物語られている。この疫病や百姓流離は「実際に起ったこと」で、その解決にオオモノヌシが象徴する原初的な自然信仰の威力が結びつけられていると考える。 なぜ、以上のような信仰に関わる常識の改変を古事記編纂者はしたのだろうか。 それは、天武・持統の両天皇が構想具体化した律令神道が、人類普遍的な<部族人的な心性>である自然信仰を高度な文明として<社会人的な心性>に変容させようとするものだったからである。 そんな律令神道の戦略的コンテンツである古事記は、日本列島の風土に根ざした自然信仰をもっとも原初的で普遍的な威力あるものであると刷り込むものでなければならなかった。 その戦略的メディアである伊勢神宮をスタンダードとする神社建築と神道祭祀は、日本列島の風土に根ざした自然信仰をもっとも成熟して完成された様式美を印象づけるものでなければならなかった。 中国と日本では、社会の体制形成において真逆のベクトルが働いている。 それは、 中国では、 国家が豪族の台頭を抑制しようとして、結果的にできずに容認しているのに対して、 日本では、 征服王朝を樹立し統一的な「領域国家」を目指した「濊(わい)人」が大土地所有とその支配を経験した豪族(<社会人的な心性>の持ち主)ではなく騎馬民族(<部族人的な心性>の持ち主)であったために、多様な渡来人である多様な豪族を最初から容認し豪族ごとにいかに国家の支配体制に取り込んで行くかに腐心した ということである。 中国の記録からは、 「里内の階層分化と、(中略)富者(豪族)の地縁関係への軽視をみてとれる」 他の記録にも、 「私社を建てることを(筆者注:国家が)禁止する規定がみえる。 私社の出現は、同族結合を強化する豪族が私的に社を建ててしまうことで、これは彼らが、ますます同族結合を強化するという意味での個別化、さらに同じ集落に居住していても、同族でない者にたいしての排他へと向かっていくことを示している。 これは里内の共同体的な関係の変質にとっては決定的となる」 多様な出自と経緯の渡来人は、多様な豪族として②「豪族が私的に建てた社」における風土に根ざした自然信仰をさまざまに展開していた筈である。 律令神道を体現する神社の建築様式や祭祀様式は、彼らの土着の自然信仰から派生した道教的な多様な信仰を最大公約数的に囲い込むものだったと考えられる。 また、古事記や日本書紀に登場する神々は、古事記編纂期の有力な主要渡来氏族の祖を網羅していて、皇統を正統化すると同時に彼らの神話上の権威も関連づけて正統化するものであった。 日本列島で多様な渡来人勢力が多様な豪族として多様な活動を展開した 「国家は、例えば武帝(筆者注:前漢七代目の皇帝、前156〜前87)期では酷吏を使って豪族を弾圧したりして、同族という意味での個別化を強化する豪族の横暴を抑圧する政策を実行した。 しかし豪族層は、一族をつぎつぎに郡県の地方官吏に送り込み、さらには中央官界へと進出させ、そうした抑圧政策を実効力なきものにしていった。(中略) 豪族はしだいに経済力をつけつつ、徐々に政治勢力としても国家が意識せざるを得ない存在になっていった」 日本の歴史とおそらく一般的な想像以上に深く関わっている豪族として「公孫氏」がある。 189年、公孫度が、後漢により遼東太守に任命され、そのまま後漢から自立する。そして朝鮮半島北部の楽浪郡や山東半島まで勢力を伸ばした。204年には、公孫度の嫡子、公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設けて、韓や倭を勢力下においたとされる。 私個人的には、この倭について、「安曇氏」が宗主国に上納することを条件に出先機関の全権を担った「伊都国」(行政拠点)・「奴国」(稲作拠点)・「一大国」(軍事拠点)だったという説をとっている。 公孫度の代に半独立したが、曹操によって後漢の勢力が強まると公孫康はこれに服属した。公孫康を継いだのは弟の公孫恭だったが、228年に公孫康の子の公孫淵が謀叛して位を奪う。 当時は、後漢が崩壊して魏・呉・蜀の三国が覇を競った三国志の時代だった。公孫淵は最強にして自領に隣接する魏に臣従を装いつつ呉と同盟工作を行い密かに独立を謀った。236年、魏に反旗を翻し、広陽郡を燕国として燕王を称して、本格的に支配体制を確立、近隣部族に印璽を与えた。しかし238年、魏に討伐されて降伏し、一族処刑されて公孫氏の勢力は消滅したとされる。(公孫恭は魏への忠誠を貫いたとして処刑されなかったが子がいなかった。) 『魏志倭人伝』において、2世紀後半の「倭国大乱」から、公孫氏滅亡後の卑弥呼による魏への難升米の遣使(239年)まで倭についての記述が途絶えている。 このことから、倭の勢力による後漢や魏に対する直接の朝貢を公孫氏が遮っていて、公孫氏が帯方郡として受けていた可能性がある。 つまり、大土地所有の経済勢力から政治勢力の官僚豪族となり、最終的には諸候なみの版図を領有して自立する諸候豪族となった公孫氏が、「安曇族」に規模は小さいが同様の諸候豪族として北部九州に国を建てさせた、あるいは官僚豪族として帯方郡の出先機関を担わせた可能性である。 前5世紀の呉の遺臣を祖とする交易豪族の「安曇氏」がこの構想を持ちかけて、公孫氏に後ろ盾になってもらい、利益の一部を上納したと考えられる。 その際、公孫氏の何が「安曇氏」の具体的な後ろ盾となったのか。 公孫氏の自立性からして後漢や魏の威光といった抽象的なものではありえない。 私は、 「安曇氏」は公孫氏から鉄製武器の供給を受け、それで武装した軍事力で北部九州を制圧したのではないか と考えている。 その理由は、 『新撰姓氏録』に、「常世連」なる大陸から日本へ土着した帰化人の氏族について、公孫淵の末裔であるという記述がある からである。 「750 左京 諸蕃 漢 常世連 連 出自燕国王公孫淵也 281 」 (「左京に住する常世連は、燕の国王であった公孫淵の末裔である」) そして、 「日本書紀」神代紀に出てくる「オモイカネの神」が、古事記では「常世」にいると説明されていて、これが「常世連」=公孫氏の末裔を指すという説がある。 魏に敗れた公孫氏の残党は、朝鮮半島を南下して朝鮮半島南部に支配権を打ちたて、それまで北部九州の「安曇族」と結んでいた政治・交易関係を保とうとしたと考えられる。 一説では、「オモイノカネ」は「重い金」、すなわち加工用の鉄の延べ板である鉄梃を意味するとされる。 私は、 朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした海上移動性に富んだ交易民である「倭人」には2系統いた と考える。 1つは、 縄文時代以来、その地にいた朝鮮半島と九州を往還して遠隔地交易をしていた日本列島側の縄文人の海上交易民と、朝鮮半島側の新石器時代人の海上交易民であり、 いま1つは、 魏に敗れた残党公孫氏の遺臣のような後からその地に落ち延びた王侯やその遺臣に率いられた海上交易民である。 そして、 朝鮮半島で国々から未勝目料をとって回っていた騎馬民族の「濊(わい)人」が領域国家の台頭で食いっ逸れて、これに日本列島で征服王朝を建てる構想を持ちかけて全体的にバックアップした「倭人」とは、 後者の後からその地に落ち延びた王侯やその遺臣に率いられた海上交易民だった と考える。 つまり、 領域国家の最前線の帯方郡として「濊(わい)人」を食いっ逸れさせたのも公孫氏ならば、 彼らに日本列島に征服王朝を建てる構想を持ちかけてバックアップしたのも魏に敗れて朝鮮半島を南下した残党公孫氏(嫡子は途絶えたとされるからその一族の残党)だった と考える。 「安曇氏」は基本、機を見るに敏な政商交易民という文化的遺伝子の持ち主である。 魏に滅ぼされ敗走した残党に過ぎない公孫氏に対して、それまでの政治・交易関係を保ったとは考えにくい。魏に直接に上納したか上納そのものを止めるかした筈である。 すると残党公孫氏がサバイバルするには、同様に食いっ逸れていた、知謀はないが騎馬民族としての戦闘力がある「濊(わい)人」を担いで日本列島に征服王朝を建てるしかなかった。 構想を推進するには、知謀は少数の公孫氏の遺臣が担い、水軍や交易という現場バックアップは大多数の海上交易民の「倭人」が担った筈である。 ヤマト王権樹立後、「濊(わい)人」が歴史の表舞台から姿を消しつつ血脈を皇統として着実に繋ぎ、黒幕のキングメーカーとして天皇(大王)の私経済を未勝目料の代わりとして得たと考える。 その際、残党公孫氏もその名を伏せて血脈を繋ぎ、やがてその後裔が「常世連」となったのではないか。 大多数の海上交易民の「倭人」が、ヤマト王権に重用された「宗像氏」のような、朝鮮半島南端と北九州沿岸とを往還する海上交易民であり続けたのに対して、豪族の遺臣であった残党公孫氏はヤマト王権の中央政界に留まる動き方をしたと考えられる。 『古事記』では「海の神」オオワダツミが「安曇氏」とされる。 しかしそれは、本来「倭人」であるところを、「濊(わい)人」が自らの征服者としての存在を歴史から抹消するために、征服王朝樹立を全面的にバックアップした「倭人」も「安曇氏」に置き換えたものと考えられる。 であれば、 オオワダツミが住む「綿津見国」がいろいろな形で「常世国」と結びつけられることと 「常世」にいる「オモイカネの神」が「常世連」=公孫氏の末裔であることとがリンクして 「濊(わい)人」を征服王朝樹立に導いた「倭人」が残党公孫氏であったことを暗示している と言える。 また、 天孫・山幸彦が「綿津見国」に到着して「海の神」の娘・トヨタマヒメと結婚する物語は、残党公孫氏が「濊(わい)人」を導くようになった経過をなぞっている という解釈もできる。 (参照: 『古事記』が記した日本人の<社会人的な心性>のベース=<部族人的な心性>(9:結論/上) 「倭人」による「濊(わい)人」の全面的バックアップは、朝鮮半島から南九州への上陸(天孫降臨)から、南九州での養兵(日向三代)と続く。 この養兵とは、騎馬民族の「濊(わい)人」と先住民の縄文人の協力者(山幸彦が暗示する狩猟民)に鉄製武器を供給してその使用を訓練することである。 「倭人」=残党公孫氏が原料鉄を供給して、南九州の鉄器製造拠点に江南地方の鉄生産専従民を入植させて鉄製武器を生産させたと考えられる。であるならば、そのようなことを構想し実践したのは、縄文時代以来、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした単なる海上交易民ではありえない。中国の中央集権的な国家体制のもと官僚豪族から諸候豪族となった公孫氏の遺臣ならばこそできることだった。 ヤマト王権樹立後、 鉄製武器の生産そのものは、畿内に留まり中央政界で勢力をもった「安曇氏」=「物部氏」「肩野物部氏」が管掌したが 原料鉄の朝鮮半島からの輸入については「倭人」=残党公孫氏(「常世連」=「オモイノカネ」)が管掌した という役割の分担と連携があったのかも知れない。 (ちなみに、オオクニヌシと「国造り」を協力したスクナヒコナが去ったのも「常世国」だった。 スクナヒコナもその知識や技術から中国系の渡来人と考えるが、同じ言語習慣の残党公孫氏と朝鮮半島南部で合流したことを暗示しているとすれば、オオクニヌシが「国譲り」した時には、ヤマト王権の初期勢力として「濊(わい)人」をバックアップした朝鮮半島側の「倭人」=残党公孫氏に協力していた可能性をにおわせる。 スクナヒコナは薬神の代表でもある。薬が負傷兵を治療をする軍需物資であることも、協力の内容を想像させる。 また、神武東征で入水した神武の兄の三毛入野命(みけいりののみこと)も、『日本書紀』では「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏み、常世に行ったとしている。『古事記』では、事績は何も記されずに「波頭を踏んで常世の国に渡った」とだけ記されている。 その兄の稲飯命(いなひのみこと、古事記では稲氷命)も、『日本書紀』では「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さひもち)の神」になったとする。『古事記』では事績の記載はなく、稲氷命は妣国(母の国)である海原へ入坐としたとのみ記されている。 妣国である海神の国=常世国、と指摘される。 鋤持(さひもち)のサヒとは大陸から伝来した利剣を表す、とも指摘され、鉄製武器との関係が暗示されている。 また、『新撰姓氏録』には、稲飯命を新羅王の祖とする異伝がある。異伝が史実ではなく後から創作されたものだとしても、そのような創作が行われる背景として、「邪馬台国」を降伏させたヤマト王権の初期勢力の「濊(わい)人」や「倭人」と、朝鮮半島の鉄製武器を供給する交易拠点との密接な関係があったと考えられる。) 