日本人の「仕事感」ならでは色濃い信仰性(13) |
暗黙裡の、とは、儒学者や『論語』を学習した武士はじめ庶民がお上の意向を忖度することを陰に陽に強いられた、ということである。この区別は概念的な「明示的」ではなく漠然とした「暗黙知と身体知」であった。
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2017年 07月 04日
「儒禍 二千年の呪縛」黄文雄著 光文社刊 発
本項(13)では、江戸時代の日本儒教に焦点を当て、その中国儒教との違いや国学や心学との位置関係を概観する。 明示知 暗黙知と身体知 「為政者の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ 「民間の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ 具体的には再びこの概念ポートフォリオを使って「一般的な人間現象としての宗教」「信仰の実践」の全貌を検討していきたい。 江戸時代の日本儒教は、江戸幕府を打ち立てた徳川家康がその支配のダイナミズムとして「思想の力」を動員したことに始まる。 織田信長は武力で天下統一の寸前まで行ったが破綻した。 豊臣秀吉は財力で天下統一を維持しようとしたがその死後、豊臣政権は破綻した。 家康は、武力と財力の限界を知り、また外向的な交易主義よりも内向的な農本主義を選択し、そんな幕藩体制を統率するダイナミズムとして「思想の力」を動員した。 具体的には、家康(1543~1616)は、26才年下の金地院崇伝(1569~1633)やさらに崇伝の14才年下の林羅山(1583~1657)といった儒学者を政策ブレインとして重用し、儒教を基本的思想として踏まえた武家の規範「武家諸法度」を起草させた。 明文化された法令は「明示知」であるから、 この江戸時代の日本儒教の「一般的な人間現象としての宗教」のスタートは、 明示知 暗黙知と身体知 「為政者の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ 「民間の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ に位置づけられる。 「武家諸法度」は武家により厳守され、幕府は運用を工夫し後の将軍とその政策ブレインが改訂を加えていく。 この段階で、幕藩体制の為政者=支配層である武家の「儒教的な心性」が「暗黙知と身体知」として形成されていった。 具体的には法令遵守を原則として、それにうまく対応して建前を保ちつつ本音を活かす工夫が幕府側と諸藩側の両方によってなされた。将軍・藩主側と家臣側の両方によってもなされた。武家社会の一員としてそれぞれが存続するための法令の運用や解釈とは主観的なものであって、立場やTPOという文脈への依存性が高い(高コンテクストな)「暗黙知と身体知」であった。 よってこの段階は、 明示知 暗黙知と身体知 「為政者の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ 「民間の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ に位置づけられる。 江戸幕府が中国儒教から抽出した日本儒教の内容はとても偏っていた。 それは「主君に対する家臣の忠義」に集中し、それを中国の家族制度(宗族社会)とは異なる日本型の「お家至上主義」に帰着させたものだった。 そして「お家至上主義」は、士だけでなく農工商の庶民全体に制度として敷衍された。 それは家族を家父長制の世帯単位として戸籍で把捉することを基盤とした。具体的には「宗門人別帳」や「寺請制度」によって、庶民の定住と移住が管理され生死が把捉された。無論これは幕藩の徴税の土台となる。そしてこうした体制を否定するキリスト教は弾圧され、宗族を前提とする儒教葬までが排除された。 ここで、日本人の「儒教的な心性」が「お家至上主義」の枠組みに限界づけられていて、限界づける手段として葬式仏教化した「仏教的な心性」が援用というか混淆されたことが見てとれる。 読み書き算盤に終始した農工商の庶民が漢籍に親しんだとは考えられない。だから彼らが血肉化した「儒教的な心性」とは、結局のところ、「お家至上主義」が家父長と一般家族といった真正の家族だけでなく、お上と下々、主と奉公人、町役人と一般町人、村役人と一般百姓、大家と店子、親方と弟子、師匠と門弟、親分と舎弟といった様々な疑似家族的な「世間」で入れ子構造に展開する規範であった。 そうした「世間」の規範は、明文化されないが厳格に守られる掟や習わしといった「言わずもがなのお約束」になった。 現代日本で言われる「空気を読む」が厳格に制度化、慣行化していたと言えよう。 「言わずもがなのお約束」や「空気を読む」は「暗黙知と身体知」である。 よってこの段階は、 明示知 暗黙知と身体知 「為政者の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ 「民間の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ に位置づけられる。 たとえば、「あんなことをしているといい死に方はできない。畳の上では死ねない」などという。 畳が庶民に普及したのは江戸時代である。