「家族形態」史から分かる日本人の「居場所づくり」いろいろ(1) |
日本人にパラダイム転換発想あり
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2017年 07月 15日
「中国史のなかの家族」飯尾秀幸著 山川出版社刊 発
旧石器時代、人類は移動生活をしていたため、日本列島に暮らしていた人々と大陸で暮らしていた人々では、自然風土の違いによる生業の違いはあっても人類普遍性の方が優っていて、「家族形態」は同じだったと考えられる。それが新石器時代のある時期から定住生活をするようになり、両者の「家族形態」は徐々に異なる変化を辿っていく。 日本列島の各地にはさまざまな出自の渡来民が渡来したり遠隔地から入植者が移住したりして、そこに先住民がいれば彼らと様々な関係性をもったり混淆したりしたと考えられる。これは当たり前の話のようだが、その先が太平洋のどん詰まりの極東列島ならではの地政学的な希少ケースでもあった。 天武持統期に「日本人」という概念が想定されるに至った私たちの祖先の「家族形態」は、 そもそもは旧石器時代に土着していた縄文人の同時代の大陸の人々と同じ「家族形態」から出発したが、 弥生時代には、すでに変化を先行させていた大陸の「家族形態」が渡来民によってもたらされ、それが渡来民と土着民との関係性や、渡来民同士の関係性によって日本列島各地でそれぞれに多様な現地化をしたと考えられる。 しかし私たちの日本人の「家族形態」についての一般的な認識は、縄文時代からの変化を日本列島内部にのみ視野を限って漠然と思い浮かべるもので、大陸からの渡来民などの外的要因をほとんど考慮しない。よって、内的要因だけであたかも自然発生的かつ自己完結的に変化して今日の「家族形態」に至ったかのような誤解を含みがちだ。 そこで私は本シリーズで、飯尾秀幸著「中国史のなかの家族」から中国の「家族形態」の変化を石器時代から辿ることで、どのような「家族形態」を担った渡来民が順次やってきた可能性があるのかを確認し、それがその時々の日本列島各地の状況にどのように応じて現地化したかを仮説的に推察していくことにした。 歴史学などにおいて「家族形態」とはいかなる概念か 生殖能力のある男性がいて女性がいて一般的には結婚すると子供ができる。するとその親子が家族になる。 こういう一般的認識が漠然と共有されている。 しかし、現代では必ずしも男女が結婚するとは限らないし、直接的にシングルマザーを目指す女性もいる。さらに母子家庭も一つの「家族形態」であることは論を俟たない。日本だけでなく世界各国の現代社会において「家族形態」は著しく多様化している。 しかし日本の政策では、いわゆる核家族を標準的な「家族形態」として想定し、それを基準にした政策が立案実施されてきた。だが今や、そのような枠組みでは対応しきれない「家族形態」も多くなってきている。むしろ、どのような「家族形態」でもその構成員が最低限度の文化的生活ができるにはどうしたら良いか、を問う方向で政策が立案実施される枠組みに転換していくべきなのだろう。そうした方向性で欧米諸国は先進国として国民生活全般に関わる横断的な政策の立案実施が先行していて、日本もそのような先進性を取り入れていくべきなのだろう。 さて、 では先史時代の石器時代の方が「家族形態」はシンプルだったり画一的だったかというと、そうとは言えない。 なぜなら、根本的には「家族形態」という概念が、今のように「居住単位=経済単位=婚姻単位となる三位一体のシンプルなもの」ではなかったからである。 さらに、一つの時代の一つの民族が暮らす領域の「家族形態」が画一的だったとしても、異なる民族の暮らす領域の「家族形態」同士の違いが新石器時代には生まれていて、有史時代になると青銅器と鉄器の普及のタイムギャップによって支配層および被支配層の「家族形態」が多様化していったと概観することができる。 但し、石器時代の人類普遍性として、それぞれの民族がその「家族形態」を織りなす原理原則は共通していた。 (ここで、民族とは、似通った自然環境の領域に暮らす部族群全体の構成員を言う。) それは共同体を保全するという自然発生的な共通目的を達するべく ①近親婚の回避を婚姻制度化し、 ②生産と消費の共同を経済制度化している という原理原則である。 ②は風土によって自然資源が異なり生産活動が異なりそこから差異が生じる。 近親婚の回避は内婚を禁じて外婚を促す訳で、どのような外婚を促すかにおいて①が②と関わってくる。 こうした民族の原理原則にのっとった「家族形態」を基層としながら、部族内の生産活動の分業が人類普遍の男女分業を超えて氏族分業に展開したり、首長層が出現して支配層と被支配層に階級分化したりを反映した婚姻制度と経済制度によって「家族形態」にも様々な階層性が反映してくる。 また、大部族が小部族を従えるようになり、それが「くに」になりやがて「国家」になっていく。「国家」の段階では支配層による被支配層の統制という政策的な目的のために、その最も有効な達成手段として「家族形態」の制度化が立案実施されていく。 追って詳述するが、 日本列島においては、縄文時代の支配層と被支配層に階級分化していない部族しかない時期に、 すでに大陸で階級分化が進んだ部族や、大部族が転じた「くに」を体験していた渡来民がその「家族形態」を担って渡来した と考えられる。 そして、まだ「くに」しかない弥生時代に、すでに大陸で「国(国家)」を体験していた渡来民がその「家族形態」を担って、あるいは嫌って渡来した と考えられる。 統一王朝となったヤマト王権が律令体制を完備して中国で展開していたのと対等の文明的体制の「国家」を目指すまでは、出身地と渡来時期と渡来先が異なる渡来民を祖とする有力氏族が支配地ごとに多様な「家族形態」を展開していた と考えられる。 それは、氏族を共同体として保全するために、氏族内および氏族同士の婚姻制度と経済制度を反映するものだった筈である。 本書で著者は、 「家族の特徴とその変容の過程を見出すために、 居住単位としての家族、 婚姻単位としての家族、 経済単位としての家族 という三つの家族」 を想定している。 「家族形態」とは、この三つの家族の合体形に他ならない。 著者は、先史時代と歴史時代の全体を俯瞰して、 「居住単位としての家族は小型家屋に父・母・子で暮らすという家族形態をとる。 ただその形態は一般的には、今日まで変わっていない。 それにたいして、 ほかの婚姻単位としての家族や経済単位としての家族は、当初いずれもその小型家屋をこえた集団で、時代や社会、国家によってその姿を変容させる。 それらは、やがて一つの家族、すなわち居住単位としての家族に合一する」 と総括している。 そして、その合一過程が中国における家族の歴史において重要な展開であり、後漢時代に完了したとしている。 後漢王朝を光武帝が樹立したのが紀元後25年、後漢時代(25~220年)とは日本の弥生時代のおよそ中後半である。 2世紀後半(146〜189年)にいわゆる「倭国大乱」が5~6年間続いてそれが卑弥呼の共立によって収まったとされる。そして卑弥呼が初めて難升米らを、後漢をついだ魏に派遣し魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられたと『三国志』にあるのが238年である。 卑弥呼の全盛期は魏の時代(220年~)であるから、著者の主張する中国の「家族形態」における三つの家族の合一が後漢時代に完了した後だったことになる。 この時期の、たとえば邪馬台国の「家族形態」がどのようなものだったか分からない。 