縄文時代から弥生時代への移行をめぐる論題(5:結論) |
(4)
http://cds190.exblog.jp/22545694/
からのつづき。
(完)
日本人にパラダイム転換発想あり
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2014年 11月 11日
(4) http://cds190.exblog.jp/22545694/ からのつづき。 「倭人」概念の4者を「転住民」「移動民」「定住民」という観点から捉える ①朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とする縄文人交易民 これは、家族が暮らす母港を起点として生産拠点や消費拠点などの定住拠点同士を行き来する「移動民」である。 活動海域を比較的狭い海域に限定する①の「倭人」=「倭人」は、黒曜石の大陸との交易や翡翠の全国的な流通などに関わった一般的な縄文人交易民からすると、いわば「海の定住民」と言うべき例外的な存在と言える。ただしその「海の定住圏」は、日本列島と朝鮮半島の「境界域」であり、「境界域」を日常的に頻繁に行き来した①の「倭人」=「倭人」は「境界人」性を帯び、後世に渡りその特徴として発揮した。 ①の「倭人」=「倭人」は、朝鮮半島の騎馬民族の「濊(わい)人」が日本列島に征服王朝を建てることを全面的にバックアップするが、それは「境界人」性の最大の発揮だった。 その際、「濊(わい)人」の南九州上陸(天孫降臨)、陸戦隊・海戦隊として養兵する(日向三代)ための縄文人である「熊襲」「隼人」の取り込み、黒潮にのっての一気の海上東征(神武東征)は、西日本の海上交易民でもある「境界人」ならではできる貢献だった。 その際、 「濊(わい)人」の転戦拠点に同行したものは「転住民」化し 「濊(わい)人」の征服王朝樹立後も畿内に留まったものはそこで「定住民」化した(大伴氏や倭氏)。 ②殷遺民の「商人」が朝鮮半島北部東岸で遠隔地交易拠点を形成しそこから島根半島に渡来した「出雲族」 これは、殷(商)の遺民が流浪の商人(行商や露天商)となりその一部が朝鮮半島北部東岸に至り、そこで環日本海に向けた遠隔地交易拠点を形成し、その一部の(オオクニヌシに象徴される)交易ビッグマンが本州に渡海して島根半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を構築してその盟主となった、それに率いられた遠隔地交易民である。 大陸からもたらされた日本最古の青銅器が鳥海山の山麓から海に突出した三崎山から出土していることから、青銅器を主要交易アイテムとした②の「倭人」=「出雲族」は、島根半島西部の中海に交易拠点を設ける前に、後に庄内平野となる中海に交易拠点を設けた可能性がある。 ②の「倭人」=「出雲族」は、新拠点開拓型の「転住民」であったと言えよう。 彼らの交易の特徴は、中国の都市市場の「交換」経済に、日本列島の部族社会の「贈与」経済を接続するところにあった。(オオクニヌシに象徴される)交易ビッグマンは、島根半島西部のハブ拠点の後背地経済圏を形成すべく、主要交易品目の生産拠点をネットワークしてまわった。それが後にヤマト王権から「国造り」と称される。その手法は部族社会の「贈与」経済にのっとり、(神話にあるように)生産拠点の首長の娘を娶って回るというものだった。 この交易ビッグマンによる全国遍歴も新拠点開拓型の「転住民」のものであった。 最終的にヤマト王権初期勢力の圧力を受けて、島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点と日本列島内の主要交易品目の生産拠点のネットワークを解消する。それがヤマト王権から「国譲り」と称される。しかしその実態は、本来の新拠点開拓型の「転住民」性を温存してどこかに行ってしまったということである。 そもそも、殷滅亡において発生したその商人化した遺民であり、脱国家主義の自由貿易を、中国の都市市場の「交換」経済に、日本列島の部族社会の「贈与」経済を接続する遠隔地交易によって具現化してきた②の「倭人」=「出雲族」である。ヤマト王権に下ってその管理貿易をするつもりはなかった。 