現実論として「情緒起点でする推量」と「パラダイム転換」の関係を整理する(2) |
ボストン・コンサルティング・グループ副社長リュック・ブラバンデール著/ダイヤモンド社刊 発
立ち止まって世界のマーケティング&マネジメント状況を冷静に見よう
著者は、現状を断ち切る、という意味の「断絶」という項目で、こう述べています。
「改善を続けさえすれば会社の将来は明るいと思いがちだ-----同じことをもう少しうまくやれば良いと。もう少し効率的に、もう少し速く、もう少し見栄良く、もう少し洗練させれば。(中略)
しかし、会社の将来が常に現在の延長線上にあるわけではないのは明らかだ。何か異質なもの-----現状との断絶が、必要なことも。
我々が自ら選択する断絶と、止むに止まれぬ断絶がある。受け入れられる断絶もあれば、先延ばしにしたい断絶もある。いずれにせよ、成長の過程では、いつかは何かを断ち切る必要がある。」
いわんや衰頽の過程では、です。
著者は、現状を断ち切る方法6つを上げます。
1番目の方法は、「基本(Basic)への回帰」と彼が名付けるものです。
IBM360がそれまで表のパラメータ設定のプログラム入力する必要があったのを、スプレッドシートという「表を描けば表ができてしまう」ようにしたこと、アップルのマッキントッシュが「仕事で役立つものは、机(デスク)とファイルとゴミ箱だということを思い出させてくれた」ことを例に上げています。
(これは、「技術進歩による基本への回帰」であり、従来「ヒューマン・インターフェース」つまり「人間が機械と交わりやすくするための技術」として捉えられてきた問題です。
私は、それは言うまでもない問題であって、21世紀により大きく問われる「現状を断ち切る方法」は、「文化成熟による基本への回帰」だと考えます。
なぜならば、そうでなければ、21世紀の社会の生活や文化は科学技術とその製品化に関わるごく一部の人々のいかんに左右されてしまうことになるからです。
著者は、がちがちの科学主義者ではありません。むしろ「神秘」を許容し尊重すべきという考えを本書で披露しています。しかし、彼のあげる「神秘」の事例は、何かを発見したり発明する際の幸運に過ぎない。「神秘」というものが、けっきょくは人類全体を文化成熟に向かわせて有意義なる生存を助けている、といったユング元型論的な認識までは披露していません。)
彼のあげる現状を断ち切る2番目の方法は、「ゲームのルールを変えること」です。
例解として、インターネットによって可能になった航空会社の旅行代理店を通さないチケット販売、現像に出さなくいいコダックのインスタントカメラそしてデジカメを上げています。
(これも「技術進歩によるゲーム・ルールの改変」であり、周知のようにインターネットの進化が日々現象させている事態です。
私は、21世紀により大きく問われる「現状を断ち切る方法」は、「文化成熟によるゲーム・ルールの改変」だと考えます。
この両者は対立する極ではなくて、相乗効果する車輪の両輪となるものであり、私たちは両者の可能性とその対等な価値を認識しておかなければなりません。この「文化成熟」には文化多元主義も含まれます。)
3番目の方法は、多角化やドメイン転向といった「活動領域を改変すること」です。例解としては、「コンサルティング事業を始めた大手IT企業や、靴を売り始めたキャタピラーとミシュラン、自社の検索エンジンを販売することにしたアマゾン・ドット・コム」を上げています。
(これは、企業レベルの「文化変容による自己革新」と言えます。知識やブランドや顧客関係という無形資源を活用すべく企業における文化変容を必要とするからです。
私は、本書を読んでいて、私がここのところずうっと心の奥底で考えつづけてきたことは、このことだったと気づきました。詳しくは追って次項(3)で現実的な具体例をもって解説したいと思います。)
4番目の方法は、3番目の方法が多発してくると「世の中は椅子取りゲームの様相を呈してくる!」ために出てくる「まるで異次元へジャンプしたよう」な業界進出のことらしい。
例解としては、高速道路ビジネスに多額の投資をしたベネトン、観光ビジネスのリーダー企業になっているドイツの鉄鋼大手プロサイク、音楽ビジネスに参入したコカ・コーラとスターバックスを上げています。
