年末「心の大掃除」読書編(1) |
ウエイン・W・ダイアー著/渡部昇一訳 発
「つまらぬことが大切に感じられて、大切なことが些細なことに感じられる」
そんな時空からの逸脱
生まれ育った東京都心から後ろ髪ひかれる思いで伊豆に引っ越して半年、自分でも意外なことに、もはやこちらの方が快適に感じるようになってきた。自分でも、と言ったのは、友人の多くが伊豆に落ち着くことは無理だろうと予測していて、私もそれに同調していたからだ。
しかし今、私にとって東京都心の魅力も意義も決して薄れた訳ではないが、月一程度の出張時に連泊して集中的に味わえば丁度いいと感じるようになっている。それもプライベートな日程としては一日でよく、それ以上になると早く伊豆に帰りたいと思うようになった。
しかし、それは伊豆での暮らしが素晴らしいからではない。
じつは、私生活でも仕事でもつまらないことに神経を使うことがなくなったためなのだ。
つまらないこととは、東京にいる間つまらないこととは思いもせずに、必要なこと、仕方ないことと感じていたいろんなことだ。自分はフリーランスで好きな仕事を自分のリズムでやっているのだから、けっして無理をしていた訳ではない。しかし今は、どうでもいいことにこだわっていたとは感じる。私の場合、両親の老老介護状態を長いことほっておいた心理的ストレスが、じつは自分が想像していた以上にあったのを、実際同居して安堵してみて分かった、そんなことも影響しているとは思う。
だが、東京にいる間、そうした心の奥底の安堵が大切であると実感できなかったのは、やはり東京にいる間「つまらぬことが大切に感じられて、大切なことが些細なことに感じられる」という大枠で捉えることができる。
「つまらぬことが大切に感じられて、大切なことが些細なことに感じられる」というのは、仕事、私生活の垣根なしに、どうも東京都心という時空が日夜24時間365日放っている「群衆暗示」のようなものらしい。
私が快適に感じるようになったのは、「東京から距離をおくこと」で「群衆暗示」を解かれた状態なのだと思う。どうもそれは、私が「現代社会や現代世界の時空」から相当程度逸脱したことによるようだ。
私はとりあえず、両親どちらかが亡くなるまで伊豆で同居することにして、その間はそうした暮らし方でもできる仕事だけにしようと決めた。幸いなことに、私は会社や役所にしばられないフリーランスで、本業のプラニング以外に「コンセプト思考術」という出張でできる研修のお仕事もあった。またお金という形の報酬を得なくとも自分なりに有意義と感じられるユニークな研究と提案をし続けることも立派な仕事だと思える、じつに能天気な自尊心もあった。好き勝手に目下の努力はするがあまり先々のことまで考えない、そんな楽天主義者であるだけのことかも知れないが、一般的にみても明らかな形で「現代社会や現代世界の時空」からの逸脱者となったことは確かだと思う。
そしてこの年末、「つまらぬことが大切に感じられて、大切なことが些細なことに感じられる」そんな時空からの逸脱という観点で過去と現在の自分を反省して、未来の心の有り方とそれを可能にする生き方を展望すべく、「心の大掃除」のための読書をすることにした。
最近なんとなく手にとって読んだ古本や新刊の気になった部分を引用しつつ、シリーズで検討していきたい。
自分の強さは自分の考え方、心の持ち方一つにある
訳者、渡部昇一氏は「訳者のことば」においてこう述べている。
「他人の思わくなどは、いくら考えても自分の自由になるものではないのである。
とすれば、生き方は一つである。自分の選択のきく範囲では、つまり自分の意志次第のことに関してはできるだけのことをやり、その結果に対する他人の思わくを気にしたところで仕方ない、ということである。
きわめてシンプルな考え方であり、生き方である」
「自分の心をあやつる糸を他人に勝手に引きまわさせず、あやつり人形の如く生きるのはやめ、自分の意志を貫いて生きる-----これが、本書の原題”Pulling Your Own Strings"(自分自身をあやつる糸は自分で引くこと)の意味である」
