パターン認識としての<かたち・かた・か> |
かつて建築家菊竹清訓はその著「代謝建築論」の「デザインの方法論」で、日本型アニミズムに則った認識と表現のプロセス論を提唱しました。
それは、そのまま日本型のパターン認識とパターン表現のメカニズム論でありました。
その建築デザイン論は現代そして未来に通用する普遍性があるので、「アニミズムに則った」「日本型」という言葉使いに違和感をもつ方もいらっしゃるでしょう。しかし、その立論の過程を知れば、日本人ならではの発想があり、大和言葉の分析を踏まえた思考があることから、そのように言ってもいいと了解して戴けると思います。
私は、大学で菊竹先生の授業を受け、またディスプレイ企業にて筑波科学博政府歴史館の基本構想に参画した際、展示空間の打ち合わせで同席させて戴いたことがあります。私は現在、知識創造という極めて抽象的な分野を課題としていますが、いまに至ってようやく先生の提唱されたデザイン方法論の奥深さと大切さをはじめて理解しているように思います。
本論では、建築やデザインに関わりないビジネスマンや学生の方々にも、パターン認識としての<かたち・かた・か>論のポイントを分かりやすく解説しておきたいと思います。
<かたち>について
「デザインの方法論」の「かたち・かた・か-----認識のプロセス」という項目を、菊竹先生はこのようにはじめている。
「われわれは、<かたち>をもつあらゆるものに対して、人間の五感によって、それがどんなものであるかを直ちに感覚することができる(筆者注:ユング心理学の用語法によれば直観することが、つまり「合理性の軸」の思考と感情によらないでできる)。
これは人間に共通してそなわっている感覚で、<かたち>をとらえることができるからである」
「<かたち>をこのように、総合的に直感的に受け入れることのできるということは、人間の脳の構造がそういう受け入れかたをするようになっていることを示すものである。すなわち、かたちを媒体とするパターン認識の固有の能力である」
つまり著者は、<かたち>には、好ましいものか、どんな機能のものであるかを私たちの五感を通じて受けとめさせるという特徴そして意味があるとして、さらに続ける。
「さて、<かたち>をより正しく知ろうとするには、かりに、感覚で<かたち>をとらえたとしても、それだけでは不十分である。少なくとも<かたち>を理解するには感覚したことを裏付ける知識がそこに必要であり、知識を組み立てたうえにたって、<かたち>をみることがなければならない。
なぜなら感覚は、総合的に、直観的につかむことができる反面、しばしば誤って感覚するからである」
ここで「知識を組み立てたうえにたって<かたち>をみる」とは、「理解」して「思考」することである。(ユング心理学の用語法にのっとれば、合理性の軸にある対極概念「思考」と「感情」の両方の判断のことであろう。<かたち>の意味するものを知るのは「思考」だが、それを好ましいとか好ましくないと判断するのは「感情」だからだ。)
「<かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められる」ように思えるとして、著者はこう結論する。
「<かたち>についてのこのような三段階を次に示せば、
感 覚 → 理 解 → 思 考
(1) (2) (3)
現 象 → 法則性 → 原 理
となり、<かたち>の認識プロセスは、このような段階を経て、三段階ですすむと言える。
言い換えれば、
<かたち>を現象として感覚する段階
(筆者注=かたちを認識する段階)から、
<かたち>のなかにある普遍的技術あるいは法則性を理解する第二の段階
(筆者注=かたを認識する段階)に、そして最後に
<かたち>の原理ともいうべき本質的問題をあつかう第三の段階
(筆者注=かを認識する段階)へ
という三段階である」
「これを日本語の構成から次のように考えてみることができるかも知れない。
<かたち> → <かた> → <か>
(1) (2) (3)
KATACHI → KATA → KA
それは、
<かたち>から
個別的独自性をもつと考えられる<ち>をとり除いた<かた>、
さらに普遍性をもつと思われる<た>を引いて残る<か>
という三つの段階の設定である」
として、大和言葉の分析によって日本型アニミズムに則った認識と表現のプロセス論に入って行くのだ。
<かた>と<ち>について
「<ち>の原語は神秘力をもったもので、霊(ち)・主・父・血・乳・風・鉤・道等をちであらわしている。
血というのは、人間の身体に霊が流れているという観念から出たもののようである。また道は、人を目的地に導く神秘な力があるということで出てきたと考えられており、その交点で物々交換をするところを市というのも、ここから出ていると思われる。父は、前世代の男性を尊んで<ち>といい、血液の遺伝に対して、この語が使われたのではないかとされている。神社の屋根にのっている千木という飾りも、もともと霊の木という意味で、神秘力をもって神社をまもるという古代の重要な役割をもったものであったようである。風もまた、目に見えない力をもって木を倒し、家を破壊する神秘の力という意味から始まったものらしい」
「すなわち、<かたち>(形態)とは、ある特質をそなえた理想的形式(筆者注=<かた>)に、神秘力を加えたものである、ということになる。
