「身体知」をボディーワークに学ぶ(3) |
グラバア俊子著 創元社刊 発
第三章「自己の象徴としてのからだ」を、特に「日本型の集団独創」の発想ファシリテーションへの示唆を回収するかたちで整理検討していきたい。
この点について前項までの大きな収穫としては、以下のようなことがあった。
◯「(筆者注:特に「頭で考える」合理性を偏重する欧米文化において)身体から得られる情報に対して盲目であり、また、根本においてそれを疑問視してきた現在の社会化の習慣によって、いかに多くの大切な情報が人生から排除されてしまったかを認識する日が多分そのうちに来るであろう」
としたフィッシャーの預言は、すでにジャパンアニメと日本料理の世界的定着において正しかったことが証明されてはいまいか。
◯私は、フェルデンクライスの考え方を読んで、日本の神輿を担ぐ祭りのことを想起した。
共同体の一員としての心的プロセスを捉えつつ、筋肉組織に正常な機能の仕方を再教育する集団療法とは言えまいか。
◯「三、このような人間(筆者注:カール・ロジャーズの考えた最善の心理的な成長を経験してきた個人)は、それぞれの実存的な状況において、もっとも満足のゆく行動に到達するために、自分の有機体がひとつの信頼すべき手段であることを、見出すでしょう」
私はこの感受性は、推量(アブダクション)のダイナミズムだと思う。
推量は、一般的にロジカルシンキングの3つの内の、帰納と演繹に並ぶいま1つとされる。しかし、推測ならばまだしも、推量は因果律を偏重する他2者と同列に論じることはできない。
推量は、自己の事柄について前述のような感受性と情緒性に基づく直観や想像力であり、他者や全体の事柄についても、自己と他者、部分と全体の統合的調和を目指して発揮されるものだと思う。
(推量についてこのように述べると難しそうだが、私たち日本人は「間の推量フレームワーク」という集団独創を得意としている。私はコンセプト思考術研修で、毎日新聞の万流川柳に掲載された拙作「週末は 上司が ◯◯(漢字一字)に代わるだけ」を提示して、受講者に◯◯を言い当ててもらっている。必ず誰かが「妻」という正解を言い当てるのだが、これが「部分と全体の統合的調和を目指して発揮される」「間の推量フレームワーク」である。これを民族レベルの明示知と暗黙知の共有を背景にできるのが、日本型の集団独創の特徴の一面である。
最近のコンテンポラリーな事例としては、『初音ミク』をえんもゆかりもない人々が役割分担して仕上げて行く「この歌にはこういう◯◯がいいだろう」という恊働が、まさに日本らしいこの「間の推量フレームワーク」にある。)
以上の()部分は後から追記した。
「日本型の集団独創」の発想ファシリテーションとは、
具体的には、
対話における「間の推量フレームワーク」を共有したりその活用を促進する、ということである。
そしてその前提として、そういうことが可能であり自然に活発化する場をつくる、ということに他ならない。
(精神が共有されていれば、必ずしもリアルな相対場である必要はないようだ。)
呼吸について
「性的に興奮しているときには、あなたの呼吸は変わる。その呼吸を変わるままに変わらせなかったら、その性的興奮は自動的に落ちていく。
つまり、呼吸はあなたの精神状態に深くかかわり合っているということだ。
もし呼吸を変えたら、精神状態も変えられる。逆に、精神状態を変えたら、今度は呼吸が変わってくる」
として著者は、「ケオティック・ブリージング」という瞑想法を紹介する。
「『渾沌たる呼吸』というのは、どんな律動(リズム)もない、深くて速い精力的な呼吸のことだ。ただ息を吸いこみ、そして吐き出す。あらんかぎりに精力的に、深く強烈に、息を吸いこみ、また吐き出すのだ」
これは、日本の祭りで神輿をかついだり、裸祭りでご神木を奪いあったりする人々の呼吸ではないか!
