岡潔の「情緒の教育」に学ぶ(2/2) |
岡先生が考えた情緒の教育
岡先生は、「大自然が人の子を育てるさいの方法」を水にたとえて解説しています。
「大自然は、人の子を、ポテンシャル=エナジーをあたえてはカイネック=エナジーに変え、また、ポテンシャル=エナジーをあたえてはカイネック=エナジーに変えして、水を勢いよく流すというやり方で、育てているように見えます」
ポイントを私なりに整理すると、ポテンシャル=エナジーとは位置エネルギーのことで、人をしてそのどんぐりを発揮させる場に身を置かせれば自ずと育つ、というお考えではないかと思います。
企業社会には「適材適所」という言葉があり、適材は適所にて能力を発揮するだけでなく、自ら主体的に能力を育成します。
日本の国民を日本にふさわしい適材とするためには、まず国がその能力を活性する適所にならねばなりません。適所がなければ適材は育ちようもないし、活かされようもない。
そして、岡先生は、適所の条件として情緒を中心に据えます。
「文章にいい表すことさえできないような気持ちがおこるかどうか。
たいへんな問題です。
趣きは情緒です。情緒は、情緒の中心を通して、ただちに子どもの大脳、その他具体的ないろいろなものになる。
だからそのくにによい情緒がおこらないということはたいへんな損失なのです」
まったくの卑見ですが、ここには微妙で肝心な問題が隠れているように思います。
私はたまたま中国語の翻訳個人レッスンを受けていて気づきました。本ブログでも前に触れましたが、「文字通り」という日本語の意味合いが中国語にはない。中国人にしてみれば、「文字の通りに表せないことはない、表せないとしたらそれは言えないことなのだ」というのです。日本人が文字のない話し言葉しかない状態で声を交わしていた時に、そこにその都度都度の本音が出現した。しかし、文字に定着するとそこに移ろいは許されず、単なる書き言葉化テクニックの問題ではなくて、構造的な本音と建前の乖離が生まれました。大和言葉で声を交わしていた本音と、中国から借りてきた文字で交わすようになった建前が、たまたま一致する時、日本人は最初に「文字通り」と言い始めたのだ、そう私は理解しました。
そして、その建前と本音の一致の中心テーマが、日本人の一大関心事である情緒だったのではないか。
岡先生は、「天地悠久」という言葉の「悠」がやめてはいけないひさしさを表し、「久」がやめてもいいひさしさを表していることを解説し、「悠然として南山を見る」という文章を読んで「この悠然を、他のことばでおきかえていい表せるか」考えてみよ「文章にいい表すことさえできないような気持ちがおこるかどうか」と問うています。
これは推量を促しているのであり、私は、推量の対象を情緒に集中することこそが、日本人らしさの中核であり、私たちにもそして人類にとっても大切なことであると、岡先生は考えていたように思えます。
先生は、寺子屋教育の素読を薦めます。それは意味は分からなくても、情緒を対象にする推量の能力、つまりはユングの言う<直観>を高めるという側面が大きいようです。
「で、文字のことを申しましたが、では寺子屋式教育で、どういうものを素読させればよいかということになります。
わたしは、文学・歴史・倫理などから選んで、より抜きのよいものばかりを、意味抜きで読ませ、それを覚えさせるとよいと思います。なるたけ口調のよいもののほうがよいと思います」
これもまったくの私の卑見に過ぎませんが、先生はこのことが、情緒を対象とする推量に不可欠なパターン習得能力の基礎づくりになると考えたのではないでしょうか。
「情緒の中心ということをいいましたが、わたしは、情緒の中心が人の中心だと思います。
そうだとすると、大自然が情緒の中心をかためるのを、どうしたら手助けすることができるか、ということになります。
いったい、情緒の中心をまとめているものはなんでしょうか。
表現することばがむずかしいのですが、しいていうならば愛だと思います。なかんずく、慈悲心を欠いては、とうていまとまるまいと思います」
