<異人>論から発想ファシリテーター像を求める(4) |
本項(4)では、「Ⅲ 内なる他者・無意識・狂気」を検討する。
著者は冒頭、<異人>とは
「実体や属性ではなく、ある特異な位相をもった関係をさす概念」
であることを改めて強調した上で、
どのように関係としての<異人>が現象するかについて論じていく。
その内容は、パラダイム転換志向の発想ファシリテーターとその発信、発想ファシリテーションが、なぜ求められ受け入れられたり、逆に拒まれても理解はされていたりするのか、といった現象を説明してくれる。
私はすでに、
自分が一貫して生活者と就労者、なるべく多くの人々が心理的に幸福かつ健康になる方向でパラダイム転換を志向してきて、ケース・バイ・ケースで政治的かつ感情的に受け入れられたり拒まれたりすることが、
<異人>は<俗>なる共同体にとっての<聖>なる異界への媒介という現象であって、それが浄なる貴い「遣わされた者」とされるか、あるいは不浄なる賎しい「疎外された者」とされるかの結果である、
ということを究明した。
つまり、私自身が同じことをしたり言ったりしていても、相手や状況によって真逆の結果となるのだ。
四半世紀の職業人としての実感を言えば、社会の人間関係の重心が互恵的共生よりも攻防的競争に移るにつれて、<異人>一般への反応は受容よりも排除の傾向が強まっているようだ。
それは共同体一般における人々の生き残りが過酷になる中で、共生が理想であることは明々白々だが、それを後回しにしなければそこに留まれない現実が、あるいはそれを現実とする思い込みが優先しているからだ。
哀しいかな、それでしかたないというのが世間の「支配的な物語」である。
しかしこの既存のパラダイムやメンタルモデルでは、自分個人という部分最適を短期的に確保することが、かえって共同体一般の全体最適を中長期的に毀損していくことも、すでに人々の経験や歴史体験として明らかだ。
私たちには新規のパラダイムやメンタルモデルこそがそうした流れを変えるという「もう一つの物語」が必要であり、そのことは誰もが理解しているし、心の底で切望もしている。
しかし、状況の劣悪さを理解しその打開を切望しているのにそれを表面化できない時、しかもそれが一人の個人的悩みではなく、共同体一般の構成員全員の諦めに転じた時、社会秩序は危機に陥っていると言える。
共同体の内部では、むしろ秩序は全体に徹底しているように見えるが、外部からみればその全体がとんでもない方向に向かっていたりする。
限界的な例を上げれば、敗色濃くなり一億玉砕に向かった軍国主義日本、その戦地での兵隊の様相、内地での国民の様相だ。
それは現代の若者や子供から遠い話ではない。
戦後のいい学校いい会社に入るための受験勉強は、明らかに知識偏重社会をマニュアル的な偏った形で助長してきてしまった。
最近、学校での目に見えるイジメがコントロールされてきた分、ネットイジメという目に見えないイジメが台頭してきている。
などなど、世間が一見秩序だっていることの影には、じつは社会秩序の危機の諸相が隠れているのだ。
著者は社会秩序における危機の諸相についての今村仁司の論述を、「Ⅰ われら・かれら・バルバロス」で引用している。
まず著者が、
「社会秩序はひとつの<差異>の体系である。人間・モノ・場所・時間などを分類し、位階をもうけ、境界(内部/外部・われら/かれら)を画定することで、ある秩序は創出される。たえざる差異化のメカニズムの働きにささえられて、この<差異>の体系としての秩序は更新されてゆく」
とした上でこう引用する。
「差異は秩序の安定条件である。ところが、秩序の危機においては、差異化のメカニズムは崩壊して、対他的同一化または模倣が一挙に噴出する。
パニックなどはその典型である」
説明を挟みたい。
本来はこうあるべき理想、これが明々白々で万人の意見の一致があるとしても、理想をそれぞれの立場であるいは協力し合ってどのように具現化するかはいろいろな意見やアイデアがある。つまり<差異>がある。それを誰もがそれぞれに自然体で表面化できるならば「対他的同一化または模倣」ということは起こらない。
