社会構成主義についての検討内容を復習するポイント抜粋(2)つづき |
『社会構成主義と「コンセプト思考術〜日本型集団独創」の一致点』
その5 http://cds190.exblog.jp/5874239/
言葉は、現実をありのままに写しとるものではない
これまで「伝統的人間観の行きづまり」を、啓蒙主義に端を発するモダニズム批判として検討してきた著者はにこう締めくくる。
「ポストモダンによる批判の始まりは、伝統的な自己、真理、科学などの概念に潜む一つの弱点に向けられた。その弱点とは、『言語とは何か』という根本的な問題が完全に見落とされてきたということです」
「私たちは、言葉を通して心の内容を共有できると信じてきました。私たちは、言葉を用いて、自分が経験したことを記述し、考えたり観察したり他者に伝えられるはずだと、当たり前のように考えてきました。(中略)
科学哲学では、この考え方は、『言葉の対応理論』と呼ばれてきました。(中略)
興味深いのは、言葉の対応理論が、言葉がいかにして経験的現実と一致するかを説明するのに失敗したということです(筆者注:抽象的概念を表す言葉にしろ、経験した感情を表す言葉にしろ、観察し再現可能な科学的な真理を表す科学式にしろ)。(中略)
私たちは『言葉による指示の不決定性』、すなわち、ある言葉が正確に何を指しているのか決定することができないという問題に直面しています」
これは、「身体知」ということの重要な側面であり、また、言語で明示できない、言語で形式化できない「暗黙知」ということの重要な側面に他ならない。
著者は言う、
「言葉は、私たちが自分で選び取ったわけではありません。私たちの手元にあるのは、自らの文化の中で使用されてきた語彙だけです」
と。
よって、家庭でも会社でも国家でも、文化が異なれば同じ言葉が指し示す語彙は異なる場合もあるし、ある文化で存在する語彙が他の文化では存在しない場合もある。
これは決して哲学的な話ではない。
「PER(Price Earnings Ratio)」という言葉がある。
株価を一株当たりの利益で割った値で、株価と企業の収益率を比較することによって株式の投資価値を判断する際に利用される尺度である。
この言葉は、今や大変重要なものとなっているが、一般的な一部上場企業でさえある時期までは重役会議の論題にさえ上らなかったのも事実なのだ。
金融資本主義が台頭して、金融市場だけでなく企業経営までを支配する形で一元的なルールを形成してきて、企業は異なる次元の物語を語らねばならなくなった。
PERは、この種の物語を語る上で外すことのできないキーワードとなる。そして、この種の物語が語られる上で、「株主」「経営者」「従業員」「顧客」「社会」「組織」「人材」などなどの従来のキーワード一式の意味が変容されていった訳だ。
その6 http://cds190.exblog.jp/5874251/
記号論から脱構築へそして社会構成主義へ
「言語研究をはっきりとした形ではじめて行ったのは、スイスの言語学者ソシュールでした。(中略)ソシュールの記号論は、「記号の科学」、すなわち私たちがコミュニケーションするシステムに焦点をあてた科学でした。
私たちの目下の議論にとって重要なのは、ソシュールによる次の二つの主張です。
第一に、彼は『意味するもの(シニフィアン)』と『意味されるもの(シニフィエ)』という概念を提示しました。(中略)ソシュールは、『シニフィアンとシニフィエの関係は恣意的なものである』と述べています(筆者注:たとえば、なぜ机のことを『つくえ』と言うのかは、誰かがそう呼んだことに始まる)。(中略)
第二にの重要な主張は、『記号のシステムはその内的な論理に支配されている」というものです。私たちの言語(記号システムとしての言語)は、文法や統語法などの、さまざまな規則によって記述することができます。」
この考え方は、前に触れた「言葉の写し絵理論」「言語の対応理論」のような「言葉は、事実と対応したものであるはずだ」という考え方を否定する。
「では、いったいどうして特定の言葉の配列に、『事実と一致している』という特権が与えられるのでしょうか。
言葉と世界を結びつけているものは、いってしまえば社会的慣習に過ぎないのです」
「ある言語を『客観的に正確である』とし、別の言語を『感覚的である』あるいは『不明瞭である』として区別するものは、いったい何なのでしょうか。(中略)
私たちが出会ったのは、多様な記述のスタイルだけです。ここからいえるのは、真理も『一つのスタイル』-----中でも好ましいとされるスタイル-----にすぎないのではないかということです。(中略)
