笑って仕事をしてますか?(4/5) |
ディル・ドーテン著/小学館プロダクション刊 発
自分に嘘をついている人を面接で見抜くことはできない
以上の主旨の著者の指摘は、なるほどそうかと思った。
面接による人材評価にいかなる限界がなぜあるのか、その本質的理由を説明している。
「大切なのは、見た目で判断することはできないし、それは直感も同様であるという点だ。優れた上司が伝統的な雇用プロセスを信用しなくなったのも、無理はない。彼らは、履歴書を選別する代わりに、才能ある人材を探して口説く、数年かけて優秀な部下を手元に引き寄せることも、めずらしくない」
本書をふくめて、欧米では話題の中心が中途採用であることに留意しなければならない。
私は終身雇用を保証し、集団恊働主義にのっとった実力主義を国際基準で厳格に行う、というトヨタやキャノンのようなやり方がいいと考えている。このような世界的なエクセレント企業の場合、誰もやめようとしないのと、もはや拡大する必要がないほどの大組織になっていることから、日本国内の正規社員のおおよそは「新卒で入って退職するまでの終身雇用」となっている。しかし、このような企業はむしろ例外に属する。
多くのエクセレント企業は成長過程にある訳で、組織の拡大過程が急激なほど中途採用を行う。そして中途だろうと正社員として採用した以上は、終身雇用は保証するというのが、世間一般的にいいやり方である、と私は考える。無論、実力主義だから待遇は保証の限りではない。
欧米との対比で終身雇用が問題視されたのは、「創造的な集団恊働主義とはいかなるものか」が明示知化されていなかったこと、それにのっとった実力主義が身内や国内というローカル・ルールにとどまり国際基準としての厳格さを欠いていたこと、だと思う。
こうした問題点をいまでも放置している企業は多い。
その共通の特徴は、世界的なエクセレント企業と同様に、「新卒で入って退職するまでの終身雇用」を前提とする体制において「中途で入って退職するまでの終身雇用」を例外として捉えていることだ。これは、終身雇用するかどうかを問わなければ、日本における採用の一般常識になっている。
しかし、これは日本の大企業のしていることである。
「中途で入って退職するまでの終身雇用」を前提に「新卒で入って退職するまでの終身雇用」を例外として捉える逆のパターンも可能なのだ。
というか、中小零細企業は実際そうだ。
ともすれば終身、身を立てて行く依り所がそこしかないという社長以下社員が集団恊働主義を臨機応変に展開している。つまりは厳格な運命共同体なのであって、「新卒で入って退職するまでの終身雇用」する人材は、ほんとうに社長や管理職のメガネにかなった人間でなければならない。実際、中小企業会社説明会場などで、「彼らは、履歴書を選別する代わりに、才能ある人材を探して口説」いている。成長著しい会社でなければ、次回の新卒採用はいつになるかは未定の筈だ。
こと採用に限らないが、私たちは、ビジネスを成功させよう、成長させようと考えると、無自覚的に成功している企業、成長している企業の常識をわが常識としてしまうが、そこに大きな落とし穴がある。
同じ一部上場の国際企業の間でさえ、世界的エクセレント企業と非エクセレント企業の間には、資本規模の差以上の、本来踏まえるべき常識の違いがある。
そういう意味でも、私たちは、既存の「ビジネス常識」をすべて疑ってかかることからしか、問題の構造的本質を打開する道を見出せないのではないか。
私は以上のような観点から、米国人の著者の鋭い示唆を吟味していきたい。
「見た目や直感では判断できないというのは、雇い主たちが用いる種々の雇用基準を評価するシーグ社の調査を見てもわかる。採用担当者が面接の間に抱くようになる印象にひょって、適材かどうかの点数は上がるには上がる。
しかしそれは、履歴書だけで選んだ場合より、ほんのわずかに高いだけだった。つまり、もし応募者に一度も会わなかったとしても、採用か不採用かを、何の問題もなく決められるのである」
これは、日本の採用の実態でもある。
そして不合理とも言い切れない。
著者は、私たちがある企業の実状を実地に見聞しないで、会社四季報をみて株式を購入することと同じだとほのめかしている。
これはじつに言い得て妙なのだが、それは特に雇用の流動性の高い「求人市場が雇用における中古車置き場である」というのが常識である国の話しである。
雇用の流動性の低い日本の場合、中途採用市場という中古車置き場は著しく狭く、しかも広大な廃車置き場に囲まれているの感がある。つまり、企業の株式のように活発な流動性はないのだ。