つまり、それぞれが帰属する「世間」でその規範である「お家至上主義」の枠組みから外れた言動をして省みないと「家でしねない=畳の上で死ねない」とされた訳である。 何をどこまですれば「家でしねない=畳の上で死ねない」かは主観的で、個々としてはその立場による微妙な違いがあり、「世間」としてはその最大公約数的な主観や、支配的な大物の主観が基準となったのは今の日本人の「世間」と同じである。 「明示知」は、法令のような明文化されたコンテンツばかりではない。 目に見えて明かに示す物事、誰が見ても同じに見える文脈依存性の低い(低コンテクストな)モノやコトも「明示知」である。 規範の重要な要素である序列、それを目に見えて明かに示す衣服の形式や色、身分によって立ち入りが許されたり許されなかったりする領域や、その場における座る場所の高低や上座下座なども、それ自体としては「明示知」である。また、目上の者が目下の者に対応する、あるいはその逆の行儀作法も、それ自体としては明快に共有されうる「明示知」である。 そういう物事をひっくるめて「格式」と言うが、江戸時代は武家ばかりでなく、農工商それぞれの上位階層も下位階層を差別化するべく「格式」を重んじるようになっていった。 よってこの段階は、 明示知 暗黙知と身体知 「為政者の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ 「民間の宗教」 ◯◯◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ に位置づけられる。 士農工商の「身分」格差、同じ身分内の「地位」格差が重視されていく訳だが、その強調を思想的に正当化したのは中国儒教から抽出した、君子と小人、男と女子供の格差を肯定する思想と言えよう。 (ちなみに「長幼の序」は、石器時代の部族社会にもあった<部族人的な心性>でありわざわざ儒教から抽出して得たものとは言えない。一方、石器時代の部族社会では、母性を崇める信仰性があってその<部族人的な心性>はけっして男尊女卑ではなかった。よって、男尊女卑は中世の武家社会から盛んになり江戸時代に農工商にも一般化したと考えられる。) たとえば、「礼記」に由来する「男女七歳にして席を同じうせず」や、孟子の「君子は厨房に近づかない」を誤解したとされる「男子たる者厨房に入るべからず」といった、規範として「男女」格差を明示する言葉は「明示知」である。 そして、それを踏まえた行儀作法も目に見えて明かに示す行動であり、それ自体は「明示知」と言える。ただしその人々による行動は、文章に定着している訳ではなく、人によって、あるいは時と場合(TPO)や場の空気によって規範が遵守されたりされなかったりする訳で、その規範の運用の塩梅は「暗黙知と身体知」と言える。(これは日本に限らないことで、たとえば中国の皇帝は礼儀として跪く相手に「免礼」と言って身体を起させたり言わずにそのままにさせたりした。日本の殿様が平伏している相手に時に「面を上げよ」とか「もそっと近う寄れ」と言って例外的な対応をするのと同じである。) 総じて、 「格式」を重んじる階層やTPOほど、 目に見えて明かな「明示知」の規範を厳守し、 「格式」を軽んじる階層やTPOほど、 その場に居合わせた者が互いの主観による見合いで「明示知」の規範を捨象して 言わずもがなに共有する「暗黙知と身体知」の規範で済ました と言えよう。 たとえば、 武家の子女が学びの場では「男女七歳にして席を同じうせず」だが、 百姓の若い男女が村祭りの夜ではその逆である。 こういうことは古今東西にある現象で、日本の場合、「格式」の尊重とそれにのっとった規範の遵守を正当化するものとして一般庶民も共有した「儒教的な心性」があったということである。 日本の特徴は、 武家の子女が学びの場では「男女七歳にして席を同じうせず」という「儒教的な心性」を働かせ、 百姓の若い男女が村祭りの夜では、本居宣長曰く、人間のあるがままの感情を、善悪の倫理的な判断に及ぶことなく、そのままに肯定する「大和心」=「神道的な心性」を働かせる という社会全体で共有する感情母体の融通無碍さである。 すでに本シリーズで、 フロムが儒教を「権威主義的な宗教」と位置づけたこと、 それが、権威者と権威に従う者との関係である 批判的な父親(Critical Parent)と順応する子供(Adupted Child)のCP〜AC関係 を一貫する体系にあること を検討した。 そして、 古今東西の人々の「一般的な人間現象としての宗教」においてCP〜AC関係だけでは心理的に安定せず、 必ず保護的な母親(Nurcharing Parent)と自由な子供(Free Child)のNP〜FC関係を補完してきた ということを指摘した。 キリスト教におけるマリア信仰、仏教における阿弥陀信仰、 中国人の「一般的な人間現象としての宗教」における儒教に対する仏教の阿弥陀信仰や道教の神仙信仰 である。 江戸時代の日本人の「一般的な人間現象としての宗教」においても、 「主君に対する家臣の忠義」や「格式の尊重」といった規範や序列の遵守を骨子とする「儒教的な心性」のCP〜AC関係だけでは心理的に安定しない。 日常の規範や序列を捨象する非日常の祭りや無礼講における蕩尽や熱狂を骨子とする「神道的な心性」のNP〜FC関係を補完した。 これによって、個々と「世間」の両方が心理的な安定を健康的に保全することができた。 