自己流プロファイリングによる雑学史観について(3) |
日本人にパラダイム転換発想あり
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2021年 07月 19日
野島永「研究史からみた弥生時代の鉄器文化」発
(2) からのつづき。 「研究史にみる鉄器文化 第2期(1)生産力と鉄器」の内容に関連して 「第2次世界大戦後、言論統制の呪縛から解き放たれ、皇国史観による歴史叙述ではなく、『科学』としての考古学による『日本列島の歴史認識』、科学的視点から見た『日本民族』の歴史の再構築が急務とされた時期であった」 「1950年代には、日本における鉄器文化の発展を生産力と関連づけて説明する見解が中心となっていった。 戦前、石器の消長から金属器(鉄器)の普及を想定した小林行雄はその後も弥生時代後期を『石器使用の廃絶と鉄器使用の普遍化』の時期と捉えつづけた。」 「小林は弥生時代における農耕開始後の階級発生は必然ではなく、唯物史観から見た公式的見解に過ぎないと自認しつつも、鉄器使用の普遍化を鉄製の鍬鋤刃先の採用と捉え、それが農地の開墾を容易にし、生産力の急激な増大に至らしめ、巨大な古墳の築造をも可能にしたとする。」 「小林の言説によって、石器生産の衰退、つまり出土土器の激減と農耕の発展は鉄製農工具、中でも鉄刃農耕具(耕起具としての鉄製鍬・鋤先)の導入による結果であるという図式が成り立っていく。」 その中で、 石器の「消減期の『ずれ』を生産力の地域的不均等による原始共同体制の崩壊期の様相を呈しているとし、やはり階級支配の生成過程の中で鉄器の普及を理解していこう」とする傾向が学者に見られた。 私が不思議に思うのは当時の学者が、 縄文人の部族社会が、原始共産制かどうかはともかくも、階級が無かったり、あっても固定的な世襲制ではなかったとして、 鉄器だけでなく青銅器を含めた金属器をもたらした渡来人=弥生人との関係性において、縄文社会に固定的な階級が発生した とは何故、考えなかったのだろうか? ということである。 どうも、 唯物史観は、人(部族や民族)よりもモノを捉え、モノの中でも生産手段という利器を捉えるから、利器の鉄器を重視し、威信財の青銅器とその人間関係への働きを軽視してしまった と言えそうだ。 縄文部族には、政治権力者の族長と、信仰権威者の呪術師がいた。 それは彼らリーダー層とそれに従う層という階級を構成したが、実力主義による選任が行われ、世襲制で固定された階級ではなかった。 しかし、渡来人=弥生人が文明品を持ち込み縄文人の生産物を得るべく、族長や呪術師に威信財を贈与して交易関係を締結し維持する。 その威信財の贈与と受容の仕方によっては、族長や呪術師が威信財の所有者として世襲されて階級が固定化された。 遠隔地交易民としての職能を媒介とした族的結合のプロファイリング的検討によれば、 威信財の贈与の仕方は、 縄文社会を温存した「出雲族」と 縄文社会を再編した「安曇氏」では異なった筈である。 威信財の受容の仕方も、 実力主義による選任制を踏まえて威信財を共有財とした部族と 交易利権者を固定化すべく威信財を世襲相続する私有財とした部族があった筈である と言える。 たとえば、 縄文人の威信財の装身具である釧(腕輪)が、比較的近海産の貝製の素朴なものから、遠洋遠隔地の貝製の製作に工具を必要とした精巧なものへ変化し、さらに弥生時代には貝輪を模したシンプルな形態の青銅製から、貝輪ではあり得なかった複雑な形態の鉄製(たとえば螺旋状鉄釧)へと変化する。 その鉄釧において、着脱が可能なものと着脱が不可能なものがある。 着脱不可能なものは、幼児期に呪術師候補たちに装着され、呪術能力が顕現した者の腕輪を残して他は切断したと考えられている。これは、呪術師の実力主義による選任である。 これに対して、着脱可能なものは、成人が世襲した時点で装着を始められるから、呪術能力の如何に関わらず世襲する家系の私有物として相続された可能性がある。 「階級支配の生成過程」は、威信財を贈与した渡来人=弥生人と受容した先住民=縄文人との関係性によって様々である。 「安曇氏」のように支配被支配の延長線上で縄文社会を再編したケース 「出雲族」のように対等な交易関係から縄文社会を温存したケース があった。 こうしたことが、 威信財の装身具の様々なあり方やその変化から推察されるが、 鉄刃農耕具(耕起具としての鉄製鍬・鋤先)の導入とその早い遅いからは推察しようがない。 