江戸時代、武士以外にも共有された「武士的な心性」(1) |
日本人にパラダイム転換発想あり
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2017年 04月 09日
日本人の精神的支柱は武士道と言われることの実質 日本人の中国人や朝鮮人との違いとして、その精神的支柱が儒教ではなく武士道であるということがよく指摘される。 その主旨は分かるのだが、江戸時代、農工商の有志にも共有されたのは、士の実践した「武士道」そのものではなくて、正確には「武士的な心性」と呼ぶべきものだった。 それが、江戸幕府が大政奉還した後の明治新政府やそのもとで四民平等となった庶民にも共有されて、今日の国民一般にも共有されている。 一方、「武士道」ないし「武士道の精神」は軍国主義で強調されたり、今日の私たちが日本代表を「サムライ・ジャパン」と呼ぶことにまで連綿と息づいてきている。こちらが身体性に密着して身体性が不可欠の要素であるのに対して、「武士的な心性」は精神性に密着していて身体性が特段問われないことが多い。 身近な例をあげれば、こういうことだ。 あなたの勤め先の会社に気骨ある社員がいて、社会的には正しいと誰もが分かっているのだが職場で浮くためにできないでいることを、上役に睨まれようと周りに疎まれようとブレずにやり続けているとしよう。そのことに敬服して「あいつはサムライだよなあ」と言ったり思ったりする場合、あなたは彼を「武士的な心性」の持ち主と認めている。 本論シリーズでは、このような「武士的な心性」の実質を、東京大学資料編纂所教授の山本博文著「武士はなぜ腹を切るのか」の内容に沿って検討していきたい。 著者は、「士農工商」について、 「それはあくまで、社会で果たす役割の違いだったのです。 つまり、武士だろうが商人だろうが大工だろうが、商業や社会に対する役割が違うだけで、人間としては対等で、あくまで平等であると考えていた。お互いがそれぞれの役割を、尊重していたのです。 つまり、江戸時代というのは、決して、武士だけが威張っていた社会ではありませんでした」 「それぞれ、社会のなかで果たす役割は違っていたとしても、その役割を誠実に果たすことで江戸っ子たちは人生の充実感を得ていたのでしょう」 と述べている。 しかし、江戸の武家社会は厳格な格差社会であり、武家身分内でもその階層序列を維持することで社会が安定化していたのも事実である。 たとえば、豊前中津藩奥平家の家臣の家に生まれた福沢諭吉は、このような内容の証言を残している。 「武家身分のなかでは一番下の方にあたる足軽が上級家臣団に属する藩士に出会うと、下駄を脱ぎ路傍で平伏することが義務づけられていた。雨が降っていようが、それはまったく関係ない。足軽よりも身分が上の藩士であっても、家老クラスに出会えば、路傍であっても下座して平伏するのが習いだった」 この平伏させてる方の家老クラスや藩士が、威張っていたどうかは個人差があったりケースバイケースなのだろう。また、平伏させられてる方の下級の武士が、威張られていると感じたかも個人差があったりケースバイケースなのだろう。 問題の本質はそんなことではなく、身分というものが厳格に言動を制約する原理主義が働いていることである。 そして福沢諭吉がそのような身分格差に関わる前近代的な儀礼制度を否定的に捉えていたことは明らかだ。 著者自身、江戸っ子を引き合いに出していることからも分かるように、将軍家のお膝元の江戸は地方の諸藩とはまったく事情が違った。 地方の諸藩では、同じ藩の身内関係で士身分の者が路傍に下座平伏していて、居合わせた農工商身分の者がそうしないということはあり得ない。しかし、全国の諸藩から言わば他所者である江戸詰の武士が集まっている江戸城下でそのようなことをいちいちしていたら慢性的な交通渋滞になってしまう(百万を超えていた江戸の人口の半数五十万が町人で、ほぼ同数の武士が住んでいた)。 江戸っ子は概して江戸詰の武士を田舎者扱いしていて、子供でも恐れず水鉄砲で水をかけるなど悪戯をした様子が浮世絵になっている。江戸の町人は将軍家の民であるという建前だから、諸藩の江戸詰の武士が直接に対処できなかったということもあろうか。 さらに、江戸詰武士と江戸町人の関係は支配被支配関係ではないため、身分差を超えて他所者に対する地元民の縄張り意識が出やすく、子供が田舎侍をからかうような事態がふつうに起こったのだろう。 おそらく、地方諸藩の地元で威張っていて江戸城下でも同じ振る舞いを町人にしてしまう田舎侍もいたのではないか。それに江戸っ子が「ってやんでい、べらぼうめ!二本差しが怖くておでんが食えるかってんだ!」と対抗心を抱いた。