話を本論の主題「豪族」に戻そう。 いずれにせよ言えることは、 中国では、秦代に始まる中央集権下の「公地公民」の土地を私有化して大土地所有者となる経済勢力である豪族が、地方官僚・中央官僚を輩出して官僚豪族となり、やがて強大な軍事力をもって広大な版図を領有する公孫氏のような諸候豪族まで登場するに至った。 一方、 日本列島では、「安曇族」や「倭人」そして「テュルク族」が先住民の縄文人を軍事力で駆逐したり支配して大土地所有の経済・政治勢力の豪族となっていった。 先住民に鉄製農具で開墾や農耕をさせた経過が強制的であったか、平和裡であったかはケースバイケースである。 (オオクニヌシのような「交易ビッグマン」に率いられた「出雲族」は遠隔地交易を主体とする交易民であり、農林水産、手工業などの交易相手と対等で継続的な関係を結ぶことで体制を安定化するため、縄文人の首長層を交易相手としてさまざまな産業資源を供与して共生すべく平和裡に同化した。オオクニヌシの婚姻譚の多さはそれを示している。よって、豪族のような大土地所有の志向性を欠いていたと考えられる。だが、逆に平和裏な同盟ネットワークは構築されやすく、「出雲族」と同盟する交易拠点は日本列島の各地に及んでいたと考えられる。) このように日本の豪族の成り立ち方は中国と大きく違うが、 豪族に在地豪族、交易豪族、職能豪族、官僚豪族、諸候豪族と多様なタイプがあることは同じで、 ヤマト王権の支配階層を形成した有力な主要渡来氏族はすべてそのどれかであったとは言えよう。 中国人と日本人の<社会人的な心性>の社会観は大きく違う。 その背景には、社会の体制形成の大きな違いがある。 日本列島に縄文人がいたように大陸にも新石器時代人がいた。 特に中国南部の海と山が迫った照葉樹林帯は、日本列島とほとんど同じ風土でほとんど同じ生活が営まれ、相互に人と文化の行き来もあり、ほとんど同じ<部族人的な心性>が展開していた。 しかし、今日に至る中国人の<社会人的な心性>の根幹は、中国北部の広大な広原である黄河上流から形成されていった。 さらに日本列島と中国内陸部の風土の大きな違いは、陸続きのために、文明が発達して豊かになるほど文明の後進した異民族の来襲を受けたことである。 そして、その来襲に対抗する運命共同体として、集落は「くに」→「国」に展開していった。 当初は、城塞都市という点を線で結んで民を支配する「都市国家」だったのが、やがて面で民を支配する「領域国家」になっていく。 秦代に皇帝が土地と民を支配する「公地公民」となり、土地私有を拡大する経済勢力の豪族が官僚化し政治勢力ともなり、やがて諸侯並みの大土地所有をして民を支配する公孫氏のような諸候豪族も登場してくる。 一方、日本列島は、弥生時代に大陸から灌漑水田耕作と鉄器製造の技術をもった多様な豪族が渡来する。 公孫氏の帯方郡や魏の出先機関として国を建てた「安曇氏」は、交易豪族が政商豪族〜官僚豪族に展開した。 公孫氏が魏に滅ぼされその残党の遺臣に率いられた「倭人」が騎馬民族の「濊(わい)人」をバックアップして征服王朝を建てさせその交易利権を得たり中央政界に進出した(後世の「秦氏」)のも、交易豪族が政商豪族〜官僚豪族に展開した形である。 また、匈奴に同行した鉄生産専従民だった「テュルク族」が北陸に上陸し先住民の農民を支配して「くに」ぐにを建てながら、鉄資源を求めて琵琶湖地方経由で大和盆地に至り連合の中央政府として「邪馬台国」を建て、さらに中国地方に進出して「吉備津国」を建てたのも、職能豪族が在地豪族に展開して連合した形である。 ここで留意すべきは、ヤマト王権を樹立した「濊(わい)人」自身は大土地所有とその支配の経験のある豪族ではなかったことである。 彼らは朝鮮半島の「くに」ぐにから未勝目料をとって回っていた騎馬民族だった。文明の後進性を拭えず、また直接的な民の支配を嫌い二重支配を好む彼らは、黒幕のキングメーカーとなって血脈を皇統として着実に保ちつつ、家系的には傀儡化した「出雲族」の出雲系の天皇(大王)を即位させた。後には、同じく傀儡化した「テュルク族」の大和系の天皇(大王)を即位させた。それによって、未勝目料の代わりに天皇(大王)の私経済を利益源泉としたと考えられる。 さらに留意すべきは、「出雲族」が豪族とは言えない存在だったことである。 殷や燕の遺民が商人として朝鮮半島北部東岸の交易拠点に至り、そこの「交易ビッグマン」が朝鮮半島や沿海州や日本列島の日本海沿岸の交易拠点を結んで遠隔地交易を展開した。その一派であるオオクニヌシが島根半島西部に交易自由都市を構築し、そこを拠点とした交易民が「出雲族」となった。 彼らは、大土地所有や国家の樹立やその管理下におさまることを志向せず、あくまで自由貿易の交易民として、日本列島に先住した縄文人交易民や各種の縄文人生産民と共生し共同した。 「出雲族」はあくまで脱「領域国家」の自由貿易によって自らの交易拠点と同盟ネットワークする交易拠点を発展させた。 そのため、統一的な「領域国家」を目指したヤマト王権から「国譲り」を強いられ、具体的にはその交易拠点と交易ネットワークを解消させられてしまう。 ヤマト王権の管理貿易と御用手工業を独占するべくその王権樹立に協力した「倭人」と「安曇氏」(「伊都国」長官が同じく魏を宗主国とする「邪馬台国」の難升米を謀殺して難航した神武東征を好転させた)の経済的な利益を、オオクニヌシが盟主となった「出雲族」とその自由貿易の交易ネットワークが損なうものだったからである。 いずれにせよ、すべての渡来人勢力は、灌漑水田耕作と鉄器製造の知識や技術をもっていて、それによって効率的開墾と鉄製武器で武装した軍隊を展開した。 (ただし、大土地所有を志向する豪族ではなく国家主義も志向しなかった「出雲族」は交易拠点と海上交易の専守防衛に徹したと考えられる。 また、帯方郡や魏の出先機関として国を治めた「安曇氏」も交易利益の追求を目的とし、宗主国の版図拡大の意向をまで積極的に担ったとは考えにくい。「一大国」は軍事拠点だったが、それは行政拠点の「伊都国」と稲作拠点の「奴国」の防衛を主眼とするものだったと考えられる。) 日本列島の各地では、新石器時代からの先住民である縄文人が、こうした多様な渡来人支配層に対峙して、被支配層になって協力するか、あるいはそれを拒んで抵抗するかした。 長いタイムスパンで俯瞰してザックリ言ってしまえば、 協力した者は同化され 抵抗した者は駆逐された と言えよう。 南九州の縄文人の首長層は、朝鮮半島から渡来した「濊(わい)人」と「倭人」に協力して神武東征に参加したが、ヤマト王権樹立後、地元の大方が離反して「熊襲」と呼ばれ(ex.クマソタケル)、中央との関係を保ち忠誠を貫いた一部が「隼人」と呼ばれた。 「出雲族」の首長層には、「国譲り」の後も抵抗した者(ex.イズモタケル)もいたが、大方は支配に従った(ex.諏訪地方に逃れたタケノミナカタ)。中でも傀儡化した首長層が「濊(わい)人」の首長候補を婿として受け入れ、その中から当初の出雲系の天皇(大王)が立てられた。「出雲国造家」も同様の血筋からなったと考えられる。 「邪馬台国」が連合していた「くに」ぐにの「テュルク族」の首長層も、傀儡化した首長層が「濊(わい)人」の首長候補を婿として受け入れ、その中から当初の大和系の天皇(大王)が立てられた。 「テュルク族」はもともと匈奴に同行する鉄生産専従民だったため、その鉄製武器で武装した軍隊は騎馬民族性を帯びていた筈で、ゆえに同様の「濊(わい)人」の侵攻に互角に対抗してそれを難航させたと考えられる。 また、ヤマト王権に抵抗し続けた「テュルク族」は縄文人と同化して勢力を保ち「蝦夷」と呼ばれた。 これにヤマト王権側で対抗できたのは、キングメーカーとして黒幕化した少数の「濊(わい)人」ではもはやなく、敵を熟知する元同族の傀儡化した「テュルク族」だった。これが、名目的には江戸時代まで続く征夷大将軍と「蝦夷」の攻防のそもそもの起源である。鎌倉時代に武家政権が成立するが、平安時代の平家源氏から続く武士の文化的遺伝子は、流鏑馬などに象徴されるように、間違いなく騎馬民族性を帯びている。 「家族形態」という論点から検討すると、多様に豪族化した渡来人勢力の首長層ないし支配層のそれは、ヤマト王権に従った方も抗った方も想像しやすい。 中国で発生した豪族の「家族形態」のバリエーションとして捉えることができるからだ。 しかし、 渡来人勢力に支配された縄文人の「家族形態」が、人類普遍的な構造をもつ部族人的な有り方からどのように変化したかは、多様な渡来人勢力の支配層に応じてケースバイケースであったこともあり、精緻な検討を要する。 中国では、一般庶民=被支配層の「家族形態」は、豪族が発生する前段の「公地公民」として皇帝に直接支配された居住単位としての家族があったが、この段階がなく、多様な豪族である多様な渡来人勢力に縄文人は直接に対峙することになった。 次項(5)では、このような日中の歴史の大きな違いを踏まえて、中国における「家族の成立」を対照しつつ、日本における「家族の成立」の特徴を検討していきたい。 (5) につづく。 ▲
by cds190
| 2017-10-29 20:16
| ☆発想を促進する集団志向論
2017年 10月 19日
「中国史のなかの家族」飯尾秀幸著 山川出版社刊 発 「西周代の後期以降、王権は急速に衰微する。(中略) それはかつて封建された諸侯が周王からの政治的な独自性をえたことを意味した。 諸侯ばかりではなく、封建諸侯がその上に乗って支配していた累層的構造をもった集落のなかにも政治的な独自性をえて、諸侯から分離する勢力も出現した。 王権の強化を目的とした封建は、極めて短時間に、王と諸侯という関係だけでなく、諸侯と在地勢力とのあいだでもその意味を喪失していった。その点について、春秋時代(前770〜前403/453年)の初期には二百数十カ国が政治的な独自性をもった勢力として存在していたという事実がこの事態をよく説明している」 政治的な独自性をもった諸地域は、依然として累層的構造をもった集落を集合した社会であったが、戦乱の繰り返しにおいて、自然発生的な累層的構造を制度的に囲い込む枠組みが新旧交代していった。 「この戦乱の性格は、春秋時代の初期には二百数十カ国あった地域勢力が、その末期には十余国となり、さらにそれが戦国時代(前403〜前221年)初期には七つの大国(筆者注:戦国の七雄=北から燕・趙・魏・斉・秦・韓・楚)とわずかばかりの小国を残すのみになったという結果に終わっていることからみれば明らかで、族的結合をもった集落を累層的にまとめあげた構造を基盤としてその地域の独立制を保とうとする勢力は、しだいに大きな領域を直接支配しようとする新たな勢力(国家)に併呑されるという趨勢のなかにあった」 つまりこの時期に、中国古代における「領域国家」の土台づくりが進んだと言える。 仰韶文化の後期から社会の基本構造であり続けた集落の累層的構造は、首長層における首長交替制から、封建制を契機とした世襲制へと転換していた。 それは王侯レベルで言えば、婚姻単位としての氏族が共同体に規定された族的なものから、逆に共同体を規定する個別的なものへと転換していくことを意味した。 それは集落レベルで言えば、婚姻単位としての家族が集落に規定された族的なものから、逆に集落を規定する個別的なものへと転換していくことを意味した。 ザックリ言えば、王侯レベルでも、集落レベルでも、最初に分立により多数化するダイナミズムが働き、後に併呑により少数化するダイナミズムが働いたということになる。 では、 大きな領域を直接支配しようとする新たな勢力(国家)はどのようにして誕生したのだろうか。 それが同時多発的に進行したのは、等しく外圧を受けたためだった。 「華北において、大きな領域を直接支配しようとする新たな勢力の出現に影響を与えたのは、春秋時代以降、南方の長江流域で勢力を台頭させた楚の存在であった。 楚が紀元前7世紀半ばに鄭(筆者注:西周末期に封建され、東周初期に周を支えた有力諸侯)に侵攻して以降、南北間の攻防が繰り返された。この攻防の始まりであった楚の鄭への侵攻に対する華北側の対応は、有力な諸侯が盟主となって、周王室を助けるという名目で各諸侯と同盟して抗戦するというものであった。 (筆者注:はじめは)この方式で華北側が勝利したが、そのあとは楚側が優勢となり、楚が盟主となって、華北の諸侯と同盟するといったやや複雑な状況にもなった」 「楚の脅威も、華北の諸勢力にとっては大きな領域を直接支配しようとする社会変革の方向性を規定するものの一つとなった。 