3番目との違いは、成長性の高い業界への競っての参入という点、資本以外の無形資源を効果的に活用しているとは言えない点らしい。少しく説明が足らないのでそう推察します。
5番目の方法は、アーサー・ケストラーが唱えた「バイソエーション(bissociation、二つの全く異なったものを衝突させ、統合すること)」です。
ケストラーによれば「発明とはすでに存在しているものを新しい方法で組み合わせたもの」で、例解として、フィリップスが、ニベアと開発した「シェービングクリーム内蔵の新しいタイプの剃刀」、ドーブ・エグベルと開発した「新しいタイプのコーヒーメーカー、センセオ」、インベブと開発した「家庭用生ビール・ディスペンサー、コロンバス」を上げています。
(これは、発想論の好きな人ならおなじみのパラダイム転換アイデア創出の常套手段です。
ただし大きな問題があります。フィリップスのように積極的に異なる企業文化の会社とコラボレーションしてまでしてやるか、というところで、現実的には多くの日本のメーカーが消極的であることです。「頭で分かっていてもやらない」ということですね。この既存パラダイムへの執着をどう乗り越えるかについても、著者は本書で解説していますので、これも追って検討したいと思います。
私は、多くの日本のメーカーが余裕のあったバブル当時から、良識的なビジネスパーソンがそのような問題意識を抱き打開の試みをしてきたことを知っています。また、かつて「異業種交流」という言葉だけが一般に普及したのとまったく同じように、今も「コラボレーション」という言葉だけがむなしいこだまのように語られている日常も目にしてもいます。ほとんどの日本企業は、そんなことを20年もやってきたのですから、もはや「新しい商品やサービスの開発新機軸の問題」ではすまない状況に立ち至っていることは、指摘するまでもないでしょう。
そういう状況で何をどう考えるか? について、本書は具体的な示唆をくれる最新の著作であると思います。)
最期に彼のあげる現状を断ち切るいま6番目の方法は、「無から何かを生み出したケース」です。
彼は、「これまでの事例は、断ち切るべきものが前提にあって生まれてきた成果だ」とし、この6番目は、「既存の組織でも伝統でも無いところから突如アイデアが出現する」とします。そしてその典型的な例解として「フリーソフトウエアのLinux」を上げます。
私の考え方からすると、これは「文化成熟による基本への回帰」であり、まさにインターネットが可能にした個人発の集団独創、「文化成熟によるゲーム・ルールの改変」の典型となります。
著者は、発想主体が、現在のマイクロソフトのような大企業でもなく、ガレージでパソコンを組み立てたジョブスのような企業家でもなく、「単なる有志の個人」であったことから、何かを見誤っているのではないでしょうか。
マイクロソフトがソフトウエアを独占していて、言ってみれば、人類がパソコンを使って何かを考えたりコミュニケーションするたびにお金を払わなければならないような世界に対して問題意識をもったのであり、そういう世界にしたくはないというニーズが人々に潜在なり顕在なりしていた訳です。問題意識なりニーズが有った。これは、有=リソースからアイデアは生まれる、ということです。よって、「無から何かを生み出したケース」とは言いがたい。
アイデアの生まれる場が、大企業でも、企業家としての「頭脳」でもなくて、一世界市民としての「こころ」であった、それはとても重大なことです。
私は、著者の言いたかったこともここにあるのではないかと思います。こう述べているからです。
「マイクロソフトはLinuxを世に送り出すことを考えただろうか。答えは否であろう。独立系ラジオ局を考え出したのは公共ラジオ局ではないし、郵便局はファックスやUPSを生み出しはしなかった。ビデオコーダーを発明したのは映画館ではなかった。
しかし、ここでも、議論は日々ビジネスを管理する者と戦略を考える者との違いに立ち返っていくように思う。前者は連続性を、後者は非連続性を追い求めるのである」
そして、この話は、序文にある本書を一貫するパロアルト・グループの理論と不可分の関係にあります。
