亡父が美濃部さんに花束を贈ったこと |
NHK「日本人は何をめざしてきたのか 第1回 高齢化社会 医療はどう向き合ってきたのか」を見て思い出したこと。
岩手の奥地の村が老人医療十割給付を達成、東京荒川の老人医療費無料化運動に繋がり、美濃部都政が実現、全国44自治体にひろがり、田中角栄内閣で70歳以上に。
その後、予防医療に力を入れずまた病院のサロン化や寝たきり老人の拡大など医療ではなく介護の問題が浮上。
オイルショックで国は福祉切り捨て自助努力を求める方向に。美濃部都政は老人福祉含めて放漫財政を批判されるように。1979年で終わる。
この時、老人運動をしていた父は、老人福祉を後退させないためにと、朝日新聞に「美濃部さんに花を贈ろう」と投稿。
私の自宅に美濃部さんのお陰で助かったという老人からの電話が鳴りっぱなしになった。父に代わって私も出て、電話口でおばあさんに泣かれた。思い出話をひとしきり聞いた。
父は当時、老人運動の若手?行動隊隊長でハチ公前でバンの屋根に乗って演説。右翼の街宣車が横付けして特攻服が乗ってきて胸ぐらを掴まれたこともあった。この時、ただ通り過ぎるだけの通行人たちが足を止め右翼帰れコール、街宣車の責任者が特攻服を戻らせ去った。帰宅した父の話を聞いて当時院生だった私はびっくりした。
父はふつうの市民だと自負していた。
新聞記事にあった亡父の言葉。
「(美濃部さんは)東京に憲法を実現すると宣言し、老人医療無料化、保育所増設など福祉の向上に尽力してきた。一部では”ばらまき福祉”だと批判するが、私たちからすればまだまだ足らないぐらい。それなのに今や、美濃部さんへの世論は厳しく、非難攻撃の雨をふらしている。なんと冷たい世の中だ」
「そりゃ、美濃部さんも人間だから百点満点はあり得ない。私にも批判はある。しかし、この十二年間で都の福祉行政はずいぶんよくなった。美濃部都政を非難することが、福祉後退に結びつくことは、絶対にさけなくては」
投書が、都知事殿前だったことに関連して
「これは政治運動ではない」
と、特定の候補者支持に結びつけようとする動きに反対した。
今の待機児童問題を思っても、一市民としての父の要求と行動は正しかったと思う。
家族としてのいろいろなことがあって、生前に面と向かって言えなかったが、父の息子に生まれて良かったと思う。