社会の成立過程を中国と日本と繋げて考える(3) |
(「第1章 原始社会 2新石器時代の文化」を読んで)
(2) http://cds190.exblog.jp/22947976/
からつづく
新石器時代を中国と日本と繋げて考える
新石器時代、という概念の再確認から始めよう。
地質学的には人類が現生動物と共存する完新世に属し、磨製石器を主な道具としていた時代で、土器の使用、農耕や家畜の飼育が始まる。
新石器時代の様相には世界各地で違いがある。
日本の縄文時代も新石器時代だが、日本で農耕が始まるのは(以上の区分の)縄文時代前期以降であり、家畜飼育ではない牧畜は縄文時代を通じて存在しない。
ちなみに、石器時代から近世まで南九州や南西諸島を除き牧畜が発達しなかったことは、縄文時代晩期を中国と日本と繋げて考える上で一つのヒントになる。
たとえば沖縄、鹿児島といえば共通するのはサトウキビ畑と豚の角煮だが、下図に追記したような中国大陸における「畑作牧畜民」の南下の果ての海上東進を想像させる。
(ちなみにサトウキビは、現在のニューギニア島あたりで発祥し、紀元前6000年前後に現在のインド、さらに東南アジアに広まったといわれている。)
新石器文化の発達度合いを中国と日本で比べると、(以上の区分の)縄文時代前期までは落差が無かったのが、縄文時代中期以降、中国の華中以北の発達度合いが勝っていく。土器が日本の弥生土器以上に洗練された陶器になっていき、縄文時代後期には青銅器も出現している。
ちなみに前述した沖縄、鹿児島の「サトウキビ畑と豚の角煮」ルートが経由する台湾の先の起点である華南は発達度合いを停滞させたエリアであり、そこと日本列島との発達度合いの落差は華中以北のようには拡大しなかった。
けっきょくこうした華中以北との文明文化の発達度合いの落差がずっと続いたことが、弥生時代の日本列島において、青銅器と鉄器がほぼ同時に普及したり、様々な渡来形式の渡来民によって当時の中国や朝鮮の様々な文明文化状況が一気に多様に展開したりしたことの土壌となった。
こうした日本黎明期の複雑な日本列島の状況は、もちろん弥生時代の様々な縄文人と弥生人の関わり方や、様々な渡来人を渡来させた様々な海外状勢による。
しかしそれでもなお、私には、その大枠は縄文時代に醸成されていた大陸と日本列島との関わり方の延長線上にあったのではないか、と思えてならない。
だったとすればそれはどのような大枠だったのか、
それを本項(3)では主題に検討していきます。
黄河文明の萌芽=シルクロードの終点エリアに展開した仰韶文化
著者は、旧石器時代と新石器時代の違いとして、石器が打製から磨製に変わること、土器を作るようになることを上げ、さらにもっとも本質的な変化として、「食糧を狩猟や採集によって手に入れるか、みずからの手でつくり出すかという点」、つまりは穀物栽培と牧畜や家畜飼育をあげる。
そしてまず、穀物などの存在が発掘によって確かめられる「仰韶(ぎょうしょう)文化」について述べていく。
「この文化は、1921年に河南省メン(さんずいに縄の旁の繁字)池県(めんちけん)仰韶村においてはじめて発見されたので、仰韶文化とよばれるが、
その特色は赤字に黒で彩色した石器のほかに磨いて形を美しくした石器なども発見された。
赤字に彩色をした土器は西アジアなどでも発見されているため、この遺跡の発見は大きな注目をあつめた。この彩色土器をもった文化が西方から伝わってきたものではないかというわけである。(中略)
この彩色土器をもった文化は、その後の調査によって、河南省から陝西省(せんせいしょう)・甘粛省にかけて広く分布していること(中略)が明らかになった」
陝西省は、長安(西安)一帯を含む地域で黄土高原が広がる。北部は内蒙古自治区と接し砂漠である。東部は、山西省・河南省、西部は寧夏回族自治区・甘粛省、南部は四川省・重慶市、東南部は湖北省と接している。
このように具体的に地図上で確認していけば、
彩色土器の分布は、ちょうど後にシルクロードと呼ばれる人々の移動ルートと重なっている
ということが明らかである。
仰韶村の彩色土器においては、「土器の底の部分の破片の一つに稲のモミ殻のあとが残っていた」ことから、「稲作を行う新石器文化ではないか」という問題提起もあった。
一方で、
「黄河流域では、前4000年以前から前3000年以後まで、いくつかの類型にわかれる仰韶文化とよばれる新石器の文化が存続していた」
とされ、そのもっとも早い類型の一つである
「西安半坡村(はんばむら)の遺跡では、竪穴や住居の内部などに、アワが貯蔵されていたことが発掘によって明らかにされたし、出土した骨によって豚が家畜として飼育されていたことが明らかになった」
西安半坡村のアワ貯蔵は、雑穀栽培を示す訳だが、それは西方から「畑作牧畜民」およびその文化が伝来したと考えられる。
仰韶村の彩色土器のモミ殻痕は、稲作を示す訳だが、それはヒプシサーマル期(紀元前5000年〜紀元前3000年)の長江流域からの稲作の北上によるものと考えられる。
