ここが変だよ日本人のディスカッション ベスト3 |
「情報」と「知識」の違い
そして「知識」を一般的な繋げ方をしたものは思考ではない
ディスカッションが思考の交流であることについて、まずは異論はないと思う。
次に「情報」(information)は、組織に位置づけるなり、個人が何らかの実践をして身につけて活用できるものにしなければ「知識」(knowledge~intelligence)には成らない、と私は考えている。
この考えは一般的ではないかも知れないし、誰かに押し付けるつもりもないが、日本人である私が頭の中で日本語でものを考える以上、こうした概念区別をどうにかしてでもつけないと、自分の考えの整合性を一貫させたり、複雑な現象を精緻に検討することができない。そういうことは原理的には(そこまで考えないという人は別にして)誰にでも当てはまるのではなかろうか。
次に「情報」でも「知識」でもいい、いずれにせよ、世間一般でも専門家の間でもいい公開されて常識となっている「情報」や「知識」を一般的な繋げ方をしただけの物言いは思考ではない、とハッキリしておきたい。
これは私が言っていることではなくて、専門的には「知能と記憶のメカニズム」というテーマの話として人工知能学者が言っていること(「人はなぜ話すのか」ロジャー・C・ジャック著)であり、さらにそんな学術的知見を持ち出すまでもなく一般生活者の感性である。
つまり、「物知りである人」は必ずしもイコール「物事を創造的に考えている人」ではない。
人と人の話し合いがディスカッションではないからと言って悪い訳ではない。ブレインストーミングというのも有意義であるし、情報交換というのも有意義である。
問題は、それらが時としてディスカッションと混同されているケースが多い、ということだ。
ブレインストーミングは、ディスカッションと混同されてはブレストのルールが保てないから不毛な結果に終わるのは明らかで、このことはもはや常識に属するだろう。
ここで論じたいのは、ディスカッションと情報交換が混同されるケースだ。世間一般のことでも私には知らないことが沢山ある。とくに異性の常識、異なる世代の常識にはめっぽう疎い。同じマーケティング分野に関することでさえ業界や会社によって実態は異なるから、知らない「情報」(information)の方が圧倒的に多い。
情報交換は有意義だ。しかしその理由を厳密に説明すると、情報交換という実践をした主体が、双方の実態が異なる理由などについての「知識」(knowledge~intelligence)を共創するからだ。つまり、ディスカッションの中に情報交換という手続きを含むとしても、厳密には情報交換そのものではなくて、実態が異なる理由を議論する過程が、「情報」なり「知識」の新しい組み立て方を提示し合って恊働で構築する。ここのところが確かにディスカッションなのである。
以上のように、ディスカッションとは
「情報」なり「知識」の新しい組み立て方を提示し合い恊働で構築する
ということだと厳密に規定すると、
ただ単に「ある権威者がこう言っている」「この業界ではこの用語はこういう意味である」といった受け売りや受動的物言いは、世間一般や専門家の間で公開されて常識となっている「情報」や「知識」を一般的な繋げ方をしたに過ぎなく、思考の交流であるディスカッションそのものとはならない。それは、「情報」なり「知識」を自分が知っていること、あるいは相手が知っていないことを言い立てている、あるいは自分も相手も知っていることを確認しているに過ぎない。
以上のように順序立てて説明すると、そんなことは誰でも分かってる当たり前のことのようだが、実際に他者がディスカッションしている様子を観察するとそうではないことが多い。
世間一般や専門家の間で公開されて常識となっている「情報」や「知識」を一般的な繋げ方をしただけの対話、そして、ただ単に「ある権威者がこう言っている」「この業界ではこの用語はこういう意味である」などの物言いは、ディスカッションと称した対話において多くの時間を費やしその骨組みにさえなっていたりする。
但し、このことは世界的に人類一般が(そしておそらく時に私も)していることらしく、次項のように日本人が特に、ということではない。
一言付け加えておくと、私がパラダイム転換発想のファシリテーションや日本型の集団独創という論題において、意識的あるいは無意識的な「パターンの認知表現」を重視するのは、それが『「情報」や「知識」の繋げ方』であるためである。