問題は、現行秩序が<差異>の表面化を許さない場合だ。その場合、現行秩序の強いることを現実として受け入れる画一的な物言いだけが許され、それに従う人々において「対他的同一化または模倣」ということが蔓延するのである。
じつはその時点で、社会心理学的にはパニックなのだ。
経営危機が悪化の一途を辿る、そんな企業において、社員の間にこのようなパニックが現象している。
「対他的同一化または模倣」は抽象的な意見だけではない。マニュアル的な用語法と儀礼が横行しているのもそれに当たる。
それは軍国主義の時代の、上官が「おそれおおくも」と前振りすれば、兵隊たちが軍靴をならし直立不動して「天皇陛下」とつづくのを受けとめた、あのあうんの呼吸と同じコミュニケーションの構造にある。
「突出した模倣欲望の働きによって、ひとびとは、互いに模倣しあうのだから、互いに同質化する。それが「分身」状態である。
分身化とは、差異の消去である。
差異の消去とは、秩序の崩壊である。
しかし、分身のリアルな状態は、カオスと暴力への没落である」
さすがに企業社会では校内暴力のようなことはない。
しかし、貨幣経済社会において貨幣が力であり、助力にも暴力にもなる。雇用者が賃金を下げたり、就労者が賃金を上げさせたりは、形を変えた暴力とも言える。それを見込んで、就労者同士が結束すれば助力、排除しあえば暴力となる。貨幣による落着をみるから暴力ではなさそうだが、その屈服や妥協を強いる強制力は暴力のバリエーションと言える。
そしてこの暴力も、<異人>同様、「実体や属性ではなく、ある特異な位相をもった関係をさす概念」だ。ちょうど会社をやめたかった人にとっては、早期退職者優遇制度は渡りに船という助力でしかない。しかし、会社に留まりたい人を留まらせまいとする意図が働き本人もそうと受け止める時、それは暴力なのである。
「分身は、集団自身の分裂状態であるだけでなく、個人のレベルでも分裂状態である。(筆者注:組織と制度の機械論化に対応して人材が機械の部品化し、その心理においてアイデンティティの葛藤を催す)
自己とその影への分裂、そしてオリジナルとコピーとの殺戮のしあい、あるいはどちらが本体(筆者注:本当の自分)か分からなくなるような人間の妖怪化、これが模倣欲望がリアルにひきおこす帰結である(『批判への意志』)」
著者は、こう付言する。
「ジラールによれば、こうした<差異>の消滅・分身化・相互暴力に支配されるカオス的状況こそが、全員一致の暴力の発動としての供犠の、必要にして十分な条件である」
ジラールの指摘する暴力の発動は、必ずしも「自己防衛的にして他者破壊的」とは限らない。
典型的には革命だが、「自己投与的にして他者援助的」でもありうることは忘れてはならない。
ならば、社会秩序の危機に際して、「自己防衛的にして他者破壊的」となっている暴力の発動を、いかにすれば「自己投与的にして他者援助的」へと振り向けることができるのだろうか。
ここが、「パラダイム転換志向の発想ファシリテーター」の本領が発揮されるべきポイントに他ならない。
著者はこう続ける。
「異なった無数の成員たちのうえに分散されていた、いっさいの悪意と暴力は、たった一人の生け贄(スケープ・ゴート)のほうに収斂されてゆく。
この全員一致の意志によって行使される暴力、つまり供犠を媒介として、あらたな<差異>の体系の再編が開始されるのである」
「パラダイム転換志向の発想ファシリテーター」は、<異人>である。
私のようにフリーランスの外部ブレインの場合、「よそもの」性が<異人>であること、<マージナル・マン>であることをいっそう明らかにしているが、共同体一般の内部者が「パラダイム転換志向の発想ファシリテーター」であっても<異人>なり<マージナル・マン>として位置づけられてしまう。
そして、あらたな<差異>の体系の再編のための生け贄となり排除されたり自ら脱却するか、司祭とされて境界にとどまり再編を促進しつづけることになる。
フリーランスの私は、排除されようが、自ら脱却しようが、司祭を依頼されてどとまろうが、問題の既存パラダイムが理想の新規パラダイムに転換するのであれば何でもいい。生計は他の取引先や他の収入源で立てればいい。