しかし、 「倭国大乱」まで男王の時代が70~80年間続いていてシャーマンである卑弥呼を共立することで男王たち=氏族同士が対立した「倭国大乱」が収まったこと、 中国王朝では女帝や鬼道が禁忌されていたこと、 そして王朝の「家族形態」は民の「家族形態」とある程度重なること などを勘案すると、 どうも邪馬台国やそれが連合した「くに」ぐにの「家族形態」は、すでに後漢が完了していた三つの家族の合一に向かう方向性にはなかった と考えられる。 私は、本書の著者の主張が触れていない信仰単位としての家族といった有り方が、居住単位としての家族といった有り方よりも意義深く存在したと考える。 居住単位としての家族とは、父母子が同じ家屋でともに寝起きする生活を空間論的にかつ機能論的に捉える概念である。 一方、 信仰単位としての家族とは、信仰という精神生活を時間論的にかつ意味論的に捉える概念である。 たとえば亡くなった父母や祖父母や夭折した子供なども構成員となる。 無論、そのような信仰単位としての家族は、日本人にも中国人にも現象している。 しかし両者には大きな違いがある。というか日本人だけが違うということなのだが。 たとえば、日本人は家族で先祖の墓参りをする、中国人も同じだ。日本の一般庶民の家族もそうするし、天皇家の家族もそうする。中国の一般庶民の家族もそうするし、国家主席の家族もそうする。では、中国の一般庶民が、時の国家主席の先祖の墓参りをするかと言えばしない。日本の一般庶民が、時の内閣総理大臣の先祖の墓参りをしないのと同じだ。 だが、日本の一般庶民は、天皇家の先祖の墓である古墳を見れば厳粛な気持ちになるし、墓ではないが天皇家の先祖やそれを遡って行き着く神々が祀られている神社に詣でてかれらを尊崇する。 この日本人にとってはしごく当たり前のことは、日本人にとっての信仰単位としての家族というものの、あくまで「いまここ」を起点とした時間軸と空間軸の拡張性という、じつは日本人ならではの特徴である。 超拡張した信仰単位としての家族という「擬制的家族」が共同幻想としてしっかりと共有されているのである。 それはいつからそうなのだろうか。 無論、前述した今の私たちの心性の有り方は、明治新政府が天皇制を体制の根幹に据えて神道を国家神道に再編した時からである。江戸時代の一般庶民に天皇崇拝があった訳ではない。だから、江戸時代以前の庶民が古墳を見ても、なんか変わった形の丘があるなあくらいにしか思わなかった筈だし、神社には天皇家にゆかりのない偉人たちを神として祀るものも多々あり、特に天皇家の先祖を崇拝しているという気持ちはなかった筈だ。 しかし、民族として神話の神々に連なる天皇やその功臣、そしてそれとは別途、偉人と賞賛される先人を神として祀ってきた心性は、江戸時代以前から一般庶民は持ち合わせてきた。 だからこそ、明治新政府の国家神道の神道政策が全国津々浦々の日本人の心に根深くそして力強く浸透したのだった。 このような神話の神々とそれに連なる天皇やその功臣を神として崇拝する心性の起源は、古事記や日本書紀が編纂され、いわゆる律令神道の建築様式と祭祀様式が確立された天武持統期であることは間違いない。 しかしそのような心性の基本構造は、もともとヤマト王権の支配層を構成した有力氏族たちにもそれぞれの祖先崇拝として共有されていた。彼らはそれぞの支配域で自らの支配者としての正統性を表現する神話を語り、民=被支配層はその神話を共有することで自らのアイデンティティを有力氏族の族長を父とする「擬制的家族」の一員であることに求めた。 古事記や日本書紀はそんな有力氏族たちの神話を編集加工して再編統一化をしたのだった。 天武持統期は紀元後700年前後だが、超拡張した信仰単位としての家族という「擬制的家族」が共同幻想としてしっかりと共有されているという心性の基本構造は、ヤマト王権が樹立して後、大王(おおきみ)の権力が絶対的ではなく有力氏族が台頭した実質的に氏族社会の時代に遡れることは当然として、さらにそのずっと昔、邪馬台国が連合した大部族群が「くに」ぐにを形成していた時代にまで遡ることができると考えられる。 なぜか古事記や日本書紀には、中国の正史にある邪馬台国の記述がない。それは、天武持統の両天皇が、逆に邪馬台国を特別に意識していたということである。 両天皇は、卑弥呼が共立されることで「倭国大乱」が収まり「くに」ぐにの連合が保全された、その言わば社会心理を重視した。そこに超拡張した信仰単位としての家族という「擬制的家族」が共同幻想としてしっかりと共有されているという心性の基本構造を認めた。これを最初に具現化していた邪馬台国についての人々の記憶を消滅させ、天孫降臨にはじまるヤマト王権こそがその心性の基本構造の最初にして最後の構築者となることを目指し、そして達成して今日に至っている。 女王や鬼道を禁忌するに至っていた段階の中国王朝は、信仰単位としての家族といった有り方を、すでに居住単位としての家族、婚姻単位としての家族、経済単位としての家族の三つに分担分割的に吸収させて、それゆえに三者を合一するに至っていた。 まず根源的なこととして、 中国は殷代までは邪馬台国と同じに「超越者と人間の対峙」というパラダイムにあって、両者の媒介者として王が存在し、王が占いによって超越者の意思を受け取りそれが絶対性をもつという体制だった。 それが周以降、「人間が人間を支配する」というパラダイムに転換し、王が神格化して王の意思が絶対性をもつという体制に転換した ということがある。 前者のパラダイムでは、すべての人間が、超越者にともに対峙する者として一体感をもち、両者の媒介者としての王(女王)を民の共通の父(母)とする「擬制的家族」が形成される。 一方、 後者のパラダイムでは、秦の始皇帝の段階で特別なのは天子である皇帝だけとなり、後漢の段階で、居住単位としての家族=婚姻単位としての家族=経済単位としての家族という三つの家族の合一が完了してその構造は皇族だろうと庶民だろうと一緒ということになった。 それに対して、 邪馬台国の時代からヤマト王権の草創期(推古天皇から称徳天皇までの女帝が登場した時期でもある)にかけて、日本列島では、超拡張した信仰単位としての家族という「擬制的家族」が共同幻想としてしっかりと共有されているという心性の基本構造が(少なくとも為政者=支配層のレベルで)一貫していて、信仰単位としての家族が居住単位としての家族、婚姻単位としての家族、経済単位としての家族のすべてを包含していた。 つまり、 日本の「家族形態」は、 中国のように信仰単位としての家族が分担分割された三つの家族の合一という方向に向かう (分け隔てる男性原理のパラダイム) のではなくて、 三つの家族が渾然一体に信仰単位としての家族に包含されての相互連携という方向に向かう (包み込む女性原理のパラダイム) のであった。 (私個人的には、邪馬台国が魏への朝貢など対外的に代表となりえた形で連合を保った「くに」ぐにとはテュルク族の渡来民だった、と考えている。 匈奴の鉄生産専従民だったテュルク族が北陸に上陸し鉄資源を求めて琵琶湖地方に南下、さらに南下して大和盆地に至って先住する農耕民を支配下において邪馬台国を樹立。さらに鉄資源を求めて中国地方に展開して吉備津国を樹立し、鉄生産で競合する出雲族を攻めるも敗れた。 卑弥呼を共立して連合した「くに」ぐにとは、こうしてテュルク族が侵攻した土地に留まって樹立した「くに」ぐにだったと推察する。そのいわば同族の男王たちが、需要が高まるも供給が限られた鉄資源をめぐって争ったのが「倭国大乱」だったのではないか。 鉄生産は事の実相を推理する重要な鍵だと思う。 テュルク族は岩鉄を原材料とする製鉄であるのに対して、出雲族は砂鉄を原材料とする製鉄で、出雲族を攻めた吉備津国の敗北の一因には出雲族の製鉄の性能優位があったと考える。 