たとえば、 灌漑を伴った開墾が鉄製農工具によって効率的になされ、それによって結果的に階級形成が進んだとした場合でも、その開墾だけを渡来人が主導して行い、その後の水田稲作を縄文人が行い収穫の一部を渡来人に上納したということも大いにあり得た。 渡来人が、高度な知識や技術と道具を必要とする作業や道具の貸与だけを投資的に行い、その後は、定期的な稲作指導だけして、縄文人による水田稲作の収穫の一部をリターンとして受けとる。 これを、 「安曇氏」が縄文社会を「領域国家」の下部構造として再編して行った場合は、「階級支配の生成過程」になったが、 オオクニヌシやスクナヒコナが象徴する「出雲族」が縄文社会を温存して行った場合は、農閑期の労働力や里山の資源を生かした酒造りや薬草採取を指導して「交易関係の生成過程」となった と考えられる。 50年代の論考には、弥生時代前期にすでに鍛造鉄器が出現していたと推測し、鉄製工具が木製農具の生産に寄与し、具体的には枘(ほぞ)と枘穴(ほぞあな)加工による組み合わせ道具の製作が木器加工技術に革命的な発展をもたらしたとするものもあったが、 総じて、 「『生産力の発展』が土地の占有や家父長制度の発達、地縁的結合を基盤とした社会、私有民や土地などの財産所有、世襲といった階級社会の特徴を強めていく要因として語られた」 これは、稲作拠点を「定住民」の「定住社会」と前提するパラダイムにある。 「定住社会」間を行き来する輸送民ないし交易民といった「移動民」も、どこかの「定住社会」に帰属するものと前提される。 これは、縄文人、そして縄文人交易民(近隣交易、遠隔地交易ともに)については正しいし、そのパラダイムで物事を捉えても間違いはない。 しかし、 渡来人=弥生人の遠隔地交易民の場合、たとえその時々で本拠地が固定化していて「定住民」の見えがかりを持っても、本質的には「転住民」であり、その構成員はいつどこに転住しても存続できる「転住社会」を形成していた ということが重大なのである。 たとえば、 四隅突出型墳丘墓を共通シンボルに「出雲族」として同盟化する以前の、環日本海交易の遠隔地交易をする「交易ビッグマン」に率いられた「出雲族」前身諸派は、開拓拠点を転じては拠点群を増やしたり前拠点を捨てて新拠点に転住したりしていた。 (参照:「四隅突出型墳丘墓の展開分布から「出雲族」の有り方を俯瞰する」 初期の渡来諸派は、日本列島に交易資源を求めるばかりで消費市場は存在せず求めるべくもなかった。 東北の鳥海山や北陸の白山、山陰の大山や三瓶山など、日本海のはるか沖合からランドマークとして遠望する大火山の麓に、鉱物資源を求めて開拓拠点を設けた。その際、資源の探索や採掘の活動を支える食糧調達をする稲作拠点が設けられた。 開拓拠点に近い立地での自給自足のための穀物栽培だから、必ずしも平野部の水稲作に特化した選別型農耕ではなく、山間部の陸稲作や雑穀栽培もする網羅型農耕でもよしとされた。 渡来人は、鉱物資源の取得を優先課題としたから、開拓段階で稲作拠点の開墾や稲作にかける手間をなるべく省き、稲作作業の労働力はすべて縄文人に期待し、敢えて彼らで完結できる開墾方式や稲作方式が選択された筈である。農工具も彼らで製造調達できる石器が前提された筈である。 そして、 期待した鉱物資源が発見できなかったり、採掘していた鉱物資源のもっとコストのかからない調達先が見つかったりすれば、開拓拠点ないし採掘拠点は放棄され、同時に食糧調達していた稲作拠点も放棄された。 これが、中国由来の遠隔地交易民、具体的には「出雲族」前身諸派が、中国の都市市場を最終消費地とする交易産品(原材料)を日本列島に求めていた時代の、その「転住民」とその「転住社会」のあり方である。 「安曇氏」の「転住民」とその「転住社会」のあり方も述べておこう。 「安曇氏」は、渡来以来、6世紀まで北部九州を本拠地としたから、見えがかりは「定住民」のような見えかがりを持つ。 しかしそれは本拠地、言わば本社が北部九州にあったということで、遠隔地交易という職能を媒介にした族的結合である「安曇氏」諸派は、日本列島の内外各地に展開して、言わば出張族や転勤族の様相を呈したと考えられる。 「出雲族」は、日本列島各地の交易相手の縄文社会を温存して交易経済圏としてネットワークした。それを『古事記』にあるように「交易ビッグマン」たちの盟主を象徴するオオクニヌシが縄文部族の族長の娘を娶って回ってしたが、それは「転住民」のあり方である。しかし、交易関係の樹立と維持はハレ=非日常の儀礼であり盟主「交易ビッグマン」がしたが、ケ=日常の交易活動は、各地の「出雲族」を率いる「交易ビッグマン」たちが地方圏域を回遊して地域密着的に行ったと考えられる。 