「この渾沌とした呼吸は、抑圧された肉体のなかに一つの渾沌(カオス)を生み出すためのもの。
あなたが何であろうと、あなたは特定のタイプの呼吸をしている。(中略)
この渾沌とした呼吸は、あなたの過去の鋳型(パターン)をすべて壊すことになる。あなたが自分自身だとしてこしらえてきたものを、この渾沌とした呼吸がぶちこわすのだ。渾沌とした呼吸はあなたのなかにひとつの渾沌(無秩序宇宙)を創り出す。
なぜなら、渾沌が生じないかぎり、あなたは自分の抑圧された感情を解放できないからだ。そして、これらの感情はいまや身体の中へと移っている」
知識創造の世界では、「アンラーニング(学習棄却)」や「エポケー(判断停止)」が、組織が不確実な環境の中で継続的にイノベーションを実現していくためには不可欠の要素とされる。どちらも、既存パラダイムからの脱却を優先させるものである。
しかし、理屈は頭で分かってもなかなか実行できない、というのが現実だ。
著者の論述を読むと、「呼吸の鋳型=精神の鋳型」が変わらなければ、どちらも一時的な思考停止に留まってしまうだけだと分かる。
「あなたは身体と心(マインド)の二つになっているのではない。
あなたは身心(精神身体)としてある。
あなたはその両方だ。だから、身体になされたことは何でも心(マインド)に届くし、心(マインド)になされたことも何でも身体に達する。身体と心(マインド)はひとつの実体の両端なのだ」
著者は、
「それではどのようにして、一人ひとりユニークな呼吸パターンが形成されてきたのでしょうか」
と問う。
室内で遊ぶ子供の単調な呼吸を指摘した上で、このように論述する。
「外を自由に飛び回っている子供は、様々な呼吸を体験することと思います。必死に走ってハアハア体中で息をする。少し高い石垣から飛び降りようとして緊張して息をつめ大きく吸い込んでエイッと飛び降りて、フーと安堵して大きく息をはき出す。バッタをつかまえようとソーッと息を静かに押さえながら近よって、一気にはき出しながらとびかかる。このように自然に状況の中で適切な呼吸をしていくことを覚えていくことでしょう」
これは、前項(2)の冒頭で述べた私の子供の日々の遊びそのままだ。
弁慶橋のたもとで釣をしていてこんなことがあった。
急にぐいぐいと竿がしなった。隣で見物していたお兄さんが一緒に支えてくれた。そして二人掛かりで一気に釣り上げたら、虚空に大きな蛇が舞い上がり振って来たのだ。二人が叫び声を上げて逃げ出したのは言うまでもない。
自然を相手にした遊びの特徴は、潜在的に想定外の身体反応を求めていてそれを楽しもうとするところが大きいことで、それが多様多彩な呼吸に帰結していることは間違いない。
それは、カール・ロジャーズが理想とした「自分の経験に心が開かれている人の場合、自己の内外で起こる経験を防衛機制によって歪曲することなく、受け入れることができる」という個人の様相とも重なる。
私たち現代の日本人にとって、子供が日常的に自然に触れて遊ぶことがなくなったことは、とても憂慮すべきことであると同時に、大人が自然に触れることで回復すべきは、自らに想定外の身体反応を喚起させて多様多彩な呼吸を帰結させることだと言えよう。
これは何らかの想定カリキュラムにおいて計画的な有酸素運動をすることではけっして得られない、教育効果であり「渾沌効果」である。
「さて、ラジニーシは、恐怖は浅い呼吸のもとだと言っていましたが、常に恐怖や緊張のもとに子供がおかれていたらどうなるのでしょう。恐怖や緊張を引き起こす原因は様々だと思います。それは政治的な状況かもしれません。(中略)
またそれが人間関係から引き起こされることもおおいに考えられます。体罰を伴うきびしい躾が、ある子供には緊張というかたちで影響するかもしれません」
私はこれを読んで、よく耳にする「うちの会社は風通しが良くない。風通しを良くするべきだ」という議論を思い出した。
私は、日本の企業の風通しがここ20年で特段悪くなったとは思わない。
変わったのは、社員の呼吸が浅く大人しく、かつ画一的になったことの方だと思い当たった。
私は20年前の極端な光景を思い出す。
それはまだ私がディスプレイ企業にいた時で、今もお取り引きのある家電メーカーの協賛を得てその広報部の部長と部下と私の3人で打ち合わせした時のことだ。28〜9の私と同年輩の部下の方がなんと居眠りをはじめたのだ。40くらいの部長は私に言った。「彼はロックバンドでボーカルやってて疲れ気味なんですよ」と。そして部長と私で小声で打ち合わせを続けたのである。この時、部下の呼吸はすこぶる健やかなものだった。