このCP〜AC関係とNP〜FC関係の相互関係が、武士と町人の対峙という形で象徴的かつ集中的に展開したのが幕府お膝元の城下町、江戸であった。 そして、その江戸を中心とした都市型消費市場において、新たな日本人の「仕事感」が生まれそれならではの信仰性が形成されていった。 以下、そこに至る「一般的な人間現象としての宗教」「信仰の実践」としての日本儒教の経過を、知識概念ポートフォリオを用いてさらに詳しく検討していこう。 江戸時代の「儒教的な心性」の展開を知識概念ポートフォリオで概観する 明示知 暗黙知と身体知 「為政者の宗教」 ① ② 「民間の宗教」 ④ ③ 家康が、26才年下の金地院崇伝やさらに崇伝の14才年下の林羅山といった儒学者を政策ブレインとして重用し、儒教を基本的思想として踏まえた武家の規範「武家諸法度」を起草させた。ことはすでに述べた。 これは「為政者の宗教」×「明示知」である。 ② 江戸幕府による「儒教」と「儒学」の暗黙裡の区別 ここではまず「近世儒学の祖」と言われる藤原惺窩から検討したい。 藤原惺窩は、公家の三男として生まれ京都の相国寺に入り禅僧となり朱子学を学ぶ。儒学を学ぼうと明に渡ろうとするが失敗。朝鮮儒者との交流を経て、それまで五山僧の間で教養の一部に過ぎなかった儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学も受容する包摂力の大きさを特徴とする。 秀吉と家康に儒学を講じていて、家康に仕官を要請されるが辞退して門弟の林羅山を推挙した。 どうも学究肌で、政治的な野心は希薄でむしろそれを嫌った御仁だったのかも知れない。和歌や古典にも通じていた。 朝鮮が陽明学を異端として完全に排斥したのに対して、江戸幕府が陽明学を許容した理由は分からないが、家康に対する惺窩の影響があったと考えて自然である。 このことはその後の日本の歴史に大きく働いていく。 そして、家康も朱子学を重視して陽明学をパスした。パスはしたが排除はしなかったことが後々、大きく働いていく。 このことは、幕府の「儒学」を奨励するが「儒教」は警戒するという姿勢となった。 この「儒教」と「儒学」の暗黙裡の区別ということが日本儒教の大枠の特徴と言えよう。 この区別をどこで線を引くかということは、ケースバイケースで関係者が判断する「暗黙知と身体知」である。 宗教には、宇宙観と死生観がその土台として備わっている。儒教の場合、それらに立脚した「易姓革命」の思想がある。『論語』の最後を飾る堯曰(ぎょうえつ)第二十では、太古の聖天子「堯・舜」から殷・周の「湯・武」までの「革命」の系譜が述べられている。「天命を受けた者が新王朝を開き、天子の姓が変わる」という原理である。 一方、古代の日本人の為政者=支配層は、八百万神に連なる自然や風土を神として、それに共同体として対峙する、その媒介者であるシャーマンの特性を天皇に託した。そのような天皇は神話時代の天孫から連なる万世一系でなくてはならない。当然、「易姓革命」の原理とは根本的に相容れない。聖徳太子もその時代のエリート層も、儒教の宇宙観と死生観とそれらに立脚した「易姓革命」はスルーして、つまりは儒教を宗教としてではなくあくまで教養として受けとめたのだった。 そのような教養としての捉え方が江戸時代、藤原惺窩が改めるまで続いていた。 そして、儒教が盛んになって、天皇家を権威づける方向に働いても危険だし、将軍家の交代を正当化する方向に働いても危険だと、儒教の取り扱い注意を認識した筈である。 結果、家康は、儒教を幕藩体制の精神的支柱として『論語』の「思想の力」を統治に活用するにおいて、儒教の危険性の除去を徹底する。それが、幕藩体制の統治を念頭においた「危険性含みで取り扱い注意の儒教」と「危険性を除去した儒学」との暗黙裡の区別だった。 暗黙裡の、とは、儒学者や『論語』を学習した武士はじめ庶民がお上の意向を忖度することを陰に陽に強いられた、ということである。この区別は概念的な「明示的」ではなく漠然とした「暗黙知と身体知」であった。 しかし、儒教徒の圧迫と儒学者の重用という明白な扱いの違いから、お上の意向という線引きがどこかに厳然とあることはどんな間抜けでも了解していてそれを忖度した。 つまるところ、家康が『論語』の「思想の力」として利用したのは、幕藩体制を安定化させる「忠」と「孝」だった。 「危険性を除去した儒学」において、 「忠」は主君と家臣の関係に特化された。 「孝」は「お家至上主義」を踏まえて日本型に誘導された。 以上を基本方針として、 基本単位を「お家」とせず「宗族」とする儒教葬や儒教墓は、幕藩体制の統治への「危険性含みで取り扱い注意の儒教」の危険性の核心であるから徹底的に排除された。 幕府はキリシタンではないことを寺院に「寺請証文」によって証明させる「寺請制度」をしいた。これは宗教統制ではあるが、キリシタンのほとんどを一掃した後も全国津々浦々で継続されたのは、幕府の永続的な重要目的を果たす手段だったからである。 「寺請制度」により必然的に民衆は寺院の檀家となった。寺院では現在の戸籍に相当する宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際には寺請証文が必要とされた。それが、定住社会を前提とする「お家至上主義」の「お家」を基礎単位として把捉して民衆統治を着実なものとする土台となった。