日本文化を特徴づけてきた「日本型の集団独創」の社会構成主義的位置づけ |
本書の第四章「社会構成主義の地平」は、西欧のモダニズム、そして欧米のグローバリズムを推進する重要な手立てである「実証研究」について、その批判すべきポイントを分かり易く解説している。
日本文化を特徴づけてきた「日本型の集団独創」は、この「実証研究」の対極にあってそれを補完する働きをもっている。
そこにこそその本来性と現代的意義がある。
(言うまでもないことだが、何も日本人が集まって対話すれば自動的に「日本型の集団独創」が生まれる訳ではない。)
「日本型の集団独創」は、世界がモダニズムに呪縛される以前からずっと息づいていた、モダニズムよりも奥深い次元での普遍性をもつ。
それはモダニズムやグローバリズムが切り捨てたり取りこぼして来た「もう一つの普遍性」と言っていいだろう。
パラダイム転換発想を求めてグループでブレインストーミングしたりディスカッションすることにおいて、それがどのような事柄と関連するかも検討したい。
優れた実証研究とみなされるための五つの基準、
そしてそれに対する社会構成主義からの反論
クールであること
「優れた実証研究とは、世界をありのままに写しとるものだと考えられています(筆者注:ということは世界の現実と過去の事実を主に対象とし、理想や可能性を対象としにくいことに留意)。(中略)
研究者が研究対象に対して特別な感情を抱いていたり、特別な倫理的・政治的な動機をもっていたり、宗教的な思い入れをもっていたりすれば、その研究者は疑いの目を向けられることになります。
研究者は、自己と対象との間に一定の距離をおき、常にクールでなければならないのです」
これは研究者のことを述べているが、「実証研究」的態度は、ビジネスパーソンがビジネスを合理的に思考する態度でもあることを、最初に確認しておきたい。
よって、「実証研究」に対する社会構成主義からの批判は、合理的思考によってのみビジネスを構築し展開する機械論的組織への批判にそのまま当てはまる。
よって、以下のように「研究者」を「ビジネスパーソン」に置き換えて読むことができる。
「研究者が何の理由もなく、研究を行うことはめったにない。研究者は、何らかの理想をもっているはずだし、何らかの利益のために研究を行っているはずだ。
こうした研究者(筆者注=ビジネスパーソン)の理想や利害は、問題を定式化する言葉や、対象の行動の記述など、あらゆる点で研究(筆者注=ビジネス)の中に入り込んでくる。(中略)
たとえはっきりと目に見えなくても、科学的な説明(筆者注=合理的な事業計画)は、よかれあしかれ社会(筆者注=ステークホルダー)に大きな影響をもたらすものだ(筆者注:つまりいい影響ばかりではない)。
ところが、価値中立性という覆いによって、研究者(筆者注=ビジネスパーソン)はそのことに鈍感になってしまう。
また、研究者(筆者注=ビジネスパーソン)があくまでクールであろうとすることによって、社会にどんな影響がもたらされるか考えてみてほしい。
研究者(筆者注=ビジネスパーソン)は、私たちがお互いを最もよく知ることができるのは、お互いにクールで、一定の距離をおいている時だという。これは果たして、日常の人間関係のよいモデルといえるのだろうか」
状況の統制
「ほとんどの実証研究は、『原因/結果モデル』(筆者注=因果律)-----あらゆるできごとは、それに先行する原因があるというモデル-----にもとづいています。(中略)
したがって、優れた研究プログラム(筆者注=経営戦略)とは、ある行為を生み出す特定の状況を正確に説明するものということになります。説明が正確なものか、あるいはそうでないかは、研究者(筆者注=ビジネスパーソン)が先行する状況をコントロールすることができるかどうか(筆者注=経営実績)を見れば分かります。
また、研究者(筆者注=ビジネスパーソン)は、先行する状況をコントロール(筆者注=経営管理)することによって、組織的に状況を変化させたり、結果の多様性を確認したりすることができます。
このように組織的に状況をコントロールし、結果を観察することは、実証研究(筆者注=合理的なビジネス思考)の基本です」
これに対する社会構成主義からの批判はこうだ。
「『原因/結果』という考え方は、そもそも社会的に構成されたものだ。
『原因』や『結果』というものが、自然に存在しているわけではない。
それらは、観察されたものの中に『読み取られる』のだ。