いかに『真理』『客観性』『報告の正確さ』が主張されていても、実は『ものごとを表現する方法の一つ』を見せられているにすぎないということ、これに私たちは気づかなければなりません。これらは「慣習にもとづく真理」であり、いってみれば、ある特定のグループの人々によって、真理の特権を与えられているだけなのです」
「世界についての理解が、言葉の間の関係のみから成り立っているというこの可能性に最も関心を示したのは、文学理論、中でもフランスの理論家デリダでした。(中略)
私たちに特に関係があるのは、次の二点です。
第一に、すべての有意味な行為-----合理的な決定をする、人生における重大な問題に対してよい答えを出す-----はすべて、『ありえたかもしれない多様な意味を抑圧する」ことによって成り立っています。合理性とは、非常に近視眼的なものであるということです」
「第二に、私たちが行うすべての決定は、たとえいかに合理的に見えても、合理性の根拠を突き詰めていけば必ず崩壊する可能性をはらんでいます。したがって、合理性がある-----理性にかなっている-----からといって、特定の政治や科学(筆者注:そして経営)の制度に正当性を与えることもできないし、何が道徳的であり、何に価値があるのかを決定することもできません。
結局、私たちの『理性』とは、抑圧的であり空虚なものなのだとデリタは主張します」
「脱構築主義者たちは、合理性が意味の抑圧や剥奪の上に成り立つという結論に、どうやって到達するのでしょうか。デリダは、初期の言語論にもとづいて、言語とは差異のシステムであると考えました。
彼によれば、言語は一つの流れのようなものではなく、個々の単位(語)に分けることが可能です。それぞれの単位(語)とそれ以外の単位(語)以外の間には差異があります。ここで言う差異とは、二分法(二つに分けること)を意味します。つまり、それぞれの語を弁別できるのは、『その語』と『その語ではない』との間に裂け目があるからなのです。(中略)つまり、言葉の意味は『在』と『不在』、すなわち、その言葉によって示されるものと示されないものとの区別によって成立することになります。
言葉が意味をなすということは、『不在』を背景として『在』の側から話す-----『示されないもの』を背景にして『示されるもの』の側から話す-----ということなのです。
おわかりのように、『在』の方が特権的であり、言葉それ自体によって焦点をあてられるのに対して、『不在』はただ暗示されるか、完全に忘れ去られているのかのどちらかです」
パラダイム転換発想とは、『在』を背景として『不在』の側から話す-----『示されているもの』を背景にして『示されていないもの』の側から話す-----ということと言える。
「ただし、『在』は『不在』なしには意味をなさないということに注意しなければなりません。二分法の区別、すなわち差異がなければ、意味はありえないのです。(中略)
ここで、脱構築主義者の議論を思い出してみましょう。
脱構築論によれば、『物質』という言葉は、二分法、すなわち『非物質』との差異にもとづいて、その意味を獲得するのでした。そこで、この二分法を『物質/精神』を例に考えてみましょう。(中略)物質が意味あるものになるために、精神が存在しなければならないとすれば、もはや『宇宙イコール物質』ではありえません。別の言い方をすれば、物質主義の世界観では、精神的世界が片隅に追いやられてしまっているのです。精神は、語られない『不在』です。しかし、この『不在』の『在』がなければ、『宇宙は物質である』というまさにその意味が、成り立たなくなってしまうのです。
あらゆる物質主義的世界観が、精神の抑圧に支えられているというのは、こういう意味なのです」
<送り手側のモノ提供の論理>の色眼鏡で見抜くことができた「じつは問題ある現状」=「在」は、
<受け手側のコト実現の論理>の色眼鏡で導くことができた「本来そうあるべき理想」=「不在」の抑圧に支えられている。
「私たちは、さまざまな場面で、自信満々の専門家や権威に出会います。しかし、デリダにいわせれば、彼らの自信には何の根拠もないということになります。合理性とは、空虚なものだからです」
私がやってこれたのは、誰も疑いを挟むことのなかった、万国共通の言葉使いの4概念要素を用いたパラダイム転換の原理原則の除けば、思考フォーマットを使って魅力的なパラダイム転換アイデアの物語を紡ぎ出せるかどうかは、やってみなければ分からない。つまり自信満々とはなれない。それを良い意味で受けとめてくれた人たちが良き理解者となってくれたからだと思う。彼らは様々な筋の専門性に対してデリタ同様の疑問符を直観的に抱いていて人たちだった。
