日本型のパターン認識とパターン変換の採集(11) 日本人のひらめきの対象「見立て」 その2 |
日本的ディスコントラクション(脱構築)
山口氏はこのように総括しています。
「『見立て』というのは、日本の文化のあらゆる局面で、言葉やイメージに動きや弾力性を与えるものとして存在しています。
本来のものと離して、距離をおいて見る。それは日本的な意味でのディスコントラクションではないかと思うんです。日本にはそれがたくさんあったのだけど『見立て』がそういうものだったとは、今まで誰も思いつかなかった」
私が採集している日本型の認知表現のパターンというものも、この「見立て」のパターンに他なりません。
「すべての生活感覚の中に『見立て』が行われる。
日本の場合、まだプリミティブな文化から離れていない面があるのです」
それはアニミズムという意味の神に奉納する意識やパフォーマンスの感性のことです。
「日本ではお茶会、歌会、連歌の会などで、人々はそこで飲んだり食べたりしながらときには庭をながめ、また床の間をながてめ芸術が発達してきたわけです。そういう文化伝統の一つとして、山口さんが『見立て』を取り出してきたということは、非常に大きな意味があると思います」
との高階氏の発言で私が思い起こしたのは、現代の秋葉原の様相です。
アキバは、リアルな街として、家電店やIT企業はもとより、各種家電、ゲーム、アニメ、フィギュア、メイド喫茶と日本文化の横並び性を如実に見せつけています。ヴァーチャルな世界のシンボルともなって、「萌え」などの新しい言葉と感覚を受発信しています。このダイナミズムの根底には、アキバという「共同体の文化という仕掛け」において、構成主体のそれぞれが個性的な「見立て」を相互にやり取りしていることが土台としてあるのは紛れもない事実です。
いま、「社内ブログや社内SNSがいかにしたら組織知識創造を活性する仕掛けになるか?」ということが企業の大きな課題になっています。
社内のコミュニケーション・インフラが、単なる既存パラダイムを前提とした機械的情報処理の仕掛けに終わらず、また単なる贅沢なおしゃべりの道具にも成り果てないで、既存パラダイムの構造的な問題性を指摘したり、それを打開する新規パラダイムの理想性を追求したりするものとなるには、どうしたらいいか?
(現代企業の経営課題からすれば、多くの社員に利用してもらうにはどうすればいいか、といったレベルの課題達成が最終目的ではない筈です。)
私は端的に言って、部門職能地位の垣根なしに有志が自由に参加し、専門分野と縄張り内で通用するディテール論に拘泥せずに、会社全体にとっての大問題や有意義なヴィジョンについて、誰でも分かる「認知表現のパターン自体」のやりとりで、全体俯瞰的かつメタ思考的なブレストやディスカッションをするのが効率的かつ効果的だ、と考えています。
要は、有志が立場をこえて自由に自分の「見立て」を披露しあい、「見立て」のやりとりを活発に行うということが、組織知識創造活性化の処方箋なのです。
現在の社内コミュニケーションの一般的様相は、会社の「見立て」を約束事として前提し、専門分野と縄張り内で通用するディテール論に終始している。
この状況を打破しないでコミュニケーション・インフラをWeb2.0世代化したとしても、いったい何が変わるというのでしょうか。
高階
「『見立て』の『立て』というのは要するに『立ちあらわれる』ことですね。
それまでなかったものが出てくる。『八雲立つ』にしても、『かすみ立つ』にしても、そうですね」
山口
「そもそも一番初めに『見立て』という言葉が使われたのは、『古事記』のイザナギノミコトとイザナミノミコトの、『天の御柱を見立て』『八尋殿を見立てためひき」ですね」
高階
「それはどういう意味なんでしょう」
山口
「『天の御柱』と『八尋殿』の二つを立てたという説と、実はこれは天の御柱を見立てて、八尋殿だけを立てたという説の二つです。形として立っているだけではなく、『見立て』ることによって、天と地を結ぶものとして立ち上がらせるということだと。この場合の『立て』は、霊がたちあらわれるところを『立所(たちしょ)』と呼ぶのと似ています。本来、見立ての柱はイメージの中にあるものだった」