同様に世界(筆者注:ex.マーケティング&マネジメントの対象)を『できごと』(筆者注:ex.環境)と『刺激』(筆者注:ex.動機)と『行為』(筆者注:ex.競争)などに区分することも、アプリオリな決定である。それは、ありのままの世界に見出されるものではなく、私たちが理解するためにあてはめている枠組みなのだ」
ビジネスに即して言えば、マーケティングの3Pとか4Pとか学ばなくても古来人々は商売をしてきた。古に遡れば遡るほど商売という営みは現代では分別されている多様な要素や側面、たとえば遊びや儀礼、芸能や技術などなどが渾然一体のものであった。
「このようなアプリオリな決定が社会にもたらす影響は、決して中立的なものではありえない。
『原因/結果』モデルが真実として受け入れられるようになれば、人間が自ら行為するという人間主義的な考え方は、跡形もなく消えてしまう。
人間は、単なるロボットと同じ-----すなわち、本質的な価値も、創造的な思考力ももたないもの-----になってしまう」
(筆者注:「アプリオリな」とは、「経験なくして、あるいは論証や実証なくして明らかとされる」という意。)
観察された結果を数字に変換すること
「実証主義の研究者の多くは、観察のニュアンスを捉えるのに、言語は適当ではないと考えています。
実験結果を数字や数式に変換することができれば、それはより正確なものになるはずだと彼らは考えます。(中略)
数字は、記述のための最も中立的な言語の代表格です。数字は理論的な言葉と違い、『よい/悪い』などの微妙な意味を含みません。
最も重要なのは、観察された結果を数字に変換することによって、洗練された分析が可能になるということです。
統計的手法を用いれば、『原因/結果---連関』の強さや信頼性を、確信をもって判断できると考えられています。
またその結果にもとづいて、未来を予測することも(筆者注:それが理想かどうかは別問題として)可能になると信じられています」
これに対する社会構成主義からの批判はこうだ。
「記述言語を数字に置き換えたからといって、それがより正確であるとはいえない。
数字が、言葉や音楽や絵画よりも、世界を写しとるのに適しているというわけではない。それらはどれも解釈装置なのだ。
その上、数字という解釈装置は、しばしば私たちが『価値がある』あるいは『重要である』と考えるもの(筆者注:言葉使いの4つの概念要素の内の<コトの意味>や<コトの感覚>)を捨象してしまうことになる」
「統計で用いられる言語は専門家の言語であり、専門家が巧妙に不正な用い方をすることも可能である。
このような言語を用いて、『これが真実だ』という宣言がなされてしまうと、専門的知識をもたない人々は沈黙せざるをえなくなる。(中略)
つまり、統計は人々を黙らせる装置ともなりうるのだ」
以上は、「統計」について述べていることである。
「統計」とは、数字という言語による機械論的な解釈装置であると言える。
コンセプト思考術では、人を含む対象をモノ化してとらえる機械論的な制度やシステムも<モノの機能>に含めている。だから<モノの機能>には、ITエキスパートの専門知識体系や、総理大臣がパンフレットを読んでも分からなかったという役人が立案した後期高齢者医療制度なども含まれる。
それらは、送り手側の専門家以外の人々を黙らせる装置ともなっている、という点で「統計」と同様の解釈装置であり同様のコミュニケーション効果をもつ。
唯一絶対の正しい答えを導き出すこと
「実証研究では、客観的な世界の存在が無条件に前提にされているため、どんな問題についても唯一絶対の正しい答えを明らかにすることが目標とされます。(中略)
したがって、研究者にとっての議題は、競合し合う主張を吟味し、どれが本当に正しいのかを決定することになります」
研究者の実証研究の姿勢は、そのままビジネスパーソンや合理的なビジネス思考や、役人の官僚的な政策思考に通底していることはすでに述べた。
ここで気づいて欲しいことは、彼らとの議論において、彼らは自分たちの進めるA案に対して、それとは異なるB案の対立を前提に、二者択一の競争をする。しかし多くの場合、本質的な対立は、A案だけを進めようとする主流派と、A案だけではなくB案も併行して両者を適宜に選択したりバランスさせようという主流派以外の人々の対立だったりする。
象徴的な政策問題としては夫婦別姓の可不可、ビジネス課題としては<モノ割り縦割り>の経営戦略と<コト割り横ぐし>の経営戦略の採用不採用、などである。
結果的に、A案を進める主流派が、A案以外の選択肢も容認しようとする反主流派の発言を圧殺したり無視軽視する政治力で動きが収束することが多い。
