「気をそぐ人」「元気をくれる人」 |
なぜなら、そのタンジュン明快な理由は「ある人がある場合にはAでありほかの場合にはBである」ということがよくあるからだ。
だから、「ある人が自分にとってAだったりBだったりするというだけで、その人が常にAだBだ」とは言い切れない。
私の論調はそういう前提である。
たとえば、子供にとって親が「元気をくれる人」であれば、たとえその家庭が貧乏でも子供は親に関しては幸せだろう。逆にいくら裕福な家庭でも、子供にとって親が「気をそぐ人」であれば、子供は親に関しては不幸だろう。
ことほど左様に、気分、元気の問題は経済的な問題よりも本質的で、一般的に信じられているようにお金があれば幸せになれるというものではないことを端的に表している。あくまでそれで幸せと感じることができるのは、お金絡みのことやお金で解決することに限られる。それが幸せの全てだという人にはこの一般的な経済至上主義的幸福感が正しい、というだけのことだ。
私は幸か不幸か「気をそぐ人」に恵まれてきた。
恵まれてきたという言い方は不自然なようだが、それを跳ね返すことで成長できたり、相手にしないことで余計な時間とエネルギーの浪費を続けずに済んだのだから、恵まれたというしかない。
実際、「気をそぐ人」との遭遇はつねにサインだった。
ああ、この人はそういうことを周囲の人にいつも言ったりしているのだろうか、ということを気づかせるサインだった。
また、自分はこういうことを周囲の人にぜったいに言ったりしたりしないできたが、自然体でそういう人間なんだと再確認するサインだった。
さらに、これが一番大切なのだが、私が人の気をそぐようなことを言ったりしたりしてなくても、ただ単に私が元気に朗らかに気分よくしているだけで傷ついてしまう人がいて、そういう人が私の気をそぎにかかる、という人間や世の中の実相についてのサインだった。
こうしたサインを受け止めて、私が大切にしてきたことは、
「気をそぐ人」との付き合いはなるべく無くすか希薄にする、
それでも「気をそぐ人」が寄ってくる時は自分の警戒心が彼らを引き寄せている、
よって「元気をくれる人」のことを思ったり彼らとの付き合いを大切にする、
そのためには自分自身が誰かに「元気を与える人」にならねばならない、
ただ単にリア充して自分だけ機嫌良く朗らかになっていてもダメなのだ
ということである。
最近、母と家で二人で食事していて、私が機嫌良く何かを話していると必ず母が気をそぐことを言うことに気づいた。(外食だと、母の気持ちが私以外に向うのか、そういうことはない。)
いろいろ考えて、私が母に元気を与えられていないのだ、と気づいた。
どうも、家の大切なことを漏れなく間違いなくこなす、母の介助をあれこれする、母の要望に応えたり母が喜びそうな家事雑務をこなす、ということだけでは母に「元気を与える人」になれない、ということなのだ。
何かというと「長く生き過ぎた、早く死にたい」と言い、仏壇の亡くなる直前まで諍いの耐えなかった父にも「早くぽっくり逝きますように」と祈っている母に、元気を与える、というのはかなりハードルが高い問題だ。
対話したその時その時の一瞬だけでも笑って朗らかになるように努めるしかない。
母に「元気を与える人」になるにはその積み重ねなのだろう。
思えば、父も私が伊豆で同居した最後の五年くらいはそうだった。
食卓で私が「昨日はブログへのアクセスが1000もあった」と喜んだ時、「そんなことがどうしてそんなに嬉しいのか」と父が言ったことがあった。父はインターネットもブログも何か知らなかった。父はオリジナルの年賀状をすごい数送ったり、自分の寄稿した記事のコピーをたくさんの知人に郵送したりした人だったので、それがタダで見ず知らずの人の方から読みにくるようになる仕掛けだと説明したら、そうか、とだけ言った。
今思えば、友人知人がみな死んでしまって、年賀状も郵送書類も作らなくなり、何も励みになることがなくなっていた父ゆえの事だったのかも知れない。
希望を失った人、励みを失った人、いろいろな意味で自信を失いプライドを脅かされるようになる不安を抱く人に、元気を与える、なんてことが果たして凡人にできるのだろうか。
これは、他人にはむしろできやすく、家族にはできにくいのかも知れない。
他人ならば、それができる人とできるテーマ、たとえば老いや死や社会的な立場が関係ないテーマで付き合えばいい。
しかし、家族というものは先に関係性が出発していて、こういう関係であるべきだということがお互いにあったりする。主体の老いや死が不可避的に前提になり、家族関係という社会的な立場がそもそも固定されている。いわゆる人間として、というニュートラルな個を土台としていない。
仏陀が出家したのは、身近に考えてもやはり意義深いことだ。
出家と対照すると明らかだが、家に家族として留まることと、社会で何らかの群れに帰属することは地続きになっている。
出家は、人間に個として回帰し、世俗の社会から一歩引いた孤高に生きる。
私は信仰心の厚い者でも何かの信者でもないが、出家的な単身行については、ずっと実践してきたしいずれそういう人生を再開する。
そういう人間だから、父母についてもあれこれ考えてしまうのだろう。
私が父母を筆頭に「気をそぐ人」たちに恵まれてきたのは、かれらが家に家族として留まり社会で何らかの群れに帰属し、そのことを誇ると同時に厄介に思うというジレンマを抱えている一方、私がそういう面倒なものから距離を置いている、ということが大本にあるのかも知れない。それは単に独身の単身生活者ということに留まらず、もっとバックグラウンドを知らない人にも感じ取られてしまうオーラのようなものを形成しているようだ。
そして、私自身にそういう自覚があって彼らに対して防衛的になり警戒心を抱いてしまうことがむしろ彼らを引き寄せてしまうようだ。
最近、母は、自分のことを厄介に感じたら老人ホームに入れてくれ、と言った。
正直言って、その時々に厄介を感じることはある。
しかし、母その人を厄介に思うことはない。
そういう風に、反りの合わなかった父の時にも思った。
そして最終的にそういう時々の果てに、言葉にならない皮膚感覚の打ち解けという和解に至った。父は意外にも、私の介護にすべて素直に従い、ありがとうと言った。父については私は感情労働が一切なく、単純労働で済んだ。
介護の必要がなかった時の父は、子供の時から感情労働の対象だったが、私に介護をされるようになってまったくそうではなくなった。
母は逆だ。
介助の必要がなかった時の母と打って変わって、私に介助されるようなって私に感情労働を強いる存在になった。
どうしてこのような展開を神様が準備しているのか、私にはまだ分からない。
しかし、きっと父の時のように後から分かる深い意味があるのだろう。
父の晩年から私が多くを学んだように、私は晩年の母に対応しながらすでに新しい自分を発見してきている。特に去年、母が入退院し、食事洗濯など家事全般をするようになって、還暦にして料理好きの自分を知って一番びっくりしたのは私自身だった。
そういう隠れた次元で、私にとってずっと「気をそぐ人」できた父が晩年そうだったように、やはり母は私に「元気をくれる人」なのだと思う。
その元気は、おそらく父母を看取った後の私の人生に不可欠な新しい元気なのではなかろうか。/