部族人由来の原初的な「交易」の心性を探る(2:追記) |
本稿(1~2:追記)を加筆修正します。そして改めて(3)以下シリーズを続行します。)
「海と列島の中世」網野善彦著 日本エディタースクール出版部刊 発
「交易をふくむ非農業」は五感と直感を直結するなりわい
本項(2)をいったん終えたが、ここで書いておくのがいいのではないか、という仮説が残っていた。
まだ先の項で書けばいいかと思っていたが、朝起きるとなぜかその仮説を素型になぞる現代の話が、メールマガジンの記事のタイトルとして目に飛び込んで来た。
JMM [Japan Mail Media]
■ 『アン・ヨンヒの韓国レポート』 第236回
「日本の耳と韓国の目」
やはり、書き足すべきだ、と誰かに言われているように思った。
そこで追記することにした。
それは、なぜヤマト王権はカタカナという「口頭の世界」を専門に表現する文字を採用したか?に関連することである。
すでに述べたのはこういうことだった。
ヤマト王権にとって、神道を天皇という神聖王を中心に再編して支配することが最優先政策であり、そのためには「部族人的な心性」をとらえてきた歌謡性の言語活動を自らして操作しなければならない。しかもその際、ヤマト王権が渡来政権ではないという印象を確保し将来に向けて強化していかなければならない。
よって、表音文字は不可欠であり、しかも漢字の使用(万葉仮名)によらないで独自のものが創り出されて使われるようにしなければならなかった。それがカタカナである。
(参照:「『心性』=部族人的心性+社会人的心性(概念規定メモ)」)
渡来政権ができるまでは、日本列島にいたのは組織立った水稲耕作をしない人々がほとんだった。
おおざっぱに「交易をふくむ非農業」という表現を私はしたが、稲以外の作物をつくる農業者もいた。そのことにも追々触れていく。
おおざっぱに「交易をふくむ非農業」の人々とは、つまり狩猟をしたり皮をなめしたり、鉱石をとって鉄をつくったり、漁労をして獲れたものを日干しにしたり、塩をつくったり、それらを何らかの形で交易したりする人々、それに芸能者だ。前出の職人的な職能と芸能の境目ははっきりしなかった。
稲以外の作物は、稲のように税として納めたり貨幣の代替物になることはなく、当初から自給用と海山の産物との交換用としてあったのではないか。
ここで留意しておきたいことがある。
それは、
「交易をふくむ非農業」は、すべて五感と直感を直結することで営めるなりわいである
ということだ。
そう言える理由は、それらの営みが生な自然と直接に格闘するものだからだ。
まず山での猟は進む大地の変化を体感し、獲物の気配や鳴き声を察知しなければ始らない。海での漁は進む海の変化を体感し、天候を予測し潮の流れや海の深さを察知しなければ始らない。
交易で陸上や海路を進むのも同様の察知が必要だ。
「生な自然と直接に格闘する」において「五感と直感の直結」が不可欠であるのは明らかだ。
交換の現場でも、交換する産物を手で触って品質を確認するのは勿論、交換レートの交渉において相手の表情や仕草、声のトーンでいろいろな可能性を察知しなければならない。
原初的な沈黙貿易では、おそらく共同体の部外者の存在を気配で察知して、むしろ出会わないようにした可能性もある。また、部族の長と長による祝祭的な交換は、ポトラッチなど五感をもって成り行きが見守られた筈だ。素朴な歌が歌われ踊りが踊られて異なる共同体の間に共感の交流と同期が目指された。
交易はまた、戦闘や強奪と隣り合わせであり、その予兆につねに敏感になっていていち早く察知する必要があった。
以上の事柄はみな、人間のもつ自然である他者の「部族人的な心性」を、「五感と直感の直結」によって察知することの不可欠性を示している。
一方、稲作はどうか。
稲作でも、五感を使い、直感も使う。
田の状態を足で感じ、空気の質感を肌で感じて天候を予測し作業をした筈だ。
しかし、渡来政権のもたらした集団農法は、大枠としては暦を用いた体系立った計画に基づくいとなみであった。
稲作民が日常的に対応する自然は、水路を引いて幾度も耕された田という、人工をへた大人しいものである。猟や漁、鉱石の採掘や塩づくりのように、あるいは陸上や海上を移動する交易のように直接的に生の自然に対応する訳ではない。
