社会の成立過程を中国と日本と繋げて考える(5:間章 その1) |
「拠点環濠集落の再検討 東アジア的視点からみた弥生時代の集落景観」中尾裕太氏 発
(4) http://cds190.exblog.jp/22965263/
からつづく
「都市性」というものを中国と日本と繋げて考える
論者は、大規模かつ防御の機能を備えた環濠をもつ集落、「拠点環濠集落」について検討している。
「周辺における拠点となる集落であると考えられている」
どのような拠点だったかをめぐって、それを都市とする「弥生都市論」があり、論者はこれに批判的な立場に立っている。
弥生都市論は、特に「都市性」を主張するという。
本項(5:間章)も、「都市の発生」とは何をもって発生とするのか、つまりは「都市性」とは何かを求めるものであり、論者の弥生都市論批判の立場からする本論はいろいろなことを気づかせてくれる。
「弥生都市論は(中略)その条件として大規模環濠から想定される人口や神殿とそこで行われる祭祀、そして首長が権力を再生産するために大規模な環濠を掘削してそれらの人的・物的資源を自らの周囲に集中させている点が挙げられる」
論者は、こうした「都市性」の条件規定については批判や見直しがあるという。
「環濠の主な機能として防御的な側面が強調されてきたが、環濠に伴う土塁を環濠外部に設ける例がほとんどであることから、防御的側面を再検討する論考や、環濠は集落構成員を維持するためのものとする考えが例として挙げられる」
つまり、環濠は<外>の人間が攻めて来るのを止めるだけでなく、<内>の人間が逃げて行くのを止めもした、というのである。
確かに、環濠は出入りを困難にさせるが、土塁は出入りを困難にさせる働きよりも、土塁上の高い位置に弓矢をもった見張りが立てば、環濠を見渡して環濠に近づく人間を監視したり威嚇できる、そういう刑務所の壁的な働きが大きい。
「また、環濠の有無によって周辺地域における集落間に明確な差が認められないこと、
弥生時代前期に非居住型の貯蔵穴専用の環濠が九州北部から瀬戸内にかけて多数存在することから、
特に水稲耕作開始期の小規模な環濠集落のあり方自体を問い直す意見もある」
「非居住型の貯蔵穴専用の環濠」、つまり居住区のない環濠もあった、ということは知らなかった。
私などは環濠と言えば環濠集落と、吉野家と言えば牛丼みたいに思ってきた。
ここで思い出すのが、中国古代の戦記物では城塞と並んで兵站基地の攻防が焦点になっていたことだ。九州北部の弥生時代前期の非居住型の貯蔵穴専用の環濠とは、渡来人の軍隊の兵站基地であった公算が高い。中国では城壁を築いた代わりに日本では環濠を掘った、ということである。
論者は「はじめに」で主張の主旨をこう述べる。
「環濠集落は出現期のものから基本的に周辺地域においては拠点となる集落であった」
この主旨は、前出の「環濠の有無によって周辺地域における集落間に明確な差が認められない」と相反するから、主張するには何らかの「明確な差」を提示しなければならない。
「弥生時代中期以降に出現する拠点環濠集落は、一般的な農耕集落や小規模環濠集落と比較すると極めて大規模で複雑な構造をもっており、弥生時代社会において重要な位置にあった」
「ただし、拠点環濠集落をもって都市や国の中枢とするには、特に集落景観の面から再考の余地がある(中略)。
中国を中心とする東アジア的な視点からみると、都市形成・国家形成の過程において集落の計画性が極めて重要な点である(中略)。拠点環濠集落にも一部においては計画的な集落形成がみられるが、そのような計画性はむしろ環濠をもたない大規模集落にみられるからである」
論者のキーワードは「集落景観」とその「計画性」であるようだ。
「弥生集落の発展を集落景観の中国化と仮定して、より中国的な要素をもつものほどより発展したものという観点から集落を類型化し、拠点環濠集落の都市性や社会的地位を改めて検討したい」
と論者は本論の目的を述べている。
論者の主張においては「都市性」と「中国化」が重要に関わっているようだ。
私の考え方の大枠を最初にざっくりと提示しておこう。
それを踏まえて論者の主張を是々非々で取り入れたり発展させていきたい。
私は、
都市の発生は「ハード=モノ」が整って起こったのではない
と思う。
都市の発生は「ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)」が自然発生するとともに起こった
と考える。
確かに、文化文明の発達度という尺度からすれば、自然発生した段階から、それが繰り返され恒例化しモデル化し、モデルを念頭に計画されるようになった段階への展開こそが発展ではある。しかし、それはあくまで発展であって、発生ではない。
つまり、
「都市性」の根源に、「ハード=モノ」のモデルや計画性を求めるのではなく、ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)の自然発生を求める
というのが私の立場である。
そして、前項(4)で検討した「交易活動とその拠点性」、それに関わる「ソフト=知恵とサービス=コト(行為や活動)」に注目する、というのが、私が「都市性」というものを中国と日本と繋げて考える捉え方である。
