「女の血脈が伝えること」と「男の血脈が伝えること」を合わせ技する「非単系」継承形式(3:結論) |
日本人にパラダイム転換発想あり
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2018年 03月 28日
(2) 中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。 奈良時代に南家・北家・式家・京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。 藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を称したが、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。これらをあわせると特に朝廷における比率は圧倒的。 一説では、 藤原の姓は鎌足一代のものとして与えられ、後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする。 この見解は、鎌足の死後中臣氏を率いた右大臣・中臣金が壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)方について敗北し処刑され、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えたことを一因とする。乱平定後、天武天皇が「八色の姓」が定めた際(天武天皇13年 684年)は、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」姓は登場せず、鎌足の嫡男である不比等を含めた鎌足の一族は「中臣連(後に朝臣)」と名乗っていた。直後(天武天皇14年 685年)、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられその範囲が定められたとする。 この経緯には、当時、不比等がまだ若かったこと、ゆえに不比等以外の成員にも藤原朝臣が与えられ、鎌足の一族であった中臣大嶋や中臣意美麻呂(鎌足の娘婿でもある)が不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に「氏上」(うじのかみ)に就いたことが関係しているらしい。不比等が成長して頭角を現すと、藤原氏が太政官を、中臣氏が神祇官を領掌する体制とするため、文武天皇2年(698年)、鎌足の嫡男である不比等の家系以外は元の「中臣」姓に戻された。 中国の宗族制に照らせば、王族の大宗が朝廷を治め、小宗が郡国を治めたのに対して、天皇の臣下である彼らは大宗=嫡流が政を治め、小宗=庶流が祭を司る形になったと言える。 乙巳の変(大化の改新)の勲功者である藤原鎌足の子藤原不比等は長女の宮子を文武天皇に入内させ、その異母妹の安宿媛(光明皇后)を聖武天皇に入れていた。 この段階で、藤原意のお家芸となる外戚摂関体制を育む動きが始まっている。 不比等が没した翌年、元明天皇が死の床で後事を託した際(養老5年 721年)、藤原房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じ、内廷を藤原房前が補佐し、外廷(太政官)を長屋王が主導する体制となる。この時、不比等の子の藤原四兄弟はまだ若く、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。ただし、その政治路線は不比等を踏襲するものだった。 神亀元年(724年)に即位した聖武天皇が、生母である藤原宮子(藤原不比等の娘)を尊んで「大夫人」と称する旨の勅を発する。これについて長屋王が上奏を行い天皇が勅を撤回し、文章上は「皇太夫人」を、口頭では「大御祖」と呼称するとの詔を出して事態を収拾した。この事件を契機に長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が露になっていく。 長屋王と吉備内親王の間の子女は、霊亀元年(715年)の段階で、皇孫として扱う詔勅が出されていて、一定程度の皇位継承権を持つと意識されていたらしい。聖武天皇やその後継に万一の事態が発生した場合に、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。このため聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって長屋王家が目障りな存在だったと考えられている。 当時の朝廷には、母親、藤原宮子が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあった。 一方、聖武天皇の皇太子時代に母親の異母妹、光明子と結婚していて、養老2年(718年)には阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産していた。そして神亀元年(724年)に夫の即位して後宮の位階である夫人号を得て、神亀4年(727年)に基王を生んだ。聖武天皇はこの基王を生後一ヶ月あまりで皇太子に立て、成人した後に譲位して自らが太上天皇となって政治を行うことを目論む。 これはまさに藤原氏のお家芸となる外戚摂関体制そのものである。 これに長屋王が不満を示す。 けっきょく神亀5年(728年)に基王が満一歳になる前に先立ち、聖武天皇には非藤原系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となる。 しかし、こうした聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で長屋王の変が発生して、藤原系が逆転する。 藤原四兄弟が、長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺して皇親政治を終わらせた。 そして安宿媛(光明皇后)を人臣初の皇后に登らせることで藤原氏の地位の基礎を築いた。 