内田樹著「日本辺境論 Ⅰ 日本人は辺境人である」を読む(2) |
「可能認知範囲」あるいは「可能解釈範囲」、そして「執拗低音」について
著者は、司馬遼太郎氏の「いまでも自分の可視範囲は、西はパミール高原か安南山脈までで、そこを西へ越えるとダメだと思っています」という言葉を引用してこう述べる。
「『可視範囲』という言葉が印象的です。その範囲なら、どんな対象にも焦点を合わせることができる。アジア人が思考したこと、感じたことについては(数千里の彼方の、数千年前の世界の出来事であっても)、想像力を駆使すれば実感として追体験できる。司馬さんはそう感じていたわけです。(中略)
こういうおおらかな感慨は『大きな物語』を書くことを召命としていた人にしか口にしえないものでしょう」
◯欧米人特にアメリカ人ならでは発想思考の特徴は
「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」
中国人ならではの発想思考の特徴は
「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」
日本人ならではの発想思考の特徴は、
和漢洋、ひらがな・漢字・カタカナ英語を混在させる戦後日本語で
前2者を調和的に統合する
「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」
という鼎立論
これは戦後日本人が、和漢洋、ひらがな・漢字・カタカナ英語を混在させる戦後日本語で
アメリカ人のたとえばマーケティング戦略論など「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」を正確に理解できる、
中国人のたとえば論語など「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」を正確に理解できる、
さらに両者を日本人の感受性と日本の諸事情に合わせて「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」によって勝手に解釈したり発展形に展開することができる、
ということを意味する。
つまり中国の文化文明のすべてではなく、またアメリカの文化文明のすべてではなく、理解を必要とする特徴的なところに限って司馬氏の言った「可視範囲」、つまりは「可能認知範囲」あるいは「可能解釈範囲」としている。
そしてそんなことが、司馬氏のような異才ではなくても一般的な知的向上心のある日本人が、戦後日本語で無自覚的にできていていることは、実質的に暗黙裏に一つの「大きな物語」を共有していることと同じで、共有する一つの「大きな物語」を前提に誰もが思考したり対話してきた、ということを意味する。
私は以上のことが、戦後日本人の発想思考の全体、つまりは戦後日本文化を特徴づけていて、日本型経営の知識創造原理「ミドル・アップダウン・マネジメント」にも反映していたと考えている。
詳述は避けるが、以上において、
エキスパート(知識の適用者・開拓者としてのロアー)が
「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」、
セマンティック・カタリスト(意味の触媒者としてのトップ)が
「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」、
ナレッジ・エンジニア(知識の触発者としてのミドル)が
「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」
に対応している。
(以上のような私なりの「大きな物語」から世相を見ると、企業社会においてアメリカ型グローバリズムへの盲従によって日本型経営が全否定されたことと、学校社会でTOEICや漢字検定が人気沸騰したこととは無関係ではなく、総じて日本人に特徴的な「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」とそれを感性豊かに文脈展開する「和語=ひらがな」の軽視が懸念される。)
著者は、
「私は別に『大きな物語』がよくて、専門研究がダメだと言っているのではありません。そうではなくて、トープさん(筆者注:ローレンス・トープ。遠からず中国、南北朝鮮、台湾、日本を統合した儒教圏ができると予言)や司馬さんと同じような『大きな物語』を書くタイプの知識人が近年あまりに少数になってしまったことをいささか心寂しく思っているのです」
と述べている。
私も、「大きな物語」というパラダイム仮説を立てないと見えてこない構造というものがあり、そうした物事の俯瞰の仕方が大切だと思う。
将来に向けていまここで役立つ、そういう意味で優れた日本論とか日本人論というのも「大きな物語」に属していて、著者は先達の「大きな物語」を語った功績を尊重しつつ、現在の知識人の「大きな物語」の軽視を問題視する。
「問題は、先賢が肺腑から絞り出すようにして語った言葉を私たちが十分に内面化することなく、伝統として受け継ぐこともなく、ほとんど忘れ去ってしまって今日に至っているということです」
確かに個別具体的な伝統文化を継承するとか鑑賞するということは盛んに行われている。
しかし、物事の発想思考のパターンとか、それを未来志向でいかにグローカルに展開するかなどについては、内面化どころか意見表明さえ乏しい。(この点に関しては、企業の海外現地法人が展開する実践的な試みの方が具体的かつ有意義な成果を蓄積していっている。)
