日本人の「仕事感」ならでは色濃い信仰性(2) |
(1)
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からのつづき。
フロムによるユング批判にみるフロイトとユングの根幹パラダイムの違い
フロムは「Ⅱ フロイトとユング」であらゆる点で正反対である両者の宗教観についてこう解説していく。
「フロイトは専門の哲学者ではなかったにもかかわらず、(中略)心理学的ならびに哲学的角度から問題に近づいてゆくが、
それに対してユンクはその著書の冒頭に、『わたしは現象の観察に終始し、形而上学的または哲学的考察は決してしようしない』と記している。(中略)
かれは自分の立場を『現象学的』と呼ぶ。すなわちそれは、出来事、事件、経験、一言にしていえば事実を問題にする。そこでは真理は事実であって判断ではない。
たとえば処女降誕の主題についても、心理学はただそのような観念があるのだ、という事実だけを問題にするのであって、その観念が何か他の意味で真であるか否か(筆者注:たとえばそれが歴史的にほんとうにあったことか、科学的にあり得ることかなど)、といったことは問題にしない。<それは実在することと同程度において心理学的に真である>(<傍点>)。
心理学的実在は、観念がたんなる一個人の内部に生起する限りにおいて主観的なものである。しかしながらそれは、社会-----社会的一致-----によってつくられた限りにおいては客観的である」
私はユングの方法論的前提は正しいと思うし、実際に私も文化人類学的な検討や言語学的な検討において踏まえている。
私なりの結論を先走ると、私も相対主義とは認めるが、相対主義によって初めてつかみ取れる真理というものがあるし、ユングはまさにそこに焦点を当てたのだと思う。
端的に言えば、
フロイトとフロムが因果律(原因Aが結果Bをもたらす)でつかみ取れる真理ばかりを真理としたのに対して、
ユングはそれではつかみ取れない、共時性(Aがある時Bもある)でつかみ取れる真理もあるとしてそちらに焦点を当てたのである。
たとえば、
それは「相互主観性」とも「共同主観性」とも言われる。
学術的には、
「純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して、
他の主観、他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元である。
それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる。」
と難解な説明がなされる。
順序だてて噛み砕いて行くとおおよそこういうことだ。
まず、「純粋意識」とは「現象学的還元」によって取り出された認識で、フッサールは意識だとしているが無意識の可能性もあるし、言葉に表現しきれる明示知ばかりでなく漠然と諒解する暗黙知や身体知の場合もあると私個人的には考えている。
つまり、事実群をその一つ一つやまとまりとして直接的に判断するのではなく、構造として俯瞰すると、志向性が見えてくる、ということでもあり、それは見方によれば固定的な判断をしない相対主義ということになる。
ふつうの「主観性」は、本人についての本人で自己完結する主観性である。
これを「現象学的還元」するのが「純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元」である。
それに対して他人の主観性を「現象学的還元」するのが「他の主観、他人の自我の成立を明らかにする間主観的還元」である。
たとえば、
日本人にとって「我」は、現象学的には欧米人の「I」や中国人の「我(wo3)」とは違う。
日本人にとって「汝」は、現象学的には欧米人の「you」や中国人の「你(ni3)」とは違う。
それは、以下のように日本人が、他者を経由して自己をもつということからくる。
韓国人や欧米人は、他者を経由せずに自己をもっている個人同士として「我と汝」の関係をもつから、対人関係は往過程のやりとりとなる。
正確に言うと、
このような「汝」についての考察は、
「汝」も、「我の『汝における我』」版の「汝」版ではないか、とする仮説が社会的一致をみることで客観的な事実とされる。
(参照:「今問われる日本人の『甘えと義理』(1)」https://cds190.exblog.jp/15390651/)
