「面白くて眠れなくなる社会学」を読んで(1) |
学者の社会学する、と、私の雑学する
「社会には、法則があります(中略)
だから、社会科学が必要なんです。
そんな社会科学のなかで、社会学はちょっと特別です。(中略)
社会学は、(筆者注:経済学や法学のように)社会の一部を切り取るかわりに、社会をまるごと考察します。(中略)
これは、どういうことか。
人間が社会を生きていくとき誰もがぶつかる問題を、社会学は、残らず正面から受けとめるということです。
そうすると、あまりきれいに法則を取り出せません。そのかわりに、社会を生きる人間の真実のすがたの、いちばん深いところまで考えることができます。
それは、哲学ともつながっているし、文学や、心理学や精神分析や、歴史学や・・・ともつながっています」
著者は、社会学を社会科学の中で捉えているので、こう総括する。
「科学と、科学でない世界の境界ぎりぎりのところを、科学の側から考えていくのです」
ここは著者の社会学する姿勢のポイントだと思う。
「文学や哲学や歴史学や・・・を、人文学といいます。
人文学と、社会学は、どう違うか」
著者はここでなぜか「人文学」についての説明をはしょっているので補足する。
それはけっこう込み入った内容だ。
人文科学あるいは人文学(humanities)とは、学問の分類の一つ。
広義には自然学が学問的対象とする自然(nature)に対して、人間・人為の所産 (arts) を研究の対象とする学問であり、またそれを可能にする人間本性(human nature)を研究する学問である。
これは学問を人文科学と自然科学に二分する分類法で、この場合、社会科学は人文科学に含まれる。一方、社会を人間と対比された形で一個の研究対象と見るとき、学問は人文科学・社会科学・自然科学に三分される。こちらの方が、今日では一般的である。
著者は、社会学を内包するとする社会科学が、人文科学に含まれるとし、かつ人文科学=人文学とするならば、「人文学と社会学は違う」という話はしにくい。よって、著者は前者の二分する分類ではなくて、後者の「学問は人文科学・社会科学・自然科学に三分される」という一般的な三分する分類に従っていると思われる。
その上で、人間・人為の所産 (arts) を研究の対象とする学問であり、またそれを可能にする人間本性(human nature)を研究する「人文科学」=人文学と「社会科学」=社会学とを比較している、ということではないか。
著者はその違いを、直接的には示していない。
「人文科学」でも「人文学」でもなく「文学」についての解説をする。
「文学」は直接的に「人文科学」の対象であるが、「社会科学」の対象とはなりにくいためではないか。
「文学は、人間が一人ひとり個性的で、個別の存在であることにこだわります。世界でたった一一人のAさんの独自な世界を描き出すことで、人間の本質を照らし出すことができると考えるのです。
それに対して社会学は、大勢の人びとの共通点にこだわります。そこに法則性があって、科学の方法で解明できると考えるからです」
私は、著者の社会学する姿勢について否定も肯定もしない。それは著者の姿勢であり社会学者の一般的な姿勢でもある。
しかし私個人的には、「人文学」と「社会学」、「人文科学」と「社会科学」という分類は建前的には線引きできても、個人と社会、主観と客観、形而上的と形而下的など現象的には線引きできない相関関係において融通無碍に融合していると思えてならない。
だがそこにこそ、
具体的には、著者の社会学する姿勢とは逆のベクトルのものとして、
私は私自身が雑学する姿勢についての本質を感じ取ることができた。
つまり私の雑学する姿勢は、
「日本の社会を前提に、
科学と、科学でない世界の境界ぎりぎりのところを、
実体験に基づいた極めて主観的な『文学』的アプローチで考えて
具体的な実感のもてる法則性を見出していく」
ということだった。
言うなれば、
私は自分の実際の人生経験から帰納法で法則性を仮説し、
それを雑学によって検証し正しいと思われる法則を抽出し、