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入が保証された。一方、寺院は檀家信徒を教導する責務を負わされ、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うことになった。僧侶を通じた民衆管理が法制化され、寺院は事実上、幕府の出先機関の役所と化した。戸籍の基本である民衆の出生と死亡を把捉するようになった。 つまり、「葬式仏教」化とは、幕府による寺院の民衆の出生死亡の把捉機関化だった。 そして、幕府はこの機関で把捉できない民衆を発生させる宗教宗派を弾圧ないし圧迫したのだった。 (参照:「江戸時代、武士以外にも共有された「武士的な心性」(5:結論) 「お家至上主義」の土台となった宗教統制とそれを受け入れた事勿れ主義」 「思想の力」というと、為政者=支配層の支配力学としては抽象的な感じがするが、それが具体的な「一般的な人間現象としての宗教」に展開されることによって、以上のような民衆=被支配層に対して制度的かつ心理的な拘束力となるのである。 「危険性を除去した儒学」の「思想の力」によって盤石な支配体制ができて太平の世が構築された。 しかし、これを揺るがしていくのが「危険性含みで取り扱い注意の儒教」の陽明学だった。 黄文雄氏は「儒禍 二千年の呪縛」で、 「日本の陽明学は、中江藤樹と、その後継者である荻生徂徠が陽明学を褒めたたえたことから始まった。(中略) 江戸後期の日本に、絶大な思想的影響を与えた陽明学者は、幕府文教の実質的中心人物であった佐藤一斎(1772~1859)である。彼の代表的な著書『言志四録』は、佐久間象山、吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛ら日本を大きく動かした人物たちに、多大な影響を与えた」 と述べている。 ここで、中国陽明学の実態と日本陽明学の実態とを比較検討して「革命」に向かう知識創造論を挿入したい。 それは、 主語主義にある「明示知」を優先し、述語主義にある「暗黙知と身体知」の本音や実態を「明示知」の建前で解釈する 中国人の傾向 と 述語主義にある「暗黙知と身体知」の本音や実態を優先し、主語主義にある「明示知」の建前の方を融通無碍に解釈する 日本人の傾向 との対照性を確認することになる。 以上の 中国人の傾向は、本居宣長の指摘した「唐国の理」と重なる。 日本人の傾向は、本居宣長の指摘した「大和ごころ」と重なる。 (補足:主語になる内容を実体と捉えるのが主語主義、 述語になる内容を実体と捉えるのが述語主義。 現代の日本人の述語主義の象徴的事例の筆頭は、憲法の条文を変えずに解釈を変えて現実的に対応する「解釈改憲」だろう。そんなやり方は中国人も欧米人もしない。) そもそも儒教は「革命思想」であった。 幕府が嫌った「易姓革命」は、天下を統一して皇帝となった者を、天命によって選ばれた天子だと、起こった実態を後づけで正当化するものだった。つまり、起こった「革命」を後づけで正当化するものだった。 一方、幕府が当初から排除せず容認し後に倒幕派の精神的支柱になった陽明学は、悪い世の中を良い世の中にするためにこれからする「革命」を前向きに促進するものだった。つまり、起そうとする「革命」を前もって正当化するものだった。 ざっくり言ってしまうと、 日本人には、 前者の結果論的な「易姓革命の革命思想」が嫌われ、 後者の前途論的な「陽明学の革命思想」が好まれた。 その根底には、 前者が 主語主義にある「明示知」を優先し、述語主義にある「暗黙知と身体知」の本音や実態を「明示知」の建前で解釈する傾向にあり、 後者が 述語主義にある「暗黙知と身体知」の本音や実態を優先し、主語主義にある「明示知」の建前の方を融通無碍に解釈する傾向にある ということがあると考えられる。 黄文雄氏はこう解説している。 「朱子はものを通して(筆者注:格物致知の格物=物事の道理や本質によって)心理を追求するのにたいし、 王陽明は心のうちに心の理を求める。 朱子学が、認識する主体とされる客体と二元論的な立場にしたがって、ものの理を極める(筆者注:格物致知=真理を究明する)のにたいし、 陽明学は心即理、良知即天理を主張する」 朱子学が、 理学として、誰でも客観的に同じに理解し共有できる(低コンテクストな)主語になる概念要素である「明示知」によって構築されている のに対して、 陽明学は、 心学として、人それぞれ主観的に体得したり実践したりそれができなかったりする(高コンテクストな)述語になる概念要素である「暗黙知と身体知」によって構築されている という対照性が見てとれる。 幕府は朱子学を奨励したが、それでも朝鮮のように陽明学を排除することなく容認し、倒幕派だけでなく、水戸徳川家のような尊王攘夷派までが陽明学に影響されたということは、 日本人の精神的な体質が本質的には朱子学的ではなく陽明学的であるということに起因すると考えられる。 このことは重大で、 日本人にとっての「儒教的な心性」というものが、 江戸時代において、 朱子学的な「唐国の理」優位から 陽明学的な「大和ごころ」優位に 実質的に転換したと捉えることを可能とする。 そしてそのため、 自然と「神道的な心性」と調和的に融合して国学が生まれたと捉えることもできよう。 黄文雄氏は、陽明学について朱子学と対比して以下のように解説している。 