「コンセプト思考術なんて・・・」という決めつけにもの申す(1/3) |
でなければ、小生の本業ではなかった研修のしかも持ちネタ唯一の講座が売り込みもしないで15年も続くことはなかったでしょう。
しかしそれも一重に、講師など思いもよらなかった私に機会を与えてくださった先輩方、そして講座内容を向上させる実践の場をともに育んでくださった方々のお陰であり、感謝の言葉もございません。
中には同じ話しかしないのに、二度三度と受けてくださる方がいたり、かつて受講者だった方々が講師をなさる講座を提供する側にまわり私を呼んでくださり、かつ毎回聴講され「いつも新しい気づきがあります」と講師冥利につきるお言葉を掛けてくださる方もいます。
まったくもって有り難い話です。
しかしその一方で、受講したでもなく、またブログ他の解説を読むでもなく、「コンセプト思考術なんて・・・」と、そのネーミングからご自分が想像するものと同じ類いだろうと、しかもネガティブに決めつける人が多くいます。
その物言いは独断というよりもまったくの筋違い勘違いであることは、受講経験者ならばみなすぐに分かることです。
近年、そのような決めつけがナレッジマネジメントや知識創造と言われる分野に詳しい、それも立場ある方々に多くなりました。これはとても残念なことですが、評価してくれたり仲間に薦めてくれたりする受講修了者のことを考えると、私としても何らかの手を打っておくべきだと考えました。
ナレッジマネジメントや知識創造の分野で、従来型の企画ノウハウや発想法が批判されていて、私自身もその批判に賛同する者なのですが、それらと「コンセプト思考術」が同じ類いだと憶断されてしまっているのです。
私は知の専門家を自負する人々に対して、「百聞は一見に如かず、百見は一行に如かず」を言うのもためらわれるので、この際、これまで直接耳にしたり人から漏れ聞いたパターン化した決めつけを取り上げて、もの申しておくことにしました。
しかしそんなことだけのための論述は、さすがに建設的ではありません。
そこで、「受講して面白かった」「現業で役立てたい」とおっしゃってくださる方々に対して、是非、もっと楽しんでください、もっと役立ててくださいと胸を晴れる「コンセプト思考術」の多面的な展開性をお伝えする内容となるように、以下解説します。
解説内容は、学究意欲の旺盛な方々には、本ブログをご自身の興味関心に従った個性的な独習に役立てて戴けるように図って、既に掲載した主要関連記事にリンクをはります。
また、有り難くも自分が良いと思ったものを人にも薦めてくださる方々には、不幸にも上司や幹部からネガティブな決めつけに出会った場合でも、少しもめげずにむしろ自分なりの納得を深めてもらえるように図ります。
つまり、「そうか、世の中そういう物事の見方や捉え方に偏っているとは(本記事に)書いてあったが、本当にその通りだな」という納得です。
「コンセプト思考術」は、
1. 単なるよくある「企画ノウハウ」ではないか?
2. よくある「ロジカル・シンキング」ではないか?
ネーミングを聞いただけの人々からそのようによく決めつけられます
以下、正確にお答えします。
1. 単なるよくある「企画ノウハウ」ではないか?という決めつけ
それは違います
「コンセプト思考術」は、一般的な「企画ノウハウ」がそうであるように、自明とされる問題を解決したり、正解の用意された課題を達成すべく解答するものではありません。
じつは存在していたにもかかわらず誰も意識していなかった問題を発見して、課題自体を創出すると同時にその課題解決の手法をも考案するものです。
最後の「課題解決の手法の考案」のところは「企画」ですが、そのノウハウとしてどういうものが適切かはケースバイケースで違いますし、最適なものは思考主体が自分自身で自己流なりその場流を工夫するしかありません。
「コンセプト思考術」は、パラダイム転換に特化した思考を導くもので、最終的なソリューションの「企画内容」の方向づけや位置づけはするものの、「企画ノウハウ」ではあり得ないのです。
「なんだ、企画ノウハウでもないのか、ではそれ以下の発想法なのか?」
とさらに決めつけられてしまう場合もあるでしょう。10年くらい前のことですが、実際に関西の鉄工会社の研修で総括の際に受講者からそう言われたことがあります。傾向として、ある方法論に従えば企画なり発想なりがオートマティックに生まれるそんな「魔法の杖」を期待している人ほど、そういう類いの決めつけをするようです。