この認識過程は、A=B、B=C、ならばA=Cという三段論法ではない。
「◯◯の××版なんじゃないか」というアナロジカルな推量は、同じ構造の◯◯がある時、同じ構造の××がある筈だという仮説であり、Aがある時Bもあるという共時性と重なる。
このような「間主観的還元」が、自己と他者の間で相互に、あるいは集団や社会の構成員同士で共同で行われていて、結果として「間主観性」なるものが存在している。そしてそれが「相互主観性」とも「共同主観性」とも言われる。
何か難しいようだが、
なかんずく、
日本人には、
そして、
そして、そのような関係性を保つことを<世間>が要請しているという前提がある訳だが、そのような関係性を乱す者に対する批判として「<世間>が許さない」といった台詞が出て来る。この許さない<世間>とは、「共同主観性」=「相互主観性」=「間主観性」を帯びたものに他ならない。
話をフロムが、ユングが「現象学的還元」を方法論的前提としていることを批判していることに戻そう。
ユングの方法論的前提について、フロムはこう代弁していた。
しかしながらそれは、社会-----社会的一致-----によってつくられた限りにおいては客観的である」
その場合、「社会的一致-----によってつくられた限りにおいては客観的である」それは、まさに「共同主観性」のことになる。
私たち日本人が「<世間>が許さない」と言った時、たいていは言った本人が一番許さなかったりする個人の内部に生気する「主観」なのだが、<世間>の「主観」=「共同主観性」を言い立てていると言える。
じつは、
なぜなら、ユングが提唱した最重要概念である「集合的無意識」とは、意識的な「共同主観性」より根深い、多くの場合その根底になっている無意識的な「共同主観性」に他ならず、深層心理の深みにおいて人類が共有していると主張するものだからである。
だから、
それだけに舌鋒が鋭い。
「ユンクの用いる『真理』の概念は支持しがたい。(中略)
ユンクは、ある観念は『それが実在することと同程度において心理学的に真である』と述べている。しかし、ある観念はそれが妄想であるか、または、事実に対応するものであるかとは無関係に『実在する』。観念は実在するからといって決して『真理性』をもつものとはならない。(中略)
かれは相対主義の立場を擁護する。それは、表面的には宗教に対してフロイトよりも友好的に見えるけれども、本質的にはユダヤ教・キリスト教・仏教のような諸宗教とは根本的に対立するものである。それらの宗教は、真実への追求を人間の基本的な徳および義務の一つであると見なし、それらの教義が啓示によって到達されるにせよ、理性の力によって到達されるにせよ、教義は真理の規準にしたがうと主張するのである」
フロムは、キリスト教徒のユングが、キリスト教は相対主義ではないのに相対主義を擁護するのは反キリスト教的であり、フロイトよりも反宗教的であると言っている。
しかし、キリスト教・ユダヤ教・仏教で教義が異なり真理とするものが異なるというその全体を相対主義で俯瞰してこそ、構造的に教義宗教とは何ぞやという真理が初めて浮かび上がってくるのも事実である。
日本の神道や部族社会のアニミズムやシャーマニズムのように教義をもたない宗教や信仰もあれば、儒教のように経典はあってもそれが宗教的な教義とは言えず、真理の核心を天意と前提するものもある。こうした各種の宗教や信仰の全体を俯瞰して、それぞれの相対的ポジションによってそれぞれの特徴というものを把捉するのも相対主義によって初めてできることである。
しかしそのようなことは、フロムは当然、分かっていたと思う。
だから、なぜフロイトを称揚しつつ、そのようなユング批判をしたのかという疑問が残る。
フロムがフロイトと同じユダヤ人ということから、意識的にか無意識的にか同じパラダイムを共有したということだけでは説明がつかない。
私には、ナチスドイツから逃れてアメリカに渡っていたフロムゆえの、戦後のフロイトへの某かのシンパシーがあったのではないかと思えてならない。
こんなことがあったという。
1938年、ナチスが白人系ユダヤ人を学会追放した時、ユングは会長を務める『国際心理療法医学会』にドイツ帝国内のユダヤ人医師を受入れ身分保証する事、学会機関紙にユダヤ人の論文を自由に掲載する事の2点を決定しフロイトに打診した。