「『言語は自己完結したシステムであり、それぞれの語の意味は、他の語との関係に依存する』(中略)
デリダによれば、語と語の依存関係は、『差異(difference)』と『遅延(deferral)』の二つから成り立っていると考えることができます。
第一に、それぞれの語は、他の語との違いによってその意味を獲得します」
「講演(こうえん)」は、「講義(こうぎ)」や「講習(こうしゅう)」などとの違いによってそれと認識される。
しかし、差異だけでは語を理解するには十分ではない。
同じ (こうえん) でも「講演」なのか「公園」なのか「公演」なのかは、語を聞いただけでは分からず、文の前後関係から推量される。
「つまり、ある語は、言語学やテキストの多様な歴史から、(中略)意味の痕跡を引きずっているのです。
そしてこの『差延(differance)』(「異なること(difference)」と「遅延すること(deferral)」の区別を超えるために、デリダが編み出した造語)のプロセスには出口がないという点に注意しましょう」
「コンセプト思考術」の4概念要素による6つの所定空欄には、パラダイム転換物語を形成する内容の言葉使いが求められる。
それを私たちは、「合理的推論」によって、最初の空欄にこういう言葉が入ったのだから次の空欄はこういう言葉が入るのが合理的だ、と記入していくことはできない。
まして、順序よく記入しおえれば、オートマティックに誰もが一つの正解のパラダイム転換物語に行き着く、ということはあり得ない。
繰り返し述べてきたように、たまたま思いついた発想の断片や気づいてしまった洞察の切り口を、その概念要素にふさわしい所定空欄に記入し、満たされていない空欄を、より有意義かつ魅力的な起承転結物語が紡ぎ出されるように推量していくしかない。
出来た、と思うまで試行錯誤が続く。
こちらにこういう言葉使いを記入したら、前に記入したあちらを書き換える、すると全体の起承転結がみえてきて、それなら出だしはこの方がいいんじゃないか、最後はこういう方がメリハリがあるぞ、と書き換えていく。
そして、物語に語れば確かに起承転結の文脈であるが、そもそもの概念要素の関係は全体と部分がホロニックなものとなっている。つまり、どこかが起点でどこかが終点ということではなく、概念要素の相互関係が一つのダイナミズムになっている。記入内容がそういう状態になった時が出来たと感じる時なのだ。
こうした思考フォーマット記入内容の書き換えを、ある時仕上げたのち時期を隔てて環境変化に応じてさらに続けることはとても大切なことで、是非やるべきだ。
物語的には結論となる、理想のパラダイムを実現する具体的な手段の空欄の記述は、テクノロジーの進化で変化する。すると、その前提である、発見すべき問題から捉え直す必要がある筈だ。
また、デリタの言った「差延のプロセスに出口がない」とは、物語は、誰が誰に、いつ、どこで、どのような機会に語るかでまったくコミュニケーション効果がまったく変わってくる、ということでもある。創業者なきあとの優良企業の経営が多くの場合大きな試練を迎えるのはこのためだ。
「脱構築主義は、合理的推論の無意味さを明らかにしますが、それ自身もまた、合理的推論です。デリダ自身も、自分の主張もまた維持されえず、彼の言葉によれば『抹消』されなければならないということに気づいていました。
デカルトは、自分の感覚、あらゆる権威、あらゆる知識に対して疑いをもちましたが、自分が疑っているというそのことだけは疑うことができませんでした。しかし、自分で疑っているということ、それさえも疑わなければならないのではないかという議論も生まれてきています。永久にもちこたえられる核のようなものなど、もはや存在しないのです。
このような批判と行きづまりの絶望という土壌に、社会構成主義という新しい芽は出てきます」
「永久にもちこたえられる核のようなものなど、もはや存在しない」という差延理論は理解した。
しかし、それを前提にしても、私は哲学者ではないので、
「疑っていることを、疑わなければならないかどうか」よりも、
「信じることを、どうすればもっと信じられるようにしていけるか」に関心がある。
鍵は、「信じることをもっと信じられるようにする物語を、紡ぎ出しては語り合っていく」ということだと思っている。
少なくとも、「コンセプト思考術」はそれを目指していきたい。
そして、「日本型の集団独創」も、そういうものだったと思う。