後に、ヤマト王権の初期勢力が出雲族を攻め、タケノミカヅチ(建御雷)がタケミナカタ(建御名方神)を撃破して「国譲り」に決着する。この時、建御雷が天鳥船とともに降臨、出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立ててその切っ先の上に胡坐をかいて大国主と談判している。また、タケノミナカタとの力比べの手づかみの試合でこれを一捻りにした際は、腕を氷と剣にして恐怖させている。これは、ヤマト王権の初期勢力に「加担」した北部九州の勢力が製造した鍛造剣が、出雲族の鋳造剣に優ったことを象徴していると解釈できる。 この北部九州の勢力とは、中国王朝の出先機関として「くに」を樹立していたもので(行政拠点の伊都国、経済拠点の奴国、軍事拠点の一大国)、中国王朝に朝貢した邪馬台国とは言わば同じ親分の子分同士として同盟関係にあった。そして「加担」とは、この同盟関係ゆえに、邪馬台国の軍事外交の最高責任者である難升米(なしめ)と直接交渉する機会のあった伊都国の長官がその機会を生かしてこれを暗殺したということである。その経緯が古事記では、神武天皇よりも前に天磐船により大和入りしていたニギハヤヒ(饒速日命)によるナガスネヒコ(長髄彦)の暗殺となっている。 ヤマト王権樹立後、重用された物部氏はニギハヤヒを祖とする。物部の名はもともと兵器の製造・管理を主に管掌していた部に由来するが、神武東征において先進的な武器を提供した功績が延長されたのではなかろうか。後に交野(かたの)を鍛造製鉄拠点として肩野物部氏が起こっている。 おそらく暗殺に使われたのは隠し持った鍛造の小刀で、ナガスネヒコが戦時ゆえに王宮でも着ていただろう鎧を突き抜く、とても鋭利に仕上げられたものだった筈だ。その性能は脆い鋳造では不可能で鍛造だから可能だったものと考えられる。 一方、遡って57年に倭奴国が後漢から金印を授与されたと『後漢書』が記している。 私個人的には、この金印は、前述の中国王朝の出先機関として「くに」を樹立していた行政拠点の伊都国の長官の実務印だったのではないか、と考えている。 よって、北部九州の伊都国、奴国、一大国の支配層の「家族形態」は、後漢の制度に従って三つの家族の合一の完了した「家族形態」だったとして良さそうだが、 私個人的には、そうは考えない。 これらの出先機関の「くに」としての樹立とその運営を楽浪郡ないし帯方郡を経由して後漢に提案し、朝貢という体裁の上納を条件にすべての代行を請け負ったのが呉の遺臣を祖とする安曇族だった、と考えている。 帯方郡は、3世紀初めに後漢に属していた朝鮮の楽浪郡の南半を割いておかれた郡で、遼東半島で有力となった公孫氏が独立して建てた。背景には朝廷による楽浪郡の経営がうまくいかなかったことがある。安曇族はこうした経過に取り入った公算が高い。北部九州に出先機関の「くに」を設けることは、公孫氏にとっては管轄地の拡張、朝廷にとっては公孫氏の牽制になる。『後漢書』には朝廷絡みのことしか記録がないが、安曇氏が帯方郡の公孫氏に上納していた可能性も否定できない。 ちなみに238年に、後漢に代わった魏が公孫氏を滅ぼして楽浪郡と帯方郡を支配する。邪馬台国の卑弥呼が帯方郡に使いをよこして魏に朝貢したのはこの翌年である。邪馬台国の使いとして魏の皇帝に謁見した難升米だが、その安曇氏=伊都国の長官による暗殺は、安曇氏が魏の皇帝にヤマト王権の初期勢力と邪馬台国との戦況を報告し、前者を勝利させその樹立した王権の中枢に自分たちが入って魏との関係を維持発展させると約束し、事前に了解を得たものと推察する。 安曇氏は、中国王朝の遺臣を祖とするサバイバル氏族ならではの「家族形態」と「共同体形態」を、端的に言えば、一般的な定住民型ではなく転住民型の「家族形態」と、一般的な労働集約型ではなく知識集約型の「共同体形態」を工夫し堅持していた筈である。そうしなければ長い歴史を生き延びられなかったからだ。 安曇族は、ヤマト王権樹立当初は、中央(物部氏)と北部九州(安曇氏)を拠点として勢力をもった(前者が朝廷対応、後者が朝鮮対応)。しかし後世の6世紀、北部九州の勢力が拠点を失う。すると、それまでの朝鮮対応という対外的かつ政治的な動きから、対内的かつ経済的な動きの国内地方対応に転換して、全国に様々な新産品の生産拠点を開拓して生産者を入植させて分布していった。安曇族の主流は交易拠点を整備してネットワークする交易民となったと考えられる。その交易拠点とは、たとえば渥美、熱海、飽海、安曇野など安曇と似通った発音の地名をもつ交易要衝地である。 ちなみに呉から伝来した織り方によって作られた織物のことである「呉服」は「くれはとり」と言い、「くれはとり」は「呉織」とも書かれる。この呉服の生産と販売を全国化したのも安曇族だったのではなかろうか。 安曇野は長野県中部の松本盆地の一部の扇状地である。穂高神社は信濃の安曇郡に定住した安曇族が祖神を祀った古社であり、志賀島から全国に散った後の一族の本拠地とされる。河川の流域で交易拠点となりえるが、後背地にめぼしい特産品がない。清流でとれるワサビやニジマスは国際的な交易アイテムとなったとは考えにくい。ちなみに熱海や飽海などの海上交易拠点は、干しアワビの集荷拠点となって朝廷への献上品という体裁でじつは中国に輸出されていたと考えられる。内陸部の安曇野にはそうした国際商品にもなりうる高級品が見当たらないのである。 安曇野市には「天蚕振興会」がある。「天蚕」とは江戸時代の天明年間(1781~1788)に当地で飼育が始まった野蚕(家蚕ではない)のことである。嘉永年間(1848~1853)に繰糸の方法が取得され、明治元年(1868)頃に踏み取り機による繰糸が行われている。この野蚕の繭の生産と県外への出張飼育は明治30年頃に全盛期となっている。 私は古代の安曇野において、すでに安曇族が野蚕の飼育、繭の生産販売、繰糸、絹糸の販売をしていたのではないかと想像する。 養蚕はもともと、紀元前4000~3000年前の黄河や揚子江流域で野生のクワコを家畜化したのが始まりと言われる。当初は中国の宮廷内だけで秘密裏に行われていたのが、紀元前1000年くらいから一般の農家にさせられるようになった。できた絹はすべて宮廷が取り上げてしまった。紀元前200年くらい、前漢の時代に西域との貿易が始まり、絹は異民族を支配するための褒美とされ、その交易ルートが「シルクロード」と呼ばれるようになった。日本列島に養蚕技術が伝わったのは一説には紀元前200年くらいの稲作と一緒の伝来という。大規模な灌漑稲作と一緒の伝来ということだろう。さらに195年に百済から蚕種が、283年には、渡来系氏族である秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えたという。秦氏は渡来して福岡県東部の豊前国を拠点としその後、中央政権に進出し、畿内各地に土着し土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。 6世紀からの安曇氏の全国分布は、この秦氏の動き方を全国化したものと言えよう。だとすれば、養蚕技術を安曇野に持ち込んでそこを養蚕ビジネスの中核拠点としたとして自然である。 そのことが歴史として残っていないのは、それが何らかの理由で秘密にされたからではなかろうか。 じつは奈良時代から平安時代にかけてアワビの収穫拠点や集荷拠点は全国に展開していて、その干しアワビの収穫を朝廷ですべて消費できた訳はなくほどんどが輸出された筈である。だがそうした公式記録はない。