それに対してフロイトは「敵の恩義に与ることは出来ない」と援助を拒否。結果、ユダヤ人の医師たちは強制収容所に送られガス室で亡くなった。だがフロイト自身は首尾よくロンドン亡命する。フロイトの独善者的な性格が死ぬ必要のない同胞を死地に追いやったとも批判される。
フロムは、フロイトと同じ亡命ユダヤ人としてのシンパシーからもフロイト批判には向かわず、戦後、ナチスへの協力の疑惑が取り沙汰されたユングへの批判に集中したのではないか。
ユングは会長を務めた心理学会がナチス寄りだとされ、ユングがユダヤ民族の心理的特性についての論文を発表していることも「ユダヤ人差別に協力した」という見方を強めた。
フランスでは、今でも「ユング=ナチスに加担した卑劣な心理学者」というイメージが残っていて、中村雄二郎が フランスに招かれて講演したときにユングの名を挙げただけでデリダらにこっぴどく非難されたそうだ。
しかし、ユングが言うことの真相は、ユダヤ人を守ろうとして心理学協会の会長を引き受け、ユダヤ人迫害がエスカレートするのを食い止めようとした。また、論文も、ユダヤ人を差別するための材料としてではなく「正しく理解してもらうために」書いたものだったのだということでナチスに加担するつもりは微塵もなかった、というものである。
当然、フロムもこうしたユングの弁を耳にしている訳で、その上でのユング批判だった。
フロムは、ユングの方法論的前提を相対主義として批判して、こうまで言い切っている。
「主観的と客観的とを区別するかれの基準は、ある概念がただ一人の人に起こるか、社会によってつくられるかという点にかかっている。
しかしわれわれは『百万人の愚行』を、現代のあらゆる集団の狂気を、見ている筈である。一個人のつくり出すものにおとらず幻想的であり、不合理であるような観念を、数百万の人々が非合理的熱情にかられて、あやまって信じこむ場合もありうることを、われわれは見てきたはずである。それらを『客観的』と呼んでみたところでどんな意味があるであろう?
主観的と客観的とを区別するのに、このような基準の本質は、(中略)相対主義のものである。
もっとはっきりいえばそれは、ある観念が社会的に承認されるということをもって、その観念の妥当性、真理性あるいは『客観性』の基準とする社会学的相対主義である」
フロムは、ユングの『現象学的』な方法論とその帰結の『共同主観性』=『相互主観性』=『間主観性』を認めない。
「ユンクは『宗教とは何か、宗教的体験の本性とはいかなるものか』という中心問題についての見解を述べる。かれの定義は多くの神学者たちと共通するものである。
簡単に要約すれば、宗教的体験の本質とは、自分より高い力に服従することである、ということができる。(中略)
かれは宗教とは次のようなものであるという。すなわち、
『ルドルフ・オットーがいみじくも『ヌミノーゼ』と名づけたもの(筆者注:オットーは、合理的に発達した宗教の核心には非合理的なもの-----感情や予覚による圧倒的な「聖なるもの」の経験が存在するとして現象学的・宗教哲学的な考察を展開)を、すなわち恣意的意志によって生じたのではない力動的実在または効果を、綿密周到に見ることである。恣意的意志とは反対に、<それは人間的主体をとらえ、それを統御するのであって>(<傍点>)、人間主体は常に、それの創造者であるよりはむしろ、それらのいけにえなのである』
(筆者注:このユング自身の論述における『いけにえ』という表現については、他者が『いけにえ』となることを強いてそれ本人が受け入れる場合と、本人が『いけにえ』となることを望んで献身する場合とがある。その中間に促されて望むようになるという場合もあろう。
また、世の中にはこんな事もある。実際に私も体験した。
科学的には説明できない超自然現象や、起こりえないほどに低い確率の出来事に遭遇する「意味のある偶然=シンクロニシティ」などを体験した本人が、それを事実として受けとめるしかなく、他者に強いられた訳でもなく、かと言って自ら望んだ訳でもない。ただ世の中には説明しがたい有意味な神秘もあると思わざるを得なくなる。このような事は、人間が自らよりも強い存在に屈服したとか、主体性が統御されたという話ではない。
