「ヒカリサス海、ボクノ船」「それでも話し始めよう」をめぐる共時性の雑感 |
アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」
アン・ディクソン著 クレイン刊 発
東京で研修の仕事を終えて伊豆に帰宅した先週末、映画「ヒカリサス海、ボクノ船」を見た。
そしてこの週はじめ、それを返却しにいったビデオレンタル屋の古本コーナーで、
アン・ディクソン著
「それでも話し始めよう-----Difficult Conversations アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」
という本を見掛けて買った。
アン・ディクソンは、1982年に刊行された「A Woman in Your Own Right」がイギリスでベストセラーになり、世界9カ国語で翻訳出版された、コミュニケーションや自己能力開発などのトレーナーである。日本には1992年に初来日し、2006年に二度目の来日をして講演とワークショップをしている。
「それでも話し始めよう」は彼女のアサーティブネス理論の集大成だそうだ。
店頭でその本を斜め読みした瞬間、私は「共時性」の発現、偶然の意味するところを理解した。
それは、今回の研修で私がある試みの成果として得た体験の本質でもあった。
(ちなみに「共時性」は常に現象していて、
私たちは「縁起」を介してのみそれに向き合うことができる。
そして
「縁起」の曰く言いがたい意味合いは「情緒」によって無意識的に察知されている
と私は思う。)
自主参加の講座の場合、そもそもコンセプチュアルな思考や発想に興味のある受講者が予定されるのだが、最近は仕事の事情から直前のキャンセルが多発するようになった。参加を上司に命じられる講座の方はそういうことはないのだが、自主参加の講座の方は予定の人数が半減することもある。先週は最終的に4人になり、二日目は3人という史上記録となった。そのお陰で私はある試みをとても濃密な形ですることができたことは、前記事ですでに述べた。
しかし私は、発想思考やその促進過程についての成果を理念的に理解し解説したのだが、自分が情緒的に感じとった、そしておそらく受講者も同様に感じとったろう言葉にして曰く言いがたい何かを、それがとても重要であると直観しながらも、理解しきれていないと感じていた。当然、解説することもできないでいた。
しかし、そのとても重要な何かが、「ヒカリサス海、ボクノ船」の主題であり、「それでも話し始めよう」が解説しているまさに「アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」だったのだ。
本の冒頭、こうある。
アサーティブネスとは、
相手の権利を侵害することなく
自分はどうしたいのか、何が必要なのか
そしてどう感じているのかを
相手に対して
誠実に、率直に、対等に
自信を持って伝えることのできる
コミュニケーションの考え方と方法論を
意味します。
「日本語版へのメッセージ」で著者はこう解説する。
「この本では、むずかしい課題について二人が向き合って話し合うときに生まれる、力関係について詳細に見ていきます。
●相手を批判する
●自分が居心地が悪いと感じている状況についてきちんと話す
●相手がどう思うかを心配してなかなか持ち出せないでいた話題を持ち出す
●職場での上下関係を上手に対処しようとする
●誰かの態度についてコメントする
●愛する人と繊細な話題について話し合う
そうしたことを話し合うときに、私たちはいとも簡単に議論になったり喧嘩になったりします。言いづらいことを話そうとすると、その不安から、私たちは相手を攻撃したり、反対に言葉を濁してしまいます。
本書では、専門的、社会的、個人的なさまざまな場面を取り上げながら、いくつかの基本的な対話のルールをご紹介していきます。
このような基本的な対話のルールを学び実践するうちに、相手に対して攻撃的になったり相手の攻撃的な態度を引き出したりすることなく、自信をもって話をすることができるようになるでしょう。
明確さと相手への思いやりでもって、人間関係を壊すことなく率直な態度で、むずかしい課題にチャレンジすることができるようになるでしょう」
もしあなたが映画「ヒカリサス海、ボクノ船」を見ていたり、これから見るとしたら、以上のアン・ディクソンのメッセージは、何よりもすぐれた映画評論になっていると思う筈だ。
私が今回の研修でした試みとは、
「私自身の情緒や態度で伝えるしかないことを可能な限り伝えようとする」
ということだった。
そして極めて少人数だったお陰で、大人数だったら得られなかった成果を得られたと思った。
「私自身の情緒や態度で伝えるしかないこと」とは、常識や既成観念や専門知識体系に縛られずに、自由闊達にパラダイム転換物語を発想することの楽しさや産みの苦しみそれを乗り越えて、自他の目からウロコを落すアハー体験的な気づきに至る有意義さなどの実感だった。