アワなどの雑穀栽培は栽培種が伝来すればほぼどこでも始められるが、イネの栽培は北限があり栽培種の改良や耕作の工夫を必要としたからである。
ここで精緻に検討すべきは、
長江流域から北上した農耕は①「稲作重視の選別型農耕」で家畜飼育を伴うのに対して、
黄河流域にもともと展開した農耕は「②雑穀主体の網羅型農耕」で狩猟を並行するものだったと考えられる*
こととの関わりである。
(*なぜそう考えられるかというと、稲作重視となると農耕と狩猟の恊働を両立させることが難しくなる。雑穀主体の網羅型の段階では農耕と狩猟の恊働が両立できてるからだ。
「畑作牧畜民の南下」という言い方は結果をとらえるもので、実際に起こったことは、そもそも「狩猟もする畑作民(栽培民)」がいて、狩猟を重視した者が「遊牧狩猟民」となり西北に展開し、畑作を重視した者が「畑作牧畜民」となり南東に展開した、と考えられる。狩猟の能力は騎馬戦力でもありそれをもって「狩猟もする畑作民(栽培民)」が狩猟を牧畜に置き換えつつ南下し、先住民であった「恊働狩猟をしない畑作民(栽培民)」や後には「稲作漁撈民」に取って代わっていった、ということではないか。)
①と②の両者が複合化して、最終的に日本列島に③「選択自由度の高い複合型農耕」が伝わったのだから、日本と中国と繋げて考える上でも密接に関係してくる。
「アワが貯蔵されていた」ことは「雑穀主体の網羅型農耕」を示す一方で、
「豚が家畜として飼育されていた」ことは「稲作重視の選別型農耕」の特徴なのである。
ということは、
黄河流域においては稲作の受容の前に、雑穀栽培に伴った家畜飼育が先行した時代があり、仰韶文化はそこから始まって稲作の受容をした後まで続いた、
稲のモミ殻痕はその稲作の受容の後のことである
と解釈することができる。
「雑穀主体の網羅型農耕」は狩猟を並行していた。
これは日本における、いわゆる縄文稲作と呼ばれる様相に近しい。
島根県の「板屋Ⅲ遺跡」の縄文時代早期末に相当する第3層からイネのプラントオパールが検出されていて、これはちょうど世界最古級の稲作遺跡である「河姆渡遺跡」(浙江省東部)の時期に相当するという。
さらに第3層の下の縄文時代草創期に相当する第4層からキビとヒョウタンに混じってイネのプラントオパールが見出された。(これが事実ならば河姆渡遺跡に先行することになってしまう。)
近しい、と前述したのは、このような縄文稲作が「イネも含む網羅型農耕=複合型」と見てとれることで、陸稲ないしは水陸未分化の稲作が可能であるところでは積極的に稲作をし、狩猟を並行したという点である。
板屋遺蹟は、島根県飯石郡飯南町志津見という中国山地の奥深くであり狩猟が行われた筈である。
また、縄文時代前期に相当する、岡山県の「朝寝鼻遺跡(あさねばないせき)」から6400年前のイネのプラントオパールが発見された縄文稲作の様相にも近しい。
近しいというのは、発見されたイネのプラントオパールは約五十個で、同じ地層から小麦のプラントオパール一個と、ハトムギとみられるプラントオパール百個以上が検出され、「イネも含む網羅型農耕=複合型」と見てとれることで、漁撈を並行したという点である。
朝寝鼻遺跡は、岡山県岡山市津島東という現在は山の麓であるが、貝塚遺跡をともなっていて、当時は海浜部であり漁撈が行われた筈である。
ヒプシサーマルが始まったのは7000年前とも6500年前とも言われる。
おそらく現在の中国大陸と日本列島で気候が異なるように、時間差があったのかも知れない。
いずれにせよヒプシサーマルが始まって農耕民の移動や穀物栽培の伝播が急激に進んだことは確かだ。
朝寝鼻遺跡の第3層が縄文時代早期末として6000年前頃=紀元前4000年頃、河姆渡文化がが紀元前5000年頃-紀元前4500年頃。
第4層も考え合わせどちらが先行するかはともかくも、後の文化の発達度合いの落差からすると落差は無いに等しかったことは確かだ。
日本列島では牧畜は行われなかったが、伊豆大島で旧石器時代から「猪の飼育」が行われていたことは、前項(1:補足 伊豆について)で触れた。
伊豆大島の下高洞(しもたかぼら)遺跡は、縄文時代早期初頭、約8000年前の遺跡とされる伊豆諸島で最も古い生活跡である。
海食崖の下部(下髙洞A)から土器(平坂式土器、山形押型文土器)、神津島産黒曜石の石鏃(せきぞく・矢じり)、猪の頭骨などが多数出土し、竪穴住居も確認されている。
島に生息しない猪を運搬し飼育していたことが注目される。
伊豆諸島では鹿ではなく家畜だった猪が骨卜に使われるようになったと考えられ、それには前述した「サトウキビ畑と豚の角煮」ルートを介した中国との黒潮繋がりが関係したのではなかろうか。
ヒツジ/ヤギ/ブタは紀元前8000年頃の西南アジアで、それぞれムフロン/パサン/イノシシから家畜化されたと言われる。
最初は狩猟して捕獲したものを食べるまでの間、移動生活において同行させたり、定住生活において飼育したことが野生のムフロン/パサン/イノシシの生息域で展開して、やがてその非生息域にも家畜化したヒツジ/ヤギ/ブタがもたらされて牧畜や家畜飼育が普及拡散したと考えられる。