朝廷への貢納という建前で天皇直轄の贄人を使って、実際には天皇の私経済を潤していたことが秘密にされたと考えられる。安曇族が安曇野に中核拠点をおいて展開した養蚕ビジネスも、朝廷献上の絹糸や絹布となるという建前で天皇直轄の贄人を使った天皇の私経済だったのではないか。あるいは安曇族の首長層が贄人となっていた可能性も否定できない。*) (*は余談として除いて) 以上を基礎的与件として踏まえ、 以下、本書の「①−婚姻単位としての家族」を検討していきたい。 「①=婚姻単位としての家族」 新石器時代の紀元前5000年〜紀元前2000年頃、黄河流域に小集落を中心に形成された仰韶(ぎょうしょう)文化が展開した。 半坡(はんぱ)遺跡は、仰韶文化のもっとも有名な溝で囲まれた集落の1つである。 姜寨(きょうさい)と呼ばれる同時期のもう1つの主要な集落遺跡がその北東20キロに発掘された。 考古学者たちはこれらの集落が完全に環濠で取り囲まれていたことを確認している。(ちなみにこれらの遺跡からは半坡文字と呼ばれる文字に近い記号も発見されている。つまりかなり高度な文化だった。) 仰韶の人々の自給自足生活はさまざまで、広く粟を耕作していたが、麦や米を耕作していた村もあった。仰韶農業は、小規模な焼畑農業か永続的な農地での集約農業か判明していないが、中期の仰韶集落には余剰の穀物を格納した可能性のある高床式建築があった。彼らは豚や牛、そのほか羊、山羊、牛などの動物を飼っていたが、それらの肉の大部分は狩猟や漁業で得ていた。つまり牧畜ではなかった。彼らの石器は研磨されていて非常に専門化されていた。仰韶の人々は原始的な形態の養蚕も実践していた可能性がある。 仰韶文化は彩陶で有名である。仰韶の職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成した。後世の龍山文化と異なり、仰韶文化は土器の作成にろくろを使わなかった。発掘調査により、子供達が彩文土器のかめに埋葬されていたことが判明した。 つまり、仰韶の人々の大方は「畑作狩猟民」であり、地域によって漁業や養蚕も手がけ、また石器や陶器の製造もし、一部はそれらを専業化していた可能性が高い。技術的に高度な産品は交易された可能性が高い。 いったいこのような仰韶の人々はどのような「家族形態」をとっていたのだろうか。 半坡遺跡について著者はこのように解説している。 「この集落全体は、直系250メートル、深さ・幅が6~8メートルの円形の溝と、その内部にあるおよそ250の住居によって構成されていたものとされ、1住居にはその面積などかあら4人前後が居住するものと考えられ、人口は数百から1000人規模であったと推定された」 この遺跡から分かるのは、 「炉を備えた半地下式住居に親子4〜5人が寝食をともに居住するという、居住単位としての家族の姿は想定できる」 ということで、 婚姻単位としての家族、経済単位としての家族がどの範囲であるかは分からない。 そこで著者は、同時期の姜寨(きょうさい)の集落遺跡を解説する。 「この集落全体は、深さ・幅とも1~2メートルの溝でかこまれた、直径170メートルほどの円形をしている。その点では、溝の半径・深さ・幅ともに半坡よりも規模は小さい。 この円形の溝に設けられた複数の出入り口は、現在三カ所発見されているが、そこにはそれぞれ見張り台があった。 また集落内部の中央には広場があって、それを取り囲むようにして半地下式住居が点在し、住居の出入り口はすべて広場に向かっていた。 その広場には家畜をかこった施設跡もあり、また溝の外には現在三カ所の墓葬群が発見されている。川沿いには陶器の窯跡なども発見され、出土品からは農耕、狩猟・漁撈、採集や家畜の存在しうる当時の生活状況がうかがえる」 「家族形態」に関連する重要な特徴は以下である。 「この姜寨の集落遺跡でもっとも重要な特徴は、溝のなかの住居がいくつかの群に区分されていて、その群の数が5であるという点である。(中略) その各住居群は、1つの大型家屋と10~20の小型家屋からなるというほぼ等しい構造をもっていて、大小の家屋はいずれもその出入り口を広場に向けているという特徴をもっていた。 また炉や生活・生産用具が出土した各小型家屋からは、半坡と同様にそこで寝食をともにする4~5人の居住単位としての家族が想定される。 一方、各群の大型家屋からは生活・生産用具が発見されないため、それは居住以外の、おそらくは共同で使用された施設と考えられている」 ここで、大型家屋が「居住」の施設ではなく「共同で使用された施設」であるということで、大型家屋に居住する支配層と、小型家屋に居住する被支配層という階級分化は進んでいない。 著者は5つの領域区分に着目してこう述べている。 「意識的に集落内部を5単位に区別するという特徴からみれば、現在三カ所が発見されている集落の出入り口や見張り台、さらにはこれも現在三カ所が発見されている墓葬群も、いずれも本来は5つあったと推定してもよいであろう。 とすれば、当時、生存時にも、そして死後にも、この5という数字によってこの集落は規制されていることになる」 これは「居住単位としての家族」をこえた集団の存在を意味する。それは氏族や氏族グループということで、イコール「信仰単位としての家族」や「経済単位としての家族」かも知れない。 続いて著者は、婚姻単位としての家族、および経済単位としての家族との関連性を文化人類学の知見から解説していく。 レヴィ・ストロースは20世紀前半のブラジル内陸部に居住していたボロロ族などの調査から、一般的な集落の構造を示した。 ボロロ族の集落は 「円形をしている。ただこの円には、半坡や姜寨のような溝は存在しない。円の外は森林の緑となり、その円周上に夫・妻・子からなる家族が居住する家屋が並ぶ。またその集落の円は東西の線を境として南北に2分され、その南北の集団のおのおのはそれぞれ4つに区分されている。 集落の中央には『男性の家』と呼ばれる建物があり、男性のみが利用する住居・集会所となっている。 ボロロ族の場合は既婚・未婚を問わず、シュレンテ族の場合は未婚のみが利用するものとなっていた。 またその北側には舞踏場が隣接している」 こうした集落の構造から明らかになったことは、 「集落内部で婚姻が完結する、つまりは集落外の人とは結婚しないという内婚制を原則としていたこと、 また南北に区分された2つの半族は外婚単位となっていて、半族内部での婚姻が禁止され、両半族間でのみ婚姻が認められるという婚姻制度をとっていたことなどである。 すなわち東西の線で南北に集落を2分し、外婚単位を明確化するという集落は、近親相姦のための婚姻制度の存在と密接に関連し、それを表面的にもわかるような構造をとっていたと解釈することができる。(中略) さらにこの制度のなかで、集落中央の『男性の家』は、婚姻のときなどには女性にも利用され、舞踏場とともに婚姻へとつながる男女の出会いの場としての意味ももっていた。 また、二つの半族はそれぞれ4つに区分されていたが、そのおのおのが氏族を形成していた。(中略) 二つの半族がおのおの4つの氏族に区分されているこの集落構造の場合では、集落の円周上に存在する家屋をいくつか集めて形成されていた氏族が、それぞれ同一半族内に存在する異なった経済単位となっていたのである。(中略) したがって、(中略)集落全体が内婚制をとる種族を形成していて、その集落内に外婚単位となる半族が2つあり、その半族の内部はそれぞれ4つの氏族によって構成され、各氏族には複数の家屋が存在するという構造をもっていた。(中略) したがって本源的には、 家屋が居住単位としての家族、 氏族が経済単位としての家族、 半族が婚姻単位としての家族 といったそれぞれの家族の存在を、集落の構造が可視的な区分でもってあざやかに示していたことになる。