年末「心の大掃除」読書編(2) アファメーション=肯定的宣言の効用(2/2) |
私の家の話では、私は思いついた事態改善のためのベストをその時その場で尽くしてきた。行動できることはする。行動する余裕がなければ計画を立てる、といった具合にだ。
お陰で両親は私がせっかちな人間なのだと思っている。
しかし私がこだわるのは、不用意に先送りにしていけば、
「あれもしなければならない、これもしなければならないが、やってない」
という状態を繰り返すことになり、それが当たり前であると私自身の潜在意識に刷り込ませてしまうのはまずいということだった。
なぜなら、両親はずうっと昔からそのようなことを毎日確固たる「繰り返しのリズム」でやってきて文字通り骨身に染み込んでいる。そこに楔を打つことが大切だ。
私までが同調したら、母のネガティブな予想とそれを無益に不安がることが放置され、その想念が認知症のまだら状態の父にネガティブな自己催眠をもたらし、それが母との諍いの原因発生となる父の過失を拡大する。その連鎖が助長されるだけなのだ。
私は家事の手伝いや送り迎えもするが、こうした両親を見守るだけの暮らしをする訳にはいかない。
無論、実家をSOHOとしての仕事もしなければならない。
両親と家のことでやらねばならぬことのたまり方によっては、その重圧に負けて私自身もネガティブな予測と無益な不安の虜になってしまう可能性もない訳ではないのだ。
しかし、私は自分の本当の現実に身をさらしてそこで物事を実践したり現場を観察して、最近こう思うようになった。
家庭でも会社でも世の中でも、状況がまっとうでベスト・コンディションということなどめったにない。むしろそれが常態なのだ。
ところが、テレビをみている限り、ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」にでさえ善男善女しかでてこないことに影響されている私たちは、年寄りはみなNHKの朝の番組で取材されるような比較的にシンプルでストレートな性格の人ばかりと幻想しがちだ。
会社も、同じ企業でさえ、外から見るのと内から見るのではまったく様相がちがうのに、みんな大型書店で売られているビジネス書の内容がそのまま役立つかも知れないと、潜在意識に働きかけられて無意識的に故意に勘違いしている。
「いま、ここでできる具体的なベストをすぐに尽くしては、ぱっと手放して休む」
それを繰り返すリズムを仕掛けとしてもつ個人や集団や組織が、成功物語をうみ、その副産物として成功ノウハウをものにしている。
これは大きく捉えれば、「潜在意識のレベル」が「意識のレベル」に現象している、ということであって、けっしてその逆ではない。
それが現実だ。
なのに、私たちの「意識のレベル」はその逆の方途を辿ろうとする。
ビジネス書で成功ノウハウを仕入れて、それを実践すれば個人や集団や組織が成功すると考えてしまうのだ。
それではなかなか物事はうまく行かない。なぜなら、そうした方途を辿ろうとしている間ずっと、それぞれの「潜在意識のレベル」は無視され軽視され、さらには蓋をされてしまう場合もあるからだ。
そのような場合、著者の言う”もう一人の自分とうまく付き合う”状態にはなりようがない。
アファメーションとは
結局、東京を移転しての両親との同居において、私の防衛本能が守りたかったことは、著者が述べる以下のことを前提とした悪影響だったと思う。
「”潜在意識は、繰り返しのリズムに影響される」
「”繰り返しのリズム”をもつものはすべて、”アファメーション”を構成し、よくも悪くも、”もうひとりの自分=潜在意識”にダイレクトに影響を与えてしまいます」
「”アファメーション”という言葉は、本来、”肯定すること”とか”肯定的な表現”という意味ですが、一般的には”自己暗示の文章”というようなニュアンスで使われることが多いと思います」
「愚痴を口にするのも、一度や二度ならどうということもない。ストレスのガス抜きとしての効果もないとは言えないでしょう。しかし、同じ愚痴を何度も(筆者中:特に何の前向きな努力も実践しないでおいて)繰り返すことだけはしないように心がけてください。
