幸福に仕事をすること(4/7) つづき |
チクセントミハイは、
フロー体験を障害になるのは「自意識の過剰」と「自己中心的な人格」である
とキッパリと言い切る。
「人に悪い印象を与えはしないか、何かまずいことをしたのではないかなど、たえず他者が自分をどのように感じているかを気に病む人も、楽しさから永遠に見はなされるよう運命づけられている。
極端に自己中心的である人も同様である。自己中心的な人は一般に、自意識をもたない代わりに、どんな些細な情報でも自分の欲望に関してのみ評価する。このような人にとって、すべてのものはそれ自身としては無価値である。花も、それが利用できなければ何の価値もなく、自分の利益にならない人は、深い注意を払うに値しない。意識は完全にそれ自身の目的に関してのみ構造化され、その目的に合致しないものの存在を認めない」
現業現場の話になるが、どうも「極端に自己中心的である人」は「自意識の過剰な人」を操作するのが得意らしく、また逆に「自意識の過剰な人」は「極端に自己中心的である人」のいいなりになりやすい、というのが長年の私の観察結果だ。これが何事もないいわば治世であれば大したことにもならず起こる事も局所的なので、周囲から両者の関係を眺めて呆れたり同情したりしていればいい。
しかし、経営危機やリストラ圧力が蔓延するなどの乱世となると、事態は組織の構造的問題に発展する。「自意識の過剰な人」はより過敏になって過剰防衛的かつ排他的になる。そして後ろ盾になりそうな実力者の目を気にするようになる。そして一般的に企業社会では上にいくほど「極端に自己中心的である人」である実力者の割合が高くなる。通常、彼らは人格としてそのような評価はされていない。なぜなら、企業という組織がその種の人的傾向を助長および正当化しているからである。たとえば、ある営業部門の事業部長が営業成績の悪かった部課長を公の席で罵倒したとしよう。社員は、そうまで言わなくても、と心の内で思うことはあっても誰も口に出せない。それは組織がそれを容認しているからだ。様々な自己中心的な言動を組織というものが容認しているケースというのはたくさんある。セクハラ、パワハラもそうだし、その逸脱性を感じとる感性が相当程度麻痺したところには企業として法律遵守をおかすモラルハザードがある。
社員が悪いことをするようになるとは言わない。そうではなくて、言うべきことを言わなくなったり、言おうとしている人がいれば波風が立つのを嫌って言わせなくする、といったことが常態になる、ということを問題としたい。こうした推移を加速するのが、「極端に自己中心的である人」と「自意識の過剰な人」との過敏な相互反応であり、乱世ほどそれは短時日の内にエスカレートしていく。そういうことは全社レベルでも、事業部レベルでも、プロジェクトレベルでもまるで季節の移り変わりのように同時多発していきやがて常態となる。
「自意識の強い人は多くの点で自己中心的な人とは異なるが、いずれもフロー体験に容易に入り込めるほど心理的エネルギーが統制されていない。双方とも、活動それ自体に関連づけるのに必要な注意の柔軟性が欠落している。あまりにも多くの注意が自己に閉じ込められており、自由な注意が自己の欲求によって強く方向づけられている。これらの状況のもとでは内発的な目標に関心をもつようになることや、対象との相互作用自体以外の報酬をもたらさない活動に我を忘れることは困難である」
チクセントミハイは、自己目的的パーソナリティがどのような家庭で培われるかを述べている。
私は、その内容は、研修やプロジェクトの心理的環境づくりの重要な手掛りになると考える。
つまり、プロジェクトの心理的環境づくりを工夫することで、いまさら大人の人格形成ができるとは思わないが、フロー活動に入りやすい人格的側面の発露を促すことはできると思うのだ。
著者は、以下のように最適経験を促進する家庭状況の5つの特徴をあげている。
「第一は明快さである。
ティーンエイジャーは両親が自分に何を期待しているかが分かっていると感じており-----家族の相互作用において目標、フィードバックは明瞭である」