しかし企業の社員はそうはいかない。
社員が既存パラダイムについて異論を表明して異論の持ち主=異端であることが表面化すれば、クビにはならなくても、クビにしたい辞めてもらいたいという周囲からの圧力を招きかねない。
いや、「<差異>の消滅・分身化・相互暴力に支配されるカオス的状況」においては、招くと考えるべきだろう。
著者は、その展開を以下のような概念図にしている。
フリーランスの私は、内部者有志の「パラダイム転換志向の発想ファシリテーター」がこのような展開にならないよう、直接的にコンタクトをとらずに彼らを支援することを課題としている。
この課題は、私と私の意見が、不浄なるものとして排除されるのではなく、浄なるものとして受け入れられるようにすることで達成されそうだし、私もそう思ってきたが、現実はそんなに甘くはなかった。
不浄なるものも、浄なるものも、もともとは共同体の構成員それぞれが抱いているものを生け贄なり司祭という対象に集中的に投影しているに過ぎない。だから、本人の抱く浄なるものを代弁すれば賛同される、それで一件落着と思いきや実際はそうは行かない。
賛同しても賛意を表面化できない、それが社会秩序の危機の現実だからである。
むしろ私は社員一般から、賛意の表面化をしいる者として忌避されたり、私の意見に同調することが禁忌=タブーになっていくのだった。
私は、こういう言い方をすると、何か私だけが常に正しい人間で最善の打開策を持ち主のようなので、このような言明をしないできた。誰もがお前の考えに賛同している訳ではないぞ、という声も当然あろう。
そこで、私がしたいのは私の意見やアイデアの押しつけではなくて、それを叩き台にした話し合いで、しかも私とみなさんの話し合いよりも、みなさん同士の話し合いなのだと言いそえてきた。
それでも、私への反論も、事業部間恊働など社員有志同士で呼応する動きもないままだった。
そして最近になって、今更ならがらに気づいた。
私の意見やアイデアが、社内の事業部門同士の関係、経営幹部や事業部幹部と現場社員との関係、それらに適応すべき社員同士の関係、異業種パートナーとの関係、それら関係の再構築を求めるものであることが、反論も呼応もないことに直結している、ということに。
(かつてAV機器のシステム設計販売の業界が私を招請した際は、ビクターやパイオニアなど業界ぐるみで建設やディスプレイや広告という異業種パートナーとの恊働が求められていて、その橋渡し役として私と私の意見が位置づけられた。つまり、先に取引先のAV関連事業部門に主体的に関係を再構築しようとする意図があって、そこに私がピッタリ司祭役にはまったのであった。そしてメーカーとの関係の再構築を望むBGM業界の特約代理店も私を顧問という司祭役に引き入れた。私が境界人とはいえ共同体内部にある役割をもって受け入れられたのにはそういう背景があった。
私は、経営危機を深める取引先には起死回生をはかりたいという全社的希望があるのだから、それを支援する叩き台的アイデアならば少なくとも叩かれはするだろうと考えたのだが、人間社会はもっと複雑なポリティクスとそれに応じた思惑や振る舞いに満ちている。)
今頃気づいたのか、と言われるだろう。
しかし私は
「関係の再構築さえできればすべてが解決の方向に向かう」
とつねに主張しつづけてきたのであって、その考えは正しいと思う。
パラダイム転換の具現化とは、つまるところ主体における「関係の再構築」なのだから。
つまり「関係の再構築」を手段として経営危機の打開、起死回生という目的を達成することを提唱してきたのだ。
それは間違いではない。世の中の集団や組織の起死回生物語にみられる正攻法である。
一方、社員は「<差異>の消滅・分身化・相互暴力に支配されるカオス的状況」という関係をどうにもならない現実だと、つねに受け止めてきたのだ。その先に経営の破綻、解体吸収が待ち受けていると誰もが予測するこの期に及んでも、それは致し方ないと思っている。
こうした社員の心理状況だけを捉えれば、それは、
幕府側も倒幕側も下級武士までが黒船来航後の日本をどうにかしなければいけないと立ち上がった維新前夜の状況にではなくて、