論者が重視する、都市の景観、これは都市にとって必要不可欠の「景観性能」と言ってもいいものである。ただし、それが明快に言えるのは十分に発展した都市の話である。
それは、単に国家中枢となった「都」(国の中心となった「みやこ」)のことだけではない。
私が、環日本海交易ネットワークのハブとなる水上交易拠点インフラだったと仮説する「出雲大社建立以前の出雲」も、この「景観性能」の最大限に駆使した一大エリアとして計画されたと考えている。(参照:「出雲大社への旅の道すがらの雑考(7:結論 その5 仮説総括/前半)」http://cds190.exblog.jp/22729362/)
そしてその考えにおいても、「景観性能」は、「ハード=モノ」のモデルや計画性によって具現化されるが、その発想の根源はあくまで「ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)」にあり、三位一体のものとして捉えている。
論者の景観重視も、基本的には同じような考え方に立つものだと思う。
ただ、私が考古学者の論に一般的に限界を感じるのは、遺構や遺物というモノを証拠として精緻に仮説と検証をするのはまったく正しいことなのだが、それには自ずから限界があるということだ。
遺構や遺物はとどのつまり「ハード=モノ」であって、「ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)」のすべてがそれによって明らかにされ証拠立てられるとは限らない。それは言わずもがなのことだ。そして、むしろ目に見えない、形のない事柄にこそ物事の本質が隠れていることは多い。
敢えて分かりやすい現代の喩え話をしよう。
たとえば、現代の高級住宅地が遠い未来に遺蹟として発掘されたとしよう。
住宅の遺構から分かることには限界がある。
同じ住戸の隣り合わせの家でも、一方は持ち家で一方は借家の可能性があり、同じ持ち家でも現金一括払いした家と30年ローンを組んだ家では、そこで暮らす家族の生活内容に隔たりがある。
そして、生活遺物によってその経済格差までは明らかになるが、その経済的な背景まではローン契約書や賃貸契約書が出て来なければ分からない。これらは銀行の貸金庫にしまってあるかも知れない。
ここで、住戸のデザインや景観が同じであるという「ハード=モノ」から想定されることと、それでは想定できない経済的な背景とでは、どちらが現代社会の本質を捉えているだろうか。
後者だとすれば、それは持ち家か借家か、持ち家ならば現金一括払いかローンかといった「ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)」から割り出せるものである。
また、この喩え話を展開すれば、さらにこんなことも言える。
同じ借家暮らしを選んだ人でも、郊外の一戸建てを選んだ人と、都心の高層マンションを選んだ人では、その生活スタイルだけでなく生活信条も異なる。しかし、借家暮らしにメリットを見出す「ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)」という切り口では共通している。つまり、生活観の発想の根源では一致している階層のバリエーションであると捉えることができる。
いったい何の話をしているかというと、環濠集落のことなのです。
集落には、拠点的な大規模な環濠集落と、周辺の小規模の環濠のない集落があったとしよう。
ここで両者は「ハード=モノ」としては明快な違いがある。
しかし「ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)」では、両者に共通性がある可能性を否定できない、ということなのである。
たとえば、物々交換や物品貨幣を用いた取引には、
①自給自足を補い合って比較的少量の「最寄り品」を日常的に取引する近隣取引
②余剰生産した比較的大量の「最寄り品」を定期的に取引する中域取引
③威信財や祭祀財など象徴的品目を不定期に取引する遠隔地取引
といったレベルがある。
①②③のレベルの違いに応じて取引の場を計画すれば「ハード=モノ」のモデルが異なり遺構にも明快な違いがでるだろう。
しかし一方で、物々交換や物品貨幣を用いた取引についての「ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)」には原理的な一貫性がある。目に見えないこと、つまり遺蹟に残らないことが一貫する共通性がある。そうでないと取引関係というものがネットワークできない。
こうした取引に関わる一貫性は、交易社会の本質であるが、遺構から明らかにならない最たるものである。遺物だけで証拠立てて説明しきることは到底できない。近代的な取引は明示知=形式知だけで成立するが、前近代の取引には暗黙知や身体知も重大に関わり、後者は遺構や遺物が直接的に説明してくれるものではない。
だから私たちにとっては、①と②と③の取引がどのように相関し、その全体が何によって成立していたのか、を仮説し、その仮説を遺構や遺物という物的証拠で検証したり修正したり補強するということができるベストになる。
