日本語と日本人の思考を特徴づける擬態語について(3) |
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からのつづき。
日本語のオノマトペ群のメタファーとしての有りよう
この本は項目ごとに、似通った擬音語・擬態語の用例をあげて、どこがどう違うのかその微妙な差異を具体的に解説している。
第一章「美味しさ」を表す擬音語・擬態語
「あっさり/さっぱり」「がつがつ/もりもり」「ごくごく/がぶがぶ」「ずるずる/つるつる」「とくとく/どくどく」「ぱちぱち/ぷちぷち」「ほかほか/ほやほや」「もぐもぐ/もごもご」
これは感性的メタファーの→外部感覚のメタファーの→五感のメタファーの→味覚のメタファーないし触覚のメタファー。
第二章「『人の感情』『人間関係』を表す擬音語・擬態語
「いらいら/むかむか」「うずうず/むずむず」「うんざり/げんなり」「おんおん/わんわん」「かちん/むかっ」「がっかり/がっくり」「くさくさ/むしゃくしゃ」「ぐらぐら/ゆらゆら」「こそこそ/ひそひそ」「めそめそ」「しっくり/ぴったり」「しっとり/しっぽり」「ぶつぶつ/つべこべ」「どきどき/はらはら」「とろとろ/どろどろ」「ぶるぶる/わなわな」「わくわく/どきどき」
これは身体的認識をベースとして<情動>が関係する感性的メタファーと、そこから精神的認識をベースとして<感情>が関係する悟性的メタファーの→一般認識メタファーの→身体反応のメタファーに展開したもの。
たとえば、めそめそ、は泣いている状態を表す様態副詞として用いられる時、「めそめそ」という音感が泣き方の見立て=外部感覚のメタファーの→五感のメタファーの→聴覚ないし視角のメタファーになっている。
そして、めそめそ、で泣きはしていない精神状態を表す場合があり、その時は、「めそめそ泣く」行為が精神状態の見立て=内部感覚のメタファーになっている。
第三章「『人の行動』を表す擬音語・擬態語
「あたふた/おたおた」「いじいじ/うじうじ」「うつらうつら/うとうと」「うろうろ/ぶらぶら」「おえー/げろげろ」「おずおず/おどおど」「きびきび/はきはき」「ぐずぐず/もたもた」「ぐっすり/すやすや」「くどくど/たらたら」「くるくる/ぐるぐる」「しおしお/すごすご」「じっとり/びっしょり」「ずっぷり/すっぽり」「ちゃっちゃっ/てきぱき」「のこのこ/のろのろ」「べらべら/べろべろ」「ゆっくり/ゆったり」
これは身体的認識をベースとして<情動>が関係する感性的メタファーと、そこから精神的認識をベースとして<感情>が関係する悟性的メタファーの→一般認識メタファーの→身体行為のメタファーに展開したもの。
第四章「『物の様子や音』を表す擬音語・擬態語」
「うじゃうじゃ/うようよ」「うっすら/ぼんやり」「かしゃっ/ぱちり」「がやがや/ざわざわ」「ぐしゃぐしゃ/ぐしょぐしょ」「「よれよれ/くしゃくしゃ」「しくしく/きりきり」「ぞろぞろ/わらわら」「たっぷり/どっさり」「だぶだぶ/ぶかぶか」「つぶつぶ/ぶつぶつ」「つるつる/すべすべ」「てかてか/てらてら」「にゃーにゃー/にゃんにゃん」「ぬるぬる/ぬらぬら」「ぱらぱら/ばらばら」「べったり/べっとり」「ぼとぼと/ぼたぼた」「めきめき/めっきり」「もくもく/もうもう」「はらはら/ひらひら」「ぶくぶく/ぷよぷよ」
これは、身体的認識をベースとする感性的メタファーの→外部感覚のメタファーの→五感のメタファー。
以上の章はすべて、たとえば、
「そのラーメンは
『あっさり』味?