しかもその社会変革の方向性は、楚との攻防を展開するなかで、当初は華北の諸勢力に名目上でも尊重された『周なるもの』を、しだいに軽視しはじめ、ついに楚を盟主として楚と華北の諸侯との同盟が成立するにいたって、無視するものとなった」 ちなみに「安曇氏」の祖がその遺臣だったとされる呉は越に滅ぼされていて(紀元前473年)、後にその越は楚に滅ぼされている(紀元前334年)。その際、「安曇氏」は越の遺民を日本列島各地に入植させている。 つまり、紀元前5〜4世紀に日本にやってきた中国系渡来人は『周なるもの』を尊重した国の遺臣・遺民であり、最強の「領域国家」の台頭によって決着した戦乱の艱難辛苦を身をもって味わった人々だった、ということは留意しておきたい。 中国では「領域国家」の台頭とそれによる戦乱の繰り返しで、集落の累層的構造を前提とした族的結合を土台とする婚姻単位としての家族や氏族が個別化していった。呉や越は楚に比べてその時代の趨勢に適応できなかった、あるいはしなかった。彼らは族的結合にこだわった人々であり、渡来した日本列島で新参の少数民族ということもあって、過去の確執を乗り越えて連携して族的結合を強化したと言える。 殷や燕が滅ぼされ戦乱を逃れて朝鮮半島北部東岸の交易拠点に至ったその遺民の中国商人、その「交易ビッグマン」が出雲に渡来した。その代表が島根半島西部を環日本海交易のハブ拠点としたオオクニヌシだったと考えられる。 彼らも「領域国家」の台頭とそれによる戦乱の繰り返しから逃れた者だが、彼らの場合、集落の累層的構造を前提とした族的結合を土台とする婚姻単位としての家族や氏族の個別化に同調しつつ、さらに脱「領域国家」を志向して、その内向きな管理貿易を嫌って外向きに自由貿易を展開したと言える。 日本列島に戦乱を逃れてやってきた中国系渡来人だが、「領域国家」の台頭という時代の趨勢にいかに対応してサバイバルしようとしたかの志向は多様だった。 話を中国に戻すと、 おおよそ孔子(前552?〜前479?年)が生きた頃から秦の商鞅(?〜前338年)が活躍する前までの時代、大きな領域を直接支配しようとする志向が台頭して国家から集落までの累層的構造が崩壊しつつも、いまだそれを制度的に体系化する体制の確立にはまったく向かっていなかった。 しかし、体制論としては孔子が時代に先駆けて体系化していた、と著者は主張する。 じつに面白くも説得力のある主張である。 春秋末期から戦国時代に活躍した思想家、いわゆる諸子百家とは、古い秩序が崩壊に向かう時代に新しい秩序を模索した学派だった。 その先駆けであった孔子は、魯において君主を中心にした政治改革を主張したが受け入れられず、これに対抗する三桓氏に追われ、弟子たちとともに十余年にわかる流浪の旅にでる。この志縁集団とその行動様式自体が、集落内部にあった地縁血縁に根ざした族的結合の対極に位置するまったく新しいものだった。 「孔子が提案した新たな政治的理念は、孝であった。 孝とは子が親にたいして敬愛の念をもって行動することである。 殷代では、父・兄といった親族称(称謂)は、王族組織の代表であった先代の王を呼ぶとき、(筆者注:首長層における首長交替制において)それが一つ上の世代であれば父、同世代であれば兄という呼称をも含んでいたため、この呼称は、まさに族的結合にもとづいた累層的な権力構造の存在を示唆するものとなっていた。それが世襲制の成立などによって徐々に変革された。 新たな社会は、この親族称を実の親族のあいだでのみ使用されるものへと限定することになる。 したがって、孝も累層的で族的な諸集団に求められた行為から、個別的な親族内、すなわち実の親子の内部で求められる行為に変化することになる」 日本人は、江戸時代の「お家至上主義」の影響を今日でも色濃く残存しているから、実の親子の内部で求められる孝が、「大家と言えば親も同然」と大家と店子の社会関係に延長されたり、天皇とその赤子とされる臣民の国体関係に拡大されてきたと受け止めている。 しかし古代中国で展開した経過は真逆だった。 首長層における首長交替制という社会関係や国体関係にも求められていた孝の方が、実の親子関係に限定されたのであった。 著者はこう主張する。 「孔子は、この変化の方向性を予測し、戦乱の世を生きぬく君主権を確立するために、君主の権力基盤として、 それまでの累層的な構造をもつ諸集団をその政治的支配の単位とする構造におくことから、 小型家屋に居住し、4〜5人からなる個別的な親族をその単位とする構造におくことへと明確に移すことを主張した。 小型家屋は、新石器時代においても、孔子の時代においても、本書でいう居住単位としての家族が居住しうる場として、集落内につねに存在していた。ただ孔子以前にこの家屋を政治的単位とする思想はなかった」 「婚姻単位としての家族(氏族)が族的な形態から個別的な形態へと移りはじめ、すでに君主権力の土台が曖昧になりつつある現実をとらえていた孔子は、新たな政治的単位の創出とその支配の方法を発見した。 その政治的単位とは、それまで政治的に無視されていたとはいえ、つねに存在していた小型家屋であり、その支配の方法とは、その家屋のなかに存在する実の親子関係に孝という結合原理、秩序原理を与えることによって、小型家屋を政治的単位に編成するというものであった。 これによって孝は、1組を単位とする親子関係に最小化され、子の親への孝と、それと対になる親の子への慈愛によって結合する居住単位としての家族を政治的単位として出現させることになる。 1組の親子関係を可視的に表現すると、家屋という存在になるのである。 君主権からみれば、君主は家族に仁という徳(慈愛)をあらわせば、家族を単位として生み出される民は君主に忠誠(孝)を誓うという新たな権力構造を出現させることになると孔子は説く」 しかし、孔子が自らの体制論を仕える君主によって実現させるという挑戦は挫折に終わった。 「この政治的な方法は、のちに孔子の学を継承する学派として成立した儒家と鋭く対立することになる法家によって、孔子の時代をくだること、百数十年後に『皮肉にも』実現されることになる」 と著者は述べる。 それは、中国最初の統一王朝である秦(?〜前207年)、その始皇帝となった孝公が任用して専制体制を確立した商鞅(?〜前338年)による。 彼は、強国の術として覇道を説いて採用され、いわゆる商鞅の変法を断行した。 「彼の覇道とは、 秦の世襲貴族たちの主張していた伝統的な礼による規制を否定し、中央集権的な君主国家の建設をめざすものであった。(中略) 商鞅の変法は、前359年と前350年の二回にわたっておこなわれた。 第一回は、集落内で民を五戸単位と十戸単位に編成し(什伍制の制定)、そこに連座制を設けて相互に監視させ、これを軍事編成と農耕の基本組織とすること、 いわゆるアメ(褒賞)とムチ(刑罰)を駆使して罪人の告発を奨励すること、 民であって二男(にだん:青年男性二人)以上が同居している場合は、その賦を倍にすること(分異令)、 軍功のみを基準とした新しい爵位(軍功爵)による身分秩序を確立し、この爵位によって占有できる田(農耕地)・宅地の広さ、奴隷の数、衣服の内容まで規定すること、旧来の世襲的な身分を廃止すること、 民による商業行為を禁止すること、 さらには平時には農耕、戦時には軍功に励むこと(「耕戦の民」の育成)、 君主が刑罰権を独占すること、 などが規定された。 第一次変法は、軍功爵体制の導入で世襲貴族の存在を否定し、耕戦の民を育成して什伍制に編成して軍事力と農業生産力の強化を図った、要は富国強兵策であった。 「家族形態論」の観点から注目すべきは分異令で、その規定は、大家族の存在を抑制し小家族の成立を促すものとの理解が一般的である。 だが著者は、 「軍事力強化を変法の最大の目的としていることからすれば、この規定は、徭役・兵役といった労働力編成および徴税の対象者として成年男子を把握するための可視的な単位として、すなわち成年男性が二人以上いれば家屋を分け、家屋の数が労働力編成および徴税の対象と一致するものとして小型家族を位置づけたと解釈する。(中略) この規定こそ君主が支配する政治的単位を小型家族におくという、孔子がめざした政策が結果として実現に向け法的に制定されたものと理解されよう」 と主張している。 「第二回の変法は、都を咸陽(かんよう)に移したあとに断行された。 その内容は、 分異令をさらに徹底させるために、家屋内での父子兄弟の同居を禁止すること、 阡(せん)・陌(ぱく)といった農道によって農耕地を区画整理し、民に再配分すること、 従来からある集落の上に県を設置し、中央から官僚として長官・次官を派遣して統治させること、 度・量・衡を統一すること、 以上を規定した」 「第二次変法は、咸陽に都を移すことによって変法の成果をより徹底しようとした。それは第一次変法では旧来の伝統的な慣習の排除が不十分であったためである。そこで遷都によって新たに中央の君主権を中心とする構造へと再構築しようとしたのである。 さらに秦国土全土に県制を施行して地方支配を世襲制から、それを否定する官僚制へと移行し、地方支配を中央に直属させた」 著者は、分異令の強化と阡陌による農耕地の区画整理は、遷都に関わる民の移住にともなう移住民への田宅の供給に対応したものとする。 そして、第一次変法でめざした小型家屋を力役徴発、徴税集取の単位とすることがより徹底され、圧力的規定が全面的禁止へと強化されたとする。 「婚姻単位としての家族は、春秋戦国期の変革をとおしてすでに族的結合を土台として存在していた氏族が個別化され、基本的には居住単位としての家族へと合致していった。 その家族は、孔子の思想を理念的な起源として、商鞅変法によって、政治的単位へと編成されることになった」 この段階で、県制について、領域としての郡や県をイメージすると違うと思う。 イメージすべきは中央から官僚が派遣されて統治にあたる県制を踏まえた県邑であり、県邑の周りに区画整理された農耕地がある城塞集落だろう。 太古から春秋時代中期まで集落は邑と考えられる。邑は囲壁をめぐらしその外側に耕地を所有した。人びとはこの邑の囲壁の中で、宗廟と社とを中心に共同体的生活を営んでいたと考えられる。 邑は社会構造の基礎をなしていて当時の国はすべてこのような一種の都市国家(邑制国家)であったと考える説が有力である。 県邑の周りの農耕地が、南北に走る農道である阡、東西のそれである陌によって区画整理されたが、その実態については諸説ある。 しかし、県邑の農耕地の全体とそれに帰属する民に一律に支給された部分が明快に視覚化されたものだったことは間違いない。 このことは、次に検討する経済単位としての家族の有り方に密接に関わってくる。 秦と前漢初期の竹簡の法律文書が発見されたことから、当時の人々の生活、政治の体制、社会の構造が解明されてきた。 秦の始皇帝は郡県制を採用して中央集権的支配を実現したが、その地方支配も確認された。 「皇帝による地方支配は、法律条文を含めた各種の皇帝の命令が郡を経由して県に届けられることでおこなわれること、 したがって地方政治は県を単位としていたこと、 その県の官僚機構には、中央から派遣され、県の政治を監督・指揮する長官(県嗇夫=けんしょくふ、あるいは令)・次官(丞=しょう、あるいは尉)と彼らに仕える県内で採用され令史によって構成される県廷と、長官・次官の監督・指揮下にあってさまざまな統治事項を担当する諸官とが存在したこと、 その諸官は、長官として、これも県内で採用された官嗇夫とそれに仕える佐・史によって構成されていたこと といった構造をもっていた」 こうした郡県制の段階で、県とは、県廷が管轄する領域を意味するようになっている。 「県廷指導下の諸官は、農業生産・租税収取・厩・徭役徴発・山沢禁苑*・穀物倉庫・物品庫・工房・市・文書送付などの統治事項を管轄する機関として分立していたことが明らかにされ、 また県廷は県内での裁判や官吏任免をおこなうことなどもわかってきた」 (*「禁苑」とは、「国家あるいは王室・皇室の所有の土地で、とくに集落の周辺にあって人々の生活を物資面で支えていた山川叢沢を、農民の共同利用は維持されたものの、それを囲い込んで国家の財政基盤にした」ものである。 日本の人里に隣接して人間の影響を受けた生態系が存在する山である「里山」は、その起源は縄文時代にまで遡ることができる。 三内丸山遺跡では近隣の森に栽培種のクリやウルシを植えて、集落の自給自足に利用していたことが明らかとなっている。 一方、歴史時代に入ると日本列島の里山は乱伐と保護を繰り返していった。最初に森林破壊が顕在化したのが畿内で、日本書紀によると天武天皇6年(676年)に南淵山、細川山などで木を伐採することを禁じる勅令が出されている。 これは、里山が近隣集落の自給自足経済の為にのみ利用されていたのではないことを示していて、それゆえの国家管理である。 中国の「禁苑」も、近隣集落の農民の自給自足のための共同利用は許しつつ、木については国家あるいは王室・皇室の使用ということだったのだろう。 