「儒禍 二千年の呪縛」黄文雄著 光文社刊 発
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http://cds190.exblog.jp/24907083/からのつづき。
(参照:交流分析心理学の5つの自我機能)
中国人による儒教批判とフロムの指摘する「権威主義的宗教」の側面黄文雄著「儒禍 二千年の呪縛」を読むと、まず「はじめに」で儒教が繰り返し批判され排斥されてきた歴史を知る。(筆者注:黄氏自身は中国語文化圏である台湾人。)
「孔子孟子と同時代の諸子百家、ことに老荘や墨家、法家などからの批判」
「太平天国が儒教を断禁し、北方のカルト集団である捻軍十万以上が孔子一族の墓陵や宗廟などを徹底的に暴き、ぶっ壊した」
「儒者受難は『焚書坑儒』を行った始皇帝の時代にもあった」
「唐末に後梁の太祖によって皆殺しにされた」
「元時代には、科挙制度が廃止され、儒者は娼妓以下、乞食の上の第九階級に格下げされた」
「近代になってからも、五四運動の『打倒孔家店』、文革中の『破四旧』『批林批孔』などの反儒教運動が」
「『中華民国』の名付けの親である章炳麟は、孔子を中国の『禍本(禍根)」と見なしている」
現代において儒教批判の急先鋒である著者は、儒教・儒学の根本的な性格を以下の3つとする。
「
①『昔はよかった』という頑迷な尚古主義 昔はよかった、という中国人の思想は、自分の経験よりも先人の経験や先例に学ぶことが多いので、嫌でも後ろ向きになてしまう。だから、『四書五経』が先例の大百科全集として、もっぱら学習と稽古の典範となる。つまり、古典が中国人の日常生活の規範となっているのだ」
これは一つの権威主義であることは明らかである。
儒教が宗教かどうかという論議はいったんおくとして、少なくとも
「一般的な人間現象としての宗教」として「権威主義的宗教」に分類される理由の一つとなる。
現代の経済発展を遂げた中国は、改革開放政策以降、未来志向できた。
しかし重要なのは、その中国人の描いた未来が、日本人が描きがちな漠然とした曖昧な未来ではない、ということである。
象徴的な例をあげれば、
明の永楽帝代に宦官、武将、航海者である鄭和が、南海への計7度の大航海をして、その船団が東南アジア、インド、セイロン島からアラビア半島、アフリカにまで航海し、最遠でアフリカ東海岸のマリンディまで到達した過去を雛形とした「一帯一路」(一帯が陸路、一路が海路)構想が達成される具体的な未来である。
その明快な具体性は、明快な過去を雛形として踏まえることによる。
だから私個人的には、
『昔はよかった』というこだわりは頑迷な尚古主義にもなるし、具体的な未来志向にもなると考える。
それを踏まえると、
儒教の内容は、確かに頑迷な尚古主義を助長したり正当化するとは言えるが、
現代の中国人がそうした儒教の悪影響に囚われているとは言えない。
むしろ日本のこと、日本人のことに気づかされる。
東西冷戦が終結する前のバブル期までは中国が開発途上で、日本がアジア経済の盟主であり牽引役だった訳だが、それは別に「大東亜共栄圏」の再来を期してのことだった訳ではなかった。戦後、民間企業が頑張ってきて結果的にそうなっただけで、国策のもとに一致団結した訳でもなかった。
だから、
その後の「空白の○○年」で経済的に後退国になっても、OECD加盟国で賃金が上昇しないのが日本だけとなっても、国も国民もまったく気にしないで「クールジャパンだ」「日本すごい」と『今はよい』のまやかしの自画自賛をして済ませてこれた。
中国のように明確な目標がないから、明確な前進後退の評価もなかったと言える。
「②階級社会の強化
教祖の孔子は、人間を『君子』と『小人』に二分、さらに『女子も小人も養い難し』と女子も小人のほうに仕分けし、家畜扱いした。もちろん、この君子と小人は、道徳的基準からの仕分けよりも、『頭を使う』と『力を使う』、今でいうホワイトカラーとブルーカラーの違いに似ているが、階級意識がより強い。
孔子が、『論語』の中で『民(小人)はこれを由らしむべし、これを知らしむべからず』と教えた。つまり、民衆はただ従わせておけばよく、何も知らせる必要はない、というわけである。この孔子の教えのとおりに、宋時代以後は民衆を愚民化することで、新興の科挙官僚が特権を得て国富を独占した」
これは儒教が階級社会を維持強化するという形で為政者の支配に与したということである。
フロムが指摘した「権威主義的宗教」の悪弊に他ならない。
「③『徳治』と『人治』の社会は、儒教の夢であり、理想社会でもある(が建前化:筆者注)。
儒教の政論は、『有徳者が天命を受けた天子として天下に君臨し、万民を統率する。それが王道だ』とも説く。天子の徳は万民を教化するなど、その道徳力-----神通力を過信する。
しかし、中華帝国二千年史に名君や明君は、儒教がいう『正心、修身、斉家、治国、平天下」とは逆に、すべてが親子や兄弟の殺し合いから勝ち抜いた勝者しか天子の座に登りつめていない」
これはフロムの指摘する「世俗的な権威主義的宗教」の実際に他ならない。
フロムはこう述べていた。
「指導者や敬慕される『国民の父』や、国家や、民族主義者たちの祖国などが礼拝の対象となる。個人の生活は無意味となり、人間の価値は、自分自身の価値と強さを否定するところにある。権威主義的宗教はしばしば、現実の人間の現実の生活とはほとんど関係のない、抽象的な遊離した理想を要請する。『死後の世界』とか『人類の将来』とかいう理想のために、今ここに生きている人々の生活と幸福とが犠牲に供されることもある。うちたてられた目的があらゆる手段を正当化し、そして、宗教的・世俗的な『選良』がその同胞の生活を左右する名目の象徴となるのである」
まさに、
儒教が、天子の目指す理想社会(目的)を権威づけ、理想社会を実現する科挙官僚(手段)を「選良」として権威づけたことに重なる。
「自分の同胞や自分自身に信頼をおかぬ人間になり、また自分自身の愛や理性の力を体験しない人間になる。その結果『聖』と『俗』との分離が生ずる。
世間的な活動においては愛をもたずにふる舞い、その宗教に関する生活場面では自分を罪人と感じ、(愛をもたずに生きることは罪に生きることであるから、かれは実際罪人なのであるが)、そして失われた人間性の幾分かを、神に触れることによって回復しようとする」
まさに、
黄氏の指摘した名君や明君とされる天子の実像や治世の実相に重なる。
天子の地位を獲得するまでの骨肉の争いは「俗」の極みであるが、地位についてからの天子としての象徴性は「聖」の極みとなる。
天子の「聖」の極みは、一つには天との関わりで天意の体現者ということだが、いま一つには壮大な陵墓の建設によってこの世とパラレルに並存するあの世でも元天子であり続けると天下に知らしめることである。秦の始皇帝を筆頭に初期の王ほど自らの陵墓建設を生涯の事業として地位についてすぐに取り組んだ。そのために庶民は重税や労働を強いられた。
死んだ先祖の死後の暮らしはその子孫にかかっているというあの世についての死生観は、自然発生して中国人の一般庶民も共有するものだった。
しかし、あの世でも「元天子」が「元天意の体現者」として君臨するという「死後の世界」の想定は、支配層が非支配層を洗脳したものである。巨大な陵墓建設自体が洗脳の主要媒体になったのは、エジプトのピラミッド建設も同じである。
もともと儒教にはあの世という概念はなかった。
死について弟子に問われた孔子は「生も知らないのに死を知ってるわけないだろう」と答えた。
ただ、