なぜなら、 ”繰り返しのリズム”こそが、潜在意識を開く鍵だからです。
繰り返すことの”内容”に意味があるというよりも、繰り返す”リズム”のほうがポイントなのです。
潜在意識には、論理や打算にではなく、リズムに反応するという性質があるのです」
自分の中心、梃子の支点を点検する
思い通りにいかないと感じる時、
「あなたは、自分の中心を失っているのです」
と著者はいう。
要は相手や人間関係や状況に振り回されて自分の中心を失っている訳だ。
「難しいのは、相手があなたを振り回すことを目的として振り回してくる場合です。(中略)
他人を意図的に操作したり振り回したりすることを、英語では”マニピュレーション(manipulation)”と呼びますが、特に欧米では、マニピュレーションはとても悪しきこととして軽蔑されています。(中略)
人の心を操作したり、振り回したりすることがなぜ軽蔑されるのかというと、”それが利己的な行為だから”という理由だけではありません。(中略)
それは、『私には自分自身をコントロールする力がないから、他人のほうを動かして帳尻を合わせよう』と考える、その人自身の”弱さ”に他なりません。(中略)
しっかりと自分の中心をもっている人であれば、どうして他人を操作したり振り回したりなどする必要があるでしょう?」
この考え方は、私がすべの人の「自由意思の活性化」を理想として求め、「自由意思の封じ込め」を決して正当化したくない理由でもある。
往々にして、「自由意志の封じ込め」を立場的に必要悪として正当化するタイプには、自らの「自由意思の活性化」を断念した人が多い。だから、余計にそうした行為は極端を極めていく。そしてより多くの人々が犠牲者にされてしまいがちだ。
厄介な事に人間には不自由になる自由もある。
そして、そういう自由を選んだタイプは、より過酷に不自由を求める人を周囲に集めて、その先にさらなる犠牲者が配置されるように、本能的にマニピュレーション行動をとる。
まるで新興宗教やネズミ講のような話だが、社会人であれば、ふつうの会社で多かれ少なかれそういうタイプを散見している筈だ。
私は、発想とか独創とかを促進することをライフワークにする者である。
だから敢えて断言するが、エーリッヒ・フロム流に言えば、そういう操作的タイプに迎合することで「エロス=愛や創造」につながるものが生まれることはない。
必ずや結果的に「タナトス=死と破壊」につながるものが生み出されることになる。
なぜなら、主体である本人が、「エロスに向かおうとする個人の意志」を「タナトスに向かおうとする全体の意思」に生け贄として捧げるところから出発するのだから。
フロムは、周知のとおりナチスに傾倒してしまった自国ドイツを反省し、戦後「自由からの逃走」という名著を著した心理学者だ。
著者は、操作的な振り回す人は感情によって要求を突きつけてくるが、追従的な振り回される方にも弱さがあって、要は、振り回されたがっているのだ、と論じる。
「振り回されるあなたの中にも、振り回されたいという願望が隠れている、ということです」
「人は決断をするのが怖いのです。決断することをできるだけ避けようとしてしまうところがあるのです。
”自分で決断するくらいだったら、人の決断に従ったほうがましだという方向に動く心が潜んでいるのだということに気づいていただきたいのです」
付け加えると、誰の決断でもいいわけでは無論なく、たとえ過酷でもいいから感情を安定させてくれる相手の決断に従ったほうがましだとする。つまりは、長い物には巻かれろ、みんなが良いとか普通だとか言っていることに同調することで心理的な安定を図る訳で、外発的な比較可能な尺度で高く位置づけられる誰かの決断に従うことになる。
著者は本書の最後の方で、それと付録CDの講演でも最後の方で、ある人たちに対してという限定をして、とっておきの(とご本人が言っている)”もう一人の自分とうまく付き合う方法”を教えている。
まず「ある人たち」とは、とっておきの方法が有効に作用するタイプなのだが、どういう人なのかの解説からしている。