そんな大人を見て育った子供が平気で田舎侍に悪戯をするようになった、ということではないか。 これは、 江戸町人の側から江戸詰の田舎侍に対する 「あんたら武士の本来の役割は庶民に威張り散らすことじゃねえだろっ」 というしごくまっとうな主張だった。 江戸町人は、武士本来の役割を一途に全うする武士には、それが旗本直参だろうが地方小藩の家臣だろうが賞賛した。赤穂浪士を義士として尊敬して喝采したことなどが象徴的だ。 町人が武士を尊敬し自らの信条にも取り入れたのは、やはり「武士道」そのものではなく、武士本来の役割を一途に全うする「武士的な心性」だったと言えよう。 それであれば、商人も職人も農民もその本来の役割を全うする一途さにおいて「武士的な心性」を我が信条とすることができる。 このような「武士的な心性」を矜持としたのは男ばかりではなかった。 吉原の花魁もその本来の役割を全うする一途さにおいて「武士的な心性」を我が信条として発揮した。 そしてそこでも、身分というものが厳格に言動を制約するという原理主義が働いていた。 具体的には、 厳格な「格式の体系」が存在して、それに則った言動によってしか上下左右の人間関係が展開されない ということである。 吉原の花魁のファッションは平安貴族のパロディだという。 しかしその「格式の体系」は武家的なものだった。 たとえば、花魁は大名や大商人しか相手にしない「大名道具」と呼ばれた数百人に一人の最高級の売春婦である。しかし、客がいくら金を積もうが、厳格な「格式の体系」に則ってしか関係を深めることができなかった。 客が初めて会う「初会」では、客は太鼓持ちや芸者をよんで宴を催さねばならない。その際、客は下座に座らされ、後から登場する花魁が床の間を背負う上座に座った。この時、花魁は話しかけもせず、自分にふさわしい客かどうか客品定めをしたという。 数日後に二回目、花魁に会う。これを「裏を返す」という。花魁が客を気に入れば、客は上座に座ることを許されおつきあいが始まるが、まだ客は名前を呼んでもらうことができない。 さらに数日後、三回目に花魁に会ってやっと、花魁の部屋に通され「馴染み」として認められる。その証として客の紋か表徳(ニックネーム)か本名を記した記録が部屋の茶箪笥に保管される。客は「馴染み金」を手渡すのが礼儀とされた。無論、床入りの祝儀である「床花」とは別である。 こうした格式の体系は、「他人」→「客」→「馴染み」という身分変化と、「座敷の下座」→「座敷の上座」→「部屋」という空間移動が同期した通過儀礼となっている。 これは、将軍に対して御目見資格のない「御家人」→御目見資格のある「旗本」(一万石未満)→「大名」(一万石以上)という武家の「格式の体系」に重なる。 この場合、違いは、遊郭の「格式の体系」が俸禄ではなく料金の体系と同期している点である。 しかし、武家の「格式の体系」にも料金体系と同期しているこんな旗本の慣行もあった。 無役だった者の「御番入(ごばんいり)」で、新入りは組頭や先任の同役を料理屋で接待しなければならない。これには芸者をよび、酒の銘柄は何と決まっており、持ち帰りの菓子はどこの店と決まっていた。安上がりしようと他店のものにすると、仕事でしっぺ返しされたという。ある者は、二十三人の接待に四十五両もかかり、その内菓子代が二十両余だったという記録がある。(一両は米価換算で、江戸初期で10万円、中後期で3〜5万円、幕末で3~4千円と試算されている。) これには、役付の旗本といえども質素な生活を強いられていてこういう機会に同僚の懐で贅沢するしかなかったという背景があった。 花魁と初めて会う「初会」で太鼓持ちや芸者をよんで宴を催すことは、「交換」経済における財力の提示と確認であるものの、これから良い思いをする者がふだん苦労している者に予め良い思いのお裾分けをしてよろしくお願いする「贈与」経済、負い目感情の相殺という側面があった。 旗本の「御番入り」の際のしかるべき相手への接待もこれに同じと考えられる。 武家の「格式の体系」にそった慣行は大枠として「贈与」経済にあり部分的に「交換」経済が展開している。 一方、 農工商の大都市江戸を中心とした都市型消費社会とその影響への対応は大枠として「交換」経済にあり部分的に「贈与」経済が展開している。 私は、 このことが必然的に、支配階級である筈の武士階層が経済的に疲弊していって、農工商に経済的な有力者が台頭していったことを帰結した と考える。 男女を問わない様々な職能の江戸町人の気概は、明らかに大都市江戸の都市型消費社会を前提としていた。 そして都市型消費社会と連携する商品野菜や食品製造の地方産業の広がりとともに豪農が生まれ、その中から武士身分を金で買う者も出てくる。 