江戸時代における「日本型の発想思考」の集団独創化を探る(6:間章 前半) |
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からのつづき。
「都市性」と「都会性」の相克と「現実」と「虚構」について
本項(6:間章 前半)では、そもそも「都市」とは何か、人類の歩みを遡ってざっくりと考えてみたい。
原初、自分たちの部族の縄張りでもなく他の部族の縄張りでもない「異界との重なり領域」で、互いに相対しないサイレント・トレード、沈黙交易が行われた。
やがて、定期的に人々が特定の場所に集って互いに相対する「市」が立った。
やがて、「都市国家」のような国ができてその祭政拠点としての「都」が支配階級によって建設された。
その「都」の中に「市」が取り込まれた。城塞都市の大通りや広場、境内都市の門前町、そして城下に「市」が立っていく。
もともと商人は行商でありそれが定期的に立つ「市」を巡回していたが、「市」が常態化されて店商いとなっていき商家の町並みが形成されていった。
この段階で今日に至るような、行政拠点ないし祭祀拠点の「都」(宮処)と商業拠点の「市」のセットである「都市」が形成されたと言える。
一方、「都」で人と人が「会」うことに由来する「都会」は、「都市」とは異なる概念を担っている。
一般的な理解としては、
「都市」が物理的かつ制度的な側面を、つまりはインフラ的な時空を言うのに対して、
「都会」は精神的かつ文化的な側面を、つまりは人間交流的な時空を言う。
たとえば、「都市」は廃墟と化すが、「都会」が廃墟と化すとはあまり言わない。
「都市」の方がハードウエアで「都会」の方がソフトウエアで、形有る物ハードウエアは廃墟と化すが、形のない事ソフトウエアは廃墟と化せないからだろう。「都会」というソフトウエアは廃れるのである。そしてその際、ハードウエアとしての都市は無人と化してもいきなり廃墟になる訳ではない。
まずはこのような常識的な理解を確認して改めて共有しよう。
次に「現実」と「虚構」について考えよう。
追って、「都市」と「都会」の話と重ねて検討する。
人は「現実」を生きている。その「現実」は人それぞれであり多様である。
しかし、物理的かつ制度的に人が生きている「現実」はほぼ一致している。
人である以上、空気を吸って生きている、空気がなければ生きていけない「現実」がある。また、日本人である以上、日本国の法律に従わねばならずこれを犯せば罰せられる「現実」がある。
物理的かつ制度的な「現実」はおおよそ客観的な確定論にある。
一方、人は精神的かつ文化的に生きている。その生き方は人それぞれであり、同じ人でもいかようにも変化する。
だからそれが「現実」だとしても、物理的かつ制度的に人が生きている「現実」ほどには客観的な確定論にはない。むしろ主観的な不確定論にあると言うべきだ。
私は敢えて、人は精神的かつ文化的に「虚構」を生きている、と言いたい。
人が精神的かつ文化的に生きる「虚構」には様々なものがある。
個人ないし個レベルの「虚構」、集団レベルの「虚構」、組織レベルの「虚構」、社会ないし世間レベルの「虚構」、国家レベルの「虚構」、世界レベルの「虚構」。
さらに「虚構」をめぐる人の立場が大きく2つに分かれる。
「虚構」の生産者や供給者という送り手の立場に立つ人がいる。
一方で、「虚構」の消費者や需要者という受け手の立場に立つ人がいる。
同じ人が、ある事柄では送り手から「虚構」を受容する受け手であって、同時に他の事柄では「虚構」を誰かに提供する送り手だったりする。
また、送り手がある「虚構」に受け手を否応無く従わせてそれを受け手にとっての「現実」とさせる場合もあれば、受け手が主体的に受容する場合に限って送り手と受け手が共有する「虚構」が某かの関係を「現実」として成立させる場合がある。
極端な例をあげれば、戦前の大政翼賛会の体制が日本国民に強要した軍国主義とファシズムは一つの「虚構」だが、戦前の日本人にとって紛れもない回避しようのない唯一の「現実」だった。しかし、戦後、民主化すると民主主義体制こそが「現実」となった。しかし戦後70年、米国の秘密公文書などが公開されると「現実」と思わされていたことの中にじつは「虚構」も含まれていたことが判明したりしている。