これに対する社会構成主義からの批判はこうだ。
「世界の本質なるものを写しとる、唯一の正しい言葉やグラフ、あるいは画像などは存在しない。
いずれも構成されたものであり、科学的に見ても、社会的な価値という点から見ても、可能性と限界の両方を有している。
したがって、その中の一つだけを採用して、残りすべてを排除しようとするのは、大きな可能性をドブに捨てることと同じである。
最終的に研究者(筆者注=ビジネスパーソン、この場合経営者)の声が頂点に君臨する時、研究(筆者注=ビジネス、この場合事業)に携わってきた他の人々の声は、まったく聞こえなくなってしまうだろう」
<モノ割り縦割り>型の選択と集中の論は、数字やグラフという記述言語で正当化される。しかし、業界優位劣位こぞってそうした動きをすることが「レッドオーシャン市場」を形成させていて、これも同じ記述言語で語れるのだがそれは後回しにされるか不問にふされる。
それは合理的なことではなくて、あくまで政治的なことだ。
実践から独立した事実
「基礎的なプロセスを説明し、特定の歴史や文化の枠を超えた重要性をもつ普遍的な理論を社会に提供することが、最終的な目標になります(筆者注=アメリカ型のグローバリズム)。
したがって、非常に限定された実践についての研究には、科学的に見てそれほど価値があるとはいえません。なぜなら、そうした研究には一般性がないからです」
これに対する社会構成主義からの批判はこうだ。
「どれだけデータを収集しても、そのデータは決してある理論が正しいかどうかを証明することができない。何がデータとみなされるか、どんなデータが信頼できるものであるかが、アプリオリな解釈によって決定されているからである」
このことはビジネスの世界では、ベンチマーキングの限界の話に相当する。何をしてベンチマークにするか、にベンチマーキングの成果は限界づけられてしまう。
新しい期待や満足の概念とその指標を生み出す事はないのだ。
「さらに、その解釈は特定の共同体の内部で行われているため、普遍的な真実を生み出そうとする欲望は、文化帝国主義-----『私にとっての真実が、すべての者にとっての真実である』-----を引き起こすことになる。(中略)
理論というものは、研究者(筆者注=ビジネスパーソン)の共同体の中で展開されてきたものである。つまり、理論は、研究者(筆者注=ビジネスパーソン)の生活形式においてはじめて意味をもつのであって、研究者共同体(筆者注=企業組織や官僚組織)の外側でも同様に意味をもつかどうかは疑問である。
抽象的な理論そのものから、どの状況にその理論をあてはめればよいかを導くことはできない」
ナレッジマネジメントや知識創造という名の専門世界において「日本型の集団独創」は重要テーマとされていない。一般性を見出さないと思われているからだ。確かに、これまでは日本人の共同体の中だけで通用する暗黙知ないしは身体知とされ、明示知として体系化することを怠ってきた謗りは免れない。
しかし私は、明示知として体系化し、さらに日本型だけでなく、欧米型と中国型を構成的に活用することで、現代的かつグローカルな一般性をもたせることは可能であり、有意義だと考えている。
ここで留意しておきたいのは、著者が実証研究をすべて否定している訳ではなく、それだけを金科玉条のごとく使ってすべてを処理することを批判していることだ。
「社会構成主義は、どんな伝統や生き方にも、一定の価値と理解可能性があると考えます。
もちろん、実証主義も例外ではありません」
「抽象的な理論用語ばかりの議論は、無味乾燥でわかりにくことがしばしばあります。
それに対して、実験の結果は力強く私たちに語りかけてきます。
実験結果は、ある問題について、『現実の生活に根ざした』言葉で考えることを可能にしてくれるのです」
「実証的手法を、社会に役立つような予測を生み出すために用いることもできるのです。
いくつかの点で人々の間に合意-----あるできごとを構成しているのは何か、さまざまな行為に対してどのようにラベルをつければよいかについての、あるいは道徳的・政治的な含意など-----が成り立っている場合に限っていえば、実証主義の伝統的手法は、私たちにとって役立つもの積極的に押し進めてられるべきものとなるのです。(中略)
この手法はまた、あるコミュニティにおいて心のケアがどの程度必要か、あるいは、ある教育プログラムが望ましい効果をもたらす可能性がどれくらいあるかを判断するために用いられることもあります」