ちなみに、オオクニヌシ的な交易ビッグマンは(後にヤマトタケルに成敗されるイズモタケルを例外として)去ったが、傀儡化した「出雲族」の一派が、畿内でヤマト王権の外戚となり、国府のおかれた島根半島東部で「出雲国造家」として管理貿易の全国からの集荷と航海船の出る壱岐への中継という現場実務を担った。しかしこうしたヤマト王権の支配に下った「出雲族」は「定住民」となったのであって、本来の②の「倭人」=「出雲族」の新拠点開拓型の「転住民」性は失ったと言える。 ③呉の遺臣が五島列島に逃れて海上交易民となり渡来して北部九州を拠点とした「安曇氏」 これは、高度化していた呉の水軍の遺臣の一部が軍船で逃れ、その海上輸送能力によって海上交易民に転じた。ただしサバイバルのための拠点を五島列島に、そして北部九州に開拓し、さらに後世、そこを失って全国の「アズミ」に似た地名の各地に交易拠点を求めて分布するなど、一貫して新拠点開拓型の「転住民」であった。 ただし、 ②の「倭人」=「出雲族」が脱国家主義の自由貿易にこだわったのとは真逆で、 ③の「倭人」=「安曇氏」はもともと遺臣で「領域国家」を前提とし国家主義の管理貿易を独占することにこだわり、一貫して政商型の交易民となっている。 前漢が朝鮮半島の直接経営に乗り出した時からそうした志向性があったと考えられるが、史実として表面化したのは後漢からで、結果的に自立化した公孫氏帯方郡の出先機関として北部九州に「くに」を建てた(「伊都国」「奴国」「一大国」)。 後漢から魏に代わり、公孫氏滅亡とともに立場を弱めるが、「濊(わい)人」が難航する神武東征を好転させた功労によって、樹立されたヤマト王権において交易利権と軍需装備品の調達利権を得る(「物部氏」「肩野物部氏」)。功労とは、ともに魏を仰ぐ同盟関係を利用しての「邪馬台国」の宰相の謀殺だった。それは、政商型の交易民ならではの機を見て敏なる起死回生だったと言える。 ①の「倭人」=「倭人」は、「濊(わい)人」を全面的にバックアップして樹立されたヤマト王権において交易利権を独占する予定だったが、結果的に③の「倭人」=「安曇氏」とシェアする形になった。 北九州沿岸の縄張りを拡張する筈だったが縄張りは従来通り西部九州に留まり、従来通り北部九州の③の「倭人」=「安曇氏」と競合する形のままとなった。 ヤマト王権樹立後、①の「倭人」=「倭人」が九州に留まったものと、畿内中央に留まったものに分かれたように、③の「倭人」=「安曇氏」も北部九州に留まったものと、畿内中央に留まったものに分かれた。 しかし、①の「倭人」=「倭人」が九州に留まったものが中央に離反してやがて九州豪族となったのに対して、③の「倭人」=「安曇氏」は一貫して連携して中央に従った。磐井の乱で離反者がでて綻びが出たためだろう。北部九州の拠点を失い全国の交易拠点に分布することになるが、政治的処分を受けながらも経済勢力としてはヤマト王権の律令神道体制において温存された。 私個人的には、 全国区の通行特権を得て天皇への初物貢納を担った「贄人」は、実態的には主要交易品目を全国から集荷し壱岐などから海外へ輸出する、それで得た輸入品を利益源泉とした天皇の私経済の総合プロデューサーだった そんな政商的な役割をネットワーカーとして担うことができたのは③の「倭人」=「安曇氏」以外にはいなかった と考えている。 ①の「倭人」=「倭人」(特にヤマト王権樹立後も九州に留まったもの)は、朝鮮半島南端と北九州沿岸に挟まれた海域を縄張りとする「海の定住民」であるのに対して、 ③の「倭人」=「安曇氏」は、縄張り海域にこだわらず、本拠を適宜に移していった。 両者の違いはそれに留まらない。 ①の「倭人」=「倭人」の「境界人」性は地政学的背景に依拠するものだった。よって、ヤマト王権樹立後も畿内に留まったものが渡来人人材を朝廷や地方豪族に斡旋する場合も、誘致対象は地縁血縁でカバーできる朝鮮に限られたと考えられる。 これに対して③の「倭人」=「安曇氏」は、呉を滅ぼした越が滅んだ時にその遺民の稲作民を越(こし)に入植させたことから、ヤマト王権樹立後の畿内に留まったものの渡来人人材の朝廷や地方豪族への斡旋まで、誘致対象は遠く中国に及んだ。こうした③の「倭人」=「安曇氏」の特性は、知識労働者としての職能に依拠するものであり、「境界人」性というより極東における「グローバリスト」性と言うべきだろう。 ④匈奴に同行し離脱し北陸に上陸し「くに」ぐにを建てた渡来産鉄民「テュルク族」 これは、匈奴に同行し離脱して渡来したことから、そして鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」を建て鉄資源を求めて移りまた「くに」を建てを繰り返したことからも、民族全体を長いタイムスパンでみれば新拠点開拓型の「転住民」であったと言える。 日本列島では基本的に少数民族であったから、鉄資源の採掘には縄文人を労働力とした筈で、④の「倭人」=「テュルク族」自身は、鉄資源から鉄素材を生産し鉄素材から鉄器を製造した。そしてその鉄器を一部に用いた農具や猟具を媒介に縄文人の農耕民と狩猟民を支配管理したと考えられる。そうしたそれぞれの「くに」の支配層としては、縄張り支配型の「定住民」であった。 彼ら自身は交易民ではなかったが、「くに」ぐにの拡大にともない慢性的な鉄資源不足が続きその帰結として鉄資源奪い合いの内乱である「倭国大乱」が起きる。卑弥呼の共立によって収束したが、それは魏に朝貢交易をすることで魏から鉄素材を下賜してもらう政策への転換だった。 この朝貢交易の実務は、宇佐の地にあったと思しき「女王国」を集荷分配の交易中継拠点として行われ、ともに魏を仰ぐ、魏郡出先機関の長=「伊都国」長官の立場にあった③の「倭人」=「安曇氏」が補佐する形となった。 神武東征で「濊(わい)人」に降伏した④の「倭人」=「テュルク族」だが、直前に寝返って降伏を導いた一派がいた。 それがヤマト王権樹立後、傀儡化した「テュルク族」として外戚化し、大和地方でヤマト王権支配下の「定住民」と化している。 ⑤「濊(わい)人」が建てた征服王朝であるヤマト王権が<倭>とされたその民 これが、 ①〜④の「倭人」 =征服協力者の「倭人」と「安曇氏」、 被征服者であり傀儡化した「出雲族」と傀儡化した「テュルク族」 を支配層として含み、 一般的な庶民としての縄文人 を被支配層として含んだ 「和人」という全体集合 である。 ここには特異な事態が生じている。 それは、 征服者である「濊(わい)人」が 「和人」という全体集合に含まれていない ということである。 なぜそのような展開になったのか。 騎馬民族の「濊(わい)人」は、朝鮮半島では小国群から未勝目料をとって回って、自分たちは直接に民を支配せずに民を支配する「くに」から上前をはねる黒幕的な立場で二重支配をしていた。 基本的には、このやり方を日本列島に樹立した征服王朝でも展開した。 ただし、征服協力者の①の「倭人」=「倭人」と③の「倭人」=「安曇氏」の協力を得て「領域国家」の体裁を対外的・対内的に整えてしなければならなかった。 なぜなら、「領域国家」としての対外的な管理貿易を、対内的には実質的な天皇(大王)の私経済として行い、その上前をはねるという形にしなけらばならなかったからである。 朝鮮半島の「くに」ぐにでも、「濊(わい)人」は箕子王族から王を擁立してキングメーカーとして王室経済の上前をはねていたが、本格的な「領域国家」である後漢や魏の圧迫に抗しきれなくなっていた。樹立直後のヤマト王権は対外的に「領域国家」の体裁だけでも整えることが急務であった。降伏した「邪馬台国」に台与という女王を擁立して魏への朝貢をさせている。 対外的にも対内的にも文明文化後進の騎馬民族が前面に出ることは憚られ、被征服者ではあるが文明文化先進の、中国の都市市場との交易を展開する経済圏を構築した②の「倭人」=「出雲族」と、「くに」ぐにを建てて民を支配しその連合政府を構築した④の「倭人」=「テュルク族」のそれぞれの一派を傀儡化し外戚として取り込んで王朝の体裁を仕立てていった。 ここに、現代日本にまで連なる天皇制の出発点がある。 騎馬民族の「濊(わい)人」の継承形式は、首長層による首長交代制をとっていた。 一方、天皇制の継承形式は男系の世襲制であり、長男ならば直系、兄弟ならば傍系である。直系と傍系が半々であること、そして緊急避難的な女王の継承が例外的にあることは、騎馬民族も同じである。 何が本質的な違いかと言えば、首長層による首長交替制は、血統主義の世襲制ではないということである。 ヤマト王権が樹立した当時、すでに極東グローバル世界では「領域国家」が台頭し、その「領域国家」は王朝、つまりは血統主義の世襲制の男系の首長交代を原則とするものであった。 