それは、移動狩猟民が遊牧民になる過程、定住狩猟採集民そして定住狩猟栽培民になっていく過程と重なった。
こうした過程は、中国大陸では、後にシルクロードと呼ばれる西方からの移動ルートの終点エリアで始まったに違いない。それが「畑作牧畜民」が南下する出発点となった。
そして遊牧民化や栽培民化の過程には、ウシ、ウマ、スイギュウなどの家畜化も深く関わった。
ちなみにウシは紀元前6000年頃に西南アジア、インド、北アフリカでオーロックスから家畜化されている。ウマは紀元前4000年頃のウクライナで、ロバは同時期のエジプトで、アジアが原産地のスイギュウも同時期の中国で家畜化されている。
中国でスイギュウが家畜化されたのは、ヒプシサーマル期に長江中流域でのイネの栽培種の誕生をうけて水稲耕作を展開した長江下流域だろう。
スイギュウは粗末な食べ物で成長して肉や乳を得られるだけでなく、ウシよりも沼地での行動に適応しているため水田での労働力としても有用であり、経済的に非常に優れた動物であるという。
スイギュウの中国における家畜化は、後期石器時代に拡大した森において穀物栽培と土器作りをはじめたいわゆる「森の民」が、新石器時代に森から川沿いの平野部に定住域を移して「稲作漁労民」化していく過程に重なるのだろう。
「板屋Ⅲ遺跡」の第4層のが「河姆渡遺跡」に先行するとすれば、大胆ではあるが、以下のような仮説を立てるしかない。
沖縄の土器文化(縄文文化)が北九州から伝わってきた、という説がある。これは北九州の縄文人の西南諸島への移動を前提している。私たちは中国大陸からの移動ルートないし伝来ルートとして黒潮(「サトウキビ畑と豚の角煮ルート」)を捉えてしまうが、逆ルートを辿る移動もあった、ということなのだ。
つまり、縄文人が中国・台湾に出かけていって家畜化されていたスイギュウを連れ帰ったり(南西諸島まで)、長江を遡って栽培種のイネを持ち帰ったり(本州まで)した可能性である。
そもそも縄文人は日本列島ないし列島相当部に、絶滅動物を追いかけてやってきたり、神津島の黒曜石を取りにきて持ち帰ったり、ヒスイを勾玉に加工して海外にもっていった公算が高い。
ヒスイは北海道の美々4号遺跡、ヲフキ遺跡、青森の三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡、新潟糸魚川の長者ヶ原遺跡、長野の離山遺跡などから出土しており、縄文中期(BC5000年)頃から作られていた。蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかっており、縄文人が広い範囲で交易していた事実を示す。
勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる。時代の下った5世紀から6世紀にかけての大量に出土した朝鮮半島のヒスイ製勾玉も、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明している。おそらく弥生時代そして縄文時代にも中国大陸に日本列島で産出されたヒスイの原石や加工された勾玉をたらした人々がいたと考えて自然である。
要は、そのような原初の交易民となった縄文人が、長江下流域まで交易で行き来していて、持ち前の進取の精神を発揮して長江を中流域まで遡って、誕生したばかりのイネの栽培種なり収穫した米を持ち帰った。そして「河姆渡遺跡」よりも先に第4層の「板屋Ⅲ遺跡」で栽培したり炊飯して食した、そう仮説することができる。
以上のように新石器時代の中国大陸と日本列島を俯瞰してくると、
ざっくり言えば、
いわゆる黄河文明とは、
後にシルクロードと呼ばれるルートで伝来した西方文明=交易文化①と、
ヒプシサーマルを契機に北上した長江文明=農耕文化②とが
交錯した新石器文化だった
ということになる。
「都市」が発生し、「交易都市」や「都市国家」の文化という枠組みにおいて、
この次にくる青銅器文化と鉄器文化に向けて、
前者①に後者②がとり込まれていった。
かつて世界の4大文明の一つと称された「黄河文明」という呼称は廃れている。黄河流域の文化と長江流域の文化は一体であったという理解から「河江文明」と呼ばれる。中国文明としての捉え方としてはそれが正しいのだろう。
しかし、中国と日本とつないで考える観点からすると、
縄文時代には、
「森の民」の土器と穀物栽培と家畜飼育の文化が「華南」から
長江文明=農耕文化②が「華中」から日本列島に伝播していて、
弥生時代には
西方文明=交易文化①の内に長江文明=農耕文化②を捉えた黄河文明由来の文物が「華北」「華中」から陸路海路の様々なルートで日本列島に伝播してきた
と概観できる。
長江文明を「都市」という枠組みに取りこみ再編した新黄河文明
長江文明を代表するのが「青蓮崗(せいれんこう)文化」である。
「1951年江蘇省淮安県(わいあんけん)青蓮崗で一つの新石器文化が発見され、以後揚子江下流域の各地で同じような文化の遺跡が発掘されるようになった。