そのような江戸近郊の豪農は江戸町人の気概を共有し、武士身分となってもその気概をもってなまじの武士よりも武士らしくしようとする傾向があったのではないか。ちなみに新撰組の局長、近藤勇は多摩上石原の豪農の三 男として生まれ、副長、土方歳三は多摩石田村の豪農の十人兄弟の末っ子だった。 結果的に江戸時代270年の間に「武士的な心性」は、世のため人のために職能本来の役割を一途に全うする気概として全国の士農工商の庶民全体に認知されていったと考えられる。 著者は、 「役割を意識していたからこそ、日本の職人は、仕事に対する責任感から、ものすごい高いレベルで仕事をしていました。とくに、大工の技術たるや、世界的に見ても最先端です。宮大工などは、現代でも芸術の域であることは、皆さんもよくご存じでしょう」 と述べている。 しかし、宮大工の職人魂は、伊勢神宮の式年造替に参加した「信仰共同体」の一員としての「信仰の実践」に始まったと考えられ、世のため人のため、というよりも、神様のため神社のため、仏様のため仏寺のため、という気概から出発している。 むしろ、江戸時代の大都市江戸で指摘すべきは、大火が起こるものと前提した町家の効率的な量産能力ではなかろうか。 一般的に日本の「モノづくりの匠」はその精緻さを「静態論」として論じるばかりだが、都市型消費社会を前提としたその手際良さを「動態論」として論じるべきである。 江戸時代、大工のような大工道具と技能をもった身一つで日銭を稼ぐ職人は庶民の中ではアッパーミドルであり、大工はじめ各種の職人たちを組織して監督する棟梁ともなればエリートだった。 その棟梁は、一つの仏寺をじっくりと完成させる宮大工とは質的に異なる「仕事感」を抱いていて、まったく異なる価値観の体系的ノウハウを発揮したことは間違いない。でなければ江戸の町が度重なる大火の度にすぐに復興したりはしなかった筈だからだ。 大工、左官、鳶(とび)の三職は「華の三職」ともてはやされた。 この「華」は、火事と喧嘩は江戸の華、の「華」である。 彼らは誇り高く、粋(いき)で威勢がよく、同時に軽率で、おっちょこちょいで鼻っ柱ばかり強いという欠点もあわせもった気質だった。 それは、修業時代の精神的、肉体的な苦労が培った気質と言われる。 大工の場合、十二から十三歳で親方に弟子入りし、朝は掃き掃除から飯炊きまでこき使われる。早い者で一年、普通でも二年間はこの下働きが続く。その後、親方の許しを得て、弁当持ちで仕事場に出かけるようになるが、道具の名前を教わる程度であいかわらず木屑集めなどの雑用ばかり。 夕方は、風呂焚き、飯炊きと追い回されて親方に怒鳴りまくられ、ヘマをすればびんたが飛んできたり飯ぬきの罰をくらう。その後、八年目で半人前になれると言われ、それまではタダ働きだったものがこの頃から、祭りの時期に小遣い銭がもらえるようになる。それからさらに数年の修業を経てやっと独立できる。あまりの辛さに半数は消え失せた。 江戸の 「華の三職」 の誇りと気概は、こうした試練を乗り越えてきた “自信” にあるという。 それは江戸城下でその職能本来の役割を自分は一途に全うし、世のため人のために役立っているという自負でもあった。 大工の賃金は一日あたり540文、(何をもって普通というのか分からないが)普通の町民の賃金が300文でその倍近かったという。(戦国時代の小田原北条氏の領内で、人夫の日当20文に対して木挽き職や鍛冶職などの職人の日当50文という記録があり、全国にニーズがある技能職の日当は単純労働の日当の倍であることは、江戸と江戸時代に限らないことだった。建設ニーズが慢性的に大きかった大都市江戸は特に売り手市場ということがあった。) そのうえ実労働時間は4時間程度。早朝・残業(黄昏まで)ともなれば時間外手当がつき、実労10時間なら、賃金は2日分になったと言う。しかも江戸では頻繁に火事が起こったので、食いっぱぐれもなくひっぱりだこで儲かった。 当然、遊びも派手になり粋を尽くすようになる。「江戸っ子は宵越しの銭はもたねえ」 と自他ともに認める都市型消費社会の申し子となった。 大工、左官、鳶(とび)の「華の三職」の場合、「宵越しの銭はもたねえ」とは、また明日になれば銭を稼げるということが前提の話である。 その銭を稼ぐ仕事が江戸の庶民生活の土台を支えるものだったのだから、遊びについての自負のようでいて、じつは世のため人のために役立っている仕事についての自負があった。 おそらく彼らは、誇りに思える仕事で稼ぎもいい、そんないい目を自分だけ見ていては罰があたる。金は天下の回り物と消尽してこその江戸っ子ってもんだ。小銭をけちって貯め込むなんざ江戸っ子の風上にもおけない、そう考えたのだろう。 