会社で就労している人々の呼吸がこれほどに多様性がある光景はないだろう。
そして、今より当時の方がそれぞれの仕事場が個性的に律動していたのだ。
著者は、呼吸を例にとって「自己の象徴としてのからだ」ということを解説した上で、
「自己理解の基盤となる次の二点に関する洞察が得られる」ことを重視する。
「一、私は他者と同じ人間でありながら、同時に全く独自でユニークな存在である。
二、私が過去の体験を通して形造られてきたのなら、今までの在り方に縛られる必要はなく、自分の選択により新しい体験を積み重ねることによって、自分にとってよりよい在り方を形造っていく可能性がある」
つまり、ある経過の帰結として「呼吸の鋳型=精神の鋳型」にはまっているのであれば、新しい体験を積み重ねる試みによって、それは変えられるということだ。
呼吸を論じるまでもないことだが、逆に言うと、新しい体験を積み重ねる試みを回避していては、何も変わらない。
からだと自己成長
著者はここで、
「自己成長というと、身体的な意味だけでなく人間としての成長、そして一般的な意味での成長ではなく、その人なりの個人的な成長という二つの側面がはっきりしてきます。ですからここでは自己成長を、一人の人間として全人的に成長していくことだと捉えたい」
と前提した上で、
「からだがどのように自己成長(筆者注:自分が変わること)を援助できるのか」
ということを論じて行く。
「自己成長を考えてみると、個人の努力を越える要素が大きい(中略)。
第一は、時ということです。私たちはいかに努力しようと、時の育んでくれるのを待たずに成長することはできません。(中略)
第二は、出会いということです。ある人との出会い、ある出来事との出会いということもあるでしょう。(中略)
これらのもつ人間の営為を超えた影響力を考えると、出会いというより縁といった表現の方が適切かもしれません。このような時と出会いの織りなす経験の綾がその人を創り上げたとも言えましょう」
「それならば積極的な意味も含めて、ただこの時と出会いに身を委ねればよいとも考えられます。
しかしそれでは今のままの自分が何の変化もなく、流れに押し流されてしまうことにもなりかねません」
著者は、ここで、
「結局その人にとって何が大切なことか、一番よく知っているのは本人だ」
ということと、それを掘り起こすためには、
「からだを通して自分を知るようになると、まず自分が全く独自でユニークな存在であることに気づく」
ということを改めて確認して、
「個人の持つ潜在的な可能性を信頼する態度」について解説していく。
現代心理学の「第三勢力」
「行動主義者は、その研究の大半は動物の研究に基礎をおいている。マズローは人間の行動と動物の行動との間には顕著な相違があることを見出している。
人は精神の健康を理解するまでは精神の病気を理解できないというのがマズローの信念だった」
「このような立場からマズローは、人間として非常に健康で成熟した人々を研究しました。(筆者注:理想的な個人像を想定したカール・ロジャーズも「第三勢力」の人とされる。)
そこから、欠乏動機として基本的欲求(安全・所属・愛情・尊敬・自尊心)に動機づけられた人々がいると同時に、健康な人は自己実現に向かう成長欲求に動機づけられていることを提示したのです。(中略)
マズローによって、人間には自己実現の欲求がある、言いかえれば人間には自己成長に向かうエネルギーの流れがある、という考え方が明確にされたのです」
著者は、このような「第三勢力の出現」の歴史的背景として、第二次世界大戦後の「1950年代のアメリカにおける、生存指向から成長指向への転換」、「それまでの食べて生活を支えるという生き方から、人間としての成長を目指して生きるというライフ・スタイルの変化」を指摘する。
「このような社会的な流れの中で1960年代には、カリフォルニア州のエサレン研究所を中心として、潜在能力開発運動が起きました。そしてそれは教育分野では人間性中心の教育(Humanistic Education)、心理学の分野では先に述べた第三勢力、またはより広いいい方として人間性心理学(Humanistic Psycology)、そしてさらに人間の宗教的な次元へせまる超個心理学(Transpersonal Psycology)、特定の心理療法としては、来談者中心療法・ゲシュタルト療法というように広い領域に展開していきます。