研修のカリキュラムやプロジェクトのフローチャートの各過程において、受講者やスタッフに対して期待される目標と、成果に対するフィードバックが明快かつ具体的に提示されることは、フロー活動の必須条件である。
「第二は中心化である。
つまり、両親は自分が良い大学に入るか、良い職業につくかということを先取りすることよりも、自分が存在していることや具体的な感情・経験に関心をもっているという子供の認識である」
何らかの形で企業に貢献することを先取りすることがつねに念頭におかれる企業社会において、社員一人一人の「中心化」とは何を意味するのだろう。彼彼女のユニークな能力の必要性と有効性を本人と周囲に明示し、それをそれぞれが尊重しあう、ということだろう。比較的長い時間を共有するプロジェクトの場合、そうした相互信頼と役割分担が自然発生するように工夫することは可能だし有効である。一日二日の研修の短時間の演習の場合、どのようにしたらいいのか。元ギャラップの経営幹部がかいた本 「さあ、才能(じぶん)に目覚めよう」(日本経済新聞社刊)が、個人の個性的な強み=才能を割り出すウェブサービスを本購入者に無料で提供している。これを利用して受講生一人一人に自分の強み=才能を再認識してもらいそれを活かす形で発想思考してもらう、そういう試みをしてみたい。つまり、受講生本人によって自己を中心化してもらうのだ。そうすれば、そういう試みをしない時は付和雷同していた人あるいは話題でも、独自の観点から何かを思い浮かべ意見を言うようになる可能性がある。
「第三は選択の幅である。
子供は結果に対して自分が責任を負う覚悟がついている限り、両親の課した規則の破棄を含めて、幅広い可能性をもっていると感じている(筆者注:著者はアメリカの家庭を前提にしている)」
プロジェクトにおいては、結果に自己責任を負うという大前提において、自由闊達に自ら立案した方法論で作業を進めてもらう。後で尻拭いをしてもらうつもりの者は、結果に責任を負うつもりのある者が提案する方法論に潔く協力すべきだろう。自分の意向は通すが尻拭いはしてくれでは話にならない。
私が論じることができるプロジェクトは、私のような外部ブレインが参画するものである。そこでは、社内メンバー、外部ブレインともに、自己責任を大前提として選択の幅が保たれる対等かつフェアな精神が求められる。これがなければ、どんな人間関係も楽しくないことは自明だ。
下請け的な外部スタッフしか使ったことのない社員は、下請けと外部ブレインを混同していることがある。下請けとは、社内スタッフでもできる内容ないしレベルの仕事を卸すという関係だが、外部ブレインは社内スタッフでできない内容ないしレベルの仕事を補い合うという関係にある。この関係を楽しくするためには、外部ブレインには社内スタッフにはできない内容やレベルの仕事ができる、あるいはもっと具体的に社内スタッフがもっていない観点やアイデアがあるという前提に立ってほしい。お互いの個性と能力を尊重するところからしか、楽しい恊働活動は生まれようがない。
しかし外発的な意識から統制感をどうしても確保したいタイプの人はいるものだ。外部ブレインの実力を検証しようとせずはなから自分たち以上のことはできまいと決めつけるか、あるいは具体的に実力を認める場合でもプロジェクトに寄せ付けない。さらには、事前にプロジェクトにトップ直轄で採用されている外部ブレインにも、作業過程で自分の意向を通すことにこだわり執拗に下請け扱いしようとする。
こうした操作的なタイプの人は、社内の部下同僚にも同じように接している。彼らが外部ブレインを嫌うのは、自分の統制体制を崩したくないからだ。悲しいことに、こうした執着は経営危機などで心理的な就労環境が厳しくなっている時ほど蔓延していく。ほんとは、そんなみみっちいことにこだわっていないで、胸襟を開いて協力し合わなければならない時なのにだ。
ちなみに、私はこういう指摘をすることで私自身の取り引き状況が良くなるとは思っていない。むしろ逆だ。しかし、こういう指摘をして多くの物言えぬ心ある社員の代弁をすることは有意義だと思っている。
