「信長志向」の総括に信長が向かった経緯を確認する(2) |
(1)http://cds190.exblog.jp/15162423/
「改革者」としての信長
信長が「改革者」にいたる3ステップ
「都市型領主」と「ムラ型領主」、あなたの会社の経営は?
信長の家は、尾張2郡を共同支配する2つの織田氏(大和守と伊勢守)を筆頭とした有力一族の中堅だった。
注目すべきは、祖父信定(信貞)や父信秀が、勝幡(しょはた:愛知県一宮市)の居城から近い津島牛頭(ごず)天王社(現在の津島神社)の門前町で港町としても栄えた津島と親密な関係にあったことだ。
信秀は、今川氏の那古野(なごや)城を奪って信長に与えて古渡(名古屋市)に築城して移った際、熱田神宮の門前町として栄えた熱田を制し、その豊かな経済力を基盤に三河や美濃への出陣を繰り返し、奉行として中堅を担った主家、清須織田氏を凌ぐ力を蓄えた、
と著者は解説している。
つまり、津島や熱田といった商業地の経済力を収奪して軍事力に変換するというやり方は、祖父、父、そして信長の三代続く言わば「伝家の宝刀」だった。
「信秀の領主経営の特色は、フットワークの軽さにあった。
草深い村社会にとどまって美田の集積をめざすのではなく、居城を移して有力都市に寄生するのである(筆者注:転住民性)。
このような合理性は、のちに信長の領主観に大きな影響を及ぼすことになる」
前項(1)http://cds190.exblog.jp/15162423/ですでに触れた、重商主義(交易主義)と転住民のパラダイムは、祖父、父から継承したものだったことは憶えておくべきだろう。
信長の「都市型領主」としての言動は、重商主義(交易主義)と転住民のパラダイムにあり、他の農本主義と定住民のパラダイムにある言わば「ムラ型領主」たちとは際立って異なっていた。
信長は織田大和守家を滅亡させたり、弟信勝(信行)を殺害したり、伊勢守家の信賢(のぶかた)を降伏させて、織田家統一による尾張一国支配を達成した。
それは「十九歳から二十六歳という、青年期真っ盛りのわずか七年間のことであった」。
この第一ステップの尾張時代においては、血気盛んで一所に留まっていられない若い信長自身の「転住民」的な行動力が、一般的な定住民のパラダイムにある年長者の競合に対して効果的だったと考えられる。
そしてこの過程から、自由に活動する個人を適宜に集団に構成して独創する、信長自身の「信長志向」が芽生えていったと考えられる。
つまり、大枠としては一般的な定住民のパラダイムにありながらも、臨機応変に信長が必要とする「転住民」的な行動力を発揮する人材を、旧来序列を無視して抜擢重用していった。
その逆に、あくまで定住民のパラダイムの旧来序列に固執して信長の臨機応変に従わない者を排除していった。一族や肉親に対する苛烈な対処はその最も大胆な象徴だったと言える。
集団を身内で固定する「家康志向」の組織の場合、定住民のパラダイムにあり、同じような仕事を共同することになりがちで、そうした場合、長幼の序とか、古参新参といった年功序列が優先される。当然、同族、肉親という身内の絆は最優先だ。
しかし、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」の組織の場合、「転住民」的な行動力の成果が競争的に問われる。長幼の序とか、古参新参といった年功序列は、また同族かそうでないか肉親か他人かなども、少なくとも信長にとってはそれ自体で意味のあることではなかった。
私たちは武士集団というと、幕藩体制の「家康志向」の組織を想像してしまうが、その想像を下克上の戦国時代にまでそれを短絡的に延長することはできない。
これは家臣の側からも言えることで、「お家大事」の「二君に仕えず」的な忠義の立て方は幕藩体制以降のものである。