(中略) 婚姻単位ないしは経済単位と、居住単位としての集団とは、それぞれ別個に存在していたことが注目される」 以上のような文化人類学の知見を踏まえて、著者は姜寨の集落遺跡について、 「姜寨の集落遺跡は、集落全体で婚姻が完結する内婚制をとり、集落内部を5つに区分する住居群がおのおのを外婚単位とする婚姻制度を、集落の姿として構造化したものであった」 としている。 婚姻後の夫婦の居住が、夫方居住か妻方居住かについては、ボロロ族の場合、両形態を並存させていた。 しかし姜寨の場合は分かっていない。 「一般的に狩猟に従事する男性、農耕に従事する女性というような男女間の分業が展開している社会にあっては、婚姻後の夫婦の居住形態には、妻が夫の氏族のもとに赴く夫方居住と、夫が妻の氏族のもとに赴く妻方居住とが存在する(中略) どちらの居住形態をとるかは居住する予定の氏族の労働力状況によって決定されていたのである。つまり氏族内で男性労働が女性労働よりも相対的に不足している場合は、男性がその氏族にとどまり妻をむかえる(夫方居住)、もしくは夫となる男性を妻の氏族がむかえいれる(妻方居住)形態を、その逆ならばその逆の形態を選択することになる」 この原理原則そのものは、古今東西で普遍的だと考えられる。 日本においては古代まで、そして貴族に関しては平安時代まで「通い婚」や「婿取り」の妻方居住が一般的だった。 まずその踏まえるべき前段として縄文時代から弥生時代への経緯がある。採集から稲作になり集落規模が大きくなったが、集落の構造と機能は基本的に変わらなかった。集落の構成員は独立した財産を持たず、集落に全面的に依存した。こうした社会にあって、最小単位としての親族集団の中で、母親の果たす役割が圧倒的に強かったと考えられる。たとえば装飾品のような個々に帰属する財産があるとすれば、それは母から娘に伝えられた。また、囲炉裏や調理道具の使用権のようなものも母から娘に伝えられたと考えられる。 そもそも石器時代の部族人は人類普遍的に、出産する性である女性を神秘としてみた。調理も呪術ないし秘術として母から娘に伝えられる側面があったのではないか。 古代の日本人は母系社会を形成していくが、そんな<部族人的な心性>をベースとして温存しながら<社会人的な心性>を形成していったということである。現代の日本でも、嫁姑問題が台所という調理の場におけるイニシアティブを巡って起るのは、その延長にあるのかも知れない。 古代末期の万葉集の庶民の生活感情を歌った多くの歌から、男女の性愛が自由なことが分かる。女は気に入った男に対して極めてあけすけに物言いをし、男は気に入った女のもとに足しげく通う。男女が結ばれる際に最も影響力を及ぼすのは女方の母親の同意のようである。男は女に子供ができて他に好きな女ができれば通わなくなったから、母親が自分と婿との関係を気遣った訳ではない。また娘との相性を判断した訳でもなさそうだ。どうも、子孫を残す遺伝子的な判断を直感的にしたように思われる。母親も娘も出産と子育てを呪術ないし秘術として感じ取っていて、男が自分たちのそれにふさわしい遺伝子の持ち主かどうかを直感したのではなかろうか。私がそのように推察するのは、現代日本の母娘関係にも同様のことがあることを数多く見聞きしているからである。 人類普遍的に石器時代の部族社会や現代の未開社会で、女が「財」として看做され、男の方から女の家に高価な結納品が送られたりする。そのため男尊女卑の見えがかりがある。しかし、それは古事記風に言えばアマテラスが分担した「目に見える世界」の制度的な話であって、オオクニヌシが分担した「目に見えない世界」、呪術や秘術の話では、女の方がイニシアティブをもってきた。それが、日本の場合、制度的にも反映して母系社会が形成された。 つまりは、家族を存続させる上で女性の営みの方が男性の営みよりもより重要だった。 縄文から弥生時代そして古代にかけて、一般庶民レベルで呪術や秘術の継承において。 そして上層階級においては平安時代まで、朝廷や貴族社会において家族の身分を維持向上させるために美人か才女の娘に高位の男の子を生ませることにおいて。これも、高位の男を籠絡させる呪術や秘術の類いと言えなくもない。 いずれにせよ一般庶民と上層階級ともに、家族を存続させる上で男性の営みの方が女性の営みよりもより重要な男系社会に変化していき、その枠組みの中で領域を限って母系社会的な様相が部分的に発現するようになっていった。 ボロロ族の集落に話を戻そう。 「各住居群にそれぞれ1つ存在した大型家屋は、氏族員が居住する場ではなく、氏族内の共同利用施設として機能し、それは婚姻のさいにも利用されていたものと思われる。 例えば、住居群Aの大型家屋にAの未婚男性が集合し、そこにほかの4つの住居群の未婚女性がはいることで婚姻が成立するなどの制度が原則として想像される」 未婚者に限ったり既婚者も含んだりして、男性ばかりが集住したり集合する共同家屋、女性ばかりが集住したり集合する共同家屋というものが、古今東西の部族社会や部族的な社会に多様に展開している。 未婚者に限る場合は、婚姻制度を前提としていて、既婚者も含む場合は、何らかの男女間の分業とそれぞれの恊働を前提としているのだろうか。 いずれにせよ人類普遍の原則があって、それがおのおの部族社会ないし部族的な社会の諸状況において展開して多様化している。 そしてその原則は、人類が共同体を営むにおいて強力な要素であり、たとえば日本では戦前昭和まで村に存在した「若衆宿」や「娘宿」などもその系譜の延長線上にあるのだろう。そこでは、たとえば男女で分業される村祭りの準備や練習が行われた。 また、部族の集落が小さくかつ集落群を構成する個々の集落が互いに遠く離れている場合、未婚の男女がどの集落の縄張りでもない<異界との重なり領域>に集合して集団見合いをすることも広く分布してきた。(地元神社で行われる村祭りは、「無縁・公界・楽」の時空とされた神社境内に近隣村の若者も来て偶発的な集団見合いの場となったことも、この延長に位置づけられる。) そのような場で男女が歌を即興で掛け合うことで見合いを進める「歌垣」は、現代でも主に中国南部からベトナムを経てインドシナ半島北部の 山岳地帯に分布していてフィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる 。ちなみに古代日本では常陸筑波山に類似の風習があって『万葉集』の歌になっている。それは既婚者のフリーセックス祭りであって未婚者の素朴な集団見合いとは程遠いが、その縁源は素朴な集団見合いの「歌垣」なのだろう。 次に著者は、姜寨の集落遺跡における「経済単位としての家族」についてこのように解説している。 「生の世界ばかりでなく、死後の世界である墓葬も氏族ごとに区別されていたとすると、それは氏族の結びつきが極めて強いことを示している。そのため氏族が、農業といった生産上の単位としても考えられるが、一方で集落中央の広場にある家畜を囲む施設や集落外の陶器の窯などの存在は、氏族をこえた集落全体、すなわち種族を経済単位として位置づけられるのではないかとの解釈も可能としている。また氏族内部で小型家屋がいくつか集まって経済単位を形成していたとの推測もありえる」 このことは、経済活動を分類して考える必要があるだろう。 ①氏族が自給産品を生産するという経済活動 ②氏族が自給産品の共同体への提供によって共同体から他氏族が生産する非自給産品の配給をうける経済活動 ③集落全体の非自給産品を求めてそれを生産する他集落と交易する経済活動 などである。 