「一般的な人間活動としての宗教」としての儒教は、特に一般庶民レベルでは経典教義に詳しく忠実である訳ではなく、また経典教義自体も仏教と道教を取り入れて多分に混淆していた。
あの世との絡みでは、道教の陰陽の説に従って、
人は死後、魂(こん)と魄(はく)とに分かれ、魂は陽に従って天に昇り、魄は地に降り、陰に従う
とされた。
そのため、魂は位牌にまつり、遺体は土に埋めて土葬とした。そして死者は、死後も生前と同じように生活するとされた。
ちなみに、
閻魔大王は道教から来ている。
当初は、死者は黄泉あるいは泰山に行って安眠すると信じられていたが、仏教が伝わるとその地獄の説が取り入れられた。
そこは陰惨な刑罰が繰り返される牢獄で、中国の警察・裁判組織を反映して極めて官僚的な冥府に変化した。
官僚的とは、仏教的でも道教的でもなく儒教的な要素と言える。
人は死ぬとその魂は冥府に送られる。審判を受けて24の獄の1つに送られる。そして罪を償った後、後世が決まり、天国・人間・餓鬼・畜生の世界に送られる。それはまるで官僚機構の昇進試験のようだ。
儒教が宗教かどうかはともかくも、中国人にとっての儒教は「一般的な人間活動としての宗教」として捉えることができる。
そこで、
儒教批判者は、フロムの言う「権威主義的宗教の側面」ばかりを指摘している。
確かに、権威者と権威に従う者の関係が、批判的な父親(Critical Parent)と順応する子供(Adupted Child)のCP〜AC関係にあり、それが多大な不条理を生み続けてきたということはある。
しかし、
儒教信奉者ならば逆に、フロムの言う「人道主義的宗教の側面」として中国人流の理性至上主義を指摘するに違いない。
黄氏が述べるように「宋の時代に、新儒教としての朱子学、その後は陽明学に転生することができた」のは、間違いなく朱熹や王陽明の「理」の追求という合理的な大人(Adult)のAによる。
面白いのは、
中国人の「一般的な人間現象としての宗教」としての儒教は、ぴたりとフロムの宗教心理学と一致していることだ。
つまり、
神に相当する天意と人間との関係性や、理想社会と人間との関係性に
「権威主義的宗教の側面」(CP〜AC関係)と「人道主義的宗教の側面」(A)を見てとれるが、
保護的な母親(Nurcharing Parent)と自由な子供(Free Child)のNP〜FC関係が直接的な形では見出せないことである。
中国人の「一般的な人間現象としての宗教」としてNP〜FC関係を見出せるのは、仏教の観音信仰と阿弥陀信仰だろう。
観音信仰は、
如来になるために修行中の身で、世の中のありとあらゆる人を救うために様々な姿に変身する観音菩薩への信仰である。中国仏教の2大信仰とされるのが観音菩薩と釈迦牟尼仏で、一般庶民における知名度や人心への浸透度では前者が優っているという。
唐代の人々の間では『家々が観世音、全世帯が阿弥陀』、観音信仰が中国の一大信仰となって普及していたという。
福建の湄洲島の林媚娘という女性が漁民の海上での平安を願って、それを中国東南沿海地域の漁民が「海上の女神」として祀った媽祖崇拝がある地域では、観音崇拝は母の信仰で、媽祖崇拝は子の信仰とされるという(ある種の本地垂迹説か)。
(なお、中国沿海部の民間信仰から始まった媽祖の信仰は、道教の神々の系列に変容を重ねつつ朝鮮半島や日本の沿海部に信仰圏を拡大させたと考えられている。「出雲族」の守り神であるカムムスヒには、大陸交易を通じて媽祖の航海守護神の要素や様々な姿に変身して衆生を救済する観音菩薩の要素が反映しているのかも知れない。)
阿弥陀信仰は、
大乗仏教の菩薩思想と関連して易行(阿弥陀仏の慈悲の力をたのみ、その救いによって極楽浄土に往生する修行)としての称名念仏を説く浄土教が中国で成立したのが最初とされる。念仏教団が発展し、仏教を知的な教理中心の学問から情操的な宗教へと転回させるきっかけになったとされる。
「称名念仏」を中心とする浄土思想が確立するが、中国ではその思想は主流とはならなかった。
一方、
日の沈む西方に浄土があるとする信仰は、起源がシュメール文明にあり、他の古代文明にもみられ、極楽にたどりつくまでに"夜見の国"などを通過しなければならないという一定の共通性があるとも言われる。
西方浄土への憧憬は、新石器時代の<部族人的な心性>であり、そもそも人類普遍に共有されていたのではないか。それが情操的な仏教として一般庶民には共感を持って受け入れられたが、仏教を学び修行するプロパーの僧侶には思想として不人気だったのではないか。
(なお、古事記でスサノヲが母が暮らすと信じる「根の国」に行きたがったこと、オオクニヌシが「根の堅洲国」からスサノヲに追われた時に黄泉平坂を通って逃げ帰ったことなど、西方浄土の空間軸が反映しているのかも知れない。)
教会教義における「マリア」の定義の変遷を交流分析心理学で辿る
たとえば、キリスト教のマリア崇拝は、その母子像に象徴されるようにNP〜FC関係を積極的に示している。
しかし、マリア崇拝は、教義宗教としてのキリスト教では禁じられてきた。
つまり、フロムの用語法にのっとれば、マリア崇拝は、特にカトリックの庶民そして女性にとって「一般的な人間活動としての宗教」としてのキリスト教には含まれる、ということになる。
フロムならば、マリア崇拝については、その偶像崇拝を教会とは違う理由で批判するに違いない。
教会は、聖書が「いかなる形にしろ人は神の像を刻んではならぬ」と禁じている「神の威厳を犯すことを禁ずるタブーの命令」を理由にして偶像崇拝を認めない。
一方、
フロムは、「神は人間のうちにありながら、しかも人間がそれではないようなものすべての象徴であり、われわれが自らのうちに実現すべく、追求しうるものでありながら、しかも記述したり、定義したりしえない精神的な実在の象徴であるという観念をあらわしたものである」とする倫理的な理性至上主義からする人道主義の観点から、偶像崇拝を人間性を貶める「権威主義的宗教」とする。
フロムはその著「革命的な人間」において、キリストは十字架以前には純然たる人の子であったが死後復活して神の子になったという「キリスト養子説」に、彼の言う「人道主義的宗教の側面」を見出している。
イエスは、パレスチナのローマ支配に最後まで抵抗した最下層アム・ハーレツ(地の群れ)の代表者だった。イエスは死後復活して神の養子に上げられ、やがて裁きと救いのために地上に再臨して人間界の支配者、ユダヤの王になる。これが原始キリスト教の中心教説であったとフロムは主張する。メシアは義を貫ぬくためには一度は死ななければならぬ。メシアは死を乗り越え再生しで雲に乗って再臨するのだという信仰があったという。イエスは死によって神に義を訴え、義とされて再生する。アム・ハーレツを見殺しにするヤハウェは退きイエスが支配する。イエスの再生は神の死と等価である。イエスはアム・ハーレツの立場で地上を支配するからその裁きと救いは極めて革命的で、「革命的な人間」なのである。
そしてフロムは、教義における「キリスト養子説」から「元々神の子として降誕したという同質説」への変化を、キリスト教のローマ帝国全体への普及とそのユダヤ民族主義から脱皮=国教化によって説明する。
ユダヤ人最下層の解放を教義の中心から外せば、キリスト教の隣人愛と普遍性がローマ帝国の世界支配と合致する。皇帝が自分を神として崇拝するように強制すると反撥を招くが、キリスト教を支配宗教として利用しその権威で合理化すれば皇帝支配が安定する。それはキリスト教会にとっては精神的な地上支配でありキリストの再臨地上支配を代理することになった。そこからキリスト教は「権威主義的宗教」となっていったとフロムは主張する。