私が東京都心の仕事や生活に象徴的に見出した「群衆暗示」とは、群衆がお互いの心をあやつろうと糸を引き合っているようなものかも知れない。それは特定の人間関係の場合もあるし、場特有のお約束事が集団や組織の構成員をそうさせている場合もあろう。
「ダイアーが説くのは徹底的な『自分のための自分』である。(筆者注:「徹底的な」とは、読み進めていくと「心の深い部分に従った」という意味と理解される)
そんなことで家庭や会社や国家がうまくいくであろうか。そういう疑問に対しては、それはそうではないよりうまくいくであろう、と答えることができる」
つまり渡部氏は、誰もが「自分のためでない自分」でいるよりはうまくいく、というのだ。
「自分のためでない自分」とは、「自分の心をあやつる糸を他人に勝手に引きまわさせている人」のことだ。
おそらく内心、自分はかなり支配欲の強い役人だとか自己中な小悪魔だとかの自負心から自分に限ってそんなことは決してない、そんな自信を密かに抱く人もいるかも知れない。
しかし、そんな自分にさせているのが「群衆暗示」でないという保証はないのだ。
「群衆暗示」による弱肉強食の正当化をそのまま鵜呑みにしているから、ある人は他人の心をあやつる糸をたくさん引いて喜ぶ権力者でいられるのかも知れない。あるいはある人は、家の外で権力者におもねる分、家の中で家族の心をあやつろうとするお山の大将でいるのかも知れない。何か憑かれたようにそういう自分でいるが、ご本人の奥深い自立した心に「それがほんとうのあなたなのですか?」と問うことができるならば、答えに窮する筈だ。糸を引く対象である他人が存在しないと、糸をひく人間性は成立しない。ということはそれは皮相的かつ依存的な心の有り方ということに他ならない。そしてそんな心の有り方ではけっして満ち足りた気持ちにはなりえないことは、誰でも人生の終末までにはしみじみと感じ取ることになる。
渡部氏は、「自分の心をあやつる糸を自分で引く、他人にひかせない人」ばかりの方が家庭や会社や国家がうまくいくことの理由をこう解説する。
「なぜなら、人は自分で判断するようになると、卑劣な隷属感からではなく、やるべきことを進んでやる、あるいは義務としてよろこんでやるようになるものだからである」
そして著者ダイアーは、第一章「『いい人生』を生きるための約束事」の冒頭で、こう言い切っている。
「みじめな犠牲者にならないことも、また逆に犠牲を強いる加害者にならないことも、やろうと思えばできることなのだ。
ただそのためには、この短い人生の間に、あなたが自分自身に何を期待しているのかをしっかり再認識しておく必要がある」
自分自身への期待をハッキリさせないから、一般化している「支配被支配のゲーム」にとりあえず参加して、「思わく」という名の他者への期待に気持ちを奪われることになる、ということか。
しかし、世の中には「支配被支配のゲーム」よりも楽しいゲームが山ほどある。それは本来、可能性としては人の数だけ、あるいは人と人の出会いの数だけあり、その時々に自分に割り振られた、自分を成長させるゲームはいったい何かを探し続ける、そういう自己実現ゲームに人生をなぞらえることもできる。それは、向上心のある一般人が刹那的で些細なことかも知れないが、一生忘れられない至高体験をするようなゲームとなろう。
そんな有意義で楽しく好奇心を満たしてくれるゲームにおいては、他者を支配して喜んでいる暇などないばかりか、そんなことをしたらすぐにゲームオーバーになってしまう。
「まず『他人の意のままになる犠牲者』には決してなるまい、と強く決意することだ。
そして、自分が今、そのような犠牲者としてどのような行動をとっているかを見つめ直してみよう」
そう著者は呼びかけて論述を展開していく。
「もしあなたが、自分の意志通り、身のおもむくままに生きようとしても、何ものかに常に束縛されてしまうというのなら、あなたは自分自身を支配する力、つまり支配力を持っていないのだ。あなたは、犠牲になっているのである。