「氏族内部で小型家屋がいくつか集まって経済単位を形成」していてその共同施設としてある大型家屋は、 ①の、農耕や狩猟の準備や収穫の分配などの恊働作業や、熟練者による未熟練者の共同育成が行われる場となったと考えられる。 「集落中央の広場」は、 ②の、各氏族が自給産品の余剰を展示してそれぞれの非自給産品を入手する場となったと考えられる。「家畜を囲む施設」に隣接し、共有する家畜が産み出す卵や乳などをシェアする行動様式がそのままスライドしたもので物物交換ではない。ただし、氏族同士が異なる産品の生産者である必要があるから、農耕や狩猟の産品ごとの専業化や養蚕の専業化がある程度進んだ段階が想定される。 さらに、 ③の、集落全体の非自給産品を求めてそれを生産する他集落と交易する経済活動の場にもなっていったと考えられる。たとえば、集落の共有財産である家畜を他集落とやりとりすることは、首長層が出現して階級分化する以前は、集落中央の広場で衆人環視のもとで行われた公算が高いからだ。 「集落外の陶器の窯などの存在」は、 専業者による製陶とその他集落との交易が前提とされる。 専業者による製陶は集落の外ではあっても種族の縄張りの内に位置し、 他集落との交易は専業者によって誰の縄張りでもない<異界との重なり領域>で行われたと考えられる。 そして誰の縄張りでもない<異界との重なり領域>が交易拠点となって、そんな交易拠点群をネットワークする生業の専業者は、自ずと本来帰属した共同体やその縄張りから距離をおいたり逸脱する傾向を強めていって自然である。つまりは「定住民」性が希薄化し、「移動民」性そして「転住民」性を帯びた交易民となっていく。 著者はこう述べている。 「姜寨と半坡という二つの同時期にあらわれた集落遺跡の共通性をみれば、黄河中流域では、同じ構造をもった集落が多数点在していたとの想定も可能である。 もちろん集落間相互の交流も存在していたであろう。 あるいは、こうした集落間交通が存在するのだから、集落間の通婚もあるとして、集落全体で内婚制をとるとの解釈を否定する考えもありえよう。ただそうなると、集落内外での厳格な区分(筆者注:溝を巡らせて出入り口を限り見張り台を設けた)の意味が説明できない」 私はこう考えたい。 集落間相互の交流には、 ①集落中央の広場や共同施設を(時間軸で)非日常的に利用するもの ②集落外の縄張りの先の<異界との重なり領域>を(空間軸で)非日常的に利用するもの がある。 ①は種族の一般的な氏族の全体が関わり、彼らは「集落全体で内婚制をとる」 ②は多種族との交易に専業化した一部の氏族が関わり、彼らは逆に「交易相手となる他種族との外婚に前向きとなる」 結果、 各種族の交易専業氏族同士が交易関係を土台に、共通の交易文化を形成する交易民となっていった。 このような交易専業氏族が生まれる頃には、集落全体=種族において首長層が出現し支配層と被支配層に階級分化していて、支配層が一般的な「定住民」型の被支配層の支配とは異なる関係性において、交易専業氏族を管理したと考えられる。 交易専業氏族は、基本資源が交易産品の生産技術や生産知識と交易相手との人的ネットワークと交易ノウハウなどだから、それを効率的に活用できる拠点であればどこでも拠点を転じることができる。よって彼らは氏族として「転住民」型の被支配層だったと言える。 大集落が小集落を統合し「くに」となる頃には、そのような「くに」による「定住民」支配から逃れて交易拠点を発展させて「くに」とする交易民が登場してくる。出雲国やそれが環日本海交易ネットワークで同盟した日本列島各地や朝鮮半島の海上交易拠点は、そのような「くに」であった。 さらに、城塞都市を拠点とした点を線で結ぶ支配をした都市国家的な「くに」が、領域国家的な面で囲い込む支配をした「国」に転じると、「国」は管理貿易を進めるべく、出雲国のような交易自由都市的な「くに」を解消させて自らの管理貿易に再編していった。 中国の仰韶文化に話を戻そう。 「仰韶文化の後期になると、華北においては、集落内部においてほかの集落構成員とは区別された首長層が出現する。 あるいはまた、いくつかの集落のあいだで、相対的に規模の大きな集落とそれに従属する集落といった累層的構造(族邑−属邑)をもった地域的結合が出現した。 さらにそうした地域間では、さらなる地域と地域とを統合する方向へと社会を変容させていった。 龍山(りゅうざん)文化期の黄河流域の社会の基本構造も、この流れのなかにあった。 しかしそのなかでも寝食をともにする居住単位としての家族は、半地下式の小型家屋の存続とともに、ほとんど変化なく推移している」 龍山文化は、紀元前2500年から紀元前2000年頃、黄河中・下流域に広く分布する新石器時代後期の文化である。 日本列島の縄文時代でいうと、中期(約5500~4500年前)と後期(約4500~3300年前)にさしかかった頃に相当する。 旧石器時代からざっとおさらいするとこうである。 旧石器時代の人々は更新世の末までキャンプ生活・遊動生活をしながら頻繁に移動生活を繰り返した(移動民)。 旧石器時代から縄文時代(新石器時代)への移行期である草創期(約1万5000~1万2000年前)には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた(転住民)。 早期(約1万2000~7000年前)には、定住集落が登場し(定住民)、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始などあった。 この時期の極東エリアの土器が注目される。北東アジア系、華北・華中系、華南系の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土しているという。 つまり、縄文早期の段階ですでに、中国大陸の種族が日本列島に渡来したり、中国大陸の集落と日本列島の集落が交易したりしていたということである。 縄文早期初頭の鹿児島市にある加栗山遺跡では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されていて、草創期の掃除山遺跡や前田遺跡と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。 縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。 日本の縄文文化の竪穴式住居と中国の仰韶文化の半地下式の小型家屋とは建築形態として類似している。 前者の住居の拡張と後者の大型家屋の存在とに、また両者ともに住居が中央広場を囲むように配置されていることにも類似性が認められる。 これは、定住集落の構成原理に人類普遍性があることを大筋で示していると言えまいか。 紀元前5000年〜紀元前2000年頃、黄河流域に小集落を中心に形成された仰韶文化だが、 時期的には、縄文前期(約7000~5500年前)から縄文中期(約5500~4500年前)に重なる。それは最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、三内丸山遺跡に起居した縄文人たちが保持していたのも主にこの時期の文化形式とされる。 両者の集落形態を比較すると、 三内丸山は河岸段丘の上に位置して、姜寨のように「集落が完全に環濠で取り囲まれていた」というものではない。日本で環濠集落が一般化するのは弥生時代の水田稲作を前提とする集落形態を待たねばならない。 