しかし今にして思えばそれは、講師と受講者がお互いに「明確さと相手への思いやりでもって、人間関係を壊すことなく率直な態度で、むずかしい課題にチャレンジすることができる」という相互関係が成立してはじめて到達できることだった。
このことが、私が言葉にして曰く言いがたかったとても重要な何かだったのだ。
今回そういう相互関係が成立したのは、たまたま少人数だったからか。
あるいは彼らが際立った何らかの性向の持ち主だったからか。
そうではないだろう。
私は、まず自分が「私自身の情緒や態度で伝えるしかないことを可能な限り伝えよう」という思いを抱きそれを実行したことがあると思う。
そして実践において、そのやり方が、対象が少人数だったお陰で理想的な形で導かれたのだ。
逆に言うと、ふだん対象が大人数の時、講師である私も受講者もお互いに個々人の人となりや心のありようを埒外において、その場ではいわゆる人間的な触れ合いというものを後まわしにしたり、軽視していたと思う。
つまり、対象が大人数だからできないのではなく、対象が大人数だとやろうとしなかったのだ。やっても形式や社交にとどまっていた。
しかし、「アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」が少人数だとしやすくて大人数だとしにくいとか、少人数だとできて大人数だとできないなどということはない。それは、「言いづらいことを話そうとすると、その不安から、私たちは相手を攻撃したり、反対に言葉を濁してしまう」ということ、つまり「先入観による過剰防衛」なのである。
映画「ヒカリサス海、ボクノ船」は、親子姉弟という近親のまさに少人数ですら「アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」ができない、微妙だが重大に継続してしまった物語であり、誰もがそれほど重大ではなくても似たような事態を経験しているから感情移入できる訳だ。
また、私は企業社会の経営陣から平社員まで様々な縦横のレイヤーで起こっている諸問題やそれについての議論や対応を見てきたが、それらが部分的にも全体的にもまるで統合失調症のように悪影響を循環させている問題の本質は、つまるところすべて人間関係の悪化とそれを回復する試みの放棄につきると見てきた。
つまり夫婦、親子、兄弟姉妹の家族の問題も、企業の経営や職場の問題も、個別具体的にはいろいろな様相が見てとれるが、すべての大本根っこには、アン・ディクソン言うところの「アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」の放棄、あるいは軽視があると言える。
私は、個人なり集団なりの発想思考が有意義な独創に導かれるためには、ある情緒を個人なら一貫するようになる過程、集団なら共有するようになる過程が、独自の<感覚論>を鮮明にする形で伴うことが不可欠だと、今回の研修で実感した。
(それは発想思考論的には「産みの苦しみ」の過程であり、集団組織論的には「喧嘩してこそ親友に成れる」過程、「雨ふって地かたまる」過程と言える。)
これは道理であるから、少人数だったので理解しやすかったが、大人数の集団や組織においても同じに通用する筈だ。
ある情緒の一貫性ある共有に到達するには、集団内の個人間に、組織内の集団間に「アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」が成立することが不可欠なのである。
私は、物事を概念要素に分析したりそれを再構成して物語にする「コンセプト思考術」というものを、この成立を促進するものとして位置づけていきたい。
(喧嘩に生産的な「良い喧嘩」と、非生産的な「悪い喧嘩」があるとすれば、「良い喧嘩」とはお互いが自分と相手を対等とみなしているもので、「悪い喧嘩」とは対等ではないという前提を最後まで押し通そうとするものではなかろうか。私は、ブレインストーミングでもディスカッションでも生産的なものはこの「良い喧嘩」の条件を伴っていると思う。つまりは自尊心のレベルが、克己心や公共心に裏打ちされた高い次元にあるということだ。)
また、本来の理想的な「日本型の集団独創」の成功の鍵もこの一事にあると思う。
集団の知識創造の基礎において機械論を脱し人間論を回復するには、人と人が相対する場においてナレッジワーカーの人間関係とコミュニケーションが人間論的に理想状態であるか、少なくともそうあることが目指されねばならないことは自明だ。
「第6章 あたらしいアプローチ」をアン・ディクソンはこう始めている。
「この章からは、今まで慣れ親しんできたコミュニケーションのパターンに代わるあたらしいアプローチを学んでいくことにしましょう。
言いにくいことを伝えなければならないときや、解決すべき問題がありながらそれに取り組むことをためらっているとき、何からどんなふうに変えていったらよいのでしょうか。
それにはまず、自分自身に問いかける三つの基本的な質問から始ります。
① 何が起こっているのか?
