リーダーシップという言葉以前にあった心のこと(1/5) |
今年度のPMSの参考図書として「リーダーシップの旅」という本を主任講師の方から頂戴した。手にとると、なんかすんなり読めるという感じの本ではなかった。
こういう時は、自分がその本を読み取る視座を欠いている時なので、まず自分なりに気になる本を読んでみた。それがこの本だ。
稲盛さんは鹿児島出身で幼少のころから西郷の遺訓に触れていたらしい。
じつは、私の父も鹿児島出身で興味があったのだ。
本シリーズでは、リーダーシップからみで気になった所を引用して思うところを述べていきたい。
「この進み行く心の荒廃こそが、日本人をして、その質が劣化してしまったように見せるのです。
また、現代の日本社会に混迷と混乱をもたらしている真因なのです」
おそらく今の若い人がこれを読んでも、昔は偉い人がいたが今はいない、と評論家的な文脈で読んでしまうのではないか。
私はそんな若い人に、ごく普通の人同士の人間関係、それも心と心の結びつきが劣化してしまったこと、とくにここ10年で大きく変容したことを伝えたい。
なぜなら、その実感は私が経験として語れるし、また昔を懐かしむのではなく、どうすればかつての心と心の結びつきを取り戻せるか、そのことについては老若男女誰もが当事者であり、恊働して工夫していけるからだ。
「今こそ、日本人一人ひとりが、精神的豊かさ、つまり美しく上質な心をいかにして取り戻すかを考えなければなりません。
年齢を問わず、すべての日本人が改めてその品格、品性を高めることができれば、日本は世界に誇る上質な国民が住む国として、再び胸を張れるようになるはずです。
私は、それこそが、真の日本再生であると考えています」
「そのようなことを思うとき、かつて、とびきり美しく温かい心をもった、ひとりの上質な日本人がいたことを思い起こすのです。
それは、西郷隆盛です」
「ほんとうに賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲るくらいでなければいけない」
これは明治政府の任官について西郷が述べたことで、会社員であれば、自分がいちいち退職する訳にはいかない。
しかし、適任者に協力を依頼し雇い入れることはできる。
そして、実際10年ほど前までは、有能なビジネスマンはみなそうしていた。
どれだけ社外の協力者を多彩にもっているかという人脈が、ジェネラリストとしてのあるいはプロデューサー、コーディネーターとしての主要な実力として評価された。
今も自分はそうしているし、そういう評価を自分は得ているとおっしゃる方もあるだろうが、今少し読み進めて戴きたい。
いまは「エキスパートの時代」、みなが専門家であることを自認し、専門家=プロとする時代になり、状況はずいぶんと変った。
かつては「ジェネラリストの時代」、みなが言わば総合家であることを自認し、総合家=企業家とする時代だった。
そして、ジェネラリストは、「自分ができないことをできる外部ブレイン」を雇ったが、
いまエキスパートは、「自分ができることをする下請けブレイン」しか雇わない。
象徴的な例をあげよう。
コラボレーションということが言われて、大学研究室との産学協同が盛んで、大学教授への業務依頼も盛んだ。どちらもエキスパートからすれば「自分と同じ専門知識体系」であり、大学の研究が世界最先端を行っているという場合を除く多くの場合、依頼業務内容に限って言えば「自分ができることをする下請けブレイン」でしかない。そして、大学との恊働や教授に協力を依頼することについての周囲からの評価は悪くない。
手間がかかるので学生を動員できるメリットもあるし、自分が理解はするができない類いの隣接分野の専門業務を依頼する場合もあるだろうから、以上はあくまで象徴的事例だ。だが、依頼する業務内容が「自分と同じか隣接する専門知識体系」であることが多いのが、過去にくらべての現在の特徴であることは確かだ。
私たちは、秋葉原のオタクを見る目が違和感から好感へと変るのと並行して、自分たち自身もエキスパートという名のオタク化してしまった感がある。「同一分野ないし隣接分野の同族のオタク同士の交流」を偏重するようになったのだ。