演繹法でその法則をテコにして目前の現実の理解や将来の予想に役立てる
そういう発想思考のパターンをノウハウ化している。
私の雑学は、自分の人生経験で実体験としてつかみ取ったこと疑ったことを土台としている。
そこから社会や世界そして世間の法則性を導こうとしてきた。
それは、科学的というよりは、まさに著者の論じる意味合いで「文学」的なアプローチだと思う。
だから、私がしたと同様の体験をした人は、その法則性に賛同するが、同様の体験をしたことのない人は賛同できないのかも知れない。
また、同様の体験をした人でも、その人の「文学」的なアプローチで捉えた法則性から、私とはまったく違った捉え方をすることもあるのだろう。
そう思い当たって、私は自分の雑学する姿勢の特徴と限界を俯瞰することができた。
私が主張してきた「社会学」的な法則性はそんなに多くない。
これは私の実体験に基づいた「文学」的なアプローチによる極めて主観的な成果である。
その内容は学問的にも裏付けられ、多くの人々が体験的に了解していることでもある。
そしてそんなに多くはない法則性だが、その組み合わせが、特に私たち日本人がずうっと抱え続けてきているパラダイムに関わる問題や課題の検討に役立てられるのは確かである。
◯送り手側のモノ提供のパラダイム
受け手側のコト実現のパラダイム
両者の対立と一方から他方への転換の法則
◯日本人の発想思考の特徴についての法則
縁起にのっとった<情>起点
欧米人の因果律にのっとった<知>起点
中国人の共時性にのっとった<意>起点と対照的
◯日本人の集団志向についての法則
集団を身内で固める「家康志向」
自由に活動する個々を適宜に集団で構成する「信長志向」
前者の一辺倒化による組織の硬直化・社会の膠着化
両者の合わせ技による組織的創造性を発揮した本来の日本型経営
場の人間関係の全体を「世間」としそこでの位置づけを「自分=分際」とする
日本人のアイデンティティの見出し方や集団や組織における恊働
◯前二項目と連携する日本語の特徴についての法則
和語=ひらがなを土台として漢語=漢字と欧米外来語=カタカナの混交遣い
場から自立した低コンテクストな明示知に留まらず、
場に依存ないし場を活用する高コンテクストな暗黙知や身体知を発揮する
情緒性を含意した身体表現をともなう擬態語や身体語の多様さと多用
そうした用語法や造語法を用いた対話や恊働で成り立つ現場やモノづくり・コトづくり
◯人類普遍の<部族人的な心性>をベースに温存した日本人の<社会人的な心性>の形成
欧米人や中国人は<部族人的な心性>を捨象ないし限界づけることで<社会人的な心性>を形成
だが<部族人的な心性>は幼児心理や深層心理に息づいているため
人類普遍の<部族人的な心性>に基づく日本の生活文化が世界の人々に受け入れられていること
<部族人的な心性>=自分と他者の未分化性、人間と自然の未分化性、人工と自然の未分化性
言語の面白さ(PARTⅠより)
「人間の言語は、その詳しい性能が全部、まだ解明されていないぐらい、すばらしいものです。
人間は言語を使うことによって、社会をつくることが可能になっていると言えると思います」
「言語の性質として、いちば基本になるのは、言語には意味がある、ということです。(中略)
その根本には、言葉がモノを指し示すことができる、という機能があります。これを、指示といいます。英語だと、シグニフィケーション(signification)ですね。
モノを指示する言葉を、名詞といいます。まあ、名前です。(中略)
モノに名前があると、モノとその名前とは、一体であるような気がします。(中略)
でも実は、全然違って、名前は言うならばデジタルな性質を持っています。それはに対してモノは、アナログな性質を持っています」
著者は、犬を例に解説する。
「われわれは、(中略)犬と狼が違うと思う。そして、すべての犬は犬だと思う。
けれども、みたところ、狼とシベリア犬、シベリア犬とチワワでは、狼とシベリア犬のほうが似ていませんか?