② それについて自分はどう感じているのか?
③ どのような具体的変化を望むのか?
この三つの質問と、それに対する答えを持っていることは、むずかしい状況の中で相手にアサーティブに向き合うためには、必要不可欠です。
攻撃的になるのでもなく無力になるのでもなく、誠実に、率直に、対等に自分自身を主張し、本気で相手と関わろうとするならば、武器としてではなくあなた自身のための道具として、この三つの質問とその答えが必要なのです」
たとえば昨晩、我が家でこんなことがあった。
昼はまだ汗ばむほどに暑く、朝晩は冷え込むようになった今日この頃だが、夕食を知らせた母にうたた寝から起こされた父が居間から食卓に向かわずに、二階自室にガウンを取りに向かった。
母は「寒くないからそのままの格好で食事をとってくれ」と父を制した。
すると父は「俺の体が寒いのだからそんなこと命令するな」と怒った。
母は不承不承、承知した。
二階に上がった父はなかなか降りて来ないので、母が上がっていきやがてガウンを羽織った父とともに階段を降りて来た。
我が家では、93の斑ボケの父と83の母との間でこのようなやりとりが朝から晩まで繰り返される。
ここで、父の怒りはもっともだ。
ただ、母も冷え込んで来ると神経痛が出て階段の上り下りが辛い。夕食を早く終えて父を寝かせて自分も休みたいという気持ちがある。たかだかガウンを探して羽織るだけのことだが父は一人でできないから母も上り下りしなければならない。体の辛さと体を休めたい希望を母は常に口にしているのだが、父は少しも思いやらない。感謝もしない。それは父のそもそもの母に対する態度で、さらにボケによる場当たり的な嘘や黙りや癇癪が母の気持ちを萎えさせる。
こうした背景が母に「寒くないからそのままの格好で食事をとってくれ」という一見押し付けがましい物言いを条件反射的にさせている。それは、ともすれば父を寝かせた後の深夜まで父に心理的ストロークを奪われ続ける母の心身の防衛でもある。
このような両親の対話を日に何度となく聞く私は、場合によって、対話に参加して双方の言わなかったり言えなかったりする言い分を代弁したり、対話には参加せず先に自分が代わって何かをやってしまったりする。たとえば私が二階のガウンを取って来て着せるといった行動だ。しかし、常にすべてを私が代行していたら私の生活や仕事が成り立たない。それでは親を見守る共同生活を長続きさせることはできないから、可能な限り夫婦で自立生活をしてもらうことにしている。母の階段の上り下りが限界に来たら、一階だけで夫婦が自立生活できるように模様替えするつもりだ。じつは、この階段の上り下りが、家の中からあまり出ない高齢者を長生きさせたという側面もあるのだ。また息子としては、母の神経痛に限らない不定愁訴は、父に自分を思いやって欲しいという心の叫びである側面も確かにみてとれる。
老老介護の二人暮らしが限界になって同居して見守る暮らしを始めて一年以上になる私だが、両親の夫婦関係に、著者が提示する3つの問い掛けをするとこうなる。
① 何が起こっているのか?