また、 「姜寨の集落遺跡は、集落全体で婚姻が完結する内婚制をとり、集落内部を5つに区分する住居群がおのおのを外婚単位とする婚姻制度を、集落の姿として構造化したものであった」 というような集落内部の住居群に明快な区分があったか(そして集落外部の墓葬群にも明快な区分があったか)という点については正確なことは分からないが、ボロロ族のような円形の集落を東西で半分に割るような、あるいは姜寨の集落で5区分で5セットの建築群が展開するといった明快な規則性は見てとれない。 よって「家族形態」に関しては、 家屋が居住単位としての家族を示すことが、三内丸山の大型竪穴式住居と小型竪穴式住居の存在から分かるだけである。 前者はすでに出現していた首長層が暮らしたものと考えられる。 三内丸山の首長層は、種族内部から自然発生したのではなくて、渡来民ないしは入植者を率いた「転住民」の統率者が「定住民」化して首長となったと考えられる。首長層が渡来民を率いた入植統率者であり、交易を対内的かつ対外的にとりまとめる交易主導者であったという可能性である。 であれば、入植者が担当産品の生産者という被支配層として「定住民」化したのに対して、入植統率者であった首長は新たな交易拠点となる集落を開拓したりそこへの移住を先導したりする支配層として「転住民」性を温存したと考えられる。 三内丸山だけでなくある時期に交易拠点として栄えた大集落が忽然と姿を消す事例が多くあるが、それを計画的に推進したのがこの「転住民」性を帯びた首長層という解釈である。 氏族が経済単位としての家族を示すことは、三内丸山の集落形態からは確認できない。 自然発生的な定住民であれば、共同体の自給自足のための産品の分担生産者として氏族が立場を得て、生産資源や生産資格を世襲し、住居群と墓葬群の区分が自然発生する。 しかし、交易によってのみ存続できる交易拠点の共同体の場合、有利な交易品目の変化に応じて構成員が分担する生産活動が変化するから、氏族が固定的な立場を得て生産資源や生産資格を世襲するという動きにならない。生産資源や生産資格を世襲するよりも、有利な交易品目を見出してその生産に長じた者を各氏族から選抜して切磋琢磨させた方が共同体の発展に寄与するし各氏族の地位も保全される。 ボロロ族の半族や姜寨の5つの住居群区分のような氏族グループが婚姻単位としての家族を示すことは、三内丸山の集落形態からは確認できない。 しかし、それは当然のことではないか。 三内丸山が交易によってのみ存続できる共同体だったとすれば、財であった未婚女性を交易相手に嫁がせたり、交易相手から嫁取りすることが対外的な交易関係の維持発展に直結する。よって、交易共同体である種族全体や首長層である「交易ビッグマン」の氏族が外婚単位となったり、交易産品で分かれる生産分野ごとの就労集団や専業氏族が外婚単位となった可能性がある。 (これと同じ構造の婚姻関係を見出す種族が今の日本にもいる。 それは歌舞伎界の人々である。ある家系の看板役者の息子は他の家系の看板役者の娘をもらったり、ある歌舞音曲の家系の息子は他の歌舞音曲の家系の娘をもらったり、そもそも親同士が許嫁にしていたりする。歌舞伎というものを様々な芸の交易によって成り立つプロダクトと捉えると同じ構造が見出せる。それは江戸時代からの歌舞伎界の慣行のようだ。) 交易共同体の場合、その生命線は交易拠点=集落ではない。 生命線は、交易産品の生産知識や交易実務のノウハウ、交易相手との人的ネットワーク、そして新たな交易拠点の開拓力をもった交易民に他ならない。 よって婚姻を媒介に、交易民の育成を交易拠点=集落で対内的にはかるだけでなく、他の交易拠点の交易民との人的ネットワークの構築を対外的にはかることも重要だった。 後者によって、後世の私たちをして忽然と姿を消したと言わしめるような従来交易拠点の放棄と新規交易拠点への転出が、私たちが想像する以上に容易に行われたのではないか。 三内丸山を定住拠点としてみれば、その消滅は定住資源の枯渇といった内的要因に求めるのだろう。 しかし、交易拠点としてみれば、交易市場における交易相手の変化や有利な交易産品の変化という外的要因を探すことになる。 定住集落の構成原理には人類普遍性がある。 だから、自然発生的な集落の誕生や発展だけならば、中国大陸のそれも日本列島のそれも大差ない集落形態や「家族形態」を示す筈だ。 しかし、ほぼ時代が重なる仰韶文化の姜寨と縄文文化の三内丸山の集落形態は大差を示している。よって、「家族形態」も大いに異なった公算が高い。 そこで私は、 三内丸山は、新たな交易拠点を開拓しては交易によって共同体を維持発展させる交易民の渡来ないし入植によって誕生し、 交易活動によって交易拠点として発展し、 最終的に何らかの交易市場環境の変化に応じて、交易共同体の構成員である交易民がこれを放棄し、新たな交易拠点を開拓してそこに転住した と仮説する。 そして、 このような「転住民」型の文化的遺伝子をもった交易民の「家族形態」は、 「定住民」型の文化的遺伝子をもった農耕民や漁撈民や商工民の「家族形態」とは異なって当然であり、 その構成する共同体の婚姻制度も異なって当然である。 ほぼ時代が重なる仰韶文化の姜寨と縄文文化の三内丸山の集落形態が大差を示していているのはそのためではないか と考える。 著者の論述は、紀元前2000年ころ中国が青銅器時代にはいったころの王朝とされる夏王朝をとばして、殷王朝(紀元前17~11世紀)に向かう。 それは論じるためのデータの関係であり、王朝という為政者=支配層の「家族形態」に集中するのも、民=被支配層のデータがないためである。 それでも著者は示唆に飛んだ検討を経て以下の結論を導いている。 「殷代の家族の問題についてみれば、殷代と仰韶文化期の家族とは、とくに居住単位としての家族と婚姻単位としての家族とが区別された存在であるという点を重視すれば、その基本的な構造が同じである」 「たしかに青銅時代にはいり、王が存在するなど、殷代と仰韶文化期の社会とのあいだでは大きな変動がみられるが、 婚姻制度という点だけをとってみれば、同じ構造であることが分かる。 それは殷代社会の基本構造が、仰韶文化後期以降の集落における婚姻制度を維持していたことを意味する。 殷王は、その集落を結集してできた累層的な構造、あるいはその拡大した構造のなかに存在していたのであった」 この殷代までの社会の「集落を結集してできた累層的な構造、あるいはその拡大した構造」は、構造そのものとしては、縄文時代の日本列島でも同時期に展開しただろうし、後の弥生時代の卑弥呼の共立によって連合した「くに」ぐににも展開したと考えられる。 著者はまず、「王朝」という概念の再確認から始める。 これは、殷は正確には「王朝」とは言えない、という可能性を大胆に示唆するものである。 「王朝」とは、王位を世襲的に独占する王家(同一血縁の家族)である。 一方、殷代には、後述するように著者は「王位は、王族組織を形成する諸集団に共有されていた」として、それは「王朝」とは言えないとするのである。 そして、 「王族組織を形成する諸集団」の実質は、「王位」というものを「首長」に置き換えれば「首長層」に他ならない。 つまり為政者=支配層の有り方も、殷代は仰韶文化期と変わらぬ構造にあったことになる。 著者は松丸道雄氏らの研究を紹介している。 彼らは、『史記』の司馬遷以来、世襲(父→子ないし兄→弟)を前提とすると考えられてきた殷の王位の継承を疑った。 「そのときに注目されたものが、死後の諡号(しごう)である王名・妣名(ひめい、妣は亡き母の意)にみえる十干(じっかん)である。 十干とは、そもそもは殷代では10個あったと信じられていて太陽の名として使用されていた文字であった」 仰韶文化の後期以降、大きな集落に小さな集落が従属するという累層的な構造(族邑−属邑)が各地に出現した。 