「王陽明の有名な説の一つに、『致良知』がある。 朱子は、『致知』とは『知識(筆者注:基本的に主語主義にある「明示知」)を深めること』と説いたが、 陽明は、人間は誰でも心の中に生来の『良知』を十分に発揮できる能力があると説く。 ここでいう『良知』とは、天理、至然、誠であり、自己が本来所有している人間としての本質を指す。 『致知』の本義は、『良知を致す』ことであり、『致良知』という」 「師から(筆者注:師の言葉から)、あるいは経書から得たもの(筆者注:「明示知」)は真の『良知』ではない。 それ(筆者注:真の『良知』)は、多くの経験をし、生死の狭間に立ってやっと自覚できるものであり、百死千難から得られるもの(筆者注:「暗黙知と身体知」)であるとされ、実践を強調し、朱子学の唯識主義を否定するものである」 「朱子学が、『君臣の義』を強調する学問であるのに対し、 陽明学は一人の君主ではなく天下、国家、民衆に対する忠誠心を強調する。つまり愛国愛民としての、民族主義的な思想なのだ」 「王陽明は、絶対的な権威は自分の心にあるとして、朱子や孔子が主張していた権威に追従する考えはよくないと言った。仏教や道教に対しても、同様の批判をした。王陽明の主張とは、『学は天下の公学なり』であり、これは革新的思想として人々から歓迎された」 「陽明学とは、いってみれば孟子の『性善』説から、宋の陸象山の心学に傾倒して、独自の論理を完成させたものである。 陽明学のキーワードは『心の陶冶(とうや)』であり、『山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し』という言葉が陽明学を象徴している」 「朱子は『先知後行』、つまり認識が先にあり実践は後からついてくると教えた。まずは、聖賢の教えを学んでからでないと、正しい行動ができないということだ。 それに対して、王陽明が見た大儒学者たちは、実際に知を極めたとしても実践ができない人々だった。だから王陽明は、理性ではなく心がすべての行動を決めると主張した。 そこでできたのが、 朱子の『性即理』『先知後行』と、 王陽明の『心即理』『知行合一』といった、 真っ向から対立する二つの主張である」 日中双方で陽明学の漢籍は同じものを読んでいるにも関わらず、「一般的な人間現象としての宗教」「信仰の実践」である、陽明学者やその影響を受けた人々の実態を比較すると日中で大きな違いがある。 中国側の実態を知るには王陽明その人のことを知るのが一番である。 王陽明は、単なる学者ではなく官僚もしていた。南京兵部尚書という今でいう国防省長官に相当する役職についていて、朱子同様に大中華主義者であった彼は、福建省で仕官した間、少数民族の大虐殺を徹底的に断行した。 学者であり官僚という点では、町奉行職を辞して陽明学の塾を開いていた大塩平八郎と重なる。しかし日本人からすると、困窮する民のために幕府に反乱した「弱きを助け強きを挫いた」平八郎と、少数民族を大虐殺をして「強きを助け弱きを挫いた」王陽明とでは、真逆の人格を感じない訳にはいかない。 それでも王陽明が自他ともに悪人とは思わないのは、現代中国でチベット自治区書記時代に徹底的に「暴乱を鎮圧した」功績によって国家主席に上りつめた胡錦涛と同じである。ざっくり言ってしまえば、仮に大虐殺をしたとして、日本人はそれを無かったことにしようとするが、中国人は有って当たり前と正当化するのである。ここには、どちらが良い悪いの問題の以前に、日本人と中国人の発想思考の違いがある。 中国人の 大中華主義→徹底的に「暴乱を鎮圧した」功績→実力者(主体の人間性を情緒において問わない) という発想思考は、 やったこと(天下統一や大虐殺)を 主語主義にある「明示知」を優先し、述語主義にある「暗黙知と身体知」の本音や実態を「明示知」の建前で解釈する傾向において 正当化するものに他ならない。 根本的には、結果が中国人(漢民族)にとって良ければ天意が導いた結果として論理的に正当化される。 これに対して、 日本人の 戦争時の国際法に違反してない→とは言え結果として大虐殺となった→後ろめたく大虐殺はなかったとする(主体の人間性を情緒において問う) という発想思考は、 やったが悪気はなかったこと、ないしはそもそもやっていないから後ろ指をさされる言われはないことを 述語主義にある「暗黙知と身体知」の本音や実態を優先し、主語主義にある「明示知」の建前の方を融通無碍に解釈する傾向において正当化する、ないしは主張するものである。 根本的には、結果がどうあれ、日本人は自分は悪人ではないという状況を証拠立てようと注力する。 おそらく、 日本人が中国人(漢民族)のチベット人虐殺を責めても暖簾に腕押しであるように、 中国人が日本人の南京大虐殺を責めても暖簾に腕押しなのだろう。 事実を認めて正当化する中国人(漢民族)の論点とその論理の通し方と、 事実を認めないか悪気はなかった状況を証拠立てる日本人のこだわりとこだわりの通し方とは、 ずっとすれ違い続けるに違いない。 なぜなら根底にある発想思考の違いによるのであり、実際にそうなっているように見てとれる。 話を戻せば、 大塩平八郎のような敗者は、いくら人格が高潔で理想が高くても、中国人にとっては偉人にはならない。 (このことは、「権力と権威の一致」というパラダイムとも通底している。) 