父と母の夫婦関係では、残念ながら私が生まれる以前の当初から
「アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」は蔑ろにされてきた。
老老介護の二人暮らしが限界にきた、ということは、おそらく人々は物理的な要因を想像するだろうが、私の両親の場合、問題の本質は精神的および心理的な要因にある。
② それについて自分はどう感じているのか?
私が息子という近親の第三者的立場から
父と母の「アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」を促すことで、
夫婦の自立生活はより健全な形で温存されるだろう。
③ どのような具体的変化を望むのか?
私が父母の関係の健全化を助けることで、
父母そして私の3人がそれぞれに精神的および心理的に健康になっていくことを望む。
今回の研修の一週間ほど前からフランスに暮らす10歳年上の姉が一年ぶりに帰国し伊豆の実家に滞在していた。
丁度私が研修のため上京した同じ日の朝、私より一時間ほど前に出発して帰路についたのだった。
姉には両親の暮らしについて一大事が起こる度にメールで報告している。
相談するというよりは、こういうことが起こっているのでこうするという報告だ。
姉は、両親の不仲を嫌って若い頃から家を出たい願望が強かった。私は父と母の両方の本音を代弁し、また依怙贔屓なく第三者としての本音をぶつけるが、姉は両親を目の前にしてあまりそういう物言いをしない。多感な思春期にまだ若く血の気の多かった両親の夫婦喧嘩に割って入ることがあったそうで、その時のフラッシュバックを無意識的に回避しているのかも知れない。
両親もそうした彼女の傷つきを感じ取ってきたからか、姉への対応や態度は私へのそれとは若干異なる。10歳年下の私も両親の不仲を生理的に嫌い結婚に何の期待も抱かない大人になってしまったのだが、姉に比べて10年後の夫婦はその分大人しくなり経済的にも安定していたから、私のトラウマ的な影響は姉よりもずっと軽いに違いない。そして今や、人生で海外暮らしの方が長くなってしまい年に一度実家帰りする姉と、昨年から同居するようになった私とでは、さらに両親の対応や態度が異なって当然だろう。
外面がよく内弁慶である父など、姉の前では母に対するふだんの態度を自重し猫をかぶっているし、本性を知られていない見栄の張りがいのある義兄の前では矍鑠たる長寿者を演じている。
両親の私と姉への対応や態度の違いは、姉の年に一度の実家帰りの時にしか目前で現象しないこともあり、私には特に何と思うこともない。理由はともかくもそれで父と母そして姉の心理的バランスが取れるのであればいいと思う。
特段の不都合がない限りまったく気にならない。
無論どこの家族にもあるように、特段の不都合がある例外的な出来事も時にはおこる。
「アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」がもっとも必要なのはそういう時だ。
一昨年、母が九州の叔母が病気がちで会いに行きたいと姉に電話で話し、姉が私にそうしてあげてと言ってきたことがあった。私は快諾し母と相談を始め、一人にできない父を同伴すべくフェリーを使いクルマで行く具体的な計画を練り始めた。そこで母がやはり大変だからやめると言い出して話は結局無しになった。
この時母が、姉から自分の要望について「◯◯◯(=私)に言ってやったわよ」と言われて不思議に感じたことを話してくれた。母の要望を知らなかった私は母の要望を拒んでいた訳ではないからだ。
それから一年ほどたった昨年、帰国した姉が出雲へ旅行した話や金沢に旅行する話に父が刺激されたのだろう。姉から、父に死ぬ前に鹿児島の墓参りに連れて行ってほしいと頼まれたが「そんなことは無理だ」と即断ったことを聞いた。
姉としてはただ伝えただけだったのだが、私としては「弟にやらせる話は即するが、自分がする話は即断る」というのでは困るとその理由とともに正直にメールした。
一昨年から昨年の移転直前にかけて、私は半年がかりで公私の法的、事務的、肉体労働的、物理的な準備をして忙殺された。その間に、老老介護の限界極まっていた母と軽い脳梗塞をわずらった父とが入れ替わりで入院する騒ぎがあった。移転した後は後で、絶頂に達していた父の我が侭と癇癪、母の衰弱と怒りに日々対処しつつ、両親の日常の世話から、父が投げ出してしまった金融関係の処理や手続きまで、私は体と神経と頭脳をフル回転させる日々だった。無論、自分の仕事も移転にともなった立て直しをしなければならない。文字通り寸暇を惜しんで仕事する勉強する、そんなライフスタイルにいろいろ工夫して落ち着くまで間断なくさまざまな挑戦をする日々だった。