ヤマト王権が対外的に「領域国家」の体裁だけでも整えるということは、それが王朝国家であり、血統主義の男系の首長交代を原則(女王はあくまで緊急避難的な例外)とするものという体裁を整えるということに他ならなかった。これをしないでは、極東グローバルスタンダードから外れてしまうのである。 そこで初期ヤマト王権はどうしたか。 「濊(わい)人」のメタ首長たる族長は、首長層による交替制で選任されるから、血統主義ではなく、必ずしも前代の族長の子や孫が後代の族長となる訳ではない。 言わば「濊(わい)人」首長層の「法人」化であり、代表取締役社長の代替わりを、限られた首長層においてする同族会社のようなものを展開した。 この原理原則を天皇(大王)のキングメーキングにも応用した。 具体的には、「濊(わい)人」首長層の首長たちの男子たちに、傀儡化した②の「倭人」=「出雲族」と④の「倭人」=「テュルク族」の一派の女子たちを娶らせる。 天皇(大王)を交代する時には、首長層の内部力学と外戚勢力の外部力学を勘案して、どの首長の男子とどの外戚勢力の女子のカップルが天皇皇后にふさわしいかを検討する。選定は首長層で談合したのかも知れないし、族長に一任されたのかも知れない。 外戚勢力の女子の血統は公的に明示されているが、「濊(わい)人」首長層の男子の血統は非公開にして、表向きにはあくまで建前として前の天皇(大王)の子だと言い張って済ます。 私個人的には、 この継承形式が初期ヤマト王権において展開し キングメーカーとしての「濊(わい)人」首長層の勢力の衰退とともに解消した 記紀において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの「欠史八代」とはこの継承形式が展開した時代という想定ではないか また、中国の史書に日本の記述がなくなる「謎の4世紀」は、中国側の原則論からして王朝とはみなせないこの継承形式が展開した時代なのかも知れない と考える。 「濊(わい)人」の目的は、首長層が天皇(大王)の私経済から上前をはねることだったから、何らかの経緯によってそれができなくなった時期が、この継承形式が解消した時期であろう。 逆に言えばそれ以後は、 対内的には記紀において隠すべき事柄がなくなって事績(旧辞)が記されるべきと想定される時代となり 対外的には中国側の原則論からして王朝とみなしうる体制となって正史に記述が復活する時代となった ということではないか。 この継承形式は公然の秘密であった。 なぜなら、天皇の私経済の上前をはねる「濊(わい)人」首長層は、その一番の儲けどころが宮拠の移転にともなう公共事業であって、天皇(大王)が代替わりの度に遷都するのに同行して利益機会に密着したことは周知された筈だったからだ。 騎馬民族の「濊(わい)人」は、 朝鮮半島では小国群から未勝目料をとって回る「移動民」であったが 日本列島に上陸してから神武東征を経て畿内でヤマト王権を樹立するまで転戦型の「転住民」となり ヤマト王権を樹立してからは黒幕的支配者として擁立した天皇(大王)に密着する遷都型の「転住民」となった。 そして、 律令神道体制の戦略的コンテンツである記紀においても、この公然の秘密は明示されず暗示にとどめられている。 具体的には、 記紀には征服者「濊(わい)人」の名も、降伏させた「邪馬台国」や「卑弥呼」の名も出てこない のである。 全面的にバックアップした征服協力者「倭人」の名もストレートには出てこない。 征服者「濊(わい)人」は天孫族として暗示されるが、本来、それを全面的にバックアップした「倭人」が、海洋系縄文人の協力者を暗示する海神オオワタツミであるべきところを、記紀は敢えて海神オオワタツミを「安曇氏」の祖神としている。 「倭人」を暗示する話は、「倭氏」の祖神が神武東征の畿内上陸直前に水先案内人として登場する話にとどめられている。 律令神道体制の戦略コンテンツである記紀は、「領域国家」の内実を対内的に固めるものだった。 太政官と神祇官の二官制という日本型の律令体制において、 「大和」が農本主義とそれに密着した律令神道体制という 言わば信仰文化のソフトパワーを重視した日本型の「領域国家」として固まり、 その民「和人」が日本型の臣民「日本人」として具体的に標準化された。 