幸福に仕事をすること(2/7) つづき |
「我々は、経験は心理的エネルギーの投射の仕方-----注意の構造-----に規定されることをみてきた。これは次に、目標や意図に結びつけられる。これらの過程は自己、つまり我々が自分の目標の全体系に関してもつダイナミックな心理的表象によって互いに結びつけられる。
我々が事態を改善しようと望むなら、これらの諸要素をうまく操作しなければならない」
「因果律にのっとった知起点の認知表現パターン」は、典型的には科学だが、これはすでに起こったことを原因と結果として原理や法則を分析することから始まり、未来に向けては原理や法則を仮説として想定し実験検証することで成り立っている。つまり、基本は過去にあった蓄積である。ただ、原理や法則は人間が存在する以前から未来永劫まで超然と機能し続けているが、すべてを人間が解明していないのだという前提が強化されるにつれて、全体としての注意は理想主義的に未来志向になってきた。
このような現実世界では、経験とは、無意識的ないし無自覚的に因果律を仮説・検証・実験するものとして能動的に捉えられている。
一方、「共時性にのっとった意起点の認知表現パターン」は、典型的には易だが、これは今の状況そして起こりそうなことを相として観察する、過去にさかのぼることもできるが、基本は未来に向けた可能性である。ただ、ここでの原理や法則は科学とは異なる意味合いであり、ユングが着目したタオ=道=元型であり、それが時を同じくして相=元型イメージとして出現するというものである。自然はタオに従って現象しているが、人間とその社会は道を外れたり極めたり多様である。全体としての注意はそういう目の前の現実を乗り越えて生きて行くことに向き現実主義的に過去志向になってきた、と思われる。過去志向というのは、懐古ということではなくて、理想的な調和状態=完璧なる中庸は聖王が国を治めた神話時代にあるとする、ほとんど無意識的なマインドセットを指摘したいがためだ。これは今のところ私の直感にすぎない。
このような現実世界では、経験とは、無意識的ないし無自覚的に共時性がこの身とこの場に相として反映するものとして受動的に捉えられている。
そして「縁起にのっとった情起点の認知表現パターン」は、一年の春夏秋冬という循環的時間軸の中で過去とも未来とも常に繋がり、過去にも未来にも理想をもとめ、前2者の認知表現パターンを取り込んできた。アニミズムを土台とする現実主義であり理想主義であり、循環時間志向というしかない。これは全体としての注意が、過去や未来という時間軸ではなく、つねに今ここでしている経験についての心理的空間軸において内発的要因という内面に向けられている、ということではないか。これも今のところの私の直感にすぎない。
このような現実世界では、経験とは、無意識的ないし無自覚的に因果律と共時性を渾然一体とする縁起の連鎖として受動的かつ能動的に捉えられている。
私は実際の日本人のすべてがそうだと言うつもりは毛頭なく、ただ日本人の美点、日本文化の特徴的美点はそこにあり、高度情報化した世界においては日本人でなくてもその美点を外国人も共有できるし、自国文化にその特徴的美点を導入することもできると考えている。
つまり、事実関係の解明よりも、グローバルな有効性の具体化の方向性を体系立てたい。
「意識にマイナスに働く主な力の一つは心理的無秩序-----すなわち現在の意図と葛藤し合う情報、または意図の遂行から我々をそらしてしまう情報である。この状態をどのように経験したかによって、それは苦痛・恐れ・激怒・不安・嫉妬などさまざまに呼ばれる。これらすべての(筆者注:心理的)無秩序は、我々が自分の好みに従ってものごとに注意を向ける自由を拘束し、注意を望ましくない対象にねじ向ける。心理的エネルギーは扱いにくく、役に立たないものになってしまう。」
このことは、遺伝的要因レベルの意識、外発的要因レベルの意識、内発的要因レベルの意識においてそれぞれに起こるし、レベル相互間の関係としても起こる。私がつねに着目しているのは、「内発的要因レベルの意識の統制を本人がしようとしているのに、外発的要因レベルの意識ないしそれをもたらす情報によって、あるいは遺伝的要因レベルの意識ないしそれをもたらす情報によって、心理的無秩序が生じてしまう事態」である。