ですから実際、この(筆者注:モノの)世界がどうなっているかということとはある程度、無関係に『イヌ』と『イヌ』でないもののあいだに、線が引かれていて、その線の内側を『イヌ』としている。これは、人間の都合なんですね。
『イヌ』という言葉ができた途端に、その線引きが(筆者注:パラダイムが)自明のものとなってしまい、それ以外の考え方ができなくなる(筆者注:パラダイムが潜在化してしまう)という特徴があるんです、人間には。そしてそれは、『イヌ」という言葉を使っている人びと全員を拘束してしまう(筆者注:パラダイムの呪縛)。
場やそこに蓄積された文化の文脈に依存しない低コンテクストな明示知の世界、明示知のパラダイムがある。
同時に、
場やそこに蓄積された文化の文脈に依存する高コンテクストな暗黙知や身体知の世界、暗黙知や身体知のパラダイムがある。
よって、
共有される意味は、この両者で著しく異なる。
こういうことの大本ないし土台として、言葉による「コト分け」ということがあり、その限界がある。
日本語は、欧米語や中国語が効率的に掬いとれない「場やそこに蓄積された文化の文脈に依存する高コンテクストな暗黙知や身体知の世界、暗黙知や身体知のパラダイム」こそを効率的に掬いとるようにできている。
「言葉の、すばらしい性質。目の前にそのモノがなくても、そのモノがあるかのように、考えることができます。(中略)
それから、モノは共有できるとは限らないが、言葉は共有できます。相手に話せばいいんですから。言葉を共有して、やり取りをしてるということは、世界の意味を共有しているということです。これは、人間が同じことを考え、同じように行動するための、非常に重要な前提になります」
逆に言うと、
欧米人と中国人と日本人で、発想思考の特徴が異なり、それを強化学習する形で言葉の構造的な特徴も働いているということは、
三者が同じモノの現実を見てもまったく違うコトとして受けとめている可能性が大きい、ということに他ならない。
おそらく、国と国の外交や民族と民族の交流はすべて異文化交流としての側面を色濃くもっていると言えよう。
たまたま私たちは、国や民族の違いを超える低コンテクストな事柄とそれを指し示す言葉のやりとりを基軸にしているから、それがうまく行っている。
しかし、たとえば国際結婚の多くが破綻するように、高コンテクストな事柄の交流が、相互理解のための言わば翻訳や意訳を介在させずにそのまま低コンテクストな事柄としてぶつかったのではうまく行きようがない。
つまりは、意味の共有は言葉の共有に限界づけられてしまう。
低コンテクストな明示知を超えて、高コンテクストな暗黙知や身体知についての相互理解や共感的共有を図っていくにはどうしたらいいのだろうか。
これは、何も国際関係に限らない。増加する離婚率に象徴される日本人同士の婚姻関係のあり方にも関わる社会学ではないか。
「言葉のすばらしい性質、その二。否定。
なになにで『ない』と、言うことができます。英語だと、notですね。(中略)
否定と並んで、大事なものは、仮定です。(中略)
仮定は、現実に生じていることの、反対を考える能力です。
思考の一番根本には、こういうはたらきがあって、外界と頭の中とか独立になるのです」
概念ポートフォリオというものがある。
ある項目について対極の概念の設定したX軸とY軸で4象限をつくるというものだ。
その第一象限と第二象限と第三象限にはそこに位置づけられるべき物事が実際にすでに存在しているが、第四象限にはそこに位置づけられるべき物事が存在しない場合、
そういう物事を存在させる意義やニーズや可能性の存在が仮説されることになる。
こうした仮説は、著者の解説する思考の働きである否定と仮定の成果に他ならない。
そして、
「言葉には、執行(パフォーマティブ、performative)という性能があります。(中略)
言葉は、世界を記述しているだけではなくて、世界をつくり出し、現実をつくり出すというはたらきがあるのです」
「伝統的な哲学は、この点に注意が足りませんでした。