いずれも、仰韶文化や竜山文化(筆者注:仰韶文化の後 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃の黄河下流の新石器文化)よりも見事な磨製石器が多く出土し、おそらく竜山文化よりも時代が下がるものと考えられていた。しかし発掘が進むにつれて、竜山文化より下層で発見され、かなり早いものであることが明らかになってきた。(中略)
大トン(土偏に敦)子(だいとんし)の年代は、前3900年から前3500年にかけてのものであることが明らかになっている」
よって、ヒプシサーマル期(紀元前5000年〜紀元前3000年)の末期に、穀物栽培そして水稲耕作とともに土器を先進的に発達させた長江文明が、むしろ黄河文明に影響を与えたと考えられるようになった。
「この文化(筆者注:青蓮崗文化)は揚子江の北と南に分かれ、
江北では青蓮崗期から劉林期に、さらに花チョウ(广まだれに聴の繁字)期(江蘇省新キ(さんずいに斤)県花チョウ村が代表)へと推移し、彩色土器は次第に減少し、文様も拙劣になる。
そして大汶口文化(山東省寧陽県大汶口鎮)に転化するが、その大汶口文化の晩期(後期である紀元前3000年 - 紀元前2600年)になると、三つの袋状になった足をつけた鬹(き)や、卵殻のような薄くて光沢のある黒陶が出現する。これはかつて竜山文化に特有のものと考えられていたが、大汶口文化から影響を受けたものであることが明らかになった。
この青蓮崗文化は、仰韶文化とはことなって水稲耕作をしていた」
ここで著者が青蓮崗文化の圏域をさして言う「江北」という概念を再確認しておく必要がある。
なんとなく長江の北側と思うと誤る。
青蓮崗のある江蘇省だけでなく、大汶口鎮のある山東省も含まれる。内陸省である安徽省は江北とは言われない。つまり「江」は沿海部を意味する。
さらに留意すべきは、竜山文化についてである。
竜山文化は、中原竜山文化(河南竜山文化と陝西竜山文化)および山東竜山文化に分かれている。
山東竜山文化は、前述したように黄河下流域を中心に存在した大汶口文化に続いて現れている。これは「江北」の話である。
一方、河南竜山文化は黄河中流域に存在した仰韶文化に続いて登場している。これは「江北」の話ではない。
つまり、
竜山文化は、黄河中流域では仰韶文化に続いてその影響も残しつつ登場し、黄河下流域では大汶口文化に続いてその影響も残しつつ登場している。
それでそれぞれの特徴を対照させているのである。
私は、こうしたことの背景には「都市の発生と都市のネットワーク化」ということがあった、と考える。
「都市の発生と都市のネットワーク化」が、それぞれの地域特性を残しながらも都市間の交易が可能となる共通性を拡散していった。
それは、次の青銅器時代に都市国家を群立させる国家体制を萌芽させる土壌となった。
ここでおさえておきたい基本的で重大なことが2つある。
1つは、日本の教科書では、農耕集落が大きくなり統合されて「くに」ができそれが「国」になった、その過程で「市」が生まれそれが最終的に「国」が国衙や一宮をおく「都市」に発展した、と印象づけられる。つまり、「国家」が生まれた後に「都市」ができた、とも解釈されがちだ。しかしそれは事実に反する。事実は「国家」ができる前に「都市」が生まれていた。
中国の場合は、農耕や牧畜をして自給自足する共同体が分布していて、自給自足を共生するべく物々交換をする「市」が立ち、これが生存のために必要最小限の「最寄り品」を扱ったとするならば、やがて生活を文化的に豊かにするための「買い回り品」を扱ったり、余剰産物を交換価値の不均等を利用して「交易品」として取引する「都市」に発展する。城塞化した「都市」が「くに」になり、さらに群立した「くに」をネットワーク化して統合支配する「国」=「都市国家」が成立する。
つまり、明らかに「都市」が先に生まれて「国家」に帰結している。
これに対して、日本の教科書で印象づけられているのは、あくまでヤマト王権という「領域国家」ができた時にその制度下にある形で「都市」が生まれた、という話なのである。
実際にそういう経過があったのではあるが、それは「都市」の形成パターンのごく一部でかつ最終経過なのにまるでそれが全部のように印象づけている。
じつは、こうした言わばヤマト王権による中央集権型の「都市」形成パターンに全くはまらなかったのが「出雲」だった。
出雲大社建立以前の「出雲」は、環日本海交易ネットワークのハブ拠点として、むしろ中国的な「都市」形成パターンを経た「都市国家」だった。
しかも日本で「出雲」のような「都市国家」が登場するのは青銅器文化の弥生時代であって、縄文時代には、「都市国家」の前段階と言える「交易都市」としてその前期中頃から中期末葉の大規模集落跡である青森の三内丸山遺跡をみるくらいである。
ちなみに、縄文時代晩期(前4世紀)に北九州に登場する環濠集落は、水稲農耕とともに大陸から進出してきた新しい集落の境界施設であり、交易を主体とする都市とは言えない。「交易都市」や「都市国家」を重商主義・交易主義とすれば、あくまで農本主義と言える。