つまりは、 律令神道体制に従う「和人」が「日本人」であるという原則が確立し それは今日の私たち「日本人」の心性において確固たるものとなっている。 (律令神道体制が全国津々浦々一貫した「領域国家」となった時に、 「大和」は「日本」に 「和人」は「日本人」に、 そして 「和語」は、和語を土台に漢語を混交遣いする「日本語」になったと言えよう。) 記紀、特に『古事記』の神話において、注目すべき心理的効果が発揮されている。 それは、 (1) 日本型の「領域国家」の土台となる稲作民である「定住民」こそが最善で (2) その支配管理から免れたりその支配管理域に侵攻してくる「移動民」は悪で (3) 新拠点開拓型や転戦型の「転住民」は必ずしも悪ではないが最善ではない という印象の刷り込みを繰り返している ということである。 (もちろん、征服者「濊(わい)人」は降臨した天孫とされるから、 「濊(わい)人」が騎馬民族として「移動民」だったことや 征服王朝樹立に際して転戦型「転住民」であったことや ヤマト王権樹立後に天皇に密着した遷都型「転住民」であったことは きれいさっぱり捨象されている。) (1)は直接的には物語られる訳ではない。 (2)と(3)の超ネガティブな印象を身体感覚をともなった情緒、ないし情緒をともなった身体感覚に訴えることを繰り返すことによって、 いわば消去法によって、やっぱり(1)が一番いいなと読む者聴く者、あるいは舞として見る者が誰に教わるでもなく自分自身で無自覚的に納得するように仕向けている。 具体的に例解しよう。 (2)「移動民」は悪である ことを印象づけている物語としては、 ◯高天の原から葦原の中津国に降り立った「移動民」スサノオ ・高天の原では兄を殺してしまって追放される ・葦原の中津国に降り立ってすぐ宿を提供し食事を出してくれたオホゲツヒメを殺してしまう (八岐大蛇退治をしてクシナダヒメを娶って宮を建てて暮らして「転住民」となる 後に宮をクシナダヒメの両親に譲って去り根の堅洲国に移りそこで「定住民」となっている) ◯妻を探し求めて旅する「移動民」八十神 ・騙したサメに毛をむしられ因幡の白兎に傷口に塩を塗るような治療をアドバイスして酷い目にあわせる (後から通りかかったオオクニヌシ=オオナムチが適切な治療を教えて助ける) ・末っ子のオオクニヌシを奴隷扱いした兄たち八十神が、娶りたかったヤガミヒメがオオクニヌシの妻となったことに嫉妬して、オオクニヌシを残酷な方法で二度も殺した (オオクニヌシはスサノオのいる根の堅洲国に逃れて「転住民」となる スサノオの娘のスセリビメを妻として葦原の中津国に戻る 「移動民」八十神はオオクニヌシによって山の裾や川の瀬という「境界域」に追いつめられる=「移動民」は「境界域」を活動領域とすることを暗示) ◯父に疎まれて西征東征させられた「移動民」ヤマトタケル ・西征では熊襲タケルと出雲タケルを騙し討ちしている ・東征では異郷の地で同伴した妻を失い自らも致命傷を受け妻のもとに戻れずに客死している (「移動民」ヤマトタケルの不幸は、父に疎まれたことは原因であって、 様相としては「境界域」を活動領域とする転戦移動の人生を送らされたことである) (3)「転住民」は必ずしも悪ではないが最善ではない (オオナムチとして八十神に二度も殺されスサノオのいる根の堅洲国に逃げたまでは、オオクニヌシは目的を持たない「移動民」だった。 「転住民」となったのはスセリビメを連れて脱出する際、スサノオに大国主になれと言われてそれを目的としてからである) ◯根の堅洲国から葦原の中津国に戻って「国造り」に励んだ「転住民」オオクニヌシ ・主要交易品目の生産拠点をめぐり首長の娘を娶って回って後背地経済圏を構築するも、その目的と意義を理解せずに嫉妬に狂うスセリビメに恐怖して逃げる ◯オオクニヌシとともに暮らそうとした「転住民」の妻たち ・スセリビメは夫オオクニヌシの妻として心労が絶えなかった ・オオクニヌシのもとに呼び寄せられたヤガミヒメは 激しく嫉妬するスセリビメに怖れおののいて実家に帰った (一番楽チンだったのは、妻となっても実家にいたままの「定住民」ヌマカワヒメだった だが、ヌマカワヒメとオオクニヌシの子、タケノミナカタはオオクニヌシのもとで暮らして「転住民」化。