「尊厳あるセーフティネット経済枠」という捉え方 |
という捉え方を出張先のホテルでテレビを見ていて思いついた。
ただただ自由主義と市場経済でやっていっては、基本的人権の確保された自由も、最大多数の最大幸福に貢献する市場ももはや立ち行かなくなる、そんな生活領域がある。決してそうさせていはいけない、そんな生活領域がある。
これを充実して確保する経済領域を「尊厳あるセーフティネット経済枠」と呼ぼう!!
世界レベルの「尊厳あるセーフティネット経済枠」は、大上段な話になるが、
「尊厳ある環境保全省資源経済枠」であり、
「尊厳あるフェアトレード経済枠」である。
「尊厳ある」とわざわざ形容句を付けたのは、CO2など数値化目標を設定し排出権ビジネスなどやり繰りしてでもどうにかクリヤーする、それも大切でやらなければならないことだが、世界には売れる排出権も無くただただ環境悪化を野放しにするしかない国々もある。そこでは、貧困な人々の生命が危機に瀕している。科学や数値の問題としてとらえ具体的なソリューションを工夫することも大切だが、南北問題はまず北側先進国の道義上の問題として念頭に置くべきだろう。つまり、私たち北側先進国の人間が自国の経済発展にばかり目を向けたツケが南北問題という負の産物であり、これに目をつむるとしたら、それは私たち自身の尊厳を犠牲にしていることになるのである。
フェアトレードも、経済的な余裕のある国の国民が余裕のない国の国民の生活や仕事を守ろうとしてする段階はすでに遠い昔の話だ。冷戦終結以降、かつて経済的な余裕のあった旧西側先進国の国民の生活が過酷になったり仕事が奪われたりして、世界を席巻したアメリカ型グローバリズムの自由放任こそが諸悪の根源とみなされている。
(フェアトレードは輸入取引の問題だったが、最近は中国による資源ゴミの買い占めに日本の自治体が応じて資源リサイクルが破綻寸前になっているなど輸出取引の問題ともなっている。自治体が自国の首を締めてまで財政向上を図っている訳だが本末転倒の誹りは免れまい。)
ただし本記事で私が主張したいのは、この大上段の世界レベルの話ではなくて、その身近な縮小版のもっと切実な国レベルの話である。
国レベルの「尊厳あるセーフティネット経済枠」は、
「尊厳ある生存権確保経済枠」であり、
「尊厳ある雇用確保経済枠」であり、
「尊厳ある食糧自給経済枠」である。
国民生活の基本に関わる問題解決は、これまで中央省庁の<モノ割り縦割り>の行政に依存してきた。そのために、解決手法はすべて中央集権的に画一的で、道路や箱モノや天下り先機関ばかり作っての税金の無駄使いが横行し、けっして地方地域ごとのニーズとシーズの特性にきめ細かく対応する実効性の高いものではなかった。
地域に密着した地元最小単位の自治体において、<コト割り横ぐし>の行政施策を工夫して、地方徴税枠を大きくして地元裁量で立案実施した方がいいことが見えてきている。
さらに地元市民や地元企業は、行政に依存する受け身体質を脱却して、能動的なボランティア活動や寄付協力によって地元貢献することの意義と効果が期待されてきている。行政だと、どうしても定量的でシステマティックな対応をせざるを得ない、そこには限界がありそれだけに期待するという国民の姿勢も前向きとは言えないと反省されてきている。
たとえば「生存権」と言えば、科学的にかつ経済的に生きていて死なずに済むという、数値化可能な最低ラインに行政は対応を集中してしまう。特に中央省庁は、生活者がどのような気持ちで暮らすかなど全くおかまい無しで、自分たち行政側にとって効率的なやり方を考えてばかりだ。
こうした現状が、もし地元最小単位の自治体において、「雇用」についても「食糧自給」についても生活者が尊厳をもって暮らすことができるように、その地域の特性に応じた<コト割り横ぐし>の行政施策を工夫して、かつそこに地元市民のボランティア活動と地元企業の寄付協力を招き入れる恊働体制をつくっていけば、いろいろな手法で「尊厳ある生存権」「尊厳ある雇用確保」「尊厳ある食糧自給」をしていけると思うのだ。
図式的な例解を試みてみよう。
たとえば今、米や小麦の自給率が落ちしかも世界市場で価格が高騰している。
そこで蕎麦の産地の山あいの過疎地であれば、蕎麦の生産拡大と地元消費を地域の「尊厳あるセーフティネット経済枠」とする。
この場合、「尊厳ある食糧自給」は蕎麦の生産と消費であり、「尊厳ある雇用確保」は蕎麦生産と蕎麦消費の拡大政策による雇用の創出であり、「尊厳ある生存権」は蕎麦の文化を観光化したり伝統継承を教育化したりして多様な生き甲斐や働きがいを生み出すということである。
こういう官民一体となった<コト割り横ぐし>の「尊厳あるセーフティネットづくり」は、地元最小単位の地域社会や地方でこそ求められまた有意義かつ有効な具体化ができるものだ。中央省庁による全国一律の補助金縦割り行政では発想さえできない。
蕎麦ばかり食べて生きて行くことはできない、と突っ込みが入りそうだ。
しかし、一村一品運動のようにテーマ産品の異なる自治体が全国展開すれば、非常時が続いても栄養バランスを保って健康的に生きられる「食の国家安全保障体制」という「尊厳あるセーフティネット経済枠」が整う筈である。