その後、藤原四兄弟が天然痘の大流行で病死、敏達天皇の後裔の橘諸兄と玄昉に聖武天皇の信任を奪われたり、光明皇后の没後にその娘の孝謙上皇からの信任を道鏡に奪われたり、後退局面もあったが、藤原氏官人の多数が反乱鎮圧側について命脈が保たれ、称徳天皇(孝謙の重祚)の崩御後、藤原氏は光仁天皇擁立を主導しその地位を保全した。 以降、南・北・式の3家が競い合い、やがて政争や一族の反乱で南家・式家は平安時代前期には衰退し、北家が最も栄えることとなった。 光仁および桓武天皇の皇位継承の最功労者は藤原式家の藤原百川であり、式家の藤原種継・藤原仲成父子も天皇の信任を得たが、薬子の変で仲成は誅殺された。 北家支配の足がかりを作ったのは藤原冬嗣であり、冬嗣は810年、薬子の変に際して嵯峨天皇から蔵人頭に任命され、変に勝利している。 光仁天皇(49 770~781)は、天智天皇の後裔(第7王子の第6王子)で白壁王と称した。 桓武天皇(50 781~806)は、白壁王(光仁天皇)の長男で、生母は百済系渡来人氏族の和の出身である高野新笠で、父王の即位後、官僚として出世が望まれていた。 桓武天皇の後は、その第1皇子の平城天皇(51 806~809)、その第2皇子の嵯峨天皇(52 809~823)と続く。両天皇の母親、皇后藤原乙牟漏(おとむろ)は式家の藤原良継の娘である。 次の淳和天皇(53 823~833)は、両天皇の異母弟の第7皇子で、母親は式家の藤原百川の娘、旅子である。 桓武天皇を継いだ平城天皇から嵯峨天皇は兄弟の継承、嵯峨天皇から清和天皇は異母兄弟の継承、と傍系継承が続いた。 桓武天皇の父、光仁天皇からのこの間に、皇統が天武流から天智流に不可逆的に変わっていることは留意しておきたい。 なお、藤原不比人が天智天皇の御落胤であるという説が、『興福寺縁起』から導かれたり、『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』にその旨が明記ありとされている。 平安時代中期以後は、藤原北家のみが栄えた。 藤原良房は清和天皇(56 858~876 母親は良房の娘)の外戚となり、人臣で初めての摂政となった。 そして、良房の甥で養子となった基経もまた、陽成天皇(57 876~884 基経は母方の伯父)の外戚として摂政と関白を務めた。 基経は、良房の死後、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇(58 884~887 母は藤原総継の娘)・宇多天皇(59 887~897 母は桓武天皇の第12皇子の娘の斑子女王)の四代にわたり朝廷の実権を握った。 皇室と姻戚関係を結んで他氏の排斥と権力増強を行う路線は代々引き継がれ、842年(承和9年)承和の変から969年(安和2年)安和の変に至る一連の事件で藤原北家の他氏排斥が完了する。 藤原道長・頼通父子の代になると摂関政治の最盛期を極めた。 ざっくり言ってしまえば、 一族の娘を嫁がせて生んだ子を天皇に擁立し摂政・関白として補佐する形で政治の実権を握る藤原摂関体制は、 当初は、天武流の天皇親政に対抗してこれを打破する手立てとして培われ 後には、天智流の天皇を擁立しつつ藤原氏同士の競い合いで藤原北家が他氏排斥する手立てとして完成していった ということである。 朝廷における外戚の台頭は律令体制の中国でもあった。 しかし中国との大きな違いがある。 まず中国は王朝が交代したが日本は交代がないために、内部での変動が起ることになった。 次に、中国ではいわば皇帝親政が官僚体制を取り仕切るのに対して、日本では官僚体制の有力氏族が台頭して天皇親政の方を退けてしまった。 官僚体制を牛耳る有力氏族である藤原氏が皇室と姻戚関係を結んで天皇を擁立し外戚として実権を握るにいたった。 しかも、これが藤原氏一強で継続し、内部闘争をへて藤原北家一強に帰結している。 中国では皇后の交代にともなって外戚勢力も盛衰するが、日本では藤原氏全体として外戚勢力が独占的に継続した。 また、中国では、皇帝の母である皇太后や祖母である太皇太后の影響力が大きく、外戚の台頭はその延長に位置づけられる。 しかし藤原摂関体制では、天皇の母や祖母は、藤原氏一族の娘として天皇に嫁いだ時と天皇の子を産んだ時に使命を果たしていて、特段の政治的な影響力をもったとは言えない。 宗族制の「父系」直系の中国王朝で、皇太后や太皇太后の力が強いのに対して、 持統天皇の時代までは女性天皇や皇后の力が強く発揮される「非単系」性が顕著だったのが、 藤原摂関体制になって女性は血脈の継承に利用されるばかりで主体としての力が発揮されない。 この日中の違いは何に由来するのだろうか。 おそらくこのことと、 藤原氏が多数をしめた貴族社会が「母系」の「通い婚」となったことは どういう形かで重なっているのだろう。 平安時代は、雅な宮廷文化が花開きそれを担ったのは女性の妃姫や官女であった。 文化は宮廷で女性が、政治は朝廷で男性がという役割分担であれば、それは中国王朝流であるから、 むしろ持統天皇以前の方が、非中国王朝流、独自の日本王朝流を目指していたということなのだろうか。 「夜這い」から「通い婚」へと至るプロセス 平安時代の貴族社会の「通い婚」は、婚姻が成立するまでは親公認の「夜這い(よばい)」であって、実際には複数の婿候補が通ったと想像する。 「夜這い(よばい)」とは、夜中に性交を目的に他人の寝ている場所を訪れる事。 民俗学的見地からは、古代に男が女の家へ通った「よばう」の残存とする考え方が多い。 また語源は、男性が女性に呼びかけて求婚すること(呼ぼう)であるとも言われる。 古くは『万葉集』(759年)に、【他国に よばひに行きて 大刀が緒も いまだ解かねば さ夜そ明けにける】と歌われている。 「遠い他国に妻を捜しにでかけたが、腰に差した大刀の紐も解かぬうちに夜が明けてしまった」という意味である。 万葉の時代、婚姻に至るステップはこうだった。 ①男がまず自ら「名告り(なのり)」をして女の「名告り」を求める。これが求婚だった。 名には名の主の霊魂が宿っていると考えられていて、男に名を告げることが求婚への承諾となった。 ②女からの「名告り」を受けると「呼ばひ」(「呼ばう」の名詞形)を重ねる。 女の家を訪れてその名を呼び続けて相手の魂を乞う。 前掲の「他国に〜」の歌は、女からの「名告り」を得て家に上がることができなかったということだ。 子は母方で育てられ、母親が娘の監視者として、自分の意にそう男は家に迎え入れそわない男は家に入れなかった。 だから、 【汝が母に 嘖られ吾は行く 青雲の いで来吾妹子 あひ見て行かむ】 お前のお母さんに叱られて、私はすごすごと引き返す。自由に空を飛ぶ青雲のように出て来い このような事態が生じた。つまり、 ③娘本人と親が認めてはじめて「妻問ひ(つまどひ)」に進んだ。 ④結婚する場合、女性側の実家が母屋の傍らに二人のために小屋を建てた。 この小屋が「つま」であり母屋に対して端(ツマ)にあるという意味から出た言葉である。 男がここに通ってくることを「ツマドヒ」(妻問)といい、そういう「通い婚」が「妻問婚」である。 当時は「女系家長制」で、子供は特別の事情がない限り母親の家で育てられ、父親との関係は薄かった。 夫婦は別姓、基本的に同居はせず妻の家に夫が通い、従って男性は複数と婚姻関係を結び、妻の方も他の気に入った男性を家に入れる事もあった。 正式な婚姻が成立する前は、ほぼ<一妻多夫>状態だった。そう考えて自然である。 この時代、藤原不比等が長女の宮子を文武天皇に入内させ、その異母妹の安宿媛(光明皇后)を聖武天皇に入れて、藤原氏のお家芸の外戚摂関体制を育む動きが始まっている。 一族の娘を嫁がせて生んだ子を天皇に擁立し摂政・関白として補佐する形で政治の実権を握る藤原摂関体制は、 当初は、天武流の天皇親政に対抗してこれを打破する手立てとして培われ 後には、天智流の天皇を擁立しつつ藤原氏同士の競い合いで藤原北家が他氏排斥する手立てとして完成していった。 持統天皇の時代までは、女性天皇や皇后の力が強く発揮される「非単系」性が顕著であったのが、 藤原摂関体制になって、女性は血脈の継承に利用されるばかりで主体としての力が発揮されなくなっている。 そして、 天皇の周辺では、天皇の「父系」継承を前提に、藤原氏が自らの血脈の娘を天皇に嫁がせることで外戚として勢力をもった。 藤原氏が圧倒的多数を占めた貴族社会では、反対に「母系」家長制を前提に、娘の実家に婿が通ってくる「通い婚」で、結婚した娘は夫婦別姓で母方の家名で通した。 「母系」家長制の「妻問婚」で、藤原四家がそれぞれの血脈を「母系」において純血性を維持し希薄化を最小限に留めることと、 藤原四家が「娘」を天皇に入内させて産まれた男子を「父系」継承の天皇に擁立して外祖父として摂政関白となることを競い合うこととは、 藤原氏の血脈が皇統の血脈を飲み込み、その後は最強の一家が他家を皇統の血脈から排斥するシステムとして合理的に繋がっている。 皇統の血脈から排斥された他家は途絶える訳ではなく貴族社会の留まり、藤原氏が官職を占有する官僚体制の下部構造を固めていった。 一方、 天皇にならなかった皇子(これは藤原氏の血脈でもあるのだが)は、臣籍降下して官職につくのではなく武士化したり豪族に同化した。 これはヤマト王権の中央政界および辺境への安全保障上の必要に応えたと考えられる。 そして、 皇后にならなかった皇女(これも藤原氏の血脈でもあるのだが)は、内婚制をとり近親婚が多発した。 おそらく、藤原氏の血脈は「女系」で継承されるという戦略的および宗教的な観念があったのだと思う。 そしてその観念において、ざっくり言って、 血脈的には男性は使い捨て、女性は使い回しという考え方だったのではなかろうか。 藤原不比等が天智天皇の御落胤と言われる。 そうであれば、 結果的に天智天皇の血脈が皇統と世襲制の官僚体制に満ちたことになる。 実際に、天皇系譜は、天武流が途絶えて天智流が続くという転換を達成している。 このような天皇の周辺と貴族社会は、一つの<社会人的な心性>を共有し、またそれによってそれぞれの界隈の社会性が具体化された。 だが、 日本人の<社会人的な心性>はその特徴として、必ず合理性(低コンテクストな明示知)だけで成り立っている訳ではなく、 ベースとして信仰性や呪術性(高コンテクストな暗黙知と身体知)がまつわる人類普遍の<部族人的な心性>を温存している。 すでに、 貴族社会の「母系」家長制の「妻問婚」については、正式に婚姻が成立する前の<一妻多夫>的状況に人類普遍の<部族人的な心性>が顕在していることはすでに検討した。 以下、 天皇とその周辺で展開した藤原摂関体制については、外戚の台頭の日中比較から、日本の独自性として<部族人的な心性>をベースとして温存する形で形成された<社会人的な心性>を抽出していきたい。 一官制で皇帝において「権力と権威の一致」を体現した中国においては、 <社会人的な心性>は<部族人的な心性>を限界づける形で形成された。 これに対して、 二官制で天皇と摂関で「権力と権威の不一致」を体現した日本においては、 <社会人的な心性>は<部族人的な心性>をベースとして温存する形で形成された。 (部族社会の政治的権力者=族長と宗教的権威者=祈祷師の並立が延長されている。) このことは明快な事実であり、そこに焦点を当てて、以下検討していきたい。 古事記の神話が太安万侶による編纂が成って元明天皇に献上されたのは712年である。 一方、 藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺し、天武流の天皇による皇親政治が終わったのが728年である。 安宿媛(光明皇后)が人臣初の皇后に登って、藤原氏が地位の基礎を築いたのが729年である。 つまり、 同時代なのである。 今もそうだが歴史というものはそれが記録された時代の<社会人的な心性>と記録した主体の価値観や広報戦略意図が反映している。 古事記の神話は、神代の時代の話ではあるが、読む者に暗黙裡に与えようとする影響は古事記が編纂された時代を前提にしている。 よって、 古事記にこそ、藤原摂関体制に向かう時代の<社会人的な心性>がベースとした<部族人的な心性>が、暗黙知そして身体知として内蔵されている と考えて自然である。 