「特徴の第四は信頼、
つまり子供が自己の防壁を安心して取り除くことができ、何であれ自分が関心をもつことに人の目を気にすることなしに没入するようになることを認める、子供の親への信頼である」
交流分析心理学では、5つの自我状態を想定する。
CP(批判的な父親)=権威は、企業組織に容認された自己中心性を発揮する実力者。
AP(順応する子供)=追随者は、周囲を気にして自分を位置づける自意識過剰の者。
これは父と息子あるいは軍隊の縦関係であり、この交流関係において内発的意識の統制するフロー活動は不活発。
FC(自由な子供)=赤ん坊は、くったくなく笑ったり泣いたりし、創造性や芸術性を発揮する冒険者。
NP(保護的な母親)=擁護者は、寛容で受容的な安全基地。
これは母と娘あるいは遊び仲間の横関係であり、この交流関係において内発的意識の統制するフロー活動は活発化。
あと、
A(合理的な大人)=大人は、合理的に分析したり計画したりするコンピューター。
ロジカルシンキング、係数管理、合理的判断やバランスなどをする際の自我状態だが、それはあくまで手段体系であって、目的は他の自我状態が司ることが一般的。
著者の上げる「信頼」との関わるポイントは、
「子供の親への信頼」は正確には、
CP(批判的な父親)=権威へのAP(順応する子供)=追随者による信頼
と、
NP(保護的な母親)=擁護者へのFC(自由な子供)=赤ん坊への信頼
がある、
ということである。
前者は、営業部門などのどちらかと言えば体育会系組織に必要な信頼関係であり、
後者は、研究企画部門などのどちかといえば自由闊達な発想思考の求められる知識創造組織に必要な信頼関係である。
自由闊達な発想思考を促進する研修講座やプロジェクトでは、後者のNP(保護的な母親)=擁護者への信頼という安全基地があって、受講者やスタッフはFC(自由な子供)=赤ん坊として自由闊達な発想思考という知的冒険を安心してすることができる。
内発的要因というのは、個人的なものでおしなべて他者からみれば馬鹿馬鹿しい場合や本人にとっては内面的で気恥ずかしい場合がある。これをくったくなく発露することは、発露しても受けとめてもらえる、まして軽蔑されたり冷笑されたりしないという深い信頼感が必要である。よくプロジェクトのキックオフで呑み会をして打ち解けるというが、人間関係はそんな単純なものではない。
基本的にはNP-FCの交流関係が確認されなければ、以上のような意味での信頼関係は築くことはできない。
逆に言えば、自分がFCを見せれば相手がNPとして受けとめてくれて、相手がFCを見せれば自分がNPとして受けとめるという、キャッチボールができるとなれば、呑み会などしなくても気を許し合うことができる。
この交流関係の現代における典型は、アキバ系のオタク同士の関係で、これを自由闊達な発想思考の理想的関係とみることもできる。
私が着目しているいい大人がまじめな話題で理想を求める「群れ遊び」も、明治維新のキーマンたちの幕藩、身分をこえたネットワークはNP-FCの横関係であったと解釈することができる。幕内、藩内の交流関係が完全な封建的あるいは軍隊的なCP-ACの縦関係であったことと好対照である。また、同じ関心事で身分を越えた信頼関係をもちネットワークを全国に広げたという点では、俳諧の連なども「群れ遊び」でありNP-FCの横関係であったと解釈できる。権威が属人的でなく、作品や作風そして流派といった知的体系にある場合、人と人の交流はちょうど「法の下に平等」といった理性的なものになるようだ。
私は社内SNS(関係創出)や社内ブログ(知識共有)には、そうした交流関係の現代化の可能性を求めたいと思っている。
「そして第五は挑戦、
すなわち複雑な挑戦の機会を子供に徐々に課していくという親の働きかけである」
プロジェクトにしても、パラダイム転換発想演習にしても挑戦的な課題がオーソライズされている。
パラダイム転換発想が得意な人がいれば不得意な人もいる。私は長年同じ研修で受講生を見てきて、どうもそれは頭脳よりも性格が影響しているように感じている。私自身は、不得意な人にはもっと得意なところで頑張ってもらえばいい、そういう発想をするのが得意な人もいることを知り、役割分担して仲良く恊働していけばいいと思っている。