この転換点に至るまでの初期キリスト教において、フロムの関心はあくまでイエスにあってマリアには直接的に触れていない。
(フロムは、人間が、キリスト教の神、イエス・キリスト、聖霊を直接経験するための哲学と実践であるキリスト教神秘主義も「人道主義的宗教」に分類している。
キリスト教の教義では一般に、全ての人々の中に神が住まわり、イエス・キリストを信じることを通じて神を直接経験できるとされているのに対して、キリスト教神秘主義では、知性では到達できない霊的な真理をおもに「キリストに倣う」ことによって把握しようと努める。初期キリスト教の時代、イエスを産んだ「マリアに倣って」処女のまま生きる修道的な生活を選ぶ女性がローマ帝国全体に広まったのだが、そこにもキリスト教神秘主義と同じ行動原理がある。キリスト教神秘主義では伝統的に、祈り(瞑想ふくむ)、自己否定(断食や苦行ふくむ)、他者への奉仕(一般的には施し)の3つが実践される。
フロムならば、マリア崇拝ではなく、マリアのように生きて自己実現を図る修道生活については、キリスト教神秘主義と同様に「人道主義的宗教」に分類したと思われる。)
ここで、私なりに交流分析心理学の観点からマリアについての教義の変遷をざっと振り返ってみる。
父と子を基軸とするキリスト教では、CP〜AC関係が「父性」として捉えられていて揺るぎない。
一方、
「母性」つまりはNP〜FC関係を象徴するマリアについての教義は当初から現代まで紆余曲折している。
ざっくりと俯瞰すると、
おおよそマリア信仰についてカトリック教会が肯定的で、プロテスタント教会と東方正教会が否定的である。
プロテスタント教会があくまで合理的な大人Aを一貫させて妄信とするのに対して、カトリック教会はマリアと人間とのNP〜FC関係を可能な限り取り込むべくマリアの地位を高めてきたように思える。
後者については、
女性たちの拠り所でありつづけたマリアの穢れなきイメージを教会が利用するという側面もあり、フロムであればそれを「権威主義的宗教の側面」と断じるのかも知れない。しかし、フロムの指摘した悪弊はすべてCP〜AC関係による教会権威の押しつけであるのに対して、マリア信仰の採用は庶民信仰を利用した印象誘導であるという違いがある。そして印象誘導の方向性が幾度も更新されてきた。
フロムは「初期のキリスト教」を理性至上主義の「人道主義的宗教」に分類している。
その初代教会の神父たちは、マリアの存在を人類救済(一般庶民からする「人道主義」のニュアンス)の歴史と結びつけた。そして、マリアが受胎告知を受けた事によって、神と人間の間に新しい契約が結ばれるようになったと解釈し、新約聖書はマリアによって開始されたもの、旧約聖書は新約聖書を告知したものと解釈した。
結果、マリアは単なる一人の人間ではなくなり、神父イレナエウス(202年没)により「救済の原因」という称号を与えられた。旧約聖書の最初の女性エバは「不従順な処女」だったが、新約聖書の最初の女性マリアは「従順な処女」と考えられた。
3世紀に地中海沿岸地方までマリア信仰が広まる。
4世紀にキリスト教が飛躍的に発展すると、イエスを産んだ女性と同じように処女のまま生きる事を選ぶ女性がローマ帝国全体に広まり、マリアはその象徴的存在となり彼らは「キリストの花嫁」として修道生活を送るようになる。
ここまでは、マリアは、単なる一人の人間ではないが、やはり人間だった。
だから、マリアを真似て生きて神に仕えようとする女性が拡大したのである。
フロムならば、人間マリアを真似て人間花嫁になって人間性向上を求める修道を、人間性を抑圧した神への献身である「権威主義的宗教」とはせずに「人道主義的宗教」とするのではないか。
この後、現代に至るまで、教会教義における「マリア」の定義は幾多の論争を展開していく。
ニカイア宗教会議(325年)、コンスタンティノープル宗教会議(381年)で「処女マリア」の称号が承認された。
当初、マリアにおいて「母性」ではなくて「処女」そして「従順さ」に力点が置かれていた、ということは決定的に重要だ。
つまりNP〜FC関係ではなくて、イエスと同様にCP〜AC関係に位置づけられたAC(順応する子供)だった。
エフェソス宗教会議(431年)で「神の母」の称号が公認され、反対したネストリウスが異端とみなされ破門された。
これにより、マリアは神聖で汚れのない、純潔で無原罪な「神の母」の資質を持つと看做されるようになる。
ここで、神と人間との関係性にNP〜FC関係を想定し、それを媒介する「神の母」という「母性」が確定した。
そして、マリア信仰はコンスタンティノープル宗教会議(553年)頃にかけて公式なものとして広まっていった。
14世紀前半には、同業組合(ギルド)、都市、大学、信徒会などがマリアを「守護聖人」として崇めるようになる。
14世紀後半には、罪のない世界の象徴である「慈悲の聖母」の広いマントは、それまでの特定の宗教団体だけではなく、非宗教団体に属する多くの人々も庇護するものとなる。
16世紀、ヨーロッパは混迷を深め、国家はローマ法王の保護下から脱してマリアを「新しい庇護者」として崇敬し始める。苦しい生活を余儀なくされていた民衆は「子を守るマリア」が共に歩んでくれる事を願った。
カトリック教会が分裂してプロテスタント教会が誕生した1530年代には、「イコノクライム(聖像破壊運動)」が盛んに行われた。
マリア信仰はカトリックとプロテスタントの融和を妨げる原因となった。
宗教改革運動に対処するべくトリエント教会議が行われてカトリックの内部改革が行われたが、再び「マリア像が崇敬の対象」となる。
1573年、ローマ法王ピウス5世により、10月7日を聖母の祝日と定め、「ロザリオの聖母の日」と呼ばれるようになる。
また、マリアが受胎告知を受けた「聖なる家」が聖地エルサレムから、破壊を免れるため天使によってダルマツィア(クロアチア南部)に移され、さらにイタリアのロレトに運ばれたという。
1580年以降には数百ものロレトの聖なる家を模した建物が各地で建設されるようになり「カトリックの勝利を象徴するもの」となった。
1587年にはマリアの様々な異名を唱える「ロレトの連禱」という祈りがローマ法王シクストゥス5世により公認され、様々な祈りが広まり、「強い処女」、「慈悲深い処女」、「罪人のよりどころ」、「悩み苦しむ人の慰め」、 「天使たちの女王」としての性格を強めていった。
以上は、総じてカトリック教会が、マリアを「神の母」としそのNP(保護的な母親)を強めることで、神と人間との関係性にNP〜FC関係の想定を強めていった過程とみることができる。
ところが18世紀、揺り戻しが起こる。
マリアに対する盲信とも言える信仰態度をとる人々が増え始め、「でっちあげ」の奇跡や出現を軽々しく信じる信者達を批難する声が高まった。
1720年頃、カトリック教会では奇跡や出現が本物であるかの判断を厳しい基準に定めた。
1798年フランスでは、フランス革命に先立つ数十年間「受肉」の教義に対しても疑問視された。
マリアに代わって「理性の女性」(マリアンヌ神、理性教)がフランスの上に君臨する事になり、カトリック教国では軒並みマリア信仰が衰退した。
しかしそれは一時的なものであり、やがてカトリック教会は勢力を取り戻しマリア信仰もまた復活を遂げる時がやってくる。
こうした揺り戻しの過程は、カトリック教会の内部におけるA(合理的な大人)の働きの高まりとみることができる。
19世紀、約400以上の修道会が現れ、4分の3は女子修道会で、その半分以上にマリアの名が名称に付けられた。