『さっぱり』味?」
と対比的な項目タイトル立てが並び、それぞれにまず具体的な用例ストーリーが臨場感を彷彿とさせて、その後に精緻な解説が続くという形式になっている。
本項(3)では、私の関心をひいた項目を抽出して検討していきたい。
子音あるいは母音の相対的な差異の関係性として意味が既定されるオノマトペ語群としての体系的な造語メカニズム
しかし、その前に、全体として言える外国語との比較を論じておきたい。
「あっさり」を例に検討しよう。
「あっさりした」は、淡白な、さっぱりした、という味のことだけでなく、薄い、簡単な、シンプルな、身軽な、淡々とした、無頓着な、竹を割ったような、という意味をもつ。
こうした意味の英語を和英辞典で調べると、
frank、simple、plain
とある。
「あっさりと」は、簡単に、容易に、たやすく、さらりと、無造作に、楽々、苦もなく、難なく、わけなく、という意味をもつ。
こうした意味の英語を和英辞典で調べると、
easily、readily、flatly
とある。
同様の中国語を日中辞典で調べると、
1(味が)清淡(qing1dan4)
2(形が)素気(su4qi4)、朴素(pu3su4)、不花shao(bu4hua1shao、口偏に肖)
3(性格が)坦率(tan3shuai4)、淡泊(dan4bo2)
4(かんたんに)簡単(jian3dan1)
とある。
まず、「あっさりした」がふだんほとんどイコール「さっぱりした」として用いられていることに思い当たる。本書は味の表現におけるこの違いに焦点をあてて解説している。
次に、「あっさりと」は「たやすく」「さらりと」と同じ意味を表すことがあるとしていて、他の漢語やカタカナ語とも同じ意味を表すことがあるとしている。これは、漢語やカタカナ語がひらがな語の「あっさりと」の意味を大雑把になぞったと考えるべきだろう。
ここで私たちが注目すべきは、「あっさり」という擬態語が、その「身体感覚をともなった情緒性」の共通性を展開軸としてさまざまな意味を表している、ということである。
しかし、同じ意味を表すことがあるとする漢語・カタカナ語の日本語、中国語、英語を見回して、そうした共通性があるとは言えない。なぜなら、それらは「身体感覚をともなった情緒性」を聴覚的にも視覚的にも表現していないし、しようともしていないからだ。
逆に言えば、
「あっさり」という擬態語の使い方の多様な展開は、共通した聴覚的・視覚的印象の内に、「身体感覚をともなった情緒性」の共通する意味合いを見出している、ということである。
ここに、日本人が日本語によって物事を感じたり考えたりする際の、無自覚的にして根深い「無意識のパラダイム」が間違いなくある。
そしてこのことが、私たち日本人の宇宙観や世界観、人生観や生活観を形成し、微細な物事にまで神経を集中する五感や第六感の働かせ方を促進した、と考えられる。
その際、
「はらはら」があれば、「ぱらぱら」や「ばらばら」もある。
「ばらばら」があれば、「ばりばり」や「ぽりぽり」もある。
「ばらばら」があれば、「ぱりぱり」や「ぼりぼり」もある。
という具合いに、
子音+母音の音節の子音あるいは母音の相対的な差異の関係性として意味が既定される語群としての体系的な造語メカニズムが注目される。
こうした語群の存在可能性の全体は、Aが有る時、Bも有るの共時性が前提になっている。
そして音節の相対的な差異の関係性として意味が既定されていくのは、Aの意味が原因でBの意味がその結果として生じるという因果律ではなく、Aをそういう意味にするならBはこういう意味にするとしっくりくるという合意が形成された訳で、それは縁起に則ると言える。
こうした縁起による造語メカニズムは文脈に依存し、造語と用語法が共有される場が限定されることは大いにある。たとえば、テレビ普及当初の昭和36年、人気番組「シャボン玉ホリデー」のオープニングコントで「ハラホロヒレハレ」と言って全員でズッコケるのが大受けした。そして、ある場の全員がズッコケる気持ちになる時の表現として視聴者が一時期に日常的に使うようになった。それは、そのような場と文脈にしっくりくる意味とすることへの合意が番組から視聴者の世間に拡大した、ということである。