軍国主義に翻弄されながら国民全員が自分と家族の命を守ることに必死だった敗戦前夜の状況にこそ相当する。
前者は希望と使命感のある人々の心理状況であり、後者は諦めと無力感のある人々の心理状況である。
ともに社会秩序の危機の様相だが、後者は社会心理学的にパニックなのだ。
本項(4)では、以下、社会心理学的にパニックにある人々をいかにそこから脱却させるかのヒントを求めつつ、「Ⅲ 内なる他者・無意識・狂気」の検討をすすめたい。
隠れパニック症候群からの脱却をはかる
最大の難関は、社会心理学的にパニックにある人々が、自分たちの心理的状況をパニックとは思っていないことだ。
そのために意識的および無意識的な葛藤は深めている、そんな彼らに主張をもって接する「パラダイム転換志向の発想ファシリテーター」は、彼らの内的葛藤のネガティブな側面を集中的に投影されてしまう。
部外者である私の場合は、よそものとしての負イメージまでが混ぜこぜに投影されてしまう。
著者は述べる。
「それぞれの社会には、暗黙裡に期待されている<異人>のイメージや役割がある。<異人>は<異人>のイメージを身にまとい、<異人>の役割をたくみに演じてみせる必要がある。
<異人>というイメージや役割を逸脱する行為は、人々を混乱させ不安にさせるために、鋭く忌避される。
<異人>は孤立した光景ではなく、わたしたちの日常的な出会いの場にそのつど・あらたに生成してくる関係なのである。
R・D・レインの相補的アイデンティティという視角は、示唆に富んでいる。
女性は自分に母親というアイデンティティをあたえるために、子供を必要とし、男性は夫になるために、妻を必要とする。
”<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化される”(中略)とレインは語っている」
外部ブレインには、社内の人間でもできることをより安い時間単価で代行する下請けと、社内の人間ではできないことをより高い時間単価で代行するブレインがいる。
そして、私がブレインのつもりでいても、相手が下請けとみなしていれば、「相補的アイデンティティ」自体が成立しない。私の場合ここが最初の難関になる。
こんなことがあった。
ある事務機メーカーの研究所に発想ファシリテーターとして呼ばれ、研究者たちの研究構想をきいてはみんなでブレストし、パラダイムの観点からメタ思考し転換可能性を探るという仕事だった。
たとえばある研究マネージャーは、報告・連絡・相談のための新型デバイスを開発するための研究というプレゼンをした。私はまず、ケータイとノートブックなどをもっている営業マンにさらにもう一つデバイスを携行させる難度は高い。よほどそのデバイスならではの効用が大きくなければならないことを指摘した。そして、もしそのような効用が見込めないのであれば、違った角度から検討してみてほしい。今後は任天堂DSのような遊びデバイスが進化していくだろうから、それをビジネスユースに使う。仕事でも遊び感覚の使い勝手をするそんな新パラダイムで、報告・連絡・相談の新しい有り方を模索してみてはどうか、とアドバイスした。
研究マネージャーが、あくまで現行の報告・連絡・相談の有り方(=目的)を前提として、それに対するソリューション(=手段)を開発しようとしていたのに対して、目的から新しく創造することの可能性を説いた。それは潜在ニーズを掘り起こすマーケティング視点である。
しかし、研究マネージャーたちが期待していたのは、自分たちの設定した目的をフィックスしておいて、それを達成するソリューションという手段についてのアドバイスでしかなかったのである。
そして、彼らが目的を既存パラダイムで捉える以上、私が言えることは多くはなく、彼らにとって参考になることはほとんど無かった。
この場合、彼らの期待と私の職能は完全にすれちがい、彼らにとって私は「役に立たない外部ブレイン」ということになった。そんな話を聞きたかったのではない、と私を下請けにも使えないとみなした筈だ。
そのことについて私にはとりたてて感慨はなかった。