珍しい里山の利用法として塩木山と呼ばれた、製塩の為の燃料の供給源がある。製塩は大量の燃料を必要とする。年間通して操業する場合、塩田の面積の75倍の広さの森林を全て燃料として1年で消費しなければならない。製塩業にとって塩木山の確保は死活問題であった。8世紀後半から東大寺や西大寺などの大寺院の荘園として塩木山が存在している。 製塩業の他にもたたら製鉄用の燃料や陶磁器焼成の為の燃料として里山の木は大量に消費された。 ヤマト王権はその樹立当初、鉄生産の拠点とその運営を管理下においた際に、燃料となる木材を供給する森林も管理下においた筈である。 おそらく里山には、 ◯縄文人の集落に隣接してその自給自足のために自然発生したことに始まる系統 ◯中国の「禁苑」のように国家や皇室が木材供給林として所有しつつ、地元集落にその自給自足のための利用を許した系統 の2つがあるのだろう。) 「集落の最小単位は里(り)と呼ばれ、その里がいくつか集まって邑(郷)となり、また県となる。 なかには一つの里が単独で存在する場合もあった。 県には、県嗇夫あるいは令・丞・令史、 郷には郷主(あるいは郷部嗇夫)が官吏として、 里にはその代表として典(てん)・老が存在していた。 その集落である里の内部には、宇(う)と呼ばれる家屋があり、家屋と家屋のあいだを仕切る壁である垣によって宅地がかこまれていた。 また里内には巷(こう:あるいは外巷)という道があり、 里が集まって邑(郷)を形成している集落では、里と里のあいだを仕切り、集落の里をとりかこむ壁として院が存在した。 院によって仕切られた壁と里内の道との接点に里門が、 その里が集まって形成されている邑(郷)には邑門が、 県には県城の門がそれぞれ設けられていた」 以上のような空間構造において、庶民はどのような生活をしていたのか。 「里の内部では、里人は伍に編成され、連帯責任を負わされていて、商鞅変法の什伍制が確認される」 モデルケースとして記録された内容は、 「垣にかこまれた宅地内に桑の木が10本植えられ、瓦葺きの屋根で2部屋をもつ家屋があり、室内には家具も備えつけてある。 そこには、夫妻と子二人(成人女性と未成年男子)、臣・妾(男奴隷と未成年の女奴隷)各一人と犬一匹が居住しているというものである」 商鞅変法の規定どおり、1家屋に成年男性1人だが、もはや新石器時代以来の掘立柱形式の半地下式住居(=竪穴式住居)ではない。2部屋構成の瓦葺きである。 居住者数は奴婢2人を含め6人である。 これがモデルケースということは、戦勝国の民が敗戦国の民を奴隷にして使役するギリシャの市民のような人民を想定している(民主的な政治参加はないとしても)と分かる。 追って、国家が農業生産力の向上のために鉄製農具を供給したり牛を貸与したりしたことに触れるが、先鋭的なモデルケースでは、国家が富国強兵策の一環で里人に小型家屋の宇とともに奴婢2人を供給した可能性が高い。 奴隷の供給を除くと、国家権力が里内に浸透している姿は、中華人民共和国の人民公社による共産主義の農村政策と重なるところ大なのが面白い。 古代からの民族的な文化的遺伝子の発露とみていいのかも知れない。 「一方で、その里を代表する典(あるいは老)の役割も注目される。 例えば里門の鍵は、この典と、里(集落)の外に広がる農耕地を管轄する役割をもつ田典とがもち、その開閉を管理しているのであるが、なぜこの両者が同じ門の鍵を持ち合わせているのか。 それは門を境界として空間的に区別される集落内とその外とで、国家権力による支配の仕方が異なっていることと関係がありそうなのである。 その差異は、同じ道ではあるが邑内の道を郷部嗇夫が、邑門の外の道を田部嗇夫が管理するという、門の内と外とで管轄が異なるということにもあらわれている」 邑内では、個々の小型家屋である宇にそなえ付けの家具や供給された奴婢のように個別的な使用権が想定される物事があり、これを管掌するのが典、 邑外では、農耕地が個々の家族に割り当てられるものの、田植えや収穫などの共同、鉄製農具の共有、牛の共同利用などが想定され、これを管掌するのが田典、 と考えられる。 前者の典は、中央集権体制の末端として、租税収取の全体集計などを含めて全国一律の文書の記録と伝達を伴う統制管理を主な業務とした 後者の田典は、地元のたくさんの里の総取締役として、土着のローカルな現場関係者を動かしてノルマを達成する人的管理を主な業務とした ということではないか。 著者は、秦の農民支配の特徴について以下のように述べている。 「一般的に前近代の国家には、農業・手工業・商業といった社会的分業別にそれぞれ支配体制を区別するという一つの特徴がある」 このことは秦も同じだった。 「商人は、原則として県城内で周囲を壁でかこまれた市のなかに限定されて活動していた。 市では商人のみで伍が編成され、売上げにたいして徴収される市租などへの連帯責任が負わされていた。 商人は市においてのみ国家支配の対象となり、移動時の関税などを除けば、市以外では国家支配の枠外に位置づけられていた。 それは農民に与えられていた、戸として承認される『権利』(土地占有権の承認など)、あるいは家屋の取得や任官の資格も商人には与えられていなかったことにもあらわれていた」 著者は、農本主義をとる国家の場合、商人支配と農民支配を区別する目的を、 「自ら生産しない階級である商人の発生とその商業活動の活発化が、国家の存立基盤として、厳しい生産活動を日々の生活にしいられている農民の逃亡を誘発することになり、それが農民社会(邑)の秩序を崩壊へと導く危険性をもっている」 この危険性を避けるためだったとする。 周に滅ぼされた「殷」が蔑称として「商」と呼ばれ、定住社会を失い移動しながら物の売り買いをしてサバイバルしたその遺民が「商人」の始まりである。戦乱が繰り返された時代、滅ぼされた国の遺民は、囚われたり身を売って「奴婢」という形で定住民になるか、路頭に迷う覚悟で逃げて「商人」という形で移動民になるかの選択を迫られたのだろう。 秦は、国家による直接的な人民支配を志向したから、自由交易を制限し管理交易を拡大する方針をとった。 自由に取引されていた「奴婢」についても敵国を降伏させた時点のその取得から、農民社会である邑の小型家屋への割当てまで管理しようとしたに違いない。 「商人」については、農民社会(邑)との接触を最小限に限定するという形で管理した。商人は市においてのみ国家支配の対象となったとは、商人は市に活動域を限定することで、基本的には農民社会である邑から排除したということに他ならない。 「国家は商人のみの籍である市籍に彼らを登録し、市で伍として封じ込め、戸・家屋・任官の権限剥奪によって商人を農民社会から排除する支配を行ったのである。 この商人への封じ込め・排除こそがこの時期(筆者注:秦の時代)の国家支配の特徴の一つであった」 しかし、そもそも農本主義とは、国家が人民を支配するにおいて農業振興と農民支配を国家の存立基盤とする、ということである。 だから、国家がその存立のために商業や手工業を軽んじたということはけっしてなく、実際は逆であって、それを人民に自由にやらせずに自らが独占しようとしたのだった。 「一方で国家は富の獲得のために、(中略)手工業の支配とともに、自らは積極的に商業活動に乗り出している」 「手工業者は、県の官営工房に労働力として直接編成されていた。 手工業の主要な原材料の供給地、例えば漆や鉱物などの産地は国家的所有として囲い込まれ、そこで組織されている官営工房が漆や鉄を造り出し、近県の官営工房に、あるいは一般の手工業者に原材料として供給する。 運び込まれた原材料を官営工房では加工して製品につくりあげる。原材料の供給や加工にかかわる工房では、技術をもった手工業者を必要とする。そのため常時工房で働く者を確保するほか、一般の手工業者にも年に一定期間工房で働く義務を負わせる方法で労働力を維持した。 官営工房で製造された原材料や加工品は、国家機関に所有されたり民に貸与されたり、あるいは市で販売されたりして、国家に財政的な基盤となる富をもたらした。 手工業はその富を短期的に、しかも計画的に生み出すため、国家はとくに高い技術をもった手工業者を逃さなかった。そこで手工業者を官営工房の工人として組織したり、徴発したりするために、県は手工業者個々人を登録した籍を作成して強力に直接的な支配を遂行していったものと考えられる」 殷・周の王権は、族的結合をもった青銅器鋳造集団を丸抱えしていた。 鉱物の採取・精錬、その加工などは、職業氏族があたっていた。 (こうした動向は、その後の中国の王権から日本のヤマト王権までの、武器および農具となる鉄器の製造集団を独占しようとした動向に繋がっていく。) その氏族組織の解体や職業氏族の変容によって、そして農具鍛冶など分業の進展による農民からの転身によって、多様な一般手工業者が出現した。 秦の時代は、こうした多様な一般手工業者を国家が官僚機構を通して直接的に囲い込んだと考えられる。 県廷においては、丞の下に工房管理を担当する「工嗇夫」がいて佐・史を従えている。 たとえば鉄製農具の製造をするためには、山沢禁苑管理を担当する「苑嗇夫」に燃料用木材の調達を要請する。製造した鉄製農具の一部を市で販売するためには、市管理を担当する「市嗇夫」に販売の便宜をはかってもらうなどしたのだろう。 (後世の日本列島では、 縄文時代以来の縄文人による遠隔地交易と大陸沿岸各地の交易拠点の「交易ビッグマン」による遠隔地交易とを、ハブ拠点として環日本海交易ネットワーク化する自由貿易で繁栄した「出雲族」と、 統一的な領域国家を目指して管理貿易を推進しようとするヤマト王権が対立した。 それが後者が前者を軍事的に圧迫してその自由貿易資源を解消させる「国譲り」に決着して、国内外の管理交易ネットワークへの統合的な再編に向かった。 これは言わば、 ①生産拠点〜交易拠点〜消費拠点を三位一体で 民間主導で自由な主体に形成させる自由主義経済 ②生産拠点〜交易拠点〜消費拠点を三位一体で 国家主導で御用の主体に構成させる国家主義経済 という経済パラダイム全体の対立だった。 大陸系の「交易ビッグマン」そしてその出雲への渡来人と考えられるオオクニヌシたちは、もともとは周が殷を滅ぼした時に一族が封建された燕(紀元前1100年頃〜紀元前222年)が秦に滅ぼされ、その遺民が朝鮮半島北部に逃れて東岸を交易拠点とした商人たちだったと考えられる。彼らはそこから日本列島や沿海州や朝鮮半島南部の日本海沿岸と行き来しまたそこに交易拠点をつくって①の環日本海交易ネットワークを構築した。 一方、 これと対立したヤマト王権の初期勢力は、そもそもは朝鮮半島で都市国家的な「くに」ぐにから未勝目料をとって回っていた騎馬民族の「濊(わい)人」が領域国家の台頭で喰えなくなり、これに同じく領域国家の台頭で縄文時代以来やっていた自由貿易ができなくなった、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした海上交易民の「倭人」が日本列島で征服王朝を樹立する構想を持ちかけ全面的にバックアップして「邪馬台国」を破るに至った勢力である。その決着をつけた神武東征が難航し、これを、「邪馬台国」と同じに魏を宗主国とした「伊都国」の長官である「安曇氏」が難升米(長髄彦)を謀殺することで好転させた。よって、ヤマト王権の初期勢力は、「濊(わい)人」が「倭人」と魏を後ろ盾とする「安曇氏」の協力を得た勢力であり、降伏させた「邪馬台国」が連合していた「くに」ぐにの「テュルク族」を従えたものだった。 「倭人」は、朝鮮半島に台頭した領域国家の管理貿易を嫌って、「濊(わい)人」に協力して日本列島に建てた新王朝の管理貿易において自らが交易利権を独占する特権的な政商ないしは御用商人になることを狙ったのだった。 「安曇氏」は、もともとは越に滅ぼされた呉の遺臣を祖とする、五島列島経由で北部九州の志賀島を拠点とした海上交易民で帯方郡の出先機関として「伊都国(行政拠点)」「奴国(稲作拠点)」「一大国(軍事拠点)」を建てて、自らその管理貿易を独占して利益の一部を帯方郡に上納していた。活動領域が重なる「倭人」の構想は、こうした「安曇氏」の政商化をモデルとしたのだろう。 しかし「倭人」と「安曇氏」には文化的遺伝子に大きな違いがあった。 「倭人」は朝鮮半島南端と北九州沿岸の往還という地域を特定した交易に固執したのに対して、「安曇氏」は政商として②の生産拠点〜交易拠点〜消費拠点のネットワーク可能性を常に求めたことである。畿内に留まった「安曇氏」は中央政界で「物部氏」として武器武装の生産供給を担い、「肩野物部氏」は鉄生産に特化して官営工房的な生産拠点を構築してその勢力を強化していった。 ②生産拠点〜交易拠点〜消費拠点を三位一体で政策し統制しようとする国家主義経済において、「安曇氏」は政商として「倭人」よりも一日の長どころか数世紀の長があった。 ちなみに紀元前6世紀に呉が滅んだ後、紀元前5世紀にそれを滅ぼした越が滅ぶが、その際「安曇氏」は越の遺民を北陸地方(越)に入植させたとされる。 さらにずっと後世の7世紀、北部九州の拠点を失った「安曇氏」は、全国に交易産品の生産拠点を分布させこれをネットワークすることでサバイバルしている。 「安曇氏」の「政商型転住民」としての文化的遺伝子は、遺臣の流浪サバイバルを通じて、殷滅亡による商人の発生や、商人を規制して②を進めた秦の商工政策からの中国商人の文化的遺伝子を継承し活性化させたものと言えよう。 同じ中国商人の文化的遺伝子は、②を嫌って①を進めたオオクニヌシら「出雲族」も継承し活性化させていた。 ヤマト王権と「出雲族」の対立は、同じ中国商人の文化的遺伝子を踏まえた②と①の利害対立だったと言える。) 秦の農民支配の特徴について、著者はこう述べる。 「農民は、里内で伍に編成され、相互監視のもとに名籍(筆者注:秦漢時代の個人の名・県・爵・里を登録した名簿、これが親族単位となったのが戸籍で秦漢時代は未だ体系化せず)が作成される。国家はそれにもとづいて農民から租を収取し、徭役・兵役労働として農民を徴発する。 それは個別的な家屋が国家の政治的な単位となり、国家にとって財政的な基盤としての農民支配がもっとも重要なものになったことを示している。 そのために農民社会(里)を動揺させる要素をもつ商人にたいしいて、国家は封じ込め(筆者注:里内で市に)と排除(筆者注:里内の定住を認めず里外に)によって、農民の社会を維持しようとするのであった」 「租の収取において、県は集落(里)全体で作付けされた穀物の作柄を調査し、収穫の総量を把握して、里が負担すべき田租(でんそ 筆者注:祭祀のための供え物を起源とし戦国時代に課税制度に、課税率は秦代で10分の1、漢代で30分の1)の総量を算出し、里はその田租の総量分を里内から徴収して県に搬入するという方法がとられた。 ここでは里内の農民個々からの田租の徴収は里にまかされていることを意味した。 また徭役の徴発についても、県は土木工事などに必要な労働力と日数を算出し、県内の各里に徭役として徴発する人数を割り当てる。 その命令を受けた里では、里の代表者である典と老が里人のなかから人数分を最終的に指名することによって徴発が実現するという方法がとられた」 「農民社会として集落を形成している里において、その代表者である典や老と、里の一般構成員とのあいだでなんらかの社会的諸関係が存在していて、国家はその諸関係には権力を介入させず、むしろそれを機能させることで農民支配を遂行しようとしている。 この諸関係は、累層的な構造のなかに位置づけられていた最下で最小の単位の集落において、その累層的な構造が崩れ、君主権力(国家権力)のもとにそうした集落個々が再編成される過程のなかでも存在していたものであった」 こうした集落内部の階層関係は、典や老を名主や村役人に置き換えれば、日本の江戸時代以来のムラ社会の基本構造でもある。 それは、農耕における恊働形式による原理的なものであるため、空間的に容易に遠くに伝播し、時間的に容易に未来に継承される。 よって、中国史に一大変革をもたらしたのは、そのような為政者による農民支配の体制や集落内部の階層関係そのものではなくて、それを改革させた鉄器の出現であり、農民社会に与えた鉄製農具と牛耕のインパクトだったと考えられる。 「石・木器と比べ、鉄製農具の使用は深耕を可能にさせ、雑草の除去も容易にすることから単位免責当たりの生産力を上昇させる。 また同じころ出現した鉄製の犂(すき)を牛に挽かせる牛耕は、生産効率を飛躍的に増加させ、そのうえ開墾や水利工事にも威力を発揮したため、荒蕪地をも農耕地へと変貌させ、農耕地は拡大していった。(中略) 鉄器と牛耕の出現は、こうした農業生産力の上昇をもたらすとともに、社会を大きく変動させる」 「諸集落を累層的な構造として結集していた旧来の社会にあっては、農業生産は、その構造に構成された最小単位の集落のなかの血族を核とする集団が、労働を恊働させることで成り立たせていた。(中略)すなわち小型家屋に居住する家族は集団内での恊働という労働形態に依存しなければならなかったのである。 その意味で、経済単位としての家族は集団内の協業グループであったということになる。 しかし、鉄器と牛耕の出現によってもたらされた単位面積当たりの農業生産力の上昇と生産効率の増加は、少人数で構成される居住単位としての家族が、彼らのみの労働力で耕作できる広さの農耕地からえた収穫物によって、自分たちの生活を維持(再生産)させることを可能とした。(中略) 協業の必要がなければ、婚姻単位としての家族も個別化に向かっているなか、この集団は個別化に向かってさらに分解を進めることになる。 鉄器と牛耕の出現によって氏族制度が分解され、小農民が析出される。その一方で累層的構造からの脱却をはたし相互の抗戦状態から勝ちぬいた専制君主(戦国の七雄)が、彼らを個別的に支配する」 著者は、以上のように中国古代における専制国家成立の経緯を仮説する。 そして著者自身、この仮説を証明するには、「鉄製農具と牛耕の一般社会への普及度、すなわち小農民階層(本書でいえば、居住単位としての家族)にまでそれらが一般化していたのか」が問われること、「牛耕の普及は後漢時代ころとの有力が学説も存在する」ことに触れている。 よって、鉄器と牛犂の出土例が増加する戦国時代の段階で確実に言えるのは、 各国が「富国強兵をめざして穀物生産の増産をはかり、農耕地を拡大するために開墾と水利事業を推進した。そのため各国は、鉄器と牛犂を増産し民を徴発して土木工事を敢行した」「とくに戦国時代の牛耕は、国家による大規模な開発のための利用と、それによって拓かれた農耕地における最先端の農法の実施という側面に威力を発揮した」ということである。 このような国家による先鋭的な直接的農民支配の一環として、秦時代の分異令に始まる小型家屋の供給や阡陌に始まる農耕地の区画整理と、鉄製農具の供給や耕牛の貸与とが緊密に連動していったと考えられる。 (著者は、 「鉄器と牛耕の出現は、秦・前漢初期においても里内の共同体的諸関係を崩壊させて、経済単位として小農民を析出するまでの段階に生産力を押し上げてはいなかった。当時の生産力は、鉄器が戸単位で貸し与えられていることからすれば、農業生産の個別化が進行してはいるが、いまなお里の共同体的諸関係、すなわち耕起・播種・除草・収穫などの労働過程における相互援助を必要とした段階なのであった」としている。) 著者は、農民社会が国家による農民支配の体制に組み込まれて変動したことを指摘する一方で、変動しない農民社会の自律的な共同体性を指摘している。 国家の側もこれを温存し、あくまで支配体制の枠内でこれによる自治に委ねることを選択している。 すでに江戸時代のムラ社会や名主や村役人との相似は指摘したが、これは農民社会の穀物生産を存立基盤とする国家において普遍的な基本なのだろう。 「里内に居住する農民は、国家権力によって伍に編成されていたが、そこには典(里典)・老(父老)といった里を代表する人たちがいて、彼らと里という集落をともに形成していた里人たちとのあいだにはさまざまな社会的諸関係が存在していた。 その諸関係は、田租の収取や徭役・兵役の徴発といった国家の農民支配を実現するために機能した一面をもつとともに、里という集団に独自のまとまり、共同性といったものの存在(筆者注:共同体性に通じる)を示唆するものでもあった。 その共同性は、国家の支配機構の末端に位置づけられる一方で、(中略)『率敖(りつごう)』(里内の一般構成員を率いるもの)と定義され、また(中略)水利事業を管轄する管吏とは区別され、実際に工事をする里人を指導するという意味での『率』をおこなう三老・里有司・伍長に相当するものとして位置づけられる里典の存在に象徴される。 (中略)この典・老と里人とのあいだの諸関係は、かつて累層的構造の末端に位置づけられていた集落に存在していた共同体的な諸関係を起源とするものである」 国家の支配機構の国〜郡〜県における官吏の間の諸関係は、 基本的には法律や命令といった低コンテクストな(文脈依存性の低い)明示知の体系にのっとった 権力が主導する交換経済にある。 これに対して、 共同体の自治に委ねられた典・老と里人との間の諸関係は、 里それぞれの事情や実態を踏まえる高コンテクストな(文脈依存性の高い)暗黙知の体系にのっとった 権威が主導する贈与経済にある と言えるのではないか。 このような観点から以下の著者の論述を検討していく。 秦代の法から確認されることとして、著者は以下を確認している。 「県に飼育されている官有の田牛にたいして厳しい検査を課す規定がある。 この規定からは、県という国家機関が牛を使用することによって開墾し農耕地を拡大しようとする国家の意図が明らかとなる。 さらにこの規定にみえる、牛が痩せたかどうかという飼育状況への点検の厳しさは、牛そのものが貴重であることを物語っている。それはまた牛耕が一般的には普及していない現状も示している。 またこの規定では、その貴重な牛を里にも貸し出していた。 田典がこの牛の飼育にかんする責任を負わされ、国家は県のそれと同様に厳しい点検を田典に課した。(中略) 個人単位でなく里単位で貸し付けている点、またその利用については里にまかせ、国家はそれに干渉しない点などから、里内における共同体的な諸関係が、牛の利用を独り占めさせず順番に利用させるために機能していたことをうかがい知るのである」 「その構造は、 田租収取においても、国家は個々の農耕地ではなく里全体の農耕地の作柄調査によって田租の量を確定し里に割り当てるまではおこなうが、個々の農民からの実際の租収取は里にまかせていたことにもあらわれ、 それはまた徭役労働の実際の徴発にみえた構造とも類似していた。 里で牛を管理する田典も、官吏とは区別され、里門の鍵をもつ存在であり集落外を管轄するのではあるが、里典と同様の性格をもつものと理解することができよう」 以上のことが農民を管理する側の事情とすると、以下の管理される側および管理される対象の事情が密接に関わっている。 「経済単位としての家族は、秦・前漢初期においては、いまだ居住単位としての家族(里内の小型家族に居住し、国家に戸として政治的単位に編成されている家族)とは合一していなかった。 経済単位としての家族は、里内にいくつか存在する諸集団によって形成されていて、それらが集合して里全体の共同体的な諸関係を機能させていた」 という結論を著者は導いている。 著者が結論を導く理由はこうである。 「婚姻によって同居する夫妻であっても、妻の嫁するときに所持した財産にたいしては妻の権利が認められていた。 それは妻の父の権限に起因することではあるが、このことは、居住単位がかならずしも経済単位ではないことを示唆している」 中国は夫婦別姓で、妻は父系の名字を名乗るが、この父系の血縁関係が娘が結婚した後まで経済単位になっている。 犯罪者の財産没収のための差し押さえにおいて、 「差し押さえとなっているのは、桑、家財道具を含む家屋、衣類、隷属民、家畜などであり、宅地・農耕地といった土地はそれに含まれていない。 それは土地が、国家に財産として認識されている家屋や動産・隷属民とは区別されていたことを意味する。(中略)国家は農民の土地利用にたいしては一定の特別な規制をもっていたのである。(中略) さまざまな規定の範囲内でとはいえ、宅地はすでに売買の対象となり、農耕地も、その用益権ではあるが移転の対象となっていた。では、放置されたり没収されたりした農耕地はどうなるのか。(中略)通常は、ここにも里内に存在する経済単位が機能していて、犯罪者となんらかの関係のある、ともに経済単位を形成していた集団などが、こうした農耕地の耕作を継続させていたのではないだろうか」 里内に存在する経済単位とは、地縁集団である。 父系の血縁関係が娘が結婚した後まで経済単位になっているとは、血縁集団ではあるが、宅地・農耕地の用益権を継承する父系として地縁集団に重なるということである。 こうした地縁集団と血縁集団の結合の総体が共同体的な諸関係を機能させていた、と言えよう。 「その諸集団の結合は、里内の祭祀にみてとれる。(中略) 里内でおこなわれる祭祀として家祠(家の先祖を祀る)・里祠(社=土地神を祀る)がみえ、それに参加する人物を里人弟兄・他人などと呼んでいた。 おそらく家祠は里人弟兄という血縁関係者によって、また里祠は里内のそれら血縁関係諸団体が集まっていとなまれたと思われる。 