そこでは、
ディスカッションは「意識的にパタ−ンの交流を積極的にするが、じつは無意識的にもしてしまう」のに対して、
ブレインストーミングは「意識的に無意識的なパターンを積極的に解放しあって、その交流による『エゴを越えたトランスパーソナルな嵐状態』をメタ思考して、新たなパターンを求める」 、
と両者の精緻な概念が厳密に区別される。
ディスカッションのアイデアは自己の延長にある自分たちのものである。
一方、ブレインストーミングのアイデアはいわば神からの授かりものであり、じつはそこに居合わせた集団のものでさえない。そんな利他的感性が発想を豊かにし、社会を真に豊かにすると私は経験的に感じている。
「空虚の中心」がある、まるで天皇制のような対話
それはディスカッションではない
研修講座のグループ演習で、立案したアイデアの発表をしてもらい他グループと質疑応答をしてもらうと、かなりの割合のグループが繰り返すディスカッションの様相がある。
それは、こういうことだ。
アイデアを立案した発表グループは、そのアイデアの概念的特徴を身内では明確にイメージできている、しかもイメージを共有していると信じている。ところが発表をきいた他グループはイメージがはっきり浮かばなかったり、違和感を覚えたりする。そしてその点について質問したり意見を述べる。すると発表グループは2つのことを言う。
1つは、「私たちが考えたことは、そういう感じのものではなくて、もっと(あるいは、もうちょっと)こういう感じのものです」という答え。
「もっと」とか「もうちょっと」、「そういう」とか「感じ」など曖昧な言葉使いが多いほど他グループは納得しない。
私は講座最初の基礎演習で、想定する概念やイメージを客観的に位置づける「概念ポートフォリオ」でニーズやターゲットの想定を明快にする手順を教えている。しかし、こうした発表グループはなぜかそれを使おうとしない。無意識的に回避しているようだ。
概念的特徴を客観的な位置関係として説明できないというのは、じつは身内でもそれができる程には、明確にイメージできていなかったり、イメージを共有できてもいない、ということに他ならない。結果、当然、他グループには質問したり異議を唱え、発表グループは「もっと」とか「もうちょっと」とか曖昧な言葉使いで対応することになる。しかしよく考えてほしい、最終的に説得すべきは立案した商品やサービスを買ったり利用するお客様である。お客様の質問や意見の場合、そんな物言いで済まされるだろうか。他グループは社内立案段階でのお客様の代わりでもあるのだ。
また他グループが全員アメリカ人だったら、発表グループが英語で同じ物言いができたとしても、果たして両者の間にディスカッションと互いに認めるものが成立するか、と自問してみるのもいいだろう。相手は「もっと」とか「もうちょっと」云々を具体的に察することができるだろうか。一方、概念ポートフォリオで表現できるのであれば、たとえその内容が日本人的なメンタリティのものであっても、アメリカ人にも概念の位置関係として理解が可能なのだ。(九鬼周造がパリでも著した「いきの構造」では、たしかフランス語の「シック」他との位置関係で「いき」を説明しようとする相対図があった。)
かつてロラン・バルトは、我が首都東京の中心に所番地のない皇居があることをもって「空虚の中心」と言った(「表象の帝国」)。これは御所の話ではなくて、天皇という存在自体が象徴として「空虚の中心」を担っているアニミズム的な日本文化の特徴を喝破したものと私は捉えている。
何となく、身内は良いものとして明確にイメージし、しかもそのイメージを共有していると信じている。じつは、そのいわば信仰が成立するように政(まつりごと)が行われてきた、ということなのだが。
前述の発表グループの様相は、私たちがたとえば「日本の天皇のもつ象徴性と、英国の王のもつ象徴性とは、同じなの?それとも違うの?」と問われた時の答えに似ている。ハッキリ答えられないのは当然だ、ハッキリさせない象徴機構が培われてきたのだから。
私は、研修の演習だけでなくて、日本の世間一般のビジネスシーンで見受けられる「自分たち身内が考えたアイデアが最善の筈だ」と何の客観的根拠なく信じられる集団の様相をみるにつけ、この天皇の象徴性に対する情緒を感じてしまう。この無根拠の自信は、困難にもくじけない前向きな態度能力にも繋がるのだが、知的活動としては、思考を停止ないし停滞させていて、イメージという名のじつは期待ないし信仰だけを拡張させると思う。