そして、現代の市場社会がそうであるように、①と②と③の全体システムとして「都市性」なるものが成立している、そういう公算が原初の交易社会においても高いのである。
私は、都市が考古学の論において一つの都市ごとに自己完結的に論じられることにも限界を感じている。
「都市の発生」は個別的な現象であるというよりも、
「都市のネットワークの形成」という総合的な現象と不可分の渾然一体の現象ではないか、
そのようにしか「都市性」というものは捉えられないのではないか、
というのが私の率直な考えである。
都市の成立が、都市のネットワークの成立と極めて初期の段階から相関している公算は、原理的に考えて高い。
①自給自足を補い合って比較的少量の「最寄り品」を日常的に取引する近隣取引
が多数分布することによって、
②余剰生産した比較的大量の「最寄り品」を定期的に取引する中域取引
が必要となり成立もする。
①②が市場社会としてネットワークしそれを統合的に支配し収奪対象にする権力が成立して、これを得意客にする
③威信財や祭祀財など象徴的品目を不定期に取引する遠隔地取引
が需要を拡大し発展していった。
「都市性」とは、
こうした経過のどこかを区切って突然に発生するものではない。
そもそもは部族間の沈黙貿易(サイレント・トレード)やポトラッチやクラなどの取引や交易にまつわる「ソフト=知恵とそれに則ったサービス=コト(行為や活動)」から、さまざまな交易様相に一貫して内在してきた「極めて根源的な人間心理を踏まえた人間関係の想定構造」ではないか
というのが、まったく漠然とはしているが私の今のところの結論である。
(参照:ポトラッチやクラについては「こんな今だから『文化人類学の視角』が役立つ(3)」http://cds190.exblog.jp/19374617)
そのように概念規定する「都市性」は、最終的には都市のもつ「景観性能」に帰着する。
しかし、物々交換や物品貨幣を用いた交易を「都市性」の中核要素と捉える私には、取引という行為自体が古の人には祝祭であった、ということを最優先に重視せざるを得ない。
つまり、祝祭的な心理状況を人々に醸成させる場というものがまず求められ、それを具現化する一つの側面が「景観」および「景観性能」になっていると考える。
建物の「景観性能」が求められる前段に、取引や交易をする人々の祝祭的な心理状況を醸成する「舞台性能」および「演劇性能」といったものが必要とされるのである。
「舞台性能」とは、想定される書き割り、大道具、衣装、小道具が成立させる舞台という「ソフト=知恵」の結集である。
「演劇性能」とは、想定される舞台役者が成立させる演技という「(ソフト=知恵に則った)サービス=コト(行為や活動)」の結集である。
「景観性能」は、「舞台性能」と「演劇性能」を大枠として包含するもので、空間的には「劇場」や「劇場」に向かう「大通り」や「広場」に匹敵する。どちらかと言えば国家中枢を担う祭政一致の場である「都」にこそ求められる。人々を大なる空間で圧倒し小なる空間で従わせる、といったトップダウン的な力学が計画される。
一方、市場社会化する取引や交易の場は、特にその自然発生段階や初期の発展段階では、小なる空間の実績の積み上げが大なる空間への求めとなる、といったボトムアップ的な力学が昇華される。具体的には、①②③それぞれの状況が更新されたり、①と②、②と③の状況を組み合わせたり、①と②と③の状況を統合していった。
これを街の形成として象徴的な例をあげれば、前者は都市計画によって成立したパリのシャンゼリゼ大通り、後者は自然に増殖していった秋葉原や原宿や渋谷となろう。
以上のような整理から原理的に考えれば、たとえば中国の新石器時代末期の様相はこう整理できるのではなかろうか。
祭政一致の中枢空間は、画一的な「景観性能」を重んじて定式化していった。
それが朝廷建築の伽藍や、仏や霊を王に見立てた寺院建築や霊廟建築の伽藍に展開した。
一方、取引や交易の拠点空間は、取引や交易の不断の発展と多様化に適応する「舞台性能」や「演劇性能」を重んじて定式化を志向するのではなく、常に状況適応を優先して展開した。
ただしそれは「都市国家」という空間が成立するまでのことであり、「都市国家」に組み込まれず「領域国家」の支配域からももれた地域の話である。
「都市国家」では、画一的な「景観性能」を重んじて定式化した祭政一致の中枢空間の枠組みに、取引や交易の拠点を可能な限りとり込まれた。それは、不断の発展と多様化をする言わば民間の取引や交易を管理下ないし監視下におこうとうするものだった。その際、それに応じた特定の取引者や交易者は特権的な利権を授かることで商業活動を競争優位に展開し富豪になっていった。
中国の新石器時代末期においては、
「都市性」というものが「都市」と「都市のネットワーク」を育み、
それらを支配統合する形で「都市国家」が生まれ、後の「領域国家」につながっていく。
しかしその過程で、
言わば民間の自然発生と状況更新により育まれた多様な「都市性」は、
「都市国家」の祭政一致の中枢時空に組み込まれて画一的な定式性を帯びていった。
