笑って仕事をしてますか?(2/5) |
ディル・ドーテン著/小学館プロダクション刊 発
相手の役に立つ、ただし創造的に
私は権威主義と権力主義がきらいだ。
それは自由な発想を疎外し創造的な個性を押しつぶして、世の中にとっての最善を求めずとも、臆面もなくそれで当然といったふうでいる、結局は既得権維持と保身に終始する者の根拠だからだ。
では、私が権威主義者や権力主義者と闘うかというと、自由な発想を疎外され創造的な個性を押しつぶされている人々を縁の下から支えるべく、一般論として批判はするが、個人攻撃はしない。一般論としての批判も、批判が目的ではなくて、より広い公的最善を求める議論をしていく過程で必然的にそこに言及せざるをえない場合に限る。しかし、彼らは自分が批判されたと感じるから、報復として陰に陽に私を個人攻撃する。無視や敬遠をするのは当然である。
私が彼らを個人攻撃しないのには3つ理由がある。
まず、彼らとの関係において自分も同列の、異なる権威や権力を振りかざす人間になってしまいたくはないからだ。
次に、彼らは競争相手の権威主義者や権力主義者と日々闘っていて、ほっておいても自ら疲れ果てていくからだ。
そして最大の理由は、そんなことに気を取られているよりも、より広い公的最善を実現するアイデアを一つでも多く出すことに専念したいからだし、同様の志向性をもつ非権威主義的で非権力主義的な有志の発想思考をファシリテーションしたりバックアップしていたいからだ。
私は、そうした活動が金銭という形の報酬や契約という形で身分につながらなくても、それが自分の仕事であると思っていて、それが雑念なくできている限り笑って仕事をしていられる。
マーケティングの用語法で言えば、権威主義者や権力主義者は、私のカスタマーではない。
私のカスタマーは、彼らの堅持する既存パラダイムに対抗して新規パラダイムへの転換を成し遂げようとしている有志たちだ、ということになる。
このような志向性を共有する者の共通言語は、ただ一つ、アイデアである。
アイデアのより広い公的最善につながる有意義さ、魅力、楽しさ、面白さといったことは、曰く言いがたいが心地よい身体感覚(フェルトセンスという暗黙知)を伴うことでそれと分かる。
それは、誰もが生活者として生活現場での体験として再現でき、誰もが就労者として就労現場での体験として再現できる身体知でもあり、某かのエキスパートや大学教授をつれてきて後光効果をもって周囲を説得する必要などない事柄である。
アハー体験とは、そういう気づきに他ならない。
そして、人々にアハー体験をさせるアイデアでなければ、特に無意識のパラダイム(意識のパラダイムの土台)を転換させることはできない。
言われてみればその通りだ、と誰もが気づくアハー体験の知とは、そもそも潜在的にみんなが共有していた知である。発想といっても、誰かが何かのきっかけで浮上させたに過ぎない。
そして浮上させたのは個人でも、そのきっかけは自分が関わる集団や組織の生業があってのことである。
つまりは、最初に気づいた人が偉い訳でも、その人がアイデア実現のイニシアティブをとる権利がある訳でもない。
「集団独創」とは、そんなケツの穴の小さい知識創造の方法論では断じてないのだ。
よく、組織において人が足の引っ張り合いをするのが当然だ、という話をきく。
私はそうは思わない。
足の引っ張り合いをするのは、アイデアをめぐる個人所有と具現化権利に関する了見の狭い誤解に基づいている。
アイデアは共有され、職場職能の縄張り、社内外の身分差に囚われない自由闊達な恊働によってさらに磨きをかけることができるし、異なる領域のアイデアと融合させることもできる。
そうした集団主義の成果の分け前の方が、アイデアを個人所有とみなし具現化権利を排他的に行使する個人主義の成果の取り分よりも比較にならぬほど大きいのである。
みんなの報酬が同時に上がることはあっても、確かにみんな一緒に出世する訳にはいかない。だから出世については個人主義の方が見返りが大きそうだ。
しかし、どうだろう。仕事の楽しさ、仲間との関わりの深さや広さという無形の財産が積みまして行くのは、集団主義の方ではないか。何より足の引っ張り合いのストレスやマイナスエネルギーから解放される幸福感が有り難い。
個人主義の方は、まずリーダーシップをとるために競争相手と足の引っ張り合いをする。そしてプロジェクトのリーダーとなったとしても、その成果が自分の能力の限界を越えることはない。Aさんの決定論とBさんの決定論、どちらを採用するかの闘いがあり、次にプロジェクトのメンバーそれぞれの決定論を切り捨ててかかることになる。しかし誰の決定論が正解か誰も分からないし、すべてが不正解かも知れない。誰もわからぬ結論の正しさが、陰に陽に繰り返し議論されくすぶり続けることになる。
個人主義というより実態は、「個人競争主義」というところだろう。