1854年、「無原罪の御宿り」をローマ法王ピウス9世が独断で教義として認定する。
1864年、ローマ法王ピウス9世が、近代思想を批難する「シラプス」を発表、「ヨハネの黙示録の竜と戦う女性」をマリアとして「近代思想と戦う教会」と重ね合せた。
20世紀前半のカトリック教会は、伝統、権威、反近代主義をモットーに掲げ、急進的かつ非妥協的な姿勢を取った。これを支えたのが、「平和の女王」としてのマリアのイメージである。
「平和の女王」としてのマリアは、第一次世界大戦後の「復興のシンボル」として世界各地に広まり、ヨーロッパの植民地における布教活動の推進に大いに役立ち、各国の「守護聖女」としての地位を獲得した。
1962~1965年第2ヴァチカン公会議で定められた「教会憲章(ルーメン・ジェンティウム)」で
「神と人間の仲介者は、キリストただ一人である」という聖書原点に立ち返った結論が出された。
これ以降のカトリック教会は独断ではなくて、プロテスタント教会と東方正教会と積極的な対話を行うよう方針転換した。
会議中の1964年ローマ法王パウルス6世は「ローマ法王の無謬性」を行使して「教会の母」という称号を与えた。 これは「神の母」ではなくて「人間の母」であるともとれる玉虫色の定義のように思える。
以上は、基本的には近代主義への対抗においてプロテスタント教会と東方正教会と協調してカトリック教会の内部でのA(合理的な大人)の働きを高めつつ、新しい次元でマリアの「母性」つまりはNP(保護的な母親)を再構築するという過程とみることができる。
1987~1988年は「マリア年」と定められ、様々な行事が行われた。「ロザリオの祈り」や「アヴェ・マリア」が盛んに口ずさまれるようになり、地域により、マリア像を掲げながら行進する マリアの行列も復活した。
現在においてもマリア出現の巡礼地に足を運ぶ人は年々増えており、マリアが出現したとされた巡礼地では「天国に一番近い場所」で祈りをささげたいという信者が殺到する 。
しかし、巡礼地の多くは教会からは認定されていない。
プロテスタント教会と東方正教会は「無原罪の御宿り」と「聖母被昇天」を認めていない。
「一般的な人間活動としての宗教」のキリスト教としては、教会は庶民のマリア信仰を促進して神と人間との関係性にNP〜FC関係を強めつつカトリック、プロテスタント教会、東方正教会の三者の共栄を図る。
しかし、
「教義宗教」のキリスト教としては、教会は三者ともにAの働きを徹底し、一致して偶像崇拝としてのマリア崇拝は認めず、マリアの定義をはじめお互いに譲れない教義解釈の異なりについてはそのままにする。
構図的にはそういう大人の態度に収まっていると言える。
各宗教の超越者と人間との関係性におけるNP〜FC関係の捉え方
キリスト教と儒教ともにその教義においては、もっぱらCP〜AC関係とAばかりが展開し、NP〜FC関係が捨象されたり捨象されがちできた。
しかし、庶民レベルの「一般的な人間活動としての宗教」では、NP〜FC関係の展開こそが重視されてきた。教義宗教では満たされない交流心理の欠落を補完したと言えまいか。
カトリックの欧米人はその欠落をマリア崇拝で補完し、中国人は儒教におけるその欠落を仏教(ex.観音や阿弥陀の慈悲のNP)や道教(ex.神仙の万能感のFC)で補完してきたと言えまいか。
日本人が漠然と抱いている
八百万の神への信仰も、教義宗教ではありえず、実質的には生活慣行である「一般的な人間活動としての宗教」であって、
人間を従わせる自然への畏敬というCP〜AC関係だけでなく、
人間が喜び楽しむ自然からの恵みというNP〜FC関係もある。
カトリック教会は、教義としてはマリア崇拝を認めないが、庶民の祭りとして展開するマリア崇拝を容認している。
教会は教義的には神と人間のCP〜AC関係しか媒介しないできたが、マリアを「教会の母」とすることで、神と人間のNP〜FC関係をも媒介する。それは主に、教会とその周辺に出現する祝祭時空という場において現象する。
ここで、
宗教施設とその周辺に出現する祝祭時空という場において、神〜人間のNP〜FC関係が展開するのは、古今東西同じである。
カトリック教会の絡みでは、マリア行列だけでなく、十字架のキリストも街を引きまわされそれに民衆が密着する。
道教寺院の絡みでは、関羽生誕祭や新年祭で獅子舞や龍舞が関帝廟の境内で行われたり関帝を乗せた山車が周りの街を巡ったりする。
神社の絡みでは、民衆が神輿を担いだり山車を引いたりして街を巡る。
目に見えて分かりやすい宗教施設とその周辺での祭りは構造的に同じに見える。
しかし目に見えないことに注目すると、教会と神社では構造的に大きな違いがある。
欧米人の発想思考の特徴は、因果律に則った<知>起点であり、
教義宗教であるキリスト教の場合、祭りは教会が主催するのではなく、教会に対抗する庶民が自然発生させてきた。
その際、教義宗教が「明示知・形式知の体系」であり知性主義であるのに対して、その祭りは反知性主義とも言える「暗黙知・身体知の体系」にある。
(キリスト教では、この傾向はカトリックのラテン系で強く、カーニバル、牛追い祭り、トマト祭りなどが象徴的。)
これに対して、
日本人の発想思考の特徴は、縁起に則った<情>起点であり、
経典のない神道は知性主義の「暗黙知・身体知の体系」にあり、その祭りもその延長にありつつ反知性主義的な要素を取り入れた「暗黙知・身体知の体系」にある。
神道の祭りは神社が主催し、庶民は神社が形成する「信仰共同体」の一員であることを無自覚的かつ身体的に相互に確認しあい維持しあうものである。
(象徴的な例として、「国府宮の裸祭り」をあげよう。
この祭は正式には「儺追神事」(なおいしんじ)と言われる。起源は古く、神護景雲元年(七六七年)称徳天皇の勅令によって悪疫退散の祈祷が全国の国分寺で行われた際、尾張国司の総社である国府宮においても祈祷した神事に始まると伝わる。
祈祷と神籖によって選ばれた一人の儺負人(神男)を巡って、裸男達による肉弾相打つ壮絶な揉み合いを繰り広げる。これは、神男に触れれば厄落としができるとの信仰である。当日は早朝から厄除けの御祈祷を受ける人と、御守りの「なおいぎれ」を受ける人で雑踏し、午後には裸男の集団が、裸になれない老若男女が厄除けの祈願を込めた布を結び付けた「なおい笹」を捧げて威勢よく拝殿へ駆け込んでいく。裸祭の翌日の夜、儺追神事が行われる。一宮、二宮、三宮、総社の神様を神籬にお招きして天下の厄災退散の祈祷をした後、神男にありとあらゆる罪穢をつき込んだものとされる土餅を背負わせ神職が大鳴鈴を振り鳴らしながらこれを追い立て境外へ追放する。そして、神男は途中で土餅を捨てて後をも見ずに帰宅し、土餅は神職の手によってその場に埋められる。これにより土から生じた罪穢悪鬼を土へ還し国土平穏に帰したと信じる。この神事が儺追神事の本義で、古くよりこの土餅を土中に埋める事がこの神事中最も神聖視されるという。
神道の祭りにおける反知性主義的な要素とは、縄文部族で行われたいた呪術的な祝祭に由来する<部族人的な心性>と言える。)
日本人の「一般的な人間現象としての宗教」の世界に類例がない特徴として、クリスチャンでもないのにクリスマスを祝ってケーキを食べたりわざわざデートをしたり、バレンタインにチョコレートを贈ったり、最近ではハロウィンにわざわざ仮装して渋谷に集まったりする、という新習慣の形成がある。
庶民生活に定着しているそれらすべての様相には、世間と庶民のNP〜FC関係が指摘できる。