この時、そのしっくりくる感覚は何をもって合意され共有されたのかと言えば、それは集合的無意識的に、日本語のオノマトペ群全体の母音ないし子音の相対的な差異の関係性として意味が既定されている体系に照らしてである。
ちなみに「あっさり」と「さっぱり」の微妙だが日本人がこだわってしまう違いは、両者の中国語訳同士、英語訳同士を比較しても出て来ない。
本書で取り上げた項目には、
他国語では一語で表現する言葉がない概念、つまりはあまり注目されないできた概念を、類似した擬音語・擬態語の差異に見出している、
そんな日本語ならではのオノマトペの事例が含まれている。
では、そんな微妙だが日本人がこだわってしまう質感=クオリアの数々を、
「食べたり、飲んだり、すすったり・・・
第一章『美味しさ』を表す擬音語・擬態語」
のトップ、
「そのラーメンは『あっさり』味?『さっぱり』味?」
から拾っていこう。
「あっさり」と「さっぱり」
「『あっさり』も『さっぱり』も、どちらも味の表現に使います。
けれども、『あっさり』は、淡白な味そのものを表すのに対して、
『さっぱり』は、食べた後の気分まで表すところが違います」
「『さっぱり』は、『さはやか』という気分を表す言葉と関係があります。だから、食べた後の清涼感を表せる。
それに対して『あっさり』は、『あさい』という状態を表す言葉と関係があります。だから、味そのものの淡白さを表しています」
「あっさりした」「さっぱりした」ともに人柄を表現することがある。
前者が「あさい」に関係し、後者が「さわやか」に関係していると思うとその違いが見えてくる。
「あっさりした」人柄は出会った時に感じられるが、「さっぱりした」人柄は出会った後に感じられる内容を含んでいる。
ここまで表現内容を見極めて行くと、出会った時や出会った後の「身体感覚をともなった情緒性を表現する擬態語」という側面が見えてくる。
「ごくごく」と「がぶがぶ」
「『ごくごく』も『がぶがぶ』も、ともに液体を音を立てて勢いよく飲む音や様子を表します。
でも、美味しそうに見える度合いに違いがあります。
『ごくごく』は、(中略)リズミカルでおいしそうな音を表し、健康的なイメージのある飲み方です。
一方『がぶがぶ』は、(中略)余裕がなく余り品の良い飲み方ではありません」
著者は、最近はがぶ飲みもエネルギッシュで肯定的な意味が付与されるようになったとしているが、ここで着目すべきは、「美味しそうに見える度合い」などという微妙な人目の印象を表現するべく、日本人はわざわざ二つの擬音語を用いてきたことだ。
ちなみに英語では、「ごくごく飲む」に相当するgulpと、「がぶがぶ飲む」に相当するguzzleがあるが、gulpに美味しそうに見えるという意味合いは少なく、guzzleにはけなす意味合いがある。両者の間に美味しそうに見える度合いの違いがあるとは言えない。
また中国語では、「ごくごく飲む」「がぶがぶ飲む」ともに、gu1du1gu1du1地喝(口偏に古、口偏に都の反復)という単に勢いよく飲む擬音語使いである。
「ずるずる」と「つるつる」
「『ずるずる』も、『つるつる』も、ともに麺類などを食べる時の音を表します。
でも、麺類の材質に違いがあります。
『ずるずる』は、さほど滑らかではない材質の麺を汁とともにすすり上げる時に、
『つるつる』は、滑らかな材質の麺を食べる時に使います」
英語にも、そして中国語にもこれに相当する言葉遣いはない。
欧米人が音を立てて食べることを嫌うことから英語にないことは分かるとして、中国語にもそういう表現がないことは意外だった。中国料理の麺類がみんなつるつるしているのが当たり前なのか、中国人が麺類に求めている質感=クオリアに「喉越し」なるものがなく、そんなものがあるのは日本人だけなのかだろう。
「とくとく」と「どくどく」
「『とくとく』も『どくどく』も、液体が流れるときの音や様子に使います。