たとえば古事記には、 オオクニヌシが主要産品の産地の首長の娘を娶って回って交易ネットワークを構築した、あるいは遍歴した先々で産業指導をした と読み取れる物語が多々ある。 生産拠点の首長が娘を結婚させて交易関係を維持発展させた際、妻となった娘は巫女のような「宗教的な威信財」となったのではないか、ということを以下、検討していきたい。 オオクニヌシの妻となった娘が夫のもとで暮らそうと、実家で暮らそうと、妻の父親の生産拠点の首長と夫オオクニヌシとの関係性は、オオクニヌシの妻である娘という「宗教的な威信財」によって維持され発展したと考えられる。 たとえば、オオクニヌシの最初の妻で因幡国の首長の娘であるヤガミヒメは、オオクニヌシが八十神の執拗な攻撃から逃れてスサノオのもとに行った際にはおいていかれたが、スセリビメとともに戻って「国造り」=交易ネットワークづくりが完成したころに、オオクニヌシの子供を身ごもったヤガミヒメが出雲国を訪ね、スセリビメの嫉妬を恐れて因幡国に帰ってしまう。男女の物語としてはスセリビメの悲話である。 しかし、スセリビメが実家でオオクニヌシの子供を産んで母子ともに安穏に暮らしたとすれば、けっして不幸ではない。(高志国のヌマカワヒメも実家暮らしのままだったが、オオクニヌシとの間に生まれた子供タケノミナカタは出雲で嫡長子につぐ男子として暮らしていた。)むしろそのことで、環日本海交易ネットワークのハブ拠点である出雲との因幡の交易関係は着実なものとなったと言えよう。 因幡国は、高志国の翡翠のような主要産品はなく、白兎海岸が海上交易の中継拠点になっていたと考えられる。 因幡の白兎譚に出て来る「淤岐ノ島」は白兎海岸の沖合の島だが、遠隔地交易拠点である「隠岐の島」を連想させる。オオクニヌシが出雲半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を構築する以前は、隠岐が遠隔地交易の拠点となっていて白兎海岸はそこへの中継地になっていたのだろう。因幡国には、法美郡・邑美郡・高草郡があったが、大宝律令前には三郡まとめて「水依(みより)評(こおり)」であった。この「水に依る」が海上交易の中継地を連想させる。「国譲り」で島根半島西部の環日本海交易のハブ拠点が解消したため、ヤマト王権下で隠岐ともども白兎海岸の重要性が復活したと考えられる。 ヤガミヒメは、ヤマト王権の勢力が及ぶ前から同国一帯に勢力を有した国造一族とされる。この族名は、オオクニヌシ=「出雲族」との関係性に由来している。ちなみに後にヤマト王権が下賜した族名は因幡国造である。 奈良時代初期に編纂された『播磨風土記』には、仁徳天皇の御世に因幡国造阿良佐賀売(あらさかひめ)を執政大臣(まえつぎみ)の服部弥蘇連(はとりのみそのむらじ)が娶ったという記述があり、国造一族の後裔はヤマト王権下でも出雲や大和と関係が深かったとされる。 日本書紀によると、飛鳥時代には地方豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった。天皇や皇后に近従し食事や身の回りの雑事をする女官を采女(うねめ)という。因幡国も三人の采女を輩出している。 ①伊福吉部徳足比売(いふくべとこたりひめ ~708) ②因幡八上采女(いなばのやかみのうねめ 一説では694~) ③因幡国造浄成女(いなばのくにのみやつこきよなりめ ~796) である。 ①は、因幡国豪族、伊福部氏の娘で、文武天皇に仕えた。藤原京で病没。 采女に貢進されたことから、伊福部氏が郡領を務めた氏族とされる。 伊福部氏は系図上、オオクニヌシの末裔とされる。 ただし系図上、ヤマトタケルの命によって因幡国討伐をした武牟口命を祖先神とし、 かつ武牟口命をオオナムチ=オオクニヌシより十四代の孫としている。 ヤマト王権の傀儡化した「出雲族」が出雲国造家となったと同様の展開が推測され、 「濊(わい)人」首長層が血脈を民族的につなぐべくその男子をヤガミヒメ後裔に 婿入りさせて国造家としたと考えられる。 ②は、禁をやぶって安貴王(あきおう)の妻となり不敬罪とされ因幡に送還された。 (どこかヤガミヒメと重なる。) 天智天皇の御落胤説のある不比等の四男、藤原四兄弟の末弟で藤原京家の祖である 藤原麻呂の長男・浜成を生んだ稲葉国造豆女と同一人物という説が有力。 ③は、山部親王、後の桓武天皇に仕えて寵愛を受け、地方豪族出身としては異例の昇進を 遂げた。 采女は、単なる官女ではなく、時に天皇の血脈を維持する役割も担っていたのは明らかだ。 伊賀国豪族の娘、伊賀宅子娘が天智天皇の長男・大友皇子を産んでいる。 古事記では、倭の五王の倭王武に比定される雄略天皇が一晩を共にした采女との間にできた春日大娘皇女が、後に仁賢天皇の皇后になっている。 「濊(わい)人」首長層がその男子をヤガミヒメ後裔の一族に婿入りさせて国造家としたとすれば、 その采女は、「濊(わい)人」首長層の血脈を民族的に継承する皇統に、地方豪族を取り込むべく拡散した「濊(わい)人」の血脈を還流させる仕掛けということになる。 天智天皇の采女との間に生まれたのがその長男・大友皇子で、後の弘文天皇(第39代 在位672年間)である。采女は皇子の妻となることを禁じられていて禁を破った因幡八上采女は郷里に送還されているが、天皇が許せば許されたようだ。 大友皇子は壬申の乱(672)で叔父大海人皇子(天武天皇)に破れて縊死していることから、天智天皇と伊賀国豪族の娘の采女との関係には、何らかの政治的背景があったと推察される。 大和そして出雲と関係の深かった因幡も、追って検討するように樹立当初のヤマト王権に反乱し平定されているのだが、出雲と同様に「濊(わい)人」首長層が血脈を民族的につなぐべく男子を現地勢力に婿入りさせて傀儡化した国となって、中央政界の権力闘争に参加する関係性にあったのではなかろうか。そして、天皇に貢進された豪族の娘である采女が政略的な婚姻を担ったと考えられる。 