なぜなら、私が目的と手段を新規パラダイムで捉えるパラダイム転換可能性を指摘した相手が、現行パラダイムの目的を前提にいくら手段を開発しても、既存の商品サービスや競合も出して来る類似の商品サービスとの消耗戦に力つきるだろうことに気づいて、研究や開発の方向を転換する場合もある。初めの一歩を誤ることによる長期的な資源の浪費を理解する人々もいるからだ。
私は同じことをやって相手により反応が違うからといって、そのつど一喜一憂してはいられない。
私の周囲で「相補的アイデンティティ」が現象しているだけなのだ。
「あらゆるアイデンティティは、他者との関係のなかで、そのつど・あらたに現実化される。補完項としての他者をもたないアイデンティティは存在しない。
この相互補完性は形式化され、社会的・文化的に規定されており、たいていは期待---役割のシステムとしてそれぞれの成員に内面化されている」
ここで、「それぞれの成員に内面化されている」というところが重要だ。
先の例では、研究所に私を招請した責任者が、研究者のタコツボ的な思考のタガを外してほしいと要請してきた。私とこの方との間には「期待---役割のシステム」が機能していたが、研究マネージャーとの間には機能しなかったのだ。
もう4年前になるだろうか、カーナビの新規パラダイムを求める調査プロジェクトに参画したことがあった。経営幹部からの依頼で最終的には現社長にプレゼンするものだった。
当初、ご依頼の主旨と結ばれた契約の内容上、外部スタッフが主導して社内スタッフが恊働する筈だったが、途中からカーナビの次世代機のネタを求める調査にしようとするバイアスが社内スタッフからかかって社内スタッフ主導となった。
調査のメインは、学生インターシップを主催する企業が協力して(外部スタッフの2名はそこの所属)大学生会員5万人から最も有効な最終18人をスクリーニングして、3チームでグループワークをしてもらいその様子をビデオで記録し分析するというものだった。すでに調査設計をして予算取りと契約締結がすみスクリーニングが進んでいた時点での、社内スタッフへの主導権移行だった。だから社内スタッフが主導したのは、次世代機のネタを求める方向での最終18人へのアンケートの設計、3グループへの質問の設計であった。グループワーク観察とアンケート回答への質問聞き取り、両者の成果にはなんら脈絡はなかった。最終プレゼは、社内スタッフの報告だけが行われる予定だった。しかし、社内スタッフは自分たちが設計したアンケート聞き取りの成果から明快な何かを導くことができず、調査成果を特に踏まえない内容のレポートを作成した。さすがにこれをプレゼンするだけでは重役プレゼは心もとないとの社内判断から、急きょ社外スタッフも独自に報告することになった。
この調査プロジェクトで印象的だったのは、当初外部スタッフからの提案で、学生たちのグループワーク観察とは別途、社内スタッフそれぞれが新規パラダイムを触発するようなアイデアを提示しその反応をみる計画だった。ところがそれに次世代機へのネタ回収にバイアスをかけることになった社内スタッフが難色を示す。経営幹部がわざわざ会議に出て来て、新規パラダイムが出て来なくても構わないから触発アイデアを出せと言う。にもかかわらず彼らは「新規パラダイムなんて出て来ないかも知れない」と渋った。結局、グループワークの相互発表の後に、社内スタッフ2名が経営幹部の意図に応じるかのように触発アイデアを披露し学生の感想は聞かなかった。
今振り返るに、触発アイデアの浮かばなかった社内スタッフが、プロジェクトのイニシアティブにこだわり出し、調査全体を既存パラダイムでのカイゼンに役立てられる成果の収集という方向にバイアスをかけたという展開だった。
まったく無益なことだった。
社内スタッフがそうした観点でした報告は、調査成果から導かれた内容ではない上に、瑣末で複雑をきわめトップは「よく分からん」の一言を感想とした。心もとないとの社内判断は当たった訳だ。
私たち社外スタッフは、計画していた調査の半分をさせてもらえず調査精度はかなり落ちたが、どうにか単純明快な分析結果を導いてプレゼンすることができた。
かなりの予算を使った調査プロジェクトとしてのぎりぎりの体裁をととのえることに貢献した社外スタッフだが、イニシアティブにこだわった社内スタッフの側にはしこりが残ったようだ。