「情緒の中心をまとめているものを、適当なことばがないから仮に愛という、といいました。ほかになかなかいいようがない。しかし、愛といわれるものには、ふつう無明(小我的なもの)がそうとう混じっていますから、それをじゅうぶん抜いて、純粋な(大我的な)ものにしなければなりません」
「で、情緒の中心が人のいちばん中心ですが(筆者注:大脳頭頂葉)、そのつぎの中心は大脳前頭葉です。
これはギリシアのことばでいって、自由意志を働かしえるところです。
前頭葉は側頭葉に命令することができます。命令するとき、大脳は全面的に働くわけです。
仏教でいえば、無明の中心もここにあるのです」
「わたしたちが心を働かせるとき、それをギリシアでは知情意すると分けています。この知情意するのは頭を使うからできるのです。
これをはっきりいうならば、頭を使わなければ知情意することができないということです(筆者注=脳科学のメカニズム)。しかし、頭を使いさえすればできるかというと、ここにひじょうな問題があります(筆者注=祝祭や文化をも射程とする神経科学のメカニズムなのか)」
「このことは教育に関して特に大切なことです」
岡先生は、花がきれいだと大人には分かるが幼稚園に行くか行かないくらいの幼児には分からない、それは知覚の中心、大脳側頭葉の発育が途上にあるからと思われているからだが、そうではない。まれに花の美しさがわかる子がいるとし、こう説明します。
「その子にだけなぜわかるかというと、その子はほかの子どもよりも花に注意を集めることができる。心を花のところに集めることができる。
そこだけちがっている」
先生は、自分が菊を好きなことの裏付けを自らの幼児体験に求めています。これは、祝祭や文化の個人史でもあります。
「どういう色の花だというのは知覚であって(筆者注=ユングの言う<感覚>)、きれいだというのとはちがいます(筆者注=ユングの言う<直観>)。きれいだとわかるのは成所作智(じょうしょさち)です。妙観察智(みょうかんさっち)も働きます。
ここのところに、大自然が人の子を教育しようとしているのを手助けする人たちの、まちがった独断があるのです。
きれいだなとわからないのは脳の部分の発達が遅れている、とする独断的仮定があるのです。これはひじょうなまちがいがありたいへんな偏見なのです」
これは現代的に言えば「知識偏重の偏見」であり、昨今では「脳科学至上主義の偏見」ともなっているのかも知れません。
「頭を使えば知情意できる。しかし、真智がまったく働かなければ知情意はできないのです。
智を三つに分けて、ほんとうの智を真智といい、他に分別智と邪智がある。分別智の分別するは判断すること(筆者注:ブレストの際は回避すべしとされる)であって、前頭葉が命令してする判断です。側頭葉だけが命令してする判断が邪智で、無明本能(筆者注:エゴ、これもブレストの際は回避すべしとされる)がはいっている。衝動がそうであり、だから邪智である。
ところで、この分別智も邪智も、真智がまったく働かなければ働かないのです。
それで、純粋に真智だけが働くのを、つまり、じかに働く真智だけを真智と言っているのです。」
最近の神経科学は、脳と身体の神経事象の相互作用や、個人と集団の神経事象の同期同化を射程に入れています。祝祭や儀礼に端を発する文化におけるそうした神経事象を、私たちは分別なしに反応します。そしてその反応である感情や情動から社会的情緒反応の基礎パターンをほとんど無意識的に授かり蓄積します。
これは、個々人の「どんぐり」という内的自然から、集団や社会を育んできた「自然環境」という外的自然に至る様々を神経事象をホロニックに連動させる真智の体系を形成してきました。
それはけっして、部分的に断片化して個別的な閉じたパートに代替できるような機械の体系ではありませんでした。
しかし分別が、私たちを内的にかつ外的に自然から乖離させてしまった。その様相はまさに現代あからさまになっている。
そのような未来を予見するかのように、岡先生はこのように強調します。
「人というのは、大自然のあやつり人形なのです。だから、よく教育するというのは、(筆者注:内的かつ外的な)大自然がよくあやつれるようなあやつり人形をつくることを、人が手助けすることです」