あるいはまた、典型と個性が融合したものが<かたち>だといえよう」
個性の根っこは、神秘主義からトランスパーソナル心理学に至る系譜では「どんぐり」論でいうところの召命、コールである。これは人間の場合の<ち>のことだ。
ならば個性<ち>は、典型<かた>と掛け算されないと<かたち>にならない。
以上はあらゆることに通じる貴重な示唆ではないか。
<か>と<た>について
「<か>は、(上)、(日)で、ケと発音することもある。アイヌ語の上とか天を意味する原語であるらしいことがわかった。また、<か>から派生転化したものには、神、上、頭(かしら)、かがやく、顔、処(すみか)、鏡、風、潟、兆、刀、門、金、交等がある」
「<か>は、先にみたとおり神である。神は言い換えれば天地であり、人間を含めた自然であろう。そこで私は(化)をこれにあてるのがふさわしいと考えた」
化には、「天地自然が万物を生育する作用、天地の運用、変化の法則」という意味があり、それは「究極的な自然の法則」であり、ユング心理学で集合的無意識に存在する力動作用を表現する「元型」と重なる(「元型イメージ」ではなく)。
「<か>に対して<た>は、(田)、(手)等であって、田は土地または耕作地の意であり、手は、手そのもの、手のはたらきあるいは手のたての長さに基づく尺度の単位をあらわす」
「<か・た>の組合せは、自然の法則性の人間的適用をあらわしたものとなる。
これは<かた>が技術的であり、普遍性をもった典型だとされていることに一致する」
<かたち><かた><か>をめぐる認知と表現のプロセス
以上のような検討をへて、菊竹先生は次のような結論に至る。
「認識のプロセスは、
<かたち>→<かた>→<か>の三段階ですすみ、
実践のプロセスは逆に、
<か>→<かた>→<かたち>の三段階ですすむ」
私にはこれは、建築という分野をはるかに越えた日本人にとって大きな成果だったと思えてならない。
「すなわち、『人間の認識はまず即自的な現象論的段階、次に向自的な物の概念による認識をなす実体論的段階、最後にこれが即自かつ向自的に止揚され、本質論的段階に達する」(弁証法の諸問題技術論一七九頁武谷三男)という概念発展の三段階の理論が、<かたち>に対しても同様に成り立つと考える。
<か> → <かた> → <かたち>
← ←
本質論的段階 実体論的段階 現象論的段階」
とした上で菊竹は、<かたち>の三段階について3つの独自性を解説する。
「その第一は三角構造をなすという点である。
認識のプロセスは<かたち>→<かた>→<か>とすすんだ末に、それは再び<かたち>のより深い認識にほかならないというように環となり、同じように、
実践のプロセスにおいて、<か>→<かた>→<かたち>から<か>にたちもどって、より高次の実践となっている」
これはパターンによる認知のプロセスであり表現のプロセスに他ならない。
「第二に、<かたち>は単なる現象としての形態ではない。<かたち>そのものが最終的な、決定的意味をあわせもっている。したがって、これを構造として示すとすれば、同心円状になるだろう。
<かたち>の奥に<かた>があり、さらにその奥に<か>がある。つまり中心に<か>があって、そのまわりを<た>がとりまき、さらにその外周を<ち>がとりまいているという形である。
そして中心は拡大して波紋のように広がり、つぎつぎに<かたち>のなかから新たな<か>が生まれ、それは<かた>となり、新しい<かたち>へと絶えざる運動をくりひろげる。
そういう運動を内在するのが<かたち>の構造である」
言葉にも<かたち>がある。それが大和言葉の話し歌う言葉から、漢字と漢語を取り入れた書き記す言葉がうまれ、その全体がまた話し言葉になり、と日本的特徴をもった運動で転化していくのも同じ構造だ。
「第三に<かたち>の三段階は、構想、技術、形態として考えることができる。
いま本質論的段階<か>を構想の段階とし、
実体論的段階<かた>を実体的な構造を明らかにする技術の段階、
そして現象論的段階<かたち>を形態の段階とすると、(中略)
<かたち>は生活と機能との関係のなかから生み出されるものであり、
<かた>は機能と空間との間につくりだされるものであり、
<か>は空間と生活のかかわり合いのなかで考えられるものである」
これが、菊竹先生が人間の物的環境の主要な側面を
(1)機能的側面
(2)空間的側面
(3)生活的側面
とした上で主唱した建築デザインの方法論である。
最後に私事を付け加えさせて戴くと、
私はコンセプト思考術において物事の4つの概念要素をとらえる前提として、
(1)意味的価値
(2)感覚的価値
(3)機能的価値
を踏まえつつ、
(1)意味的価値 を本質論的段階<か>で発想思考する
(2)感覚的価値 を実体論的段階<かた>で発想思考する
(3)機能的価値 を現象論的段階<かたち>で発想思考する
といった
コンセプト思考術という「概念のかたち」づくりの方法論を志向してきたつもりです。
菊竹先生のデザイン方法論が普遍的かつ原理的であることで、日本的特徴をもつ建築デザインを追求できたように、コンセプト思考術の普遍性と原理性とをもって日本的特徴をもつ「概念のかたち」づくりをファシリテーションしていきたいと考えています。
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