言葉は、世界を記述しているだけだらか、哲学は世界を研究すればよい、と考えていたんですけど、現代哲学は、言葉の研究もしないといけないというふうに、変わってきました。なぜなら言葉は、人間の現実をつくり出しているからです」
私は、哲学するつもりではなく日本語の特徴にこだわってきた。それは日本人の発想思考の特徴に日本語の特徴が直結するからだ。それを意識して効果的に発揮させるような恊働集団や恊働組織こそが日本人(日本語使用者)の創造性を最大化すると考えたからだ。
一方、日本民族とそれにつながる縄文人や渡来人つまりは大陸民族の歴史も雑学してきた。それも今の日本人の集団志向や発想思考の特徴を際立たせる経過としてあったと考えたからだ。
この文脈では、移動民と移動社会、転住民と転住社会、定住民と定住社会ということに着目した。
それは場所の移動・転住・定住という生息スタイルだが、知識分野や技能分野の展開スタイルともなってきた。それは、同じ日本人でも、移動民・転住民・定住民がいて、それぞれに移動社会・転住社会・定住社会を作ってきた同じ構造やダイナミズムが、日本人(日本語使用者)の知識社会や技能社会にもそもままあてはまると考えたからだ。
そこから導き出される結論は、巷間よく言われる、日本人は農耕民族だから云々、単一民族だから云々といった日本人全体を十把一絡げにした言説とは大きくかけ離れていた。
中国文明は漢字の文明である。漢字で記すことを大切にする、漢字で記せる物事を大切にする文明である。
一方、日本文明は、漢字も使う文明だが、その時その場で生まれ移ろう物事を大切にする文明であり、あくまで和語をベースにして歌うように対話することを大切にする。
いろいろな象徴的な対照性を例示することができる。
漢詩の朗詠と、和歌の朗詠。後者は著しく音楽的である。
それは身体性が強く介在するということで、そういうことの延長に歌留多競技なども発生したのだろう。
中国料理の拉麺と、日本のラーメン。後者は著しく変化し多様化してきた。
それは不変性よりも更新性が重んじられるということで、そういうことは洋食でもあった日本食化のダイナミズムである。
中国の人治主義と、日本の法治主義。
この問題は微妙な対照を示す。
中国人にとっては明文化されたことの拘束力は強いから、逆に法律の整備を中途半端にして人治の裁量余地が残されている。
一方、日本人にとっては明文化されたことの拘束力は弱いから、憲法をいかようにも解釈して法制を憲法の制限なく行える。そういう欧米とは異なる法治主義である。
これも、今この時、この場の縁起にのっとったもので、法の精神である<意>も法の文言である<知>も蔑ろにするのだからその場その場の<情>起点と言うしかない。
この<意>ということについて著者の論述がとても参考になった。
著者は、言葉が人間の現実をつくり出すことの解説として、「命令」を上げている。
「命令というのは、発話者の意思なんですけれど、命令である以上、まだ実現してません。
それを意思として相手に伝え、それをきいたら、新しい現実(中略)が、生み出されます。
世界がある→言葉がある、のではなくて、
言葉がある→世界がある、なのです」
日本人は、今この時、この場でそこに居合わせた自分も含めた人が抱く<情>を重視する。
これと対照的に、中国人は、今からはじまるこれから先の現実をこうしたいという<意>を重視する、というのは実際に中国人と接していていつも感じることだ。
私は中国のテレビドラマをよく見るのだが、古代物から現代物まで主人公の男女の会話は、私はこうしたい、私はこうあるべきだと思うの言い合いであり、さんざん本音のぶつかり合いや行き違いがあって、それでこそ深い関係になっていくという前提がある。もし同じことを日本人カップルがやれば成田離婚は絶対に拡大するだろう。
「言葉を手に入れることによって、人間は、ほかの人間との関係を築いていけるようになりました。
この能力のうえに、家族とか、友人とか、組織とか、いろいろなものが出来あがっていきます。