とはいえ、自由になるということは、家族や仲間に対する責任から逃れることでは決してない。もちろん、責任を持つかどうかを選択するのは自由だ。けれども、自分の望みと、家族や友人といった自分以外の人の要求とがくい違ったとき、彼らの考えに従わなければならないという法はない。きちんと彼らへの責任を果たしながら、なおかつ自由でいる方法があるのだ」
私自身のことに引きつけて言うと、私が一年ちょっと前50歳で東京をひきはらって伊豆で両親と同居しようと決断したのは、自由意思であったが、その決断を40歳の時に求められていたら、私は自分の意のままに自身の人生を送ることを犠牲にすると感じただろう。
ものごとにはタイミングというものがあり、丁度いまだから、自由意志で公私の新生活を自らの課題にできている。無論、自由であることと、なにもかもが問題なくうまく行くこととは無関係だ。
自由とはあくまで自己と他者との関係性についての選択の問題なのである。
「にもかかわらず、責任と自由とは両立し得ないと言う人が必ずいる。また、自由を望むのは”利己主義”だと言う人がいる。こういう人たちは、たいていあなたの自由を、そしてあなたの人生を、力ずくで抑えつけてしまおうと考えている人たちだ。もしそれらに屈服すれば、あなたは彼らに縛られて身動きできなくなり、結局は自由を失ってしまうだろう」
自由に責任をもつこともできれば、自由から逃走して不自由に責任回避することもできる。
人間にとってやっかいなことは、不自由の選択までが自由であることなのだろう。
私にとって明快なのは、不自由を選択することを私は他者に強いないし、他者からも決して強いられないということだけだ。
私も不自由に甘んじているのですから、あなたも不自由に甘んじるべきです。
こういう物言いは「支配被支配のゲーム」であり、全体の規律や最高の権威を後ろ盾にした「不自由の強制」だ。
うちの会社(事業部、職場)のやり方はこうなんだ、あなたもここの一員である以上それに異議を唱えず従うように。
そういう暗黙のルールが抗しがたくあれば、それも同じことだ。
私が「コンセプト思考術」でご指導させてもらっているパラダイム転換のコンセプトワークだが、構想企画作業なら誰でもできる。しかしパラダイム転換を具体化するには、多くの場合「不自由を強制している権力や権威」を変容させなければならない。そしてその成否は、構想企画者自身が、みずからの自由意思を体現することができるかどうかにかかっている。
これは講座で教えたり演習で練習できることではないが、肝腎要の事柄であることは明白だ。このことをどう捉えるかは、それぞれの自由である。
個々人に対して私がどうこう言う筋合いのものではない。
私は、私なりに具体的な事業や社内コミュニケーションについてのアイデアを提示して企業の可能性を建設的に展望したり、パラダイム転換的新機軸を打ち出さない場合の可能性を合理的に推測する自由にのっとるだけである。
その過程で、要注意事項としてこういう現実を指摘しておかなければならない。
「自分自身に期待しない人」は、他人にも期待しない。だから、彼らは容認されたやり方で他者と作業する共同はできるが、いまだ容認されていない、しかも自分も容認していない新しいやり方を創造する恊働はできない。というよりしたくない。なぜなら、それをするには自分と他者にほんものの自由を容認しなければならない。それが不都合だからだ。自分自身に期待しない人は、自分にほんものの自由を容認すると、自分に期待しないことを自覚しなければならなくなる。それは常に回避したい。結果、「不自由の強制」という制約条件の下で、他者に対する自分の比較優位を客観的に確認しつづけようとする。具体的には比較優位を売上や収入、IQやTOEFL、学歴や資格など数値化できるグローバルな標準にばかりに依存するから、こういうタイプはじつに分かりやすい。今のやり方ならば、従来の業績指標だけで評価され続けることができる。そして「より大きな数値をはじき出す人」になることをもって、自分自身に期待している人を自負する。しかし、それはほんものの自分でも、期待でもない。