情操型研究、情操型発見という名の発想法、洞察法
「大脳前頭葉の働かせ方についていいましょう。
その働きを見るには、大脳前頭葉が特別強く働いたときから見るのがわかりやすい。(中略)
その一つの論文を書くのに大脳前頭葉を働かせるのですが、どのように働かせているかといいますと、このごろは情操型研究と呼ぶ研究法でやっています。
わたしは大脳側頭葉だけでは判断できない。つまり、衝動的判断ができないのです。前頭葉でやる。
大脳前頭葉は、感情・意欲・創造の働きをする、となっていますが、その感情・意欲を数学のほうに向けてしまうのです。
そうすると、感情・意欲、とくに意欲が数学のほうに向いているので、前頭葉は他のものについて判断せよと側頭葉に命令しません。だから外界が見えているらしいのですが、判断のまえで打ち切られているので判断はおこらないのです。(中略)
こういう状態で、わたしは完全に数学の中に統一した精神を置いている。この精神統一下になされるのが、情操型研究あるいは発見です」
この先生のお話は、まず角田忠信教授が指摘した「日本人の脳の働き方の特徴」を物語っていて、情緒の左脳優位が大前提になっています。
次に、「真智をもたらす集中」ということが、情緒ないし情操の振り向けによって為されることを示しています。このことは、「一念が発起されるのは情緒によるしかない」という誰もが認めることからも明らかです。
しかし、「情緒によらずして、また一念の発起もなしに、真智をもたらす集中ができる」と私たちは傲慢なる錯覚をして暮らしているのではないでしょうか。
「精神統一下に分別智を軽度に働かせて、真智をそうとうに働かせているという状態で研究を進めるのがこの情操型研究であり、そうして発見されるのが情操型発見です。もちろん邪智はすこしもはいりません。
わたしは、東洋人はこの型でやるのがいいのではないかと思っています」
これは情緒優位の集団独創のことに通じるのでしょうか。
「これに反して、インスピレーション型発見というのは、分別智がまったく働かなくなった瞬間に、真智が雲間から急に青空が出る如くに働くのです。(中略)
いままでなにもわからなかったへやの中のありさまが一目瞭然とわかった。こんなふうな分かり方なのです」
私は、発想やひらめきについて、情操発見型とインスピレーション発見型に分類して考えたことはありませんでした。
しかし、確かに、本ブログでの究明のように、先達の良書に出会った瞬間から何か発見の予感めいたものを感じて、精神統一下でそれをトレースしていくと、ある種の感動を共有しながら発見をするのは、情操発見型のように感じます。また、むしろ仕事を離れて遊んでいる時に、つまり精神解放下で、なにかの拍子に浮いてしまう発想やひらめきは、それとは全くタイプの違うインスピレーション型発見と言えます。
「情操型もインスピレーション型も、大脳前頭葉の働きは同じことです。邪智は使ってはいけない、分別智はすこしは使わなければいけない、真智は使えるだけ使わなければいけない、ということです。
古人が智というとき、それは知情意を合わせてこう呼んでいるのです。
真智とは真知・真情・真意の意味です」
岡先生のすごい所は、この真知・真情・真意をふだんから養生することの大切さを説いていることです。
何事もインスタント時代になろうとしていた当時、そのような付け焼き刃のノウハウではものにならないと断じているのです。
「これは特別のときですが、へいぜいはどうか。そのほうがひじょうに大事になります。
とくに教育について言おうとするならば、それが大事になります(筆者注:人材開発における3スキル、コンセプチュアル・スキル、テクニカル・スキル、ヒューマン・スキルの内の最後者に相当)。
これについては、感情樹というものを想像してほしい。大脳前頭葉に葉をひろげ、根を情緒の中心に持ち、この葉と根とを幹とか枝とかでつないでいく。こういう樹を思い浮かべてください。