私はこの動向自体に、無自覚的なパラダイムへの囚われの根っこがあると思う。
このことを社会構成主義では、「用語法が限定されることで発想思考も限定される」と説明している。
コラボレーションという言葉が使われなかったかつて、たとえば20年前、ジェネラリストも大学教授を活用したが、それはまず依頼者が自分で学際的な枠組みをプロデュースした上でのことだった。
必ず学者先生だけでなく様々なタイプの社外ブレインを含めてメンバーをコーディネートした。学者だけでは話が面白くならない、という了解があった。それは、「さまざまな用語法が飛び交い、用語法を擦り合せる行為が新たな視点や発想を生む」ということを、誰もが経験則として弁えていたということだ。
ブレストやディスカッションの中から何が出てくるか分からなかったが、ジェネラリストにはその妙味に賭ける勘と度胸があった。(念のため言っておくが、ジェネラリストといっても、ふつうの企業の課長さんや部長さんだ。)
こう考えてくると、「ナラティブに着目したリーダーシップ論」というのも成り立つだろう。
さて、かくいう小生も30前後の時に、大学教授のお歴々にまじってビクターやパイオニアの公式の外部ブレイン・グループに入れられ、その活動内容が本にして出版されたり業務パンフレットにされたりした。
パネルディスカッションで筑波大学の老練な教授が、「今後は商業媒体のAVCCは大型化する」と断言した時、若造の小生が「小型化もする」と意見を述べ、会場がざわめいた思い出がある。私は現代のケータイ文化を予測した訳ではなく、ただビル壁面の大型画面だけで用が足りるとはどうしても思えなかった。誰だって言われてみればそう思うだけのことだ。業界人の誰も異論を差し挟まぬ権威に、それと知らぬ若造(当時はディスプレイ業界)が物怖じせずに楯ついてしまった訳だが、仕掛人のジェネラリストは笑ってみていた。
業界人の集まった会場のこのざわめきこそ彼が狙っていたものなのだ。
我が社はこれほど多彩な外部ブレインをもって、最先端の業務用AVシステムを推進しています、というメッセージだった。電波新聞で私は「新人類」と評された。
(1988年パイオニア特機事業部発行/小生33歳)
きっと、なんでわざわざ社外のあんな若造をパネリストに入れるのだという批判もあっただろう。しかし、結果的にジェネラリストが仕掛けたことが成功すれば誰も文句は言わなかった。言わないどころか、こっちにも協力してくれと言われた。商品開発プロジェクトに入れてもらったり、講演の講師を依頼された。
つまり、外部ブレインの評価は仕事の前ではなく仕事の後において、肩書きではなくアイデアやそれに対する反響でなされたのだ。
いまエキスパートは、「自分ができないことができる外部ブレイン」を雇うと、お前は自分でできないのかと周囲から責められて評価を落すという。つまり、エキスパート本人だけのせいではない。体制として何かが大きく変わってしまったのだ。エキスパートは、割り振られた担当関連のことがすべてできて当たり前、できなければ専門家ではない、という乱暴な捉え方が前提として周囲にあるようだ。
年功序列から実力主義になったと言われるが、私の実感からは、昔の方が「フェアで質的に精緻な実力主義」だったと思えてならない。
私の場合、クライアント筋からは長い取り引きで実績はあると知られているし、時々呼ばれて研修講師もしていて、多くの受講経験者が管理職になっていたりする。飛び入りで営業している外部ブレインの話ではない。
以上は、そこで定点観測してきた実話を述べたのだが、いまや世間一般の外部ブレインはもっと過酷で、まずバブル崩壊直後フリーランスでやっている者の人数は激減したし、空白の10年を通じてフリーランスのほとんどが「依頼者ができることをする下請けブレイン」になった感がある。依頼主からする下請けブレインの条件は、用語法が同じでパラダイムの差異がなく、よってパラダイムの葛藤がないことだ。要は、自分のいうことを咀嚼してうまくまとめてくれるご用聞きだ。