「国譲り」の際に一人抵抗してタケノミカヅチに一捻りで撃退され諏訪に逃げ、一生そこから出ないこと=「定住民」化を条件に許されている) ◯「国造り」をした挙げ句に「国譲り」をさせられた「転住民」オオクニヌシ ・オオクニヌシは交易ビッグマンだったことは明示されず暗示にどどまる 島根半島西部には環日本海交易ネットワークのハブ拠点がありその盟主だったという印象は払拭されていて、代わりに信仰拠点がありその主宰者であったかの印象を与える物語となっている (幽冥界の主、幽事の主宰者となり、超高層信仰構築物=出雲大社の建設の約束をとりつける オオクニヌシに同行して「国造り」に協力した「転住民」スクナヒコナも、草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなどの説話が存在し、とらえどころのない退場の仕方をしている ともに存在について根無し草的な不安定感を印象づける効果がある) 以上のような物語展開によって、 (2)「移動民」と(3)「転住民」の超ネガティブな印象を身体感覚をともなった情緒、ないし情緒をともなった身体感覚に訴えることが繰り返され、 いわば消去法によって、やっぱり(1)「定住民」が一番いいなと読む者聴く者、あるいは舞として見る者が自分で無自覚的に納得するように仕向けている。 何も、記紀神話の全編を精緻に読んだり聴いたり舞として見たりする必要はない。 超ネガティブな映像が目に浮かんで震撼するような読みかじり聴きかじり見かじりで、期待される印象づけ=洗脳が達成される。 ⑤「濊(わい)人」が建てた征服王朝であるヤマト王権が<倭>とされたその民 これが、 ①〜④の「倭人」 =征服協力者の「倭人」と「安曇氏」、 被征服者であり傀儡化した「出雲族」と傀儡化した「テュルク族」 を支配層として含み、 一般的な庶民としての縄文人 を被支配層として含んだ 「和人」という全体集合 である と述べた。 これが、初期ヤマト王権の時代の支配層から被支配層までの階層構造である。 ただし、すでに述べたように、 これは正確には表向きの建前であって 征服者である「濊(わい)人」が 「和人」という全体集合に含まれていない という特異な事態が生じていて そのことは少なくとも記紀編纂期までは公然の秘密だった。 記紀では、公然の秘密を明示せず暗示に留める形で物語が展開している。 古事記の読者として想定された天皇の周囲の人々は、天孫族=「濊(わい)人」と暗黙裡に読み替えたと考えられる。 記紀では、ヤマト王権が「濊(わい)人」による征服王朝であるという「実際に起ったこと」に繋がる事柄はすべて明示されず暗示に留められている。 「濊(わい)人」の名前は出て来ない。 神武東征で降伏させた相手である「邪馬台国」「卑弥呼」の名前は出て来ない。 それに加えて重大なのは、 「国造り」をしていたオオクニヌシにアマテラスがタケノミカヅチを派遣して「国譲り」させた物語を先に出雲神話のクライマックスでしておいて その後に神武東征で神武天皇が「ナガスネヒコ率いる大和地方の勢力」を下した物語を続けることで あたかもそれが「実際に起ったこと」に起った順序であるかのように仕立てている ということである。 (「ナガスネヒコ率いる大和地方の勢力」は、難升米率いる「テュルク族」の連合政府である「邪馬台国」の連合軍を明示せずに暗示するものである。 「卑弥呼」は宇佐の地にあったと思しき「女王国」において、神武東征と並行して「狗奴国」と「末盧国」に挟撃されて死んだと考えられるが、記紀はそれについても触れていない。) 「実際に起ったこと」の順序は、 征服者「濊(わい)人」+征服協力者「和人」「安曇氏」(ニギハヤヒが暗示する「伊都国」長官)が「邪馬台国」「女王国」を滅ぼした神武東征が先で、 征服者「濊(わい)人」が被征服者「テュルク族」を従えてまつろわぬ「出雲族」(オオクニヌシが暗示)を圧迫して「国譲り」させたのが後である。 なぜなら、 「出雲族」は「くに」を形成するような政治勢力ではなく、日本列島内外に交易ネットワークを展開した経済勢力であって、自衛能力はあっても攻撃能力を持たなかった。だから「濊(わい)人」には先に制圧する必要がそもそもなかった。 また、 征服者「濊(わい)人」+征服協力者「和人」「安曇氏」としては、脱国家主義の自由貿易で発展した「出雲族」の交易リソースを「領域国家」の管理貿易の傘下に組み込むことを目的としたから、神武東征に勝利して「テュルク族」を従えて圧迫して「出雲族」に交易リソースを解消させ手放させるだけで済ませることができた。 