私は、「自分は外発的要因レベルの意識でビジネス情報誌を読んでたとえばナレッジスキルを高めていればいい」という人、「自分は遺伝的要因レベルの意識で生活情報誌を読んでたとえば恋愛テクニックを高めていればいい」という人、さらに「自分は内発的要因レベルの意識でスピリチュアル本を読んで精神世界のことに没入しているのでほっておいてくれ」という人のことはあまり考えていない。
私がともにあろうと念頭においているのは、「現実の生活や仕事をいかに幸福にするか」という問いかけをして、「遺伝的要因レベルのことがらや外発的要因レベルのことがらを内発的要因レベルの意識で、自分自身の問題として心理的に統制しよう」とする人々であり、ともに何かを創造していきたいと思う。
「もちろん人間の存在というものは、たとえば宝くじで100万ドルをあてる、似合いの男性または女性と結婚する、または不公正な社会システムの変革に手を貸すなど、外部のことがらによって改善されることもある。しかし、これらの素晴らしいできごとすら、意識の中にきちんと位置づけられねばならず、それらが生活の質に影響を与えるためには積極的に我々の自己と結びつけられなければならない」
とするチクセントミハイは、自己とは、動物と同じ遺伝的要因レベルの意識ではありえず、その好みに応じるだけでは決して品格のある人間になりようのない外発的要因レベルの意識でもありえないと感じているようだ。そうした意識で能動的な行動を積極的にしてきたつもりのことがらも、私自身、自分のこれまでの経験を反省して思うのだが、内発的要因レベルの意識に立ち戻ると、遺伝子からの指令なり社会的な統制なりに従った極めて受動的なものだった。つまり小我のなせる技であり、結局は動物レベルあるいは無条件に現前の社会状況を前提とした競争に踊らされていたと思う。後半生は、それを肯定して低次元の競争に加担したくないというのが本音だ。同じ競争社会でも、内発的要因レベルの意識とそれによるフロー体験を広げる競争に生きたい。
「情報が目標を脅かすことによって意識を混乱させる時、我々は常に内的無秩序の状態、つまり心理的エントロピーという自己の効率を害する自己の混乱を経験する。この経験が長引くと、それは注意を投射し目標を追求することができなくなるまでに自己を弱める」
いま日本だけでなく世界中のほとんどの企業においてリストラ圧力というものが隠然と存在している。私たちは、ともするとリストラ圧力をかわす、あるいは乗り越えると考えてしまう。正社員でいなければ結婚もできない子供も埋めないという現実は、遺伝的要因レベルの意識を混乱させる。人並みに大学を出ていい年してフリーターになる訳にはいかないと世間体や親の心配を気にせざるを得ないという現実は、外発的要因レベルの意識を混乱させる。
しかし、内発的要因レベルの意識で目的と手段を捉えれば、会社に残って何をいかにするか、会社をやめて何をいかにするかは、まったく等価な選択肢であり、より有意義な可能性を求めることは本来心理的安定をもたらす筈なのである。もしそれでも意識が混乱するとすれば、それは他2レベルの意識によるものだ。
この点で、この意識の混乱はニートが逡巡して就職しない状態と同じかも知れない。つまり、情報としては、私たちの社会は内発的要因レベルの意識の向上を「ゆとり」や「個性」の名のもとに教育したり常識化してきた。しかし、私たちの社会は実践としてその受け皿となる会社の仕事の場や学校の学びの場を用意してこなかった。
「我々が処理する情報の一つ一つが自己に対する意味を評価される。それは我々の目標を脅かすだろうか、支持するだろうか、中立だろうか。(中略)新しい情報は、我々を恐れに直面させることによって意識の無秩序を生むか、心理的エネルギーをより自由にすることによって目標を強化するかのいずれかである」
私は、情報を処理するなかで、心理的エネルギーをより自由にする情報に選択的に注意を向けるという能動性を重視するが、それ以上に、そのような情報を少しずつでも自ら創造しようとする実践の能動性の有効性を主張してきた。すべての人がやる気になったり、やる気になった人のすべてができることでもないだろう。しかし、誰もがそれを歓迎し応援する気持ちにはなれる筈で、そうであればごく一部の人たちが切磋琢磨して有意義な情報を自ら創造する実践は大きな成果を応援者たちにももたらすのではないか。