これは療法といっても、病気を治療するという意味合いよりも、よりよい在り方を見出すための手法と言った方がよいでしょう」
フィリップ・パウルズの考え方
著者は、
「ゲシュタルト療法の創始者、フィリッツ・パウルズは、自己成長の基本的な枠組みをどのように捉えていたか」
解説する。
「彼は、自分の療法の目標を、基本的には”環境に支えられる”(Enviromental-Support)ことから”自分で支える”(Self-Support)ことへの移行と考えています。(中略)
具体的には言葉の言い換えで、例えば『〜しなくてはならない』(should)を『〜したい』(want)と言い換えてみるのです。
筆者の個人的経験では人を愛するということが『人を愛すべきだ』(should)からきていることに気づいたのは大きな転期でした。『べきだ』という愛で愛された人はどんな気持ちがするだろうか、本当に愛したい(want)という気持ちが湧いてくるような自分になりたいと考えたものでした」
著者の経験は、身体感覚を伴ってはじめて得られるものだった。
じつは昨年から高齢の両親と同居した私自身も、まったく同様の経験をした。
東京で離れて暮らして定期的に通っているときは、私は『〜しなくてはならない』発想に囚われていて、身体はできないことの罪悪感を感じていたと今にして分かる。同居するようになって『〜したい』という身体的反応が思う前に身体の動きとして出るようになった。そんな自分からその気持ちを素直に認められるようになり身体が安堵している今と以前を比較して分かるのだ。このように転換できたのはここ最近で、8〜9ヶ月は掛かっていてけっして即座な転換ではなかった。
「もう一つ、『できない』(can't)を『したくない』(won't)と言い換えてみるのです。
『できない』と言っている時は、あたかも外的な何ものかによって押し留められている、といった様子です。それを『〜したくない』と言うと、主導権が自分に移ってきて選択の余地を感じさせます。
また『〜したくない』というのがぴったりこない場合、いろいろ言い換えて自分にぴったりくる表現をさがしてみるのです。このように言い換えることによって、実はそのことに意味を感じていない自分、またはそうしないことをはっきり選んでいる自分、することを延期している自分等に気づくといったことが起こります」
企業組織においても、経営方策をめぐって経営が『できない』という時、あるいは一般社員の常識が『できない』という時、じつは『〜したくない』というのが経営者の本音だったり一般社員のメンタルモデルだったりする。
本当は公明正大に『〜したい』派と『〜したくない』派が意見の対立を明快にしてディスカッションしたり、両方の意見の対立は問題なのではなくて矛盾であることを了解し、両者を統合する最善策を対話によって導くことが大切だ。
日本人は奥ゆかしいのか、それとも狡くて陰湿なのかはケースバイケースだと思うが、建前論で押し切る主流派経営幹部が不満分子の非主流派一般社員の意見を圧殺しているケースが余りにも多いように感じる。
自分の会社や職場の現況がどうかについては、ご自身と同僚の呼吸を観察すれば分かるだろう。
「ゲシュタルト療法の(筆者注:言葉の言い換え以外の)もう一つの観点は、一つのまとまりをもった自己像をもつということです。
私たちは様々な、時には矛盾する考え・感情・言動の傾向を自分の中にもっています。しかし、それらすべてを認めるということはあまりなく、これは本当の自分でないと感じたり、このように考えるのは正しくないと判断して、多くのものを切り捨てたり見ないようにすることがあります」
手間と時間をかけてヴィジョンづくりをして、何の経営戦略上の効果を生まないまま絵に描いた餅にしてしまう企業がじつに多い。
これは、ヴィジョンというものが心地よい自己像だけに焦点をあてて拡張していて、現実の自己との接点がすこぶる希薄なためだ。
ちなみに、コンセプト思考術の<送り手側のモノ提供の論理>と<受け手側のコト実現の論理>の思考フォーマットは、自己についての批判的な洞察と、自己についての理想的な発想の両方をメタ思考するツールともなる。