高階
「やはり象徴的な意味なんですね。天と地を結ぶもの、あるいは秩序原理としてある。それを『立つ』という言葉であらわしているのが『見立て』や『言い立て』ということなんですね」
高階氏はこのやりとりをこう述べて締めくくります。
「つまり、立つことによって今までなかったものがあらわれてくる。
『見立て』が見えないものを見えるようにしてくれるんです。
これは非常に大きな芸術の(筆者注:同時にビジネス・コミュニケーションの)問題で、『なんとなく見えないものを見えるようにする』と山口さんはシンポジウムのレジュメに書いていましたが、一つは、イメージの中にある形として(筆者注=パターンとして)はっきりさせるということですね。これは芸術の(筆者注:同時にビジネス・コミュニケーションの)出発点です。
それともう一つは、たとえば、医者の見立てというのは診断することですが、目に見えない不思議な世界を形にして(筆者注=パターンにして)秩序づけていくという、原理としての『見立て』があるのではないかと思うんです。
お話では様々な国にも見られることのようですが、それを芸術表現の方法論(筆者注:日本語と日本文化の『鍵と鍵穴』の関係)として完成させていったところが、やはり日本の大きな特徴だと思います」
共同体と場の創造
この対談の最後には、日本企業において社内SNSや社内ブログといったコミュニケーション・インフラづくりに携わっている人々や、相対ブレスト場での集団独創を支援するツールやノウハウの開発を目指している人々にとって、とても重要な示唆が多々あります。
それは、「座」についてです。
「座」とは、「共通の知識を前提として二つの異質のものを結びつけたとき、何と何を結びつけているのかが(筆者注:つまりパターンが)わかるような共同体」のことです。
結局、組織知識創造が活性するための必須条件は、組織がこのような「座」になっていることなのです。
ただし、このことは、日本企業に限ったことではありません。
そこで、高階氏のこの発言を重視すべきでしょう。
「西洋の場合には、見る人と演ずる人が分かれていて、大聖堂にモニュメントをとして残し、今度はそれを美術館に入れると(筆者注=近代合理主義の段階では)、さらに分離する。そこで芸術家の神話が出てきて、美術家は天才で作品をつくるもの、一般の人はそれをただ感心してながめるもの、という分離がはっきり出てくるわけです。
ですから西洋に美術館ができたのは一つの必然的結果ではないかと思うんです。劇場も、舞台と観客席に分かれてしまう(筆者注=「メッセージング」のパラダイム)。
一方、日本は昔から、一緒に座をつくることによって芸術が成り立ってきた(筆者注=「ルーミング」のパラダイム)。だから連歌があり、お茶会で芸術鑑賞をする」
芸能者や芸術家を経営者に、観衆を従業員に置き換えると、創業者が従業員と一丸となっていた創業期は、経営者は芸能者として観衆である従業員とともに日本型の「座」を成立させていたが、世界に名だたる一流大手企業になってしまった後は、経営者は神話的な芸術家のような存在になり、一般の従業員はただ追従するだけの存在となり、分離がはっきり出てくる。つまり、私流の物言いでは、トヨタやキャノンやイトーヨーカ堂のような僅かな例外を除くほとんどの企業において、創業期の「ルーミング×ポリクロニック」パラダイムが解消され、人材と組織を機械化する「メッセージング×モノクロニック」パラダイムに移行してしまう、ということになります。
「西洋の場合、(筆者注:美術館に作品を)一つだけもっていっても、それは独立して、絶対の宇宙的価値があるのだということになる。そういう思想で美術館は成立してきた」
と高階氏が言う時、私は「絶対の宇宙的価値あるもの」として科学技術の先端性を、「それを収蔵する美術館」の代わりに研究所を連想します。
たしかに、医薬品メーカーのようにバイオ科学の最先端の研究成果で特許をとることがすべてを決するような事業分野もあり、そこでは科学技術の先端性とそれを追求する研究所は唯一の生命線と言えます。