(私は最近、長年勤めた会社をやめてコンサルタントとして独立したい、という人の話をよくきく。
しかし、本質的に会社を動かしているコミュニケーションがまったくロジカルではなく、関係のポリティクスであることを知らない訳はないのに、不思議だなあと思う。
おそらく、フリーランス、イコールよそもの、ということを忘れているだろう。
よそものが取引先の共同体にお邪魔することの大変さについて実感がないらしい。
というか、独立話をなさるのは、私のような変わり者の外部ブレインにも寛容なオープンマインドな方々で、ご自身のようなタイプが世の中稀であるとは想像なさらない。
彼らは、自分がベストを尽くすのはもちろんだが、自分のベストよりも、世の中にとってのベストを優先する。だから、これは自分でやるよりもこの人に頼もう、あれはあの人に頼もうと考える。彼らにとってイニシアティブとはそういうことなのだ。
私は、こうした世のため人のために良かれを自然体でできる人たちのお陰で、これまで食べてこれた。心から感謝している。きっと彼らが独立しても、さらなるいい人繋がりがあるのだろう。)
「社会学的にいえば、<異人>の補完項は<常人>である。
ゴッフマンにならって、ある特定の役割期待から負の方向に逸脱していない者を、<常人>とよんでおく。
(筆者注:ある特定の役割期待から負の方向に逸脱したとみなされた私は、<異人>というよりも<変な人><おかしい人><変人>と思われる。)
いうまでもないが、<異人>と同様、<常人>は実体としてではなく、関係として把握されねばならない。
<常人>の役割と<異人>の役割とは、ある社会関係のなかで図/地のように組みあわされ、両者はたがいに相手の部分をなしている。
たがいに相手を<内なる他者>として内面化している、といってもよい」
つまり、相手が抱いていた特定の役割期待に対して、たとえ私が負の方向に逸脱して<変な人><おかしい人><変人>と思われたとしても、それは相手自身の内面において<内なる他者>を形成しているということなのだ。
分かりやすく言えばこういうことだ。
ちょうど今、厚生労働省幹部家族テロの犯人のことが取りざたされている。テレビをみていると、テロという行為は絶対に許すことはできないが、と前置きした上で、福祉行政への不満が高まっていることは認めるという意見を聞く。この犯人との関わりで、犯人が抱いただろうとする不満を述べること自体に、犯人の思いを<内なる他者>として内面化している過程をみてとれる。
(同様の現象を思い出すのは、護国寺の幼稚園児が同級生の母親に殺された事件である。その動機は殺害した子供の母親への嫉妬であった。犯人に同情とまではいかないが、そうした心理は分かるというコメントが多く聞かれた。)
犯罪者の場合ですらそうなのだから、
<変人>という評価を受け入れていた小泉さんが英雄待望的に首相になり、英雄歓迎的に国民から応援され、今となっては小泉改革の行き過ぎが非難されていたりする。その時々で、国民は賛同者として批判者として小泉さんの思いを<内なる他者>として内面化してきたと言える。
不浄なる者に転落する前に総理を辞職した小泉さんはやはり天性の政治的直感の持ち主なのかも知れない。また、郵政民営化をはじめとするこだわりのパラダイム転換だけをしたかった、ということなのかも知れない。小泉チルドレンの組織化など小泉さんには「信長志向」の片鱗もうかがえる。
さて、私は、社会心理学的にパニックにある人々をいかにそこから脱却させるかのヒントを求めるのが本題だ。
私が、問題にしている会社における社員の「社会心理学的にパニックにある」とは、具体的には本人の発想思考の停止や偏向であり、組織の政治的なコミュニケーションに強いられたものである。
本人の発想思考が停止していたり偏向している以上、ヴィジョンや戦略構想やパラダイム転換触発型のアイデアなどなどロジカルなアプローチだけで、根本的な何かが変わるとは考えにくい。
組織や制度が機械論化され人材がいつでもどこでも交換可能な機械の部品のように孤立化している状況では、他者との恊働は、理想として理解されても実践はされない。