「先人たちが、その骨身を削って、深く厚みのある、手触りのたしかな日本論を構築してきたのに、私たちはそれを有効利用しないまま、アーカイブの埃の中に放置して、ときどき思い出したように、そのつど、『日本とは・・・』という論を蒸し返している」
著者にとって、本書はこの蒸し返し状態に一つの決着をつけようとするものだった。
著者の「辺境文化論」は梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」を下敷きにしている。
「はじめから自分自身を中心としてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境民族のひとつとしてスタートした民族とのちがい」
に焦点を当てている。
そして、
「『ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところは、なんとなくおとっているという意識』に取り憑かれていた(中略)。
半世紀経っても、梅棹の指摘した状態は少しも変わっていません」
と指摘して「日本人辺境論」を開始している。
この「半世紀」は、戦後日本人が戦後日本語を使って思考し対話してきた時期と重なる。
そして以上の梅棹氏の論旨は、ちょうど私が
「アメリカ人のたとえばマーケティング戦略論など「因果律にのっとった<知>起点の発想思考」を正確に理解できる、
中国人のたとえば論語など「共時性にのっとった<意>起点の発想思考」を正確に理解できる、
さらに両者を日本人の感受性と日本の諸事情に合わせて「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」によって勝手に解釈したり発展形に展開することができる」
と前述した内容と重なるのは偶然ではない。
ただ著者の場合「日本辺境論」で、この<情>の根底に外来文化に依存することへの劣等コンプレックスがあると指摘している。
それは正しいが、コンプレックスはネガティブな現象を逐一、劣等と思う自らの何かとを結合する心的傾向であり、病的な結合をやめさえすれば解消されることは憶えておきたい。
また、劣等コンプレックスを優等コンプレックスに転換することが病的な結合の解消ではない、ということも忘れてはならない。
「日本文化というのはどこかに原点や粗型があるわけではなく、『日本文化とは何か』というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません。(中略)すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。
数列性と言ってもいい。項そのものには意味がなくて、項と項の関係に意味がある。制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文物が別のより新しいものに取って代わられるときの変化の仕方に意味がある」
私は、それを如実に表しているのが言葉遣いだと考える。
前掲の鼎立論も、戦後日本語の和漢洋=ひらがな漢字カタカナを混在させる言葉遣いに着目したものである。
「より正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある」
として著者は丸山眞男氏を引用する。
「日本の多少とも体系的な思想や教義は内容的に言うと古来から外来思想である、けれども、それが日本に入ってくると一定の変容を受ける。それもかなり大幅な『修正』が行われる」
ここで述べられている「体系的な」とは、
執拗低音は決して『主旋律』にはなりません。低音部で反復されるだけです。
『主旋律は圧倒的に大陸から来た、また明治以後はヨーロッパから来た外来思想です。けれどもそれがそのままひびかないで、低音部に執拗に繰り返される一定の音型によってモディファイされ、それとまざり合って響く。そしてその低音音型はオスティナート(筆者注=執拗低音)といわれるように執拗に繰り返し登場する』」
ここで言う主旋律が「漢語=漢字」と「英語=カタカナ」であり、執拗低音が「和語=ひらがな」に相当する。
「和語=ひらがな」が日本語文法の骨格を形成して、「縁起にのっとった<情>起点の発想思考」に認知表現を意識的にも無意識的にも集中させる装置として日本語を成立させている。そして、日本語に特徴的な「情緒性をともなう身体感覚」「身体感覚をともなう情緒性」を表現する擬態語や身体語を、主要な文脈として快活に息づかせている。(「モノの感覚」と「コトの感覚」を共感覚的につなぐ認知表現は、こうした擬態語や身体語を使った発想思考によるところが大きい。)
「日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけれど、変化する仕方は変化しないということなのです。
『まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、と言いたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変るけれども、にもかかわらず一貫した云々-----というのではなくて、逆にある種の思考・発想のパターンがあるゆえにめまぐるしく変わる、ということです。
あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な『正統』の条件を充たさないからこそ、『異端好み』の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう」
