日本的な「話し合い」と欧米的な「議論」、そしてボームのいう「対話」(6) |
ジョセフ・ジャウォスキーが語るボームの「ダイアローグ」
ジョセフ・ジャウォスキーはその著「シンクロニシティ 未来をつくるリーダーシップ」の第16章「ダイアローグ」で、デヴィッド・ボームから生に聴いた話を記録している。
その章の冒頭には、ボームの「ダイアローグ」からの、部族の人々が輪になって集まり話し合う様子についての引用がある。その様子は、村寄り合いの「話し合い」と似ているる。
ジャウォスキーは「未来をつくるリーダーシップ」を発揮させるものとしてボームが言う「ダイアローグ」の、集団で全体について考えることや、その集団において個々人が繋がりを感じて全体になること、を重視している。村寄り合いの「話し合い」はこの文脈にまでは至らない。なぜなら、それがあくまで支配被支配パラダイムで集団の結束を義務づけられた部分でしかないためだ。
「ボームにとって明らかだったのは、人間は集団でいるときによく学ぶように生まれついている、ということだった。人間はともに学び、考えることができる。
そして協力して行う思考が行う行動へとつながっていく。私たちはみな、思考と知覚という生き生きとした世界のなかでつながり、そして行動している。(筆者注:あらためて言うまでもないことだが、集団での営みは共同体の内側で身内だけで行われるものもあれば、共同体と共同体の重なり領域で異界の民同士として行われるものもあり、それらは相互補完的に成熟発展してきている。)
また、世界は固定されたものではなく、絶え間ない変化のなかにあり、それゆえ未来も定まっておらず、創ることができる(筆者注:不確定論、そして縁起につながる考え)。
さらには、人間には意義深い無意識的な知識がある(筆者注:暗黙知や集団的ないしは集合的な無意識を重視する考え)。
すなわち私たちは口で言える以上のことを知っている。解決されるべき問いはこれだ。
どのように障壁を取払い(筆者注:国家同士や異なる宗教宗派、国内や社内のパラダイム対立によるディス・コミュニケーションを解消するなど)、そうした知識を活用すれば、みなが望むような未来を創り出すことができるのか?
1983年まで、ボームは多大な時間を捧げて、この集団での思考とコミュニケーションの問題について研究をつづけた。その後十年以上を経て飛躍的な進歩があり、その過程全般についての理解が深まった。その過程をボームはひとことで『ダイアローグ(対話)』と呼んだ」
その成果が本書でもある。
本書の主旨と位置づけは、以上のジャウォスキーの説明が明快に示している。
そして本書が、「パラダイム対立の対立当事者による融和的超克の方法論を求める」という私の求めに応じるものであることについても、ジャウォスキーは自書でこのように明示していた。
「『ダイアローグ(dialogue)」という言葉は、『意味が流れる』という意味を表す二つのギリシャ語ディア(dia)とロゴス(logos)を語源にしている。
これは、『打ち負かすこと』あるいは『話し合い』を意味する『討論(debate)』とは明らかな対照をなしている。
ボームはこう指摘した。
私たちが話し合いと呼ぶものの多くは、交渉の余地のない、すなわち議論の余地のないものがあらゆる面で存在するという意味において、それほど深いものにはならない、と。
『話し合う余地のないもの』を話し合うことはできない。それはただそこにあり、表面下に存在し、私たちが深く誠実に心からコミュニケーションをはかるのを遮断しているのである」
つまり、パラダイム=考え方の基本的な枠組みの対立は、そこからでは話し合いの余地はない。
ここで忘れられがちだがとても重要なことがある。
それは、意見が対立することと、意見の持ち主が対立することとは、本来まったく違う次元のことだということだ。
あなたは、昼飯にそばを食べたいと思ったりうどんを食べたいと思ったりすると思う。その時、そばという意見とうどんという意見は対立しているが、あなたが二重人格になって対立している訳ではない。それは、Aさんがそばという意見で、Bさんがうどんという意見で、一緒に行く店を選ぶ場合も同じで、AさんとBさんが対立している訳ではない。そばもうどんも食べられる店に行けばいいだけのことだ。そして何より大切なのは、一緒に飯を喰おう、喰いたいという気持ちであった。そこにこそ話し合いの余地があるのだ。