また、 天皇の食事や身の回りの世話をするという采女は、 伊勢神宮の巫女としてアマテラスに奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)である斎宮に、重なる。 壬申の乱に勝利した天武天皇がお礼に伊勢へ仕わせた自分の娘・大来皇女(おおくのひめみこ)が最初の斎宮と言われている。 上位者に従属を誓う下位者がその娘を貢進するということは、一般的には人質を供出することともなり従属の証という意味合いがあり、時に政略的な婚姻を狙うという目論みがある<社会人的な心性>であり、古今東西に見られる。 しかしこと日本においては、そのベースとして、食事や身の回りの世話をする役目を娘にさせること自体に従属関係を維持する呪的効果を期待する<部族人的な心性>があると捉えることができる。 斎宮は巫女であり食事の世話が祭祀でありストレートに呪術性が前面に出ているのに対して、 采女は天皇や皇子の食事の世話という日常的作業が前面に出てはいるが、時に寵愛を受けて子供を授かることが前提されていることには、やはりある種の呪術性がベースにある。 それは、「男の血脈が伝えること」とは異なる「女の血脈が伝えること」があるという信仰の上に成立している。 ヤマト王権樹立当初は、「濊(わい)人」首長層が血脈を民族的につなぐべく男子たちを出雲系や大和系に婿入りさせて、家系的に出雲系や大和系の天皇を立てる形で「首長層による首長交替制」を踏襲した。 しかしやがて天皇を輩出する家系が限定され、皇統の観念が血脈を家系的につなぐことになった。 するとそれだけでは血脈の希薄化が進むから、長嫡子の皇女・皇孫女子の内婚制と近親婚を進めてこれを回避するが限界がある。 そこで工夫されたのが、因幡国のようなヤマト王権草創期に傀儡化すべく「濊(わい)人」首長層が血脈を民族的につなぐべく男子を婿入りさせた豪族の首長の娘に采女として天皇や皇子の世話をさせることだったと考えられる。 (因幡国はヤマトタケルの命を受けた武牟口命に討伐され、その武牟口命を祖先神とする伊福吉部氏が治める豪族となっている。) 采女が皇子の妻になることは禁じられていて、禁を破った因幡八上采女は強制送還されているのだが、天皇が許した婚姻は認められた。 采女の父である豪族が外戚化することは避けたが、そもそも「濊(わい)人」の民族的な血脈を外部から補充することは歓迎された。 それが大前提で、どのような皇子にどのような豪族の采女がどのような関係性になるかについて、周辺の政治状況を勘案して政治的に判断されたということだろう。 ここで、 皇統の家系的なつまりは明示的な血脈が「男の血脈が伝えること」である のに対して、 「濊(わい)人」首長層の民族的なつまりは暗示的な血脈が「女の血脈が伝えること」である そして、 後者をを良しとし暗黙の了解とするお約束が信仰性なり呪術性に昇華された と考えられる。 古事記には、「濊(わい)人」も出て来なければそれが降伏させた「邪馬台国」も「卑弥呼」も出てこない。 つまりヤマト王権が征服王朝として樹立した経緯は、あくまで天孫降臨→日向三代→神武東征という物を裏読みするしかない。しかし、古事記編纂当時の天皇とその周辺の人々は、口伝手に共有した暗黙の了解事項を踏まえてその裏読みができたのだと思う。 だから、 このような古事記の最大のメッセージは、 「実際に起ったこと」を問うてはならない 古事記が物語ることへの疑いを口に出してはいけない という不文律なのである。 そして古来、今日まで、日本人はこの不文律を守ることをもって自らが日本民族の一員である証としてきている嫌いがある。 皇統の家系的なつまりは明示的な血脈が「男の血脈が伝えること」であり、公明正大に語ることが許される一方で、 「濊(わい)人」首長層の民族的なつまりは暗示的な血脈が「女の血脈が伝えること」であり、これは公的に語ってはいけないために、暗黙の了解として公的な信仰性なり呪術性として尊重されてきている。 これは、 「状況に非依存的な低コンテクストで明示的な制度の共有」ではなくて 「状況に依存的な高コンテクストで暗示的な空気の共有」である ということは論を俟たない。 私たちは古事記の姫君譚を読むと男女関係の物語として読んで終わりだが、 古事記が編纂された時代に生きた、古事記を読む対象とされた天皇とその周辺の人々は、 たとえばヤガミヒメから②因幡八上采女(いなばのやかみのうねめ 一説では694~)を連想した上で 皇統の血脈に関わる、行間に漂う言外の暗黙知や身体知を読み取ったと考えられる。 古事記には、「濊(わい)人」はおろか「邪馬台国」も「卑弥呼」も出て来ない。だが、天皇周辺の人々には漢文で書かれた中国の正史が読めた者がいた筈で、古事記には記されていない「実際に起ったこと」の核心を理解した。その内容は口伝手に多くの人々の暗黙の了解になっていたと考えて自然である。 なぜなら読者は歴史ファンではなく、目前の複雑怪奇な人間関係を生き抜こうとする宮人である。関心事は、「濊(わい)人」による征服王朝樹立といった過去の「実際に起ったこと」ではない。いかにすれば自分や自分の子孫がサバイバルしていけるかである。 そして、暗黙の了解を土台にすれば、古事記の行間に漂う言外の皇統の血脈に関わる暗黙知や身体知は十分に読み取れた。 それは、この国では皇統とはこういうものだというお約束であり、それを踏まえることで渡来人主要氏族も皇統と関連づけられた祖神によって正当化されるものである。 さらにお約束の核心は単純明快だ。 問うてはならないことをお互いに問わない 疑ってはならないことを誰も疑わない ということである。 以来、 この国には「このお約束をみんなで守ることで成立する空気」が、朝廷や宮廷そして主要神社といった様々な場とそこで様々な営みをする人々に充満していった。 古事記によると、 翡翠の産地の高志国の首長は、娘ヌマカワヒメをオオクニヌシの妻にしているが、実家で暮らさせている。 つまり、オオクニヌシが妻の実家に通う「通い婚」だった。 そして首長の孫タケノミナカタは少なくとも成人してからは出雲でオオクニヌシの次男として暮らしていた。 