郷里のある方は、地元の産物や地元の文化や観光の資源を思えば、◯◯の生産と消費による食糧自給策、その拡大政策による雇用の創出、◯◯絡みの文化を観光化したり伝統継承を教育化することによる多様な生き甲斐や働きがいを生み出す<コト割り横ぐし>の具体的アイデアが自然と湧いてくるのではないか。
全国にこうした「一村一品」的な「尊厳あるセーフティネット経済枠」を創出発展させる地域地方が展開していけば、それらがネットワークすることで、まずは全国民が飢えずに済む生産と消費の体制ができる。国家の安全保障という観点からは、生産体制の確保も大切だが、どのように粗食に耐えるかの消費体制の確保も大切だ。贅沢なグルメな食事を前提に食糧自給を考えることも大切かも知れないが、それは国家安全保障という国民生活の基本問題とは言えまい。(じつは日本人にとっての食糧としてのクジラも、国家安全保障上の戦略的な食糧自給策であり生産も消費も絶やすことができないことを、政府は食の文化論などを言う前に明言すべきだったのではないか。)
いま「一村一品」というたとえで「産品=モノ」の例解をまずした。
さらに「一拠点一サービス」というたとえで「サービス=コト」の例解をすることもできる。
「尊厳あるセーフティネット経済枠」として捉えるべきサービスには、
少子化対応の出産支援
無料の義務教育
高齢化対応の介護医療
などがある。
出産が安心してできない国、貧富の差に関係なく義務教育が受けられない国、安心して歳をとれない国になったら終わりだが、いまの日本はどうみても終わりに近づいている。
しかし場所によっては自然環境豊かな過疎地を「リゾート感覚の安心出産サービス拠点」や「定住型の安心介護医療拠点」にできるところもあるのではないか。
雇用が確保されさえすれば、自然環境豊かな過疎地で子供に無料の義務教育を受けさせたいと望む若い親御さんは多く、またそういう望みに対応してでも人口を増やしたい過疎地もあるのではないか。
私は、ニーズとシーズのマッチングを中央集権の画一的な<モノ割り縦割り>行政が邪魔しているだけなのではないかと見ている。
その霞ヶ関の邪魔が無くなりそれを許してきた国民と企業の常識が転換すれば、<コト割り横ぐし>手法はユニークな形で自然発生してくると見ている。
地元最小単位の自治体は、それぞれの地域や地方の事情と資源と需要の特性を踏まえて、行政と民間活力と市民ボランティアが恊働して魅力ある「産品=モノ」と「サービス=コト」を<コト割り横ぐし>でネットワークさせて、多様で多角的な「尊厳あるセーフティネット経済枠」を創出し発展させていく。
私にはこうした地域の自立と活性化の手法を地元自治体と地元市民と地元企業が三位一体になって展開することが有効であり求められていると思えてならない。
「地域通貨」も「尊厳あるセーフティネット経済枠」との相乗効果ある連携を図るべき主要な方策となると思う。
ある産品の生産と消費、あるサービスの提供と利用が何をもってして「尊厳あるセーフティネット経済枠」に入ると規定するかは十分議論しなければならないが、それらを一まとめにネットワークして人と情報とお金とモノが効率よく流れるようにするに越した事はない筈だと思うが、いかがだろうか。
私は、地域ごと地方ごとに意義ある形で特徴をもった「尊厳あるセーフティネット経済枠」の体制づくりと運営管理を「地方自治の精神を象徴する財政制度」化してはどうかと思う。
現行の<モノ割り縦割り>の部門財政に対してもう一部門を(国の消費者庁のように)追加するのではなくて、こちらは部門横断の<コト割り横ぐし>で総合財政をマネジメントするという考え方だ。
首長と議会は、「自治体レベルの特定財政領域」として「尊厳あるセーフティネット経済枠」をどのように規定するかを条例にし、各縦割り予算の中で条例に定められた割合で確保されることを確認するとともに、部門ごとの使い勝手と部門相互の恊働連携の有り方を審議し、さらに成果の有効性について調査し改善政策を打ち出するものとする。
このようなことが国民生活に密着した地元最小単位の地域や地方で行われることで、中央省庁の<モノ割り縦割り>の紐付き利権行政をストップさせることができる。経済単位が小さい地元の具体的な事柄であれば一般的な市民や地元企業の目が行き届くからだ。
そして、ほんとうに地元生活に密着した必要不可欠な道路ならば「尊厳あるセーフティネット経済枠」の道路づくりとして、矢祭町のように地元市民や地元企業の労働力提供や土地賃貸提供など受けて質実剛健な形で展開されるのではないか。
日本では、企業や個人による寄付に税制優遇がないことがその総額を著しく限界づけている。これを抜本的に改めるべきだ。
私は、地元企業や地元市民が地元の特定テーマ案件に寄付した場合地方税を優遇するのは勿論だが、たとえば東京の企業や都民が特定の地方地域の特定テーマ案件に寄付した場合都税と国税を優遇する、その際発生する優遇コストを都と国ではなくて寄付を受けた自治体が負担すればいいと思う。もらったお金の一部を渡せばいいのだ。
私としては「ふるさと税」よりもいいアイデアだと思っている。
税を追加してしかも不公平に取り立てる「ふるさと税」に対して、自主的に寄付をした人だけにそれに見合った公平な優遇措置をするアイデアの方が国民の能動性を尊重している。国にもっていかれてどう使われるか心配するよりも、地方の特定案件に対して寄付してくれた人や会社の税金をまけてあげる方が安心だ。
今回は、抽象的内容の提案となりましたがご容赦ください。/