胡錦涛のような虐殺者は、いくら国家主席にまで上りつめても、日本人にとっては偉い人にはならない。 (このことは、「権力と権威の不一致」というパラダイムとも通底している。) このことと同じ構造的な対照が、 中国陽明学の実態と日本陽明学の実態との間にもあるのである。 (幕藩体制という枠組みでは「権力と権威の一致」のパラダイムだったが、 尊王攘夷という枠組みでは「権力と権威の不一致」というパラダイムとなった。) 黄文雄氏はこう解説している。 「王陽明に言わせると、『蛮夷の性はなおも禽獣野鹿のようなもの』で、彼らが教化を拒み、反乱するのは天理に反するものだと唱えた。だから、『わしが彼らを殺すのは、わしが虐殺好きなのではなく、天が彼らを殺す天殺だ』と弁じている。 彼は普通の思想家とは違って、生涯の中で死ぬか生きるかというような場面が何度もあり、そういう環境の中で形成されてきたのが陽明学なのだ。(中略) それが王陽明が唱える『知行合一』の『実践哲学』『力行哲学』の論理である」 江戸時代の日本儒教における日本陽明学の実態は、中国陽明学の実際を、日本人の心性が理想とするような形でかなり純粋化したものであることが了解される。 清の末期に日本に来た中国人留学生が、この純粋化された日本陽明学を中国に逆輸入したという。蒋介石もこれに凝り、今でも中国には陽明学会の会員が二万人くらいいるという。しかし、中国の陽明学関係者は詐欺事件などいろいろな事件を起しているという。 黄文雄氏は、 「中国の陽明学者というのは物欲がものすごく強い。(中略) 日本では、立派な人イコール陽明学徒だが、中国では陽明学者イコールペテン師というような印象が強い」 「陽明学に傾倒した日本人としては、中江藤樹(1608~48年)、熊沢蕃山(1619~91年)、大塩平八郎(中斎・1793~1837)等が有名である。歴代総理の指南役として有名な、安岡正篤(1898~1983)も陽明学者だった。 日本の陽明学は、(筆者注:三島由紀夫など)過激な理論と行動で、革命的なイメージが強い。 しかし、中国では、陽明学はどちらかというと悪いイメージがある」 これに至るにはいろいろな経緯があるが、朱子学が国教になってから、仏教だけでなく陽明学までも異端とされ、朱子学が禅と本質的に対立して陽明学まで禅とみなされた、ということがそもそもではなかろうか。 いずれにせよ、 陽明学を純粋化して革命の哲学、「革命思想」としたのは日本人だったということなのである。 どうしてそんなことになったのだろう。 黄文雄氏は、 「日本の朱子学者を見ると、誰もが書物に書かれていることを気まじめに受け入れている純粋な人ばかりだ」 「中国の知識人は、建前としては、儒教徒でも本音は法家か道家思想の信奉者であることが相場だ」 と述べている。 日本の陽明学者も「書物に書かれていることを気まじめに受け入れている純粋な人」で、さらに日本の陽明学徒は自分なりの実践を通じて「心の陶冶」に気まじめに傾倒していった。結果、日本陽明学は純粋化し「革命思想」にまで収斂したと言えよう。 「日本にとって、外的規範が色濃い朱子学よりも、個人の心を主体として重んじる陽明学のほうが理解しやすかった。幕末から明治、大正、昭和の時代まで、陽明学の影響力は衰えることなく、社会変革の志士を育て、社会発展の一大原動力となった。そこには、革命哲学としての陽明学の役割があったのである」 こうした純粋化は、論理における純粋化というよりも、論理の実践における純粋化であって、「一般的な人間現象としての宗教」「信仰の実践」としての純粋化である。 それはつまるところ、 「大和こころ」 述語主義にある「暗黙知と身体知」の本音や実態を優先し、主語主義にある「明示知」の建前の方を融通無碍に解釈する日本人の傾向 によるものである。 本居宣長は朱子学の理を「唐国の理」によってやまと人の『すぐなる心』をしばる結果を招いたと批判したという。 日本の陽明学徒は、朱子学によるそうした自己抑圧を跳ね返して「大和こころ」を活性化する方向で自己実現を純粋に図っていったと言えよう。 江戸時代の「儒教的な心性」の展開を知識概念ポートフォリオで概観する のつづき 明示知 暗黙知と身体知 「為政者の宗教」 ① ② 「民間の宗教」 ④ ③ ③ 「お家至上主義」の家職意識が士農工商の全階層に浸透 為政者=支配層としての武士は、幕府の旗本御家人や諸藩の藩士(上士・下士)の内の家職を世襲で担う者と言える。 「お家至上主義」とは、儒教の「思想の力」で強力に保全されたがその実質は思想ではなく、「お家」の構成員全体の保身である。 家職を世襲で担うのは必ずしも血縁者とは限らない。子供に恵まれない場合や、子供がいても凡庸で担わせることができない場合、養子や婿をとって家職をつがせた。また、幕府や藩に仕官した者が出世すれば、その上がった地位役割が世襲されたり、また逆に何らか失態をおかせばお役御免やお家断絶という後代に続く禍根となったりした。 よって、現代社会では世襲制というと実力主義に逆行するとされるが、江戸時代の武家は「お家」の家職や地位役割を守るため家内で英才教育を行ってお家芸の実力を育成したのだった。また、そのような後継者の育成が家内でうまくできない場合、後継者とされた養子や婿は相応の実力の持ち主が厳選された訳で、総じて当時の雇用機会に求められる専門性に照らした実力主義が展開していたと言える。 こうした「お家」の構成員全体の保身のための「お家至上主義」の家職意識は、武家ばかりでなく士農工商の庶民全体に普及した。 