コンテンツではなくパターン、本質主義ではなく構成主義、ということの必要 |
「日本文化」っていった時、伝統文化だけではなく、アキバなどの現代的な現象も含まれると思います。また、和食や着物やアニメなどの制作物だけでなく、日本でこそ確立したコンビニや暮らすことまでできるインターネット・カフェなんかの業態やニコニコ動画のようなサービス事業も含まれると思います。
僕自身は、それらの特徴的共通性は、日本型の集団独創が介在していて、「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」が発揮されていることと考えています。
これを、欧米的な「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」、中国的な「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」と鼎立して、現代世界の人々や企業はそれらの美点的特徴を共に理解し過不足なく活用するのがいいと思っています。
僕はそれを中国語と英語で伝えようと勉強中ですが、伝え方よりも伝える内容を学際的に明快に整理することの方が先決です。
これは、僕が主に企業において「日本型の集団独創」をファシリテーションする仕事をしていて、日本文化の中でも商業文化、企業文化、商品サービス文化を対象としているためでしょう。
僕がこういう背景から気になることは、
「日本型の集団独創」は、何も日本人だけができるのではなくて、トヨタが改善を外国人にも研修しているように、伝えるべき内容と伝え方を工夫すれば、外国人も自分の関心事についてはできるようになるということ、
そして実は、当の私たち日本人自体が、個人的にも組織的にも「日本型の集団独創」ができなくなってきていることです。
「日本型の集団独創」を明治維新のキーマン志士やプロジェクトXに出てくる苦難を乗り越えた企業人に学ぶと、それが脳科学の東北大学の川島教授が重視する「群れ遊び」と関係することが分かります。
そして「群れ遊び」は、学齢の異なる隣近所の子供たちの活動ですが、学校社会では子供たちは同じ学齢の子供同士で遊び、しかもその遊びは自然そして人間から遊離してきています。善くも悪くも日本人の<情>は、自然との未分化性、他者との未分化性を特徴としています。
また、僕の卑見ですが、「群れ遊び」は隣接する縄張り、つまり異界の子供たちとの接触や交流を前提としていたと思います。地元の祭りはより広い地域の祭りの下部組織になっていますが、神輿を競うなどのゲームがそのまま子供社会にも重なっていた。ところが、今は、同じ企業でもモノ割り縦割り、また知識の専門化が進んだために、同じ専門用語を使う人たちばかりで仕事をするようにもなっています。
アメリカ型のグローバリズムの特徴が、企業社会に蔓延し、そこに人材を送り込むための学校社会がそれを先取りするようになり、地域や家庭も質的には様変わりしてきています。
これが日本文化全体の様相ですが、本来のその美点的特徴は、じつは世界の未来に向けて有効であって、まず私たち日本人がその有効性を理解し活用し世界の人々や企業とも共有していけるようにすべきではないでしょうか。
そこで、共通語としての英語や中国語は大切でしょう。
しかし、あえて僕は言いたいのですが、以上述べてきたような日本人の特徴的な発想思考や集団行動は、じつは人間が母国語で物事を考える以上、また母国文化という環境との相互関係の中で何かを把握し位置づけていく以上、「日本語と日本文化」が「鍵と鍵穴」のような関係で機能している。このいわば「社会脳」ともいうべき仕掛けの存在を大切にしたい。
今は、片や子供の時から英語を教えて国際人?にしたてて、片や大人に商品化した和を買わせて文化人?にしたてて、それでバランスをとったような形が暗黙に目指されているように思えます。
何か愚痴を言っているように聞こえるかも知れませんが、そうではありません。
じつは、こうしたその国の文化的特徴を喪失する状況は、急速に資本主義化した現代中国でも、意図的に対抗してきたEU各国でも起こっているのです。
つまり、「日本文化を世界に伝える」ことだけではなく、「各国文化を世界に学ぶ」ことも、文化交流の双方向として必要で、そこから文化多元主義的な希望調和世界を目指すことが求められている。
ちなみに、グローカリズムを地域で捉えるのが一般ですが、僕は日本が作ったコンビニモデルは、それぞれのローカルの消費ニーズと生産シーズを結ぶ点でグローカリズムの仕掛けだと思っています。マクドナルドやコカコーラとは違う訳ですね。
「日本文化の本質はこれしかなく、それは日本人だけが知っている」という前提は、コカコーラなのでしょうか?コンビニモデルなのでしょうか?
日本文化の伝え方、もしその一つがトヨタの改善チーム研修だとすれば、それはキリスト教の宣教師の伝道スタイルとは違う。
つまり、文化の捉え方や伝え方から、善くも悪くも日本文化なのだと思えてなりません。/