そんなふうに概観できるのではなかろうか。
日本の弥生時代においては、
稲作開始期の初期段階の環濠集落では、そうした中国や朝鮮での「都市性」の展開を経験した渡来人が、自分たちの目的と渡来先の現地状況(弥生人同士の競合状況や縄文人の文化文明の発達度合い)に応じて、都合のよい「都市性」の発展段階なり主要要素を意図的に選択して、ということは計画的に展開したと考えられる。
しかしそれは、水稲耕作の伝播受容が一巡し、縄文人と弥生人の共生が決着する弥生時代中期までのことで、その後は、「都市性」が本来もつ「極めて根源的な人間心理を踏まえた人間関係の想定構造」を自由に展開する本来のバイタリティある傾向を呼び覚まし、多様な「都市性」が展開していき、画一的な環濠集落へのこだわりは廃れていく。
つまりは、大陸由来の「都市性」が衰退し、多様な日本の風土と多様な渡来人と縄文人の関わり方から、状況に適応した「都市性」が育まれていった。
出雲大社建立以前の出雲は、そういう独自の「都市性」をそなえた拠点の一つで、交易と祝祭によって成り立つ「くに」となった。
取引や交易を主体に考える重商主義的発想としては、商業というものが地域や状況に適応するものである以上きわめて自然な考えである。
交易都市や交易国家に発展する拠点に「都市性」を見出すのは、しごくもっともな話である。
むしろ議論すべきは、「都市」と「農村」と対語のように言われる後者を連想させる、水稲耕作開始期の農耕拠点に、どのような「都市性」を見出すことができるか、あるいは見出すべきか、という話である。
これについては追って検討したい。
「いち」と「市」、「みやこ」と「都」、そして「都市性」の変化
論者は、弥生時代の新しい居住形態とともに環濠がもたらされたことを那珂遺蹟を例にこう解説していく。
「周囲を環濠で囲繞する集落は、水稲耕作開始期の集落のうちの一部にすぎず、弥生時代前期までの北部九州における環濠集落も確実なものは 10 に満たない。
したがって弥生時代集落は菜畑遺跡や曲り田遺跡のように環濠をもたないものの方がむしろ一般的であった」
「防御施設としての環濠をもつ一部ともたない大多数の図式からは、両者の差を認識せざるをえず、環濠集落は伝来当初から水田と集落の間に何ら区画を設けない一般的な農村集落より優位な立場であったと考えている。
しかし、初期環濠集落のほとんどは明確な生活遺構が確認されておらず、集落であることを否定する見解や初期環濠集落と格差の関係を切り離してとらえる論考もある」
こうした日本の弥生時代の様相は、縄文人と弥生人の対峙、弥生人同士の競合といったことを背景として複雑なものであり、私たちはどのように捉えていったらいいのだろうか。
私はそのための大枠として、「贈与経済」から「交換経済」へということがあると考えている。
(参照:「『交易する人間』の無意識的な求めとその現れ(2) 」
http://cds190.exblog.jp/8515989/)
まず「交換経済」というのは、利益を中心に組織された人間の集団と組織である「ゲゼルシャフト」を前提とするもので、近代以降の市場社会がそれで成立している。しかし、現代の私たちが行っている商取引や国際交流にはその枠組みでは不合理とされる、利益以外の何かを優先する行為や活動があるのも事実だ。
次に「贈与経済」とは、近代以前の古い人間関係において、利益中心でない人間関係と組織が息づく共同体である「ゲマインシャフト」を前提とするもので、他の社会関係が関係として可能になる社会形成力である「社会の絆」になっている。それは情緒的雰囲気をともなう「心性や態度」も配慮されねばならないものである。
たとえば、売り手が買い手に微笑みお愛想をふりまくことは、冷戦終結以前のソ連や中国ではなかった。なくても売り手と買い手の関係が成立したからである。しかし自由主義とまで言わないまでもふつうの商売ではそうはいかない。ぶすっとしていて冷淡な売り手からわざわざ買おうとする者はいないから売り手と買い手の関係が成立しない。しかしよくよく考えれば、インターネットで買い物するのに売り手の愛想も買い手の気分も関係ない。つまり、リアルな相対の売り買いというものは単なる交換ではなかったということなのである。ある種の感情関係、感情の経済と言えるものもあり、原初を辿っていくと交易する人間関係を成立させる「客迎え」に至る。
<social>という言葉の語義には、「他人に対して親切であること」という意味があり、それは狭義では同じ組織の身内や仲間に親切であることや貧しい仲間(寡婦や孤児)を援助することだが、広義では他人、とくに来訪者である異邦人を仲間として処遇することであった。
この待遇が、「非言語的あるいは身体的・物質的な交通」であり、それこそが原初の交易だった。
この待遇の具体的な表われは、他人に対して「気前がよいこと」であり、とくに遠方からの客人に対して食事と飲み物をふるまうこと、食卓に招くこと、そして客人が去るときには護衛をつけること、路銀を提供すること、等々である。それらはすべて「対価や見返りのない贈り物の提供」、つまり「贈与」である。