だとすれば、 「宵越しの銭はもたねえ」は、 「交換」経済において消尽することで、「贈与」経済において負い目を相殺する というじつはとても高度な消尽哲学だった ことになる。 著者はこう述べている。 「士農工商と裕福さが必ずしも正比例しないのは、江戸のおもしろいところでもあります。世界でも、こういう例はあまり多くないでしょう。 お金を稼ぐからといって偉いわけでもない。 武士だといって、それだけで偉いわけでもない。 武士らしい武士が尊敬されたのです。 そして彼らは”人”として、役割を果たすために江戸時代を生きたのです。 自分の役割を誠実に果たすという生き方は、世界に誇ってよい、日本の特徴です。 言い換えれば、それだけ日本人は、自分の人生、自分の仕事に誇りをもって生きてきたということです。 武士道だけでなく、そういう社会風潮が、名誉心の強い国民性を育んだのです」 この「社会風潮」そしてそれが育んだ「名誉心の強い国民性」を私は「武士的な心性」と呼びたい。 それは、 様々な身分と職能の庶民(士農工商ほか)が都市型消費社会で仕事や遊び、生産や消費をする中で、 「交換」経済の現実に対峙しながら「贈与」経済の理想に自分たちの実存を見出す そんな生活をおくる気概、そんな人生を互いに認めあい感謝しあう思慮だった と考える。 「武士的な心性」におけるアンチ拝金主義とプライスレス交流 著者は「お金は汚い(不浄)もの」という日本人に流布した金銭観についてこう述べている。 「本来は『れっきとした身分の人間がさわるものではない=下賤なもの』という意味で、武士道に深いかかわりがあります。 薩摩藩の家庭教育の十八ヵ条にも『金銭は卑しむべきものである』とありますが、これは『武士たるもの、お金や損得について考えてはいけない』という意味。薩摩藩に限らず、武士はみな、そういう教育を受けて育ちました」 しかし、織田信長の旗印は「永楽通宝」だった。永楽通宝は中国の永楽帝の時代に作られ、室町時代後期(1400年代)に日本に輸入された中国銭である。一説には、信長が当時物流の基軸だったこの通貨によって重商主義を表したとされる。 また、大阪の陣で最後まで豊臣家を守った真田幸村の旗印は「六文銭」だった。これは真田家の家紋でもある。当時、三途の川の渡し賃が六文であると信じられていたことが由来という。三途の川も金次第という、究極の拝金主義を読み取ることができよう。 よって、 武士にとって「金銭は卑しむべきもの」とする価値観は、江戸幕府になってから普及し浸透したと考えられる。 ちなみに、徳川幕府は慶長11年(1606年)に新銅銭を発行して永楽銭流通禁止令を出している。しかし、その30年後に寛永通宝が発行されるまで永楽銭は経済の基本通貨として流通していた(特に東日本において)という。 徳川幕府は基本的体制として農本主義をとり、重商主義を否定した。だから、その価値観を体制的に徹底するにおいて、アンチ拝金主義を普及し浸透させたと考えられる。 農本主義は、農民による稲作が土台だから、定住社会体制としての幕藩体制を整えることになる。そのインフラ整備にも金は掛かるが、金銭はあくまで「手段」であって、それを自己「目的」化することはなかった。 これは、重商主義において、様々な産品の交易が「手段」であって、それによる利益の追求つまりは金銭こそが「目的」であることと真逆である。 農本主義の幕藩体制において、金銭はあくまで「手段」であって、「目的」はもっと高邁なところにあるというパラダイムにおいて、武士はその象徴的な体現者でなければならなかった。 (しかし、武家が格式を保つためのコストは高く各身分の家計をそれぞれに圧迫するようになっていくのだが、これについては追って検討する。) つまり、士農工商が役割分担だとしても、農工商は体制の「手段」の担い手、士は体制の「目的」の担い手でありそれに則って「手段」を管理する管理者という位置づけだった。 著者はこんな事例を解説している。 「身分の高い武士は自分では絶対にお金にさわりませんでした。買い物は恥ずかしいことなので、使用人にやらせます。外出するときも、自分では巾着や紙入れ(お財布)をもたず、使用人にもたせます。買い物をしたら紙入れごと店の主人に渡し、そこから買ったものの代金を抜くようにと指示します」 このような慣行は、武士が「目的」の担い手であり、「手段」は低い身分の者の役割であることを、自他に繰り返し象徴化しかつ身体化するものであった。 大阪の陣で大阪城が陥落し豊臣家が滅亡する前夜、真田幸村は幽閉されていた九度山で糊口をしのぐために真田紐を考案し地元民にその生産販売を委託して上前をはねた。いわゆる「武家の商法」どころではない。商人顔負けの商才を発揮している。 