一番肝心でかつ大変だったのは、精神衛生の確保だった。
夫婦仲の悪い父母の心理的な葛藤その後期高齢者版の特殊事情に対応しつつ、私はそれに巻き込まれないよう健全な心理的独立を保たねば、家族全員で共倒れになることは明らかだったからだ。
私は、両親のためだけでなく自分の現在と将来のためにも、プライベートな仕事と生活をも保たねばならなかった。親を見守りを優先する同居暮らしでは、仕事もプライベートな世界に属する。都心の一人暮らしでは、仕事がオフィシャル、遊びがプライベートだったが、今や遊びは出張先への移動時間と出張先での仕事後のナイトライフで確保すべきものとなった。
しかし、そうしたライフスタイルの全体をつかみ我が物とするまでは、正直、心が何度も壊れそうになった。
両親は私を頼りにするばかりで、当初はそれぞれに限界状況にあった母も父も自分のことで必死で私に感謝やねぎらいを言う余裕はなかった。私の毎日は、ただただ父母それぞれの要求や不満をぶつけられ、それ以外は朝から晩までいろいろな父の過失をきっかけに起こる夫婦の激しい諍いに悩まされるものだった。
私のする両親の世話は、買い物や外食や病院などへの外出の同伴と家の中のことの2系統ある。
家の中のこととは、斑ボケの父の水道の出しっ放しの防止や、一人でも風呂に安全に入れる浴槽の工夫や、2階の便器にオムツを流して水を溢れさせ1階まで水漏れさせる事件に対処したりそれを防止する工夫や、一階トイレの周辺で大小のおもらしをしても対処が簡単で匂いが残らないように厚手のビニールを床張りするなど、父の過失への対応と対策である。
どうも5年程前から、父の過失は両親が毎日繰り返す諍いのネタになっていて、斑ボケの進行とともに多発し諍いも激しくなってきていたらしい。私に両親の見守りと世話を動機づけているのは、両親の不毛な諍いのネタを少しでも無くしたい思いと、長年の両親の状況悪化を見逃し放置してしまったことの反省である。
基本的に今もそういう日々を送っているのだが、一年前と比べれば両親の諍いは回数はかなり減ったし激しさもなくなった。
今の習慣的な諍いは、母が父を起こす時と寝かせる時、父のトイレの後のもろもろを手伝う時だけになった。あとは突然父が思い出したように無理な要望を言い出してそれに母が反発することがあるが、私が出て行くと父は要求を引っ込めるようになった。
起床と就寝と排泄、これを夫婦で解決できなくなった時は、それなりの施設利用を考えなければならない時である。だから私もそれに関する自立生活が少しでも楽になるよう工夫に力を入れている。たとえば最近は、褌と女性の生理用オムツの合わせ技を考案し、母はそれで随分と楽になったし父の過失も防げている。
移転当初は、都心での気楽な一人暮らしからの急激な環境変化と、「同居して親を見守る」という言葉にすると美的に過ぎて漏れ落ちてしまう我が両親の不仲ならではの日々のもろもろで、私の心理状況は間違いなく限界だった。
そんな心理状況で、私は姉に「自分は何もしないで、口先だけのああせいこうせいを言われたら、自分の心は壊れてしまう」と率直に報告したのだった。
私も、姉が遠い異国の地から父母に良かれと思って物言いをしている、とは分かっていたが、それを受け止める側の実状というものも分かってほしかった。
ちなみにそれまでは、姉は私の報告を愚痴とみなしていて、愚痴で気が晴れるならいつでも聞くと繰り返した。大変だが一人息子として主体的な意志をもって取り組んでいる私は前向きな報告をしていたのだが。
一昨年のことだった。
父がジーンズがほしいというのでGMSに連れて行き試着させて買って来た。簡単に聞こえるが、シモの心配と対処をしながら田舎で年寄り向けジーンズを探し試着させて買うのは大変な作業だった。
さらに当時、父は私に頼み事をしてやってもらうのを好みむやみに要求を連発する状態だった。その一つがこのジーンズだったのだが、実家帰りした姉がそれを見て「股上が今風に短くて駄目だ」と父に言った。それから父は、移転準備に忙しい私にジーンズの買い直しを要求し続けた。私はまた文句言われて買い直すのは嫌だから次回姉が帰国した時に見てもらってと先延ばしした。そして昨年、帰国して手伝えることは言ってくれという姉に、ユニクロに父を連れていってジーンズを選んでくれと頼んだ。すると「どうせ股上の短いのしかないからダメよ」と言う。私がユニクロに電話すると股上の長い型番があると教えてくれたので、両親と姉夫婦で外食がてらユニクロに立ち寄ってもらった。