「『私にとっては、やっぱり振り回される人生のほうがラクだ』と言うなら、”振り回される人生を選ぶという決断”をあなた自身がしたことになります。
それはそれであなたが自分で選んだ人生だということができますから、だから、私はあなたのその決断を心から尊重します」
私自身もそういう考え方だ。
私の場合、あなたが「私にとっては、やっぱり人を振り回す人生のほうが楽しい」と言うなら、尊重はしませんが、あなたの勝手です、と付け加えよう。
「しかし、もしあなたが、
『私は他人に振り回されずに、自分で決めた自分の人生を生きたい!』
と言うなら、そのためのヒントを本章の最後にあなたに贈りたい」
私自身は、「他人に振り回されたくないが、自分も人を振り回したくはない」という、恊働、チームワーク、リーダーシップの基本精神にとって至極当然の前提を維持したいとする人に向けてのみ、それを紹介したい。
それは、
「振り回されない人生を生きるためのトレーニングとして、
”どうでもいいようなちょっとしたことも、自分で決めるようにする”」
ということだ。
詳しくは本書を読んでほしい。女性読者向けに書かれたたとえ話を、男性ビジネスパーソンの場合、かなり自分の問題に転換して読まなければならないが、それは原理原則を理解すれば容易だと思う。
本論では、その原理原則を紹介するに留めたい。
潜在意識は、
「注がれる心のエネルギーが強ければ、それが重大なことだとみなしてしまう」
「あなたにできることがどんなに小さなことだったとしても、あなたがそれに対して真剣に向き合いさえすれば、潜在意識はそこから奇跡を起こす」
「”繰り返し実現する言葉は、やがて言霊となる”」
ここでまではよく聴く話だが、著者が明快なのは、
「言葉+結果のセットで繰り返す」ことが必須要件だ
とキッパリ言っているところだ。
「同じ台詞を何度もつぶやくことで、それが自己暗示となって潜在意識に影響を与えることができるのだと勘違いしている人が多いのですが、それは”繰り返しのリズム”の意味を取り違えています」
「要するに、”言葉”だけが繰り返されてもダメで、”言葉にその結果が伴ったセット(言葉+結果)”として”繰り返しのリズム”が形成されるのでなければ、その言葉はアファメーションとしての効力をもたない」
「あなたの言葉に力を宿すには、”もうひとりの自分=潜在意識”に対して、”私の言葉は必ず実現する”ということを分からせればいい」
「”私の言葉は必ず実現する”ということを潜在意識に説得させるには、この命題をひっくり返して、
”私は実現することを言葉にする”
というふうに考えればいい」
私が伊豆に移転し同居しはじめてから、母の愚痴や両親の諍いに出合うたび、その発生原因をこうして解消しようと宣言しては即座にそれを実行してしまうということを繰り返したのは、図らずも「言葉+結果のセット」をもっとも直截明快にやったことになる。
「”私の言葉は現実になるのだ”ということを潜在意識に分からせることが目的なのです」
私の場合、母の潜在意識に分からせるという側面が強くあり、結果、半年が過ぎて、これまで文字通り十年一日に繰り返されてきた母の的外れなネガティブな予想をして無益な不安を抱くことの頻度が着実に減ってきた。
まだら惚けの父の自己催眠のような過失の数々も、母との諍いのリアクションという側面があったようで、「秩序を逸脱する方向性のアクション」は無くなった。
じつは、引っ越し運搬日の直前のことだったが、夜九時に伊豆に到着した私に母が父が昼出かけて帰宅していないという。すぐに心当たりを調べたら、タクシー会社から東京に行ったという情報が入った。なんと92歳のまだら惚けの父は東京に一人家出をしていたのだ。徘徊ではない、明確なる意志をもって母に駅前にちょっと飲みに行くと偽っての計画的犯行だった。私は伊東警察に捜索願い出した。警官がパトカーで駆けつけ事情聴取をして、私は正式な広域捜査を依頼するべく警察に出頭した。12時近くになって吉祥寺駅の派出所に道を尋ねに入った父が確保された。しかしそれが私が伊東警察から伊豆高原にクルマで帰る途中のことで、派出所警官が母と電話で話した父の様子をみて最終の中央線東京行きに乗せてしまったという。父は建設中で営業を休止している東京駅のステーションホテルに泊まるつもりだったのだ。私は丸の内署にその旨を連絡し東京駅構内で身柄確保してもらった。