しかし、 記紀は、 騎馬民族「濊(わい)人」が征服王朝としてヤマト王権を建てたという「実際に起ったこと」を隠蔽し あくまで「天孫族」が「国譲り」されたという物語を定着させる ということを至上命題とした。 オオクニヌシ=文明文化先進の「出雲族」が「国造り」をし、 アマテラス=天孫族の高祖神が「国譲り」させたという建前とする以上、 それを「領域国家」全体の話として一番先に持ってくる必要がある。 その後に降臨した天孫の後裔の神武天皇による神武東征をもってくることで (とは言っても正確には歴史的=時間的にではなく、『古事記』において「出雲神話」を先にページ立てしたという編集的=構成的になのだが) 「実際に起ったこと」とは逆の順序の ヤマト王権という対内的にもある程度統一された「領域国家」が先にあって その後に残存した離反勢力たる「ナガスネヒコ率いる大和地方の勢力」を鎮圧した というミスリードを促したのである。 オオクニヌシに象徴される「出雲族」が経済勢力でしかないことは、「国譲り」においてオオクニヌシとその嫡男がまったく軍事的な抵抗をしなかったことで分かる。 軍事的な抵抗をしたのは一人タケノミナカタだけだった。 彼は母ヌマカワヒメの実家の翡翠生産拠点を守ろうとしたと考えられる。おそらく、タケノミナカタに暗示される勢力は島根半島から糸魚川下流を守る形で退却し、最終的にそこでも撃退されて糸魚川静岡構造線に沿って諏訪地方に逃げたのだろう。 ヤマト王権の初期勢力への最初の対抗者なのだから、脆弱なものとして物語られて当然である。 (ちなみに、記紀では、ヤマト王権樹立後の草創期において離反した勢力については、それらが神武東征段階で協力者であっても、脆弱なものとして物語られている。 「熊襲」は神武東征において陸戦隊となって協力したが、ヤマト王権樹立後に九州豪族となって離反したため、ヤマトタケルが征伐したクマソタケルで象徴して物語られている。 「隼人」は神武東征において海戦隊となって協力した。ヤマト王権樹立後も畿内にとどまったものは天皇に近侍したが、九州に留まったもの(「阿多隼人」)は、天孫族の正統を継いだ山幸彦に対抗して最終的に降伏した海幸彦が祖神とされている。つまり、脆弱なものに関係づけられている。 記紀は、こうした類いのことに余念がなくかつ漏れがない。) そして記紀は、 (1)日本型の「領域国家」の土台となる稲作民である「定住民」こそが最善で (2)その支配管理から免れたりその支配管理域に侵攻してくる「移動民」は悪で (3)新拠点開拓型や転戦型の「転住民」は必ずしも悪ではないが最善ではない という印象の刷り込みを繰り返している。 『古事記』は天皇の周辺の支配層を対象に和語で書かれ、 『日本書紀』は外国の官僚でも読めるように漢語で書かれたという。 いずれにせよ、記紀は朝廷の支配層が読むことを前提としていた。 記紀は直接的にはそんな想定読者層に、以上のような印象を刷り込みをしたことになる。 想定読者層には、氏族制度のもと、支配層にかなりのシェアを占めた主要渡来系氏族もいた。 彼らはその祖神を記紀神話の登場者とされて、支配層として権威づけられた。 彼らの知識や知性からすると、彼らは印象の刷り込みを無自覚的にされるまでもなく、権威づけてもらった交換条件としてヤマト王権が望んでいる価値観を意識的に忖度して受け入れたと考えられる。 たとえば、 (2)その支配管理から免れたりその支配管理域に侵攻してくる「移動民」は悪である という価値観を踏まえれば、 「磐井の乱」を起す反乱軍となった九州豪族はけしからん となる。 (3)新拠点開拓型や転戦型の「転住民」は必ずしも悪ではないが最善ではない という価値観を踏まえれば、 天皇の代替わりの度に遷都する旧習はあまりよくない やはり「藤原京」のように代替わりを越えて続く都がよい となる。 結果的に、 (1)日本型の「領域国家」の土台となる稲作民である「定住民」こそが最善で (2)その支配管理から免れたりその支配管理域に侵攻してくる「移動民」は悪で (3)新拠点開拓型や転戦型の「転住民」は必ずしも悪ではないが最善ではない のすべての価値観を踏まえれば、 日本型の「領域国家」の善良なる構成員(支配層+被支配層)である「和人」とは、 律令神道体制に従いこれを押し進め守るものである ということに帰結する。 