無論、自らの既得のことがらを固守して応援者にならず、むしろ意図的無作為、無視、非協力さらには排他敵対する者もいるだろう。私が、現代におけるパラダイム転換は、おしなべて「遺伝的要因レベルの意識と外発的要因レベルの意識の既存パラダイム」を、「内発的要因レベルの意識の新規パラダイム」への転換と見立てているのはそのためである。この闘いは容易ではなく苦しいものだ。しかし、二つの事実が心理的安定を私たちの意識にもたらす。それは、歴史的には全体として前者から後者に転換してきているということ、そして何より内発的要因レベルの意識という自己に照らして、幸福に仕事をすることができることである。
「心理的エントロピーの反対が最適経験と呼ばれる状態である。
意識の中に入り続ける情報が目標と一致している時(筆者注:ある対象に対する注意を持続することでできる)、心理的エントロピーは労せずに流れる。心配する必要はなく自分が適切に行動していることに疑問を抱く理由もない。自分自身について考えるために立ち止まる時でも、万事うまくいっている証拠に常に励まされる。「なかなかいいじゃないか」。肯定的なフィードバックが自己を強化し(筆者注:集団による切磋琢磨の場合は相互の肯定的なフィードバックを与え合いが互いの自己を強化する)、より多くの注意が内外環境を処理するために解放される」
肯定的なフィードバックというものが不可欠である。それは実践によってしか得られない。
孤軍奮闘の際は、学問という実践により古今東西の書に自分の考え思うことが正しいか有効かのフィードバックをもらう。
信頼できる仲間ができれば、切磋琢磨と模索実験によってより多くのより具体的なフィードバックを得られる。
さらに、たとえば会社職場の仲間だけでは解決できない課題の場合は、部門横断や外部ブレインなど内外の恊働者と連携することでフィードバック自体がひとつのムーブメント=運動になる。そのことは明治維新の倒幕の志士たちのネットワーキングの事例をみるまでもないだろう。
このように可能性という道はつねに拓かれている。そう最適経験を望める者は、内発的要因レベルの意識が外発的要因レベルの意識と遺伝的要因レベルの意識を統制できる者である。一方、最適経験を望ませないよう意識に混乱をもたらすのは、今の自分のままでよい、周りも文句を言わずに付き合うべきだとする者である、というのが歴史の繰り返しだ。
「それらは(筆者注:最適経験という言葉で意味するもの)、正さねばならない無秩序や防ぐべき自己への脅迫もないので、注意が自由に個人の目標達成のために投射されている状態である。(中略)それは心理的エントロピーの反対-----事実それはネゲントロピー(negentropy)と呼ばれることが多い-----であり、その状態を達成している人々は、より多くの心理的エネルギーを彼ら自身が選んだ追求目標にうまく投射してきたので、より強い自信のある自己を発達させているのである」
このことは、遺伝的要因レベルの意識でもあり得るし、外発的要因レベルの意識でもあり得るし、内発的要因レベルの意識でもあり得る。だから、個人レベルでは、個人の意識の中の統制という課題に連なり、社会レベルではパラダイムの調整という課題に連なる。そして両者を結ぶのは、自分だけないしは一部の幸運なものだけが良ければいいのか、という問いかけとなる。そこに内発的要因レベルの意識による、個々人の意識の中での統制の課題と、より有意義なるパラダイムへの転換の課題が浮上する。
このことに触れてチクセントミハイは、次の第2章「楽しさと生活の質」の最後に、こう述べている。
「重要なことは、他者の生活の楽しむ機会を妨げることなく、毎日の自分の生活をどのように楽しむかを学ぶことである」
ここで当然、「生活」を「仕事」に置き換えても正しい結論とすることができる。
「できるだけ多くのフローを体験するように自分の意識を組織できれば、生活の質は必然的に向上するようになる。(中略)
フローの中では心理的エネルギーは統制されており、我々の行うことのすべては意識の秩序を与える」
他者のフロー体験をも知りそれを尊重する具体的手だてを想う想像力こそが公共の意識を培い福祉を向上させる。注意や注意したことへの意識が自己を形成するとすれば、そういう公共の意識を教育に盛り込み、企業はそういう意識の持ち主を重用するすることが期待される。