卑近な例をあげれば、あるファッション・ブランドの世界観は、物理的かつ制度的な「現実」ではなく精神的かつ文化的な「虚構」である。だからある人はそれを好み、ある人はそれを好まないということがありまたそれが許される。
そこは軍服や国民服とは違う。軍隊で兵隊が軍服を着なければ軍法会議に掛けられる。全体主義下で国民服を嫌えば非国民とされてしまう。同じ衣服でも、確定論的な「現実」を醸成する制度的な「虚構」と、不確定論的な「虚構」を醸成する文化的な「虚構」があることは間違いない。
また、人の生活や人生にも「現実」があり「虚構」がある。
まずはその起原に遡ってみよう。
そもそも人にとっては自然が神であり「現実」だった。そして自然と関わって獲物を穫ったり木の実を採集したり作物を育てたりという仕事も「現実」だった。春に苗を植えれば秋には稲を刈れる筈だという想定は、ほぼ確定論的な「現実」であり、たとえ旱魃や洪水で凶作となっても「虚構」とは言わない。だが例年と同じ筈だという想定が当る時と外れる時があり、豊作の時があったり凶作の時があったりする。そこで人は占いや予祝という「虚構」を神とのコミュニケーションとして持ち込み自らの「現実」と捉えるようになった。これは神の意図を知る受動的なコミュニケーションであり、雨乞いや生贄を捧げて豊作を神に乞う能動的なコミュニケーションもなされる。万物に神が宿っていてそれに対して祈祷したり呪術によってコミュニケーションするアニミズムやシャーマニズムは、自然と人間が共生していくための「虚構」であったが部族社会ではそれが「現実」であった。
同時に部族社会では、祖先崇拝が共同体を存続させるための「虚構」として共有され「現実」の枠組みとされた。
ざっくり言うと、以上が人類普遍の<部族人的な心性>である。
文明化した民族はそれぞれに<社会人的な心性>を形成しながら歴史を歩んでいく。
ところが、以上のように「虚構」が「現実」となったり「現実」を維持補完したりするというダイナミズムは、「虚構」と「現実」の内容と媒体は様々だったり変わってきているが、不変である。
おそらく人はそのようにしてしか国家や社会や組織や集団そして自らを維持できないのだろう。
さて、
このような「都市」と「都会」、「現実」と「虚構」という概念を踏まえると、
「都市性」において支配階級が自らの「虚構」を「現実」化するベクトルが働く
「都会性」において一般庶民が自らの「虚構」を「現実」化するベクトルが働く
と言える。
そして
幕府の所在地江戸や首都東京では、「都市性」の頂点と「都会性」の先鋭とが常に相克してきた
と言って間違いない。
江戸時代になって全国に城下町ができてそこが行政と商業の拠点となり、「都市性」と「都会性」を帯びていった。
やがて行政拠点でない交通の要衝が商業拠点となっていきそこも「都会性」を帯びていく。たとえば豪農や豪商が生まれ独自の商品作物の生産や加工食品の製造それらの都市部への流通をするようになると、そうした商行為にまつわる人と人の出会いと交流が「都会性」に他ならない。そして豪農や豪商が都市部の芸術者を呼び込めば、仮設的に文化的な「都会性」が現象し、彼らが何らかの作品を残していけば固定的に文化的な「都会性」が保存される。
このような展開を踏まえると、
「都会」とは、「現実」の世界と「虚構」の世界の「境界域」である
と言える。
片方から他をみれば「異界」であるから「異界との重なり領域」とも言えよう。
ざっくり言えば、豪農や商人のいない農民だけで構成される一般的な農村や漁村の「村落」は「現実」の世界である。それは自然を前提に作物を作る、獲物を穫る世界である。豊作になったり凶作になったり想定は時に覆るがそれを人は「虚構」とは言わない。それは自然が神であり、神の不確実性は人間にとって「現実」でしかないからだった。
では、「村落」に対して「都市」はどうか。
「都市」にも、物理的かつ制度的な「現実」があるが、人間による人工的なものが前提になっている点が「村落」との本質的な違いである。