私自身もそうだったように、そのような神秘があることを体験的に理解したからと言って、そのような神秘を生活や人生の中心にすえて宗教や信仰を大きく変えない人の方が多い。同様に、聖人に奇跡が起こったという話を受け入れても、自分が聖人のように生きようとしそのように生きられる人々は稀で、ほとんどの人々は人生や生活の意味について聖人のそれを多少参照するだけである。そして稀にマザーテレサのように献身の生活と人生を全うする人がいるとしても、その主体的な献身は、超越者にコントロールされた統御や屈服とは呼べないだろう。
ちなみに啓示も「ヌミネーゼ」の一つであるが、ユングはそれを認め、フロイトは認めない。)
ユンクは宗教的体験を、われわれの外なる力によってとらえられることであると定義した結果、無意識という概念を宗教的なものと解するに至る。かれによれば、無意識は単に個人の精神の一部であるのではなく、われわれ皆の精神に侵入していて、われわれ自身では処理しかねるような力なのである。
(筆者注:「精神に侵入」というあたかもオカルトの印象を与えるかのようなフロムの表現が気になる。
確かに、ユングは集合的無意識がいかに共有されるかについて元型(アーキタイプ)の共有として説明しているが、いかにしてそれが「人類の心の中で脈々と受け継がれてきた」かについて厳密に語っていない。そのためオカルトの印象を抱かれやすい。
しかし私の理解では、ユングの根本的な主張は、人類は普遍的に<部族人的な心性>を自然発生的に育んだが、民族それぞれが<社会人的な心性>を形成するにあたって捨象したり限界づけた<部族人的な心性>を無意識下に抑圧するようになった。その抑圧の仕方は民族により異なるが、その抑圧された元々の内容は元型で構成されていて元型は人類普遍である、という話なのである。
そして、日本人は<部族人的な心性>をベースとして温存して<社会人的な心性>を形成してきたために、近代人となってもその抑圧が他民族に比べて小さかったり無かったりする。)
(中略)
宗教および無意識に関する彼の主義からの必然的帰結として、ユンクは、無意識の性質からいって、われわれに及ぼす無意識の影響が『基本的宗教現象』である、という結論に到達する」
フロム自身が本書で、フロイトが「宗教とは幼児の経験の繰り返しである」「宗教とは、小児期神経症を惹起するのと似た条件で起こる集合的神経症である」としたことに触れている。
「幼児の経験の繰り返し」と意識的に分かっていてではなく無意識的にしているのが宗教ということだから、無意識の「小児期神経症を惹起するのと似た条件」で宗教が現象しているということである。
つまりフロムは、フロイトの言う無意識の影響が『基本的宗教現象』であるという論は批判しないが、ユングの言う集合的無意識の影響が『基本的宗教現象』であるとする論は批判する、というスタンスなのである。
けっきょくフロムはフロイトを代弁して、ただ集合的無意識の否定を繰り返しているのである。
しかし、ユングのフロイトに反対した主旨はこうだった。
フロイトが執着する「性以外にもたくさんの抑圧の原因がある」
「個人の無意識の中には人類全体に共通する普遍的無意識が残存している。この元型に縛られる時、人は神経症になる」
しかし同時に、無意識には、フロイトがネガティブに捉える宗教の本質とする神経症に悪影響するものばかりでなく、宗教や信仰に反映して魂を成長させたり救済する言わば善影響もする集合的無意識もある。
「無意識は人を抑圧するだけの暗黒世界と説くフロイトに対して、私には闇だけではなく光の差し込む統一世界に見える。ここに魂の成長があるのに、フロイトには救済がない」とした。
一方、フロムは、重要な鍵概念としてタナトス志向にエロス志向を対置していて、ともに無意識の志向性としている。
つまりフロムは、無意識にも、死に導くような悪影響するものばかりでなく、生に導くような善影響するものもあると言っているようなものだ。
そして結果的には、フロムはタナトス志向とエロス志向と相関する宗教の二つの側面、権威主義的宗教と人道主義的宗教を提示している。
本書では、フロムは倫理に立脚してフロイト賞賛とユング批判をこう総括している。
「フロイトは宗教の倫理的核心の名において語り、そうした倫理的目的の、完全な実現を阻止しようとする宗教がもった有神論的超自然的側面を批判する。