父が軽い脳梗塞で救急車で運ばれた2〜3週間後のことだったので、私は人ごみや駅階段での転倒などを心配したのだ。翌日早朝、丸の内署に宿泊した父を迎えにいった。
そんな父の「秩序を逸脱する方向性のアクション」による騒動があったのだ。
これは、今にして思うと、母の操作支配に対抗して父なりの革命を起こしたということだった。私は本書を読むまで、父は本当に息抜きに東京に行きたかったのだと思っていた。
同居してからも、父はこの騒動に懲りずに東京の床屋に行くと言い出したことがあった。その日はどうにかなだめて、私の東京出張の前日に、早朝より日帰りで父の都内回遊に同行し午後三時半の最終の踊り子に東京駅のホームで乗せて帰し、母に伊豆高原駅のホームで出迎えてもらうということもした。
しかし、そうした要求も今は影を潜めていることを思うと、父は「意識のレベル」では東京で気晴らししたいと思っているが、「潜在意識のレベル」では母に心配をさせたり、私に同行をさせたりして感情的な操作支配をしたいのだということを理解した。
これには、子供の口から親のことを悪くいうようで心苦しいが、似た者夫婦で操作タイプ同士の心理戦が反映している。(ただし、父母が操作タイプとなるのはお互いと子供である私に対してだけであり、一方的な支配ではなくて常に共依存に持ち込もうとするものである。)
私は、幼心ついた頃からそういう両親の人間関係にうんざりしてきた。
というより、それから常に逃れようとしてきたように思う。
同居して92と82の両親の子供じみた心理戦の現実に身をさらすことで、今は、逃れるのではなく真正面から受けとめて対応するようになった。その上で自分のこともベストを尽くしている。きっと、自己実現というのは、そういうハードルがあっても平気ですることなのだろう。まだ、そうした域にまではとても達してはいないが、そういうことだという目標設定はできた。
私は、こういう両親のもとに生を受けたことにも何か理由があり、けっして偶然ではなく、それゆえ可能となる人生の宿題を担っていると考えもする。
お陰さまで母の心身の健康は回復し、父の様子も引っ越し前後にくらべて安定してきた。
私を含めて家族としての無意識の”全体性”がこれまでよりは安定し調和してきたということか。
以上のような家庭のちわばなしは、会社のような組織の話と、どう繋がるのだろうか。
会社に毎日通う会社員なら、「潜在意識のレベル」の話もできるのだろうが、あいにく私はフリーランスでそれはできない。
社外ブレインとしての関わりからの物言いしかできないが、それはそれで社内の方からは、え、そんなこともあるのかという感じで聴いてもらえるかも知れない。
「”掲げた目標をゼッタイに実現する”のではなく、”ゼッタイに実現する目標を掲げる”
という考え方をする」
「確実に実現できる目標を設定し、それを実行する-----」
私がブログで展開している提案や提唱は、私としては実現できる目標として設定している。
ただ、社外ブレインとしてそういう方向で協力させてもらえる場を用意してもらえなければ、それは観客席からのヤジのような「絵に書いた餅」だ。
これをもって、「絵に描いた餅しか言えないネット弁慶だ」とレッテル張りをする人もいるが、対話をしようとはけっしてしない態度、組織にかもす万機公論させない圧力はマニピュレーション以外の何物でもない。
さらに私が「仕事が欲しいからいろいろ言ってくる」という人もいる。それについては、私が関与しなくても、提案提唱を発想の触媒、思考の叩き台としてくれればいいとも常に述べている。
私が不満なのは、アイデアや意見を採用するにしても不採用にするにしても対話は拒むという姿勢だ。
「忙しくてそれどころではない」という対応を漏れ聞く訳だ。私は、会社全体にとって、先送りしていいような話題はとりあげていない。