この樹に日光があたると、葉は同化作用を営み含水炭素ができます。一口に含水炭素といってしまいますが、これはひじょうに微妙なものです。
松の含水炭素は松のどの部分へどう使われようとみんな松になり、柳のばあいは全部や柳になります。
そのやり方ですが、根から水分を、空気中から炭酸ガスを取って同化します。同化したものを、植物のばあいはなにも根からは配られはしませんが、人のばあい、情緒の中心(筆者注:が含水炭素に相当する諸々を引きつけてそこ)から全体に配られるのだと思います。
こういう働きを営みを続けているのです。
ところで、この樹にはその葉のひろがっている世界がある。
そして、その世界の日光でなければその葉に対して当たれない。
つまり、葉のひろがっている世界の日光でなければ、なんの同化作用もおこしえないのです。
これが、ごく大事なことです」
これは、「どんぐり=魂のコード」が引きつける日光があり、それをもってしかどんぐりは樹に成長しない、ということを言っています。
「そのようにしてできた含水炭素が情緒の中心へ行くと、情緒の中心はその含水炭素に応じた方向へ世界の向きを変えていくのです。
つまり、情緒の中心の命令によって感情・意欲するのです。だいたい情緒の中心が指示するとおりに大脳前頭葉が感情・意欲する。すこしの自由はきくけれど、だいたいの向きは変えられない。
その向けた向き、それがその世界です。その向きの日光だけを受けて同化作用をして、情緒の中心へと送る。
もうそれでよいと思ったら、その方向を固定します。樹の全体、幹も枝もそのまま固まっていきます。つまり、その世界の向きを向いたまま大きくなっていくのです。
感情樹は、こういうふうな循環を繰り返してだんだん成長し、大木になってしまいます。もはや、その葉のあるところの世界は変えられません。
これを古人は、業(ごう)が熟する、といいました。業が熟してしまってからでは、どうにも変えられない、変えようがないというのがこれなのです。
そしてこれが、人の性格なのです。感情樹が性格です」
もし、創造性を求めるのであれば、そもそも創造的な性格という感情樹を、自分の「どんぐり」の声に耳を傾けて育てていなければなりません。その声を「魂のコード」の著者は召命(コール)と言ってました。
この召命(コール)は、いろいろな経験をする中で多角的に示されるように人生は仕掛けられているように思います。
自分探しをしようとしまいと、召命(コール)を聞き逃すことがあったり耳をふさいでやりすごしたとしても、人は繰り返しより大きな声で召命(コール)を聞く機会に遭遇することになります。「どんぐり」が私たちの魂を成長させようとする以上、そうなのだそうです。
私は、学校教育も企業における人材開発も、その本質は、自分の「どんぐり」の声、召命(コール)に耳を傾けてもらい、それに従う現時点の課題を発見してもらうことだと考えています。
調査会社ギャロップの元経営者たちは、その著作の購入者に、自分のどんぐりの特徴を構成する最強5要素を診断することで、それをサポートしています。
それは効果的であり、私はその考えを否定するつもりはなく、実際に人事部門のクライアントの方々にも推薦しています。
しかし、なぜか自分ではやってません。(汗)
私の場合、自分が自身のどんぐりの声に耳を傾けながら、それに従う現時点での課題を発見しては試行錯誤を続ける。そうしたパラダイム転換発想のファシリテーターとして営みこそが、もっとも対象の創造性を喚起することになるのではないか。
創造性の中身は、どんぐり同様、人それぞれです。しかし、自分固有の創造性を求めるひたむきでくじけない情緒性にはあい通じるものがある。ならば、それを感じて共有してもらうことの方が、対象にとっても刺激になったり役立つのではないか、そう勝手に直観しているのです。
そういう点では、本ブログは、凡人の私が先達の教えや考えを学びながらいわば「独り集団独創」と「独り群れ遊び」をしてできる、私なりの実践的な「情緒の教育・社会人版」のベーシックなのかも知れません。
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