稲盛和夫の「生き方(人間として一番大切なこと)」を読む 補記 |
「ただし気をつけなくてはならないのは、利他と利己はいつも裏腹の関係にあることです。つまり小さな単位における利他も、より大きな単位から見ると利己に転じてしまう。会社のため、家族のための行為には、たしかに利他の心が含まれているが、『自分の会社さえ儲かればいい』『自分の家族さえよければいい』と思ったとたんに、それはエゴへとすり替わり、また、そのレベルにとどまってしまうのです」
「『世のため人のために尽くす』という考え方、欲望のままに必要以上のものを求めたりむさぼったりしない『足るを知る』という生き方を、心に刻みつけるのです。
そのような理性と良心をもって感性や本能を制御しつつ人生を歩み、『善き経験』を多く積んでいくことが、つまりは心を磨くことにつながり、おのずから悟りに近づくことにもなる。そうやって高められた魂は、現世だけではなく来世にも継承されていくのです」
確かに、「善き経験」を自然体で積んでいる人々の生活や仕事や人生は、豊かな発想や素晴らしい洞察に満ちている。そして、小さな単位における利他が、さらにより大きな単位における利他に拡張していく。今、世界で求められていることはそういう<ケア的関係>の全体と部分のホロニックな回路なのだろう。
おそらく個人レベルでは、「善き経験」を、それに至る災難も含めて少しでも多く積むことが、おそらく根源的な発想や洞察の促進法なのだろう。
「世のため人のため」の発想思考が自然体で備わっていれば、発想の断片の概念や洞察の切り口としての概念関係を、わざわざ「受け手側の論理にそうための思考フォーマット」に落し込んで外在化しメタ思考する必要はないのかも知れない。
ただ集団レベル、組織レベル、国家レベル、世界レベルで、「善き経験」を拡張していくことが急務となっていて、そうした発想を促進するためには、やはりそれなりの方法論を構築していかねばならないと思う。