未来を出現させるシナリオ・プラニングとは (1/3) |
(前半を読んで)
「システム思考→シナリオ・プラニング」の目的と意義
監訳者である野中郁次郎先生は、ピーター・センゲがその著「最強組織の法則」でも主張した「システム思考」について、冒頭の解説でこのように軽妙な表現をしています。
「システム思考の方法は、複雑さの根底にひそみ、変化を生じさせている構造を見抜くことにある。
『木だけでなく森を見る』というメタファーがあるが、これは細部から離れてよりマクロな視点から見ることが重要だということである。しかし、凡人がうしろに下がっても『たくさんの木』を見るだけだ。
『木も見て森も見る』ためには、気に入った木を、一、二本選んで、その変化に注意と努力を傾けるのが複雑さの根底にあるものを見ることに繋がるということである」
少なくとも本書でセンゲが言う「シナリオ・プラニング」は「システム思考」の延長にある。
(「システム思考」とは、たとえば利害が大きく対立する勢力がどのような本音を対立させていて、組織や情勢の全体をいかなる思考と行動をもたらすシステムとしているかをメタ思考することです。たとえば中東情勢における「憎しみの連鎖」など。利害の対立者が本音を明かし合い冷静に対話し、それぞれのいい分を理解しあう。そして対立者が、従来システムの作動を何もせずに放置した場合、むしろ従来のやり方考え方を加速強化した場合、従来のやり方考え方を抜本的に改めた場合の代替シナリオを、対立者が恊働して予測しそれを客観視する活動を通じて、両者ともに不幸にする事態を打開することを目指す、という思考です。)
ということは、単なる個別具体的な事業戦略や事業構想のシナリオ・プラニングのような、「いくつかの代替構想案の中から一番良さそうなものを選びましょう」的な悠長な論題に対応するものでは決してない、ということです。(つまり、シナリオ・プラニングの真価は、それがどんな次元のアジェンダをセッティングするかで決まってしまう。)
そのことは、第一部「見るということを知る」の第一章が「レクイエム・シナリオ」というタイトルではじまっていることからも明らかです。そこで、「人類が問題を克服できず、持続的な社会をつくれない、つまり人類が絶滅するかもしれないと気づいたら、どうなるかを予測したものだ。つまり想像を絶する事態を考えたものなんだ」とする「世界のレクイエム」という講演資料に言及しています。
そして、第二章「見るとはどういうことか」では、「新鮮な目で見ることは、習慣的な考え方や見方をやめることからはじまる」として「保留する能力」(=慣れ親しんだ考え方ややり方をいったんおいておく能力)の重要性を指摘し、それを集団レベルで阻害する「分別の声」についてこう解説しています。
「分別の声は、個人の場合とおなじように集団の創造性の芽を積む。これは通常『集団思考』と呼ばれ、集団内で構成員の正直さや正当性を微妙な形でたえず検閲している。こうした集団の分別の声は、発言や行動ばかりか考え方にも縛りをかける。その影響に気づくのは、たいてい後からだ」としています。つまり、後から気づいても、後の祭りのことが多いと暗に言っています。
この文章のあと、ハーバード・ビジネス・レビュー誌をやめてファスト・カンパニー誌を創刊し、5年も経たない内にフォーチュン誌と肩を並べるまでに育てた人たちのことに触れ、彼らのこんなコメントを引用していることも意味深長です。
「(ハーバード・ビジネス・レビュー誌を)やめた途端、まったく違う人たちと会うようになりました。付き合う基準がまるで変わったのです。『どんな面白い仕事をしているのか。どんな人間なのか。仕事をどうおもっているのか』。世の中を新鮮な目で見るようになりました。貪欲に学び、行ったことがない場所に行き、以前なら絶対に会わなかった人に会う。壁で囲まれた街から逃げ出したような気分でした」
これは、閉鎖的かつ知識知能偏重のアカデミズムと、そうしたアカデミズムを短絡的に利用するビジネスパーソンを、彼らにそれと分かるように対比的に批判しています。それは、この本の全容がトランスパーソナルな、あるいはニューソートな精神主義の色濃いものであることと、なぜ本冒頭のこの位置にハーバード・ビジネス・レビュー誌をやめた人たちの話しをもってくる必要があったのかを考えると、そうとしか思えません。
そして、第二部「静寂へ」のトップ第五章「生成の瞬間」では、南アフリカにアパルトヘイト撤廃への道をたどらせたターニングポイントになったシナリオ・プラニング事例が解説されます。