(組織や集団の内部での「個人競争主義」の暴走やそれに歯止めがきかないことは、人的対立が派閥対立、部門対立へと収斂していくために、これまで集団主義の汚点や欠点であると勘違いされることが多かったように思う。)
集団主義の方は、自分の能力の限界を集団によって乗り越えてともに成長しようとする、恊働による試みを繰り返しては未知の可能性をともに探索していく。Aさんの不確定論とBさんの不確定論は、ともに仮説であり検証を並行させる、両者の成果を綜合することで、より確かな不確定論を導いていく。誰もわからぬ結論だから、どうしたらより確かな成果につながって行くか、恊働の試みが模索される。
集団主義というより実態は、「集団恊働主義」というところだろう。
(英語でいうと「チームワーク」になるが、それが集団主義の美点である。真なるチームワークを尊重する集団主義であれば、何も問題はないのだ。
「集団恊働主義」でも対立はあるが、それは仮説検証を並行させて綜合すればすむアイデアや考え方の異なりに過ぎない。それは必要かつ有意義なことである。
しかし、「Aさんのアイデア」と「Bさんのアイデア」が異なり、それがAさんとBさんの人的対立につながる場合、それはAさんとBさんが権力や権威の争奪戦をしているからだろう。もし、「顧客にとって最高に役立つアイデア」を求めているのであれば、二人は異なるアイデアを尊重し切磋琢磨しあう関係になる筈である。しかし、そうはなれない「個人競争主義」の人たちが多いのが現実ではある。)
ここで、どちらが「ともに笑って仕事をできるか」と考えてみると、「ともに」という言葉が入ったために、後者であることは明らかである。
そして「笑う」とは、「ともに」でないと、笑われる相手がいたり、笑えない相手がいる一方的な状態になり、よほどの権力主義者や権威主義者でない限り心の底から心地よく笑えないのではないか(「氷の微笑2」のシャロン・ストーンのように)。
若干生々しい話を冒頭しているが、それは、「笑って仕事をする」ことがもっとも必要なのが、自らの人格や信念が問われるような苦難において、それを「笑顔で乗り切る」ことができるかどうかの正念場であるからだ。
ふつうの平時に「笑って仕事をする」のは大切なことではあるが、いわゆる「いい人」のマナーの域を出ない話だ。
ただ、笑っていれば、事がスムーズに展開していく、そんなのはきっと大した事を生み出さない場であり、どうしてもあなたが一所懸命にならねばならぬ縁などない場なのであろう。つまりは、自己成長とか自己実現の関わらない場であると思う。
以上のような前提を確認した上で、「相手の役に立つ」ということを厳密に検討していこう。
「”相手の役に立つ”という言葉からは、従順であることを連想する人もいるだろう。しかしながら、優秀な人々に関していえば、役に立つというのは優しくあるばかりではない。それはもっと強固なものだ-----”決然とした”という古い言葉が心に浮かんでくるほどに。また、手助けをすることには謙虚さが必要だが、優秀な人というのは従順にも慎ましやかにも見えない。実際、彼らは戦士のようだ。それも、大いに笑う戦士のようなのだ」
「他人の人生を豊かにする現代の戦士
パラマンサ・ヨガナンダ(ダライ・ラマの思慮深い同志)は、かつてこんな助言をした。
『人生という戦場で、英雄の勇気と勝利者の微笑みを持つあらゆる人に会いなさい』(中略)
彼らは、他人の人生を豊かにすることに向けられる、戦士のエネルギーを持っている。そして自己満足や平凡といったドラゴンを探しながら、”人生という戦場”を闊歩するのである。
こうした、他人の人生を豊かにする現代の戦士たちは、超人的というべき武器を使っている。その武器は、目に見えず、真価も認められず、それゆえに神秘的だ。現代の戦士たちは、人間の性質の中の最良のもの、ひいては自分自身の中の最高のものから生じる、エネルギーの流れをうまく利用できるようになっている。
と同時に、”創造的に役に立つやり方”も実践する。これにより、仕事は、単に雇われて働くことから崇高な活動へと、レベルの高いものになるのである」
「”役に立つこと”と”革新”とを合わせて考えてみよう。すると、人の役に立つことを広げるという”気”を引き出すことになる。
上司にしろ部下にしろ、納入業者にしろ顧客にしろ、最も優れた人々は、新しいものを取り入れたり、行動を起こしたり、他とは違うよりよいものを求めて冒険したりといったことに惹きつけられるものだ」
「もし最高の人々とともに仕事をしたいと思うならば、自分をそうした最高の人々にふさわしい人間にする必要がある。
これは、自分と部署・組織の人たちの両方、あるいはどちらかが、戦士の一タイプである、才能豊かな”ほんもの”の上司、”野性的な切れ者”、”実践の天使”のいずれかである必要があるということだ。
”ほんもの”の上司とは、創造的なリーダーのこと。(筆者注=リーダーシップが創造的であるリーダー)