「都市」にも「農村」にも、物理的かつ制度的な「現実」と、精神的かつ文化的な「虚構」がある。
しかし、「農村」では、物理的かつ制度的な「現実」は自然を前提として、自然を保全する限り確定論にある。そして自然=神に関わる「虚構」が共同体に共同幻想として共有されてイコール「現実」と無自覚的に、ということは確定論的に看做されてきた。確定論的にというと難しく聞こえるが、誰もがそういうものだと決めつけていてそうした決めつけが変わらない、ということである。
「都市」では、物理的な「現実」が人工を前提にしていて、大地震があれば壊滅するし大火に見舞われれば粉塵に帰する。王朝が滅びれば王都は廃墟になろう。制度的な「現実」も人工を前提にしていて、王朝が滅びればその法体系も無意味化する。つまりすべての「現実」そのものではなくその可能性というものが低コンテクストな確定論にある。
「都市性」における「虚構」は、それが共有される共同体の身内には「現実」であるが、それを共有しない部外者にとっては一つの「虚構」に過ぎない。ただ外なる者が内に来る場合、郷に入りては郷に従えで、そこで「現実」とされる「虚構」を自らも「現実」とする。だが、外なる者が征服者である場合、彼が「現実」とする「虚構」を内なる者の方が「現実」としなければならない。
これは、古今東西の「都市」そして「国家」の栄枯盛衰ゲームとして繰り返されてきたことである。
生活をし人生を歩む個々の話に転じよう。
たとえば田舎ではできない何かを夢見た若者は、「都市」というよりも、具体的には夢を実現するに必要な人との出会いと交流を求めて「都会」に出て来る。
日本の場合、新幹線網が充実し運賃も安くなった現代では、定期的に日帰りで上京する者や東京での短期滞在を繰り返す者も出てきた。しかし一般的には大学進学や就職などして出会いと交流を中長期的にとらえる「転住」が必要とされる。
夢という「虚構」を抱いて出てきたある者はそれを「現実」にできて、ある者は「虚構」のままにして終える。「都会」とは不確実性が個と個の差として生じる時空であり、そういう意味において、「現実」の世界と「虚構」の世界の「境界域」と言える。
この個と個の差は、運不運だけでなく、個がどういう発想や思考をしてどういう挑戦や習慣を行うかという個性や能力の違いが含まれる。「農村」では、こうした個々の違いが、それはある人にとっては自分らしさの源泉であるのだが、個として発揮する機会がなく、また集団や組織や社会が生かす場がない。なぜなら、村落は一般的にムラ社会でありそれが構成員に共有させる共同幻想という「虚構」以外の個々の「虚構」は受け入れる余地がないからである。また、都市化した郊外や田舎は、就労環境として地元自治体の役所や全国展開の事業所やチェーン店といった全国一律の画一化が進み、地元ならではの資源を活かした個性を育む就労環境もあるものの、「都会」のように多様多彩な就労分野が網羅的にある訳ではない。
「都会」には多様多彩な就労分野が網羅的にあるだけではない。それに個レベル、集団レベル、組織レベル、社会レベルの精神的かつ文化的な「虚構」を受け入れる余地があり、それを「現実」にしようとする人々が集まってきて各レベルで交流して切磋琢磨していて、自分の描いた「虚構」を「現実」にする成功者たちがいる。同じ分野の者が競合し、異なる分野の者が同じテーマで恊働するから、「虚構」の「現実」化の可能性は無限である。
「虚構」を「現実」にする成功者とは、自分の描いた「虚構」の表現者でありその表現活動をして暮らしていられる人のことである。松尾芭蕉のような文学の天才から、コンビニで働きながらバンドを組んで音楽活動を続けている青年までいる。自分らしさを生かして生活し人生を歩めていれば、他人にどう思われようと自分の描いた「虚構」を「現実」にする成功者である。さらに、自分の描いた「虚構」を作品として多くの人々に鑑賞され、商品化して消費されるなら社会的な成功者ともなる。