万人が理想とする事柄が明白であっても、理想を具現化するアプローチやアイデアは立場役割によって違うから、よく話し合い調整していく必要がある。
しかし、機械論化が「対他的同一化や模倣を強いる圧力」にまで展開すると、そこから逸脱する意見は表明しにくくなる。つまりほとんどの構成員が、理想はあくまで理想に過ぎず現実ではなく、この先もずうっと現実とはならないとするようになる。理想に向かうための様々な意見を言うこと、交わすこと自体がタブーになる。
結論的に言って、
こうした組織の政治的なコミュニケーションを無価値にしてしまうということが、
社会心理学的にパニックにある人々をそこから脱却させることになる、
と私は考える。
そのような方策のヒントは、著者のこうした論述から得られる。
「社会がアイデンティティにかんして共有する価値規範は、日常生活のそこかしこで生起する人と人との出会いに、微妙なふかい影を落している。
むしろ、出会いの一瞬一瞬に、はじめてこの規準は現実の相をおびつつ人々を規制するようになる。
<常人>と<異人>を分かつ規準はいわば、それぞれの成員によって内面化され分有されている。両者の相互交渉は、アイデンティティにかんする規準を表と裏から補完するはたらきをなし、ひとつの統一された全体を構成している。
あるいは、こんなふうにいいかえてもよい。
あらゆるアイデンティティの構造は、その基底に内部と外部の分割をめぐる<神話>を秘め隠している。
たえざる<交通>によって再生・反復されてゆく、自己(われら)/他者(かれら)という二項図式」
著者は、N・O・ブラウンのこんな文章も引用している。
「時を経て耐えうる強固な実質としての自己、すなわち自己同一性は、つねに外界からよいもの(者)を摂取し、内界から悪いものを駆逐することで維持される」
結局、社内でやっているポリティクスとは、人事でしかない。
組織や制度をどうこうしても結局最後に人事のポリティクスですべてが決まってしまう。企業理念やヴィジョンなどの言葉も何もあったものではない。すべてぶっとんでしまう。
しかしだ、文化人類学や社会学が教えるポリティクスは、もっと根源的でシンプル、かつ普遍的で強力なものなのだ。
つまり、こういうことだ。
共同体の内側、これを小さな円としよう、小円において<常人>がいて<異人>がいる。
しかし、この共同体をその一部とするさらに大きな共同体を捉えれば、つまり小円を内に含む大円を捉えれば、そこでは小円の<常人>の方が<異人>で、<異人>の方が<常人>ということがある。
北朝鮮の常識が、まさに世界の非常識であるように。
経営のロジカルな合理性がまっとうに求められ、オープンマインドな意見交換をしないことが汚点とされる広い世界がある。
そのような大円で、事業部間恊働をせずに全体最適を犠牲にして事業部幹部が小山の大将的に部分最適ばかりを追求する会社という小円を包んでしまうのである。
このようなお山の大将的な幹部が<常人>ではなく<異人>とされる、しかも不浄なる者とされる広い世界は確実に世の中に存在する。
たとえば株主。
株主は経営のロジカルな合理性を求める存在であり、株式市場という広い世界の住人である。
株主の中でも影響力があるのは長期保有株主であり、二つの系統がある。
一つは、持ち株数は少なくても精神的な思い入れと強い参加意識がある株主。
たとえば、有志社員が個人的に自社株を買って株主として提案したり批判することもできる。自社株買いをした有志社員が組織をつくり、そこで株主として意見交換して全体最適を図る提案を経営にぶつけることもできるのだ。
この組織の活動と提案内容は日経新聞が詳細に取材し報道するだろう。つまり、経済界というより大きな大円の話題になる。
いま一つは、持ち株数が巨大で株価や資本提携メリットに敏感な大口株主。
前述の組織の活動と提案内容に一番関心をもつのは大口株主である資本提携企業である。
提案内容に、この企業との恊働による「新型市場の共創」シナリオも盛り込むのだ。
以上二つの系統の株主が話し合って共同でより大きな全体最適を図る事業構想を提案すれば、経営陣は耳を傾けない訳にはいかない。
そんなことをしたらクビになる?