”野性的な切れ者”とは、組織のさまざまなレベルにいる、あれこれ試そうとする人のこと。
”実践の天使”とは、きわめて頭が良くて、試すことを変化にまで高められる人のことだ。
つまり三つのうちどのタイプの戦士にも、”革新”が欠かせないのである」
「"凡人であることをやめる"
創造性を妨げる大きな要因は、多くの人が自分を創造的であると思うことができず、そのための行動を起こす前にすでにあきらめてしまっているという点だ。その一方で、多くの人が自分のことを凡人であるとも全く思っていない。私の経験では、人々に創造的になってもらうより"凡人であることをやめてもらう"ほうがはるかに無理がないし、良いことがいろいろある。もっとも結果はいずれでも同じである。
自分自身や周囲の人に、"凡人であることをやめよう"と思わせることができたら、すぐさま相応の空気が生まれるだろう」
「当たり前になっていることに着目する
ときとして、顧客は、あなたの行動パターンに慣れすぎてしまったために、何の疑いもなくそうしたパターンを受け入れてしまっていることがある。
そのため、顧客があなたの会社とどのように関わっているかという点についても、よく観察する必要がある」
みなさんには、以上の引用文を、自分の状況にひきつけて自ら検討してもらいたい。
ちなみに、前項(1)で私が提唱したパイオニアとTSUTAYAのコラボによる「新生PASS店構想*」は、
家電量販でプラズマテレビが売られている、カーナビはオートバックスで売られている、
という当たり前になっていることに着目するもので、
そうした現状を前提にして発想思考する
という"凡人であることをやめる"ものである。
(*「PASS会」が目指すAV専門店化路線とは異なり、映画や音楽の鑑賞生活を支援するTSUTAYAと提携して、プラズマとカーナビやカーオーティオとのクロスMDと連携商品サービス開発を志向する。)
さらにこのアイデアは、パイオニアなリビングルーム・ライフとカーライフへのこだわりをもち、さらに両者の期待と満足を<コト割り横ぐし>で融合させるユニークなライフシーンやライフスタイルを歓迎するカスタマーを想定し、彼らの
”役に立つこと”と”革新”とを合わせて考え
パイオニアの社員全体の
人の役に立つことを広げるという”気”を引き出す
ことを狙った新機軸であった。
私はこうした新機軸の提唱によって、経営危機下にあるパイオニアにおいて、起死回生のためのパラダイム転換を「集団恊働主義」によって図ろうとする有志の発想思考を促進しているつもりだ。
必ずや有志の中から、
”ほんもの”の上司(リーダーシップが創造的なリーダー)
”野性的な切れ者”(組織のさまざまなレベルにいる、あれこれ試そうとする人)
”実践の天使”(きわめて頭が良くて、試すことを変化にまで高められる人)
がキーマンとして立ち現れお互いにネットワーキングしてくれると信じている。
なぜなら、それによってしか、現状の延長線上の延命策とは異なる、真の起死回生策は生まれてこないと思うからだ。
彼らは、上司や経営に従順でないことを畏れているのかも知れない。
しかし、より広い公的最善を求めることは、
「優しくあるばかりではない。それはもっと強固なものだ-----”決然とした”という古い言葉が心に浮かんでくるほどに」
という言葉を彼らに贈りたい。
もし、彼らの活躍によって、
「周囲の人々に"凡人であることをやめよう"と思わせることができたら、すぐさま相応の空気が生まれるだろう」
そして、起死回生への道を歩み始めたパイオニアの諸活動に、パイオニアなライフスタイルやライフシーンを望む人々が関心をもち共鳴してくれるようになるのではないか。
諸活動の中で、私の提案した六本木ヒルズ坂下のTSUTAYAとコラボしたPASS旗艦店が誕生するかどうかは分からないが、私は、そうしたパイオニアのユニークな諸活動に共感した大学生が、それこそパイオニアな動機を抱いて入社を志望してくれるようになると思うのだ。
そうして入社した新入社員が、10年後、「あの時のうちの会社はもう背水の陣で、とにかくいろいろ大胆な改革をやってしまえ、ということだったらしい」と笑顔でふりかえる、なんてパイオニア・スピリットの健在ぶりがあるといいなあ、と想像する。
もし、そのようにして起死回生ができたのであれば、それはまさに中興であるからして、きっと10年後、
「集団恊働主義によるパラダイム転換こそがパイオニア・スピリットである」という行動規範が確立しているに違いない。
そして、そのスピリットの実践と実績に憧れる者が、確かな内発的な動機と能力をもって入社を志望するようになっているに違いない。
以上の私の物語を、統合的な<コト・パラダイム>のシナリオ・プラニングというか、
それとも風変わりな社外ブレインの希望的観測というか、
それは、これを読む人の判断とその人の現状へのコミットメントにお任せしたいと思う。