企業のヴィジョンが経営戦略上の効果を生むためには、現実の自己と向き合い、それを理想の自己へ転換していく物語として、それを練る必要がある。
しかし、現実の自己と向き合う事業戦略の方向性は事業部門の専管事項だからそれには触れないでやりましょう、というヴィジョンづくりプロジェクトがほとんどだ。
「現実の自己と向き合う」ということは、個人にしても、家族にしても、企業にしても大変なことである。
ところがゲシュタルト療法には、
「それに対して、非言語的な言動に注目し誇張して表現したり、エンプティ・チェアといって二つの椅子を置き、座る位置を換えながら、矛盾した考え方や気持ちを対話させ、充分に表出させる手法があります」
企業組織の経営方策をブレインストーミングやディスカッションする場合も、現行の組織体制を反映したメンバーの構成と位置関係でするのと、異なる組織体制にあるつもりのメンバーの構成と位置関係でするのでは、対話の展開と結論が大いに変わってくる筈だ。
たとえば、先ずスティーブ・ジョブスが事業統合戦略を練るとしたらどうだろう?などと考え、それに自分の事業部門はどう対応すべきだろう?と事業部長が考えることになる。
そこではブレスト・メンバーの呼吸は対話での息継ぎのタイミングから変わる筈だ。
「パウルズは、ドリームワークという手法を用いましたが、これは夢を分析するというよりも、夢のすべてが自分であるという考えのもとに、夢で出てきた物や人物、時には道といったものになってその気持ちを語ったりします。
このような手法を用いて、今まで気づかなかった自分に気づいたり、ばらばらにその時々自分の中に立ち表われるように見えた感情やその他のものが、表出・対話といったことを通して、互いの関連性を見出し、『私はこういう考えも、ああいう考えももった人間なんだ』(筆者注:企業ならば、『私たちの会社はこういう考えも、ああいう考えももった企業なんだ』)という風に、一つのより現実に近い自己像を構成していく訳です。
自分に対して様々な視点をもち、気づきを深めることにより、自分というものの全体像を把握することが、全人的成長の手がかりになると考えるのです。
このようにパウルズの場合、基本的な幾つかの枠組みと方法をもっており、時々指摘したり解釈を加えたりするのですが、そこで実際に行動し、感じとり、自分にとって整合性の高いものを選択して、その人固有の一つの全体としてのまとまり(それがゲシュタルトということなのですが)を形成していくのは、療法を受けている人なのです。
つまり、自己成長のモデルや目標がないということは、枠組みや手掛りがないということではなく、自分の理性と感性を総動員して自分がつかんでいくことなのです」
引用が長くなったが、以上のことは、すべて企業におけるヴィジョンづくりに反映できる重要な示唆である。
ほとんどの企業のヴィジョンづくりプロジェクトは、人数の多少にかかわらずおおよそ会議室に定期的に集まって「頭を使う机上作業」だけして完結している。
ほんとうは、いくつかの従来にない新しい考え方を具体的に試みるプロジェクトを先行させておいて、定期的な会議でその成果への多方面からの反応を仰ぎその一同による観察し合い(リフレクション)をするのがいい。
それが、「そこで実際に行動し、感じとり、自分にとって整合性の高いものを選択して、その人固有の一つの全体としてのまとまり(それがゲシュタルトということなのですが)を形成していく」ということに相当する。
しかも、それを前述の現行の組織体制とそれと異なる組織体制を反映した複数のロールプレイングで行えば、さらに自分たちの「呼吸の鋳型=精神の鋳型」をメタ思考することができる筈だ。それはミンデルのワールドワークの企業組織版のようなものとなるのだろう。
「自己成長のモデルや目標がないということは、枠組みや手掛りがないということではなく、自分の理性と感性を総動員して自分がつかんでいくことだ」、これが、ほとんどのヴィジョンづくりプロジェクトでできていない。
同業他社の企業理念やミッションステートメントなどなどを参考にして、うちは表現としてはもっとこういう方がいいだろう、と最初から落しどころが分かっていての微調整のような作業をしている。
つまり、よしとする自己成長のモデルや目標があってやっているの感を否めない。