ヤマト王権のパラダイムは国内的にはあくまで農本主義であるから、環濠集落などの農耕集落にその由来を求める物語はきわめて自然な印象をもつ。一方、「出雲」のパラダイムは重商主義・交易主義であり、ヤマト王権としては古事記などを通じてあくまで反主流に印象づける必要があった。
いま1つは、どうして中国大陸でも日本列島でも、「市」が自然発生的に立つ素朴な段階から、高度に文化的な交易をする「都市」が形成される段階にシフトしたのか、ということである。
近隣との物々交換も遠隔地との交易も旧石器時代からあったが、新石器時代にはそれらを文化的に高度化した何かが生まれた。
それは「新しい貨幣」である。
物々交換やそれによる交易が発展してくると、物資の交換に伴う不便を取り除くための代替物が使われるようになる。これを物品貨幣(自然貨幣)または原始貨幣と呼ぶ。
物品貨幣は、貝殻や石などの自然貨幣、家畜や穀物などの商品貨幣に分類される。
物品貨幣の登場は旧石器時代にまで遡るが、早い段階ほどそれぞれの地域でその地域で価値を通じ合える価値代替物が用いられたために、一つの物品貨幣が通用する領域は限定された。それが新石器時代の終盤から青銅器時代にかけて、穀物が農耕共同体の自給自足需要を上回って余剰生産されるようになって「都市のネットワーク」において物品貨幣化した。
穀物という物品貨幣の特徴は、地理的に広い範域で通用するという空間性能だけではない。「最寄り品」の商いにも「買い回り品」やその原材料の交易にも、さらには租税や奉禄といった「国家」を成立させる財政にも利用できるという汎用性ある場面性能がある。
私たち日本人は、租税や奉禄が何万石というと、必ず米と思ってしまうが、古代中国では粟も「国家」に同様に用いられた。有名な話としては「楚王が伍子胥の首にかけた懸賞が、粟何万石の大臣に取り立てる」というものがある。楚は華中であり稲作が中原より先行した筈だが、雑穀主体だった中原では殷の「都市国家」群立の時代の前の夏の時代から「都市のネットワーク」が発生し粟が物品貨幣に用いられていた、ということではなかろうか。
いな、粟のような空間性能と場面性能を併せもった物品貨幣の登場こそが「都市のネットワーク」を発展させたと考えられる。
中国の「都市」が「市」が城塞化したものだとすれば、そこには自衛する軍隊が組織され、「都市国家」間の攻防では軍隊が遠征したから兵糧が重要戦略物資だった。そして兵糧の主食は、ほぼどこでも生産できるアワのような雑穀から展開したと考えて自然である。
黄河流域の新石器文化は、
いわゆる黄河文明=仰韶文化の影響をうけた黄河中流域と、
長江文明の影響をうけた黄河下流域の2つの新石器文化が
「竜山文化の類型」群としてネットワークして発展した。
ここに、
南北で対峙した黄河文明vs長江文明の構図は、
時代が下るとともに黄河の下流域→中流域→上流域の対峙ではなく連携の構図に展開していった、
と概観できる。
新石器時代を中国と日本と繋げて考える上で、このことはとても重要である。
ざっくり言えば、
中国大陸の文明文化拠点と日本列島の関係性は、
当初は、後期旧石器時代の延長で中国北部(華北)と日本列島、中国南部(華南)と日本列島、関係性の有無も含めてこの2系統の関係性として捉えるべきである。
同じ植生の中国南部(華南)と日本列島において森の民の穀物栽培や土器作りが先進的に発達したことは、黒潮つながりを考え合わせて関係性の必然性と可能性を推察させる。
この時期は中国と日本で文明文化の発達度合いに落差はなかった。
ヒプシサーマル期は、黄河中流域(華中)と日本列島、長江下流域(華中)と日本列島、関係性の有無も含めてこの2系統の関係性として捉えるべきである。
世界最古の稲作遺蹟と言われる河姆渡遺跡と同時期から日本で展開した狩猟ないし漁撈を並行する「稲作もする網羅型農耕(複合型)」は、中国の「畑作牧畜民」の狩猟を並行する「雑穀主体の網羅型農耕」と近しいものだった。
この時期も中国と日本で文明文化の発達度合いに落差はなかった。
ヒプシサーマル期の後の3000年前以降は、黄河中流域(の中原)と日本列島、黄河下流域(の江北)と日本列島、関係性の有無も含めてこの2系統の関係性として捉えるべきである。
3000年前頃に、長江下流域から「稲作漁撈民」が日本列島に向けて渡海したのを最後に関係性は2系統ともに希薄になっていく。しかも、長江下流域は、日本列島側からすれば稲作文化の先進地ではあったが、中国大陸では文明文化の発達度合いが停滞したエリアとなっていた。「稲作漁撈民」の日本列島に向けての渡海も、北方先進地からの圧迫(戦乱や国家支配)を逃れての大陸離脱だった。
この時期以降、中国と日本で文明文化の発達度合いに落差が拡大していった。
それは、日本列島において、中国内陸部で展開した都市の発生や都市の交易ネットワーク化や都市国家の形成が、「出雲」のような例外を除いて全体的に展開しなかったということでもある。