パラダイムの対立もまったく同じ側面がある。
かつて冷戦時代に東西諸国の対立があった。自由主義と市場経済のセットと、社会主義と計画経済のセットのパラダイムの対立があった。しかし、いまやアメリカや日本のセーフティネット的な施策は後者よりであったり、中国やロシアの経済成長を押し進める施策は前者よりであったりと、一国の政策の中に、両方の要素が調和と役割分担をもって展開している。
じつはほんとうの対立は、民主主義に対するところの全体主義であったこと、東側諸国の破綻は単にイデオロギーや経済の破綻ではなかったことは、すでに誰もが認めている。
これと同じようなことが企業社会においてもある。
多くの場合、ほんとうの対立は、組織や制度における「機械論化」と「人間力活性化」との対立である。
私のようなフリーランスが企業を外から眺めると、組織や制度における「機械論化」の方が自分個人にとって最適である人々と、個々人の「人間力活性化」の方が結局は社員全体にとっても会社全体にとっても最適だとする人々との対立に見える。
それは、私たちの良心が孫子の時代の社会までを考えるように、会社の行く末までを考えているのはどちらかという観点でみると、前者が競合横並びの目先の生き残り策に終始して、その会社ならではのリソースやスピリットを活かしたオンリーワンを目指す姿勢を見受けられないことですぐ分かる。
組織や制度を「機械論化」しつつ個々の社員を交換可能な「機械の部品」のように画一化して孤立化させる。無自覚的にそういうことばかりをしている人々は、往々にして、自分が「機械のスイッチ」の近所にいると思いその立場を守ろうとしている。しかしじつは、そうした本人までが交換可能な「機械の部品」なのである。彼らもそのことを薄々は気づいている。気づいていないことにして鬱憤晴らしをしているだけの人もいないではない。「機械論化」は人間と人間だからできる仕事の意味を貶めていると言える。豊かな意味は他者や全体と共有できるものであるのにそうではないことで明らかだ。
たとえば、ある業界で資本規模劣位の自社を、モノ割り縦割りのレッドオーシャン市場という、資本規模優位の会社が得意とする土俵で戦わせようとだけする。たとえ目先の勝負に勝ったとしてもその次もその次もと勝ち続けられる保証はまったくない。だからそのことには論及せずに目先のことばかりを言い立てる。そして経営はまるで、部門ごとに切り売りしやすくしておくかのようにモノ割り縦割りのみに専念し、部門横断のコト割り横ぐし政策には消極的であるどころか、模索したり比較検討したりすることも回避する。有志がそれをしたとしてもただただ無視し軽視する。
分かりやすく説明しよう。
基幹商品がA、B、Cとあるメーカーにおいて、
「事業をモノ割り縦割りでとらえ、『選択と集中』もモノ割り縦割りで行って成績の悪いCは撤退するとか、AとBはそれぞれの業界横並びの高性能低価格化でベストワンを競うレッドオーシャン市場に挑み続ける」というパラダイムがある。
一方、アップル社のように、
「事業をコト割り横ぐしでとらえ、『選択と集中』もコト割り横ぐしで行い、A、B、Cの連携で独自の顧客価値を創出してオンリーワンとなるブルーオーシャン戦略を極め続ける」というパラダイムもある。
マイクロソフトのウィンドウズに対して資本規模も市場シェアも劣位にあったマックのアップル社が、自己防衛していくにはこの戦略しかなかった。そして、それは単なる縮小均衡ではなかった。オンリーワン戦略を新たな次元で深めることで、iTunesからiPodが生まれ、それはウィンドウズ・ユーザーをも取り込むものとになり、さらにiPhoneはケータイ市場をも席巻しつつある。<短期の防衛→中期の拡張→長期の発展>を見事に実践した深慮遠望の戦略展開である。
単純化して言えば、アップル社は、ハード面ではモノ割り縦割りで、ソフト面ではコト割り横ぐしで、その相乗効果ゆえの独自の高いブランド価値を実現している。
要は、2つの対立するパラダイムは、そばとうどんのように対立しているが、同じ人が両方食べることもできれば、それぞれを食べる二人が同じ店に連れ立って行くこともできるのだ。