帰属する人間関係の総体が「世間」であるが、クリスマス商戦だ、バレンタイン商戦だと市場社会が盛り上げたり、DJポリスが渋谷のスクランブル交差点を行き来する仮装群衆の安全確保に尽力したりは、世間のNPに他ならない。クリスチャンでもないのにクリスマスの夜のロマンチズムに浸るカップルやカーニバル的な仮装群衆が、庶民のFCであることは論を俟たない。
以上の祝祭時空は、
神道の祭りが、神社が主催し、庶民は神社が形成する「信仰共同体」の一員であることを
=「世間」の一員であることを
無自覚的かつ身体的に相互に確認しあい維持しあう
祝祭時空と構造的に同じである。
ひょっとすると、日本人の深層心理においては、
儺追神事の本義が厄をこめた土餅を土中に埋める神事にあるように、
クリスマスやバレンタインに散財したり、ハロウィンで仮装して日常の自分を一旦断絶させる厄払いが
日本人の祭りとしての本義であるのかも知れない。
であれば、その祭りの由来がどの宗教かに関係なく、厄払いはなるべく多くした方がいい。
いつの頃からか、恵方巻きがコンビニからスーパーまでの商戦アイテムになり市場として固定化している。
ここには重大なポイントがある。
それは、
世界の民族は、同じ宗教の信者であることが同じ民族であることの不可欠要素になっている
対して
日本人は、同じ「世間」に属すると証明できることが、同じ日本人同士と認識する不可欠要素になっている
ということである。
ここで忘れてはならないのは、
日本人の祝祭時空において宗教的雑食性を示すのが
クリスマス、バレンタイン、ハロウィンとすべてキリスト教である
大衆化したのは戦後である
ということである。
私はこれを、「仕事 対 遊び」という軸から捉えている。
戦中昭和、庶民は、「仕事」において軍国主義ファシズムで国CP〜国民ACの関係を強制されてきた。そのストレスのほとんども同じ「仕事」の枠組みで解消された。庶民自らのCPをより立場の弱い同胞(軍人→民間人、上官→部下)や、おおっぴらな差別が許された朝鮮人や中国人に向けたということである。
軍国主義ファシズム以前はどうだったかというと、「仕事」におけるCP〜AC関係(雇用者→就労者、上司→部下、親方→子分)のストレスは「遊び」におけるNP〜FC関係で解消されていた。それが通常、平時の力学であったが、軍国主義ファシズム下ではそれが破綻ないし限界づけられた訳である。
それが戦後復興とともに戻ってきた。
しかし、戦後昭和からすべての「仕事」の領域でアメリカ化(カタカナ英語で表現される効率化〜機械論化)が進んでいった。それによって追加されたストレスは従来の日本的な「遊び」では量的にも質的にも解消されない。
よって、アメリカ化(カタカナ英語で表現されるロマンチズム化〜フェスティバル化)した「遊び」におけるNP〜FC関係による解消が求められていった、と仮説したい。
大手企業の重役や高級官僚が通った戦前戦中昭和の格式ある料亭が廃れ、代わりに銀座のクラブのママのもとに通うようになったことも象徴的だ。
高度成長期のマイホーム主義において、自宅で家族でクリスマスケーキを食べる習慣を皮切りにクリスマスの習慣が多角化していった。
オイルショックからバブルに向かう豊熟消費期に、若い女性の方から告白することを一般化させたプレゼントという習慣を皮切りにバレンタインのチョコレートが多様化していった。
企業社会では、女性社員が職場の上司や同僚の男性に日頃の感謝の印として贈る義理チョコが話題となったが、やがて女性の社会進出が進むにともない、高級チョコレートがバレンタインに限らぬ自分自身へのプレゼントとして定着していった。女性の社会進出と自立化、女性社員の「仕事」のストレスの総量、それと高級チョコレートの売上げ総額の推移には有意の相関があるだろう。
ハロウィンに渋谷に仮装して集まるようになった若者には学生が多く社会人でも大方は二十代までである。彼らは就労の困難さや就労条件の劣悪という「仕事」絡みのストレスを抱えている。経済的かつ心理的にゆとりある正規社員が少なくゆとりない非正規社員が多い体制が定着したバブル崩壊後の「空白の○○年」、パートタイムとフルタイムの違いしかないアメリカ型の就労体制へ向かう過渡期なのであろう。経済的に豊かな分厚い中間層が崩壊して○○年が過ぎて、格差が拡大固定化したアメリカの後追いと指摘できる。
このように、
日本人庶民の宗教的雑食性を示す祝祭時空の出現傾向はみな
「仕事」におけるアメリカ化(カタカナ英語で表現される効率化〜機械論化)
そのストレスを解消する「遊び」におけるアメリカ化(カタカナ英語で表現されるロマンチズム化〜フェスティバル化)
に由来する
と言える。
日本人の宗教的雑食性は、今に始まったことではない。神仏習合の以前に、神道の新造から始まっている。
そして、
日本人の宗教的雑食性は、国策レベルの本地垂迹説のような教義よりも、むしろ庶民レベルの「一般的な人間活動としての宗教」である祭りにおいて積極化している。
庶民の祭りにおいて、由来元の道教や仏教やキリスト教の祝祭の本義は無視されるか、最小限に引用され、日本人の「世間」に導入できる「NP〜FC関係を出現させる場」に換骨奪胎された。
具体的には、日本の風土を前提に、庶民の情緒性と身体性に重点をおいたFC活性化に集中された。
この傾向は世界に比類ない。
これも、日本人だけが常に<部族人的な心性>をベースとして温存して<社会人的な心性>を形成してきた、という現象である。
ちなみに、
部族人は、当然、土着の神を信仰しその儀礼や行事を欠かさない。しかし同時に、容易に新来の物事を神として受容する。まず異郷からの訪問者を訪問神として受け入れる。未開部族は、飛行場にやってきて飛行機が飛ぶのを見て神と思い込み飛行機に似せた構築物を作って本物の飛来を待ちわびるようになる。ただし、土着の神への信仰は温存しその儀礼や行事を絶やすことはない。あくまで追加や習合なのである。
(象徴的な例として、「ねぶた祭り」をあげよう。
青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形と考えられているが、その起源、経緯は定かではない。 奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられている。
初期のねぶたの形態は「七夕祭」であり、そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、7月7日の夜に穢れを川や海に流す、禊の行事として灯籠を流して無病息災を祈った。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れているという。
「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民俗語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられている。)
<社会人的な心性>の現象である「一般的な人間現象としての宗教」において、現世利益を求めるのは日本人に限ったことではない。
ただし、
日本人の<社会人的な心性>のベースに温存された<部族人的な心性>は、そこだけを取り出して解放させるならば、合理的な大人Aが利益や良縁を求めるような思考ではなく、自由な子供FCがわくわくしてしまう子供っぽい楽しみや喜びのような情動に直結する。
では、
祭りにおいて、未開部族の部族人や日本人のベースにある<部族人的な心性>が子供っぽいFCを活性化するとして、安心して活性化させる保護する母親NPは何に由来するのだろうか?