そこまで愛社精神と企業家精神に満ちた意欲的な有志社員をクビにする会社そして経営陣を、日経新聞はどのように報道するだろうか。
私たちは、高度情報化社会、グローバル経済社会に生きている。
情報も情報受発信の手段も伝手も広く深くもっている。
残るは、使命感とヴィジョンをもってそれらを戦略的に活用するかどうかだ。
私は、このままではまずい、どうにかすべきだ、やりようはある、仲間と協力して行動するぞ、という有志に語りかけている。
坂本龍馬が好きだという人はいる。尊敬しているという人も多い。
だが、自分が龍馬になろうじゃないか、という人はどれくらいいるのだろうか。
社会心理学的にパニックにあることを了解し、そこからの脱却を仲間とともに図ろうとする人間は、どれくらいいるのだろうか。
著者は、こう述べている。
「自己と外界とのあいだにひかれる境界線は、いずれ人為的な構築物である。
フロイト的にいえば、対象となる世界や事物は、快感をもたらすかぎり自我に摂取されるが、他方、自我の内にあって不快や苦痛の原因となるものは、外界にむけて放逐される」
「自我の内にあって不快や苦痛の原因となるものを、外界にむけて放逐しない」そんな毎日を他の人もしているからという理由だけで、そうするしかないと決め込んで「対他的同一化または模倣」に徹する。
そのような個人および集団が、社会心理学的にパニックにあることは、より広い共同体を想定してそこから振り返れば分かることだ。
そして、自ら認知療法と行動療法をすれば、パニックは脱却できる。
それは小さな出会いから始められる。
そんな出会いのある小さな場づくりから始められる。
歴史が教えていることだ。
「<常人>/<異人>という二元分割もまた、成員たちによって内面化され分有される、ある不可視の規準によってひかれる境界線にもとづいている。
たえまない投射と摂りいれをつうじて、集団はそれぞれに、<常人>/<異人>という相補的イメージを小さな出会いの場面ごとに更新してゆくのである」
切り捨て的ないし逃散容認的なリストラを繰り返しながら経営危機を悪化させている取引先がある。
その会社ではかなりやる気のある中間管理職のキーマンですら、私の言うような「関係の再構築」は外圧がないとできないと言い切る。
しかし、外圧が黒船を意味するならそれはすでに来ている。
外圧がマッカーサーを意味するなら、それは不適切なたとえだ。このまま行けば予想される解体吸収は、マッカーサーのように国体を護持してはくれないからだ。
むしろ、
内部者である有志社員が恊働して、自ら外圧を加える主導的な外部者ともなる。
つまり、
大円の<常人>であることにより、小円における<聖なる司祭>という<境界人>となることで活路を拓ける可能性に目を向けてほしい。
私たちは歴史的にはそういう可能性の許された恵まれた時代に生きているのだ。