感情の力関係にもちこみそこで優位に立つことに執着する、そういう心理的病 |
感情の力関係にもちこみそこで優位に立つことに執着する、そういう心理的病があることについてだ。
たとえば、少し見知った人とどこかで遭遇する、お互いに挨拶を交わす程度の関わりではないと認識している。たいていはお互いに気づかなかった振りをしてやり過ごす。ところが時々、わざわざ一瞬、視線を合わせてにやついてみせる人がいる。それは嘲笑だから挨拶してくる訳でもなく暖かさのかけらもない。私はそういう人を見かけるたびに、いったいこの人は何をしたいのだろうと思ってきた。
今思えば、その人としては、感情の力関係にもちこみそこで優位に立とうとしたのか、それで立ったつもりなのだろう。
一瞬一瞬、そういうことに懸けている人というのは確かにいる。
一番、分かりやすいのは、路上ですれ違いざまにガン付けをしてくる昔でいう因縁をつけるツッパリだ。
相手が目を逸らせば、感情の力関係にもちこみそこで優位に立ったことになる。
しかし相手がガンをつけ返せば、そんな些細なことから本格的な格闘に発展して優位劣位をはっきりさせようとする。
(正確には、ツッパリの場合は、無意識的な即座の身体反応を伴う情動=emotionの力関係に直接的に持ち込もうとする。一般人の場合は、思考と連動して中長期的に変容する感情=feelingの力関係に持ち込もうとする。ただしその力関係が固定化すると情動の力関係に展開しうる。鼻であしらう、胸をはる、頭が上がらない、肩身が狭いといった身体語が表現するような優劣を感じる身体反応が習慣化する。)
ツッパリは目を逸らせたと解釈するかも知れないが、ごく普通の学生はただ進行方向に目を向けただけかも知れない。だが、ツッパリは主観によって情緒的に判断する。あいつは弱虫だからオレに恐れをなしたのだと。
同じように、私ににやついてみせた人は、私がただ無関心だったことについて、自分に都合のいい理由を想像して自己満足してたのかも知れない。
カッコいいと自負するあいつはカッコ悪いことを悔しがったのだろう、とか。
腕力が強いと自負するあいつは弱っちいことを情けなく思ったのだろう、とか。
頭がいいとか金持ちとか自負するあいつはバカだ貧乏だと劣位を認めて不愉快だった筈だ、とか。
はっきり言って、人を小馬鹿にする人は、まず感情の力関係にもちこみそこで優位に立つことに執着している人で、本音で常にこだわっているのは自分の感情の満足でしかない。
どういう人がそういう人かというと、そういう認知の仕方以外に自分のアイデンティティを確認できず、常に他者、それも自分が比較優位に立てると(本人としては)思える他者との比較でしか自分に自信を持てない人だと思う。
私の知る限り、自分の楽しみや好奇心や使命など自分の世界に没入している人は、他者と自分を比較しない。当然、比較することで了解される優位や劣位には無関心だ。誰かをバカにしたとてそれで、自分が自身を直視した時の自分の価値が上がる訳ではないと分かっている。
そういうことで上がる自分の価値というより株は、ある集団の一員が誰かをバカにすることで構成員としてお互いを認め合うという相互保身くらいだろう。 株はとは相対的評価だから上り下がりがある。自分の株の上下にこだわる人は、他者の株の上下にもこだわる。他者をバカにする人は最初は相手を持ち上げていたりもする。人を上げたり下げたりするのが特徴だ。
話は飛ぶが、私は、国会質疑における安倍総理の物言いやヤジやその表情から、彼は野党質問者を隙あらば小馬鹿にしようと専念しているように見受ける。
感情の力関係にもちこみそこで優位に立つことに執着する、そういう心理的病がある。
野党質問者には二通りいて、
一つは総理と同じ土俵で、こちらこそ優位に立っていると対抗するタイプ。典型的には元気印のなんとかという女性議員だ。これは主観と主観の言い負かし合いだ。
一つは、総理の土俵には立ち入らず、国民の目線と気持ちを踏まえて事実だけをたんたんと上げて、どう思うかを問う、するとその総理の答えそのものが馬脚を表わしてくれる、そういう高次元の戦いをするタイプ。典型的には山本太郎だ。客観の枠組みで相手の答えがいかに偏った主観であるかをあぶり出す。要はご本人に表現させるのだから、これには与党議員がヤジろうにもヤジりようがない。
さらに話は飛ぶが、国粋主義者や民族主義者、おおざっぱに言って右翼にも2タイプいるように思う。
一つは、中国、中国人でも、韓国、朝鮮人でもいい、
他の国家や民族に対して、感情の力関係にもちこみそこで優位に立つことに執着する、そういう心理的病があるタイプだ。
いま一つは、他の国家や民族のことは無関係に、自分の国家や民族を大事に思いその文化を愛するタイプで、他の国家や民族もそれぞれがそういうものだろうというおおらかな前提に立ちまた尊重していて心理的にとても健康である。
前者は、常に比較対象の他者を必要として競合を想定し優位に立つことにこだわる。
後者は、自己の過去を反省し、反省を踏まえた独自ではあっても独りよがりではない価値観で自律的に自己の未来の理想を求める。どこかの国を親分として一の子分でいられれば御の字といった相対的な自己の位置づけにアイデンティティなどないとはなから分かっている。
なんでGDPが中国に抜かれることが大変で、一人当たりのGDPなら抜かれてないことで満足できるのか。
誰も住みたがらない領土をめぐって国と国民の全体を動員する戦争を導くことを、なぜナンセンスだと思わないのか。それで得をするのはごく限られた勢力であることをなぜ疑わないのか。
私には、
感情の力関係にもちこみそこで優位に立つことに執着する、そういう心理的病がある
ためだと思えてならない。
ごく普通の人々がこの病に掛かっていることがあるし、
国の教育やマスメディアの報道やエンターテイメントが病を蔓延させていることがある。
かつて戦争に向かい、戦争に没入していった日本と日本人はそうだった。
そして、今の日本と日本人にも同じ病を煩わせようとする動きがあるように思えてならない。
戦後70年の振り返りとは、
かならずしも過去の他者について知ることだけでなく、
自分自身の現在を顧みて、心理的病の診察を通じて、戦争を可能にする起点が一人ひとりの心の中にあることを確認することも重要だと思う。
なぜなら、今後起こる戦争を可能にする起点はそこだからである。
それは戦争をさせない起点でもある。