なんで部外者のくせに、余計なことを言って波風を立てるのだ。
結果的に、私のようなコントロールできない自由人の物言いは、確固たる立場において周囲に不自由を強制する者と対立することになる。私は信念の問題として対立し、彼らは利害の問題として対立する。私の目的と手段は自由意思の活性化であり、彼らの目的と手段は自由意思の封じ込めである。あまりにも争点が明らかで、争点が明らかになることは彼らにとって得策ではないから、無視軽視することだけが打つ手となる。しかし、私は具体的な提案を公表しているから、それを無視軽視する「無作為の体制」は誰もが知るところとなる。立場のしがらみや利害の思惑がない私の方が、グローバルなマーケティング戦略に照らして合理的な方策を提示する場合も多く、おそらくお金をかけて検証すれば数値的にもその正当性を裏付けることもできる。
立場ある者が関与する「無作為の体制」とは、彼らが支配していると考える他者に、不合理に、そして不条理に不自由を強制する体制である。
つまりは、
自分の心をあやつる糸を他人に勝手に引きまわさせず、あやつり人形の如く生きるのはやめ、自分の意志を貫いて生きる
そうはさせないことを組織全体の秩序とするのが都合のいい者たちの合作である。
ある枠組みとノルマを与えた権限委譲のことを、自由意思の尊重だと言われて、暗黙のプレシャーが余計なことは考えるな、その枠組みから外れるなと常に言い立てているのであれば、誰だってはいそうですかとは言えないだろう。
自由に多様な考え方の対案を募り、全社的観点、顧客視点でオープンに議論して代替案を検討する、その結果として、二者択一なり、バランスよく資源配分をした代替方策を並行する。そうした行為を一切しようとはしない「無作為の体制」のことを、私は指摘しているつもりである。
けっして私の意見に反対している誰かを非難している訳ではない。私の提案や提唱は多様な業界の様々な課題について多岐にわたり数多く出し続けている。そのどれかに私が固執することはない。しかし、「無作為の体制」は執拗に無視軽視しつづける。
それは私のような部外者に対してだけではない。だから問題なのだ。私は、社員有志がしかるべき人々に画期的な提案や提唱をしても、部外者の私の場合とまったく同じに何のレスポンスもなかったり、会議をして発表してさえ暖簾に腕押し状態であるケースをたくさん見聞きしている。
注目してほしい。
彼らは公的にも私的にも自分の名において反対さえしない。ちょうど役人が個人の名において役人根性を発揮しないようにだ。
そこに問題性がひそんでいる。
結果かもしだされる重苦しい空気によって、社員有志の賛成者も意思表示できないでいる。
彼らはきっとそうとは意識していないだろうが、言論的にはそら恐ろしいことを平気で、しかも日常的にする者たちなのだ。これが戦争中の人の生き死にに関与することであっても、そういうタイプはそうするのだろう。だって、今の世の中そういうものだよと。
彼らの本音はこうだ。すべて運の善し悪しに帰結する。配属された戦地(事業部門)、割り当てられた兵役(職能)、配属された軍の司令官や参謀(経営幹部)の資質、上官(上司)に気に入られるかどうかなどが、生き死に(出世やリストラ)に帰結する。そして運の善かった者が悪かった者を無作為によって犠牲にして当然だとする。人間模様としてみれば現代の企業社会の様相も悪しき軍隊の様相とまったく同じことになってしまう。過激なようだが、何のためにいかに戦うかを公論できない、公論させないとはそういうことだ。
私の物言いが過激なのではない。
「無作為の体制」の「自由意思の封じ込め」ということの本質が過酷なのである。
ちなみに私は、ある社内SNSの研究組織に参加して、さまざまな企業の事例に触れた。