しかし、普遍的に使える「魔法の杖」などないとご都合主義に与することなく明言する「知の方法論」こそが、現代の知識社会において根源的に求められる土台であり起点であると、今の時代ものの分かる人にはちゃんと理解されていますから安心してください。
2. よくある「ロジカル・シンキング」ではないか?という決めつけ
「コンセプト思考術」は、
「ロジカル・シンキング」でもありますが、部分と全体で大きく異なります
部分での大きな異なりとは、一般的な「ロジカル・シンキング」は帰納と演繹を多用し、おおよそ近代合理主義に合致する因果律(原因Aが結果Bを現象させるという原理)にのっとるのに対して、「コンセプト思考術」は推量(アプダクション)を多用することと、「思考」ということの内の「思い」を重視することの2点です。
(ちなみに、帰納は観察事項群の共通性から因果律的ルールを導き、演繹は一つの観察事項にこのルールを当てはめれば結果が機械的に導かれるとします。いわゆる「企画ノウハウ」は、フレームワークはいろいろですが帰納と演繹のためのツールであり、それをあたかも「魔法の杖」であるかのごとく印象づけています。)
これは「思考手段におけるテクニカルな異なり」ですが、「思考目的におけるフィロソフィカルな異なり」に必然的に通じます。
何事も目的が異なればその意味、本質、価値は大きく異なります。
科学が典型ですが、近代合理主義は、個人という思考主体の主観的な「思い」を捨象する体系です。
世の中には「経営を科学する」というような言葉使いがありますが、MBA取得者ならば同じように考えるだろう経営学的正解というようなものに、「コンセプト思考術」ははじめから関心がありませんでした。
逆に、個人の「思い」や「想い」の多様性を前提として多様な観点からの発想や洞察を重視し、かつそれを起点にします。
これは推量が通常個人的かつ主観的であることから、これを重視して多用することと同義です。
因果律を押し進めると「こうすればこうなる」という機械論ないし機能論に行き着きます。
一方、共時性(現象Aがある時、現象Bもあるという原理)を押し進めると「本来こうあるべきである」という目的志向論ないし意味論に行き着きます。つまり哲学的、フィロソフィカルになっていきます。ただしご注意戴きたいのは、典型的にはイデオロギーですが、ここでも個人という思考主体の主観的な「思い」を捨象する体系に行きがちであることです。
個人の「思い」や「想い」の多様性を前提とするということは、Aさんが発見する問題、創出する課題、それを解決するアイデアと、Bさんのそれらとが異なるということです。
ここで、Aさんが原因となって結論Xが生まれた、とも言い切れないし、Aさんがいる時Xという現象もある、とも言い切れません。
つまり、個人の「思い」や「想い」の多様性を前提としたとたんに、因果律だけでも共時性だけでも決して割り切れない世界が浮上するのです。
なんか難しい話をしてそうですが、そうではありません。このようになかなか説明のつかない世界という現実に私たち人間は生きているのです。生きていくのは難しいかも知れませんが、現実は難解であるという話としては簡単なのです。
この現実世界には「偶有性」という属性があります。
偶有性とは「他の状態でもありえるのに、たまたまその状態でもある」ということで、ご自身の実人生を振り返れば、現実世界とはそのようなものだと誰しも思うのではないでしょうか。偶有性も話としては簡単ですね。
偶有性は、因果律に引きつけて言えば、
「原因Aが、結果Cも引き起こせるのにそれが起こらずに、たまたま結果Bを引き起こしている」、ということです。
偶有性は、共時性に引きつけて言えば、
「現象Aがある時、現象Cがあってもいいのにそれがなくて、たまたま現象Bがある」ということです。
私たち人間は実際には偶有性を経験しているのに、それを体系的に思考する際に、ある時は因果律で、ある時は共時性で、AとBを直結したりCを捨象して物事を解釈したり計画したりしているのです。
難しい現実世界をさらに小難しくしているのは、こうした解釈や計画の方、つまりは「思考」ということの内の「考え」であると言えましょう。
では、この偶有性の原理は何なのでしょう?