この時期の経済単位としての家族を形成する諸集団とは、里祠に集う血縁関係諸団体全体か、もしくは家祠に集い同一の祖先を祀る血縁関係団体(それは親と兄弟、その夫婦およびそれらの子などによって血縁的に結合された集団)などが想定されよう(おそらくは後者)。(中略) 一夫多妻型の血縁的関係者が、家屋を別にしながらも一つの宅地に居住する事例も見出せる」 しかし、こうした里内の共同体的諸関係はやがて崩壊していく。 「それは、里人の債務奴隷への転落となってあらわれる。(中略) この階層分化は、里典などの里の指導層が、国家から貸与される牛の利用、徭役動労の実際の指名、田祖の収取などといった共同体的諸関係を自己に有利になるように使用して私的な富を追求し、その私的な富の蓄積によって動産を所有することから開始されたと考えられる。 里内の共同体的諸関係に依存していた国家は、それを抑制する律を制定し共同体的諸関係を維持しようとする。里典などの私的な富の蓄積も共同体的諸関係があってはじめて実現するものであるため、この階層分化の進展を抑制する律は里典などを抑圧することになるが、結果的には私的な富を追求する里典などの全般的な利益を擁護するものであった。 その意味で経済単位としての家族の個別化への進行は、なお里内の共同体的諸関係の枠に押しとどめられていたのである」 種籾の量・戸主の名・耕作者の数・家族数を記した里正の記録から、 「居住単位である家族(戸)が経済的にあまりに零細であるために、居住単位の家族のみで自己の再生産は不可能であることが推察できる。したがってここにみえる居住単位としての家族は経済単位ではありえない。 もちろん地域的な偏差があり、先進的な地域も存在したと思われるが、この時期にも、秦・前漢初期の状況は存続していた」 中国においては、すでに秦の時代から里内の共同体的諸関係が崩壊していった。 これに対して、 後世の日本列島では、農民の共同体的諸関係が崩壊するどころか、まったく真逆に、ヤマト王権によって律令神道の「信仰共同体」として強化され、神社を消費拠点として農林水産業民や手工業者と連携する地方経済圏に拡張され、天皇への初物の貢納という建前の国内外交易にネットワーク化された。 このことについて以下、異なる角度から検討したい。 More ▲
by cds190
| 2017-10-19 14:11
| ☆発想を促進する集団志向論
2017年 10月 07日
「中国史のなかの家族」飯尾秀幸著 山川出版社刊 発
(1) からのつづき。 本項(2)では、周代からの「②=婚姻単位としての家族の変容」についての本書の論述を検討しつつ、ひきつづき日本列島における「家族形態」史を対照して検討していきたい。 殷が邪馬台国と同様に、 人間が神に対峙するパラダイム=神が人間を支配するパラダイムにおいて 人間と神を繋ぐ媒介者(帝=天の意思、を甲骨を焼いて聞きとる者や姫巫女)として「王位」が位置づけられる体制であった ということはすでに前項(1)で述べた。 「殷王の政治的判断が、甲骨占いによる帝(すべてを統治する至上者)の意思に従ったものであること、王の命令は帝の命令であり、絶対的であるのは帝であることを考慮すれば、王は帝の意思を甲骨占いによって受け取り、それを王族組織を構成する全構成員に王命として伝える媒介者にすぎないことになる。 帝が人を支配するというように殷代の権力構造を理解すると、巨大な土木工事なども王権の絶対性を意味するものではなく、王権と帝との関係による産物とすることも可能である」 これに対して殷を滅ぼした周は、 封建制を採用したことが判明していて、 人間同士の関係性を捉えるパラダイムにおいて人間が人間を支配する体制に転換した と言える。 著者はこう解説している。 「周は、殷を倒した後の混乱した社会状況の鎮静化をはかるための政策をつぎつぎに実行したが、戦乱状態はしばらく続いた。 この状況のなかで、まず実施されたのは、有力な殷の王族集団の構成員やその属邑のなかで、職業氏族として存在していた者たちを、それぞれの族的結合を維持させたまま西方の周の根拠地へと移すことであった」 ![]() 上図で、❷にいた人々を❸や❹に移住させたのである。 「例えば殷の王族集団に直属していた青銅器を鋳造する職能集団は、青銅器が富と権力・権威を生み出すことから、そのまま周に丸抱えされ移住させられた。 また王族集団のなかのいくつかの氏族も周が政治的支配を行うための高度な知識・技術(例えば文字知識など)を保有していたという点で有用であり、そうした氏族も移住の対象となった」 つまり周の最初の支配政策が、有用な「定住民」の移住政策であり、国家による「転住民」化政策の最古はこれと言えよう。 そして、それと同時に封建制が実施された。 私たち日本人は封建制というと、江戸幕府の幕藩体制を想い浮かべて、当然のごとく定住社会を前提する。 しかし、そもそもの封建制は為政者の「転住民」化政策として出発していた。 「これは周王族の一族・近親者を中心に、一部の功臣を加え、彼らを諸候として東方の諸地域に派遣して統治させるという政策であった」 この諸地域に派遣された諸候という為政者そのものが「転住民」であった訳だ。 (これは忘れられがちだが、居城を変えつつ上洛し天下統一の一歩手前まで行った織田信長は「転住民」化を家臣に一族郎党ともども強いた最右翼だった。江戸の幕藩体制で封地替えさせられた大名とその家臣も「転住民」化を強いられたということである。また、江戸屋敷に人質として住まわされた大名の家族や勤番屋敷に暮らした江戸詰め家臣もそこに定住したというよりも、郷里を離れる転勤という「転住」をしたと言えよう。 現代でも、日本人はすべてが定住社会に暮らす「定住民」という印象があるが、首都圏に暮らすいわゆる「東京人」も、世代を跨いだ家族の住み方を俯瞰すればその多くが「転住民」と言えよう。三代続いてはじめて「江戸っ子」と言われるが、それは家族三代、江戸に定住する世帯が希少だったからである。大方の家族は子供の代で転出したり独身のまま生涯を終えたりした訳で、地方や農村の定住社会とは対照的なその様相は現代の東京と変わりない。 そしてこのような「転住民」が構成する支配層の転住社会こそ、古今東西、城塞都市を拠点とした都市国家的様相の中核であったことを忘れてはならない。たとえそこで被支配層の民が「定住民」だったり「定住社会」を形成してたりしてもである。) 「殷代では、累層的構造をもった地域を統括する王が、同じく累層的構造をもった地域を統括する族長とのあいだに同盟関係を締結することによって、その勢力圏を成立させていた。この同盟関係では殷王の命令が直接その地域に届くことはなく、地域はいわば独自の政治的な環境を維持させることができた。 これに対して封建は、その累層的構造をもった地域に直接、王族のなかの一族・近親者などを派遣して、彼らをその地域の権力構造の上に位置づけるものであった。そのため殷代と比較すれば、王の命令は直接、諸地域内に伝わることになる。 その意味で、封建は王権の強化をめざしたもので、事実、周代初期にはかなり広範囲に実施された」 「ただ政治制度としての封建制のほうは、成立後まもなく変質していった。それは、封建された諸候の地位が世襲であったためである。 世襲制は、時代がくだれば王と諸候との血縁関係を希薄にさせたため、その目的であった王権による地域支配の強化は衰弱し、そのうえ、世襲ゆえにその地域で勢力を維持していかなかければならない諸候にとっては、そこに存続している勢力とのあいだで協力関係を強化していかざるをえなかった。その意味からも、封建制は機能不全に陥り、周初の段階ですでに実質的な封建の役割は終わっていた」 著者は、このようにポイントは世襲制の成立だとする。 ここで、後世の日本列島、ヤマト王権樹立の前後で展開したことを対照して検討していきたい。 殷代は、首長層において世襲制ではなく首長層による首長交代が展開した、ということは前項(1)で確認した。 卑弥呼の共立により「倭国大乱」が収束し連合が保全された「くに」ぐには、全体の大枠としてこれと同じ体制だったと推察する。 それまで男王の時代が7~80年続いたとされ、その「くに」ぐにには中央対地方という関係性はなく、それでも体制が安定していたのは首長の交代制によると考えられる。 殷代の 「累層的構造をもった地域を統括する王が、同じく累層的構造をもった地域を統括する族長とのあいだに同盟関係を締結することによって、その勢力圏を成立させていた。この同盟関係では殷王の命令が直接その地域に届くことはなく、地域はいわば独自の政治的な環境を維持させることができた」 という様相は、共立された卑弥呼が連合を保全した「くに」ぐにの全体としての体制でもあったと思われれる。 (私は、匈奴の鉄生産専従民だった「テュルク族」が北陸に上陸し、先住の農耕民を支配しつつ鉄資源を求めて琵琶湖地方に南下、さらに大和盆地に至って「邪馬台国」を建て、さらに中国地方に侵攻して「吉備津国」を建て、さらに鉄生産で競合する出雲地方を攻めるも敗退したという説をとっている。 その上で、「くに」ぐにとは、「テュルク族」の北陸上陸後の侵攻経路において土地土地に留まった首長層が建てたものと考える。 そうであれば、「くに」ぐにの連合の盟主となる王が、それぞれの「くに」の首長に命令したこととは、鉄資源を求めた更なる侵攻に兵や武器を供出して協力することや、鉄資源をめぐる「くに」同士の係争の調停くらいだったと考えられる。なぜならそれ以外は、それぞれの「くに」が「独自の政治的な環境を維持させることができた」枠組みで対処できたからだ。拡大する鉄製品の需要に対して鉄資源の供給が追いつかない事態だけが、「ティルク族」全体が共通する問題であり、その解決が共通の利害だった。) 卑弥呼の死後、また男王が立てられたが連合が乱れ、卑弥呼の「宗女」の壱与(壹與)が女王に立てられて連合が安定化している。 「宗女」とは「嫡出である娘」のことだが、卑弥呼は結婚していない。壱与は卑弥呼の親戚の十三歳の少女だったとされる。 卑弥呼と壱与の共立は、首長層による首長交代制において男王たちではダメで女王ならヨシということになった、というマイナーチェンジを意味している。 (ちなみに、正始8年に「邪馬台国」と「狗奴国」間の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政は、檄文をもって壱与を諭している。 これは、卑弥呼を補佐した外交軍事の最高責任者だった難升米が神武東征において、私のとる説では、「邪馬台国」と同じく魏を宗主国と仰ぐために同盟関係にあった「伊都国」の長官によって謀殺され、「邪馬台国」の降伏と卑弥呼の死によって連合が不安定化。すでに「伊都国」の長官を通して得た魏(帯方郡)との協力関係を背景に、ヤマト王権の初期勢力がこの連合を支配すべく傀儡を擁立した。壱与はそのようして立てられた傀儡女王だったということである。 時は前後するが、「倭国大乱」とは「テュルク族」内部の「くに」ぐに同士の不足する鉄資源をめぐる係争だった、と考える。出雲族の鉄資源を、卑弥呼の弟の「吉備津国」主導で奪おうと侵攻するも撃退され、その敗戦責任のなすり付け合いともなったのだろう。 「倭国大乱」はなぜ卑弥呼という女王の共立によって収まったのか。 やはり連合の代表の魏への朝貢が鍵だと思う。 鉄資源の不足を解決するべく、魏に(帯方郡による)鉄塊の下賜を望んだと考えて自然である。「テュルク族」全体の最大課題を、「テュルク族」全体で魏への貢ぎ物を用意し代表を魏に朝貢させることで解決する、というのはもっともシンプルな方策である。 ただその際、ズルしない代表でないと「くに」ぐにの首長たちは納得しなかった。ならば、対内的には連合統合の祭祀上の象徴に過ぎない女王、対外的には魏の皇帝に恭順の意を印象づける女王がいいだろうという結論になった。 これが、首長層による首長交代制において男王たちではダメで女王ならヨシということになった、というマイナーチェンジの実相だったのではないか。 ただ留意すべきは、 この時点ですでに女王を共立する「テュルク族」全体は、 「人間が神に対峙するパラダイム=神が人間を支配するパラダイムにおいて 人間と神を繋ぐ媒介者(帝=天の意思、を甲骨を焼いて聞きとる者や姫巫女)として「王位」が位置づけられる体制」を形骸化させていて、 首長交代があくあまで首長層の集団合議によって決定される「人間同士の関係性を捉えるパラダイムにおいて人間が人間を支配する体制」に転換していた ということである。 この転換は、大陸では殷代から周代にかけて起こり、 日本列島では先住民=縄文人の間では弥生時代や古墳時代まで続いたかも知れないが、 渡来人=弥生人の間では渡来する以前に済ませていた ということである。 