しかし、家電や自動車や事務機の場合、同じ機能性能を達成するに違う方式で代替される可能性がありますから、単線的な横並びの性能機能競争に向かう先端技術開発だけに重心をおくことは本来非合理的です。
その大きな理由は二つあります。
一つは、ハードだけで商品が成立することがなくなってきていて、ソフト/コンテンツ、サービス/ソリューションとの連携で商品価値が高まります。つまりそうしたリソースを担う人材や組織が横断的に「座」をなして開発できる商品性が求められてきているということです。
まさに任天堂のゲーム機による脳力開発利用などは既存コンテンツの転用が生んだ市場であり、そうした「座」的な動きなり発想を組織がなしえたということが成功因です。これは、きわめて日本型の集団独創ではないか。この任天堂の同じ組織の体質や土壌がwiiリモコン(動画)の開発を俊敏かつ具体的に可能にさせたのではないか、と思います。
いま一つの理由は、苛烈な価格競争に打ち勝つために多くのメーカーが基幹パーツのOEM生産を請け負います。すると、コストパフォーマンスよい基幹パーツを組み合わせてより良い商品をより安く提供するところが出てきてしまう。そうした市場全体を俯瞰すると、「モノ割り縦割り」で製品を選択し経営資源を集中してレッドオーシャン市場における勝者を目指すことは、業界劣位の資本規模のメーカーにはけっして合理的な方策とは言えないということです。
高階氏は俳諧と俳句に言及してこう述べます。
「俳諧が俳句になってしまったのは、美術館ができたのと同じころでしょう。正岡子規が俳句を連句の世界から切り離して一つの世界をつくった。同時に、共同体的な座はそこで切れてしまったわけですね」
俳諧が俳句になったお陰で作品は永遠に残るようになりました。
しかし、「共同体の文化という仕掛け」である「座」は解消してしまった。
まったく同様の現象が、時代をへた現代、私たちの身の周りの日本の企業社会において、仕事の<メッセージング×モノクロニック>化、そして人材と組織の機械化という形で起きたと言えましょう。
「モノ割り縦割り」で、事業採算性の良いものだけを選択し経営資源を集中するという考え方が、いかなる企業にとっても正解であるとする誤った常識がはびこっています。医薬品メーカーのように最初に特許をとった者勝ちの業界では確かに一番乗りできるゲームに特化することは正解だと思います。しかし、同じ価値を顧客に提供する代替方式がいくらでも想定できる業界では、むしろ安易に「共同体の文化という仕掛け」である「座」を解消してしまうような方策をとるべきではないのではないでしょうか。
また、技術者そして研究者の方々の多くは条件反射的に「モノ割り縦割り」を歓迎します。
その方が自分の専門性を極めることができて労働力の流動性を高めると考えるからでしょう。しかし、果たしてほんとうにそうでしょうか。
同じ機能性能を達成するに違う方式で代替される可能性があるメーカーの場合は、技術の専門分野が細分化されるほどその技術を採用している企業が少なくなるのですから、労働力の流動性は低くなります。さらに、細分化された上に高度化を極めた専門分野は、企業側からすればそれ以上の先鋭化のコストパフォーマンスも必要性も低くなります。そして誰でも歳をとって給料が上がる訳ですが、同じ水準の仕事を反復するとなれば安くて沢山働く若手の方を企業側は重用します。
つまり、長い仕事人生全体を考えれば、「コト割り横ぐし」で組織としての創造性、つまり集団独創を高める方向に向った方が個々の人材の総合的な能力は向上するのです。
そしてじつは、専門分野に閉じたタコツボタイプではない、発想と行動力の豊かな言わば練れた技術者や研究者の方が企業側からすれば貴重です。引く手あまたのため労働力としての流動性が高い。これが、天才頭脳が多額な報酬で文字通りヘッドハントされるような業界以外の、ごく一般的な日本の企業社会における実情ではないでしょうか。
さて、私の以上のような考えは、思いとしては多くの人たちみなさんもっていることだと思います。
では、なぜ現実は会社も社員も「座」を維持する方向に向かわないのでしょう?