かれは有神論的超自然的概念を人間発展の一段階であるとし、かつては必要でもあり、進展をうながしもしたが、現在ではもはや必要ではないばかりか、事実将来の成長にとって障害とさえなっている、と説く。(中略)
フロイトとユンクのそれぞれの立場を要約するならば、フロイトは倫理の名において宗教に反対する-----しかしそれは『宗教的』と名づけてもよい態度だ、といいえよう。
これに対してユンクは宗教を(筆者注:倫理を問わないということだろう)心理学的現象に解消し、同時に、無意識を宗教的現象へとたかめるのである」
フロイトは、倫理に立脚したいわば進化論のパラダイムにあった。そして宗教と科学は矛盾するとした。
フロイトの枠組みからは、ユングの集合的無意識が神話的思考を展開するという主張は退行としか看做せなかったのだろう。
以上のフロムのユング批判の一方的とも言える舌鋒の鋭さは、そうしたフロイトの意向を忖度しているように感じられる。
フロイトそしてフロムが立脚した倫理は、当然、霊長類である人間の倫理である訳で、その人間は、欧米人の<社会人的な心性>が無自覚的に前提する自然(環境や身体や本能)に対抗して打ち克っていくべきとするものだった。そのパラダイムは、進化論や一神教と同様に因果律のリニアな時間軸にある。
これに対して、
共時性は、先端科学の量子論において、従来科学の因果律を補完する鍵概念になっていって、宗教や信仰と科学は矛盾しないというユングの考えが科学の側からも言われるようになって今日に至っている。
量子物理学を高度に理解した人々は一様に、その実験結果と仏教が一致することに 驚きを隠さないという。
また、量子論を創始したボーアが、電子が粒であると同時に波であると看做される「相補性」を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する太極図を好んで用いたこともよく知られている。
大乗仏教では「縁起のゆえに無自性、空」であると説く。
大乗仏教では、先ず有るのは「縁起」(共時性と因果律が未分化で渾然一体の関係)であり、諸のものは「縁起」によって有る。だから、諸のものは「無自性」であり、「空」であるとする。「縁起のゆえに無自性、空」とはこういう宇宙観である。
量子論ではこの「空」を「場」と呼んでいる。
フロムの言う「一般的な人間現象としての宗教」とその類型化
フロムは、「Ⅲ 宗教体験のある種の型の分析」の冒頭で2つのことを議論の前提として断っている。
「宗教という言葉を聞くとわれわれは、神および超自然力を中心とする一つの組織を連想する。いいかえれば、すべての他の宗教を諒解、評価する際に、われわれは一神教をその準拠体制と考えようとするのである。したがって、仏教とか道教とか儒教とかいうような神をもたない宗教は、はたして固有の意味で宗教と呼ばれうるかどうかが疑問となる。
しかし、現代の権威主義(authoritarianism)のようないささかも宗教と呼ばれていない世俗的な組織すら、心理学的にいえば充分宗教と名づけうるものなのである」
一つは、以上のように、人々が何らかの組織にコミットする形の「一般的な人間現象としての宗教」を論題とするという前提である。
いま一つは、以下のように本書で用いる「宗教」という用語の意味を既定するという前提である。
「わたしがここでいう宗教とは、<およそ、一つの集団に共有されそして各個人に構え(orientation)の体制と献身の対象とを与える思考と行動との組織一さい>(<傍点>)を意味している」
フロムは、一般的な宗教全般を考える上でも一神教を準拠体制とすると述べたが、以上のような広義の「一般的な人間現象としての宗教」を考える上でもキリスト教のパラダイムに縛られていることを、次のような前書「人間における自由」の論述が示している。
「自覚や理性や想像というものは、動物的生存を特徴づけている『調和』を瓦解させてしまった。それらの出現は人間を変則となし、造化のいたずらとなしてしまった」
これは、旧約聖書の創世記に登場する「知恵の樹」の話に重なる。「善悪の知識の木」とも呼ばれるその木の実だけは食べると必ず死ぬと、神により食べることを禁じられていた。アダムとイブがその「禁断の果実」を食べてしまったことを知った神は、「生命の樹」の実までも食べて永遠に生きるおそれがあることから、アダムとイブはエデンの園を追放される(失楽園)。キリスト教徒にはこの出来事が神に対する不服従の罪であり原罪とされる。