著者たちは、現代のグローバル社会において企業の責務と可能性は大きく、そういう認識に向けて本書の内容を世に問うています。当然、解説するシナリオ・プラニングは表層的にビジネスライクなものではありません。しかし、シナリオ・プラニングは仮に一企業の危機やその起死回生に関わる場合でも、結局は組織に属する人間の本音をオープンマインドに明かししかもエゴイズムに囚われることなく、システム思考によって運命共同体としての再生および再起を図るという点で同じだと主張している。
ここを踏まえないとすれば、知識知能偏重のシナリオ・プラニングにとどまり、決して人の心を動かすことはない。そう断言するかのように、本書は、さまざまな組織や国の運命の岐路においてそこに居合わせた人々の心を、そして意識を、そしてその上で思考を一致団結させたシナリオ・プラニングの真価を繰り返し解説しています。
南アの場合、このようなシナリオ・プラニングが行われていたと言うのです。
「主導したのは、南アフリカ有数の鉱山の複合企業、アングロ・アメリカン・コーポレーションで、黒人は蚊帳の外だった。だが、このシナリオづくりは、人々の心を拓かせるのにおおいに役立った。われわれが主張しているとおりにね。(中略)
シナリオは『低い道』と『高い道』の二通りあった。『低い道』は、アパルトヘイト政策を続け、世界から孤立するシナリオ。『高い道』は、アパルトヘイトに終止符を打ち、世界の一員として復帰するシナリオだ。国民のあいだでこの二通りのシナリオが議論されるようになった結果、多くの白人がアパルトヘイトを続けた場合の影響を考えるようになった。さらに、未来のシナリオは自分たちで選べるのだ、という考えが強まった」
私は昨年度末まで、経営危機に陥った(と認識していないのかも知れないが)会社の起死回生に向けた提案として、「シナリオ・プラニング」なる言葉は使わないものの、こういう岐路が目前にあると解説してきました。意識的にか無意識的にかは社員のお立場でそれぞれでしょうが、いずれにせよ会社は「2つの道」のどちらかを選択することになると解説してきました。
つまり、複数ある基幹事業のそれぞれがほぼ単独で高性能低価格化競争をしている、レッド・オーシャン戦術を展開している。このままでは腕力=資本力のある会社に一つ一つ駆逐されたり吸収されていくことは自明である。目前にある「2つの道」とは、いま現段階で最もシェア高く力強い基幹事業一本に絞り込んで他を捨てて行くという選択肢と、複数の基幹事業を横ぐしで連携させてはじめて可能なユニークな顧客価値を創出して、万人向けではなくて、それを高く評価し割高のお金を支払っても求める特定階層というカスタマーに向けて訴求していく、つまりブルー・オーシャン戦略という選択肢、この2つのことです。
現段階でうまく行っている基幹事業も、高性能低価格競争を続けていけば、いずれは腕力の強いガキ大将のような業界最大手にやられてしまうだけでなく、すでに万人向けで彼らが始めている複数基幹事業の横ぐし連携がもっと進化しそれに対抗する術を捨てているとすれば、どう見ても生き残れる可能性は極めて低い。誰だってそう予測します。
結局、そういう選択肢を臆面もなく正当化する人たちとは、どういう人たちなのか?
この問いないしそれへの答えは社員なら誰もが持っているのでしょう。
これが会社という組織に属する人間、社員の本音ではないでしょうか。
もし社員あるいは経営幹部の間で、この本音がオープンマインドに明かされず、またフェアに交わされもしないとすれば、どのようなシナリオ・プラニングも皮相的なものとなるのではないか。
本書を読めば、誰でもそうした感想を抱かざるを得ないように思います。
どうも、シナリオ・プラニングにも、心のこもった人間の本音で語られるシナリオ・プラニングと、知識知能偏重の専門的にスマートではあっても社員の共感を呼ばないシナリオ・プラニングがあるのかも知れません。
本書の前半を読んで、私自身学ぶところ大でした。
それは仕事のことだけにとどまらず、私が個人的に直面している家族の問題に対峙する自分についても考えさせられるところ大でした。ドラッカー亡き後、私個人としては、そのぐらい奥深い歴史的な意義ある本のように感じました。
よって、そのビジネス面あるいはマーケティング&マネジメント面での学びを紹介するに際しても、まず以上のこと、つまり本書がシナリオ・プラニングに向かう私たち一人一人に心構えを問う「踏み絵」について語らねばならないと思いました。
←本ブログをご評価ください
ブログratings - ビジネス・経済TOP50