したがって<social>は事実上、人類の歴史とともに古い「客迎え」の慣習であり、いわゆる贈与慣習であり、一言で言えば「ホスピタリティ(もてなし)」なのである。
これは、人類普遍の<部族人的な心性>であり、それをベースに温存して形成された日本人の<社会人的な心性>に濃厚な事柄である(ex.おもてなし)。
私たちは、交易活動は、その原初からいわば貿易ビジネスだった、それは物々交換や物品貨幣を用いた「交換」だったと考えがちだ。しかしそれは近代人の理性が合理的に考える誤った印象でしかない。
確かにそういう側面はあったがあくまで側面なのだ。
遠路はるばる来訪者が訪ねてくる。その際、お土産をもってきてそれでこちらの暮らしが良くなるように祈ってくれる。こちらも歓待し、相手に困っていることがあれば、それを解決するものをお土産として持たせて帰す。ここでお土産の「交換」はあったが、それは物質の経済というよりも感情の経済なのである。ものを贈ることは贈られた方に「負い目の感情」を抱かせる。それが返礼のものを贈ることで解消できる。そういう感情の経済が成立するから物質の経済も継続していく。これが部族社会同士の交易である。
これが、一方の贈り物が相手の暮らしを左右するほどのものではなく、もう一方の贈り物が相手の暮らしを左右するほどのものであるならば、一方が「負い目の感情」を抱きもう一方が「優越した感情」を抱き、それはそれなりの関係性が維持されていく。これが、中華と蛮夷の間で行われた朝貢貿易でありそれによる冊封体制という交易であった。
私自身は、こう概念整理している。
縄文人の社会は「贈与経済」にあった。
その時に市が立つようになったが、
正確にはそれは平仮名つまりは和語で「いち」と表現すべき「贈与経済の場」であった。
弥生人の社会は「交換経済」にあった。
その時に立った市は、文字通り漢字つまりは漢語の「市」と表現すべき「交換経済の場」であった。
さらに、
「贈与経済」における取引や交易は祝祭でもあった。
なぜなら基本的には、人間を超越する存在の介在が求められた、ということがある。
取引や交易の公平や公正を保つためには神の御前の営み、神への奉納の営みという前提が必要だった。
①自給自足を補い合って比較的少量の「最寄り品」を日常的に取引する近隣取引
②余剰生産した比較的大量の「最寄り品」を定期的に取引する中域取引
③威信財や祭祀財など象徴的品目を不定期に取引する遠隔地取引
の3つのレベルをそれぞれに精緻に検討すべきだろう。
①は、原初は沈黙貿易のように、お互いの部族の縄張りから外れた交通の要衝に贈与経済の「いち」が立ったのだろう。
それが②に発展したときには交換経済の「市」となったのだろう。
③は、原初は、狩猟集団の代表が通常の回遊ルートから遠く離れて遠隔地に旅して稀少財を持ち帰ることに発し、農耕集落に製品製造や製品交易をする専従者が登場し交易民が生まれる。交易民は互いの拠点同士を行き来することで遠隔地交易を発展させたのだろう。出雲のような国際的な交易ネットワークのハブ拠点は「くに」になっていく。
この時、交易取引の場の安全と公正を保証するものとして神の居所である「みや」が建てられ、そうした全体が「みやこ」と呼ばれたのではないか。
この段階の③は、交易民同士は本音として交換経済を拡大すると同時に、その交易関係を維持発展させるために交易民は建前として交易神や航海神に対して贈与経済を拡大した。それは、公共的な交易インフラを充実させたり、共有資金をその運営に蓄積充当するという経済体制でもあったのだろう。
日本ではヤマト王権が統一国家をなした後、その祭政一致の中枢が「都」と呼ばれたが、そもそも存在していた「みやこ」を拠点として漢字を当てたということではないか。
この「国」成立後の段階では、徴税によって行政を成り立たせる国家経済が前面に出てくる。しかし、それを当時の日本人が受け入れるためには、中国とは異なって王朝の神格化が有効かつ必要だった。そこで祭政の政治体制としては「交換経済」、祭祀体制としては「贈与経済」という二重体制となった。
ちなみに「贈与」の根源は神や自然といった超越者が人間に対してするものであり、人間はこれに畏怖と感謝という形で「負い目の感情」を抱いたり一時的に払拭したりを繰り返してきた。王朝の神格化とは、これを踏まえて天皇および朝廷が人心を掌握し徴税を正当化するものであったと言えよう。
中国でも都市国家が成立して王が貞を使って卜占して天意を授かるという建前になる以前は、祭政一致の中枢というものがない。だから、後に「都」がおかれるような土地にあったのは①②③を多様に統合した交易拠点なり取引拠点だったと考えられる。
その経済拠点が政治拠点ともなる都市国家成立の前の段階で、宗教拠点がいかに存在して経済拠点といかなる関係にあったのか、それは中国の都市国家成立以前の「都市性」というものを明らかにするが、日本の「みやこ」の「都市性」との違いを知る上で是非とも知りたいところである。
日本では、
論者が指摘するように「拠点環濠集落」は数が限定され、
私が出雲に仮説するような「水上交易拠点」も数が限定され、
ともに最終的に廃れていったことを考えると、
