社員一人一人が企業家としてよき経営者に習おう!(2/2) |
経営者としての3つの顔、スタンス
「経営者はさまざまな判断をどのようなスタンスで行っているのが望ましいか。そのスタンスの自己規定が、経営者の行動を通して、外に表れる。そのとき、それは経営者の顔として、外部に表出する。
よき経営者は3つの顔をもっているように思われる。それは、分配者としての顔、教育者としての顔、哲学者としての顔、である」
「分配者とは、組織の内部の人々に対して富と権力と名誉と時間を分配する人、という意味である」
「教育者の顔とは、二つの意味がある。
一つには、文字通り組織に働く人々の能力を育成する人、という意味である。(中略)
もう一つは、あたかも教育者と同じようなスタンスで経営者は経営にのぞむことが多い、という意味である。この第二の意味が、教育者の顔というものの本質であろう」
「哲学者の顔とは、事業活動の意味を考え、企業の存在する意義を考え、働く人々の仕事の意味は何かを考える、という『考える人』の顔である。考えることを『哲学する』という言葉で表現している。
経営者の哲学者としての顔がもっとも表面に出てくるのは、経営理念を作って人々に伝えようとする経営者の役割に関してであろう。
経営理念とは、企業の目的、仕事の仕方、判断のあり方などの哲学なのである。それを考える経営者は、まさしく哲学者と呼んでいい」
「経営も教育も『実際に事を行う』のは経営者や教育者本人でなく他人なのである。その他人の行動をうまく導くところに、経営と教育の共通の本質がある。
その共通性は、(中略)つまり、経営の要諦とは、次の三つのことをきちんと行うことである。
1.部下たちに仕事全体の方向を示す
2.部下たちが仕事をしたくなる、やりやすくなる環境を整備する
3.その後は、彼ら自身が自分で仕事をするプロセスを制御する。応援する。
この三つのポイントの中で、『部下』を『学生』という言葉に、『仕事』を『学習』という言葉に置き換えれば、それがそのまま教育の要諦となる。
1.学生たちに学習全体の方向を示す
2.学生たちが学習をしたくなる、やりやすくなる環境を整備する
3.その後は、彼ら自身が自分で学習をするプロセスを制御する。応援する。
こうした共通性があるのだから、名経営者が必ず名教育者であるのは、むしろ当然なのである」
「アメリカの教育者ウィリアム・ウォードの言葉に次のような名言がある。(中略)
『凡庸な教師は、指示をする。
いい教師は、説明する。
優れた教師は、範となる。
偉大な教師は、内なる炎に火をつける』
教師を経営者に置き換えれば、まさに経営者について語っているのと同じである」
哲学者としての経営者
「哲学といっても、難しい哲理を思弁的・高踏的に考える、という意味ではない。
平明な言葉を使って、世界観と人間観とそして経営の目的を、やや抽象度の高いレベルで語ることができる、という意味での哲学者である」
「分配についても、教育についても、何か基本的な哲学がなくては、容易には決断できないであろう。
他人の人生にとって大事は変数を分配したり、他人の人生の航路が変わりかねない教育を行うのだから、人間の生きる意味を考えなければ、その考えた意味が多くの人の心に響くものでなければ、人々に受け入れられる分配者、教育者たりえないだろう。その『生きる意味を考える』ということが哲学なのである」
「哲学として伝えるべき内容は、おおまかには『大義』と呼べるものであろう。
組織の大義、働くことの大義、などという意味である。その大義によって意味を与えられてこそ、人は真に動く。そこではじめて、他人を通して事をなすことが可能になる。
古来、経営者の多くが経営理念の重要性を説き、正義の大切さを語ってきた。それが、人々が結集する核になることを知っていたからである。それが『大義』である」
本田宗一郎がアメリカ機械学会からホーリーメダル賞を受賞した際の記念講演の結びを著者は紹介している。
「私の哲学は技術そのものより、思想が大切だというところにある。
思想を具現化するための手段として技術があり、また、よき技術のないところからは、よき思想も生まれえない。
人間の幸福を技術によって具現化するという技術者の使命が私の哲学であり、誇りである」
「もちろん、大義だけではメシは食えない。経営の具体的プロセスの中では、その大義をさらに具体化した『仕事の目標』を経営者は提示する必要があるだろう。
だが、即物的な目標(たとえば業績目標)だけでは人々に意味を与えることにはならない。やはり、経営者は哲学者にならなければならない」
経営者の三つの資質、エネルギー、決断力、情と理
「私は三つの資質が、よき経営者にはかなり普遍性をもって共通していると考えている。
・エネルギー
・決断力
・情と理
よき経営者に共通するもっとも基礎的な特徴は、彼らのエネルギー水準の高さである。
難所で踏ん張るエネルギー、新しいことを試みるエネルギー、抵抗を乗り越えるエネルギー、難しい総合判断を考え抜くエネルギー、そしてときに権力闘争を戦うエネルギー。さまざまな意味でのエネルギー水準が高い。とくにその中でも、厳しい状況に置かれたときに、その難所で踏ん張るエネルギーがきわめて重要である」