しかし江戸幕府の幕藩体制が270年の長きにわたった間に、前述のような武家の格式を保つ慣行が全国津々浦々で徹頭徹尾繰り返され、アンチ拝金主義が全国の武士ばかりでなく農工商にさえも普及浸透していった。 無論、都市型消費社会の進展にともない貨幣経済が拡大していって、農工商ともに利益の追求、つまりは金銭の追求を積極化していった。しかしそれでも、それは日々を暮らしたり生業を拡大するための「手段」なのであって、志ある者は自らの生業や職能の本来の「目的」はもっと高邁なところにあるという認識を堅持した。 アンチ拝金主義は「武士的な心性」が必然的に備えている要素と言えよう。 「もちろん、武士のなかにも、お金に関する仕事をしていた人もいました。幕府の勘定方といえばいまの金融庁、財務省のようなもので、予算なども取り仕切るため、幕府にとってもたいへん重要な役割であることはもちろんです。 しかし、『お金を扱う』という理由で、武士としての身分は決して高いものではありませんでした。そのため、勘定所に勤めるのは、軽い身分の武士たちが中心」 武士身分内でも、「手段」であるお金に関する仕事をする人は低い身分、「目的」である高邁なことに関する仕事をする人は高い身分、という上下が想定されたのだった。 ではなぜ、こうした「お金を軽んじる」「お金以外のもっと高邁なことを重んじる」パラダイムになったのか。 著者の考えはこうだ。 「それは武士が、家禄を保証されていたこともあったのではないか(中略)。 家禄とは、家に与えられる知行や俸禄です。領地や米や貨幣で与えられ、家格により上下があります。そしてこの家禄は先祖の功績により決まり、子々孫々まで受け継がれるものでした。 つまり武士は、働かなくても一生、食べていくことができたのです。それよりも余計に儲けようとか、貯め込もうとかいう発想はありません。お金とは無縁の世界で生きていたのですから」 しかしこれは、士以外の農工商にも「武士的な心性」として普及したことを説明しない。 現在の日本人全体にも息づいている「お金を軽んじる」「お金以外のもっと高邁なことを重んじる」パラダイムに至った経過を説明しない。 著者はこう述べている。 「日本人は、たとえお金の話を聞いていなくても、いい加減な仕事はしません。(中略) 仕事に対して真摯に取り組み、報酬とは関係なくよいものをつくろうと力を注ぎます。 これはおそらく、仕事をきちんとしていれば、お金はあとからついてくるものだ、という発想があるからなのでしょう」 これは武士、なかんづく武家の家督を継いで幕府や藩に仕官した者にとっては言わずもがなのことだった。 農家や商家の家督を継いだ農民や商人も同じである。 しかし、仕事につけない者や、やっとのことで仕事にありつけた者の方が多いのが世の常である。 それにもかかわらず、家督や家職を継げない士農工商の多くの者も同様の発想を抱いたから、今現在の日本人の多くにも同様の発想が息づいている訳である。 彼らはどうしてそのような発想を抱けたのだろうか。それは、実際に彼らが、仕事をきちんとしていればお金はあとからついてくる体験をしたからと考えるのが自然である。 つまり、江戸時代の仕事絡みの人間関係の総体である<世間>が、仕事をきちんとしていればお金はあとからついてくる相互扶助的な側面を色濃く持っていたからと考えられる。 よって、今現在の日本人にとっても、仕事<社会>においてそれぞれが何らかの形でそのような相互扶助的な<世間>の一員である限りにおいて、そのような発想を抱くことができるのだろう。 しかし、いわゆるブラック企業で搾取されている就労者も多くいる現在、そのような発想を抱こうにも抱けない人も多くいるのが偽らざる現実である。 彼らの現実は、一般的な日本人として仕事<社会>に身を置きながらも、個々としては相互扶助的な<世間>の一員ではないということである。 <社会>と<世間>については本ブログで繰り返し触れてきているが、ここで再確認しておこう。 欧米人は、単身で超越者である神と対峙している。それが<個人>という彼らのアイデンティティである。 そして、そんな<個人>の総体が<社会>である。 一方、 日本人は、自分の帰属する人間関係の総体である<世間>に暮らし生きている。一人の人間が複数の<世間>に帰属している。日本人のアイデンティティは<世間>における位置づけである<分際>であり、それを私たちは<自分>と称している。日本人のアイデンティティはそのような複数の<自分>の複合である。 日本人にとって超越者は自然、風土である。それに対する「信仰の実践」として個々が単身直接に対峙するのではない。あくまで帰属する共同体が対峙する。個々は、あくまで共同体の一員としての<分際>において対峙する。