最も基本的な、社会技術です」
さらに著者は、言葉が人間の現実をつくり出すことの解説として、「宣告」「約束」「告白」を上げている。
これらが、今からはじまる先の時間の現実をつくり出すものであることは人類共通だが、
縁起にのっとった<情>起点の発想思考をする日本人
共時性にのっとった<意>起点の発想思考をする中国人
因果律にのっとった<知>起点の発想思考をする欧米人
では、そもそも関心事の重点と関心の持ち方が大いに違う可能性があることは忘れてはなるまい。
「社会について考えるのは、だから、言語について考えることを抜きにして、何にも考えたことにはならないと、私は思います。
そして、こうしたことはまだまだ研究中なので、専門の学者たちでも、うんと先のほうまで考えることができているとは言えません」
「言葉を通じた知識の共有、伝聞という現象があります。(中略)
伝聞によって、自分ではないほかの人びとの経験や知識を、自分の経験や知識に接続することができます。
また、自分の経験や知識を、別な誰かの経験や知識に接続することができます。(中略)
伝言ゲームが、内容があやふやになっていくことは、誰でも知っていると思います。
あやふやにならないためには、どうするか。決まった言い方(たとえば、詩のようなかたち)にしたり、いろんな技術があります。
内容が拡散しないように、しっかり伝える技術として、諺とか、言い伝えとか、物語とか、いろいろなかたちの知識が、社会にはいくつも共有されているものなのです」
「あるときこれが、文字に書かれます。(中略)
言葉は、文字に写し取られた時点で、固定したモノになって、もはや変化しなくなります。そして繰り返し再認できます。
文字を再認することを、読むといいます。
そうすると、伝聞と違って、あいだに誰かを介さなくても、いつでも言葉が再現できます」
忘れてはならないのは、
文字とそれを読む働きは人類共通だが、
何を文字にしてまで記録として残すか、ということと、残し方やその公開の仕方はさまざまである
ということだ。
そこには民族差があり、また同じ民族でも古代と現代で違うといった時代差がある。
しかしそれでもなお着目すべきことは、
日本人の場合、文字にできる明示知よりも、文字にできない暗黙知や身体知に残すべき本質を求め、それを継承するための手段や方法がいろいろと工夫されてきた
ということである。
たとえば、一子相伝の内容をしたためたとされる口伝書だが、そこに書かれた内容よりも、口伝書を相続するようになるまでに継承者を中心とした集団が慣行としてふむ制度的な過程こそが、組織全体として暗黙知や身体知を継承していくために有効な手段や方法になっている。
日本型経営の集団的ないし組織的な知識創造のダイナミズムを、野中郁次郎氏は「ミドル・アップダウン・マネジメント」と分析した。
しかし、そのようなノウハウはどこの会社も明示知化してはいなかった。
制度的な慣行や文化的な倫理に関わる暗黙知や身体知が、どこかで誰かに教わった訳でもないのにみな身につけていって、気がつけばどこの日本の会社もしめしあわせたように育んでいたのである。
企業社会の全体がおそらくは伝統的な共同体のやり方を踏襲した先達や先輩を見習ってきた帰結としての完成だったのだろう。
こうしたところにも、中国の記録と不変とは対照的な、日本の継承と更新がある。
おそらく日本人の継承と更新は暗黙知と身体知の結集としての「型」を媒介としたのであって、
それは欧米の明示知である「モデル」とはまったく異なる次元のものだった。
そして、
こうした「型」を社会として組織として集団として育んできた土台に、
日本語が、欧米語や中国語が効率的に掬いとれない「場やそこに蓄積された文化の文脈に依存する高コンテクストな暗黙知や身体知の世界、暗黙知や身体知のパラダイム」こそを効率的に掬いとるようにできている
ということがあったのである。
「面白くて眠れなくなる社会学」を読んで(2)
http://cds190.exblog.jp/23292860/
につづく