しかし、必ずしも某かの表現者として生活の糧を得なくても「都会」では多くの人々が「都会人」として実存しているのである。就労については生活の糧を得る手段と割り切り、某かの表現者としての生活を精神生活のメインに据えているという人々も多い。さらには、某かの表現者であろうとはせず、ただ友達や仲間と遊ぶそれだけでも豊かな精神生活を送れることを「都会」ゆえの暮らしやすさとする、そういう形で実存している人々もいる。
基本的に、自己を世間の既成パターンにはめ込んだり自己を他者と比較して優劣をつけようとはせずに、自分自身の期待と満足に標準を合わせれば(独身の単身生活者の場合特に)けっこう本人の精神生活は豊かになるものである。そしてそのような人の有り方を許すのが「都会」なのである。
中世までは、そのような定住民からすれば訳の分からない者は、遊行の芸能民や聖そして行商くらい(いずれも定住拠点をもたない「転住民」)であった。
それが、城下町が全国に分布した江戸時代から、そのような者たちが「都会」の住人として「都会性」を育むようになっていく。
上方から下って江戸を全国ネットワーク拠点としたお茶やお花の家元にはじまり、松尾芭蕉のような俳諧師や一門を築いた浮世絵師が加わっていく。生活文化の表現者としては、そのような文化人ばかりでなく、江戸で店を開いて独自の商売を工夫した自営業者や起業家も含まれよう。
時代は下って江戸は東京になったが、同様に多様多彩な生活文化の表現者がそれぞれに夢や仮説という「虚構」を抱いてそれを「現実」にしたりできなかったり、紆余曲折から仮説という「虚構」ですらなかったことを「現実」にしてしまう、そんな「都会」であることは変わらなかった。むしろ「都会性」をどんどん専門分化し国際化して高度情報化してきたと言える。
以上が、
個から集団へ、集団、組織から社会へというベクトルの江戸および東京の精神的かつ文化的な「都会性」であるとすると、
江戸および東京では、それとは逆の、
国家から組織へ、組織、集団から個へというベクトルの物理的かつ制度的な「都市性」もあって、
両者が相克してきた。
そしてその両方に「虚構」と「現実」があり、目標としての「虚構」が「現実」になったり破綻したりしてきた。
江戸および東京の「都市性」における「虚構」は、為政者が想定する国家規模の物理的かつ制度的なもので、中央集権的に全国の日本人全体に影響を及ぼしそれを影響下に一律に拘束するものであった。
江戸および東京の「都会性」における「虚構」は、民間および庶民が想定する精神的かつ文化的なもので、分野的にも内容的にも多様多彩で国内外の共感者に時空を超えて発信情報が共有されるものであった。
こうした「都会性」と「都市性」のパラダイムは、古今東西その内容や媒体が変わっても基本的には同じであり、両者は相克を継続してきている。
その日本における最も中心的かつ先鋭的な相克場が江戸であり東京であり続けてきている。
そもそも人類の歴史を振り返っても、「都市」とは為政者ないし支配層が建設したものであった。「都会性」の人と人が出会うということの縁源は、交通の要衝に仮設的に立った市での人々の交流だった。それが「都市」の成立とともに「都市」の中に囲い込まれる。広場が市場化したり、寺社の門前が市場化した。日本の中世では、「無縁の地」である寺社境内が先鋭的な商工業拠点である「境内都市」になり、堺の商人たちが結束して自治自衛の「自由都市」を築いたが、それらは為政者ないし支配層の「都市性」に対抗する「都会性」の砦だった。
生活文化に関わる「都会性」とは、多様な民間庶民がそれぞれに多様な「虚構」を共有して共同幻想とする「都会」の多様性の魅力に他ならない。
これを生産者ないし供給者として育むのは、田舎で仕事がなくて城下町に流入してきた流民ではありえない。さりとて、城下町の主である城主と家臣、江戸ならば将軍家と直参旗本や各藩江戸屋敷の藩主家族や江戸詰め家臣でもない。彼らは、商品化された「虚構」の主要な消費者ないし需要者として「都会」に参加はするが、そのような「虚構」の生産者ないし供給者ではない。彼らが生産者ないし供給者となる「虚構」は物理的かつ制度的に確定論的な「都市性」のそれであって、人と人の出会いと交流による精神的かつ文化的に不確定論的な「都会性」のそれではない。