一方、ユダヤ教徒には「原罪」というものは存在しない。ユダヤ教正統派の両親のもとに生まれたフロムは、「原罪」という文脈ではなくて「造化のいたずら」として解説している。
「人間は自然の一部であって自然法則に順応し、そのような法則を変えることはできないが、しかもまた宇宙の他のすべてのものを卓越する。
人間は部分的な存在でありながらまた独立した存在でもある。
人間は故郷をもたない。しかも人間もまた他のすべての生物とともに、同じ故郷にしばられている。(中略)
人間は決して自らの存在の二分性から逃れられない」
こうフロムが言う「存在の二分性」は、人間が知恵と自由意志を得たこと、そしてその代償として創造主と一体の霊性と永遠の生命を失ったことに由来する。
キリスト教とユダヤ教は同じ一神教でもまったく違う。しかし、因果律にのっとった<知>を起点とするパラダイムは同じである。
だから理性というものを常に発想思考の起点とする。
「人間の光栄であるはずの理性は、またかれの呪詛でもある。理性は終始人間を強いて、解決不可能の二分性を解決しようとする課題に向かわせる。(中略)
人間の存在は、絶えまない、避けがたい、不均衡の状態である」
そしてフロムは、無自覚的に欧米人の<社会人的な心性>において「個人」や「社会」を前提している。
「人間の生活は、その種族の生活様式をただ繰り返すことによって『過ごされて行く』ものではない。人間は<自分>(<傍点>)でいきなければならないのである。人間は、<退屈し、不満を覚え>、楽園を追われたと感ずることのできる、唯一の動物である。
人間とは、自分にとっての自分自身の存在(筆者注:アイデンティティと言ってもいいだろう)が、自分で解かねばならぬ問題であり、またその問題から逃れることのできない、唯一の動物である。
人間は、自然との調和を保っている人間以前の状態に帰ることはできない。
人間は、自分が自然の主となり、また自分自身(筆者注:その中核にも自然がある)の主となるまで、理性を発展させて行かねばならない」
「理性の発現は、人間のうちに二分性を生み、この二分性はさらに、新しい解決に向かっての無限の努力を人間に強いるのである。人間を発展させ、その発展を通して人間が自分自身と、また他の人たちと調和を保って行けるような人間固有の世界を形成させる理性の存在にこそ、人間歴史の動力は存在する。(中略)
人間のうちにもともと本性的な進歩への欲望があるというのでは決してない。人間に、そのすでに歩み始めた道を進ませるものは、人間存在におけるこの矛盾なのである。
楽園を、すなわち自然との和合を失ったので、人間は永遠のさすらい人になってしまった(オデュセー、エディプス、アブラハム、ファウスト)。
人間は一そうの前進を強いられているし、また、無限の度量をもって、その知識の空白をいろいろの解答で充たしながら、未知のものを理解して行くように強いられている。
人間は自分自身に対して、自己自身とその存在の意味とを解明しなければならない。人間はこの内面的な破れを克服するためにかりたてられ、そして自己を自然から、仲間から、また自己自身から隔てている呪詛を消散させうるような『絶対者』や、他のなんらかの調和を熱望して苦悩するのである」
欧米人は、人間を超越する存在と単身で直接に対峙する「個人」を自らのアイデンティティとしている。
このことと、欧米人の<社会人的な心性>が<部族人的な心性>を捨象して形成されていることは、
一方、
「人間存在の不調和は、人間のもつ動物的欲求をはるかに超えた、かずかずの欲求を生み出す。これらの欲求は結局、人間と他の自然との和合均衡を回復しようとする、一つの絶対的な追求に帰着する。
人間はまず、自分がどこに立っているのか、なにを為すべきなのか、という問いに対する解答を導き出す際の準拠体制として役立つような、すべてを包含する精神的世界像を造り出すことによって、この和合均衡を回復しようと試みる。
しかし、そのような思想体系だけではまだ不充分である。もし人間が肉体をもたない、ただ知性だけの存在にすぎないのであれば、かれの目的は、一つの包括的な思想体系によって成就されもしよう。しかし、人間が精神と同時に身体をもった存在である限り、たんに思想(筆者注=<知>)においてのみではなく、その全生活の過程においても、そのさまざまの行動(筆者注:<意>による)や感情(筆者注=<情>)においても、人は自らの存在の二分性に抗すべきである。