この点、稲作以外の農業も、山間部の焼き畑など山の厳しい自然と呼応するいとなみであって、直接的に生の自然に対応する部類に入ると言えよう。
稲作は、つねに視覚と理性を直結することで営めるなりわい
だと言える。
「視覚と理性を直結すること」は、近代主義の特徴でもある。だからと言って、私は稲作が近代的だというつもりはないが、「交易をふくむ非農業」が「五感と直感を直結すること」で営めるなりわいであることに対比してそう言えるのは明白だ。
そして天皇制朝廷は、「五感と直感を直結することで営めるなりわい」を支配するためにも、「歌謡性をとらえる日本列島独自の表音文字」が必要であったのだと思う。
私が言いたいのは、
まず「口頭の世界」を表現するに専用のカタカナの採用は、天皇制朝廷が「口頭の世界」に対する聴覚支配を重視したということであり、
その「口頭の世界」には、一筋縄ではいかない支配対象として「交易をふくむ非農業」も含まれたということなのである。
「口頭の世界」とは、発声して聞こえる範囲でコミュニケーションが成立することが前提になっている。つまり、場で人と人が相対しての交流だ。
そこには視覚はもちろん、嗅覚、触覚、味覚も動因された。
書面による文字のやり取りはいわばヴァーチャルであり、それではなく相対でこそリアルに確認できる重要な事柄がある。さらに、相対すれば今度は、視覚に惑わされない直感を働かせるべく聴覚や嗅覚をフルに発揮するのは、今も私たちがしているコミュニケーション手段の選択である。
先日、NHKのテレビ番組で成長著しいインド企業がアメリカで活躍する印僑CEOをヘッドハンティングするシーンをみた。ヘッドハンターがメールでやり取りしアポイントをとり、シンガポールとニューヨークでテレビ会議をして、インド企業の会長とターゲットを引き合わせ三人で話し合いをした。会長は相手と眼を見合って話さなければ信頼し合えないと言っていた。テレビ会議は、遠隔地とのコミュニケーションに相対の重要要素を汲み取ろうとしている。
そして、一般論としてこういうことも考えられる。
支配者は、稲作の体系だった集団農法を、武力のようなハードな圧力によって被支配民に強要し一元的に管理することはできる。
しかし、「交易をふくむ非農業」のいとなみは、あまりにも多岐にわたりかつ多様で、それはできない。どうしても被支配民の主体性に委ねるしかない部分がいとなみの中核にある。これを支配管理しなければ国は成立しない。
そこで初めて、神聖王が武力ではない、象徴的価値をめぐるソフトな圧力をもってする支配管理の方法論が必要となったのだ。
この文脈において、網野氏は本書で、いかに天皇が「交易をふくむ非農業」を支配管理していたかを解説している。
その具体的な検討を次項(3)からしていきたい。
本項(2 追記)は、以下、冒頭紹介のメールマガジン記事の内容を紹介し検討して終えることにしたい。
日本で小中高校に通った経験のある、日本語関係の仕事をしている韓国人による記事だ。
日本留学経験のある先生が、日本の「ジャパネットたかた」のテレビ通販が大好きでいつも見ていたという話だ。
そこでこう記している。
「日本のテレビ通販は、高田社長に代表されるように商品の中身を紹介する言葉が大事。商品の性能を述べるだけでなく、それと一見繋がりのなさそうな家族関係や環境問題などの話をすることで、購買意欲をそそる。最後には金利手数料などをカットすることでさらに購買意欲を高める。
それに比べ、韓国の通販は、どんな商品であれ、とにかくナイスボディのきれいな女性が大事。それもかなり露出度の高い衣装を着ることだ。
日本の視聴者は「聴覚」から、そして韓国の視聴者は「視覚」から購買意欲が湧いてくるのだろうか」
私たち日本人は、自分たちのことを客観視することはできない。
しかし韓国人が自分たちと比較してみる日本人像は、客観的である。
そして韓国人によるメールマガジン記事は、「口頭の世界」を重視したコミュニケーションを私たち日本人は現在でも尊重している、というのである。
IT社会の進展によって相対で人と対話するシーンが激減した。
その分、テレビ通販などのメディアを介したコミュニケーションにおいて、
日本人の場合、「口頭の世界」の影響力が潜在的に高まっている
と考えられる。
その実際は私たちの想像を越えているようだ。