(それは厳密には、素の単身である<個人>としての対峙ではない。例えば修験者が単身で山岳を駆け巡る修行をしたとしたとしよう。しかし、それは修験者としてである。キリスト教徒の老若男女が素の<個人>として神に対峙するのとは違う。) <世間>に<分際>として暮らし生きるということは、石器時代の人類が普遍的に経験した部族とその構成員の様相であった。 よって、 欧米人が<個人>として<社会>に暮らすのに対して、日本人が<世間>に<分際>として暮らすことは、次のことと重なっている。 欧米人や中国人は、石器時代の人類普遍の<部族人的な心性>を捨象ないし限界づけて<社会人的な心性>を形成してきた。 一方、 日本人は、<部族人的な心性>をベースとして温存して<社会人的な心性>を形成してきた。 この<部族人的な心性>の特徴は、自然と人間の未分化性、自然と人工の未分化性、自己と他者の未分化性、などである。 <部族人的な心性>をベースとして温存して<社会人的な心性>を形成してきた日本人は、 明示知レベルでは<社会>で<個人>として暮らし生きているように思っている。 しかし暗黙知と身体知のレベルでは、あくまで<世間>で<分際>として暮らし生きている。 暗黙知と身体知のレベルとは、実存のレベルと言ってもいいだろう。 このことは明治維新の前後や、先の大戦の敗戦の前後など、日本と日本人が激動の時代に翻弄されてもまったく変わらないできている。 1990年代初めのバブル崩壊やその後の「空白の10年」「空白の20年」の前後で、日本の企業社会の様相は大きく変容した。しかしそれでも、日本人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>をベースとして温存して形成されることには変わりはない。 「空白の◯◯年」の間に、共同体性を本質とした本来の「日本型経営」は崩壊した。その特徴であった「包摂性」は解消した。この間に、就職氷河期が続いたが、就職氷河期に就職した新入社員が20年勤務のベテランとなり中堅幹部になり始めたのが2010年代である。 「包摂性」の解消は、正社員の抑制、派遣社員の拡大という形で日本の企業社会全体の様相をさまざまに転換させた。しかしその転換に一貫した原理はタンジュン明快で、「包摂性(包み込み)」を解消して「分別性(分け隔て)」を強化するというものだった。 制度的=<社会>的=明示知的な転換は、 慣行的=<世間>的=暗黙知〜身体知的な転換をともなった。 バブル期ないしは90年代前半までの日本の企業社会において「包摂性(包み込み)」が働いたのは、 制度的=<社会>的=明示知的にも、 慣行的=<世間>的=暗黙知〜身体知的にも、 「贈与」経済が展開していたからだった。 その後の日本の企業社会において「包摂性(包み込み)」が解消され「分別性(分け隔て)」が強化されたのは、 制度的=<社会>的=明示知的にも、 慣行的=<世間>的=暗黙知〜身体知的にも ほとんどすべての場や人間関係において「交換」経済しか展開しなくなったからである。 話がやや抽象的になったので、具体的に私が学生から社会人になった時の体験談で解説させていただく。 私は修士課程で建築史を学び建設業界に就職したものの半年で辞めた。そして、いかなる方向に再就職するか考えあぐねている時に、たまたま神楽坂の路地裏の小料理屋のカウンターで隣り合ったお兄さんが、その二階にオフィスがあるディスプレイ・デザイナーだった。彼がディスプレイという業界の存在を教えてくれて、その業界の2社を推薦してくれた。水道橋にあった1社にアプローチするとすぐに重役と面接することになった。重役曰く、オーナー社長は採用を望んでいるが、正直我が社は君のやりたいことをできる会社にまだなっていない、それができるのは業界の雄であるデザイナー氏が推薦したもう1社の方なので、そこを受けて落ちたらうちにいらっしゃいと言ってくれた。業界の雄とはどんな会社なのかと思い、私はたまたまもっていた展示用商品のアイデアをフリーランスの立場で売り込みに行った。その際、売り込みは失敗だったが、私と面会した方が、新卒でないため受験資格がない私に我が社を受験しなさいと手配してくれた。そして翌年受験すると合格して入社、なんとその方が私の上司となり5年勤めた間、私にさまざまなチャンスを与えてくださった。30歳で円満退社し事務所を設立した時も祝ってくださった。在職中のクライアント企業のキーマンの諸先輩やプライベートに呼ばれて参加した勉強会の主催者や諸先輩が、私がやったことのないディスプレイ業界以外の様々な業界の色々な案件を、君ならできる筈だと依頼してくださった。 