たとえば明智光秀は、朝倉氏に仕え足利義昭の接待役を命じられたと言われ、一説には13代将軍・足利義輝に足軽大将として仕えていたともされる。『信長公記』は光秀自身の出自に朝廷と深い関わりがあったとしている。義昭は光秀を通して信長に上洛して自分を征夷大将軍につけるように要請した。義昭と信長が対立し始めると、義昭と袂を別って信長の直臣となったが、今で言う「ヘッドハント」されたようなものだ。光秀は将軍家や公家との交渉役および転戦指揮官としてヘッドハントされて織田家の重要な地位についたが、転戦につぐ転戦を重ねて過労死しそうなくらいこき使われたようだ。
遍歴する商人が賎しい身分とされていたことは、斎藤道三の油売りの逸話でも分かるが、秀吉も同様の身分であったらしい。それを足軽から抜擢重用していったことは、長幼の序、古参新参といった年功序列を無視するよりも大きな抵抗感が周囲にはあったと思われる。
しかし、そうした差別意識が信長には無かった。それは、農本主義と定住民のパラダイムにある他の「ムラ型領主」たちとの際立った違いだ。
現代の日本の企業社会にも、
農本主義と定住民のパラダイムの会社の
集団を身内で固定する「家康志向」の「ムラ型経営」
と
重商主義(交易主義)と転住民のパラダイムの会社の
自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」の「都市型経営」
がある。
年度単位で予算組みと人事異動をして、それを節目に商品開発や新規事業開発の新展開をする会社は、たとえ製造業だろうとサービス業だろうと、農耕アナロジーを十年一日、無自覚的に繰り返している。狩猟アナロジーや交易アナロジーを積極的な形で見出すことができていない。
「家康志向」一辺倒で、生え抜き主義で中途採用を軽視し外部ブレインを活用しない、まずそういう会社は、思考形式と行動様式において農本主義と定住民のパラダイムの会社と言える。
第一ステップ=尾張時代の軍隊の「信長志向」化
「尾張時代の信長の軍隊の特徴は、鉄砲隊というよりも優秀な長槍(長柄)隊だった。信長の尾張統一過程における鉄砲保有量は、他の戦国大名と比較しても決して多くはなかった(中略)。鉄砲は、弓とともに長槍隊の側面援護を行う段階だったのだ。
急増したのは、信長が上洛して鉄砲の製造地であった和泉堺(大阪府堺市)や近江国友村(滋賀県長浜市)を掌握した永禄十二年以降のことで、それにより弓隊との混成部隊から鉄砲隊として自立したのである(筆者注:第一ステップ)」
「鉄砲伝来以前の武器の主役は、刀ではなかった。長槍と弓・礫(つぶて)・焙烙(ほうろく)(素焼きの土器に黒色火薬と鉄片や鉛玉などを詰めた球形の焼夷弾)などの種々の飛び道具であり、それらを扱う足軽が軍勢の過半を占めた」
この段階では、
「規格品である長槍をはじめとする装備は領主側で容易された」
「足軽以下の雑兵の多くは百姓出身であり、戦国大名やその家臣の徴発に応じて出陣」
「訓練された槍持ちの足軽が横隊を編制し、隙間を作らないように叩きながら前身する。(中略)
日常的に足軽たちに軍事訓練を課さねば、大規模な槍衾(ぶすま)を組織的に編制することができなかった」
つまり、
「長槍隊を形成した足軽たちはサラリーマン的にリクルートされ」
「長槍隊には給料を支払い生活の保障をした」
ということになる。
それ以前の段階の、腕におぼえのある者が「武装自弁」で就職する形から変化して、「比較的容易に仕官できるようなリクルートシステムになっていた」
そして、尾張時代の信長軍の強さは、「三間半もの長槍を組織的に使用できる部隊」であり、それを信長に可能にしたのは「莫大な銀貨蓄積」であった。
では、信長はどのようにして「莫大な銀貨蓄積」を可能にしたのだろうか。
「父信秀が、津島や熱田といった有力港湾都市を掌握した」ように、「環伊勢海(いせうみ)地域(伊勢海とは、伊勢湾と三河湾を含む呼称で、その沿岸地域をさす)の港湾都市に寄生した流通支配」によった。
流通支配=銭貨収奪システムとは、一言で言えば「ヤクザのみかじめ料の取り立て」のようなものである。
「判銭(はんせん)とよばれる、平和の保障や旧来の諸権利の安堵を約束した信長の判物(はんもつ)(のちに朱印状)発給に伴う莫大な手数料(献金といってもよい)である。当然これは、戦争の前後に得られるものであった」