話題についての反応は、僅かな個人有志からあるのみで、集団や組織レベルの反応は皆無だ。
「”いつもの自分=意識”は、たとえば、『英語を勉強して、通訳になろう」と考えます。
”もうひとりの自分=潜在意識”は、それがひっくり返って、『通訳になる、そのために英語の勉強をしよう』と考えます。(中略)
”心の支点”がひっくり返っている
のです。
『英語を勉強すること』と『通訳になること』のどちらを”ありき”で考えているかの違いです。どちらを”前提”にしているかということです。
ふつう私たちは、『英語を勉強すれば、通訳になれる』というふうに、”英語を勉強すること”がしっかりできれば、結果として”通訳になる”という未来の目的が実現すると考えますが、これが”いつもの自分=意識”の考え方です。
”もうひとりの自分=潜在意識”のほうは、まず『通訳になる』という未来に現実になることを前提としてしまって、『それじゃあ、今からやることは、英語の勉強だな』というふうに考える。未来に現実になることを前提にする-----と申し上げましたが、本当は潜在意識には未来も現在もないのです」
経営危機にある会社の社員の状況をみてある社外ブレインが、「危機感が無さ過ぎる」と評していた。
その表現は社員の意識を論じたのであるから、その範囲で正しいと思う。
しかし、潜在意識に着目するならば、経営危機にある時ほど、起死回生した未来を先取りして前提にして、「それじゃあ、今からやることは、◯◯だな」と考えることが大切である。
それはむしろ危機感に揺さぶられての行動であってはならず、危機であろうがなかろうが、そもそも本来理想を求めてやってこなければならなかったことから再出発する、ということだと思う。
「本来自らが、意識も潜在意識もともに理想として求めるべきことに、背を向けて逃げても良いことはない」
そういう文脈が、私のちわばなしとアナロジーで重なってくるのか。
これは私個人にとって主観的にシンクロニシティであっても、客観的には強引な話の展開でしかないだろう。
しかしだ。潜在意識には主観も客観もない、家庭も会社もないということがミソである。
私がブログで展開してきた提案提唱は、つねに「そもそも本来理想を求めてやってこなければならなかったことから再出発する」発想の成果だった。
だから理想論という点では、「絵に描いた餅」と言われても否定はしない。
ただ、具体化はするつもりになればできることであって、非現実的なものではないこと。
そしてその内容は、「未来を先取りしてそのために今すべきことを具体化した絵に描いた餅」、しかも今、ここにいる、私たちならでは可能なユニークなものなのであって、業界横並びでどこの誰でも口にするような「その場凌ぎの絵に描いた餅」ではけっしてないことだけは念を押しておこう。
数字と概念だけのマクロマネジメントのアイデアではなく、生活者の現場観察や就労者の知識創造の身体知を前提としたミクロマネジメントのアイデアであることも、言うまでもない。
日経新聞に掲載されるようなことだけが現実であるとするのはいかにも皮相的であるし、就労者が携わる生産と販売の現場こそが現実とするのもあまりに一方的である。
既存の常識に合致していることと、即物的なモノづくりとモノ売りこそが現実であり、それは「絵に描いた餅」の対極にあるものだと自負するのは勝手だが、形あるものは必ず無くなるのだ。
けっして無くならないものは何か?
それこそが大切だ。
それは、形はないが心に具体的な感触のある何かではないか。
それは、ある個人やある集団やある組織の意識と潜在意識とが、それなりのユニークな形で仲良く手を取り合ったものであろう。
それが業界横並びの筈はない、というのが私の直観だ。
私の「絵に描いた餅」は、すでに踏み絵のような働きもしている。
だからこそ陰に陽に批判があったと思うのだが、いかがだろうか。
いずれにしても、経営危機を起死回生するための「絵に描いた餅」も今年で打ち止めとなる。
(また状況変化次第では、そうとも言い切れないところは正直あるが、年の瀬はそういうことにしておこう。
今度の年の瀬は、今までの比ではなく公私ともに忙しい。)