私は25歳で社会人となり30歳で独立し40代まで、袖刷り合うも他生の縁を地で行く形で諸先輩に貴重なチャンスや助力を頂戴して自分らしい仕事人生を歩むことができた。 今の若い世代には信じられないかも知れないが、これは少なくとも東京都心の仕事界隈では、私だけの幸運ではなかった。 一途に何か新しいことや面白いことをしようと頑張っている若者を、袖刷り合う程度に出会った年配者が、頼まれてもいないのに、また自分の得に何にもならなくても、できる範囲で最大限の助力を気軽にする、ということはよく見受けることだった。 おそらく彼らも若い頃に、仕事界隈で出会った年配者にそうされたのだろう。順送りで自分が年配者になった時にそうすることで恩義に報いている。私自身も年配者になって頑張っている若者に同じようにするようになってそう思った。 同じ会社に勤める年配者が若者を助けるということなら今でもあるだろう。 だがかつては、クライアント筋の年配者や、神楽坂の白銀町や新橋の烏森の小店で隣り合って打ち解けた縁もゆかりも無い年配者がそうしてくれたのである。 おそらく東京都心に限らず、主要都市の市心でさまざまな知識労働者が恊働することで新しい仕事、面白い仕事が展開している仕事界隈ならば同じことが起こっていたのだと思う。 これは「贈与」経済、負い目感情のやりとりに他ならない。 ギブ・アンド・テイクが当然の損得づくの「交換」経済ではない。 さらに、金銭はあくまで「手段」であって、「目的」はもっと高邁なところにあるというパラダイムにおいて自然体でなされているとてもあっさりした言動であり人間関係である。 私は、自分がたまたま東京都心でそのような社会人に成り立ての、そして独立したての体験をしたためかも知れないが、都市型消費社会の拠点として発展していった江戸城下町でも、新しい仕事や面白い仕事が展開した仕事界隈では同様の年配者と若者の交流があったのではないかと想像してしまうのである。 「贈与」経済、負い目感情のやりとりの大本は、人間と自然との関係である。 人間は神である自然から恵みを得ることで負い目感情を抱く。神に恵みの返報をしなければ怒りを買い災害や旱魃が起こると考えた。豊饒を予祝したり感謝する祝祭は負い目感情を相殺して精神的安定を共同体とその構成員にもたらした。 日本の全国津々浦々にある農林水の第一次産業に関わる祝祭は、基本的にこの<部族人的な心性>の人間と自然の未分化性を踏まえた構造にある。 ちなみに、各地にある第二次産業の手工業に関わる祝祭である針供養、人形供養、庖丁式などは、<部族人的な心性>の人間と人工の未分化性を踏まえた構造にある。 一方、 豊臣秀吉に国替えされた徳川家康により江戸城が整備され、江戸幕府により江戸城下が治水や埋め立てや水利がなされたが、それは古代以来の大都市建設だった。ゆえにその町人は、当初は大都市建設を支え、後には大都市市場を支えた第一次、第二次、第三次産業のさまざまな職能人によって構成された。 江戸前の魚介類をとる漁業の第一次産業、豆腐や和菓子などの食品や小間物(日用品・化粧品・装身具)を作る職人の第二次産業、そしてどちらにも該当しないサービス業(小売り・流通・飲食・宿泊・教育・医療など形に残らない)の職能人の第三次産業。(大工や左官や鳶は、生産現場が移り変わってサービス業的な感じもするが、第一次産業が採取生産した原材料を加工して富を作り出す産業が第二次産業と定義されるので、第二次産業に分類される。) そのような階層構成は江戸以外の城下町でも同じである。 しかし、将軍家のお膝元で全国の藩の江戸屋敷があり旗本・御家人と江戸詰の武士で人口の半分を占める百万人都市となると、独特な第一次、第二次、第三次産業の相互関係が展開した。 このことは当然、第一次、第二次、第三次産業のさまざまな職能人の相互関係を独特に展開させた。 その土地の階層の相互関係を如実に表すのが祭りである。 江戸時代に一大消費拠点となった江戸や大阪などの城下町の町人たちの祭りは、基本的に<部族人的な心性>の自他の未分化性を踏まえた構造となった。 その訳はこうである。 周辺部からの流入人口が多く、借家暮らしで定住化した住民など出身地が異なる新参者が多かった。江戸の場合、三代続いてはじめて江戸っ子、ということは二代止まりで流出したり途絶える家族が多かったことの裏返しである。 基本的に転住民である町人の祭りは、地元町内が相互扶助的な一つの共同体性を保つ働きをもった。地元の大店が金を出し、金を出せない貧乏人は人出を出した。第一次、第二次、第三次産業のさまざまな職能人はそれぞれに祭りに必要な物事の選りすぐりを提供した。 さまざまな町内の人間の恊働によって成立した祭りは、さまざまな町人が”人”として役割を果たすまさに晴れ舞台であった。 