でも流れ出る液体の勢い、量、濃度に違いがあります。
『とくとく』は、濃度の濃い液体が一定量ずつ連続して細く流れ出たり、滴り落ちたりする音や様子を表します。(中略)
それに対して、『どくどく』は、液体が連続して一定量ずつさかんに流れ出る音や様子を表します。『とくとく』より流れの勢いが激しく、量も多い。また液体に重さがあり、粘りがより強い場合に用います」
英語では、「とくとく流れる」に相当する動詞がなく、「どくどく流れる(流れ出る)」に相当するgurgle、gushがあるだけだ。
中国語では、「とくとく」「どくどく」ともに、gu1du1gu1du1地(口偏に古、口偏に都の反復)という単に勢いよく流れる擬音語使いである。
日本人の液体についての繊細な感受性は、多様な河川がある風土とその恩恵に浴してきた風俗が影響しているのかも知れない。
「ぷちぷち」と「ぱちぱち」
「『ぷちぷち』も『ぱちぱち』も、ともに弾ける音や様子を表します。けれども、その弾け方に違いがあります。
『ぷちぷち』は、どこかにこもった感じのある弾け方です。(中略)
そういえば、梱包用の気泡シートは、一般に『プチプチ(シート)』と呼ばれて親しまれています。気泡をつぶす時の音から名づけられたものですね。
一方、『ぱちぱち』は、勢いよく外に向かってはぜる音の様子です」
英語も中国語も、「ぱちぱち」に相当する言葉はあるが、「ぷちぷち」に相当する言葉が見当たらない。
「ぱちぱちという音」を英語で、clap、sputter、crackleといい、
「ぱちぱちと」を中国語で、劈里pa1la1 、pi1pi1pa1pa1 、劈里pa1pa1 (劈里=pi1li、pa1=口偏に拍、la1=口偏に拉)という。
英語は音を意味する言葉をアルファベットで確定し、中国語は擬音語を漢字で確定しなければ、みんなが使う言葉にならない。
考えてみると、その合意形成の過程はどのようなものなのだろうか。
日本語の場合、母音的に近い表現をひらがなやカタカナで勝手にする人が現れて、それが一般化してくる訳だが、そこに漢字化したり名詞や動詞に言葉化する過程がない。だから合意形成がとてもスムーズであったり、社会的に合意形成しなくても、その音を聞いたことのある身内同士では「あのプチプチ」なんて表現で梱包材のことだと通じ合うことができる。
私たちは当たり前に思っているが、こうした造語形成と造語合意のダイナミズムは日本語ならではの特徴なのだ。
たとえば、グリコの「プッチン・プリン」も、内側にこもった感じではじけるニュアンスを誰もが聴き取ってしまう。
それは、「プッツン」と表現される心的状態に、内側にこもった感じではじける「身体感覚をともなった情緒性」において隣接している。
「むっちり」と「もっちり」
「『むっちり』も『もっちり』も、張りや弾力があり、ある程度の重みも感じられる状態を表します。
ですが、『むっちり』は、見た目に感じられる状態であるのに対し、
『もっちり』は、実際に食べてみた時の感じであることに違いがあります。(中略)
『餅』との関係が考えられるために、『餅』を食べたような触感が得られるときに使われます」
英語も中国語も、「むっちり」に相当する言葉はあるが、「もっちり」に相当する言葉が見当たらない。
中国には餅もあるし本場の水餃子はもっちりした食感があるから、これは意外だった。
日本人にとって当たり前の食感へのこだわりは、外国人にしてみれば過剰で神経質に思えるのかも知れない。言葉がない、ということはこだわりがない、ということだ。
「嬉しかったり、愛し合ったり、怒ったり・・・
第二章『人の感情』『人間関係』を表す擬音語・擬態語」
「くさくさ」と「むしゃくしゃ」
「『くさくさ』も『むしゃくしゃ』も、ともに思い通りに物事が運ばず、気分が晴れない様子を表します。
でも、他人への攻撃性に違いがあります。
『くさくさ』は、(中略)憂鬱になることを意味する『くさる』と関係がある言葉なので、攻撃性がないのです。
一方、『むしゃくしゃ』は、(中略)攻撃性があるのです。腹立ちにまかせて見境なく行動することを表す『むしゃくしゃ紛れ』という言葉があるのも、『むしゃくしゃ』の攻撃性を示しています」