それは、仏教が「因果律+共時性」を渾然一体化するものとする「縁起」なのであります。
「Aさんが発見する問題、創出する課題、それを解決するアイデアと、Bさんのそれらとが異なる」とは、Aさんに作用している「縁起」の有りようと、Bさんに作用している「縁起」の有りようとが異なるということに他なりません。
そして個人という思考主体の「思い」の多様性とは、まさにこのことと同義なのです。
AさんとBさんが恊働したとして、二人で発見する問題、創出する課題、それを解決するアイデアも、一人でした際のそれらとは異なるでしょうし、AさんがCさんと恊働した際のそれらとも異なるでしょう。それも「縁起」の有りようの異なりゆえです。
私は「日本型の集団独創の促進方法論の究明」というものをライフワークにしています。
(今のところの総括は、
「日本型の集団独創のポイントは、肌で感じ取る日本語と現場相対の触れ合い(年度末総括)」という記事
にあります。
この記事読了後読んでいただければ幸いです。)
以上唐突のようですが、唐突ではありません。
私は、「集団独創」とは、思考主体の集団ならでは「縁起」の固有性や独自性を生かすことに尽きる、とシンプルに考えているからです。
この考えは、「個人の独創」とは、思考主体の個人ならではの「縁起」の固有性や独自性を生かすことに尽きる、とする考えと不即不離です。
日本人である私が、日本語によりたとえ無意識的にでも日本文化を背景に思考する日本企業との恊働においてやっていく課題が、「日本型の集団独創」であることはいたって自然な展開であります。
これを自覚的に実践することなしに、多様な母国語で無意識的にでも多様な帰属文化を背景に思考する世界の人々を理解したりその成果に共感したり、彼らと有意義な成果を求めて恊働していくことはできないのではないでしょうか。
「グローバルな普遍性」とは、短絡的にみんな画一的に同じ、ということではないことは自明です。私は、以上の考え方とその実践の方が、共通語としての英語が話せることや共通尺度としてのお金や数学や科学技術よりも大切な尊重すべき「グローバルな普遍性」だと考えています。
(最近、NHKスペシャルでチベットの変貌ぶりを見て、その気持ちをさらに深めました。仏教の聖地チベットまでもアメリカ型グローバリズムの足下にひれふしていいとは、どうしても思えませんでした。仏教都市の観光化は奈良や京都の方が先輩ですが、それとは全く違う方向性のまさにハリウッド型のホテル開発が先行しているのです。)
ここまで論述を読んでもらえれば、「コンセプト思考術」の展開性が、往々にして思想性も文化性もないMBAケーススタディの単なる思考ツールである「ロジカル・シンキング」とは大きく異なること、つまり「思考目的のフィロソフィカルな異なり」を理解してもらえると思います。
しかし、こうした内容を口頭で要領よく話すことは難しいし、それを聴いて即座に理解する人は少なく、同様の知見を自分なりに踏まえてしかも権威的な常識に囚われない人に限られるでしょう。
ということで、会社の重役でも大学の教授でも著名な文化人でもない何ら権威の後ろ盾のない私が、ある種の決めつけをされることからは、まず免れようがない。
それは、有り難くも「コンセプト思考術」を面白い役立つと思い人に薦めてくださる受講者の方々の場合も同じでしょう。
では、私が多くの人々に理解されないことを悲観しているのかと言えば、けっしてそうではありません。
一つには、まさに「コンセプト思考術」を通じて、少なくても深くお互いの「思い」と「想い」を理解しあえる人と出会えて、その方々と有意義であると共鳴できる事柄において密なる恊働ができる貴重な機会をもてるのであれば、それが一番の幸せであるということがあります。
いま一つには、新右翼の造語である「肉体言語」という言葉で表現できるようなことがあります。身体をはる、そのはり方が物語るという意味合いです。私の場合、身体をはる訳ではありませんが、その場凌ぎのご都合主義の口先だけでもありません。
自分の持ち場と勝手に思っている現場フィールドにおいて、社会的にこれは現在の鍵概念だと思われる重要な事柄については、一貫性をもって正論と考えるところを歯に衣着せずに論述しつづけています。その内容の明快さと理解しやすさの向上に試行錯誤ふくめて常に努めてきました。(まだまだ難解ですみません。)
単なる研究者との違いとしては、具体的な機会をとらえては論述内容を前向きに証明したり実現する提案や提唱を即時的にしてきています。当然、難問の受託研究や難航する計画推進もご依頼があれば石にかじりついてもこれを達成し成果を出す、そんな信頼も頂戴しています。(ただし、私がパラダイム転換志向に仕事を特化しているために、この信頼こそを私を敬遠する理由とする人の方が数的には多いと思います。)
私の主張していることは、学究的には素人の雑学であり体系的には未完成未熟の極みです。
しかし、その時々で自分としては現場フィールドにおいて最善の、時には最先鋭とおぼしき具体性と現実性をもった提案や提唱を継続している、そんな私のささやかな「肉体言語」から、何かを感じ取ってくださる方々もいらっしゃる。
心をもって努めれば心をもって受け止めてもらえる。
私がほんとうに有り難いと感謝しているのは、そういうともに歩んでくれたりともに何かを育もうとしてくださった方々です。ですからそもそも私の主張は、すでにお会いしたそういう方々と今後お会いするだろう未知なるそういう方々に向けられています。