こんな、ちょっとした姉の物言いのために実際に面倒な用事が増えたことを思い出してもらい、「自分で対処するつもりのないことは口に出さないでほしい」と同じメールでお願いした。
遠く離れていてメールという手段であったことも幸いに気まずさを乗り越えて、私は私なりのアサーティブネスを試みることができた。
無論姉が傷つくとも想像したが、私は姉を信頼した。
姉は、人と相対する場ではともすると売り言葉に買い言葉的になるストレートな気質だが、そもそも人に干渉しないでそれぞれの独自性を認める寛容なタイプだから、私が正直に自分の気持ちや精神状況を話せば私の身になって分かってくれた。
私に心理的な余裕がある時ならばハイハイハイとやり過ごせることでも、状況次第では多くの不都合に繋がりそれに耐えられない場合がある。しかし、私の「今ここ」がまさに「その場合」であることは誰も分かりはしないし、説明しなくても相手が分かってくれるべきだと断じることはできない。
そのように断じてしまって説明しないでおいて相手を心の内で非難しつづけたり、そんな心持ちで敬遠しつづけたりするよりも、アン・ディクソンが提唱するアサーティブネスな伝え方を試みることの方がずっとよい。
アサーティブネスな伝え方の試みは、気まずさを伴う上に早急な解決には結びつかないが、心の真ん中で相手を信頼しているからできることだからだ。
きっと、アサーティブネスとは、相手を本質的に信頼することからのみ始まる行為でありコミュニケーションなのだと思う。
むしろ、もし私が自分の正直な気持ちを伝えず、姉の口先介入に我慢し続けていったらどうなるだろう。
きっと誰の心も幸せにならないどころかみんな不幸になったと思う。
ただこれは私の立場に立ったものしか実感できない心の長期予報だ。
たまたま一昨年、代々木の飲み仲間の女性から秘密の出来事を明かされたことがあった。彼女はイギリス系の通信会社に勤めるキャリアで、二人姉妹の姉が八王子で高齢の両親と同居し生活の見守りだけでなく家業の経営を引き継いでいた。その姉が自殺したというのだ。
飲み友達である妹の方は私より5歳ほど若く、ずうっとイギリスで暮らしていたがイギリス人の恋人とともに帰国し外資系を渡り歩く高給取りになった。八王子の実家には月一くらいで顔出ししていたそうだ。ところが姉は何でもかんでも耐えて自分で頑張るタイプだったのだろう。妹は実家のことは姉に任せっきりだった。姉の自殺後、妹は会社をやめて実家に戻って両親と同居し姉がしていたことを代わってするようになって、その心理的な過酷さを初めて実感したと言っていた。
私の場合、両親との同居生活が限界に来たらそれ相応の方法を考えると宣言しているから、彼女の姉のようになる心配はない。その立場の苦労というのは何も言わずに周りに分かってもらおうというのは無理だし、分かってもらうべく説明したり、助けてもらいたいこと配慮してもらいたいことは、頑張っている者が周りに注文をつけてしかるべきなのだ。限界的な心理状況ならなおさらのこと耐えられないことは耐えられないと。
姉に自殺されてしまった飲み友達はショックだった。
どのようなショックかよく分からないが、おそらく姉を助けなかった自分を責めもしただろうが、逆に助けようにも助けを求められなかった自分が姉に信頼されていなかったということも大きいのではないか。
「言わなくても分かってくれるだろう」という自分が傷つかないように済ます逃げ口上は、アサーティブネスではない。
それは自分の気持ちに都合がいいように相手を断じているに過ぎない。
相手を本質的に信じていないということである。
それは、自分にとっても相手にとっても最終的には良い結末を導かないと思う。
私が見てきた「企業社会の経営陣から平社員まで様々な縦横のレイヤーで起こっている諸問題やそれについての議論や対応」は、これとまったく同じ「本音では相手は信用しないで相手を断じる」ことであったと思う。
そして経営危機に陥りその起死回生をはかれないでいる会社の場合、これと並行して、「言ってもどうせ駄目だからと言わない」行動様式や、「お互いの縄張りを相互不干渉とすることをもって自己責任と正当化する」思考形式を定着させ、結局は企業の組織全体で創造性を発揮してきた創業以来の風土と文化を根絶やしにしてしまった。
もし今回の研修の少ない受講者が、自分たちの会社や職場について、
① 何が起こっているのか?