いまのエキスパートを自負する依頼者からすれば、同じ分野のエキスパートなのだからそうであって当然だろうという認識だ。
お互いの用語法にズレがありパラダイムの差異があり、よってパラダイムの葛藤があること、それによって手間暇はかかるし人間的な葛藤さえ生じるが、これを乗り越えれば新しいパラダイムに行き着く、そういう発想はないし要請もなくなってしまった。
何事も波風たたず無難な落しどころに早く落ち着くのがいい、そういうご時世になっている。
たとえば、相談に乗ってくれとある部署の管理職に紹介されて、私なりのアドバイスをすることもある。管理職は、自分のパラダイムとは異なる思いもつかなかったアドバイスをきいてメモしていく、そして後は自分でできると安直に考えてしまう。物事には想定外のことが必ずどんどん出てくる、まして自分のパラダイムとは異なるのだから当然頓挫する。最初にそこまで思い至らないのか、あるいは、そうなるようなアドバイスはそもそも悪かったと考えるようだ。
もし私を雇い入れていたら、ともに切磋琢磨して乗り越えていけたのではないかとは思わない。
どうも、エキスパートの特徴は、「人とアイデアを切り離して捉える」ことのようだ。
ジェネラリストは、「人とアイデアをセットで捉える」、だからこの外部ブレインならば不測の事態にも対応していくだろうと、さらには自分の能力と想像を上回る不確定要素をも取り込むだろうと想定できたのだ。
(ちなみに私は、いまこれを書きながら、そうか、バブル崩壊以降社会人になった人々には、こんなことまで解説しなければならないほど、無意識のパラダイムが変容してしまったのか、と改めて痛感している。これは人と人、心と心の結びつきの変容でもある。
若い人には、抽象的な整理だけではなく、具体的な臨場感ある経験をいわばケーススタディとしてお話しすべきなのだろう。)
不思議なもので今の「エキスパート型の管理職」にとって、大学教授への依頼はスムーズにできて周囲からの評価も落とさないで済む。大した成果を上げなかった時もなぜかみんなで良かった良かったという雰囲気で終わる。
人材もブランド志向になったと言われて久しいが、それは就職戦線だけに留まらず、私の周辺にまで及んでいたようだ。
私はむしろ、一つの専門分野のパラダイムの偏りを指摘して「異なる分野との重なり領域」に新パラダイムを見出す仕事をしているので、一般的には何かのエキスパートとは看做されない。権威の後ろ盾がある訳でもないし、取り立てた成功者でも著名人でもないからブランド性はない。さらに、出たとこ勝負のアイデアを出すブレストやそれをファシリテーションしていく経験も積んできているが、「人とアイデアを切り離して捉える」エキスパートには評価されない。
そんな私が仕事をしていられるのは、今でも「ジェネラリスト型の管理職そして経営者」がいて、「ジェネラリスト型の発想思考」のニーズが多少なりともあり、それに対応する外部ブレインが少なくなり、しかもパラダイム転換志向を鮮明に打ち出す変わり者があまりいないためと自己分析する。
私は、以上のような企業社会の変化を、「ジェネラリストからエキスパートへの知識構造の変化の問題」だ、などと解説するつもりはない。
明らかに人心、心と心の結びつきの問題だと思うからだ。
そしてこの問題に日々心を悩ませているのは、私のような勝手気ままなフリーランスではなくて、日々会社で働く人々の方だと思う。
そういう意味で、この問題の解消は、私の課題だと捉えている。
ライフワークである「日本型の集団独創」を促進するということの、根幹を揺るがす問題でもあるからだ。
企業社会全体が、ここ10年で大きな質的な変化を遂げた。
おそらく会社で働く人々の葛藤やストレスは私の想像以上に深刻なのだろう。
しかし、これをどうにかすることができるのも、直接的には会社で働く人々でしかない。
私にできることは、フリーランスの立場で、宮仕えの身としては言えないことを歯に衣着せず言い、抽象的な批判ばかりをするのではなく具体的な提案や建設的な提唱をして外からエールを送り続けることだ。