結局、ほんとうの対立は、
「事業をモノ割り縦割りでとらえ、自分の属する事業部のことしか考えないで、他の人にも自分と同じようにさせたい人」(成績のいい事業部門の者が偉いと考える)と、
「事業をコト割り横ぐしでとらえ、異なる事業部に属する人とともに会社全体のことを考える人」(そもそも事業部門への配属は運であり、運の善し悪しを乗り越えるところに運命共同体としての公平さがあると考える)との、政治的対立なのだ。
これは、「夫婦別姓」をめぐる対立と同じだ。
現実に起こっているのは、「夫婦は同姓であるべし」という意見と、「夫婦は別姓であるべし」という意見の対立ではない。
「夫婦同姓しか認めるべきではない」という人と、「同姓でいい人はそうして、別姓でいたいという人にはそうさせてあげればいい」という人との、政治的対立なのだ。
夫婦同姓しか認めたくない人は結局「自分と異なる考え方を認めたくない」人である点も同じだ。
ジャウォスキーはこう述べている。
「私たちにはみな、こういうものだと決めてかかっている思い込みがある。(中略)
私たちはそうした思い込みをとても深いところに持っているため(筆者注:無意識のパラダイム)、それらを自分そのものだと思うようになる。
また、そういう思い込みが問題にされると、熱くなって守ったりもする。ほとんどの場合、そうしたことを私たちは無意識のうちに行っている。
ボームは、これらの基本的な思い込みや深いところに持っている確信を、人々の心のコンピュータ・プログラムになぞらえた。こうしたプログラムは、誠意ある意図に反して支配的になり、みずからの意志を生み出す。
この思考の分裂は、十六世紀から受け継がれてきた世界観によって、すなわち宇宙を巨大なシステムとしてとらえる世界観(筆者注:機械論)によって後押しされる。
したがって、『社会における通常の思想は一貫性がない。それは互いを殺し合いながら、あらゆる方向へ進んで行く。
(筆者注:コンセプト思考術の「送り手側のモノ提供の論理」は画一的な<モノの機能>を土台とすることから機械論に陥りがちで、土台の上に没個性的な<モノの感覚>が、そしてその上に皮相的な<コトの意味>がのせられる。モノの一つ一つにおいてこうした価値形成が為されるため、世の中は一貫性のない皮相的な<コトの意味>が数限りなく満ち溢れることになる。**)
しかし、もし人々が一貫してともに考えることができたら、それは目を見はるような力を持つだろう。(中略)意味が共有されると、人々は、たとえ理由について賛同していなくても、協調的で効果的な行動をとることができ、またとるようになる」
(筆者注:コンセプト思考術の「受け手側のコト実現の論理」は、受け手側にとっての画期的な<コトの意味>を土台にすることから、そこを共通の土台として個性的な<コトの感覚>が、そしてその上に様々な背景、理由に対応する特徴的な<モノの機能>がのせられるため、世の中は多様性を高めながらも画期的な<コトの意味>の一貫性が保証されることになる。**)
そのようなゴールへ至る対話について、ジャウォスキーはボームを代弁してこう述べている。
「ある期間にわたってダイアローグをつづける機会があったら、私たちは、全員がそれと気づく意識的なレベルではなく言葉にすることのない暗黙の了解のレベルで、一貫した思考の流れをもつようになる。
ダイアローグは、人々に対し互いの意見に同意させるものではない。
そうではなく、『意味の共有化』という泉に引き込み、緊密に協力する行動へと導くものだ」
(筆者注:コンセプト思考術は、無意識が浮かび上がらせた発想をメタ思考するツールであり、その「受け手側のコト実現の論理」は、暗黙の了解のレベルで浮かび上がった一貫した思考の流れの土台にある「共通の意味」を救い上げるものである。
私がボームの「ダイアローグ」に求めているのは、「コンセプト思考術」を適用する前段の発想段階で、集団の「意味の共有化」によって暗黙の了解を誘発する方法論なのである。)
「ダイアローグにおける目標は、特別な環境を生みだして、部分同士のあいだで新しい種類の関係を作用させ、高いエネルギーと高い知性の両方が現れるようにすることなのである」