ただしその都市的な人間模様は、貧富、貴賤、古参新参の垣根をとっぱらった開放的で新規性を尊ぶものである。 同じ都市的な人間模様でも、京都の祭りの人間模様は、由緒正しい定住民だけが儀式ばった表舞台に立つもので、基本的に<部族人的な心性>の自他の未分化性を封じて、むしろ格式を重んじる閉鎖的な階層が伝統性を尊ぶ<社会人的な心性>を象徴している。 このような人間模様として確認できる祭りを成立させる階層構造の違いは、第一次、第二次、第三次産業のさまざまな職能人の相互関係の違い、そして第一次、第二次、第三次産業の相互関係の違い、つまりは地方経済圏としての構造的な違いに連なっている。 すでに私は、 様々な身分と職能の庶民(士農工商ほか)が都市型消費社会で仕事や遊び、生産や消費をする中で、 「交換」経済の現実に対峙しながら「贈与」経済の理想に自分たちの実存を見出す そんな生活をおくる気概、そんな人生を互いに認めあい感謝しあう思慮 を「武士的な心性」と呼びたいと述べたが、 江戸城下の祭りにおける地元町内の町人の恊働ほど、「武士的な心性」を高揚させて集中的に発揮しあい受容しあう時空はなかった。 著者の論述、 「自分の役割を誠実に果たすという生き方は、世界に誇ってよい、日本の特徴です。 言い換えれば、それだけ日本人は、自分の人生、自分の仕事に誇りをもって生きてきたということです。 武士道だけでなく、そういう社会風潮が、名誉心の強い国民性を育んだのです」 ということを、 現代でももっとも象徴的に可視化しているのも、全国の元城下町の主要都市の成熟した祭り文化を持続的に成り立たせている様々な地元職能人の恊働である。 その雛形の大本を求めて歴史を遡ると、伊勢神宮の式年造替でさまざまな建築装飾品に限らず神宝までを作り替えを、「信仰共同体」の一員である職人が「信仰の実践」としてしたことに行き着く。 伊勢神宮の式年造替に関わる「信仰共同体」は古来、木曽の檜を伐り出す林業者や志摩のアワビをとる漁業者など同じ特定地域の一次産業従事者であって、定住社会を前提とする氏子のような世襲的体制の「静態論」にある。 このような構造の人間関係において、<社会人的な心性>のベースとして<部族人的な心性>の人間と自然の未分化性が堅持されてきた。 木曽や志摩は伊勢からは遠い。しかしそれでも、地元に伊勢神宮を媒介にした相互扶助的な<世間>が維持され、未来永劫、それぞれがそこでの位置づけである<分際>を約束されて精神的に安定したと考えられる。 一方、 江戸城下の町内祭りは特定の地元神社を媒介とする点で固定的なようだが、祭りを成立させる金を出す者、人出を出す者、さまざまな職能を発揮して選りすぐりのプロダクトを出す者は、必ずしも氏子ではなく町内への新参の転入者でもありえ、また古株の大店が商売が傾いて町内からの転出者となってしまうこともありえる。つまりは転住社会を前提とする「動態論」にある。 このような構造の人間関係において、<社会人的な心性>のベースとして<部族人的な心性>の自他の未分化性が醸成されてきた。 同じ町内や同じ職場などの同じ<世間>への帰属を記号化したお揃いの「法被」を着るなどは最も象徴的な手立てである。ちなみに「法被」のはじまりは武士が着用した家紋を大きく染め抜いた法被で、それを職人や町火消しが着用するようになったという。祭礼に用いる法被には、所属や年齢などから「御祭禮」「若睦」「中若」「小若」などの衿字(えりじ)が入れられる。つまり<世間>における位置づけである<分際>が明示された。 転住社会の言わば袖刷り合うも他生の縁の時間軸を多少引き延ばしたくらいの縁だからこそ、江戸の厳しい現実を今ともに生き抜いていくために、同じ町内の者同士によって可能な限り相互扶助的な<世間>が形成され、それぞれがそこでの位置づけである<分際>を得てお互いに認め合うことで精神的に安定したと考えられる。 やや話が抽象的に聞こえるが、喧嘩のような頻度で火事が起こった江戸において、地元町内の人間関係が可能な限り相互扶助的であることは、火事からの生活復興のためには必要不可欠な具体的な要件であった。 たとえば、大儲けしているくせに地元町内の祭りに寄付をケチるような大店を、町内の人間が火事から守ろうとするだろうか。むしろ貧乏なのになけなしの金を奮発した住人たちの長屋を守ろうとするのが人情というものの具体性である。 「贈与」経済、負い目感情のやりとりとは、非常時や限界状況でこそ発揮されるまさに金で買えないプライスレスな人間交流なのだと思う。 (2) へつづく。
by cds190
| 2017-04-09 17:19
| ☆発想を促進する集団志向論
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