ほんとうは、それがあっても現実がおっつかないでいることをどうにかするために、次の中長期に向けてヴィジョンづくりをしている筈なのにだ。
からだと自己成長=組織体質と自己変革
「『自己の象徴としてのからだ』も、自己成長に関わる枠組みの一つと言えましょう」
企業のヴィジョンづくりでは、身体の健康を数値化することにあたる経営実績よりも、本来は「自己の象徴としてのからだ」にあたる組織体質こそが集中的に感受され対話されるべきだ。
「からだがもっているメッセージに耳を傾ける」ということである。
「ひとたびからだに眼を向けるようになると、からだの様々な表われを無視することはかえって難しいでしょう。そして、からだの不調や苦痛として認識した自己の在り方の問題点は、良い悪いといった判断に拠るよりも、より強い動機づけの中で解決へ向かうことが多いように思います」
「よりよい方向を求める時にも、知的に求めようとすれば理論上の可能性は数え切れないほどあるはずです。そして、それぞれにプラスとマイナスがあり、どれを選択するか、また選択の結果が適切であったかどうか判断することもなかなか難しいと思います。それに比べて、からだ(筆者注:組織体質)を手がかりとした場合は、『どうすればからだの状態を変えられるだろうか』という枠組みがあり、方向を定めやすい」
これは、健康不健康を表す数値=<メッセージング>を直接変えようとするのではなく、「からだの不調や苦痛として認識した自己の在り方」=<ルーミング>から変えていこうという志向であって、とても日本的なアプローチでもある。
企業の組織と制度を機械論的に捉える欧米流とは真逆である。機械論の文脈においてその効率や効果を論じることはできない。だからといって荒唐無稽ではない。異なるパラダイムにあるということだ。日本人はそのやり方で古来うまくやってきた。いまうまくできていないのは、暗黙知の体系を明示知化して現代化国際化する努力を怠ってきてしまったためである。
「日本型の集団独創」の本質自体に欠陥がある訳ではない。
それは私たち日本人にとって有意義な個性の源泉ですらある。
著者は、第三章のはじめで学生レポートを例示した。
「一人の学生は自分の喉の緊張を親子関係そして家庭における暗黙の価値観としての完全主義と関連させて読み解こうとしていました」
企業の組織体質の自己診断に置き換えれは、会社の上下関係や職場の不文律に相当するだろう。
「二人目の学生は、肩の緊張や人と距離をおくことを、自分が他に打ち明けたくないものを抱えていることと関連させて読み解こうとしていました」
これは、上昇志向の評価される現代において、下降不安こそが「打ち明けたくないもの」としてじつは誰もが抱えているものであり、これを互いに開示し合い共生を図るのがいいということに相当するだろう。
「その解釈が正しいか間違っているかということは問題になりません。このように彼女たちが、『自己の象徴としてのからだ(筆者注:組織体質)』という枠組みを通して自分(筆者注:我が社)というものを眺めた時に、今まで見えなかったもの、気づかなかったものが視界に入ってきたということが重要なのです」
ヴィジョンづくりプロジェクトでのブレインストーミングやディスカッションが実り豊かな成果をうるためには、このような参加メンバーの自己開示を伴う対話という形で展開されることが不可欠だ。
以上私は、社員の自己開示と会社の自己開示を重ね合わせて、社員の自己成長と会社の自己変革が重なる可能性を述べた。
これは論理の飛躍ではけっしてない。
家族一人ひとりの心身の健康と家庭の在り方が密接不可分な関係にある、否、むしろ直接的に鏡の関係にあるように、社員と会社の関係もあるのである。
私は、企業のヴィジョンづくりプロジェクトの現行のファシリテーション・ノウハウはまったくいい加減だと思っている。知的アプローチの所定のステップを踏めば自動的に結論が出ると言わんばかりのビジネス書もあり専門家もいるようだ。
しかし、ヴィジョンづくりプロジェクトを社員にとっても会社にとっても実り豊かなものにするためには、特に身内だけではその欠陥度合いが分からない組織体質についての気づきと対話を求めて、ゲシュタルト療法をはじめとする臨床心理手法を応用したり、少なくとも社外ファシリテーターを活用する必要があると考えるが、経営幹部や正社員であるみなさんはいかがだろうか。