日本列島で一般的に発生し綿々と継承された「都市性」とは、大陸由来の<社会人的な心性>の交換経済ばかりを前面に押し出すものではなく、かつ<部族人的な心性>の贈与経済を外向きに押し出すものでもなかった。<部族人的な心性>を内向きに充実させる方向性のものだった公算が高い。
つまりは「日本型の都市性」ということになるが、それは私たちが「都市」に対比して「農村」と言っているエリアにもじつは介在してきた「都市性」なのかも知れない。
たとえば、大相撲に外国人力士が多くなったのも、秋葉原や渋谷に外国人のオタクやカワイイ好きが増えたのも、日本人同士が自然発生的に濃密な時空を内向きに充実させて形成していただけで世界に向けて集客した訳でも外来文化の受容拠点になっていた訳でもない。
ここで「日本型の都市性」は、「内向き」ということと「閉鎖的」「排他的」ということがイコールではないことがとても重要で要注意だ。
今日の日本の都市や街の個性になっている「構造特性」のようなものかも知れない。
一言で言えば、前述した
利益重視、ビジネス重視の「機能体社会」ではない、共生重視、祝祭重視の「共同体」
ということになる。
それは「都市」に対比される「農村」ではないか、と思われそうだが、日本の「農村」の実態も「日本型の都市性」を帯びていたということが言えるのかも知れない。
秋葉原や原宿や渋谷の世界各国の若者が集まってくるメッカ性には、当然、海外にない要素があるという客観的な評価がある訳だが、そういうことにも「日本型の都市性」が今でも息づいているように思う。
それは血縁によるものではなく、知識の知縁による「共同体」としてである。
この知縁は<内>にこもらず<外>に開かれてネットワークしている。
日本の「農村」にもそういう、知縁とそのネットワークが介在してきた側面があるとすれば、それが「日本型の都市性」をもった日本の農村ということになる。
そして、その原初が弥生時代の水稲耕作開始期の拠点環濠集落に遡るのかも知れない。
初期環濠に見られる複雑な「階層格差」と多様な「都市性」
論者は、「環濠伝来期の初期環濠とそれをめぐる格差の問題」に注目している。
「国内最初期の環濠集落は北部九州にみることができる。時期的に最も古いのは、福岡県福岡市那珂遺蹟のもので、夜臼式土器単純期のものとされている。(中略)
内濠と外濠からなる二重構造で、(中略)約150㎡を囲い込むほぼ正円の環濠である(中略)。外濠は断面V字形、内濠は断面逆台形を呈しており、(中略)外濠が幅6~7m、深さ4mに、内濠が幅約3m、深さ2.3~2.5mに復元されている。(中略)水稲耕作開始期から極めて計画性が高い環濠が存在していたということが分かる」
「那珂遺蹟よりやや遅れるが、那珂遺蹟に近接する福岡市板付遺蹟からも環濠が検出されている。
板付遺蹟は住居跡こそ検出されていないものの、住居に伴うと考えられる貯蔵穴が検出されており、ある程度の集落形態を予測することができる。
環濠は110m×81mの卵型で、断面V字形を呈している。この環濠からのびる溝によって区切られた小区から貯蔵穴群が確認されていることから、ここが貯蔵穴の集中管理場であり、それ以外の大区には住居があったものと思われる。また、環濠外の部分からも貯蔵穴が確認されており、当然ここにも住居跡を想定することができる。
このように、板付遺蹟では、環濠内に居住する人々と環濠外に居住する人々がいたと理解することができよう。
また、板付遺蹟からは環濠の他に集落と水田を分け、井堰、取排水溝を設けている水路跡が確認されている。この水路は、幅約10m、深さ3m以上と推定されている(中略)。水路と同時に環濠と同じ性格を加味することができる。注目すべきは、この水路の外からも貯蔵穴が検出されていることである。
すなわち、板付遺蹟では水路外に居住する人々、水路内の環濠外に居住する人々、環濠内に居住する人々がいたということになる。(中略)
以上を考慮すると、板付遺蹟には、やや複雑な格差があったと想定することができる」
弥生時代の北部九州についてこういう説がある。
糸島(旧怡土郡)にあった伊都国が、帯方郡の出先機関の行政拠点であり、
板付にあった一大国がその軍事拠点であり、
志賀島にあった奴国がその交易と製造の経済拠点だった
という説であり、私個人的にはこれに賛同している。
この説と板付遺蹟の貯蔵穴群はぴったりと符号する。
つまり、
軍事拠点の板付=一大国において、遺蹟は兵站基地であり、その貯蔵穴群は兵站の貯蔵庫群だった
と考えられる。
想定される「ある程度の集落形態」「環濠の内外の住居」とは、兵隊の暮らす兵舎だったことになる。
当時の中国の兵役制が極東の果てでもしかれて中国人の兵隊が派兵されていたとは考えにくい。
私個人的には、呉の遺臣を祖とする安曇氏が帯方郡出先機関の全権を請け負って、交易利権を得る見返りに漢なり魏なりに王朝で使う商材を上納していたのではないか、と考えている。
よって兵舎と言っても、兵士となった呉の難民の独身男性たちが暮らす兵舎と、妻帯者とその家族が暮らした住居であった。つまり、兵士とその家族は屯田兵および開拓民的な性格を帯びていたと考えられる。