ここで留意しておくべきは、収奪の対象は商工業者だが、その主要な地域的まとまりには堺のような自由都市だけでなく、境内都市つまりは中世寺社勢力もあったことだ。
その言わばその縄張りなり利権をめぐる信長との対立が、最終的に盛衰をかけた武力闘争に帰結していった。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスの著した「日本史」には、
「信長の勢力下に組み込まれた地域の寺院・領主・都市においては、信長から旧来の所領あるいは諸特権の安堵を認める朱印状を交付してもらうために、判銭として自らの身分と立場に相応する莫大な献金を、積極的に行ったことが記されている」
この判物は、「尾張時代の信長文書に含まれる制札・禁制作成」と背景を同じくするものだ。
それらは「軍勢の狼藉を禁じた文書で、『制札』は木札様式をさし、『禁制』は文書様式をさす。戦乱の際に、進駐する軍勢から安全の保障のためにあらかじめ戦国大名側から発給してもらったり、軍勢の側が戦後に保護下においた対象地に発給したもの」だが、みかじめ料的な仕組みは同じである。
みかじめ料と考えれば、下々の商工業者が強制的に取られるものだが、政商化した御用商人の場合、戦勝による利権拡大を狙う投資ということにもなろう。
同じ商工業集積地でも、堺がもろく信長の軍門に下り、石山本願寺の一向一揆がやすやすとは軍門に下らなかった背景には、単に軍事力の問題だけでなく、堺商人にはメリットがあり石山本願寺にはみかじめ料の奪い合いでバッティングするばかりでメリットが無かったという側面も影響したのではなかろうか。
著者はここで、中世寺社勢力の拠点、境内都市「無縁所」に着目している。
「『無縁所』とは、門前町などの都市的空間を伴っており、アジール(世俗の世界から遮断された不可侵の聖なる場所、平和領域で、武士の直接支配を排除する土地)である『楽市』と同様に、尾張の諸地域に点在していた」
「信長は、雲興寺(愛知県瀬戸市)・東龍寺(愛知県常滑市)・正眼寺(愛知県稲沢市)などに対して、『無縁所』として諸役の免除、金融活動・買得地の安堵、国中の自由通行権を保障している」
「信長は尾張統一の過程で、服属した寺院・領主・都市に対して旧来の諸特権を認めるとともに、『無縁所』などといわれた、それまで特定の領主に属さなかった自治権を有する寺社を中核とする都市的な場についても、制札・禁制などによる平和保障と特権安堵を通じて、直接把握していった」
つまり、自治は許したが、「莫大な判銭拠出」というみかじめ料を取り「今後の奉仕」を約束させることによって、属国化したのである。
後に比叡山や石山本願寺はこれを拒否して戦ったのである。
「信長の旗印が当時もっとも流通していた中国銭である永楽通宝だったことは有名である。
今日でいうところのドル紙幣を旗印にしたようなものだ」
話を、このような判銭収奪システムによってサラリーマン的なリクルートを展開し拡充された軍隊に戻そう。
著者は、
「鉄砲が主力兵器になっていない段階では、軍隊前衛の突出力の差こそが勝敗を分ける。鋭くしかも俊敏に敵軍の前衛部隊に食い込むことに成功すれば、当然のこととして本陣、すなわち敵将に近づくことができ、少ない兵力でも勝利する可能性が高まる。いわばくさびの役割をしたのが、信長にあっては長槍隊であった」
としながらも、
「これは、彼我の軍勢数に差がない場合にのみ通用する戦法である」
とする。
永禄三年の桶狭間の戦いは、「今川方四万五千人に織田方二千人弱が戦いを挑んだことになっている」。この場合、今川義元の本陣をピンポイントで奇襲する作戦しか信長方に勝ちようがない。つまり、体制を整えた形の前衛の長槍隊が活躍した訳ではないようだ。
著者は、
「ピンポイント攻撃の絶対的な前提は、敵将の居所、すなわち本陣の所在を正確につかんでいることである。誤って他の陣に突入すれば、それこそ一網打尽だからだ」
と解説する。
「信長はなんら軍議らしいことをおこなわなかった。重臣達からは、『運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なり』と『嘲哢』されている(信長公記)。