前項(5)で検討したように、人類の歴史は、「非日常的に異界の民と関わる」水平方向で為された営みが、共同体全体のピュシス(自然、実在)を活性化してきたことを示している。
ボームの言うダイアローグとは、現代世界の「機械論」の文脈において分断され孤立化した人々が、真に主体的な思考と感覚によって繋がって真に「人間的な集団」になることによって、このことを戦略的に再生するものであると思う。
ピーター・センゲが語るボームの「ダイアローグ」
ジャウォスキーの「シンクロニシティ 未来をつくるリーダーシップ」に序文を寄せていたピーター・センゲは、デヴィッド・ボームの本書の序文も書いている。
ボームの主張は、センゲやジャウォスキーの解説と実践があることで、一般の理解を容易にしてきたと思う。
さらに日本人である私たちは、自らの現実に引き寄せてはじめて本質的な納得と実践にむすびつけていくことができよう。
本書のセンゲの序論は、私たちにそのような方向づけを正しく補ってくれている。
センゲは「本書の発行に寄せて」でこう述べている。
「コヒーレントな(筆者注:一貫性ある)考え方や行動が集団的にできるのは、意味の流れが本当にある場合に限られる。
それはさまざまな見解が存在することを受け入れ、自分の見解を正当化する姿勢を排除する取り組みから始まる。
しかし、一貫性のあること(コヒーレント)とは、不変の状態というよりも生き方のことであり、それが意味する課題をボームはよく知っていたのだ」
私は以前このブログで、ある企業でのヴィジョンづくりにおいて、委員会の主要メンバーがじつは希望退職に応じていたことを知った周囲の社員が何の特段の反応も示さなかったことに、なんとはなしの違和感を覚えたことを述べた。
それは、その会社の社員でもなく、まして委員会のメンバーでもない私が、委員会発足の前から委員会解散の後もひきつづきヴィジョンとは何か、本来こうあるべきではないかと常に自問しては論じてきたことと、あまりに対照的だったからだ。
(私には)不思議なことに、私のような考動をしている者は社員にはいなかった。
たとえば、ヴィジョンは、事業部門の戦略づくりを方向づけるものでなければ「絵に書いた餅」であるが、委員会においてそれは事業部門の専管事項であるとされた。また、ヴィジョンづくり委員会と並行した企業風土委員会では、事業部間の風通しの良さが求められたが、これも事業部門同士の実際活動としてはおざなりなものでお茶を濁すことにしか繋がらなかった。社員の誰もがそうした実状を問題と感じたがそれを公的に指摘し改めようという考動はなく、機運も生まれなかった。
社員有志はただただ孤立化していて、また公的にも私的にも半オフィシャルにも積極的につながろうとはしなかった。
私は、これは現代社会の縮図だと感じた。
ここにこそ現代日本の企業社会の構造的問題の本質があると考えた。
これに背を向けては、自分が遭遇しつづけるであろう問題の根本的解決を求めることは実質的に出来はしない。
世間の問題の側に本質の一貫性がある以上、私たちの個々それぞれに解決を求める意志と実践の一貫性がなければ、これに対峙していくことは不可能である。
いつしか、私が求めることは、すべてのビジネスパーソンにこのことを理解してもらい、さらに個々それぞれが解決を求める意志と実践の一貫性をもって対話して繋がること、そして、それこそが問題の抜本的な解決をもたらすという希望を抱いてもらうことになっていた。
「ボームにとって対話とは、真実へ通じるこれまでとは違う道を、まったく異なった真実の概念を提供するものだった。
『あらゆる意味がコヒーレントなものにならない限り、真実にたどりつけない』と彼は言う」
これは、このブログで以前に検討したケネス・J・ガーゲン著「あなたへの社会構成主義」の主張に寸分違うことなく重なってくる。
その帯にはこうある。
「<関係性>=<対話>が現実をつくる
心とは?自己とは?事実とは?より豊かな未来につながる<対話>のために、ガーゲンが今、世界の『常識』を問い直す。新たな<対話>の可能性を拓く実践的・社会構成主義入門」
私は、この本の検討を途中でやめていた*。
私に企業社会の構造的問題への注意を喚起してくれたクライアント企業の経営悪化が深刻化し、まったく公的に主張されない沈黙する非主流派のパラダイムを、現実的な例解によって具体的に代弁することに追われたからだ。