それは、生活を成立させてくれる自然、自分が暮らす風土と、自分の身体にも内在する生命を生み出す神秘である。地母神がグレートマザーとして擬人化されるのは、自然の恵みや加護が風土と身体にも内在しているという直観による。
このような自然や風土そして身体を崇拝する部族人や日本人は、自分たちが子供のように喜び楽しむことを、自然や身体に宿る神々は母親のように喜び楽しむだろうと、母親NPを呪術原理で捉えた。
<部族人的な心性>の基礎的な特徴である人間と自然の未分化性は、自他の未分化性や人間と自然の未分化性に展開しているが、結果的に人間と神との未分化性にも展開している。
山が迫って平野が狭い日本列島で山海草木を近しく眺め触れて暮らす日本人にとって自然は、具体的な風土や身体であり、直接的に共同主観ないし共同幻想という「暗黙知・身体知の体系」に還元され、それが根強く温存されたのだろう。
一方、
中国大陸の南部の山間地を除いた広大な大地で天空を分ける地平線に囲まれて暮らす中国人にとって自然は、抽象化しやすい大自然であって、容易に客観的に共有される「明示知・形式知の体系」に還元されたのだろう。
仏教の明示知である教義は、日本人はその<社会人的な心性>のベースとして温存した<部族人的な心性>によって仏教を捉えて自然主義化して神道と習合させた。
仏教の身体知である修行も、同様に神道と集合して風土に密着した修験道を発展させている。
仏教は本来、教義と実践の宗教であり、仏陀が教える通りに私たちが生きることを促すものである。そのこと自体がまずCP〜AC関係なのだから、教義宗教としては、仏と人間とのNP〜FC関係だけを抽出して発展させることには限界があった。
しかし、日本人は神仏習合の進展とともに、仏教の大衆化が進み阿弥陀如来の浄土信仰が盛んになっていった。それは、仏と人間とのNP〜FC関係(誰をも救う慈悲と念仏や踊り)を捉えるものだったのは偶然ではあるまい。
仏陀は「真理」をとく。
その真理は、良い原因が良い結果を生み出し、悪い原因が悪い結果を生み出すという因果律にのっとっていてそれを「カルマ」と言う。
そして善も悪もすべては私たちの思いから生まれてくる。すべてのカルマは、悪い思い、良い思い、怠惰な思いのいずれかから起こる。
そこで悪い思いと怠惰につながる行いを戒める「戒律」をとく。
ここで、真理がA(合理的な大人)で、戒律がCP(批判的な父親)-----戒律を守るべき人々のAC(順応する子供)を想定-----である。
ちなみに三つの真理として知られる、もっともシンプルな真理は、苦(ドゥッカ)と無常(アニッチャ)と無我(アナッター)である。
苦=悲しみはすべてにやって来る、無常=永遠なるものは何もない、無我=我というものさえも常に移ろっている。
三つの中で最も重要なのは無常で、あらゆるものは常に変わり続ける、その変化は良くも悪くもなり得る、という一般庶民にも分かりやすい法則である。
日本列島の四季の移ろいのある風土=自然を神とした日本人の<部族人的な心性>には、無常と無我に親和性が強かった。移ろう自然は無常であり、人間と自然の未分化性が前提で、人間は自然と調和的に一体化することが理想とされたため、自然とともに移ろう自分が無我と重なった。
よって、日本人には一般庶民にも容易に仏教が前提とする真理が受け入れられていった。日本における仏教の神道の習合もそこを心理的土壌として達成されたと言える。
仏教の真理A(合理的な大人)は容易に受け入れられたが、戒律CPは僧侶や修験者が遵守するものの一般庶民が実践することは容易ではない。
そういうことは日本に限らず仏教圏では一般的で、庶民は僧侶にお布施をしてすべて代わりにやってもらうことになる。戒律を守る生活をしなくても悪い因果が巡らないように護符を買うようになる。ちょうどキリスト教会が免罪符を売ったように寺社もお守りを売り絵馬を飾るようになっていく。
そして、
庶民の仏教信仰の実質は、仏像を拝めば仏の慈悲にすがれるという自分たちとのNP〜FC関係を想定するものが盛んになっていく。念仏さえ称えていれば誰でも極楽へ往けるという教義解釈によって、寛容なる阿弥陀如来というNP(保護的な母親)を崇める信仰が広まっていく。
日本では、神に奉納していた感謝の踊りに念仏を盛り込みそれが「念仏踊り」に芸能化したり、京都の街中を念仏行したことが「踊り念仏」になりそれが「念仏聖」の先駆となった門弟や「鉦たたき」「鉢叩き」と呼ばれた芸能者により全国に広められたりしている。
これは、仏像や経典に依拠しない、庶民一人ひとりの身体性のみに依拠してFC活性化だけに集中する展開である。
世界に比類ない、日本の風土を前提にした庶民の情緒性と身体性に重点をおいたFC活性化への集中の傾向の究極の姿に他ならない。
阿弥陀如来に導かれて極楽浄土へ行くという阿弥陀信仰は中国でも盛んだった。
「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称えることを念仏(口称念仏)という。念仏は、阿弥陀仏へのお礼の言葉で、阿弥陀仏の力によって「無明の闇(暗い心)」が破れて幸せになった人がその歓喜をもって称えるということで、これを「他力の念仏」という。
一方、「無明の闇が破れていない暗い心」で称える念仏を「自力の念仏」といい、それは暗い心でいながら明るい結果を仏にすがる崇拝ということになる。
ちなみに人任せにすることを「他力本願」というが、本願とは阿弥陀仏が善悪を問わず生命のある全ての存在を極楽浄土に往生させようとする誓願のことで、「他力」とは阿弥陀仏の本願力のことである。
つまり本来、「無明の闇が破れた明るい心」でいることによって阿弥陀仏の本願力が発揮される、という意味である。
ここで、
衆生の明るい心がFC(自由な子供)
本願力を発揮する阿弥陀仏の慈悲がNP(保護する母親)だから
両者はNP〜FC関係にある。
一方、
フロムは、「死後の世界」とそこでの幸せを想定する宗教を人間性を抑圧するものとして「権威主義的宗教」に分類した。
しかし阿弥陀信仰の本来は、衆生に明るい心を保つ生活実践を促しているのだから、結果的に理性主義的な「人道主義的宗教」と同じような働きをすると言える。
ただ、
実際の衆生の「一般的な人間活動としての宗教」としては、暗い心でいながら明るい結果を仏にすがって求める崇拝である「自力の念仏」になってしまうことが多く、無力な衆生を前提することはフロムの指摘する「権威主義的宗教」に分類されてしまう。
以上、
仏教においても、キリスト教と同じように
寺院の「教義宗教」としてはCP〜AC関係とAばかりが展開し
それを補うように、一般庶民の「一般的な人間現象としての宗教」としてはNP〜FC関係が展開した
ということが確認される。
それは中国でも阿弥陀信仰としてあった一般的な<社会人的な心性>の形成話である。
日本では、これに加えて、仏教が神道と習合する経過において、庶民一人ひとりの身体性のみに依拠してFC活性化だけに集中する展開があった。
それは、<部族人的な心性>をベースとした温存した日本人ならではの<社会人的な心性>の形成話に属する。
以下、
後者の形成話の起源をもとめて道教と神道を俯瞰的に検討していきたい。
「一般的な人間現象としての宗教」としての道教の歴史的経過はとても複雑だ。
その複雑さをなるべくシンプルに俯瞰するとこうなる。
①
まず、道教の元になった土着信仰が<部族人的な心性>として展開していた。
「部族社会」でシャーマンの権威と族長の並立するが、それらの役割が世襲制ではなく固定的な階層性がまだ生まれていなかった段階で、
部族社会の<社会人的な心性>が育まれた。
②
部族群が大部族である「くに」(城塞都市)に統合されてシャーマンと族長が世襲化し固定的な階層性が生まれた段階で、
「くに」の<社会人的な心性>が育まれた。
この段階で、「為政者の道教」の元となる要素が育まれるが、「為政者の道教」「民間の道教」といった区別も棲み分けもない状態だった。
③