日本の教科書では、弥生時代に大規模な灌漑施設をともなった水稲耕作をする集落が勢力を増して他を従えてそれが国家のもとになる「くに」を形成しやがて「国」になっていった、といった印象づけられる。
しかし、そのようなことが実際に自然発生したかどうかは疑わしい。
中国大陸ではそのようなことはなく、農耕や牧畜の共同体である集落群の分布とは別途、都市が発生し、都市群が交易ネットワークを形成していく。それが都市国家が群立する形の国家に展開していく、という経過を辿っている。さらにそれが領域国家になるには農民の個々を国家が直轄支配する体制になるのを待たねばならない。
日本の場合、なんとなく縄文時代の集落が弥生時代の稲作重視の集落になり、その拡大勢力が豪族になりそれを束ねる「くに」になり、「くに」を統合した勢力が大陸由来の支配体制を導入して「国」になった、それも中国大陸の経過に比べれば圧倒的に短期間で、という理解が常識化している。
しかしそれは、そういう物語をヤマト王権が共同幻想化した成果ではないか。
「都市のネットワーク」のベーシックとしての竜山文化の類型的展開
最後に、中国大陸における都市の発生や交易ネットワーク化や都市国家への展開を、文化的な側面から検討して本項(3)を終えたい。
先ずはすでに触れた、青蓮崗文化が揚子江の北と南に分かれた後の江北での展開について検討しよう。
「江北では青蓮崗期から劉林期に、さらに花チョウ期へと推移し、彩色土器は次第に減少し、文様も拙劣になる。
そして大汶口文化(山東省寧陽県大汶口鎮)に転化するが、その大汶口文化の晩期(後期である紀元前3000年 - 紀元前2600年の末)になると、三つの袋状になった足をつけた鬹(き)や、卵殻のような薄くて光沢のある黒陶が出現する」
そして、竜山文化はこうした大汶口文化から影響を受けた。
「青蓮崗文化は、仰韶文化とはことなって水稲耕作をしていた」
大汶口文化の特徴のベースには水稲耕作と米食の文化があり、竜山文化は水稲耕作の生活文化を受け入れて影響を受けたということである。
A文化の方がB文化より発達していたとして、B文化が追いつき追い越せとばかりにA文化を模倣するだけなら自然の成り行きである。
しかし、B文化が導入したA文化が拙劣になり、それでもB文化がA文化の影響を受けたと言われると、話はややこしく自然の成り行きとは言い難いパラダイムの転換を求めねばならない。
それがこの、長江文明の青蓮崗文化→大汶口文化→新黄河文明としての竜山文化、という展開に見られる。
考えられるのは、A文化とB文化にパラダイムの異なりがあって、それゆえにB文化はそのパラダイムにおいてA文化の先進性のある部分を排除して他の部分を選別的に受容した、という展開である。
たとえば竜山文化において彩色土器が次第に減少し文様が拙劣になったのは、装飾主義から実用主義へ、という価値転換と解釈することができる。
三つの袋状になった足をつけた鬹(き)の出現にも、実用主義の延長にある機能主義を見てとれる。
さらに卵殻のような薄くて光沢のある黒陶の出現にも、実用主義を極めるべく土器づくりを工夫する技術向上への志向性を見てとれる。
実用と技術の普遍性を踏まえた交易主義への傾倒とも解釈できよう。
こうした経過は、日本列島においても縄文土器から弥生土器への転換で活発化している。縄文時代になかった部族内の階層格差や部族間の戦争が弥生時代に生じた一因を交易の活発化に求めることもできよう。
それと同様の社会変化が中国でもあれば、当然、具体的な合理性や効率性が求められるようになった筈である。
交易主義への傾倒を契機にして、
文化的遺伝子のモードが
内向きの「技術の受容と継承」から
外向きの「技術の進取と革新」へと変異した、
と言ってもいいだろう。
新石器時代、黄河文明にむしろ影響を与える先進性をもった長江文明だったが、後世、華中の楚(湖北省・湖南省を中心とした)は、中原(黄河中流域)の国々から蛮族とみなされるという文化的逆転が生じる。
その遠因はこのあたりにあったのかも知れない。
「江北の山東竜山文化」は、水稲耕作をベースとする生活文化を、雑穀栽培をベースとしていた黄河中流域に展開していく起点になった。
つまり、南の華中からの「技術の受容継承」では終わらずに、西の中原に向けた「技術の伝播普及」も担った。その担い手は商工に携わり移動を生業とする交易民だった訳だが、彼らは「都市のネットワーク」という市場社会を前提に「技術の革新進化」を進めていく。
とても素朴な農耕集落の自給自足から転換したこのような都市的条件下で文化的遺伝子が突然変異した、と考えることはきわめて自然である。
そしてこの新遺伝子が黄河を遡って中原に向かっていき、夏から殷へと連なる都市国家文明である新黄河文明を形成していく。
そして、華中を蛮族の地とする文化的逆転に帰結していく。
ということは、新石器時代の間は華中の江南と華南ではそのような文化的遺伝子の突然変異はなく、新遺伝子は受け入れらないままとなり、もともとの文明文化の発達度合いのままで良しとする「技術の受容継承」のみが展開したということである。(華中が文化的に再逆転するのは楚が覇者となったのち呉越が競う後世を待たねばならない。)