その主旨にざっと触れると、
「変わるためには二度変わらなければならない」
「イノベーション力は人々が現実を変える能力であり、創造力は人々が現実に対する認識を変える能力ではないか。同時進行しつつも、全く異なるプロセスとして、これら二つを再発見し、違いを正しく理解すべきなのだ」
そして、イノベーションは連続性において、つまりグラフにすると曲線形でしか達成されない、一方、創造はパラダイム転換という形で階段状、いく時は一気にクランク形で達成される、という。
現代は、いろいろ重大なイノベーションが同時進行している以上、私たちが気づこうが気づくまいが、大きなパラダイム転換が近づいています。
「今日の世界が単に変化しているだけでなく、その変化のスピ−ドが極めて速く、準備のできている人間には大きなチャンスが生まれている」
「一見無害で有益そうにさえ見えるステレオタイプや(筆者注:既存の常識的な)パラダイムといった罠に気づけば、もっとうまく物事に対処していくことができる」
本書は、
「我々の考える現実が実際とズレ始めたときの警告サイン、について検証する。これらのサインはパラダイムシフトが近いことを知らせるという重要な役割を果たしている。その兆候に最初に気づき、適切な行動がとれれば、他に抜きん出ることができる」
とし、脳の二つの働き「創造を司る部分」と「論理・判断を司る部分」を解説し、
「創造の過程をコントロールすることによって、認識の変化、パラダイムシフト的発想、そして全く新しいアイデアを生み出せる」ことを説明しています。
しかし私が思うに、これを読者が、従来の新製品開発の新機軸のレベルで受け止めて、自分の所属する企業の組織や制度、つまりは自分たちの思考と行動を呪縛するパラダイムの転換に結びつけない限り、理解は単なる頭の体操、発想ゲームに終わるとも、本書は論じているのです。
著者は、第二章「未完の世界」で、様々な「境」が無くなった、という議論をしています。
その中には、「はじまり」と「終わり」(時間)、「内側」と「外側」(空間)など私たちの論理というよりは感覚において前提にされている「境」、つまりは意識しなくてもじつは根深く前提としている無意識のパラダイムも含まれています。
ということは、
前述した、パロアルト・グループの理論「変わるためには二度変わらなければならない」も、現実にイノベーションと創造が同時に進行しているし、自己なり企業なりの革新においても現実に創造とイノベーションを同時に進行させなければ、じつはとっても追っつかない、ということなのです。
身近な感覚に覚えのある象徴的な話がありました。
「日々ビジネスを管理する者」は、連続性において自分の報酬を労働時間で評価することを当然と考える。
一方、「戦略を考える者」は非連続性において自分の報酬をスピードで評価することを当然と考える、
という話です。
そういうパラダイムやパーセプションの違いはすでに厳然としてあり、そのために、「はじまり」と「終わり」、「内側」と「外側、などの概念も人と人の関係性において錯綜しています。
まさに、激動期ということなのでしょう。同じ場で同じ空気を吸いながら同じ物事を目にしていても、まったく感じたり考えたりすることが異なるのですから。
ある人は、いつもと同じ通勤電車に駆け込み乗車できたことを喜び、ある人は、今日はとりたてて約束や急ぎの仕事があるわけでもないことをふと思い出して休みを申し出て気ままな散策をしてみる。激動そして転換の時節、価値があるのはいったいどちらなのでしょうか。
じつは、本書において最も深い示唆を得られるのは、発想法やパラダイム転換法ではなくて、今述べたような現代において誰もが初めて体験している「複雑系カオス」のような状況において、何をどう考えればいいのか?についてです。
次項(3)では、本書の最も貴重な示唆と思う内容をとらえつつ、現在わたしたちが日本の企業や市場で直面している状況において、何をどう考えればいいのか? について検討します。
それは、私なりの「情緒起点でする推量」による<目的志向論的思考>においてパラダイム転換発想をする、ということになりましょう。
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