「邪馬台国」の畿内説を有力視させた纒向遺跡だが、2009年、柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになり、2010年、3世紀に掘られた穴「土坑」から桃のタネ約2000個が見つかった。桃の実は古代祭祀において供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。さらに2011年、マダイ、アジ、サバ、コイなど6種類以上の魚の骨やウロコが確認された。動物もイノシシやシカ、カモの骨など千数百点が見つかった。これらは食料ではなく供物であったとされる。 私は、「テュルク族」全体による貢ぎ物の用意が公正公平に行われるべく、「くに」ぐにの代表が全員参加する衆人環視の祭祀形式がとられ、遺物はそのような祭祀を催した中核施設で発生したものと考える。 文明先進国の魏に文明後進の「くに」ぐにが貢いで喜んでもらえる物は、いくら力を合わせたとしても限られている。それが動物の毛皮や鳥の羽飾り、肉や魚介の干物だとしたら遺物と符号する。) 一方、ヤマト王権の初期勢力に「国譲り」した出雲族は、全体としてどのような体制だったのだろうか。 一般的に、「出雲族」と聞けば、出雲国の定住民を想像する人が多いだろう。 しかし私は、 「出雲族」とは、出雲(正確には島根半島西部の神門水海)を環日本海交易ネットワークのハブ拠点として活用した海上交易民と、それを支える後背地となった島根半島の各種産品の生産民のこと としたい。 「テュルク族」の首長層が同じ民族であり、その「くに」ぐにの連合の盟主が同じ民族だった(=「テュルク族」全体としては「内婚制」だった)のに対して、 私の定義の「出雲族」は、異なる民族でも海上交易民や交易を支える生産民であれば構成員たりえた。交易相手となった日本列島内外の交易拠点の首長たる「交易ビッグマン」たちも出身地の異なる者同士で、当然その同盟の盟主も異なる民族の者に交代する可能性をもっていた(大国主が諸国を巡って各種産品の生産民の首長たちの娘を娶って婚姻関係を結んでいったことに象徴されるように、「出雲族」の全体も部分も「外婚単位」となっていた)。 そもそも出雲国とは、ヤマト王権が「領域国家」を目指して樹立され後に令制国として位置づけたものである(国府は島根半島東部)。 当然、大国主が「国譲り」をした段階までは令制国ではありえない。 環日本海交易ネットワークを同盟によって確立した朝鮮半島や沿海州の大陸サイド、日本列島サイドの「交易ビッグマン」たちが、自らの交易拠点を「くに」と呼んだとしても、それは「領域国家」を目指すものではなく、単に自衛能力をもった交易拠点いわば交易自由都市であったに過ぎない。 よって「出雲族」の首長層はそれぞれの交易自由都市を束ねた「交易ビッグマン」たちであり、その同盟の盟主が、環日本海交易ネットワークのハブ拠点となった出雲(島根半島西部の神門水海)の「交易ビッグマン」である大国主だったということである。 この体制は、前述の「テュルク族」とはまったく違うことは言うまでもない。 「出雲族」と「テュルク族」はいろんな点で真逆だが、歴史を一貫した本質的な真逆は、 「テュルク族」は魏に朝貢して「領域国家」を受容しその管轄下に入ろうとしたのに対して、 「出雲族」は「領域国家」の支配管理から逃れる交易自由都市をそのアイデンティティの中核としたことである。 よって、 「出雲族」は「領域国家」としての日本列島統一を目指すヤマト王権の初期勢力の軍門に下って「国譲り」するも、 目に見えない信仰世界や建前として表にでない交易世界にその文化的遺伝子を温存した。 結果的に、 天武持統の両天皇の意図が反映した古事記や日本書紀において、 「テュルク族」もその連合拠点となった「邪馬台国」も一切語られないのに対して、 「出雲族」は盟主である大国主が詳しく語られ、その「国造り」に協力した少彦名まで触れられている。 さらに天皇により令制国に編纂が命じられた風土記、その出雲風土記においては、出雲が環日本海交易ネットワークのハブ拠点だったこと暗示させる「国引き神話」が語られている。両天皇にそれを削除させる意図はなかった。 無論、「領域国家」を樹立しようとしたヤマト王権の初期勢力は、自らの管理支配を免れる交易自由都市の存在を、そしてそれらが交易ネットワークと「交易ビッグマン」を媒介に国内外一体で形成する同盟を認める訳にはいかない。 管理貿易を徹底したいということもあるが、この同盟が集団安全保障を発揮すれば国内の一交易自由都市の自衛力が援軍によって倍加する可能性があった。 当然、ヤマト王権の初期勢力は統一的な「領域国家」を目指すにおいて、出雲に限らないそれが交易する日本列島各地の交易自由都市を解消させるべく、日本サイドの「交易ビッグマン」たちの統率者である大国主に「国譲り」をさせた。 具体的には、自由交易の拠点とネットークを解消させ、交易活動を王権直轄の管理貿易に再編していった(島根半島では海上交易拠点は出雲大社のある西部から国府のおかれた東部に転じ、西部の交易拠点性は衰微して信仰拠点性が付与された)。 交易自由都市の首長はどのようにして選ばれ、継承されたのだろうか。 タンジュンに言って、交易自由都市の建設主導者が「交易ビッグマン」となり、他の交易自由都市の建設主導者の「交易ビッグマン」と直接交渉をして同盟を結び、それが環日本海交易ネットワークを形成する一大交易民同盟に拡大した。 これは極めて平和裡な交易活動だったという点が重要だ。 朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした「倭人」も海上交易民だが、私個人的には、彼らは騎馬民族の「濊(わい)人」に日本列島に征服王朝を樹立する構想をもちかけこれを全面的にバックアップした、という説をとる。 つまり彼らは、「領域国家」を前提にした戦争経済に軍事的な積極性を示す志向性を示した、と考える。 これに対して、 「出雲族」は脱「領域国家」を前提に平和経済に文化的な積極性を示す志向性を示した。 よって、両者は隣接しながらも異なる勢力圏および交易圏を形成した異なる海上交易民勢力だったと考える。 交易自由都市の建設、そして交易ネットワークを可能とする主要交易拠点の開拓、それが大国主がした一拠点レベル、拠点ネットワークレベルでした「国造り」の実相だった。 たとえば出雲では神門水海を交易拠点インフラとした。 それは港湾インフラだけで成立しない。さまざまな交易民がそこを拠点として転住して交流するには、そのライフラインの整備が不可欠である。まず第一に食糧の供給体制を確保すべく、近隣に定住する農耕民や漁労民との共生が求められる。そこで彼らに鉄器を用いた灌漑土木や水稲耕作、造船(そりこ舟)や漁法(鉄製の熊手型の桁を用いた桁曳漁)を普及した。 これは、先住する農耕民や漁労民を支配し搾取したのではなく、交易拠点を支える地域経済圏を形成するのに必要な人的資源として参加恊働を誘ったということである。 出雲の場合、玉造温泉のあたりで勾玉が生産された。 これも遠隔地交易に適した宝飾品のパーツとしての勾玉の供給を担った協業であった。 遠隔地交易に適した交易品の条件は、 ①希少価値 ②小型 ③軽量 ④高価で利益率が高く市場規模大 である。 島根半島西部は銅山があり青銅器生産が行われた。 そして青銅が金色に光ることを活かして、遠目からは金製に見える宝飾品のベースが生産され、そこに出雲地元の勾玉や、日本列島内外の同盟交易拠点からもたらされる各種の宝石をアッセンブルして完成品とした。 それは王族が身につけた金製の宝飾品の安価版(*)で、朝廷や諸候のボリュームゾーンの需要に対応して市場規模としてはこちらの方が極東グローパルで巨大だった。 (*各種の宝石は古代に偽物を作る技術はないため本物で、ベースが金ムクや金メッキではなくて金色の青銅製のこれ的なもの↓) 国際的な交易拠点を代表する商売人が連合した環日本海交易ネットワークとは、単なる物流ネットワークなどではありえない。 彼らだから持ち寄れるリソースを組み合わせて極東グローバル市場に対応するビジネスモデルを創意工夫した筈なのだ。 いくら出雲に銅山があって青銅生産能力があっても、「領域国家」を前提とした威信財である銅鐸や鼎のような重厚長大の青銅器では遠隔地交易の品目にならなかった。 なぜなら、 ❶他所でもつくっている ❷大型 ❸重量 ❹高価でも利益率が低く市場規模小 の品目は、環日本海交易ネットワークを介した交易同盟ならではのビジネスモデルとならなかったからだ。 しかし出雲の博物館に行くと、多くの銅鐸や銅剣の遺物が展示されていて、逆に軽量小型の金製を装ったフェイクの青銅製の宝飾品などない。それはどうしてか。 2つの考え方をしたい。 1つは、古代出雲に青銅製品のデパートがあってその遺跡が見つかったとしよう。売場だった所周辺から❷大型❸重量の銅鐸などがたくさん見つかったとしよう。それは売れ残りであり、売れ筋は完売して残っていないか、他でも売れる軽量小型商品だから残らず持ち去られたかした、という考え方である。 いま1つは、古代出雲に青銅製品や宝飾品の博覧会場があってその遺跡が見つかったとしよう。会場だった所周辺一カ所から、まとまって❷大型❸重量となる大量の銅剣が見つかったとしよう。それはデモンストレーション用に常備された非売品だったという考え方である。 つまり、交易自由都市の遺跡だとして見れば、一般的な集落遺跡とはまったく違う見方や解釈もあり得るということなのだ。 荒神谷遺跡の1984年からの2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。 この埋蔵時期は特定されていないが、銅剣の製造時期は弥生時代中期後半と鑑定されている。この銅剣が網羅的に展示されているその金色の輝きや圧巻である。 それは、大きく波浪の立たない内海を言わば見本市会場とし、規格化された賃貸船舶を言わば展示ブースとする、海上交易民にとってとても合理的なものだった、と考えた。 銅剣358本のうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。同じ×印を刻まれた銅鐸が、荒神谷遺跡から3-4キロの距離にある加茂岩倉遺跡(1984年からの2か年の発掘調査)からも発見された。 そして加茂岩倉遺跡からは、中型の銅鐸の中に小型の銅鐸が入れ子で入った状態のものが13組26口、発見されている。銅鐸がこのような状態で出土した例は極めて少ないという。注目すべきは、内部は中空であった可能性も考えられているが、CTスキャンによる内部調査に拠って、埋納坑埋内と内部を塞いでいる土砂が異なることが指摘されていることである。これは明らかに銅鐸が土中で変形するのを防ぐ処置だったと思われる。 私は、以上の出雲ならでは特徴をもつ銅剣と銅鐸は、「国譲り」という交易自由都市の解消に応じた出雲族が、ヤマト王権から隠すように土中に保存したもので、それまでの交易自由都市の繁栄を象徴するものだったのではないか、と考えた。 具体的には、銅剣は、神門水海の一画を占めた<水上見本市>水域への出入りに必要な入場許可証で、展示商談スペースとなる賃貸船舶の目立つ所定位置に掲げられたものと考えた。 これが、賃貸船舶を借りる保証金を支払った証でもあったとすると二つの可能性がある。 一つは、「国譲り」によって<水上見本市>が閉鎖される際に、継続賃貸であった船舶が返却され預かっていた保証金を返却した。その保証金返却が済んだ印が×で、×がなかった銅剣はもともと貸し出されなかった船舶の分であるというもの。この場合、継続的に賃貸可能な船舶が全部で358隻あり、実際に賃貸していたのが344隻だったということになる。 いま一つは、「国譲り」によって<水上見本市>が閉鎖される際に、借り主の多くが賃貸船舶を貸し主から保証金で買い取って展示品を載せたまま去った。現代で言えばリース品の買い取りみたいな話でその取引が済んだ印が×で、×がなかった銅剣は、賃貸船舶を受け取り預かっていた保証金を返したものということになる。買い取られた賃貸船舶が344隻、買い取られなかった賃貸船舶が14隻ということになる。 いずれにしても、銅剣がひどく錆びてしまう前に<水上見本市>が復活するかも知れぬ期待があって、荒神谷遺跡のような一カ所への整然とした埋蔵となったように思える。 私個人的には、西谷四隅突出型墳丘墓群は、平らな頂部をイベントステージとするパビリオン群で、いわば博覧会インフラとなったという仮説を立てている。 出雲が、環日本海交易ネットワークのハブ拠点たる交易自由都市だとすれば、そのような交易インフラがあって自然であり、何がそれになったかと考えれば思い当たるのが四隅突出型墳丘墓群なのだ。 