その答えは、高階氏のこのような発言に見出すことができます。
「つくる人は同時に鑑賞する人でもありますね。今回は自分がつくるけれども、次は向こうがつくってそれを鑑賞する。このようにお互いに共同の場をつくりあげていくには、仲間との信頼関係がなければならない」
「でも西洋的な見方では、それでは芸術として自立性がないということになるんです。
桑原武夫はこれを第二芸術といいました。第二芸術のもつ豊かさ、それは鑑賞者への信頼感や、共同体の成立にあると思います」
第二芸術は、西洋的な因果律の思想からすれば偶然の産物に過ぎません。
しかし、東洋的な共時性の思想、日本的な縁起の思想からすれば、その時その場と居合わせた人ゆえの必然の産物であるのです。
この話は芸術論の枠を越えて、私たちが大きく物事全体を認知表現するパターンのダイナミズム論に関わります。
それは経営論にも波及し、
正解を知っている天才のような経営者がいて決定論を下して経営をリードするという考え方(第一芸術的)と、
市場は流動的かつ差異的であるとする非決定論にたってその時その場と居合わせた顧客や従業員によって異なる正解を仮説検証綜合して対応していくべきだとする考え方(第二芸術的)
との違いそしてその二者択一に繋がります。
ホンダにしろ松下にしろソニーにしろ、創業期において日本企業の経営者と従業員が、そして従業員同士がつくった「座」は、明らかに後者の非決定論にたつ考え方でした。実際に組織全体で積極果敢に試行錯誤をしてその成果として組織知識創造の仕掛けを蓄えていったのでした。
経営者と従業員、そして従業員同士の間には、地位職能や事業部門を越えた信頼関係がありました。しかし、それをずうっとやり通した企業は僅かであり、バブル崩壊と長引く平成不況の中で著しく減少してしまいました。
一部の成功的例外を除いたほとんどの日本企業において、経営者と従業員そして従業員同士の「座」的関わりの解消、「モノ割り縦割り」を梃子にした官僚化による組織と人材の機械化、安直なリストラによる会社の「非安全基地化」、近視眼的な「選択と集中」による信頼関係の崩壊、といったことが進展して、日本型の集団独創の個性と固有の文化的リソースが生かされない方向に推移してきたことは明らかな事実です。
脳科学の分野では、創造性の原理を哺乳類の補食のための探索冒険としてみるが、それを可能にするのは出発点回帰点としての安全基地に自らがいることを必須条件とします。赤ん坊が、お母さんがいるからおいたをするが、お母さんがいないとなると泣きわめくことに同じです。社員がリストラ圧力により会社を安全基地とみなせなくなって創造性を発揮しずらくなったことは、脳科学を持ち出すまでもなく普通人の感受性で納得できるでしょう。
また、東北大学の川島隆太教授は日本の子供の「群れ遊び」に着目し、年齢性別を異にする近所の子供たちが一番自由闊達に「群れ遊び」したのが高度成長期でその後、塾やテレビゲームのために著しく減少したとしています。私は、日本人が集団独創で最も力を発揮するのは、大人が仕事においてまじめに「群れ遊び」できるような場だったし、これからもそうであると考えます。
つまり、「座」とは「群れ遊び」の場であり、会社における「座」的関係の解消とはイコール「群れ遊び」の解消でした。日本型の集団独創の場は、企業においても、歌会的な場、茶会的な場、句会的な場と多様にあって、それが連携して日本特有の横並び文化を形成していた。それが日本の会社という「共同体の文化という仕掛け」であり、私たちの仕事を<ルーミング×ポリクロニック>なものとしていた。これがほとんどの企業において、組織知識創造の基幹エンジンとしては解消されてしまったということです。
本論では、日本型の集団独創の鍵である「見立て」そして「座」ということを検討しましたが、私はそれらが生かされていない現状から将来をみて悲観する者では決してありません。
なぜなら、トヨタ、キャノン、イトーヨーカ堂といった一部の成功的例外は、共通の特徴として「見立て」を活発にやりとりする「座」を創意工夫して、可能な限り仕事を<ルーミング×ポリクロニック>なものにする形で世界有数の組織知識創造を実践している。そして一般企業においても、全社的な統合経営戦略に関わるビジネス・コミュニケーションに特化した形で、多角的かつ多様な「見立て」を活発にやりとりする「座」を創意工夫することは、経営者がその必要性と有効性を理解さえすれば可能だからです。
私は具体的には、「見立て」そして「座」を、社内SNSや社内ブログというWeb2.0世代のコミュニケーション・インフラや、相対ブレスト場におけるダイナミック・ドキュメントというコンセプトによって現代的に再生することを有志のみなさんと恊働して図っていきたい。
そのような気持ちから、本論では、いわゆるオールドエコノミーのメーカーの方々に向けて、良い日本型が駆逐され悪い日本型ばかりが残ってしまった推移を解説し、いわゆるニューエコノミーのIT企業の方々に向けて、Web2.0世代のサービスを通じてそのような日本企業の再生に貢献できる方向性を提起したつもりです。
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