「水路外に居住する人々、水路内の環濠外に居住する人々、環濠内に居住する人々がいた」という居住区の三分は複雑な「階層格差」を反映しているが、具体的には、軍隊の幹部/中堅/兵卒といった階級を反映したり、軍隊の首脳部/女子供の集住部/兵卒の防衛部といった機能を反映していると考えられる。
なおこの説に立つと、
行政拠点としての「都市性」が伊都国のあった糸島に
軍事拠点としての「都市性」が一大国のあった板付に
交易拠点としての「都市性」が奴国のあった志賀島に
求められることになる。
そしてこれらの拠点はネットワークしていた訳だから、
それぞれが「都市のネットワーク」性を前提に成立していた
ということになる。
ちなみにこの説は、
あの「漢委奴国王」印を「漢のイトコク王」と読んで、帯方郡の出先機関の長が使った実務印だったとする異説を含む。
私個人的には、行政拠点である糸島ではなく、交易の経済拠点である志賀島から出土したことは、この実務印が交易活動の決裁に使われていたのではないか、と想像している。
論者は次に、九州北部の環濠形成に直接の影響を与えたと考えられる朝鮮半島南部の環濠集落について、韓国蔚山市の検丹里遺跡を例に検討していく。
「検丹里遺跡では、無文土器時代中期に一定の住居を囲い込む環濠を掘削する。
この環濠も板付遺跡同様,断面V字形で防御を意識した構造となっている。しかし、その環濠は居住地全域に広がるのではなく一部のみにとどまっており、環濠に入れる者と入れない者の差をうかがうことができる」
つまり検丹里遺跡の環濠は、集落の<内>と<外>とを仕切るのではなく、集落の<内>において区画を仕切る働きをしている。
これは前述の板付遺蹟の集落の環濠内外の全体を捉えた時の環濠と水路の働きに重なる。
「検丹里遺跡は、時期区分が 1 期、2 期、3 期と分かれているが、存続時期を通して環濠をめぐらすわけではなく、環濠が住居を取り囲むのは 2 期においてのみである。しかし、1 期、2 期、3 期をとおしてみると、2 期に環濠がめぐる場所には絶えず住居があったことが分かる。
すなわち,環濠がめぐる場所には、環濠の有無を問わず、継続して生活する集団がいたということである。ここに居住する人々は検丹里集落の中心となる集団であっただろう」
論者は、朝鮮半島南部の検丹里遺蹟の検討も踏まえて、
「北部九州の環濠内居住集団も周辺地域の中心となる人々であったとしてもよいだろう」
と結論している。
これは、一番守られるべき人々が一番守られた地域に暮らす、というしごくもっともなことだと思う。しかし、北部九州の拠点環濠集落の場合、「稲作開始期の集落」という点を考慮しなくてはならない。
論者は、以下のように吉留秀敏氏の「稲作開始期の集落」についての見解を紹介している。
「吉留秀敏は、福岡平野、早良平野の稲作開始期の集落を検討し、
当時の弥生社会は小規模集落間のネットワークにより維持されており、環濠集落に関しても他の遺跡との明確な差異は認められない
ことを指摘している(吉留 2008)。
また、吉留は初期環濠に関して、さまざまな利害に対して有効にはたらく調整装置であったことや環濠を水稲耕作の副次的なものとして導入したなど、何らかの背景を想定しながらも、
実質的な機能 はなかった
と推測している(吉留 1994・2008)」
ここで吉留氏が言う、実質的な機能、とは、防御や隔離という物理的な機能のことだろう。つまり、敵襲や脱走を防げるものではなかったということだろう。
私は、ならば象徴的な機能ないしは心理的な機能があったのではないか、と考えたい。
そうであれば、ここには極めて日本的な構造がある。
<内>と<外>とが物理的には通通なのだが、両者を仕切る「結界」を通過する際に心理的な変化を強いる、そういう構造がそもそも人類普遍に部族社会にはある。集落の入口のトーテムポールを建てることがその典型だ。日本人の<社会人的な心性>の特徴は、ベースに<部族人的な心性>を温存して形成されてきたことだが、空間構造についても同じで、前述の「結界」は、鳥居、注連縄、暖簾、敷居、縁側、障子、襖、欄間と枚挙に暇がない。
都市空間で言えば、中国や欧米の都市は城塞に囲まれて大門があるのに対して、日本の都市はまるで初期環濠のようにお堀に囲まれた城の周囲に水路をめぐらされた城下町として形成されている。その外側に関所はあるものの来襲も離脱もしようと思えば関所以外の所から可能である。
けっきょく関所も鳥居や敷居と同様にシンボリックな働きが大きく、「結界」として存在することで、人々に<内>にいる心理と<外>にでた心理の隔たりを醸成している。それは物理的な機能よりも象徴的な機能ないしは心理的な機能であり、日本人の生活文化の時空においては私たちの心身にも情動的に無意識的な反応を呼び起こす。
こうした日本人の空間に関する<社会人的な心性>だが、それが<部族人的な心性>から昇華した起源は初期環濠にあったのかも知れない。
ここで吉留氏が言う、環濠集落に関しても他の遺跡との明確な差異は認められない、とは「ハード=モノ」ということだろう。
だが、遺構や遺物から分からないし証拠立てることはできないが、確かに暮らしていた人に差異があったことは想像されるのである。
論者の見解もこうである。