具体的には村役人を勤める農家、町役人を勤める商家などが、一般百姓や一般町人の家を差別化すべく「家格」を誇り、それを維持向上させることに努めるようになった。 彼らも家職を世襲で担うのは必ずしも血縁者とは限らない。子供に恵まれない場合や、子供がいても凡庸で担わせることができない場合、養子や婿をとって家職をつがせた。家業に求められる専門性に照らした実力主義が展開した。 以上は建前的には血縁関係となる「お家」の話である。 さらに擬制的な「お家」も知縁関係によって形成されていった。 それは具体的にはさまざまな志の縁の「志縁集団」である。 具体的には、歌舞伎の役者集団の「◯◯屋」や、落語の噺家集団の「◯◯亭」「◯◯家」、相撲の力士集団の「◯◯部屋」、任侠のヤクザ集団の「◯◯一家」などを筆頭に、さまざまな擬似的な家族集団が形成された。そのような集団では、家父長に相当する座頭、師匠、親方、親分と、子供に相当する弟子や門人との間に親子的な師弟関係が結ばれ、前者の妻は姉さん、姉御、などと弟子から呼ばれ母子的な関係性をもった。 こうした擬制的な「お家」の場合、同業の他家を差別化する「お家芸」を維持発展させることが「お家至上主義」の家職意識となった。 このような「お家」および擬制的な「お家」においても、 「危険性を除去した儒学」において、 主君と家臣の関係に特化された「忠」と 「お家至上主義」を踏まえて日本型に誘導された「孝」とが尊重された。 一方で、 革命の哲学、「革命思想」にまで純粋化した日本陽明学と相似形の心性も展開した。 それは多くの場合、反体制や異端として出発している。 武家の場合、結果的に「お家至上主義」から逸脱するものとなった。大塩平八郎とその嫡男が幕府に反乱し劇的な最後を遂げたこと、薩長や土佐藩で下級武士が上級武士から主導権を奪って立ち上がり最終的に明治新政府を樹立して廃藩置県を敢行したことなどの精神的支柱となった心性である。 農家の場合でも、商家の場合でも、歌舞伎の一座や浮世絵の一門の場合でも、それまでにないやり方をそれまでにない関係性の恊働において展開して新時代を切り拓いた異端がいた。単なる異端であれば、陽明学徒と相似形とは言えないが、反体制の異端の場合、陽明学徒と相似形の心性の持ち主と言える。 私はそのような士農工商を問わない、敢えて体制に満足せず異端となって世のため人のためになる何かを苦難を乗り越えて成し遂げた有志たちの心性を「武士的な心性」と名づけて一括した。 その本質は、 武士本来の役割を「世のため人のために」一途に全うすることであり、 商人も職人も農民もその本来の役割を「世のため人のために」全うする一途さにおいて「武士的な心性」を我が信条とすることができた。 つまり「武士的な心性」とは、 志をもった者のその実践において 「商人の心性」ともなりえたし、 「農民の心性」ともなりえるし、 「職人の心性」ともなりえたし、 「学者の心性」ともなりえた。 ただし、そういう志を抱いた異端や反体制の実践者というものはいつの時代も希少な存在である。 こうした主体にとって「武士的な心性」は、主観的なものであり、かつ異端や反体制ならではの逆境を乗り越える実践を経て陶冶されるものであるから、明らかに「暗黙知と身体知」である。 また、 武士有志の「武士的な心性」は、陽明学や陽明学徒から触発された可能性が想定されるのに対して、 農工商の有志の「武士的な心性」は、民にとって理想的な武士の人間性を自らの職分に置き換えた可能性が想定される。 現実に幕藩から武士身分に取り立てられて職務に励んだ農工商の有志もいた訳で、それは必ずしも本人にとって非現実的な夢想ではなかった。 一人、象徴的な人物を上げるならば、黄表紙や浮世絵の版元(出版人)であった蔦屋重三郎であろうか。 自由な気風を推し進めていた老中田沼意次の時代に次々に新機軸を打ち出してヒットさせたが、老中が松平定信となって寛政の改革が始まると娯楽を含む風紀取締りが厳しくなり、山東京伝の洒落本・黄表紙が摘発されて過料により財産の半分を没収されてしまった。 そうまでしても江戸の人々に新しい作品を届けようとした蔦屋重三郎の気概はまさに「武士的な心性」と言えよう。 そもそも私が「武士的な心性」という概念を想定したのは、 日本人の精神的な特徴が中国人や朝鮮人のように「儒教」を基礎とせずに「武士道」を基礎とする点にある とする一般論を批判的に検討するためだった。 「儒教」を基礎としないことについては賛成する。 しかし、一般的な日本人の精神性が「武士道」を基礎とするということには反対し、「武士道」や「武士の心性」と重なりをもつ「武士的な心性」という概念を想定した。 これは、江戸時代に形成され非武士身分にも、というより非武士身分にこそ明快に共有されて現代日本の一般市民にまで継承されてきたものである。 (詳しくは以下を参照: 「江戸時代、武士以外にも共有された『武士的な心性』(1) http://cds190.exblog.jp/25679287/ (2)http://cds190.exblog.jp/25687233/ (3)http://cds190.exblog.jp/25705792/) ④ 「武士的な心性」を表現した様々なコンテンツがヒットし定番化 しかしそのような主体はいつの時代も類い稀であり、一般庶民はそのような有志の挑戦者を尊敬し、世のため人のための志の達成者を賞賛し、そのような人物の登場を期待した。 