人間は新しい均衡を見出すために、自らの存在の全領域(筆者注=<知><情><意>)における和合と一致の体験を追求すべきなのである。それゆえに構えの充分な組織とは、たんに知的要素だけではなく、人間の活動の全領域において、ふるまいにあらわれる感情や感覚の要素をも包含するのである。
一つの目的、一つの理念、あるいは神、というような、人間を超えた力への献身は、全生活過程の完成を求める、このような欲求の一つの表現なのである」
欧米人のフロムは無自覚的に、この論述の内容を、当然のようにあくまで<知>起点で、前提している。
そしてそれは、日本人ならではの<情>である、身体感覚をともなった情緒性や自然に密着したアナロジーの情景性を起点としきた。
さらにそれは、近代人の世界各国の人々の中では日本人ならではの特徴的な発想思考だが、石器時代の人類においては普遍的に共有された<部族人的な心性>に他ならず、欧米人も中国人も幼児心理において、潜在意識において共有しているために、自国の文明文化の文脈にないものであっても理解され共感される。
<部族人的な心性>は、因果律と共時性が未分化で渾然一体の縁起にのっとっている。
それは具体的にはどのような原理なのか。
それを雄弁に物語るのが呪術の原理である。
フレイザーはそれを「共感の原理」と呼び、以下の二つの法則からなるとした。
①類似の法則 類似は類似を生む、あるいはその結果はその原因に似る
②接触の法則 かつて互いに接触していたものは、物理的な接触のやんだ後までも、なお空間を隔てて作用を継続する
①は因果律的であり
同時に、
②の展開を時間軸で捉えれば因果律的である、とも言える。
それは、
ここで注目すべきは、
「類似の法則」の認知表現パターンは、何かを類似する物事で表現する「メタファー(隠喩)」に通じる
「接触の法則」の認知表現パターンは、部分で全体を表現する「メトニミー(換喩)」に通じる
ということである。
ゆえに、
<部族人的な心性>が因果律と共時性が未分化で渾然一体の縁起にのっとっている
とは、
部族人の感受性の認知表現パターンが「メタファー(隠喩)」と「メトニミー(換喩)」で成り立つものだった
ということに他ならない。
そして、
日本人の母語、日本語の特徴が、身体感覚をともなう情緒性を含意する身体語や擬態語が多彩さと日常的な多用であるのことは、けっして偶然ではない。
フロムは、宗教を一般的な宗教にとどまらない一般的な人間現象として捉えたことはすでに述べた。
そこで、フロムは宗教を宗教思想において比較して型に類型するのではなく、以下のように大別した。
「問題は、<宗教か無宗教かではなく、どのような種類の宗教か>(<傍点>)ということ、すなわち、それが人間の発展を、いわば人間特有の能力の展開を、促進させるものであるかまたはそれらを閉塞させるものであるか、ということにあるのである」
ただし、
日本人ならばその特徴である縁起にのっとった<情>起点の発想思考で捉える。
そのように比較文化論的に民族の主観を俯瞰するのが、私なりの「現象学的還元」の相対主義である。
フロムは、「権威主義的な宗教(ないしは宗教の側面)」と「人道主義的な宗教(ないしは宗教の側面)」という類型化というか大別をしている。
この大別はフロムが解説するようにキリスト教の思想とその変遷にも言えるし、儒教の思想とその変遷にも言えるし、はたまた神道の思想とその変遷にも言える。
そういう意味では、エロスとタナトス、女性原理と男性原理、死と再生といった普遍的な原理の介在する二項対立なのだと思う。
単に組織宗教に留まる話ではなく、<一つの集団に共有されそして各個人に構え(orientation)の体制と献身の対象とを与える思考と行動との組織一さい>を意味する「一般的な人間現象としての宗教」でもあると思う。
ただ、
一方、
結果、
人道主義についても、
それについては、本論シリーズで日本人の「仕事感」ならではの信仰性として具体的に論じていきたい。
その前に次項(3)で、さらに「一般的な人間活動としての宗教」としての「権威主義的宗教と人道主義的宗教」の有り方を詳しく検討したい。
(3)
http://cds190.exblog.jp/24907083/
へつづく。