「竜山文化が成立するためには、たんに晩期の仰韶文化だけではなく、揚子江流域や山東南部の文化が影響を与えたといわねばならない」
と著者が述べる「山東南部の文化」とは、山東竜山文化のことではなかろうか。
竜山文化は、
「1930年に山東省歴城県竜山鎮の発掘によってはじめて発見された。ここには彩色土器が見られないかわりに、卵殻のように薄く黒色で光沢のある見事な土器や、淡い黄色で注ぎ口と三つの袋状の足と把手のついた鬹(き)とよぶ土器、青銅器に似て灰褐色をした 鬲 (れき)や 甗 (げん)といった土器が発見された。
そのほか特異なものとして、卜占に使用した動物の肩甲骨もあった。これはすでに学界に広く知られていた殷代の甲骨文を彫った卜骨にむすびつくものである」
「竜山文化の特色といわれた光沢のある黒色土器は、じつは竜山文化のなかでも山東省を中心として分布する典型的類型-----山東型というべきもの----」と判明している。
「竜山文化が、晩期の仰韶文化から廟底溝第二期文化を経て成立したものである」とも判明している。
「廟底溝第二期文化は早期竜山文化ともよばれるが、仰韶文化から竜山文化へいたる中間の文化で、竜山の要素が強い」
著者は、
「したがって仰韶文化と竜山文化は東西に対立する異質の文化ではなく、じつは仰韶文化の中から竜山文化が生まれたのである」としている。
これは、仰韶文化晩期を継承した紀元前3000年頃の「竜山文化の成り立ち」を捉える論述であって、「成熟した竜山文化が周囲に影響を与えた経緯」については別途、論じられねばならない。
著者は
「竜山文化の地方的な類型の間の時代的・内容的な関係はまだ詳しいことが明らかにされていない。今後の研究課題であるが、年代的には、少なくとも前2300年ごろから前1800年まで黄河流域に存続していたことが、放射性炭素の測定によって知られている」
としている。
よって、「成熟した竜山文化が周囲に影響を与えた経緯」は前1800年より前のことになる。
それは、夏王朝が紀元前1600年頃に滅ぶ前のその末期、紀元前17世紀頃に殷が興る前のことになる。
ちなみに黄河上流域の
「西北の甘粛・青梅地方では、(筆者注:仰韶文化のあとに)竜山文化がこの地域までひろがり、斉家文化(甘粛省康楽県半山遺蹟が代表)とよばれる文化となる。
この文化は、時に簡単な青銅器を出土することがあり、黄河流域の殷文化と同じ年代まで存続したと考えられている。
これらの各地の竜山文化は、地域ごとにそれぞれ特色をもって分かれながら、広く黄河・揚子江両流域に広がり、殷文化の形成とその広がりを準備した」
と著者は結論している。
斉家文化は、仰韶文化の後の時代である紀元前2400年頃から紀元前1900年頃まで存続した、新石器時代末期から青銅器時代初期の文化とされる。竜山文化の存続時期とほぼ一致する。
この点は著者の述べる「黄河流域の殷文化(紀元前17世紀頃に殷が興る)と同じ年代まで存続したと考えられている」と一致しない。
この不一致は、人口減少を理由に斉家文化が西から東に縮小したことと関わるのではないか。
つまり、西方で人口減少による都市国家の衰退とともに都市国家的性格を失って終焉し、東方ではその後も都市国家のベーシックである竜山文化をその地方で担うものとして都市国家的性格を維持し存続した、ということではないか。
なお竜山文化全体の実質は、殷の都市国家文化に吸収され、後の領域国家の台頭によって国家経済体制とともに市場や交易を再編されるにおいて、吸収ないし変容ないし排除された、と捉えるべきだろう。
斉家文化は、東は陝西省の渭水上流に及び、西は青海省東部の湟水河流域に、北は寧夏回族自治区および内モンゴル自治区に及ぶ。
遺跡の数は300か所以上で、斉家坪遺跡のほかに甘粛省永靖県の大河荘遺跡と泰魏家遺跡、武威市の皇娘娘台遺跡、青海省海東市楽都区の柳湾遺跡などがある。青海省民和回族土族自治県の喇家遺跡もこの文化との関係があるとみられている。
夏や殷は、領域国家ではなく孤島のような都市国家を群立させる体制だった。
多数の遺蹟は、つまりは遺蹟の分散は、そうした事情を反映しているのではなかろうか。
斉家文化は、末期には西から東へと縮小し人口の減少に苦しめられた、とされるのも、群立する都市国家の衰退ということだろう。
斉家文化の陶器で主要なものは黄色陶器で、紋様が表面に描かれており中でも縄紋が多い。
おそらく「都市のネットワーク」の一翼を担う文化であることを先端的な土器である陶器が象徴し、黄河上流域では黄色陶器と縄文が黄河下流域との差別化を示したのだろう。
アワ類が陶器から発見されており、農耕文化があったことがわかる。アワなどを栽培するのは仰韶文化の影響を受けたものと考えられる。黄河上流域では中・下流域以上になかなか稲作文化重視とは行かなかったのだろう。
このほか、大量の動物の骨が見つかっており、動物を飼い馴らしていたこと、動物の骨を焼いて占いを行っていたことがわかる。馬の飼育の痕跡はこの文化の遺跡で広く見られる。「牧畜栽培民」および「遊牧民」の文化を重視したのだろう。