無論私は誰に頼まれた訳でもないし、それをすることで具体的な案件において主流派から私が敬遠されることも承知していた。しかしそれは、私の仕事人生にとって決してしないではすまされない大切なことだった。
そしてボームの対話論を経た今、私が「あなたへの社会構成主義」の検討に戻ってくることはじつに自然な、それこそ「意味の流れ」だったと感じる。
そして、新年を境により広くより深い実践課題を捉えた私には、ある会社の社内政治に巻き込まれている余裕などない。敬遠してくれて大歓迎だ。彼らが向き合おうとしていないのは、私のようなちっぽけな存在ではない。私を敬遠したところで彼らの事態は何も変わらない。すべてがジャスト・タイミングで進行している。
「よりコヒーレントに意味を共有した、さらに広い領域を作れば、真の意味で洞察力に富んだ新たな理解が、不意に現れる場合も多いかもしれない。ボームはこう述べている。
『真実とは、意見から生まれるのではなく、別のものから生まれると思われる-----おそらく暗黙的な心のもっと自由な活動から』。
さらに彼は続ける。
『真実を明らかにしたい、あるいは真実を共有したいというなら、意義をコヒーレントなものにしなければならない』」
これは、一つの専門分野を継続して窮めるということとは真逆のことである。そして、仕事に徹することとも真逆である。
自分の人生と重ねて、人々と繋がる実践において一貫性をもつということであり、専門や知識の殻に閉じこもることや、生活や人生と仕事とを切り離すこととは真逆だからだ。
「この奇妙な表現、『真実を共有』することが、ボームの根本的な考えの二つ目を指し示しているように思われる。
これは全体を理解するという意味である。還元主義者による科学は、分離された事物を理解する上で強い力を持っており、新しいテクノロジーのような新規のものを作り出すためにこの考え方が適用されている。しかし、それが有効なのは、対象を『断片化』、または分離化できる場合に限られる」
たとえば、大画面テレビの画面の大きさを競う、高精細を競う、薄さを競う、メーカー各社が凌ぎを削るのは画一的な<モノの機能>に他ならない。
この価値が高いとみなすのは「送り手側のモノ提供の論理」という、対象を「断片化」、または分離化できる場合に限られる。
しかし、人々の生活はコトであり、それぞれのライフスタイルへのこだわりという一貫性=コヒーレントが求められる。そのこだわりの本質は「意味の共有」である。これをメタ思考して検証するべく照らすのが、コンセプト思考術が重視する「受け手側のコト実現の論理」である。
「送り手側のモノ提供の論理」を優先して構想した商品やサービスは、その顧客価値を「受け手側のコト実現の論理」に照らすと、それがいかに送り手側の手前勝手な理屈の産物かということが明白になる。
とくに企業の事業部門がモノ割り縦割りで考えた構想は、人々が複数のモノを相互連携させて生活全体を構成しているコト割り横ぐしの生活感にフィットしようがない。
このことは、主流派が私を敬遠しようが、コンセプト思考術を無視しようが変らぬ真実である。人々の生活感からすれば、そして生活者のニーズに即応すべき市場からすれば、彼らの方が反主流派なのだ。
生活には物語がある。
しかし機械や機械論にはそれがない。どこまで行っても断片化した部分や分離化した抽象への還元主義なのである。
センゲは言う。
「全体的なものに直面したとき、あるいは強力な相互依存の状況において、その状況を理解して効果的な行動をとる必要に迫られたときには役に立たなくなり、機能不全の状態に陥るかもしれない。
現代の世界が目覚ましいほどの技術的な進歩をさらに遂げながらも、共存についてはますます無力になっているのはこうしたことが原因である」
そしてマルティン・ブーバーを引用する。
ちなみにブーバーは、「我」と「汝」が語り合うことによって世界が拓けていくという「対話の哲学」の提唱者である。科学的、実証的な経験や知識は「それ」というよそよそしい存在にしか過ぎず、「われ」は幾らそれに関わったとしても、人間疎外的な関係から抜け出すことはできないという。