「くに」ぐにが「国」(都市国家)の下に統合された段階で、
「国」の<社会人的な心性>が育まれた。
この段階で、国家宗教の「為政者の道教」が生まれる。
結果、その他が「民間の道教」ということになるが当初はともに素朴で体系的な違いはさほどなかった。
やがて「民間の道教」が教義と儀式を体系化させて教団化し、「国」にとりたてられて「為政者の道教」となる場合から、「国」に排斥される反体制的な「民間の道教」までが展開する。
さらに「為政者の道教」は、体制内で「為政者の仏教」「為政者の儒教」と激しく競合する。三者はお互いの要素や体系を取り入れて優位化を競って行く。
ここで教義と儀礼において「国」の体制を強化するCP〜AC関係と、すべてについて合理的に説明するAが強化された。
④
②③で進化した「為政者の道教」が「民間の道教」に反映する。
「民間の道教」も、庶民レベルで「民間の仏教」「民間の儒教」と競合したり混淆したりしてその成果が「為政者の道教」の進化に反映もした。
以上のように中国における道教の歴史的経緯を俯瞰すると、
以下のように
日本における神道の歴史的経緯と似通っていること、そして逆に違うことが分かってくる。
①まず、日本列島の
縄文社会でも人類普遍の<部族人的な心性>である自然を神とする自然崇拝や祖先崇拝が展開した。
「部族社会」でシャーマンの権威と族長の並立するが、それらの
役割が世襲制ではなく固定的な階層性がまだ生まれていなかった段階で、
部族社会の<社会人的な心性>が育まれた。
②日本列島の平野が狭隘で山や岬で隔てられることから、平野や平原が広大無辺な中国大陸であったような部族群が大部族に収斂していく累層的構造は展開しなかった。
代わりに、様々な渡来人が日本列島の四周から大陸の文明文化を持って参入し、縄文社会を再編し「くに」に統合していった。
「くに」に統合されてシャーマンと族長が世襲化し固定的な階層性が生まれた段階で、
「くに」の<社会人的な心性>が育まれた。
その際、<社会人的な心性>として「為政者の神道」の元となる要素が育まれていく。
渡来人と縄文人の関係性が支配被支配であれば、支配者渡来人の宗教はそれぞれが故地から持ち込んだ「為政者の宗教」となり、被支配者縄文人の宗教は、縄文信仰を支配者の支配管理に便利なものに改変した「民間の宗教」になった。ただ、後者は前者に地続きに一体のものとして創作された。
具体的には、渡来人の文化英雄を王とし、稲作民化された縄文人の稲作共同体において渡来人の稲作管理者がシャーマンとして、そうした体制を維持すべく創作された信仰であった。
「安曇氏」は北部九州を本拠地に、中国の巨大「領域国家」の外臣化し「くに」を建てて、縄文人を稲作民化し縄文社会を稲作共同体に再編して大規模稲作拠点群を展開した。そこでは以上のような展開があったと考えられる。
渡来人と縄文人の関係性が産業指導する交易者と協働する生産者という対等関係であれば、交易者渡来人の宗教はそれぞれが故地から持ち込んだ教義宗教が正確には「為政者ではなく遠隔地交易民の宗教」となり、生産者縄文人の宗教は縄文社会とともに温存された縄文信仰が「民間の宗教」になった。前者と後者はそれぞれに自立的に展開した。しかし、交易者渡来人と生産者縄文人の族長が姻戚関係を結ぶことで交易関係が締結されたため、縄文社会の支配層が固定化し、それを維持安定化させるべく前者は後者に金属器などの縄文社会では入手できない威信財を贈与した。このことも、縄文社会では何らかの信仰によって正当化されたのだろう。
「出雲族」は島根半島を本拠地に、環日本海交易ネットワークのハブ拠点とその後背地交易経済圏を形成した。その盟主の「交易ビッグマン」を象徴するオオクニヌシは、主要交易産品の生産拠点の縄文人部族の族長の娘を娶ってまわって、縄文社会を温存しながらネットワークしていった。そこでは以上のような展開があったと考えられる。
いずれの場合も、新たに追加された「民間の信仰」として、日本列島の風土を前提にした具体的な自然崇拝の土台にして、風土的に近しい中国南部の照葉樹林帯の土着信仰から起こった道教の身体的な祭祀や祝祭の要素が取り入れられたと考えられる。
これは紀元前からの「出雲族」「安曇氏」起点の展開である。
③
「くに」ぐにが「国」(都市国家)の下に統合された段階で、
「国」の<社会人的な心性>が育まれた。
この段階で、国家宗教である「為政者の宗教」が萌芽していく。
日本列島の多様な成り立ちの「くに」ぐにが「領域国家」的な連合である「国」や統一を目指す「国」の下に統合された段階で、「国」の体制の中で位置づけをえる「為政者の宗教」が生まれる。
紀元後には、「テュルク族」「濊(わい)人」起点の展開が起こってくる。
「テュルク族」は、匈奴に同行する鉄生産専従民だったが、北陸に「出雲族」によって入植(紀元100年前後)された後、鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」を建て、鉄資源を求めて北陸から琵琶湖地方を経て大和地方、吉備地方にかけて「くに」ぐに建てていった。大和地方に至った段階で「くに」ぐにの連合政府として「邪馬台国」を建てた。ここで、国家宗教である「為政者の宗教」が萌芽している。それは従来の「テュルク族」の信仰で、卑弥呼のような巫女をシャーマンとするものだった。被支配層の縄文人は、すでに「出雲族」(日本海側)や「安曇氏」(瀬戸内海側)によって支配管理されていて、大規模稲作拠点の稲作民を支配管理する「民間の宗教」が流布していて、それを踏襲して巫女シャーマンを介して接続した「テュルク族」の「為政者の宗教」が国家宗教として標準化されたと考えられる。
「テュルク族」が鉄資源を採取して鉄生産をした「くに」ぐにでは、「テュルク族」の鉄生産絡みの信仰と縄文人の森林伐採絡みの信仰の混淆があった公算が高い。「出雲族」は、長く縄文社会と交易協働してきていて、かつ「テュルク族」とも交易関係があったから、信仰の混淆は「出雲族」のやり方に倣った可能性がある。
例えば、御柱祭のような巨木を用いた祭りは、巨木で建物を建てていた縄文人の信仰と、巨木を伐採加工する鉄器を製造していた「出雲族」の信仰の混淆によって発生したと考えられる。そのようなやり方を、「テュルク族」は採掘民化・林業民化した縄文人の支配管理を容易にする「民間の宗教」とした可能性がある。
鉄生産や鉄器製造と火の信仰は不可分であり、ペルシャ地方に展開していたゾロアスター教(拝火教)を鉄製造専従民のトルコ系渡来民が信仰していた公算は高い。いわゆる火祭りの類いの内、密教伝来以前からのものについては、「テュルク族」の「為政者の宗教」や彼らに支配管理された縄文人の「民間の宗教」に由来すると考えられる。
たとえば、
滋賀県を代表する勇壮な火祭りである勝部の火祭りは、起源は鎌倉時代、土御門天皇の病気が重いので占わせたところ、この地に数千年も生きている大蛇(おろち)が元凶だというので、それを切り殺して火に焼いたところ天皇が全快したことに始まると伝わっている。これは、産鉄地帯であった琵琶湖地方に大蛇伝説があったことを示していて、それは「テュルク族」の「為政者の宗教」や彼らに支配管理された縄文人の「民間の宗教」に由来する可能性がある。
「濊(わい)人」は、元々は朝鮮半島で小国群からみかじめ料をとってまわっていた騎馬民族である。
詳細は省くが、彼らが南九州に上陸(天孫降臨)、山野系縄文人の「熊襲」を陸戦隊化、海洋系縄文人の「隼人」を海戦隊化(日向三代)、「テュルク族」の「くに」ぐにを制圧、その連合政府である「邪馬台国」を降伏させた(神武東征)。
そして、初期ヤマト王権を樹立、その樹立過程について、征服民族による征服王朝の樹立という「実際に起こったこと」を隠蔽し、「出雲族」が「国造り」した「国」を「国譲り」させて「天孫族」が降臨しその後裔が天皇(大王)となっている、という天皇(大王)を正統化する風聞神話を流布させた。