② それについて自分はどう感じているのか?
③ どのような具体的変化を望むのか?
の三つの質問を問うべく、社員同士がアサーティブに向き合うことの必要性を感じ取ってくれたとしたら私はとても嬉しい。
これは、会社やビジネスに限らぬ、すべての人間関係や人間社会における道理だから、彼らはいろいろなことで周囲の人々とともに成長していけるだろう。
是非、いつか仕事でも趣味でも生活でも何かのことで私も仲間に入れてもらって、ともに成長していけたら幸せだ。
そういえば、私が上京する前日、姉夫婦が帰路につく前日、私と姉夫婦と母の4人で食事をした時にこんなことがあった。
とるに足らない話だと思っていたのだが、ここからあの共時性の発現、意味ある偶然が始ったのかも知れない。
両親を週1ペースで昼食に連れて行っている割烹で会食した。
糖尿で血圧も心配な母はいつも食前に薬を飲むのだが、開店して4年ずうっと通っていてる母には言わなくても薬用の水が出て来る。先日大将と話をしたら、店舗併用住宅の3階に高齢のご両親を住まわせているということで、いろいろ年寄りには気を使ってしまうのだそうだ。
食事を終える頃、やはり糖尿の姉が海老の天ぷらを一本残した。「誰か食べる?」と尋ねるので、先に食べ終わっていた私が「誰も食べないなら僕が食べようか」と言った。
なぜかここから不思議な展開となる。
母はいつものようにあっさりした「あじイカ丼」を食べ終えるところで、すでに満腹を訴えていた。老人には量が多いのだ。その母にまず姉は海老をすすめたが、母は要らないと言う。次に夫にすすめたが、彼も満腹だと断る。すると海老を半分にして母にすすめ、母はしぶしぶ食べた。母にしてみれば毎週きているのだから食べたい時はいつでも食べれるのだ。糖尿の姉が残した海老を糖尿で満腹の母が食べることになった。
そして残る半分を再度夫にすすめた。が、彼は再度断る。すると姉は、半分の海老をご飯を残していた茶碗に入れてちゃっちゃっと混ぜた。それをようやく最後に私に振ってくる様子なので、ご飯まで食べるつもりのなかった私は、すでに以上の不可思議な展開に食欲が失せていたこともあって、「海老もご飯も要らない」ときっぱり言った。
すると姉は「せっかくあなたのために海老を残してあげたのに」と言った。そして再々度夫に「だったらあなた食べて」と言い。義兄は断り切れないものを感じたのだろう、慌てて割り箸を落しながら茶碗を受け取り、姉から借りた箸で中身を勢いよくかき込んだ。
気がつけば、姉も義兄も、母も私もみな居心地の悪さを感じていた。
いったい海老の一本、いや半分で何が起こったのだろうか?
① 何が起こっているのか?
② それについて自分はどう感じているのか?