私は、「ユビキタス」という概念がそのままではビジネスチャンスに結びつかない、生活者やビジネスパーソンのニーズに結びつかないと主張し続けてきた。主張した相手には、概念の産みの親であるクライアントも含まれる。
人々が求めているのは、「いつでも、どこでも、誰でも」ではない。
「いま、ここで、ある関係性にある私が」でなければならないと。
それは私の洞察でもなんでもない。誰もが「われ」に返れば納得していることなのだ。
「ひとりのひとにたいし、わたしの<なんじ>として向かい合い-----そのひとは、もののなかの一つのものではなく、ものから成り立っている(筆者注:交換可能な「機械の部品」のような)存在者でもない-----そのひとは、他の<彼><彼女>と境を接している<彼><彼女>ではない-----それどころか、そのひとは隣をもたず、つながりを断ち切っている<なんじ>であり、天を満たしている(筆者注:全体を宿す部分としての存在)。
メロディは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。
このことは、わたしが<なんじ>と呼ぶひとの場合もあてはまる」
「全体を理解する方法は、抽象概念からではなく、参加というものを通じて生じるとボームは信じていた。
『違った種類の意識が我々の間で可能になる。それは<参加意識>である』。
真の対話においては『各自が参加し、グループの中に存在する意味全体を分かち合い、さらに活動に加わる』。
これはボームが警告しているように、必ずしも楽しいものではない。我々が生きている実社会の現状には、美と同様に苦痛が、無条件の愛と同様に深い怒りがつきものである。
(筆者注:しかし)もし、全体の中に存在するいかなるものからでも距離を置けば、人はそれに参加できない-----そして、事物を抽象化したり、判断したり、または自分を正当化しようとしたりする姿勢に戻っていく」
私は、発想や洞察は、個人にしろ集団にしろ、無意識が浮かび上がらせるものだとしてきた。だから発想法というものはないと考えている。
しかし発想や洞察は、暗黙知を明示知化する起点である以上、その過程や成果をメタ思考して共有し俯瞰することが、個人レベル→集団レベル→組織レベルで必要になる。
コンセプト思考術において発想や洞察の成果を「送り手側のモノ提供の論理」や「受け手側のコト実現の論理」に照らすことは、このメタ思考を支援することでしかない。
対話そのものではなくて、対話の成果に対するあくまで「話し合い」や「議論」において貢献するものとして、コンセプト思考術は位置づけられる。
繰り返すがここで大切なことは、 意見のパラダイムが対立することと、意見を言う人が対立することとは本来次元が異なる事柄であって、一緒にすることは一時の感情を発散させることはできても貴重な時間を無駄にし続ける不毛を招く、ということである。
「対話を生み、いっそうコヒーレントで(筆者注:一貫性のある)暗黙的な見地へ向かうための、最初の入り口がここにある。
真実に参加するには、自分の一部がその真実の中にあることに気づかねばならないのだ。(筆者注:自分とは異なる意見の持ち主もその真実の中にある。)自分自身から分離した『善人』も『悪人』もいない。現代社会の一員として、価値を認めるものにせよ、忌み嫌うものにせよ、存在を生じさせる力を創造することに誰もが参加しているのである」
草柳大蔵氏は、何かのエッセイの中で、
「人にはいい人とわるい人がいるのではない、
みんな弱い人なのだ」
といった主旨のことを述べていた。
その弱さは、誰もがその中にいる真実の一つだと思う。
センゲはこう結論している。
「要するに、デヴィッド・ボームが基本的な目標としたのは、これまでと異なった、より実行可能な方法での共生の実現だった。
相互依存が増えている世の中で、こうした行動がとれない人間は、高まりつつある対立に向かうことを避けられないとボームは知っていた」
「彼の言葉によれば、こんなことを思い描いていた(中略)。
『私の知る限り、実際には存在したことのない種類の文化である-----(たとえ存在したとしても)はるか昔に違いない』。(中略)
今の人類が直面している類の世界的規模の窮地に陥った社会が、かつてなかったことをボームは知っていた。そして、我々が手を携えて、自分たちの存在に革新的な変化を起こさなければ、危機を乗り切れないだろうということも彼にはわかっていたのである」