注目されるのは、ヤマト王権の「国譲り」の要請にオオクニヌシとコトシロヌシはあっさり応じたのに対して、タケノミナカタは抵抗して諏訪に撃退されたことである。つまり、タケノミナカタがオオクニヌシの意向ではなく、高志国を安堵しようとした外祖父の首長の意向に従ったことはすでに検討した。 この関係性が藤原摂関体制に一脈通じるように感じる。 また、 スサノオは、八岐大蛇退治の後、クシナダヒメを娶り宮を立てて暮らしそこにクシナダヒメの両親を住まわせる。スサノオは最終的にそこを去るがその際、宮(祭政拠点)を両親に委ねている。つまり、スサノオと妻の親との関係性は、クシナダヒメが「巫女のような宗教的な威信財」となったことで永続的なものとなっていると言える。 クシナダヒメの名の由来は、日本書紀の記述「奇し稲田(くしいなだ)姫」から霊妙な稲田の女神とする説、「クシになったヒメ」の言葉遊びとする説、櫛を挿した巫女で八岐大蛇=川の神に仕えたとする説などがある。さらに、両親のアシナヅチ、テナヅチの名には「手足を撫でる」意味があり、両親に「撫でるように大事に育てられた姫」との解釈もあり、それは大和撫子(やまとなでしこ)の語源とされる。 櫛には手足がないこと、櫛に変えたクシナダヒメをスサノオが携帯したらしいことから、櫛は娘が両親から離れる婚姻を象徴するという解釈がある。しかし結果的には、クシナダヒメはスサノオが去った宮で両親と暮らし続ける。 私は、スサノオは①高天の原から降下した「移動民」→②クシナダヒメと一時的に暮らした「転住民」→③最終的に根堅洲国の主となった「定住民」と変化していて、②の「転住民」としてのスサノオの婚姻を象徴していて、八岐大蛇退治後、人間に戻って宮で暮らし続けたクシナダヒメは定住民であって両親と暮らすべく留まらされたと捉えている。 いずれにせよ古事記において、クシナダヒメが「巫女のような宗教的な威信財」になりうる存在で、それを両親が嫁がせる娘というもの一般に普遍化している、と解釈できる。 そして、クシナダヒメは八岐大蛇に生け贄にされる8人の娘(八稚女)娘の最後の一人だった。娘がたくさん供出されていたということは、一族の娘を天皇に嫁がせる藤原摂関家を連想させる、娘が宮で両親と暮らし続けたことは「母系家長制」を連想させる。これは、そうした後世の貴族社会や天皇の周辺の<社会人的な心性>が形成されるベースとなったプリミティブな<部族人的な心性>でクシナダヒメ譚が物語られている、と捉えることができる。 ちなみにクシナダヒメの両親、アシナヅチ、テナヅチは、オオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいたとされる。オオヤマツミは「弥生人(天孫族)に協力して混淆した縄文人の山の民」を象徴していることから、縄文人の家族において「母系」が強く、嫁がせる娘が「宗教的な威信財」となり集落の家族同士の関係性に「母系」を強く反映させた<部族人的な心性>が暗黙裡に物語られている、と捉えることができる。 ここで、古志国について検討しておきたい。 『出雲風土記』は古志国は、『古事記』は高志国、『日本書紀』は越国と書かれている。 まず、『出雲風土記』の神門郡の条の記述に、神門水海の南に「古志郷」があり、その地名の由来は、古志の国の人たちがきて堤を造ってそのまま住み着いたとある。 これはヌマカワヒメがいた古志国の土木民が来たということである。呉(~紀元前473)の遺臣である「安曇氏」が、後漢の帯方郡(204〜313)の全権を担って北部九州に「くに」を建てて政商化するはるか昔、五島列島で海上交易民であった時代に、呉を滅ぼした越(~紀元前334)の遺民を北陸地方に植民した際、農耕民とともに動員した土木民の後裔なのだと思う。彼らは稲作のための水利工事からはじめて交易のための河川や港湾の整備をするようになり、日本の風土にあった土木技術を蓄積していたと考えられる。 私は、神門水海の北部、出雲大社の入り口の丘陵から見下ろせる辺りが水上見本市会場(レンタル船が展示や交渉のブースとなった)と考えている。そこに流れている川を遡れば四隅突出型墳丘墓群をステージとする言わば万博会場に通じたと考えている。こうした交易インフラづくりの土木工事を「堤を造ってそのまま住み着いた」と『出雲風土記』にある古志の国の人たちが手がけたと考える。 (「出雲大社への旅の道すがらの雑考(7:結論 その5 仮説総括/前半)」 オオクニヌシが交易ビッグマンとして治めた出雲と、越の遺民の農耕民や土木民が入植した古志とは、同じ中国系渡来人同士で密接な交易関係をもったと考えて自然である。 では、「国譲り」の後、古志国はどうなったのだろう。 ヌマカワヒメはオオクニヌシとの子を生みながら実家に留まり、子のタケノミナカタは、オオクニヌシの次男として「国譲り」で登場する。 オオクニヌシと長男コトシロヌシがアマテラスが送り込む使者を抱き込んでいたがタケノミカヅチが送り込まれて「国譲り」を迫る。 するとオオクニヌシとコトシロヌシはあっさり要求に応じるが、タケノミナカタが対抗して撃退され諏訪に逃げ、一生そこから出ないことを条件に許される。 オオクニヌシとコトシロヌシは遠隔地交易を手がけてきた新拠点開拓型の転住民だったのに対して、 タケノミナカタは翡翠産地の定住民で、古志の生産拠点の首長の後継者として本領を安堵しようとしたのではないかと考える。 タケノミナカタが諏訪に逃げてそこに留まらされたということは、翡翠産地を含む古志国はヤマト王権に従う豪族によって治められたということである。 『古事記』には、出雲が高志に攻め入り高志は出雲に国を明け渡したとされ、後にヤマト王権が大彦命(欠史八代の一人第8代・孝元天皇の子)を派遣して高志を出雲から奪い取ったとある。 私は、神武天皇が「邪馬台国」を降伏させた大和地方でヤマト王権を樹立して後、「邪馬台国」を連合政府とした「吉備津国」をはじめとする「くに」ぐにのテュルク族を先兵として「出雲族」を圧迫したのが「国譲り」だった、と捉えている。 『古事記』は、オオクニヌシの環日本海交易ネットワークのハブ拠点の構築とその後背経済圏として主要産品の生産地をネットワークしたり産業振興したことを「国造り」と称し、その交易拠点と交易ネットワークの解消を「国譲り」と称して、あたかもヤマト王権が「国造り」を継承したかのように物語っている。 