「筆者も基本的にはこの考えに従っており,環濠はより防御的な側面がつよいV字形を呈するものの、実際に紛争が起こることはなかったと推定している。事実、北部九州の初期環濠は掘削後、長期間維持されることはなく何れもすぐに埋没している」
「また、環濠造営のための土木量を考慮すると、環濠を無批判に取り入れたとは考え難い。防御施設を設ける場合、外と内には安全度において明確な差がある。さらに板付遺跡のように防御施設が幾重にもめぐらされる場合、当然中心に近づくほど安全度は高まる。このような環濠の内部に、一般的な集団が占地して居住していたとは考え難く、検丹里遺跡のように周辺地域の中心となる集団が居住していたととらえるべきである」
一番守られるべき人々が一番守られた地域に暮らす、つまりは幾重にもめぐらされた防御施設の真ん中に暮らすのは、しごくもっともなことで議論の余地はないと思う。
むしろ議論すべきは、<内>に閉じていることではなく、むしろ<外>に開かれていることではないか。つまり<外>に開かれている度合いが、一番外側が高く、その内側が二番目に高く、真ん中が低いということが、何を意味するかである。
北部九州の場合、弥生人同士の競合という観点に立てば、防御ということに力点がおかれて当然である。しかし、水稲耕作伝播受容期の弥生人と縄文人との関係性については、当初は対立であっても、それを協調そして融和へと展開しようとする同化政策があったと考えるのが自然である。
つまり、最初は弥生人が縄文人の住んでいた所に侵攻して拠点をもった。当然、<内>に閉じることになる。しかし同化政策を進めるにおいては、適宜に<外>に開くことも進めていった。それが平和裡なものになるほどに<外>に開かれている度合いは増していった筈なのである。
「<外>に開かれている度合いが、一番外側が高く、その内側が二番目に高く、真ん中が低い」という空間構造は、このように想像される。
一番外側に兵卒の独身男性が暮らし、その内側に女子供を含む家族が暮らし、一番内側に集落の長老や幹部が暮らす。
一番外側の独身男性の対外活動に同化政策の第一歩を担わせ、何らかの形で先住民の女性に子供を産ませれば親子にその内側で家族暮らしをさせて混血児を育てる、これを一番内側の長老や幹部が集落の中心行事に触れさせながら教育する。
さらにこうした日本における同化政策という切り口を、朝鮮の検丹里遺跡の「時期区分が 1 期、2 期、3 期」の展開に重ねれば、こういうことが想像される。
1 期には、初期環濠や分布した所にはそもそも先住民が住んでいたか、侵攻民だけで住み着いたか、そこに先住民を連れてきたかした(開墾期)。
2 期には、そのもっとも住み心地の良い場所だけに侵攻民が住み続けた。灌漑施設により少人数でできる先進的な水稲耕作の導入を完了したと考えられる(定着期)。
1 期、2 期を通じて同化を拒む先住民の多くは逃げるか殺されるかする。
2 期から、侵攻民が住み着いた場所には、同化に応じたか強いられたかした先住民の女性が囲われて混血児が生まれる。彼らの脱走と敵対する先住民の来襲を防ぐために環濠をめぐらした。
3 期には、混血児が教育を受けて成人し新たな構成員となり環濠は要らなくなっている。彼らが新たに家族をつくって住む場所が周囲に分散していく。灌漑施設づくりをともなったより大規模な開墾が進められていく。それを見た1 期に逃走したり闘争した先住民の平和里の参加恊働を呼び込んでいく。
侵攻民が住み着いたもっとも住み心地がよく子孫を残す活動を集中した場所が、周辺全体の擬似的な拡大親族の本拠地的な位置づけになる。
環濠がある前からなくなった後まで人が居住している、とはそういう場所ではないか。
論者は、「検丹里遺跡では,無文土器時代中期に一定の住居を囲い込む環濠を掘削する」とする。
無文土器時代は、この時代の典型的な土器が表面に模様を持たない様式であることから命名された。紀元前 1500年から300年頃で、農耕が始まるとともに社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。
つまり北部九州と同様に、先進農耕を携えた侵攻民が先住民を侵攻し同化した過程を想定することができる。(なお、無文土器は地域的な模様をもたないことにより広域で普遍的に使われる土器となる。よって周辺全体の本拠地的な環濠集落が遠隔地との交易拠点ないし物流拠点となった可能性もある。)
北部九州の環濠や水路や土塁をめぐらせた様相を3重の同心円状の区画だと図式化すると、同様の展開も想像される。
真ん中の区画は、長老や幹部のエリアで、そもそも侵攻民が先住民女性を囲って同化政策を集中したエリアである。彼らが逃げないように先住民の来襲を防ぐように環濠をめぐらせた。
その外側の区画は生まれた混血児を育てる家族のエリアである。彼らが逃げる心配は軽減したが逃亡する可能性はまだ残っただろう。そこで水路をめぐらせた。
一番外側の区画は、兵卒のエリアで防衛と同化政策の前線となった。やがて平和裡に同化政策が完了すると開墾の最前線となった。
「社会の成立過程を中国と日本と繋げて考える(5:間章 その2)」
http://cds190.exblog.jp/22972964/
につづく。