③ どのような具体的変化を望むのか?
ちなみに、食事代はすべて母が支払った。
また、姉はパリに3軒も家作をもって優雅に暮らしていて、食い意地がはっている人ではない。
そもそも残った海老一本は姉が食べたかった訳ではなく、私に言ったように「わざわざ残して上げた」ものではない、単なる残り物だった筈だ。
私は、姉の場を仕切りたがる性格や、自分でも反省を口にするその場で感情的に優位に立つことにこだわってしまう性向の現れかとも思った。
しかし、残り物の海老一本ないし半分で仕切れるような場もなかったし、優位に立てるような感情もありえない。少なくとも私はそう思う。
このどう理解していいか分からない出来事を、私は上京して仕事にかまけていたこともあって不思議のままにしておいた。
しかし今、映画「ヒカリサス海、ボクノ船」を振り返り、「それでも話し始めよう」のアサーティブネスの主旨を踏まえると、還暦を遠に過ぎた人生の達人の姉にも、家族に言えないできた某かの気持ちがある可能性も否定できないと感じられる。
姉がその場その場の私の気持ちのすべてを私の説明なしでは分からなかったように、
私もあの場の姉の気持ちのすべてを姉の説明なしでは分からないのである。
出張から帰ってしばらくしてから母が思い出して私に話したのだが、私より一時間早く出発した姉は熱海までの伊豆急線の網棚に手提げ鞄を置き忘れたのだそうだ。幸い駅に届けられていて伊豆急が着払いで空港ホテルに送ってくれて事なきを得たという。
そういえば出発前の姉も不可思議だった。
私が客間の忘れ物を確認するとテーブルの上に2冊の本があり、忘れ物かも知れないので姉に尋ねると、姉はいきなり「あれが私の言ってたあの本よ」と本の説明を始めた。母の書棚から借りた本をそのままにしてあっただけなのだが、姉の応答は何かちぐはぐな感じがした。義兄の暇乞いもぎくしゃくしていた。姉が網棚に忘れ物をしたのはそれから一時間ほど後のことだ。
一連のちぐはぐな応答やぎくしゃくした感じは、別段気にならなかったが、今となっては映画「ヒカリサス海、ボクノ船」にでてきたヒロインとその両親の間の、アサーティブな伝え方のできないことによるアトモスフィアに通じるものなのか、との可能性も疑ってしまう。
本音ではこだわっているが、まるでこだわりなどないように振る舞っている、そんな類の「難しい課題」の存在を認めて、まさにアサーティブな対話を試みることは、じつはどんな家族にとっても、そしてどんな職場や組織にとっても、お互いを信頼することで心を幸せにするために大切なことなのだろう。
きっと姉にとって大事なことが背景にあるならいずれ話してくれるだろう。
映画「ヒカリサス海、ボクノ船」には、一人のいじめられっ子の少年が登場し、心理的に重要な役割をしている。
この少年の関連では、元友達のいじめっ子のクラスメイト二人がでてくるだけで、彼の家族はでてこない。
家族以外の他者との社会関係についての表現内容を象徴的に担っていると思われるが、家族問題に悩むヒロインとそのボーイフレンドといじめられっ子の関わり方は、社会関係と家族関係がとてもデリケートにリンクする人生の構図を表現しているように感じた。
私は意識的には家族の一員としてのアイデンティティよりも、社会人としてのアイデンティティに依存している。姉はどうだろうか。
また意識がそうでも無意識は逆であるということが、私にも姉にもあるだろう。
両者の折り合いを意識でどうつけているかは人それぞれだし、無意識ではどうかとなれば本人さえも不確かだし制御しきれるものではない。
姉の不可思議なぎくしゃくした言動は、義兄という家族以外の他者を含む場面であったことを考えると、家族関係だけの問題が表出したというよりは、むしろ姉の家族としてのアイデンティティと社会人としてのアイデンティティの折り合いや、その意識と無意識の折り合いに関係するのかも知れない。場依存的であって、映画のヒロインとその両親のように場に関係なく日々の感情生活を継続的に支配している類ではないから、深刻で根の深いものではないとは思う。