私もこのエネルギー論に異論がないが、経営者がどのような難所を自ら求めるか、という言わば「難所の質」と「難所への立ち向かい方」にエネルギーの質というか方向性が大きく左右されると思っている。
人生において有意義な難所を求めてやまない、そんな資質が大切で、それがエネルギーの源泉になっているタイプが私は好ましい。ただのマッチョでは困るのだ。
「よき経営者の第二の資質は、決断力が高いことである。
重要な岐路にさしかかったとき、言を左右にせず、決断ができる。きっぱりと行くべき道筋を選択してその道を進む、そしてぶれない、という力である」
ここでも、決断力論に異論はないが、経営者がどのような決断を自らに課すか、という言わば「決断の質」と「決断への立ち向かい方」に決断力の質というか方向性が大きく左右されると思っている。
公のための有意義な決断を求めてやまない、そんな資質が大切で、それが決断力の源泉になっているタイプが私は好ましい。ただの思い切りのいい人では困るのだ。
「よき経営者の資質の第三は、情と理の両方に深い理解をもつことである。あるいは両方の達人であることである。
情とは人間の心情のこと、理とは物事が動く論理のことである。そして、その両方に通じるばかりでなく、情と理のバランスと優先順位をきちんと考えることができなければならない」
私個人としては、たとえば分け隔てのない公に対する情のように、情の質が高ければ自然と理ともバランスがとれるものと考えている。
以下、著者の3つの資質の各論を検討していこう。
エネルギー
著者は、エネルーとは何かを説明するにあたって、土光敏夫さんの定義を紹介している。
「バイタリティ=知力×(意力+体力+速力)
この定義は、含蓄に富む。(中略)
体力とならんで速力が入っているのは、たんに『必要ならば動ける』というのではだめで、真のバイタリティはつねにスピードをもって動き続けていることにある、という意味であろう。同じ体力でも、素早く動く人は実際に動く範囲が大きくなるはずである。運動量が大きくなるということである。それが、行動につながる。そこが大切なのである。(中略)
スピーディに行動をとるためには、動くという決断を早くする必要がある。つまり、思い切りが必要である。その思い切りには、エネルギーがいる。何か障害があっても、動こうとするエネルギーである。決断のエネルギーといってもいいかもしれない」
「意力がバイタリティの一つの項目として入っているということは、意志あるいは意欲の強さがバイタリティの源泉の一つだということである。
事をなそうとする意志や意欲の大きさが、その実行へのバイタリティの源泉になるというのは、たしかに道理である。
では、その意力をもたらすエネルギーはどこから生まれるのか。私なりに解釈すると、自分の行動についての志の高さがエネルギーを供給するのだろう」
「最後に、知力が全体へのかけ算として入っているということは、それがもっとも大切な項目であることを示しているのであろう。いくら意力があっても、体力があっても、速力があっても、知力が低ければ、意義のあるバイタリティは生まれてこない(中略)。
知恵のない行動を力任せに猛スピードでとりがちな人がたしかにいる。そういう人の意欲はえてして高い。しかしそれでは、真のバイタリティではなく、たんに人騒がせな暴れん坊になってしまう」
「知力とは、論理的にきちんと考える力、ということであろう。たしかに、経営者がとる行動のひらめきは、論理ではなく直感が生み出すものであろう。しかし、そのひらめいた案がじつは正しいかどうかの論理的思考をきちんとできる(筆者注=メタ思考できる)人でなければ、決断に踏み切れないだろうし、成功を継続することはできないだろう。その論理的検証を自分でするからこそ、自分の行動が正しいという確信がもてるようになる。
もちろん、『論理的検証』といっても、詰め将棋を最後まで読み切るような検証である筈はない。経営についての決断では、先行きがわからないことが多いのだから、終点までの論理的検証を厳密に要求していたら、いつまでたっても動けない。しかし、決断の後に最初はどんなリアクションが起きそうか、どこに大きなリスク要因があるか、それへの手当ては最低限でもしたあるかといった、そういう論理的検証は必要である。(中略)
では、知力を生み出す知のエネルギーとは何だろうか。それは、わからないなりに考え抜くための『考える』プロセスを耐えるエネルギーであり、そのプロセスでの論理の積み上げをきちんとできる脳と心のエネルギー(筆者注:思うに力点をおいた推量による「コンセプト思考術」が目指すもの)である」
決断力
「決断力=判断力+跳躍力
と表現するのが適切なように思う。
決断のためには、まず判断が必要である。(中略)
『正しいであろうという自分なりに納得のできる推論』という意味の判断である。
その判断力の本質を、『先見性』と表現したりするのであろう」
私は、この「先見性」は、自社の諸条件とその置かれた状況ならではの独自性ある先見性である必要があると考える。
誰もが横並びで考えている、どんな企業にも当てはまる分かりきった先見性では話にならないからだ。
「判断と行動の間には『深い淵』があるのが、現実である。(中略)その淵を跳躍して、判断という岸から向こう岸の行動へ飛び移ると覚悟しなければ、行動への決断はできない。
そういう意味で、判断力に跳躍力が加わってはじめて、決断力となる。」