『古事記』が、出雲が高志に攻め入り高志は出雲に国を明け渡したと物語るのも、ヤマト王権と同じ征服を、出雲もやっていて、その出雲をさらに征服したヤマト王権は最強であるという印象操作だと思う。 「実際に起ったこと」は、出雲と高志が平和裏にむしろ同盟的な交易関係をもったということだったのだと思う。 阿彦という豪族が「高志の王」を名乗っていたという。 阿彦は、富山湾を勢力下においた布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま)」の子孫である「布勢比古」の子供か子孫と伝えられる。 ヤマト王権は大彦命によって越国を平定し、手刀摺彦(たちずりひこ)に統治を任せた。そこで他の豪族は重用されたが阿彦は重用されず、激怒して抵抗する。 阿彦の一族は、以前から中国の事情に精通し、中国の先進的な文物や専制君主制も取り入れていた。 阿彦は、ツングーズ人である鄭鶴(ていかく)と徐章を重用したという。阿彦は一般の婦女子にも民衆にも親切で厳正な政治を行ったので民心をつかみその勢力は休息に拡大した。どこかオオクニヌシの人となりに重なり、オオクニヌシという交易ビッグマンを盟主とする環日本海交易ネットワークに参加する交易ビッグマンの一人だったと考えて自然である。 阿彦は手刀摺彦に反乱しこれを攻めて苦戦をしいるも、ヤマト王権から阿彦征伐命を受けた大若子命(おおわくごのみこと 伝承上、阿彦平定により伊勢神宮の初代大神主となったとされる南伊勢の豪族、神国造)に平定されてしまう。 我孫子、吾孫子、阿孫子、亜孫子、安彦、阿比古、吾彦、我子などは「阿彦」の当て字と言われる。阿彦の一族はもともとオオクニヌシと同様に日本列島内外の自由交易をしてきた交易民で、古志を平定されて離散してもなお同じ発音の地名同士でネットワークして交易をしたのではないか。ちょうど北九州の拠点を失った「安曇氏」が同じ発音の地名で全国に分布したようにである。 阿彦が、オオクニヌシのようにヤマト王権に譲歩しなかったのは、オオクニヌシが交易拠点と交易ネットワークを事業リソースとして遠隔地交易に邁進したのに対して、阿彦は中国流の本格的な「国造り」を賛同する豪族も臣下とする形で進めて、「高志の王」を名乗っていたからである。 他の豪族は重用されたが阿彦は重用されず激怒した、とは、おそらく自分の臣下が重用されて、王たる自分が重用されなかったためだろう。 出雲は日本列島内外の交易ビッグマンたちの同盟の盟主となるオオクニヌシのようなメタ交易ビッグマンが「首長層による首長交代制」で継承された。 一方、阿彦の「高志の王国」は同時代の中国の専制君主制をとったのだから「王の世襲制」で継承されるものだった筈だ。 オオクニヌシやコトシロヌシは交易拠点と交易ネットワークの解消をヤマト王権に求められあっさり応じた。応じてもまた新たなビジネスチャンスをとらえる交易拠点と交易ネットワークを構築すればいい。 しかし、阿彦は中国や朝鮮で先行した「領域国家」を樹立しその王として世襲制をとっていて、同様のヤマト王権とは互いに雌雄を決するしかなかった。 文明後進の少数民族で、日本列島における「くに」経営ノウハウのある先行渡来人勢力を取り込むことでヤマト王権を運営しようとした「濊(わい)人」からすれば、「出雲族」とは異なり「国造り」をして、しかも「テュルク族」にはない先進的な「くに」経営ノウハウをもった「阿彦の一族」が反乱せずに傀儡化してくれた方が良かったようにも思える。 しかし、「濊(わい)人」は、「くに」経営ノウハウの先進性を逆に危惧して、王とツングース人のブレインを排除したのだろう。 阿彦が重用されないことを不服として反乱した以上、平定されるしかなかったが、もし「出雲族」のように現地傀儡化を受け入れていれば、阿彦はコトシロヌシのように大和において皇統の血脈に絡む可能性もあったのではなかろうか。 (日本書紀で、コトシロヌシは神武天皇の岳父とされる。 オオクニヌシの子とされるが、元々出雲ではなく大和の神とされ「国譲り」譚の中で出雲の神とされるようになったとされる。しかしそれは、「濊(わい)人」が血脈をつなぐ形で家系的には文明先進性を誇る「出雲族」の天皇を立てた経緯を、コトシロヌシが元々大和の神だったという話によって糊塗したものと考える。) ヤマト王権の樹立当初、「濊(わい)人」は首長層の男子たちを「出雲族」や「テュルク族」に婿入りさせて民族的に血脈をつなぎつつ家系的にそれらの天皇として立てることで傀儡化し、またそのような形に変容して「首長層による首長交替制」の伝統を守った。 それに与することは、専制君主制で世襲制をしく阿彦としては受け入れられなかったに違いない。 その点、交易ビッグマンたちの同盟の盟主としてメタ交易ビッグマンを「首長層による首長交替制」で選任する「出雲族」と、日本列島上陸して兄弟が長兄から順に「くに」を建てていった「くに」ぐにが同盟政府としての「邪馬台国」の王を「首長層による首長交替制」で選任する「テュルク族」は、「濊(わい)人」の天皇の立て方に形を変えた「首長層による首長交替制」の継承形式に馴染んだ。極端な話、首長層の中に一人でも傀儡化に応じる一族が一つでもいれば、出雲国造家のような現地傀儡豪族は成立したのである。 ②平安時代の皇族・貴族・豪族の「藤原摂関体制」を媒介した婚姻関係 両者は、以上のような概念ポートフォリオに整理できる。 古事記の編纂がなったのが時期(712年)と、 乙巳の変(大化の改新)の勲功者である藤原鎌足の子藤原不比等は長女の宮子(~754)を文武天皇に入内させ、その異母妹の安宿媛(701~光明皇后~760)を聖武天皇に入れて、藤原意のお家芸となる外戚摂関体制を育む動きが始まった時期と重なる。 ①の<部族人的な心性>がベースとして温存されて ②の<社会人的な心性>が形成されている ことは間違いない。 つまり、 ①の概念構造が②の概念構造に転写されているのである。 