「こうしたことからわかるのはただ、私たちは相手がどんな人か、見ただけで知ることはできないということだ。これは納得しづらいところだろう-----誰もが、自分は人の性格を見抜けると思っているのだから(筆者注:特に長年面接官をしてきた採用部門の方は)。(中略)
誰かを雇おうとするときは、このことを忘れないでおこう。面接する人(筆者注=その印象通りの人)を雇うことには、けっしてならない、ということを」
ちなみに「はてな」では、入社志望者のブログを手掛りに、主に知識ベースについての人材評価をするそうだ。
性格に関する人材評価には、長所を加点主義でみる方向性と、短所を減点主義でみる方向性とあるが、ブログを手掛りにするのは前者の方法論としても有効だと思う。ブログ上で短所は隠すことができ、長所もねつ造することができるが、個性的な記事は自分で創造するしかないので、創造的な個性と、それに現れた内発的な動機と態度は評価できるのではないか。
さて、ここからが、
自分に嘘をついている人を面接で見抜くことはできない
と著者がするどく指摘するところだ。
「ここで重要なのは、人は履歴書に嘘を書くとか、面接で自分の短所を隠す手だてを知っているとか、そんなことではない(中略)。ここで論じているのは、ほら吹きたちのことではない-----少なくとも、相手に対して慎重に嘘をつこうとする人、という意味のほら吹きのことではない。
(中略)
面倒な事態は、あなたに嘘をつこうとする人でなく、自分自身に対して嘘をついた人から生じるのである」
著者は「内発的な動機と能力」と「外発的な動機と能力」の違いをとても分かり易く絵解きしてくれる。
「たとえば、『どうしても販売の仕事がしたい。訪問販売を、したくてしたくてたまらない』と言う人がいたとしよう。あなたはその人を雇って、様子を見てみることにする。ところが、何ヶ月経っても、ちっとも効果が現れない。そこであなたは、目標を設定し、約束させ、しかし・・・・・・何も変らない。数ヶ月にわたってさまざまな努力を試みた結果、ついにあなたは気づくことになる。
その人がほんとうに望んでいるのは、販売の仕事をすることではなく、成功したセールスパーソンになることなのだ、と。」
このことは、じつは採用問題に限らない、組織の根深い問題に通底している。
「顧客の役に立ちたい」のか「売上を上げて出世したい」のか、
「その会社が好き」なのか「出世できる会社が好き」なのか、
「会社の理念やヴィジョンやスピリッツを大切にしたい」のか
それとも「株主に対する経営責任をまっとうしたい」のか
といった具合に。
採用時点における個人の動機が内発的か外発的かの問題が、
最終的に組織の動機が内発的か外発的かの経営問題にまで積み増されて行く。
「その人は、あなたに嘘をつかなかったが、自分自身に嘘をついた。うそ発見器にかけたとしても、クリヤしたはずだ。いったいどうすれば、嘘をついているとわかるのだろう?」
著者は、まず、なぜ私たちが嘘を見抜けないかを指摘する。
「私たちはみな、自分の見たいものを見る」
のである。
面接官が自分と同じ価値観とおぼしき人間に高い評価を与える傾向が指摘されているが、それも同じ理屈である。そして、その「おぼしき」もあまりあてにならない。
「外発的動機派」が同類を選んだつもりで、選ばれた本人もそのつもりでも、どっこい「内発的動機派」かもしれない。
「内発的動機派」が同類を選んだつもりで、選ばれた本人もそのつもりでも、どっこい「外発的動機派」かもしれない。
著者はこう結論する。
「人となりではなく、仕事ぶりを見よう。仕事ぶりをしっかりと見よう」
私も著者の意見に大賛成だ。
ただし、それを日本で実行するとなると、前述した、
『「中途で入って退職するまでの終身雇用」を前提に「新卒で入って退職するまでの終身雇用」を例外として捉える』体制に転換しなくてはならない。
現段階でそれを急激に押し進めることは困難を極めるだろう。
しかし、新卒を「内発的な動機と能力」によって選考することは大切である。
現在、『「新卒で入って退職するまでの終身雇用」を前提に「中途で入って退職するまでの終身雇用」を例外として捉える』体制にあり、「外発的動機派」にとってはそこにおける地位や身分が既得権益化している企業においては、その硬直性と行き詰まりを打開すべくさらに急務ですらある。
そこで私は前記事のような、「内発的な動機と能力」の客観的評価を取り入れた「営業人材採用の新選考指標とその運用」(研究者や技術者にも適用できる全社的なもの)を提唱している次第だ。