「漢語=漢字」と「英語=カタカナ」が担う主旋律はころころ変るが、文脈をある方向で活性化する「和語=ひらがな」が担う執拗低音は変わらない。
執拗低音さえ変わらなければ、「異端好み」の主旋律を不断に奏でることができる、とも読み解くことができる。
(日本語とポリネシア語だけが母音主義、母音を有意味音とする言語であるという事実がある。
参照:「私たちが無自覚でいる『日本型』の構造 その12=日本語の母音主義がもたらす特徴的な発想思考 part1 」)
「和をもって貴しとなす」日本人の性向の好悪得失について
周知のように「和をもって貴しとなす」は聖徳太子が定めた十七条憲法の第一条にある言葉だ。
この「和」とは、みんな仲良く、ということではない。
「和を大切にする」とは、因と縁との出会い、つまり因縁の法を厳粛に受けとることで、日本仏教の祖といわれる聖徳太子がこの因縁法をふまえたとされる。
つまり、縁起にのっとっている。
著者は、川島武宜氏の「日本人の法意識」からこう引用する。
それを読むと聖徳太子の昔から日本人の意識はあまり変っていないと分かる。
「日本社会の基本原理・基本精神は、『理性から出発し、互に独立した平等な個人』のそれではなく、『全体の中に和を以て存在し、・・・一体を保つ(全体のために個人の独立・自由を没却する)ところの大和』であり、それは『渾然たる一如一体の和』だ、というのである。
言いかえれば、『和の精神』ないし原理で成り立っている社会集団の構成員たる個人は、相互のあいだに区別が明らかでなく、ぼんやり漠然と一体をなしてとけあっている、というのであり、まさにこれは、私がこれまで説明してきた社会関係の不確定性・非固定性の意識にほかならないのであって、わが伝統の社会意識ないし法意識の正確な理解であり表現である、ということができる」
アニミズムの特徴に、<自他の未分化性>、<人間と自然との未分化性>、<人工と自然との未分化性>がある。
これは部族人の心性そのものであり、部族社会の掟の根底となるパラダイムであった。
そして、
私は<部族人的心性>と<社会人的心性>をというものを以下のように捉え、
「主義主張、利害の異なる他者と遭遇したとき日本人はとりあえず、『渾然たる一如一体』の、アオモルファス(筆者注:結晶構造を持たない物質の状態)な、どろどろしたアマルガム(筆者注:非晶質の合金)をつくろうとします。そこに圭角(筆者注:言語・行動が角だって円満でないこと)のあるもの、尖ったものを収めてしまおうとする。この傾向は個人間の利害の対立を調停するときに顕著に現われます」
私が遭遇してびっくりしたのは、あるメーカーの経営危機に際して、それを脱するための労使の議論が口角泡を飛ばして行われると思いきや、まったくそんな場面がなかったことだ。
社員たちは明らかに、組織に対して主張する個人となることを自己規制していた。
つまり「和」の原理は、調停者が示す意識構造である以前に、一般人がふつうに持っている意識構造であり、だからこそ一般人も調停を受け入れるし、さらには調停者が介在しなくても受動的に成り行きを受け止める自己規制が働くのである。
「部族人的心性」は、歌い言葉的であり、暗黙知重視で、受動的な身体反応から展開する「情動→感情」回路で無意識起点で形成される。
たとえば、調停者が「まあ、まあ、まあ、そんなカリカリせずにぃ〜」と係争者をなだめる際の典型的な認知表現パターンである。
そして、そのやり方は「社会人的心性」を動員した時のようにロジカルではまったくなく、「思考」回路に直接に影響しないが、だからといって無益とは限らない。
「まあ、今回は私の顔を立ててくれ」と権威ある調停者が言えばおさまる事態というものは、日本に限らず、古今東西の部族社会的な人間関係において確かにある。日本の場合、一般社会でも往々にしてあることと、調停者の権威が本人個人に帰属する属人的な権威というよりも共同体の権威を代替していることを特徴とする。
本来のムラ社会には運命共同体としての共生原理が働いていた。
人を活かす知恵を発揮しない経営と、経営の顔色を伺うだけの御用組合には共生原理を期待できない。大方の経営や組合は、ワークシェアリングや全社員給料カットをして社員全員の雇用を守ろうという共同責任の考え方をとらないからである。共同責任を前提しない共生があるだろうか。
つまりは、聖徳太子の『渾然たる一如一体の和』という本来の「和」の原理をちゃんと運用してないのである。
「日本型経営」は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と褒めそやされたが、大方の日本企業において、それは誰かが考え抜いた明示知的な体系ではなかったから、ただ慢心するばかりで体系として明示知化しかつ現代化したり国際化したりする企業はほとんど無かった。
発端はバブル崩壊による優等コンプレックスから劣等コンプレックスへの急展開だったと思う。
それで付和雷同的に、そしてやがて空気全体主義的に感受性が歪み、長引く不況、就職氷河期の慢性化、リストラ圧力の蔓延という限界状況へのネガティブな過剰反応として「アメリカ型グローバリズム」への盲従が展開していった。
2000年以降の企業組織の硬直化と企業社会の膠着化は、1991年のバブル崩壊後の日本の企業社会の短絡的かつ付和雷同的なこうした過剰反応による。
そしてそこにも、他者からの評価や他者との比較でしか自らを位置づけられない日本人の性向がベースにあった。
これは著者が次に指摘していく「辺境人」のメンタリティだ。
これについて項を改めて検討していきたい。