お気楽と言うなかれ、私の方は、過酷なプロジェクトに雇い入れられることでもなければ、苦労も買って出れない身の上なのだ。
「自らが率先して自己犠牲を払うべきなのです。自分が最も損な役を引き受けるという勇気がなければ、上に立ってはならないのです。自己犠牲を払う勇気のない人が上に立てば、その下に位置する人たちは不幸になってしまいます。
残念ながら、今の日本を見渡したとき、このような『無私』の思想を持っているリーダーはそう多くはありません」
私は20代後半、5年間だけ宮仕えしたのだが、その時の上司は今にして思うと「無私の人」だった。
「無私の人」というと聖人のような印象でピンとこないのは、今の若い人も同じだろう。
要は、部下の成長を第一義において、私に面白い仕事という成長機会を与え、何の指示も注文もせずに全部任せてくれたのだ。それでいて、責任は自分がとるという後見人でいてくれた。こんな有り難い人が世の中にいたのだ。
入った会社で有り難い先輩に遭遇したのは何も私に限らない。
かつてはよくある話だった。それは、面倒見がいい先輩というような話とはまったく次元の違う話だ。
人望厚い上司が普通の会社の管理職としてちらほらいたのだ。フリーランスになった私にいろいろな仕事を持ちかけてくれたジェネラリストたちも、みなそういうタイプだった。
企業社会における「無私の人」は、私の場合、人材の成長を第一義においてくれた先輩として知っているのだが、資質というより人間性の問題であることは明らかだと思う。
その人間性は、もともとの性格などではなくて、苦労を乗り越えて身につけた人格なのだと感じている。
「人生は波瀾万丈です。人間は幾多の試練に直面します。ときに壮絶なまでの辛苦をどう受け止めるかによって、その先の人生が変ってきます。災難に遭って、打ちひしがれるままに諦めてしまえば、せっかく与えられた人生をただ暗く歩むことになります。逆に艱難辛苦に前向きに立ち向かい、災難を克服することができれば、人間的に高まり、人生も大きく開かれていきます」
前述の上司についてこんな思い出がある。
ある新聞社主催の見本市イベントのプロデュースの仕事をしないかと、ある時私に尋ねてきた。私が28、彼が40代後半の時だ。私は商業施設と文化施設を構想する経験はあったが、イベントのプロデュースの経験はなかった。聞けば予算が少な過ぎて、大手広告代理店が降りて、会社で見本市イベントを担当するSP事業部も降りて、誰もやらないとのこと。私は、協賛企業を募ってお金を集めてやっていいですか?と聞いたら良いという。自分の会社のSP事業部で製作すると高いので安い競合会社を使っていいですか?と聞いたら好きにしろというので、やることにした。特に協賛をとるあてもアイデアもなかったが、何でもやってみたい歳頃だったのだ。
建築学科出身の私は、まず協賛品でできる会場計画を練った。そして新聞社の課長さんと二人して太陽工業というテント会社に行きエアドームを製作提供してくれるよう口説いた。それがうまく行って、非常口はシースルーの自動ドアの会社を口説く、エアドームがガラス面に浮くようにデザインして旭硝子を口説く、極めつけは映像システムでこういうステージングをしますとビクターを口説く、そんな形で一番お金のかかる会場設営の大方がタダでできることになってしまった。
上司との思い出話はここからだ。
新聞社の方も、これだけ名だたる協賛企業がついてしまった立派な会場、しかもそれは新聞社主催イベントのテーマゾーンだったので、予算を増やすことになった。そこで新聞社の部長さんが、ディスプレイ企業のそれもそんな若造にプロデュースを任せていいのか、と言い出して、降りた筈の大手広告代理店をまた呼び込もうとしたのだ。部長さんが開いた会議に代理店スタッフがきて、彼らから私はああだこうだと会場計画になんくせをつけられることになる。その代理店は私の会社のお得意でもあり、私の上司も私が協力してもらった競合会社スタッフもみんな、これは代理店にもっていかれるなという雰囲気になっていた。