おそらく信長は機密保持のために、作戦を開示しなかったのであろう。信長にすれば、あらかじめ正確な情報収集と情勢判断のうえで時機ありと判断したからこそ、正面突破を強行したとみられる」
著者は、「今川方の重臣クラスに内応者でもいない限り、このような無謀な戦争はありえなかったのではなかろうか」としている。
私は、信長が商人たちの流通ルートを情報ルートとしても活用して、日頃から情報収集をしていたのではないかと推測する。
義元は「本陣として『おけはざま山』で謡を催したのか(信長公記)、弁当を食べたのか(三河物語)、あるいは酒宴を張ったのか(甲陽軍艦)、いずれにしても勝ち戦を誇り油断をした」訳だが、飲食物の御用達の情報でその場所と時間を推定できるのではないか。
「この戦争は、信長の武名を天下にとどろかせたばかりか、家臣団統制の面でも効果的に作用した。
戦後、家臣団から批判らしい批判はみられなくなってくる。『奇跡』をおこしたこの段階で、信長のカリスマ支配が確立したとみてよい」
私は、この信長カリスマ化の過程で、私たちが良く知る桶狭間奇襲譚が創作されたのではないかと仮説したい。
それは、信長自身が先頭切って単騎、出陣し、途中熱田神宮に参拝、徐々に家臣や兵隊が追いついてきてそのまま少数精鋭で本陣を奇襲した、といった物語である。
私は、実際がこのようだったかそうでなかったかは問題にしない。私が注目するのは、この物語が、一つの信長が志向した人事原理を象徴している、ということなのだ。
つべこべ信長を批判している重臣などよりも、(信長の意にそって)俊敏に自己判断で突出するような者を位の上下を問わず評価する志向性であり、それは実際に秀吉を取り立てさせたものだった。
まさに自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」であり、この内部的確立を象徴したのがこの桶狭間奇襲譚だったと考えられる。
第一ステップ=尾張時代の軍事体制の「信長志向」化
「桶狭間の戦いにおける信長の見事な勝利は、その外交戦略に大きな変更をもたらした。
永禄五年(1562年)正月には、今川氏の傘下から離脱し三河岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還した徳川家康と(中略)同盟する。これによって、東からの脅威が消滅するとともに、以後、(筆者注:転戦「転住民」の本領発揮である)美濃・伊勢・近江、そして京都へと一貫して続けられる、西国方面への侵攻が開始されるのである。
永禄六年、信長は美濃攻撃の第一歩として、本拠地を清須城から小牧城へと移転する」
この西進は上洛を目指すものだが、天下統一を目指すものではなかった。
事情はもっと込み入っていて一足飛びにそこには行かない。
この頃から、信長は越後国主長尾影虎(上杉謙信)との接触を始める。甲斐の武田信玄を意識してのことだが、両者を結びつけたのは、同年代の将軍足利義輝だった、と著者はみる。
永禄二年に前後して上洛し、
「彼らは義輝に謁見したが、その際、さらに実力を蓄えて再び上洛を遂げ、(筆者注:義輝が対立関係にあった)三好氏を退けて室町幕府を支えるように指示された」
著者は、これに関連して「足利将軍家と信長が取って代わる管領斯波氏との、また謙信が名跡を襲名することになる関東管領山内上杉氏との関係」に注目している。
「後のことではあるが、信長は事実上の斯波氏の後継者であることを主張しており、新将軍となった足利義昭(筆者注:義輝の実弟)の御所を、義輝の御所跡に造営した。(中略)義昭御内書(古今消息集)には、義昭が信長を斯波氏の家督に任じ武衛の称号を許したことが記されている」
「謙信が義輝を支持したのは、やはり越後国主としての名分を、義澄(筆者注:義輝や義昭が属する将軍家の系統の祖となる十一代将軍)系将軍家への奉公に求めたからにほかならないであろう」
「京都と関東、そして武家と公家との一体的な統合、これが義輝の政権構想であったと判断して大過あるまい。