英語の訳語としては、
「くさくさする」に、feel rotten、feel gloomy
「むしゃくしゃする」に、very upset
があるが、ともに攻撃性の有無までは表現していない。
中国語の訳語としては、
「くさくさする」に、不痛快(bu4tong4kuai)、悶悶不楽(men4men4bu4le4)
「むしゃくしゃする」に、心煩意乱(xin1fan2yi4luan4)
があるが、ともに攻撃性の有無までは表現していない。
日本語の「むしゃくしゃ」が攻撃性を示すというのは、日本語に特徴的な「身体性をともなった情緒性を表現する擬態語」ゆえの表現力の精緻さと言えまいか。
「しっとり」と「しっぽり」
「『しっとり』も『しっぽり』も、程よく湿り気があって情緒あふれる雰囲気を表す点では共通しています。
でも、『しっぽり』は、今や、古い言葉になってしまい、しかも、男女の情愛や細やかな場面にしか使わなくなっている点で、『しっとり』との違いがあります。(中略)男女間のこまやかな情愛を感じさせる親密ムードを表すのにも使います」
男女の親密ムードと湿り気とが重なるのはセックスの連想による、ということは、粋なお師匠さんに小唄の一つも習えば誰もが確信することだ。
英語にも中国語にも、「しっとり」に相当する言葉はあるが、湿り気でセックスを連想させるような男女の親密ムードを表現する「しっぽり」に相当する言葉はない。
おそらく、快適な湿潤さのある日本列島の気候が大前提になっている造語感覚なのではないか。
アリゾナの砂漠や、蒸し暑い中国海浜部で「しっぽり」も何もあったものではない。
また、仮に快適な湿潤さのある気候風土にあったとしても、「身体感覚をともなった情緒性」をコミュニケーションの中心テーマにする文化と言語の体系がなければ、「しっぽり」のような表現は生まれないのだろう。
ちなみに、中国語で男女の親密ムードを表現するのは、
qin1密無間(qin1=親の偏、mi4wu2jian1)、情意纏綿(qing2yi4chan2mian2)
肌を密着させる、恋心がまとわりつく、という意味だ。
湿り気を連想させる要素はない。
「とろとろ」と「どろどろ」
「どちらも固形物が溶ける様子や、ゆるい液状の物が流動する様子を表します。
けれども、粘度に差があります。
『とろとろ』は、『どろどろ』よりも、粘度が低い。好印象のところでとどまっているのです。
恋愛でも、『とろとろ』状態は、本人的には快感をともなっています。(中略)
ところが、『どろどろ』は、必要以上に粘度が高い。だから、マイナスイメージが強くなります。(中略)人間関係も、粘度が強すぎると、マイナスです。『どろどろの愛憎』などと、感情が複雑に絡み合って泥沼のようになった人間関係にもよく用います。『泥沼』の『泥』も『どろどろ』と関係がありそうです」
英語にも、中国語にも、粘度の高低に応じた表現があるが、それが好印象なりマイナスイメージをもってはいない。また、人間関係のメタファーにはなっていない。
ちなみに、中国語で、
「とろとろ」を、粘糊糊(nian2hu1hu1)的状態
「どろどろ」を、粘糊(nian2hu1)
といい、前者の連体修飾語の形容詞の重ね型は「好ましい、ちょうどよい」という意味がある。しかし、後者の粘度にマイナスイメージはない。
注目すべきは、
日本語の「とろとろ」「どろどろ」が
液体の粘度に関わる感性的メタファーの→外部感覚のメタファーの→五感のメタファーであるところまでは、外国語にもあることだが、
そこから人間関係に関わる悟性的メタファーの→個別認識メタファーの→特定文化メタファーに展開していることだ。
これは、まさに日本語に特徴的な「身体感覚をともなった情緒性を表現する擬態語」の派生経路に他ならない。
これで本書第二章までの検討を終え、次項(4)で第三章、第四章の検討をしたい。
(4)
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につづく