「都会」としての江戸は、「都市」としての物理的かつ制度的な「現実」に生きながらも、それに束縛されない精神において「虚構」を創造し自らそれに生きようとした「虚構」の生産者ないしは供給者によって育まれてきている。
彼らのような「都会人」が集まり交流してこそ「都」ならではの出会いであり、それが日常として現象する「都会」なのである。
江戸時代、このような「都会性」が大規模かつ分野網羅的な「情報消費市場」の拠点として存在したのは江戸、京都、大阪の三都に限られた。
江戸の「都会性」は、元禄期には富裕層の生活文化を中心としたものが、化政期には分厚い下層の生活文化を中心としたものに拡大した。
そして一般庶民レベルの生活文化のニーズに応えるべく全国化した商品生産消費網という「現実」ネットワークが、「情報消費市場」の「虚構」ネットワークともなっていった。
それは、商品が高付加価値化していく過程で文化化したり記号化したり流行化したりして情報化したためである。
たとえば、「現実」に消費したことがなくても、情報や知識として知っていることの方が重要になっていく。それは人々にとって、「憂き世」という目前の物理的かつ制度的な「現実」よりも、「浮き世」という仮想の精神的かつ文化的な「虚構」の方が生活や人生そして社会を動かす動機や動因となっていったことを意味する。
その象徴が伊勢参りの伊勢講である。みんなで旅費を積み立てくじをひいて当った人が「現実」に旅立つ。外れた人はその土産と土産話で伊勢参りの御利益という「虚構」をシェアする。
富士塚なども同じである。町内を代表して健脚が餞別をもらって旅立ち「現実」に富士山に登頂し持ち帰った石を積み上げて疑似富士を作り老若男女がそれに登って御利益という「虚構」をシェアする。
おそらく、「虚構」が人々の精神生活を豊かにした以上に、「虚構」をシェアするべく恊働した人間関係が人々の精神生活を安定化させ快適化させたのではないか。つまり、個々の精神生活だけでなくそれを安定化させる集団の身体生活という「現実」をも作り出したのである。
このような江戸そして東京の「都会性」を捉えるには、まず、
田舎や地方から江戸そして東京に移り住む「転住民」をその動機によって「現実」動機か「虚構」動機かに分け、
さらに現代の郊外そして首都圏から都心への「通勤者」をその毎日の精神生活によって「現実」世界に生きるか「虚構」世界に生きるかに分け、
その精神生活の構造を検討しなければならない。
「都会性」の実態は、「現実」世界と「虚構」世界との重なりに生きる「境界人」の日々の生活や仕事と相互交流が形成している。
だから、転住の「虚構」動機を踏まえて「都会人」たろうとしている者を見極め、彼らの通勤や寄り道が「現実」世界と「虚構」世界の行き来であり、精神生活の構造としては転住であることを具体的に解明しなければならない。
(なぜそれが転住であって移動ではないかというと、移動は定住拠点を前提するが、「都会人」たろうとしている者の精神生活にとって職場も自宅も転住拠点でしかないからである。)
以上についての具体的な検討を、次項(6:間章 後半)で、「情報消費市場」の国際的メッカ東京の「都会性」の様相として、ファッション店舗コミュニティとショップ店員を取り上げて試みたい。
なお、東京都心に生まれ育ち個人事務所を立ち上げて企業社会に参加してきた者の経験的実感として、企業社会にも「都市性」と「都会性」があると思う。
同じ顧客企業でも、ある方との関係性は「都市」的であるが、ある方との関係性は「都会」的である、そういう事実にも思い当たる。
このことについては、
日本人の集団志向の2タイプ、
集団を身内で固める「家康志向」が「都市性」に直結している
自由に活動する個々を適宜に集団に構成する「信長志向」が「都会性」に直結している
と考えられる。
ただ、ここでは論旨が複雑になるのを避けて検討を割愛する。
(6:間章 後半)
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へつづく。