また銅と錫の合金である青銅の器物が発見されただけではない。青銅に先行する銅も、銅鏡などの装飾のみならず道具作りに使われていた。銅で作った器物がすでに出現している。
新石器時代から青銅器時代への移行期は、石器とともに銅器が使われ始めた時代であることから以前は銅石器時代と呼ばれていたが、斉家文化は殷の青銅器文化に先行してそういう文化を展開していた。
斉家文化の墓地と村落も発掘されている。大多数の墓は一人用であったが、成年男女を合葬したものもあり、合葬されている男性は仰向けで四肢をまっすぐにし、女性は体を折り曲げた状態であった。墓中からは多数の石器や陶器が陪葬品として見つかった。
さらに地上には宗教建築のような石造の建築物もあった。原初の「交易都市」は宗教的な祝祭の行われる「祝祭都市」の性格を帯びていて、交易立国の殷の「都市国家」ではそれが集客性を実現していたのかも知れない。
私個人的には、出雲大社建立以前の「出雲」もそうした「交易祝祭都市」だったと考えている。(参照:「出雲大社への旅の道すがらの雑考(7:結論 その5 仮説総括/前半)」http://cds190.exblog.jp/22729362/)
斉家文化が人口衰退によって西方から東方に縮小したという経過は、殷が周に滅ばされた後も東部において遺殷勢力が活発だったという経過に重なる。
両者の背景は異なるものの「交易都市」も交易立国である「都市国家」も交易需要が生命線であり、交易需要が西方で減衰し東方に残存したという構造変化だったと考えられる。
ちなみに、竜山文化の特徴である陶器の技術の高さを誇る、黒陶陶器に磨きをかけて黒光りさせるか精細な文様を彫り込んだ卵殻陶は、黄河流域のみならず長江流域や中国の南部海岸付近でも発見されている。
竜山文化の類型的な広がりにおいて、
西北の斉家文化の黄色陶器と、
南東に広がった黒陶の卵殻陶とは
対照的である。
しかし、どちらも「都市のネットワーク」を背景にして成立したと考えられる。
竜山文化における陶器の生産の効率の上昇は、出土する陶器の数や種類が前の文化に比べ増大したことにもみられる。
鼎や鬲、鬹、高柄杯など、調理器や食器として使われた多様な黒陶・灰陶の陶器が出土している。
陶器のほか、石包丁など石器や骨器などの武器や道具、翡翠などの玉なども出土している。
竜山文化の後期には青銅器も出現しており、殷代・周代(あるいは殷の前にあったとされる夏代)の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。
こうした状況は、日本の縄文時代ではなくて弥生時代にこそ匹敵する。
竜山文化の社会に現れた大きな変化は「都市の出現」である。
初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。これは、仮設的だった市を常設化する都市化に他ならない。
また土を突き固めた城壁や堀が出土している。特に山西省襄汾県の陶寺郷の南で発見された陝西竜山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は竜山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった。これは都市の城塞化であり「都市国家」化につながっていく。
農業や手工業の発達も特徴である。陝西省の渭河周辺では農業と牧畜業が仰韶文化の時期に比べ大きく発展している。コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始も確認されている。これは社会の「市場社会」化であり、それを踏まえた「交易都市」化とそのネットワーク化が展開した。
つまりは、「都市の出現」と「都市のネットワーク化」が商工業を発達させ都市同士は交易ネットワークを形成していった。
竜山文化は黄河流域の地形に合わせて、中原の河南竜山文化、渭河沿いの陝西竜山文化、黄河最下流の山東竜山文化など地域ごとにさまざまに分化しており、特に後期になると分化が明確になる。
渭河沿いは後にシルクロードと呼ばれる西域への交易路の起点であり、中国の歴史の中心の一つとなった。
それぞれの地方が市場社会として個性化していったということであり、それにより交易と商工業がより発展した。
動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まっており、宗教も出現していたとみられる。
農業などの発達により、社会の生産に余剰が生まれ、私有財産が出現し社会の階層化が進み、父権制社会や階級社会が誕生した。
中国の新石器時代の人口は、竜山文化で一つのピークに達したが竜山文化の末期には人口は激減した。同時に墳墓の副葬品から高品質の卵殻陶・黒陶なども見られなくなった、という。
「社会の成立過程を中国と日本と繋げて考える(4)」
http://cds190.exblog.jp/22965263/
につづく