そこで分かったことだが、社内SNSにおいて、部門職能関係なしに、たとえば顧客と同じ生活者観点からの思いやアイデアを自由闊達に述べてもらい、それを関係部局も積極的に役立てる体制にある事例はきわめて稀少だ。(小林製薬の全社員にアイデアを出させて社長みずから表彰する制度は有名だが、それはアナログ時代からのことである。社内SNSによってそういうことを経営戦略的に可能にした大企業という例はほとんど皆無に等しい。ようは経営者のほとんどは、あまり高尚なことを社員同士でコミュニケーションしてほしくないのだ。)
セブンイレブンが、アルバイトやパートにもその暗黙知を頼りにアイデアや仮説を提示させて、積極的に発注や陳列に役立てていることは有名な話だが、社内SNSというWEB2.0時代のコミュニケーション・インフラによる知識創造の現実が、アナログ時代以来のPOSにも及ばないという事実を、私たちはどう解釈すればいいのだろう。
コミュニケーションのインフラがいくら整っても、構成員の自由意志を活性化させない「不自由を強制する体制」がある限り何の役にも立たない、立たせない。
鈴木敏文会長でなくとも誰もがそう喝破するのではないか。
私たちは、表面的にはデジタルで客観合理的な世界に生きているようでいて、じつは本質的にはアナログで動物主観的な世界に生きているのかも知れない。
敗北を恐れるな。敗因が明らかなときほど勝利が近いときもない。
著者は最終第七章「人生で成功する人の『いい習慣』」でこう、自由意思を発揮しようとする人を叱咤激励している。
「犠牲になりやすい人は、何かにつけてすぐにお手あげの状態になってしまう。それが恐怖心からくるものであれ、あるいは激怒したり欲求不満からくるものであれ、感情的に身動きがとれなくなると、すぐにあきらめてしまう。
これに対し、『犠牲になるまいとする人』は、感情のとりこにならず、我慢する。
犠牲になりたくなかったら、何事に対しても強い忍耐力を持って当たりなさい。
耐えることをやめてはならないのだ」
「人に長い間反対されつづけると、耐えきれずその相手との争いから身を引いてしまう人が大勢いる。そんなに言うのならしようがない-----このような態度で生活していると犠牲になりやすい。(中略)
十分に想像力をはたらかせさえすれば、それほどひどくまき込まれることなく忍耐できる方法を考えつくだろう。(中略)
犠牲にされないぞと意志表示をすることは、闘いも辞さないという決意表明をすることだ。そして、どんな闘いを進めていくのかを選ぶことでもある。それによって、自分には勝利を得るまでは闘い抜く用意があることを相手に知らせることができる」
「実際のところ、他人を犠牲にしている団体や個人は、忍耐強い人間に出会うことはほとんどない。だから、そういう人間の扱い方がよくわかっていない。彼らは根が弱い者イジメなのである。そのため忍耐強い人間に会うと、すぐにあきらめ、もっと手軽に犠牲になってくれる人に乗りかえる。その方が楽だし、賢明だと思うのである。
世のほとんどの人たちは、一人で立ち上がらなければならなくなると、羊のようにおとなしくなってしまうものだ。
行動を起こす前からすでに、偉大な存在や『大人物』、あるいは『市役所』などにはとうてい太刀打ちできないという態度をとってしまう。そしてこのために、自分のほうが犠牲になってしまうのである。
けれども、今やあなたは、こんなことはクリエイティブで活気あふれる人間なら目もくれないことを知っている。そんなことはつくり話の神話にすぎないことを。
あなたの行く手には数々のハードルがあらわれるが、その最初の数本を飛び越えさえすれば、あとは予定通りの行動をつづけることができるのだ。そして勝利を得ることさえ可能になる。
最初のハードルには、ほとんどの人が失敗してしまう。逆にいえば、だからそこにあるのだ。それさえ克服してしまえば、行く手には障害はほとんど残っていない」
私のような社外から社内のいろいろな部門職能の人材をみる者からすると、これは具体的にはシンプルにこういうことである。
「不自由の強制」「自由意思の封じ込め」に対抗した戦士はたいてい初戦に敗北する。