標準化するグローバルなコミュニケーション・スタイルにおいては、言語の壁を超えてどこの誰が見ても一目瞭然である低コンテキストの「可視の世界」が蔓延しているし、それが起点となっている。
しかし、それは必ずしも世界の人々がそれを重視し尊重していることと同義ではない。
むしろ無意識的には「不可視の世界」を重視し尊重している可能性は高い。
映画の音楽や効果音の効果を持ち出すまでもない。ただ、映画や音楽のもつ「口頭の世界」を含めた「歌謡性」の世界が、それも言語の壁を超えて、時に高コンテクストの「不可視の世界」をも伝えたり受け取ることの重要性が現代ほど高まっている時代はない。
たとえば、9.11のワールドトレードセンターの映像は繰り返し映されている間にその訴求力は減衰した。それは映像が記号化してしまうということだと思う。しかし、被害者や目撃者の証言の映像で、彼らの肉声を聴くと英語の分からない者にも胸に迫るものがある。
つまり、肉声の記録は記号化せず、いつまでも固有のリアリティを保つ。
また、記号化した映像は、誰がみてもそれと分かる内容、つまり低コンテクストである。
一方、肉声の記録は、それを聞く人によって異なる受け取り方を生じたり、時代を経るとそれまでにはなかった受け取り方を生じたりする、そんな高コンテクストであることも、現代的な重要性がある。
たとえば、高度成長期の白黒のニュース映画のナレーションを聴くと、今と同じ標準語を話しているにも拘らず、ナレーターの個人差を超えた共通性としてその時代の「らしさ」を感じ取る。それは具体的にこういう感じだと曰く言いがたい「不可視の世界」だ。
おそらく、世界の環境破壊の状況を伝えてそれを人類全体に有効なメッセージとするのにも、そこで暮らす人々の表情と肉声をこそ伝えるべきなのだ。
「日本型の集団独創」は、場で相対する対話を尊重してきた。
今後はそれができない状況が拡大するグローバル社会において、場で相対して対話するに匹敵する以上の「日本型の集団独創の方法論」に現代化していかなければならない。
そのためには、この「口頭の世界」、高コンテキストの「不可視の世界」を察知する聴覚の活用が鍵になると考えられる。
そういえば、先日、ホッピーをつくっている会社の女性副社長(オーナー経営者の娘さん)が、報告・連絡・相談のコミュニケーションにヴォイスメールを活用しているのを、テレビのレポート番組で見かけた。
彼女曰く、「緊急事態が発生しました」とメールが来るだけだと、どの程度の緊急事態か分からないが、ヴォイスメールだと声の緊張感からそれが察知できる、という。
視覚と理性を直結して事足れりとしがちな男性にはない、女性ならではの気づきだと思った。
その会社では、欧米のヴォイスメールの使い方のように、メールの時はメール、電話の時は電話、ヴォイスメールの時はそれと分けて使うのではない。
いわば見出しというかさわりの所だけヴォイスメールで伝えたり受け取って、感じ取った緊急度合いによってメールしたり電話したり相対で話したりするのだ。
そんなやり方を便利だと思うのは、私たち日本人だけかも知れない。
なぜなら、見出しというかさわりのヴォイスメールの発声で何かを察知できる、とする意識とそのことについての感受性が前提になるからだ。
メルマガ記事のように視覚を起点とするという韓国人の場合は、伝達時の本人の、緊急事態に差し迫った表情の写真をメールに添付する方がいいのだろうか。
いな、表情はつくれるが、声はつくれない、などとと私は思ってしまう。
しかしだ、日常的な暮らしにおいてそのように思い感じているのも日本人だけなのかも知れないのだ。
ここは、やはり韓国人に実際に聞いてみるしかない。
このことは、呉善花氏(韓国から日本に帰化)が引用している角田教授の「母音主義の日本語を母国語とする日本人の場合、情緒をも言語脳優位でとらえる」という論にも関わってくる。
虫の鳴き声を雑音ではなくて有意味音ととらえる、そんな感受性が必要なのかもしれないからだ。
また、
家康パラダイムの知識創造は「文書主義」「典籍知識重視」であった
のに対して、
信長パラダイムの知識創造は「実験主義」「実践知識重視」であった
ことにも、
「場で相対するリアルなコミュニケーション」と「口頭の世界」の問題は重なってくる。