著者はここで、
「伝統的な実証研究とは、科学の唯一絶対のあり方ではなく、可能性と限界の両方を併せ持つ多くの伝統の一つに過ぎないということが明らかになりました」
とした上で、新たな可能性を探る試みである「質的研究」について例解していく。
語り(ナラティブ)-----人々が生きている世界をつなぐ
「実証主義では、科学的言説が、ふだん私たちが使う『世俗的な』言語から区別され、専門家にしか分からない『神聖な』言説であると考えられています。
このような実証主義的研究に代わるものとして、より多くの人々の声を対話に加え、彼ら自身の語り(ナラティブ)を探求することによって、新たな理解を生み出す方法が模索されています」
それは、単に「科学的な」目的のために採用される手法に留まらない。
つまり、ビジネスの世界で言えば、マーケティング調査の統計をとるためのアンケートやモデルを見せてのモニタリングなどに留まるものではない。
「最近の研究では、『解放と共感----ナラティブを探求することによって、現状に対する代替案を生み出したり、他者をより身近に感じられるようになったりする-----という目的がより強調されています。
研究の関心は、狭い学問領域から、社会全体へと移っているのです」
私は、古来より日本文化を特徴づけてきた「日本型の集団独創」は、解放と共感を醸成する語り合い、つまりは独特な対話によって成立してきたと考える。
パラダイム転換発想のグループワークのブレインストーミングやディスカッションも、これを再現することができた時、メンバーにとってその営み自体が自己成長につながり、その成果は社会的にも有意義な一般の人々からも共感されるものとなっている。
「メアリー・ガーゲン(Mary Gergen)がジェンダーとナラティブの関係について行った研究は、解放に対する関心を示す一つのよい例です。メアリーは、企業や政府、大学のトップに占める男性と女性の割合が非常にアンバランスであることに関心をもち、この研究を行いました。(中略)
その結果、次のようなことが見出されました。
男性は、さまざまな言葉を用いて自らの人生について記述していたのですが、
メアリーには、それらの記述に人間らしい温かみを感じることができませんでした。
そこには、家族、友人、感情、自分自身の身体に対する関心がほとんど見られなかった
ためです」
パラダイム転換発想の演習グループと演習成果との関係には、いくつかの明らかな経験則がある。
その一つが、一般の人々から共感されない成果は、たとえ理屈が通っていても、「人間らしい温かみ」を感じられないということだ。
これは、情緒的な問題だが、頭で理解することと、心と身体で感じることの大きな違いという現実でもあり、けっして人と人のコミュニケーションにおいて蔑ろにできないものだ。
そして、「人間らしい温かみ」を感じられない成果を導くグループは、理屈を通すことばかりに終始して、その対話内容は、言葉使いの4つの概念要素の内の<モノの機能>に専念していて、せいぜいこれに<モノの感覚>が加わるものだ。<コトの意味>や<コトの感覚>は後付けであったり、抽象的なタイトルづけに過ぎないことが多い。
一方、「人間らしい温かみ」を感じられる成果を導くグループは、理屈を通すことは最後に行い、それまでの長い時間の対話内容は、話し言葉の4つの概念要素の内の特に<コトの感覚>を重視し、<コトの意味>を捉えてはまた<コトの感覚>にもどったり、それに相応しい<モノの感覚>や<モノの機能>を思い浮かべたりと偏りがない。
じつは、私個人の直観をいうと、このグループは両者のどちらになりそうか最初の印象で予測できる。そして予測は九割九分はずれない。
それは、前述のメアリー・ガーゲンの研究結果と一致するものだ。
男性原理だけが強いグループは、たとえ理屈が通っていても、「人間らしい温かみ」を感じられない成果に終わりがちで、
女性原理も男性原理もバランスよいグループは、「人間らしい温かみ」を感じられ一般の人々に共感される成果に至る。
「ナラティブ研究の中には、共感を生み出すことに重点を置くものもあります。
そうした研究では、社会の中で片隅に追いやられてきた人々に発言のチャンスを与え、彼らの経験を共に分かち合うことを通して、理解を広げていこうとする試みがなされています。
人々は、他の人々の理解と感受性を引き出すために、『自分たちのストーリー』を自らの言葉で語るよう励まされます(筆者注=ファシリテーションされる)」
パラダイム転換発想の演習グループを観察していると、