このような「出雲族」に対し、 「安曇氏」は、「領域国家」の下部構造として縄文社会を再編、つまりは画一化して画一的に支配管理した。 ちょうど近代日本で自然発生した新人を地方に赴任させやがて中央に戻す人事異動によって幹部候補生の人材育成をする制度(警察や税務署の幹部候補生が地方の署長からキャリアを積む、NHKの正規職員が地方局からキャリアを積むなど)のように、役人的な「交易ビッグマン」の誰がどこに派遣されても交易活動を管理できる体制を整えていたと考えられる。 「安曇氏」の場合、「出雲族」と同じ中国由来の遠隔地交易民でも、その「転住民」とその「転住社会」のあり方も大いに異なったのである。 長い歴史スパンの最初から最後まで、 呉の遺臣を祖とする「安曇氏」は「領域国家」の「管理貿易」を前提とする、国家主義の政商型交易者であり続け、 中国からの亡命商人が朝鮮半島北部東岸に逃れ環日本海交易者となりその一部が繰り返し日本列島に渡来した諸派が同盟化した「出雲族」は、同盟化する前身諸派の段階から、「領域国家」の都市市場(朝廷、王宮、都市富裕層)は狙うが「領域国家」に囚われることはない脱国家主義の「自由貿易」を前提とするベンチャー型交易者であり続けた。 両者の「転住民」とその「転住社会」のあり方の大きな異なりはその反映である。 「鉄器の導入によって、いわゆる生産力のなかでも農業生産力による余剰の創出、それに必然的に伴ってくる交易や分業生産の進展、専業工人の成立が結果的には社会の変容を余儀なくしていく方向に向かうという見解が大きな潮流となっていった。」 「しかしその後、弥生時代の発掘調査の充実とともに精緻な個別遺物研究が進んで言ったために、鉄器文化と農業生産力の進展を直接的に結びつける論調はやや陳腐化し、次第に低減していったようである。」 こうした論考は、日本列島内にも様々な高付加価値の商品サービスの需要が芽生え、それを対象とする交易活動が進展した段階を前提している。 その中で、 「安曇氏」の本拠地北部九州での「定住社会」的な見えがかりからすれば、その大規模稲作拠点の進展などを踏まえて「鉄と稲に論点を絞った論考」はそれなりの説得力を持った。 しかし、 利器の鉄器よりも威信財の青銅器を重視し、稲という第一次産業産品よりも宝玉を加工した装飾品や精巧な木器という第二次産業産品を重視した「出雲族」の列島内外の交易ネットワークからすれば、まったく異なる論点の論考に向かうことができた。 しかしそのような方向に向かわなかったのは、論考そのものが「鉄と稲を重視する国家主義」に囚われていたためと言えよう。 西日本で版図拡大動機をもつ二大勢力「安曇氏」と「テュルク族」が、ちょうど瀬戸内地方中央部で対峙した。 (「安曇氏」は「領域国家」の出先機関として「くに」を建て、主要交易産品の交易拠点や生産拠点を排他的な飛び地として開拓していった。 「テュルク族」は鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」を建て、鉄資源を求めて「くに」ぐにを建てていき連合してさらに版図を拡大しようとした。) 一方、 富国強兵に繋がる鉄素材の争奪戦や鉄器の増産戦には関わらず、威信財である青銅器を重視した「出雲族」は山陰地方を本拠地にして二者の緩衝地帯となるように勢力圏=交易経済圏を展開した。 そして、 北部九州を本拠地とする「安曇氏」には銅戈を、近畿地方を本拠地にする「テュルク族」には銅鐸を供給。 版図拡大動機を持たない遠隔地交易民として両者から平和中立であることを信頼された「出雲族」は、相手の版図内に仮設工房を建てて、そこに原材料(銅と舶来鉛)と工人(大陸由来)を派遣し現地製造して青銅器の威信財を供給した。 「出雲族」は同じ理由から、軍需品でもある薬、非軍需の精巧木器などを全方位で交易できた。それが、環日本海の対外交易とも接続していたのだろう。「安曇氏」「テュルク族」の二大勢力が富国強兵で競合している間に繁栄のピークを打っていった。 考古学や歴史学は、戦前から戦後にかけて「国家形成論」の文脈ですべてを語ろうとしてきた嫌いがある。 記紀が「国造り」「国譲り」と称した皇国史観や、全てを階級論に結びつける唯物史観のためだろう。 しかし、 そうした視座では語れない地平があることは明らかである。 私はそこだけを雑学してきたが、現代社会にも役立つ価値観や世界観を含んでいると思う。 (4) へつづく。
by cds190
| 2021-07-19 19:54
| ☆発想を促進する集団志向論
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