ところが私は、あまりの事の理不尽さに空気を読んで引くということができず、代理店スタッフを論破してしまったのだ。先方は最後に苦し紛れに、そんなやり方だったら集客できない、と訳の分からないことを言った。この時すべてが決定した。なぜなら、当時晴海の見本市会場でのイベントの集客は、会場全体での集客が回遊するのであって、一ゾーンでどうのこうのというものではない。素人でも分かるトンチンカンなことを口走ってしまったのだ。代理店がただ仕事を奪うためだけにいい加減なスタッフを連れてきたことがバレてしまった。
この様子をみて、大手広告代理店に仕切り直させようとしていた新聞社の部長さんもこの若造に任せてみようという気持ちになってくれた。
私の上司は私の隣に座っていたのだが、代理店スタッフと論戦していた時、机の下で私の足をしきりに蹴っていた。もういい加減にしろ、相手は我が社のお得意だぞ、ということだった。
私はそれでも代理店スタッフのなんくせを論破し代理店を追いやってしまった訳だが、形勢変ってハッピーエンドとなった時、上司はこの上なくニコニコしていた。
上司としては止める素振りをしたが、人間としては応援していたことが分かった。
彼は、私がクビを賭けて闘っていることを理解していたのだ。
会議の後、上司は妙に機嫌がよかった。
彼もお得意の大手広告代理店には随分と泣かされた経験があったと言う。それは競合会社のスタッフも同じで、いつも小突き回されている代理店に溜飲が落ちたという感じだった。
(このテーマゾーンは大成功し、イベント後援組織の理事長だった伊勢丹会長のお褒めの言葉が会場案内冊子の冒頭ごあいさつに盛り込まれた。新聞社の部長さんも大喜びで、うちの女子社員でよければ嫁さんに世話すると、訳のわからないことを言っていた。私は独立後ふくめ10年ちかく、この仕事を担当することになる。この翌年のテーマゾーンにパイオニアの協賛をもらい、その会場デザインをみたマーケティング部長に呼ばれたのがパイオニアとのお取り引きの始まりだ。
ということは、あの会議で私が暴走しなければ、今PMSの講師もしていなかったということで、運命とはじつに不思議なものだと思う。)
臨場感ある経験談のつもりがつい思い出話に花を咲かせてしまった。
分かってもらいたいのは、私が暴走している時に机の下で私の足を蹴りながらも私を見守っていた上司は、今考えると大変な人物だということだ。
最後結果が良くてニコニコしていたが、きっと結果が悪くてもニコニコしていたと思う。
普通の上司ならば、会議の席上で私を制してお得意の面子を保とうとしただろうし、結果が良くても上司に逆らったとかお得意云々ということで叱責しただろう。
なんで私の上司は、あんなに人物ができていたのかと考えると、ただ苦労したというのではなくて、西郷のように「艱難辛苦に前向きに立ち向かい、災難を克服することができ」て「人間的に高まり、人生も大きく開かれた」のだと思い当たるのだ。
彼は50代で亡くなってしまったのだが、私は今でも仕事に行き詰まった時に思い受かべる。
◯◯さんならどう声を掛けてくれるだろうか、と。
私なぞフリーランスはそれはそれなりの苦労はあるが、同じ会社にずうっといて若い時は横柄なお得意の注文に振り回され歳がいけば派閥争いに巻き込まれといった宮仕えの苦労は知らない。
苦労がない分、人間が出来ていないといつも反省する。とても◯◯さんの域に手が届くものではない。せめて、会社に勤める人々のストレスや葛藤は自分の想像以上のものだと思いやることは忘れないようにしている。
そして、かつて確かにあった普通の社員同士の心と心の結びつきを、どうやったら取り戻せるのか工夫することが、私自身が諸先輩から頂戴したご恩に報いることができるとすればその唯一の方法なのだと思う。
「人の志というものは幾度も幾度も辛いことや苦しい目に遭って後初めて固く定まるものである。真の男子たる者は玉となって砕けることを本懐とし、志を曲げて瓦となっていたずらに生き長らえることを恥とする」
「辛酸をなめるような苦難を耐え、努力に努力を重ねて乗り越えたとき、初めて人の志は定まる、西郷自身の壮絶な実体験がいわしめた言葉です」