そして、加茂岩倉遺跡から出土した中型と小型を入れ子で埋蔵した銅鐸は、イベントステージでのデモンストレーションを許可された交易者に貸与された許可証だったのではないか、と考えた。それは、デモンストレーションの準備から開催そして撤収までの間、墳丘墓の頂部の目立つ所定位置に吊るされ風鈴のように鳴り響いたのかも知れない。 13組26口という数は、たとえばステージ使い可能な墳丘墓の大型3つ(2号・3号・4号)を4交易者が交代で使って12組、小型1つ(5号)を主催者が会期中常設のテーマゾーンとして使って1組、計13組と想定できる。 古墳の上で祭祀をするだけなら一般的な仮説だが、交易イベントをしたというのは余りに大胆な仮説ではある。 しかし、出雲を交易自由都市として発展させてきた「交易ビッグマン」の首長の墳墓であれば、むしろご先祖様が交易神として交易活動を盛り立ててくれるいう信仰があって自然である。 また「交易ビッグマン」の首長が実力主義で選ばれその築いた繁栄に応じて墳丘墓の規模が大きくなったとすれば、血縁による世襲制を前提とした祖先崇拝とは異なる自由交易都市ならではの独特の信仰があって自然である。 なにより、四隅突出型という独特の形態がイベントステージの機能性を満たしている。 「交易ビッグマン」は、交易拠点の建設主導者であるが、それは交易拠点ないしそのネットワークを媒介とする遠隔地交易のビジネスモデルの構想者でもある。 古事記では、大国主の「国造り」は詳しく語られていない。 それは天武持統両天皇が「国造り」という言葉で意味した「国」が「領域国家」であり、「国造り」が脱「領域国家」の交易自由都市の建設や極東グローバルの新ビジネスモデルの構築などであってはならなかったからである。 しかし古事記の「出雲神話」は、「交易ビッグマン」がいかにその地位を得ていかに継承されるものだったか暗示していて、想像力を働かせれば、これはそういうことではないかと読み取ることができる物語となっている。 まず思い起こしほしい。 大国主命となる前のオオナムチ(大穴持命)は、兄たちの八十神に差別され苛められていた。 そして兄たちが求婚したヤガミヒメ(八上姫)が彼らを袖にしてオオナムチを夫としてしまったことを。 これは、世襲制では最も劣位の諸子(嫡子→別子のさらに下)だったオオナムチが人間性で評価された、ということではないか。 オオナムチの登場で、古事記でやっとまともな人間性の持ち主の神様が登場した感じだが、それは神性優位から人間性優位へのパラダイム転換でもある。物語的にはじつは大きな転換をしている。 大国主が少彦名と協力して「国造り」をする。そうした共同建設者の全体が出雲族でもある。 その首長層が「交易ビッグマン」である訳だが、それは実力主義によってのみ登場しまた周囲から人望を得てそれと認められる。 そのシンプルな現実をヤガミヒメとの婚姻譚は示している。 ヤガミヒメが大国主に認めたのは、単純に人間的な優しさなどではなくて、じつは交易者として必要な資質、交流力や知識だった。 (ちなみに、この話は八十神ふくめて日本書紀には出て来ない。日本書紀は、大国主が「交易ビッグマン」だったことを暗示する内容を払拭している。) 八十神は陰湿かつ残虐にオオナムチを殺すがカミムスビら女性神の助けで生き返り、スサノオのいる根の国に逃げ延びるのだった。 八十神の粗暴さは、朝鮮半島で「くに」ぐにから未勝目料をとって回っていた騎馬民族の「濊(わい)人」を想起させる。彼らは、朝鮮半島の交易自由都市からも未勝目料を取ろうとし、応じない交易自由都市を攻撃し時に破壊したのだろう。 よって、八十神によるオオナムチいじめ譚は、オオナムチが交易自由都市を建設する大国主になるための試練を暗示していると解釈できる。 根の国に暮らしたオオナムチはスサノオの娘、スセリビメ(須勢理毘売命)を娶り正妻として葦原中国に帰還する。その際、彼らの逃避行を追ったスサノオは八十神を倒して大国主となれと言う。 これは、実力主義という「盟主の原則論」の明示であり、ある意味、スサノオは八十神の実力行使を認めているということでもある。 スサノオの自分の後裔オオナムチに対する言動は、血脈による世襲制が少しも感じられず、徹頭徹尾、実力主義である。 これはアマテラスが天孫ニニギを降下させた後、世襲制が展開していることと顕著な対照性を示していて、じつは注視すべきことだと思う。 古事記では、 先に出雲神話で首長層における実力主義の交代制が暗黙の内に了解され、 その後に天孫の後裔の世襲制が暗黙の内に了解されている。 これはヤマト王権の、 天照大神ら天津神を祖とする人間の血縁主義の世襲制は無条件に絶対視するが、 大国主ら国津神を祖とする人間の血縁主義の世襲制は無条件には認めない あくまで実力主義を前提する、 という皇統を聖別する原則を暗示している。 そして出雲神話は、この原則を冷徹に示す「国譲り」というクライマックスで終わっている。 そして、 この原則は、後世にわたって天皇家の「権威」の世襲制と、蘇我氏や摂関家や将軍家の「権力」の世襲制との違いにも重なっている。 戦前の大日本帝国の軍部の権力と天皇の権威、戦後の日本国の政権の権力と象徴天皇の権威、それらの関係性にも通じている。 この原則を今も当然のこととしている日本人の<社会人的な心性>は、すでに古事記の物語に暗黙裡に示され内蔵されていたと言える。 「国譲り」を迫られた大国主は、自分の息子のコトシロヌシに判断を委ねたり、もう一人の息子のタケミナカタがタケミカヅチと戦うことを許したりしている。 「国譲り」に至る最終局面で、大国主の二人の息子のうち、コトシロヌシが単純な血縁主義の世襲制を体現し、タケミナカタが実力主義を体現している。そして後者がタケノミカヅチの実力行使で撃破される。 この展開は、抵抗しなかった前者の家系が、ヤマト王権の傀儡化したことを読む者に想像させるものである。 いずれにせよ、出雲族の首長層を束ねる大族長(大国主)の継承体制は、実力主義の首長層の交代制から世襲制になっていた。 それはどのような経緯でそうなったのだろうか。 大国主は、環日本海交易ネットワークのハブ拠点となった出雲の「交易ビッグマン」であり、朝鮮半島と日本列島の海上交易拠点の「交易ビッグマン」たちと同盟関係にあった。交易共同体においては、対内的には実力主義で「交易ビッグマン」が決定されるが、その評価される実力にはすでに交易氏族に培われた交易相手との協力関係も含まれた。実力主義と言っても、現代のように個人の実力と個人の実力を比べるケースばかりではないのである。交易する種族と種族、あるいは交易する氏族と氏族の実力が比較され、それらを束ねるリーダーとなる。よって交易拠点の指導者たる「交易ビッグマン」は、他の交易拠点の「交易ビッグマン」との世代を重ねた協力関係を含めた実力優位を反映する世襲制となっていったと考えられる。 私個人的には、 ヤマト王権の初期勢力とは、 朝鮮半島で都市国家的な「くに」ぐにから未勝目料をとって回っていた騎馬民族である「濊(わい)人」が、「領域国家」の台頭によって未勝目料がとれなくなった状況に対して、 朝鮮半島の南端と北九州沿岸を拠点とする「倭人」が「邪馬台国」を倒してその連合を傘下にして日本列島で征服王朝を樹立する構想を持ちかけ、これを全面的に支援し南九州に上陸させ(天孫降臨)、兵を養わせ(日向三代)、黒潮にのって一気に海上東征(神武東征)をさせた、 そんな侵攻勢力である という説をとっている。 この海上東征は畿内に上陸してから難升米(長髄彦)に苦戦を強いられるが、それが前述したように「伊都国」の長官(ニギハヤヒ)がこれを謀殺することで打開された。 よって北部九州の建前的には帯方郡の出先機関である国々を治めた「安曇氏」が、ヤマト王権樹立の最大功労者として「倭人」と並び立つことになった。 「安曇氏」の内、中央にとどまり政権中枢に地位を得たのが物部氏と、鉄生産に専従した肩野物部氏である。 「安曇氏」はそもそも呉の遺臣を祖とし、巧みな外交手腕によって帯方郡の出先機関を請け負ったり、立場を利用して難升米を謀殺したり、ヤマト王権樹立後は物部氏として中央政界に地位を占めたり、後世には北部九州の勢力拠点を失ったが全国に交易拠点を分布してネットワークし、おそらく「贄人」として天皇直轄の国内外交易に従事したりした。「安曇氏」の分布した交易拠点は、渥美、熱海、飽海、安曇野など似た発音の地名であり、一族として転住民型、知識集約型の共同体を維持継承したと考えられる。 そして、 その族長継承の体制は、こうした経緯と限られた人口から出発した後世の全国分布からして、単なる血縁至上主義の世襲制とは考えにくくい。知識労働者が競争しその成果実績が公正に評価される先進的な実力主義だったと考えられる。 よって族長の継承は、首長層における実力主義の交代制だったのではなかろうか。 一方「倭人」の方は、そもそも多くの族長群によって率いられた海上交易民の集合であった。 ヤマト王権の樹立当初、その管理貿易において交易利権を得て、朝鮮半島の「国」々との関係性を深めつつ幾つかの有力渡来氏族となったと考えられる。 「倭人」の海上交易民としての資質は、主に朝鮮半島南端と北九州沿岸での経験で培われたもので、その運用の大方は当該地域に限定されたと考えられる。やがて朝鮮半島の「国」々との関係性の方を独自資源として勢力を増した豪族から、中央政権に進出して有力渡来氏族となるものも出てくる。 北部九州に渡来し中央政界に進出し畿内各地に勢力拠点を展開したとされる「秦氏」、 大陸及び朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神、要となる海北道中の島々に祀られヤマト王権によって重視された「宗像三女神」を祖とし、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した海洋豪族の「宗像氏」 などである。 (アマテラスは、スサノオの「うけい」により生まれたこの三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と神勅を示したとされる。このことから、三女神はそれぞれの地に降臨し祀られるようになった。これが宗像大社が祀る沖津宮の「田心姫君(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫君(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫君(イチキシマヒメ)」である。 海北道中とは玄界灘で、「倭人」が騎馬民族である「濊(わい)人」を南九州に上陸させたルートもこれであったと考えられる。 ) 「宗像氏」のような海上交易民の特性を温存した氏族は、氏族全体による海上交易ネットワークの安定性を最優先する。 よって、交易拠点ごとに、それを安定した定住社会として管理運営する族長が世襲制で立てられていった公算が高い。 交易拠点の共同体では世襲制がとられて、交易拠点群とその族長群をとりまとめる盟主となる大族長については交代制や集団合議制で立てたのではないか。 三女神が各宮に割り振られていることは、交易拠点の共同体ごとの世襲制を神話で権威づけると同時に独立性を保つ。だが、海上交易ネットワークの平時の安定性や乱世の舵取りは人的協力関係や人的リーダーシップによるしかなく、大族長が交代制や集団合議制で立てられることが合理的だった。 北部九州に渡来し中央政界に進出し畿内各地に勢力拠点を展開した「秦氏」は、血縁至上主義の世襲制ではなく、転住民型、知識集約型の共同体を維持継承した「安曇氏」と同様に、首長層における実力主義の交代制だったのではなかろうか。 さて、 私個人的にはヤマト王権の初期勢力の中核だったと考えるもともと朝鮮半島の騎馬民族だった「濊(わい)人」は、 以上のように多様な族長継承体制をとり後に有力渡来系氏族となっていった強力な大族長たちを統合するべく、 自らはどのような首長ないし王位の継承体制をとったのだろうか。 それが本項(2)の論題である。 それを解き明かす手掛かりを、周族が諸族を連合して殷を滅ぼし、初期周王朝が諸侯を封じた経緯に求めることができる。 先ずは、 首長層における首長交替制の殷代から、封建制をとることで諸侯における世襲制を生んだ周代にかけて存続した 「都邑→族邑→属邑の累層的構造」、 そして宗廟や宗族に密接に関わりいろいろな議論をうんでいる「昭穆(しょうぼく)制度」 について検討していきたい。 More ▲
by cds190
| 2017-10-07 11:50
| ☆発想を促進する集団志向論
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