殷もその延長線上にあって、そうした累層的な構造(族邑−属邑)をもったいくつかの集団が結集することで成立した王権とされている。 当然、殷の首長とその都は「族邑群統合の象徴」であらねばならず、「王位」という統率者と「都邑」という支配拠点が創出された。 ここでポイントは、結集した集団が、それぞれ個別に存在し一つの王族集団を形成し続けたことである。 これは「くに」ぐにを連合する「くに」であって、たとえば封建制や郡県制で中央が集権するような「国」ではない。 ちょうど、共立された卑弥呼が「くに」ぐにの連合を保全すべく「『くに』ぐに統合の象徴」としてシャーマン的な女王となり、邪馬台国を連合の祭政拠点としたことと同じ構造である。 紀元前十数世紀の殷と紀元後二〜三世紀の邪馬台国との間には千年以上のタイムギャップがある。 しかし、殷も邪馬台国も、人間が神に対峙するパラダイム=神が人間を支配するパラダイムにおいて、人間と神を繋ぐ媒介者(帝=天の意思、を甲骨を焼いて聞きとる者や姫巫女)として「王位」が位置づけられる体制であることにおいて変わりない。 「殷王の政治的判断が、甲骨占いによる帝(すべてを統治する至上者)の意思に従ったものであること、王の命令は帝の命令であり、絶対的であるのは帝であることを考慮すれば、王は帝の意思を甲骨占いによって受け取り、それを王族組織を構成する全構成員に王命として伝える媒介者にすぎないことになる。 帝が人を支配するというように殷代の権力構造を理解すると、巨大な土木工事なども王権の絶対性を意味するものではなく、王権と帝との関係による産物とすることも可能である」 むしろ、殷を滅ぼした周は、人間同士の関係性を捉えるパラダイムにシフトし封建制などの導入によって人間が人間を支配する体制に転換しているのであって、体制の構造としては殷から周が遠く、邪馬台国が近いと言える。卑弥呼が行った鬼道が獣骨を用いる骨卜をしていたならば祭祀的にはまったく同じだ。 (これを、中国大陸よりも日本列島が文化的に千年以上遅れていたと考える向きもあろう。 しかし、縄文時代の交易共同体としての大集落が大陸と交易していた文化様相からして、それは短絡ではないかと思う。 意図的に殷代までの人間が神に対峙するパラダイム=神が人間を支配するパラダイムを善きものとして温存し継承した勢力があった、と考える方が自然である。 卑弥呼を共立することで連合を保全した「くに」ぐにとは、同じテュルク族の渡来民を祖とする勢力であって、テュルク族は紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族、匈奴の鉄生産専従民であった。その末裔はその共同体の有り方を温存して継承してきたと考えられる。 そんな彼らの<部族人的な心性>が、周代以降の中国において極まっていく「国」の<社会人的な心性>を嫌い受け入れずに日本列島に渡来してきたとも考えられる。それは「国」同士が戦いに明け暮れる戦乱の世において、鉄生産専従民ゆえに「国」によって強制的に武器製造に動員される繰り返しから逃れたということかも知れない。 <部族人的な心性>というとあたかも未開部族をイメージしがちだが、鉄生産専従民のテュルク族は当時、今でいうハイテク集団だった。 今日でも、ベンチャー企業の方が狩猟民族的な大胆な思考と行動をして、大規模組織で体制が機械論的に整備された大企業の方が人材を人間論的に活性化させないという事態がある。大企業の社員でも先端的な職能者ほどスピンアウトして起業する傾向がある。テュルク族も同様で、「くに」の支配が都市国家的な点を線で結ぶ様相だったものが、「国」の支配の領域国家的な面でおさえる様相に向かっていく旧大陸を脱して、日本列島という新大陸を目指した言わば「ベンチャー部族」だったと言える。 5~6年間続いた「倭国大乱」が卑弥呼が共立されて収束した、その前に男王の時代が70~80年間続いたとされる。 それは、殷のような主要な「くに」の男王の交代制だったのかも知れない。 テュルク族は鉄生産をコアコンピタンス(競合に真似できない核となる能力)とする勢力だったから、「倭国大乱」は、拡大する需要に対して供給が追いつかなくなった鉄資源をめぐる争いだったのかも知れない。 あるいはそれと並行して、それまでの政略結婚による縁戚関係づくりが破綻したのかも知れない。岩鉄を原材料とするテュルク族は、砂鉄を原材料とする出雲族と対立していく。その際、出雲族と友好政策をとる派と対抗政策をとる派の分裂が生じた可能性はあろう。友好政策をとる派の首長層は出雲族の首長層と縁戚関係を結んで支援や援軍を仰いだ可能性も否定できまい。「倭国大乱」というからには、テュルク族の内紛では済まない出雲国を巻き込んだ戦乱規模だったのかも知れない。) 結集した集団が、それぞれ個別に存在し一つの王族集団を形成し続けた、そういう状況で問題になるのが「王位」の継承である。 それがこのように解決されたと著者は解説する。 「殷王がこの集団のなかから出現し、王族集団を代表する存在となるのであるが、 その王名・妣名が十干で表現されていたということである。(中略) 独自性を維持しながら殷の王族組織を形成した集団が10個であったこと、彼らの信仰の対象であった太陽の数と、この殷の王族組織を形成する集団の数が一致していたことなどから、殷王族を構成する集団の一つ一つに太陽と同じ名前をつけ、その集団の一つ一つをそれぞれの太陽の末裔として位置づけたという仮説が出現するのである。 あるいは太陽の数と一致させるために10個の集団で殷という王族組織を形成した可能性さえも考えさせる。(中略) したがって殷王は王族組織を形成する10個の集団の代表として、地上における10個の太陽の末裔を代表するものとして、宇宙の統括者である帝と対面することになる」 そして、 『史記』の殷本紀にもとづく殷王室世系では、生前の名が記されていて姻戚関係が明快ではなかったのだが、 死後の諡号(しごう)である王名・妣名(ひめい、妣は亡き母の意)を十干(じっかん)で表現した甲骨文にもとづく殷王室世系によって、以下のように10個の集団の首長が交代で「王位」についていたことが判明したのである。 著者は「家族形態」を主題にこのように整理している。 「累層的構造の下層に位置づけられる集落の住居跡が今日までいくつか発見されているが、それらはみな半坡・姜寨の集落遺跡にみられたものと同じ形態をもった住居で、その規模・構造がほとんど変わらない(中略) 殷代の一般の家族について、寝食をともにする居住単位としての家族は、依然として小型住居を範囲とし、氏族によって形成される婚姻単位としての家族は、王族集団をみるかぎり、その十干の名を付せられた10個の集団がそれに該当するのと同様の構造をもっていたことになる」 「もう一つの経済単位としての家族は、例えば青銅器鋳造、貞人集団(筆者注:甲骨の入手や占いの実務を行う集団)、製陶など族的な結合をもつ職業氏族などの存在から類推すれば、婚姻単位としての集団より小さな範囲に存在する可能性もあると思われる(中略) 累層的構造のもと、その上層の集落のみでなく中・下層の集落においても、内婚制・外婚単位といった婚姻制度は原則として継続されているものと想像される。したがって経済単位としての家族の範囲もそのあたりと考えられよう」 次項(2)では、周代からの「②=婚姻単位としての家族の変容」についての本書の論述を検討しつつ、ひきつづき日本列島における「家族形態」史を対照して検討していきたい。 (2) へつづく。
by cds190
| 2017-07-15 10:31
| ☆発想を促進する集団志向論
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