信長も謙信も、義輝のもとで公武一統の強力な室町幕府体制の復活に賭けたともられる」
以上の過程を義輝の側からみれば、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」と言える。
ここで集団とは、室町幕府再興を目指す志縁集団であり、信長自身が天下人になる野望は無かったと著者は捉えている。
義昭は、兄義輝が将軍を継ぐゆえに幼い時から、関白近衛家の猶子(相続を目的としない子供)となって興福寺一乗院門跡に入り、覚慶と名乗った。やがて学僧となり興福寺有力者になろうとしていた。
三好三人集によって兄義輝が暗殺され、自らも幽閉され身の危険を覚えた覚慶は、一乗院を脱して還俗、義秋と名乗る。
「そして直ちに上洛し将軍任官を果たすために、義昭は諸大名に協力を要請した。(中略)義昭は、特に義輝と面識のあった信長に期待し、(中略)信長も、これに応えるべく行動を開始する。
遅くとも永禄九年六月までに、義昭の推挙によって信長が尾張守に任官していたことが確認されている。実力で管領斯波氏にかわって尾張守護としての地歩を固めたとみるべきであろう。(中略)
信長が、奉公衆和田氏のもとにあった義昭に対して、早くも同年十二月に『御供奉の儀』(和田文庫)、すなわち上洛戦への協力を表明したのも、当然ことであった」
信長は、永禄六年に美濃攻撃の第一歩として本拠地を清須城から小牧城へと移転していた。
「美濃制覇は、京都への安全な通路としての東山道(後の中山道)を確保し、足利義昭を奉じて上洛するための前提として、必要不可欠の軍事課題」だった。
これを果たして永禄九年に、
「信長は、美濃・尾張そして伊勢という環伊勢海三カ国の支配拠点として、居城を稲葉山城に移し、地名を中国の故事にちなんだ『岐阜』とした(筆者注*)。そして同年十一月からは、有名な『天下布武』の印章を用いるようになる」
(*「岐」が「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事に由来するという説。
しかし、信長が改称する以前から、僧侶の間では「岐阜陽」、それを略して「岐阜」「岐陽」と呼ばれていたとされる。「岐阜陽」の「岐」は「枝状に分かれた細い道」、「阜」は「丘陵」、「陽」は「川の北側」の意で、合わせて木曽三川の北丘陵地を意味したと考えられている。)
一般に、これをもって信長の天下統一への意思表示と看做されるが、著者はそうではないとする。
「大軍を擁して上洛することによって、天下、すなわち京都の復興をめざすことを意図したものである。義昭を奉じて幕府を再興することが、領国支配の安定化に直結すると認識」していたのである。
けっして「自らの武力によって室町幕府にかわる政権を樹立しようとする意志の表明などではない」と言う。
これまでの西進過程で、上洛がすんなり進んだ訳ではなく、信長が負担するものも多かった。負担が大きくならぬように、養女を武田勝頼に嫁がせたり、息女五徳を家康子息信康に嫁がせたり、稲葉山城を陥落させるべく斎藤龍興の重臣に内応したり工夫している。
ちなみに、以上の過程は、あるヴィジョンの共有を土台にした、自由に活動する個人を適宜に集団に構成する「信長志向」と言える。この場合、ヴィジョンとは上洛達成の暁の何らかの約束ということで、集団は志縁集団というより利害集団だったと言えよう。
世間一般に、英雄信長の人気があり、信長的リーダーの待望論もある。
実際の信長は、ヴィジョンを分かりやすく解いて聞かせ同盟者や家臣と共有して志縁集団を形成する、そういうタイプのリーダーシップを発揮してはいない。
むしろ、黙って俺についてこいというタイプで、信賞必罰の利害集団を形成してカリスマとして恐怖政治に向かっていったことが、その短命を呼び寄せてしまった。
組織や集団の知識創造論としての「信長志向」からは、そうした信長のカリスマ的なリーダーとしてのロールモデルは捨象してもらいたい。
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