しかもそれが成立しているのは、そのように成立させる政(まつりごと)が機能している限りであるように、発表グループとお客様ではなくて他グループとのポリティカルな感情力学の限りでしかない。講師の私が前述した概念ポートフォリオの使用を条件づければ良いようだが、すでに受講者は基礎演習で使用し有効性を理解しているのだから、ここでは、どこまで応用演習に客観的合理性を求めて、自己納得的にではなく他者説得的にやるつもりがあるかの態度能力の問題になっている。私としては、最終発表では、リハーサルで他グループからでた質問や異論を想定してスケッチなどでブレのない概念表現をするようアドバイスするのみである。
最終発表後、他者説得的な煮詰めはいま一つだったが実践的なアイデアに発展できるものは、私なりの発展案を立案して本ブログに掲載し、自分たちのアイデアと比較して今後の現業に活かしてもらうことにしている。研修の自由課題の演習は身内の絵空事のレベルでお茶を濁すか、実践的に掘り下げて現実の異業種企業に提案できるレベルにまでもっていくかは、実際にグループの意欲次第なのだ。
日本語で言えるカタカナ英語を多用したり
専門英語のよくない意訳の日本語をそのまま無自覚に使うのは
日本語脳をうまく活性しない
私も自分より年輩者に「横文字の言葉が多過ぎる」と言われるので、最近の若い人の傾向をとやかく言う資格はないのかも知れない。
しかし敢えて言うが、私の場合は、たとえばカタカナ英語でしか言えない言葉や、日本語への一般的な意訳が誤りでその概念ではブレがある言葉は、カタカナ英語をそのまま使うことにしている。
たとえば、リスク(risk)は単純な「危険」ではない。能動的に挑戦したり冒険したりするという行為が前提としてあっての危険性のことであり、「危険」の一言に意訳するのは明らかに誤りだ。しかし、日本人は明らかに挑戦したり冒険する気持ちがないのに、「リスクがある」などというへたな言い訳をする時がある。そもそもリスクは「あるかないか」ではなくて、「高いか低いか」を具体的にどの程度か見積もる議論をすべきなのに。この類いのカタカナ言葉の不正確な使い方は、じつは意味の間違いよりも、誤った態度能力を糊塗するために使われている場合がある、つまり思考の停止を正当化する働きがあることが問題である。
コンプライアンス、アサインメント、ライアビリティ、正確な意味を理解してカタカナ英語を使った方が脳によく馴染む人はそうすればいいとは思う。
ただディスカッションしている相手の日本語脳がその多用と羅列スピードについていけるかは確認する必要があるだろう。そして日本語を母語とする者同士のマナーとしては、ついてこれるのが当然だと自分のペースを押し付けるのは美しくない。しかし、業界人としてあるいは若い世代として、そのような言葉使いに慣れ親しんでいることが通過儀礼をすませた証明であるかのように機能していて、むしろ日本語脳の活性をほんとは疎外しているのではないかと心配してしまう。つまり、意識としては無理しているつもりはないだろうが、意識する日本語脳自体が活性できないでいるのではないか。
それが単なる時代遅れの杞憂でないと思うのは、彼らの思考がカタカナ英語の多用と羅列スピードにむしろ画一的に制約されているように感じるからだ。
その感じが正しいかどうかは、私自身が私の日本語脳において彼らとディスカッションしてそれなりにユニークな意見やアイデアを提示し受け入れられるかに掛かるが、幸いマーケティング関連、発想洞察の知識創造関連では受け入れられている。そして理解し評価してくれる若者は、なぜかけっして不用意無自覚なカタカナ英語の多用をしない日本人である。私と同じように質実剛健な日本語脳の使い方をしている人たちなのかも知れない。「専門的なカタカナ英語の多用と羅列スピード」は、単なる世代の問題ではなく、グローバルな情報や知識が大量かつ高速に降り注いできてそれをどうにか吸収したりやり過ごして生きて行くしかない現代を、私たちの身体レベルで象徴しているのではないか。だからしょうがないとも言えるが、同じ地平で闘うならば、英単語だけを流暢に話すアメリカ人に勝てず、お約束の情報や知識の繋ぎ方が得意なコンピューターの足下にも及ばないことも明白だ。
私たち日本人の日本語脳とその延長にある身体知が得意とするのは、もっと異なる次元のことなのではないだろうか。
私がもっとも問題視するのは、カタカナ英語の単なる多用や羅列のような世間一般のことではない。