藤原氏およびそれが多数を占めた平安貴族が、「女系」による血脈の継承したのは、 それにより「男系」継承の天皇の取り込んでいくためで、それが「藤原摂関体制」になった。 しかし、そうした合理的な目的と手段の設定は時代状況と政治環境に応じた<社会人的な心性>が導いたものである。 日本人の<社会人的な心性>は必ず<部族人的な心性>をベースとしていて、そのダイナミズムを温存している。 この時代、それは、 「女系」の血脈が維持継承するものとして 「男系」の血脈では維持継承できない「宗教的な威信性」が前提されていた ということではないか。 古来、今日まで、日本人の全体としては「非単系」の継承形式が展開してきた。 それは、基本的に、 「男の血脈が伝えるもの」と「女の血脈が伝えるもの」を等価にとらえてきた ということである。 等価とは、同じということではない。 むしろ異なる働きと両者によるダイナミズムが想定されてきたということだと思う。 部族社会には、女性を子を産む性、大地の恵みを調理し保存するという呪術をする性と捉えて女性を神秘視する<部族的な心性>があった。 日本人は、<部族的な心性>をベースとして温存する形で<社会人的な心性>を形成してきたから、 「女の血脈が伝えるもの」を温存した。 結果、部族社会同様の「権力と権威の不一致」である 「政治的権力者の族長」と「宗教的権威者の祈祷師」の併存をもたらした。 その構造とダイナミズムが温存されて、日本の律令体制が太政官と神祇官の二官制となっている。 一方、中国は<部族人的な心性>を限界づけて<社会人的な心性>を形成してきた。 皇帝=天子が「政治的権力者」であると同時に「宗教的権威者」でもあるとする「権力と権威の一致」、一官制である。 これは、「男の血脈が伝えるもの」にすべてを収斂させたということである。 こうして、 中国王朝は宗族制の「男系の直系」という継承形式をとるのに対して、 日本王朝は中国から律令体制を導入するも二官制とし、 古事記が編纂された時代から支配層全体のダイナミズムとして 天皇(皇室)の継承形式は「男系」=父系家長制 貴族の継承形式は「女系」=母系家長制 両者を藤原摂関体制が媒介して合わせ技する「非単系」 となっていった。 ここで、 貴族とは、中央政界で勢力をもった豪族が、中国流の朝廷で官僚化したものである。 豪族とは、朝廷に官職をもたずに畿内あるいは地方の領地を治めるものである。 豪族は、「男系」=父系家長制だが、一族や同族結合の全体としては「首長層の首長交替制」をとった。 このことは、桓武平氏、清和源氏など臣籍降下して武士化した勢力の展開をみれば分かりやすい。 おそらくこのような支配層全体の展開に至った経過としては、 「男系の直系」×「権力と権威の一致」の中国王朝 と 「非単系」×「権力と権威の不一致」に日本王朝 との 中間項として、 「男系の直系+傍系」×「権力と権威の一致」ながらも「権力と権威の不一致」の名残あり で「首長層による首長交替制」の「濊(わい)人」や「テュルク族」が介在し かつ 「濊(わい)人」の首長層が姻戚関係を結んだ「縄文人の山の民」「縄文人の海の民」の首長層の 族長 =「政治的な権力者」は男系 祈祷師=「宗教的な権威者」は女系(巫女)という 「男系の直系+傍系」×「権力と権威の一致」 が反映された と総括できる。 このように捉えると、 七世紀後半から八世紀初頭にかけて編纂された古事記の内容と 八世紀初頭からの藤原氏の摂関体制に向かう外戚化の動きや貴族社会の「母系」家長制とが 「実際に起ったこと」としての歴史的な連続性をもって捉えることができる。 「男の血脈が伝えるもの」 ◯政治的権力 ◯制度としての文明 ◯明示知の体系 「女の血脈が伝えるもの」 ◯宗教的権威 ◯呪術としての文化 ◯暗黙知と身体知の体系 以上のように整理できる。 「大王(おおきみ)」は、 「男の血脈が伝えるもの」が「女の血脈が伝えるもの」を統べる媒介 「権力と権威の一致」ながらも「権力と権威の不一致」の名残を残す男王 であった。 だから、 大海人皇子はアマテラスという女神に助けられることでまず「大王」になっている。 天武・持統の両天皇によって日本と日本人の概念が成立し、 二官制の独自の律令体制において「天皇」の概念も成立した。 「天皇(すめらみこと)」は、 「男の血脈が伝えるもの」と「女の血脈が伝えるもの」が相補い合う媒介 「権力と権威の不一致」の統合者 であったのではなかろうか。 そうした有り方は古来からプリミティブな祭政一致の行動としてあった。 「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府である「邪馬台国」の王に共立され、鬼道を行ったとされる卑弥呼 子供を宿したまま三韓征伐を指揮し応神天皇を皇太子に立てて摂政として長く政治をした神功皇后 などである。 天武天皇の遺志をついで藤原京を建設し遷都し、伊勢神宮の式年造替に必要な主要産品の生産地を行幸して環伊勢湾経済圏を形成した持統天皇も、まさしく 「男の血脈が伝えるもの」と「女の血脈が伝えるもの」が相補い合う媒介 「権力と権威の不一致」の統合者 であった。 天武流の天皇による天皇親政が行われた聖武天皇が節目になっている。 それまでは、主体性をもってイニシアティブを発揮する女性天皇や皇后が存在した。 不比等の子、藤原四兄弟による長屋王の変(729年)で天皇親政が排除されて藤原摂関体制に向かって行く。 摂政関白が政治的権力を掌握し、天皇はもっぱら宗教的権威だけを担う者となっていく。 天皇は「権力と権威の不一致」の統合者ではなくなり、 「権力と権威の不一致」は、権力を担う摂関家と権威を担う天皇家という支配層全体の構造になった。 そして、 このような支配層の全体構造を、「血脈」のダイナミズムとして捉えると、 「藤原摂関体制」が、 皇統による「男の血脈」の継承と 貴族による「女の血脈」の継承とを 連鎖させるエンジンとなっている と言える。
by cds190
| 2018-03-28 22:36
| ☆発想を促進する集団志向論
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