男性原理の強いメンバーおよびグループの語り口は、
「自分のストーリー」を一般的なビジネス用語や専門的な技術用語で語りがちだ。
一方、女性原理をも活用するメンバーおよびグループの語り口は、
「自分のストーリー」を日常的な会話用語で語りがちだ。
前者、男性原理の語り口は、
「物事を外側から解き明かし、ストーリーを外側から紡ぎ出している」と感じられる。
後者、女性原理の語り口は、
「物事を内側から解き明かし、ストーリーを内側から紡ぎ出している」と感じられる。
これを聴く一般の人々は、
前者に対しては、理屈があっているか間違っているかを判断したり評価しよう促されてしまう。
後者に対しては、「人間らしい温かみ」を共有し、共有しうる情緒をもって彼らがどのような物語を紡ぎ出すのか傾聴してしまう。
共同的研究
「実証研究では、一般に、研究者と研究の対象となる人々とを、できるだけ引き離しておこうとします。人々の人生や生活は研究者に対して明かされますが、研究者自身は彼らと距離を置き、彼らからできるだけ見えないところにいようとします。(中略)
こうした態度に対する一つの代替案は、研究の対象である人々と共同で研究を行うというものです。こうした共同的研究では、研究者と人々が、共通の目的を達成するためにお互いに協力しようと試みます」
実証研究=合理的なビジネス思考、研究者=ビジネスパーソン、研究の対象となる人々=想定顧客、と置き換えることができる。
すると、以上のことは、
想定顧客ないしはリーダー顧客と、商品サービスの開発者とが共同学習する活動に相当する。これは、試作したモデルを想定顧客に示してモニタリングするだけのやり方と明らかに主旨も意義も違う。
発想ファシリテーションの現場では、発想ファシリテーターもグループに一メンバーとして参加してグループワークを刺激したり触発することが、この共同的研究に相当する。
私の経験では、この手法は、女性原理をも発揮しているグループには容易に受け入れられて効果が上がるが、男性原理ばかりを発揮しているグループが部外者に対して頑で容易には受け入れられない。
メンバーと発想ファシリテーターの関係が、前者では「ケア的関係」になるに対して、後者では「競争的関係」になってしまうのだ。
アクションリサーチ-----社会変革のうねり
「典型的な実証研究は、価値中立性というオーラをまとい、道徳的・政治的なものとは、まったく無縁であるかのように見せかけています。
このような不誠実な態度とは逆に、自らの価値観を常に意識し、自らの政治的信念を大事にする研究を行う研究者もいます。
そうした研究の一つの例は、『参加型アクションリサーチ』と呼ばれているものです」
「アクションリサーチを行う研究者の間には、一つの合意が成り立っています。
それは、研究とは、当事者との共同的実践でなければならないということです。
研究者が最終的に目指すのは、自分たちのおかれた状況を少しでもよいものにしようと努力している人々との共同で実践を行い、彼らに力を与えることです。その時、研究者は、特定の政治的理想や目標を実践の中にもちこむことになります。
共同的実践とは、そうした研究者の理想や目標を推進するためのものなのです」
パラダイム転換発想の演習成果の内、一般の人々に共感されるものは、理想や目標を指し示すもので、共同的実践を喚起するものであることは偶然ではない。
<B>人々は、社会的に意義があり、それを知ったり関わることで自己成長や自己実現につながりそうなものを身体感覚で感じ取り、そして共感するのである。
それはある時は、「社会の中で片隅に追いやられてきた人々」という未対応なターゲットに対応するものである。そして演習メンバーは、彼らの経験を観察ないしは想像力によって共有し、彼らならば発言するだろう内容を代弁することによって、発想や洞察を浮上させていく。
そうした過程をへた演習メンバーの物語と語り口に対して、それと分かる感受性を発表を聴く一般の人々はもっていると言えよう。
私は、こうしたパラダイム転換発想のグループ演習が有意義な成果を生み出す過程を観察しながら、その共通性に、古来より日本文化を特徴づけてきた「日本型の集団独創」と、それを成立させてきた「物語の語り合いとしての対話」があると感じている。
具体的な演習成果群をみるにつけ、西欧のモダニズムや欧米のグローバリズムの文化一元主義が切り捨ててきたもの、救い上げることのできないものを、救出するばかりでなくグローカルに現代化する「日本型の集団独創」のクリエイティビティを確認できる。