専門家とか業界人というある知的体系を共通の土壌とする人たちが、専門用語の英語のあまり芳しくない意訳を、その筋の専門家が無自覚あるいは無理解に使うことが、私にとっては切実に問題なのだ。
しかも、もし私たちが専門的に深い正確な理解をした上でカタカナ英語を使うか、より良い意訳を採用するかすれば、日本語脳はより整合性を一貫させることができるようになるし、より精緻な複雑性を明快にすることができるようになりさえする。
重要なマーケティング用語であり本ブログでも論じてきたカタカナ英語に、
「消費者」と訳される「コンシューマー」と
「顧客」と訳される「カスタマー」がある。
これは完璧な対概念である。単純に言えば、
前者が<モノの送り手側の論理>に立った量的概念であり、
後者が<コトの受け手側の論理>にたった質的概念である。
このことを理解した人は、最近話題になった
<レッドオーシャン市場>と
<ブルーオーシャン戦略>
の対概念などアメリカ人の本が出るずっと以前から言われなくても理解していた。
しかし、日本語の「消費者」と「顧客」は対概念ではない。
だから、日本語脳においてそうした論理の一貫性に貢献させられない。ここはその筋の専門家ならば、カタカナ英語の専門的意味合いを再規定して事に臨んだ方が実際得策だったのだ。
これと同じようなことが最近、「集合知」という言葉をめぐってある。
Wisdom of Crowdsの訳として定着しつつある。「集団知」と訳される場合もみられたが、私はその方が正解だと思っている。詳しく説明したい。
James Surowieckiの言う「Collective Intelligence」は、「適切な状況の下では、人々の集団は、その中で最も優れた個人よりも優れた判断を下すことができる」ということである。(適切な条件とは、(1) 意見の多様性(2) 各メンバーの独立性 (3) 分散化 (4) 意見集約のための優れたシステム ) 条件が満たされれば、個々のメンバーが正解を知っていなくても、また合理的では必ずしもなかったとしても、グループのほうがよいという。
よって意味合いとしてはいろいろな知を含んでいる。
そこで、私は、
総合的に「意見が集約される」ことに力点を置く「集合知」
効率的に「ムーブメントが形成される」ことに力点を置く「統合知」
と対概念にするのがいいのではないかと考えている。
つまり、以下掲示の概念図のように
Wisdom of Crowds「集団知」=「集合知」+「統合知」
と考えるのだ。
集団が総合的な情報や知識から判断を下す仕掛けは「集合知」
(↑既存組織体制を前提としている点で、より静態的=スタティック)
個人が自主的に関係創出しつつ、知識共有、合意形成していく仕掛けは「統合知」
(↑既存組織体制から自由である点で、より動態的=ダイナミック)
とするのが、日本人の勤める日本企業の社内コミュニケーション・インフラの戦略構築などにおける「日本語使い」として得策ではないか。たとえ米国専門権威の考えと違っても、と思う。
私が研究実践のテーマとしているパラダイム転換発想の集団独創には、まさに「統合知」が期待される。
無論、「Collective Intelligence」の働く「適切な状況の条件」がととのっていない組織において、それをととのわせるための改革が求められる場合も、少数の主体的精鋭によるこの「統合知」が求められる。こう考えると、私が「統合知」の対概念として規定する「集合知」は、「Collective Intelligence」の働く「適切な状況の条件」がととのっている組織においてのみ可能ということで、条件がととのっていない組織においても可能な「統合知」と、両者合わせたのが「集団知」であると、James Surowieckiとは異なる再規定をすべきことになる。
いずれにせよ、この両者が概念区別されないまま、まるで同じ概念かのように一つの意訳で済ますことは、私の思考においては捨て置けない。
私の日本語脳において思考の一貫性を保ったりより精緻な複雑性を明快にする上で非常な非効率ないしは不正確を来すことになるからだ。
むしろ以上のような対概念を想定した方が、コンシューマとカスタマーの対概念によってマーケティング戦略検討が明快かつ容易になったと同様に得策を得るだろう。
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