「ただ、判断力が低いのに(筆者注:合わせて先見力も低いのに)跳躍力の高い人がときにいる。ただの向こう見ずである。しかしそれが、傍目には決断力があるように見えるから、始末に終えない」
こういうタイプの特徴は、判断の内容を議論しない閉鎖主義と、決断の内容をひた隠す秘密主義である。僅かな主流派幹部だけで判断されたことが隠密裡に断行されるのだから、一般社員からみればいきなりの跳躍力があると感じられるかも知れないが、ちゃんとした跳躍は助走から踏切からルールにのっとった審査と観戦する観客の前で行われるべきではなかろうか。結局どうとりつくろったところで、秘密主義が独裁専横の道を拓くのは歴史の繰り返しなのである。
著者はこう付け加えている。
「判断力の一つの源泉は、前項で述べた知力であろう。しかし、知力だけでもない。判断すべき対象の事業について、強い関心をもって些細な現場情報まで集め、その情報の中に自分をどっぷりと浸ける必要がある。そうした現場情報の『深い風呂』の中に沈潜することから、何が大切か見えてくるものがある」
判断の内容を議論しない閉鎖主義と、決断の内容をひた隠す秘密主義は、致命的にこれを欠いている。
だから、判断力が低いのに、合わせて先見力も低いのに跳躍力の高い人がする「ただの向こう見ず」の特徴は、往々にして、現場の実感というディテールについての対話を必要としない結論へのジャンプなのである。
それを経営幹部は「現場レベルではできない経営レベルならではのエリート的判断であり決断である」と言いたがるのだが、著者は、じつはそれこそが「社長ごっこ」なのだと喝破する。
情と理
「よき経営者の第三の資質は、情と理の両方の達人になり、かつ情と理のバランスをきちんと考えられることである。
情とは人間の心情のこと、理とは物事が動く論理のことである」
私の個人的な印象なのだが、最近は、理を知識として弁えていてそれで良しとする人が増えたように思う。
言うまでもなく、理を踏まえた知が良知であり、それは知っていることではなく知行合一することで価値がはじめて生ずる。つまり、理はそして良知は、意を伴ってはじめて現象する。
だから、情と理をバランスさせるものは、意であるのが好ましいと私は感じる。
「なぜ(筆者注:情と理の)両方の達人であることが必要なのか。
それは組織で行う仕事が、人間の集団によって行う仕事であり、そして仕事の場ではつねに、カネ、情報、感情という三つのものが、否応なしに同時に流れているからである。(中略)
経営者にとって、『カネと情報(筆者注=知)の理』に強いことは当然、必須の資質なのである。
しかし、理だけでは人間が動かないことも、名経営者はよく知っている。だから、彼らは必ず『情』の達人でもある。それは、仕事の場における第三のもの、感情に対する配慮の達人、と言い換えてもいいだろう」
著者は、以下のように1980年代、90年代を振り返っている。
企業によってはまだそれを演じているケースもあると思うので、少し長いが引用して本論を負えることにしたい。
「(筆者注:日本には)理が働くことを、いやがる傾向がまずもってあるのである。そうした傾向は、理を働かせなくてもなんとかなる時代状況では、とくに強くなる。それが、1980年代のジャパン・アズ・ナンバーワンの日本企業だったのだろう。
それで経営にゆるみが出たことも深因となって、90年代の低迷が引き起こされた。そんななかでアメリカ流の『理』を強調しようという動きが自然と強くなったのが、90年代の日本企業のように見える。
たしかに、21世紀に入って注目される経営者としてよく話題にのぼる、キャノンの御手洗冨士夫さん、松下電器産業の中村邦夫さん、伊藤忠商事の丹羽宇一郎さんなどはすべて、アメリカでの経験が長く、それを活かした合理的経営が注目されている。
しかしそれは決して、アメリカにしか理がないとか、アメリカの理のほうが日本の理よりも優れているということではないだろう。ただ日本にばかりいると、日本の情に流されて、日本の理を見る目が曇りがちになる。見えなくなる危険性がある。だから、アメリカの理による『洗浄』を受けることによって、日米を問わない普遍的な『理』というものの認識を深める、あるいは日本の理を再確認することができる。そのためのアメリカ体験だったのではないだろうか。
そのうえ、この方々は日本的な情の大切さも理解しているように見える。つまり、情と理のバランスをきちんと考えておられるのである。
表面的には日本の情とアメリカの理の共存と見えるかも知れないが、本当は、日本の情と日本の理の共存が、あるいは日本の情と普遍の理の共存が、彼らの真の姿のように思える。
情と理の共存を考えるとき、きわめて大切なのは、ただ漫然と共存させないことであろう。優先順位をきちんともたねばならない。
一般的には、『理を情に添える』という優先順位が適切なことが多いように思われる。まったくつねに並立ということでなく、理を優先し、しかし『情を添える』のである」
私は、ヴィジョンの作り込みこそが、理と情の一体論を、単に社内の人材に限らず、顧客や社会とも共有しうる体系として形成する作業と捉えている。
経営理念の現代的な意味を問い直すこの作業こそが、いまのキーパーソンたちの理と情を共存させる「大義」の方向性、つまり意を示すからだ。