そしてそれは実施可能でかつ社会や企業にとって有意義な効果や利益を約束することでもある。競争原理は学校にとっても企業にとっても不可欠である。問題は、何をどのように競争するかなのだ。
「『戦い』は実際には自己に対してなされるのではなく、意識を無秩序にするエントロピーに対してなされる。それはまさに自己のための戦いであり、注意に対する統制を確立することへの戦いである。その苦闘はクライマー(筆者注=登山家)のように必ずしも身体的なものである必要はない。しかしフローを経験したことのある者ならだれでも、フローがもたらす深い楽しさは同程度の訓練された注意集中が必要であることを知っている」
結局著者は、フロー体験の要を、内発的要因レベルに求めている。遺伝的要因レベルのフロー体験は刹那的であり、外発的要因レベルのフロー体験は皮相的で自己中心的ですらあり、両者ともに成長動機を土台としないものだからではないか。そのことは、この第2章「意識の分析」を「自己の複雑さと成長」という項目で終えていることでうかがい知ることができる。
「フロー体験によって自己の構成はより複雑になる。しだいに複雑になることによって自己は成長するといえるだろう。
複雑さは二つの大きな心理学的過程、差異化と統合化の結果である。
差異化とは独自性や、他者から自分自身を区別する傾向を意味している。
統合化とはその逆であり、他者との結合であり、自己を越えた思想や実体との結合である。
複雑な自己とは、これらの相反する傾向を結びつけることに成功した自己をいう」
「複雑さはまた、第二の次元-----自律的な部分の統合-----を含んでいる。たとえば複雑なエンジンは、それぞれが個別の働きをする数多くの個々の部品から成り立っているだけではなく、部品のそれぞれが他のすべての部品と関連しているので優れた性能を発揮する。統合なしには差異化されたシステムは混乱した寄せ集めとなるだろう」
つまり著者は、「目的」が統合化されてシンプルになることと、「手段」が複雑に差異化された部分から構成されるようになることは、あいまって目的を高次元化しつつ目的の達成可能性を高めると言っている。
つまり内発的要因の意識、自己、成長動機といったものに照らせば、世に言う「挫折」とは、複雑化の過程での失敗により生じるのではなく、何らかの理由によって複雑化の階梯を昇るのをやめたことによるしかないことになる。成長動機を失わない限り、つまり複雑化の階梯を昇り続ける限り「挫折」はない。いずれにせよ、実際にそうかどうかは、複雑化の階梯を昇り続けた人間にしか分からないのだが。
「フローは自己の統合を促進する。注意深く集中している状態では、意識は格別良い状態に秩序化されているからである。思考・意図・感情(筆者注=知情意)そしてすべての感覚が同一目標に集中している。体験は調和の状態にある。
そしてフロー状態が終わった時、人は内的にだけではなく、他者や世界一般に対しても「ともにいる」という感じを、それまでよりも強くもつようになる」
私ばかりでなく多くの人々はそのような思いで一生を全うしたいと思っているのではなかろうか。それを単なる理想として片づけるか、それともそうなるように実践を試みていくか、それが成長動機というものの核心である。よく言われる「いかに生きるかは、いかに死ぬかである」という言葉はそういう意味合いなのではないか。
「統合化されず差異化されただけの自己は大きな個人的業績をあげるかもしれないが、自己中心的な利己主義にはまり込む危険がある。
同様に自己が差異化されずに統合化されている人は他者と結びつけられ、安全ではあるが自律的個性に欠ける。
等量の心理的エネルギーをこれら二つの過程に投射し、わがままと付和雷同を避けてはじめて、自己は複雑さを映し出すだろう」
「自己はフローを体験する結果、複雑になる。
逆説的にいえば、我々がこれまで以上の複雑さを身につけるのは、行為に現れない動機のためではなく、むしろ行為それ自体のために自由に行為する時である。
目標を選び、注意集中の限界にまで自分自身を投射する時、我々が行うことはすべて楽しいものになる。そしてひとたびこの喜びを味わうと、我々はその喜びを再度味わうための努力を倍増させる。
これが自己を成長する道筋である」
マズロー流の言葉使いで言えば、これが自己実現への道筋である。
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