そうした一般庶民の心情に対して、江戸の都市型消費市場が対応していく。 具体的には、「武士的な心性」を表現するさまざまなコンテンツが創作され提供されて、一般庶民にヒットし定着していった。つまりは、一般庶民の全体が「武士的な心性」の実践者とはならずとも、それを理想として賞賛し期待する「武士的な心性」の共有者となっていった。 「武士的な心性」の本質は、 武士本来の役割を「世のため人のために」一途に全うすることであり、 商人も職人も農民もその本来の役割を「世のため人のために」全うする一途さにおいて「武士的な心性」を我が信条とすることができた。 黄表紙や歌舞伎の娯楽コンテンツにおいて、「武士的な心性」は「強きを挫き弱きを助ける義侠心」に転換された。 一般庶民は、いわゆる「任侠もの」の黄表紙を読んだり歌舞伎を見て感動したり共鳴するを繰り返すことで、知らず知らずの内に「武士的な心性」を養い共有していった。 ここで、 黄表紙のような明文化されたコンテンツは「明示知」であり、 歌舞伎のような目に見えて明かに示す物事、誰が見ても同じに見えるという意味合いで文脈依存性の低い(低コンテクストな)コンテンツも「明示知」である。 同時代の一般庶民が城下町を中心に全国各地で「武士的な心性」を共有するには、黄表紙や歌舞伎のようなコンテンツの「明示知」が媒介している。 そして同時に、時代を超えて、たとえば現代の私たち一般庶民が、ある意味伝統的な「武士的な心性」を知り共感し共有することにも伝統的な文学や演劇が媒体となっている。 日本に限らない話だが、庶民の定番的な娯楽コンテンツが、「武士的な心性」や「義侠心」のような民族的かつ伝統的な心性を時代を超えて伝承し民族全体に拡散し続ける媒体となっている。 一つ、象徴的な例を上げれば、歌舞伎の題材となった江戸初期の歌舞伎者(傾奇者)、旗本奴と町奴の抗争において、町奴の頭目が「義侠心」にあふれた「侠客」として描かれたことである。 実際には、旗本奴も町奴も同じ反社会性を帯びた徒党でありその頭目は人入れ稼業を営む者だったのだが、歌舞伎の観客である町人の心理的ニーズに町奴の頭目が「侠客」として描かれることが歓迎された。 実際に江戸市中において、弱い立場にある町人を旗本やその中間の無法者から守ったということがあって、それを強調したということも多分にあったのだろう。 注目されるのは、こうした歌舞伎の演目のヒーローである幡随院長兵衛が、町人の「侠客」でありながら武家の出自であり、それが強調される演出がなされていることである。これは、武士の理想に程遠い旗本の倅などと対照的な、町人江戸っ子が理想とする武士像を仮託していると考えられる。 さらに、大坂の町人が理想とする武士像を体現した大塩平八郎が、江戸時代を通じて歌舞伎の題材となってその演目がヒットしたということがなく、それは明治新政府の樹立の後まで待たねばならなかったことである。これは、幕府が禁じたか、歌舞伎の関係者が自粛したか、その両方かであろう。 (詳しくは以下を参照: 「江戸時代、武士以外にも共有された『武士的な心性』 (4:間章)http://cds190.exblog.jp/25727972/為政者=支配層では、 朱子学に対して陽明学が台頭して、「唐国の理」の毀釈と「大和こころ」への回帰を主張する「国学」が盛んになった経緯や、西欧列強の文明を排除軽視した中国や朝鮮とその儒教とは違って、日本の幕藩とその儒教が西欧列強の文明の重視導入に積極的で「実学」が盛んになった経緯が、幕末に向けて政治的な思潮と動向を大きく方向づけていった。 一方、 民間=被支配層では、 江戸や大坂や京都を中心とした都市型の消費市場や情報市場における歌舞伎や黄草紙の娯楽コンテンツの普及が江戸当初から文化的な思潮と動向を大きく方向づけていった。 後者の農工商のレベルでは、そして下級武士の維新の志士のレベルでも、重要なのは自分たちの実生活や本人の実践である。 思想的なバックグラウンドが「陽明学」なのか「国学」なのかはたまた「心学」なのかといった理屈は厳密に重視されることはなかった。 いかなる理屈の持ち主であろうと、面前の物事において「強きを挫き弱きを助ける」「義侠心」を発揮できるかどうか、現代的に言うならば、幕藩という「部分に貢献する」のではなく日本および日本の民という「全体に貢献する」ことを狭隘なエゴを脱して実践できるかどうか、だけが常に問われた。 この問い掛けと本人なりのそれへの回答は、「任侠もの」の歌舞伎に共感するようなごく庶民的な「武士的な心性」で十二分にできることだった。 江戸時代の一般庶民レベルの「一般的な人間現象としての宗教」「信仰の実践」としての「儒教的な心性」は、 儒教の漢籍から導かれた儒教や儒学やそれに対抗する古学や国学などから導かれたものではなく、 「任侠もの」の歌舞伎に共感するようなごく庶民的な「武士的な心性」から育まれたと言える。 そしてこの心性は、現代の日本人の一般市民も持ち合わせていて、 共感はするが自らは実践はできないでいるか、共感するゆえに自らも実践しているか、 人それぞれの立場でそれぞれの実態を導いているものである。
by cds190
| 2017-07-04 11:14
| ☆発想を促進する集団志向論
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