この神話が、初期ヤマト王権を樹立し黒幕的二重支配者に徹した「濊(わい)人」首長層が、協力的な主要渡来系勢力で構成された支配層に打ち出した最初に「為政者の宗教」であった。
初期ヤマト王権の段階から、統一的な「律令神道体制」を整えるヤマト王権の段階になる前までは、地方の支配層である有力豪族は自らの縄張りで自立的に展開していた。
つまり、中央の「為政者の宗教」と地方各地の「為政者の宗教」は(口伝えされる風聞神話も含めて)異なった。
地方の有力豪族が令制国に再編され年貢を中央に納める体制が制度的に確立したのは「律令体制」においてである。それまでは、統一的な「領域国家」の体裁を対外的・対内的にもてた中央政権が、「管理貿易」を政商型交易者(「安曇氏」=「物部氏」と「倭人」=「大伴氏」)に独占させ上納させる体制をとるのが精一杯だった。それさえ、従来からの「自由貿易」を密貿易として行う離反者(熊襲タケル、出雲タケル、東海・関東沿岸の「狗奴国」残党)がいて、それを征伐してまわったのがヤマトタケルの西討東征譚である。この風聞神話は、この征伐以降に、密貿易の再発防止のために創作流布された可能性がある。
よって、ヤマト王権草創期には、もっぱら「為政者の宗教」が風聞神話によって場当たり的に追加されていったと考えられる。
統一的な神社建築様式と神道祭祀様式を備えた神道は、「律令神道体制」を目指す記紀編纂期から伊勢神宮の最初の式年造替が準備された時期にかけて構想され新造され完成している。
それ以前は、一部の渡来系主要勢力が故地から持ち込んだ「為政者の宗教」ではなく、渡来系主要勢力の全体が共通して縄文社会を支配管理するために縄文信仰を改変していた内容(ディオニソス的な要素を排除してアポロン的な要素だけを調和的に統合)である「神ながらの道」が、「民間の宗教」と地続きで一体化した「為政者の宗教」として活用されていた。
その最大の特徴は、
「明示知・形式知の体系」である教義宗教にされることなく、祭祀や儀礼の「暗黙知・身体知の体系」にとどめられ
大枠のパラダイムは共通しても、具体的には主要渡来系勢力の縄張りによってバラツキがあり、同じ主要渡来系勢力でも場当たり的な展開をしていた。
これでは、統一的な「領域国家」の体制づくりをしていくことは困難である。そこで、「明示知・形式知の体系」である教義宗教である仏教を国教として新興していこうとする開明的な動きが起こった。
しかし、それを急進的に推進しようとしたのは天皇を凌駕する権力を持つに至った「蘇我氏」だったことや、天智天皇の白村江の敗戦による唐と新羅による唐化政策への追随であったことから、同じ「暗黙知・身体知の体系」ではあるが、制度化に適さないバラツキがあり場当たり的な「神ながらの道」を、制度化できる統一的な神社建築様式と神道祭祀様式を持った神道を新造する天武・持統天皇の動きに展開していった。
このような統一的な「領域国家」の成り立ちの経過においては、「為政者の宗教」は戦略性をもって緻密に組み立てられねばならない。
支配層を構成するどの渡来系主要氏族の「為政者の宗教」に偏ってはならず、また、公民に根強く残存している縄文信仰からも受け入れられる「民間の宗教」に地続きで一体化するものでなければならない。特に公民からの年貢の徴収を、イメージ的に信仰的な貢納に重ね合わせるような配慮が必要だった。
すでに時代は、渡来人と縄文人が共生して弥生人となったとされる弥生時代の後の古墳時代、さらにその後の飛鳥時代を過ぎた奈良時代である。しかし、構造的には同じような課題が、時代ごとに、より複雑化した支配層においてより高い次元で解決されることが求められたのである。
課題解決の方策が、日本列島の風土を前提にした具体的な自然崇拝の土台に、風土的に近しい中国南部の照葉樹林帯の土着信仰から起こった道教の祭祀や儀礼の要素を加えるという構造的に同じ方向性でも、神道の新造の完成段階として、仏教建築由来の木造建築や公用語となった共通語としての日本語(和漢混淆)を前提として、戦略コンテンツの古事記、神社建築の統一様式、神道祭祀の統一様式が三位一体の「神道体制」が構築された。
たとえば、
朝鮮半島の南半にも「領域国家」化の波が及んで「馬韓」が「百済」に、「辰韓」が「新羅」になったが、「百済」と「新羅」の建国神話は似通った所と異なる所がある。また「新羅」の中では「朴氏」「昔氏」「金氏」で始祖神話が異なり、そこから導かれる建国神話には一致しないところもある。そのような神話状況が、日本列島の西日本でも記紀編纂期、「律令神道体制」づくりの時代まであったのである。
ヤマト王権が統一的な「領域国家」としての体制を完備していくにおいて、古事記による神話の統一的な統合は不可欠であった。
結果、道教神話の開闢神話や創世神話から始まる構成にならい、朝鮮半島の騎馬民族の神話を念頭に始祖神話は差別化し、建国神話はその天孫降臨譚をとりこんだ。縄文信仰に近しい海外神話をおりこみつつ、森羅万象を八百万の神として主要渡来系勢力のトーテム群を包含し、かつ支配階層を構成する主要渡来系氏族の祖先を祖神として登場させる中央神話を創作した。さらに、中央神話が地方神話群をその傘下に収めるという枠組みで「為政者の神道」を体系化していった。
地方では、中央政権が統制するまつりごとでは「為政者の神道」が展開するが、地方自治に委ねられるまつりごとでは地方ごとの土着信仰が「民間の神道」として温存された。その様相は、中央政権は各地方の風土記によって把捉した。
④
②③で進化した「律令神道体制」の「為政者の神道」が「民間の神道」に反映する。
同時に国家仏教=「為政者の仏教」として導入された仏教が大衆化していくと同時に神道と集合していく。
森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道や山岳で修行する山岳信仰のような「民間の神道」も、庶民レベルで「民間の仏教」と習合した修験道のような成果が、「為政者の仏教」における密教の伸長に反映した。
以上のように、日本おける神道の歴史的経緯と、中国における道教の歴史的経緯を対照すると、
ともに呪術的な土着信仰という「民間の宗教」を淵源として「為政者の宗教」に行き着いていて
その経過において他宗教と混淆ないし習合している点などが似通っていることが確認される。
しかし、逆にだからこそ際立ってくる微妙だが実は根本的な神道と道教の違いが見えてくる。
一番の違いは、
道教は、仏教に対抗して陰陽で論理化したり老荘で創唱化したり易漢方で専門分化するなど「明示知・形式知の体系」化した
のに対して
神道は、仏教に対抗して自然(風土)を神とする「暗黙知・身体知の体系」の次元高度化を反復して統一様式化に至った
ということである。
具体的には、
神と人間とのCP〜AC関係を可視化を
神社建築様式の仏教建築由来の木造建築技術を用いての高度化・統一化、神道祭祀様式の精緻化・統一化が担い、
神と人間とのNP〜FC関係を可視化を
神社が主催して境内と周辺地域で「信仰共同体」の結束を熱狂の内に新たにする祭りの創始と普及が担った。
そして重要なのは、
日本では道教が「為政者の道教」「民間の宗教」となることはなく
体系的には換骨奪胎された道教の要素が「為政者の神道」「為政者の仏教」に取り込まれたに過ぎない
ということである。
その理由は、二つある。
一つは、
日本で神道が担った風土主義的・民族的役割が、中国で道教が担った自然主義的・民俗的役割とバッティングしたから。
一つは、
神道の文脈や場への依存性が高い=高コンテクスト性の風土主義の具体性
と
道教の文脈や場への依存性が低い=低コンテクスト性の自然主義の抽象性
が
体系として折り合わなかった
つまり
<部族人的な心性>をベースとして温存して形成された<社会人的な心性>が
前者を好み後者を嫌った
ということである。
この対照性は、
風土の環境に溶け込む木造建築で建て替えられてきた神社
(自然と調和融合を志向)
と
自然の環境で際立つ石造建築で経年劣化に耐える道教寺院
(自然と対峙対抗を志向)
に集中的に象徴されている。