本論シリーズの結論へ向けて
最後に恐縮だが私事で締めくくらせていただく。
私は昨年半ばから、それまで伊豆で二人暮らしをしていた高齢の両親と同居しはじめた。生まれ育った東京を後ろ髪を引かれる思いで離れ、公私の移転の準備と実施に半年を費やした。
そしていざ引っ越してみると、なまじ夫婦仲のいい両親ではないため問題は山積なのだが、どこか地に足のついたような充足感を抱いている自分に気づいた。
今にして思うと、それは現場で対話を日々繰り返していることが日常になったことによる。
それはボームが警告したように必ずしも楽しいものではない。
しかし、
「もし、全体の中に存在するいかなるものからでも距離を置けば、人はそれに参加できない」
のだ。
私が東京で暮らし、伊豆に定期的に行き来していたこれまでは、親子=家族という全体に参加していなかったと思う。
両親の仲がどの程度悪いかというと、ある限界を越えていないからここまで連れ添っている訳だし、新聞沙汰の事件を引き起こすほどには悪いこともなかった。夫婦のどちらかが悪人でどちらかが善人という訳でもない。しかし、「共依存」などという分かったふうな抽象的な専門用語を使ったとて、暗黙知にあるだろう夫婦の本質は解明されまい。
そもそも人生や生活には、本質の解明などよりも大切なことがあるのだろう。
それは対話をどのような形にしても続けることである。
私は息子として、夫婦の諍いを耳にすることが苦痛である。幼な心が感じた悲しさが呼び戻ってくるような気持ちになる。しかし同居が半年になった今は、悩みながらも対話を諦めずにきた両親は素晴らしいと感じている。たとえそれが、諍いという名の対話であってもだ。
私も、頭での理解と整理で問題を処理していた頃とは違って、両親の多様多彩な対話を見守り、対話が少しでも楽しく明るいものとなるように参加して、問題が少しずつ解消していくことを感じている。
今気づいたが、私が若い頃魅了され大変お世話になったクライアント企業の経営危機において、パラダイム対立当事者の社内政治の不毛なあり方を見過ごす事ができないできたことと、息子としての私が両親の夫婦関係のあり方に関わってきたこととの間には、私の暗黙的な本質において意識では理解しえない何かが通底しているのかも知れない。
日本の企業社会における、「パラダイム対立の対立当事者による融和的超克の方法論を求める」という私の課題において、課題解決のヒントはすでに「縁起=共時性+因果律」において現象しているのかも知れない。
次項(7)では、「ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ」のデヴィッド・ボームの著述内容を私自身や日本の企業社会に引きつけて検討し、いまの自分なりの結論を抱負なり希望として導きたいと思う。
来週は出張が重なり名古屋で研修講師、東京で発想ファシリテーターの仕事をする。そこで遭遇するだろう出来事や気づき、浮上するだろう発想や洞察にも気を配ってその意味を深い次元でとらえ、なるべく有意義で具体的な結論を求めるよう努めたい。
*補記
「社会構成主義と『コンセプト思考術〜日本型集団独創』の一致点」
その1 http://cds190.exblog.jp/5862400/
その2 http://cds190.exblog.jp/5863005/
その3 http://cds190.exblog.jp/5863228/
その4 http://cds190.exblog.jp/5865294//
その5 http://cds190.exblog.jp/5874239/
その6 http://cds190.exblog.jp/5874251//
「社会構成主義に『コンセプト思考術〜日本型集団独創』が学ぶこと」
http://cds190.exblog.jp/5880752/
つづき http://cds190.exblog.jp/5880760/
「社会構成主義に『未来を創り出して行く対話』を学ぶ」
http://cds190.exblog.jp/5890918/
つづき http://cds190.exblog.jp/5890927/
補記**