私が重視するのは、自由闊達な発想思考をトップが求めるプロジェクトにおいても、その課題に真正面から向かい合えない人がいろいろな形でいるという一般的な事実だ。
結局私は、挑戦を好む人と、挑戦を嫌う人がいる、という事実を受け入れざるを得ない。
しかし、実際に「私は挑戦は嫌いです」という人はいないし、じつは本人もそう思っていないことがほとんどだ。それは、「挑戦」ということを観念でしか考えていないからで、実際に「挑戦」という現実を用意されると怯んでしまう人は多い。
それは、チクセントミハイが前章で述べていた
「人は保護された日常生活での安全をすすんで放棄しない限り統制感を経験することはできない。結果が不確定である時、またその結果を左右することができる時にのみ、人は自らを真に統制しているかどうかが分かるのである」
ということに由来する。
つまり、「挑戦」とは、結果が不確定である事に対するものでしかないのだが、その結果を左右することができるように頑張るつもりになるかどうかという踏み絵をまず踏まなければならない。しかし私が既存パラダイムへの挑戦であるパラダイム転換発想は、頭脳ではなく性格の問題であるとの印象を強めた切っ掛けは、「失敗してもいいからベストを尽くしてくれ」というトップの声かけをうけて「保護された日常」を確保しているにもかかわらず頑張るつもりになれない、そんな人たちを実際に目の辺りにした経験だった。
チクセントミハイの論旨のように、外発的要因に囚われていることが習い症になっていて、内発的要因を解放することを許されても、それに反応できないという人がほんとうに多くいるのだ。きっと彼にはトップの声かけを、いきなり芸術家になれと言われたように感じたのかも知れない。すべて外発的意識で受けとめるとすればそういうニュアンスなのだろう。
先ほど「頭脳」といって「能力」と表現しなかったのは、結局、個人の発想思考において、そして集団の独創において重要なのは内発的な意識で仕事を統制する「態度能力」だからである。
「この五つの条件の存在は、生活(仕事)を楽しむための理想的な訓練を提供するところから『自己目的的家庭状況』(『自己目的的プロジェクト状況』)と呼ぶことができる。
これら五つの特徴は明らかにフロー体験の各構成要素と対応している。
目標の明確さ、フィードバック、統制感覚、現在行っている作業への注意集中、内発的動機づけ、挑戦を容易にする家庭状況(プロジェクト状況)の中で成長する子供(作業するスタッフ)は一般に、フローを生み出すように自分の生活(仕事)を秩序づける、より豊かな挑戦の機会をもつことになろう」
楽しい時と場合において人がフロー体験に入りやすいのは、誰にとっても当たり前のことだ。
私たちの生活や仕事や人生において役立つのは、けっして楽しくない状況においてもフロー体験に入れる人格特性に違いない。
それについて著者はリチャード・ローガンがビクター・フランクルなどの極限状況からの生還者の手記に基づいて出したこのような結論に最後に触れている。
「生存者にみられる最も重要な特徴は『自意識のない個人主義』、つまり利己的ではない目的への強い志向性である(中略)。
この資質を備えた人々は、あらゆる環境の中で最善を尽くす傾向があるが、基本的には自分自身の利益の追求に関心をもっていない。それは彼らの行為が内発的に動機づけられているからであり、彼らは外部からの脅威によって簡単に不安になったりしないのである。
自分の周囲のものを客観的に観察し分析するための心理的エネルギーを十分にもつことによって、彼らはその中により多くの新しい挑戦の機会を発見するチャンスがあるのである」
私たち凡人には、このような『自意識のない個人主義』を貫徹することは難しい。
しかし、挫折するその時まで、そのような自分で仕事しよう生活しようと試みることは誰にでもできると思う。
←本ブログをご評価ください
ブログratings - ビジネス・経済TOP50