しかしそれは、彼らが個々の狭い殻に閉じこもって戦ったから、容易にねじ伏せられてしまったのだ。ならば、挑戦した戦士たちがネットワークし共同戦線をはればいい。
成功法則がシンプルなことと、それが当事者たちにできるかどうかは別問題だ。
しかしこの理屈の正しさは明治維新を振り返るまでもないだろう。
けっきょく、本音では「個人競争主義」という思惑を抱いていて「集団恊働主義」を目指さない者は、いま現在「個人競争主義」の元締めとして権力を保持している体制に呑み込まれて当然なのだ。薩摩と長州が我が我がと意地を張り合っている間は、幕府はそれにつけいることができたように。
「犠牲にならないためには忍耐強さが必要とはいえ、忍耐するために強情になることはない。あなたに犠牲になるまいという単純かつ率直な気持ちがあることを、相手に嗅ぎとってもらえればそれでよい。苦悩や混乱の限りを尽くして、結局はそれらの犠牲になるのではなく、自分の求める成果を得るために、必要なことだけをやるのだ」
きっと、忍耐しながら自己を成長させることが必要なのだろう。
そしてそのためには本音で「集団恊働主義」を抱く有志同士で、「単純かつ率直なオープンマインド」の対話をすることが絶対に不可欠である。
私は、組織の活性化や国難を乗り越えるような経営の起死回生において必要なこととは、
本音で「集団恊働主義」を抱いた「単純かつ率直なオープンマインド」が連帯すること
だと信じて疑わない。
それなくして、真正の組織の活性化も経営の起死回生もあるとは思えない。
この会社で自分が出世できると思うから頑張っている人は、活性化したいのは自分の自由意思だけで、すべての人の自由意志を活性化させて会社全体で効果的かつ効率的な恊働をしていこうなどとは考えない。
出世できないと分かれば会社をあっさり去る人でもある。つまりは、忍耐する人ではない訳だ。まして忍耐の中で成長し有志と対話をしようとする人でもない。
しかし、この会社でなければできない事を全社協力して実現していこうではないかと、本音で「集団恊働主義」を抱く「単純かつ率直なオープンマインド」の持ち主も大勢いる。
彼らは必ずしも部門の実力者だったり、特定の職能に秀でた専門家ではない。権力や権威を後ろ盾としない彼らは、むしろ多様な人材の多様な能力を恊働させることができるリーダーシップの持ち主たちである。業界業種、専門分野そして社内外の垣根をこえて自分とは異なる意見を積極的に求めて、他者とともにより優れたアイデアを綜合していこうとする、ほんもののクリエイティビティの持ち主たちでもある。
明治維新の下級武士の活躍を持ち出すと事大主義のようだが、そうではない。
いつの世も、また事の大小を問わず、人の心の有り方、関わり方のパターンはまったく変らないということだ。
どうだろう、あなたの会社の様々な部門の様々な職能に、朴訥だが公正な下級武士のようなオーラの人の心当たりがあるのではないか。
あるいは出世コースにいるあなたが、このままでは出世もなにもあったものではないと遠謀深慮するのであれば、勝海舟のようなアウトサイダーなのではないか。
冗談はさておき、今の時代、西郷や高杉のような英雄はいらない。
人の心の有り方と関わり方はシンプルだが、物事は複雑化し多岐にわたった統合性が要求される。黙って俺についてこいでは立ち行かない。
だからこそ、私たちにはそれぞれの専門的な知識や職能があり、そうした個々人をネットワーキングしてオープンソースを活用する公私のコミュニケーション・インフラがあるのではないか。
そして今欠けているのは、それを活用して犠牲者にはなるまい、犠牲者を出すまいとする個々人の自由意志だけなのだと思う。
「ヘンリー・ウォード・ビーチャーはかつてこう書いている。
『忍耐と強情との違いは、前者は強い意志からくるものだが、後者は強い意地からくるものだということである』」
ヘンリー・ウォード・ビーチャーはアメリカの説教者で、
「敗北を恐れるな。敗因が明らかなときほど勝利が近いときもない。」
という名言がある。