そしてこの価値観は、 どこにも明文化されていないから明示知ではない 言わば行間から意識的に読み取ることができたり無自覚的に納得してしまう暗黙知であり かつ、身体感覚をともなった情緒、ないしは情緒をともなった身体感覚として感受される身体知である ということが重要である。 結論から言うと、 ユングの指摘した集合的無意識として、現代の私たち日本人にまで血肉として共有されている ということなのである。 こういうと、自分は古事記も日本書紀も一行も読んだ事はない、だから印象づけや洗脳などされた覚えはない、と言う人がいるだろう。 そう言う人の中には、ユング心理学の集合的無意識のことも、一種のカルト信仰だと思っている人もいるかも知れない。 しかし、現代の社会科学は、「中間団体」がその制度や慣行、規範や秩序を通じて、その構成員に根底的な価値観を意識的ないし無自覚的に共有させ、また継承させていることを明らかにしている。 それこそが集合的無意識の具体的かつ科学的な実態なのである。 「中間団体」とは、家族という集団と国家という社会の中間に位置する媒介項となる、ほどんどの人が帰属したり帰属したことのある組織のことである。 具体的には、現代社会ならば、学校、会社、役所などなどである。 古代から続く伝統社会ならば、神社の祭りを準備運営するムラやマチである。 出雲神話を一行も読みも聞きもせず、一つの場面も舞などで見たことがなくても、こうした「中間団体」がその制度や慣行、規範や秩序を通じて、その構成員に根底的な価値観を意識的ないし無自覚に暗黙知そして身体知として刷り込んでいるのである。 記紀が律令神道体制の戦略的コンテンツであるということは、 記紀を踏まえて、主要神社に祭神とその神話が割り振られ、祭りで物語られたり舞われたりするクライマックスシーンが選定されるということである。 よって、神社の祭りを準備運営するムラやマチという「中間団体」を通じて、その構成員は(1)(2)(3)の価値観を刷り込まれる。 いや、うちは神社の氏子ではなく、仏寺の檀家だという人もいるかも知れない。 しかし、日本の仏教は平安時代には神道と集合していて、神道パラダイムを踏襲している。 さらに、明治新政府は王政復古を唱え、神道を天皇崇拝の国家神道に再編して、廃仏毀釈を断行した。その後、廃仏毀釈は揺り戻すが、国家神道は軍国主義化の流れにおいて先鋭化して国民に徹底された。 敗戦後、GHQによって政教分離が行われ新憲法において原則化する。 しかし、国家のそうした政治的かつ制度的な動きとは別に、「中間団体」に帰属する一般国民の心性的かつ習慣的な価値観として(1)(2)(3)の価値観は刷り込まれ続けてきている。 たとえば、日本人は「ムラ社会」で暮らしている仕事をしている、とよく言われる。 (1)(2)(3)は「ムラ社会」の価値観に他ならない。 会社という「ムラ社会」を例にすれば、 (1)「定住民」こそが最善である →新卒で入社した「はえぬき社員」という純粋な<中の人>が信頼に足りる =出世する (2)「移動民」は悪である →非正規社員の派遣社員やパート従業員やアルバイトは信頼できない =重要な仕事は任せられない (3)「転住民」は必ずしも悪ではないが最善ではない →中途入社の正社員は新しい動きを触発するがすべてを任せる訳にはいかない =出世は許してもトップには据えられない こうした価値観を名付けるとすれば、 「定住民」至上主義・「定住社会」至上主義 と言えよう。 これに対してアメリカや中国の会社の様相とその価値観はまったく違う。 さまざまにキャリアをアップさせた人材が転職してきたり要職に抜擢される様相とその価値観は、 「転住民」至上主義・「転住社会」至上主義 と言えよう。 本論シリーズの結論項の前半で、なんで以上のような論述をしてきたのか。 それは、 私たち日本人が 縄文時代から弥生時代への移行をめぐる論題についても 「定住民」至上主義・「定住社会」至上主義で論じてきた からなのである。 もし、 「定住民」の「定住社会」だけを偏重せずに、 新拠点開拓型の「転住民」とその「転住社会」 定住拠点間を行き来した「移動民」とその「移動社会」 をも重視して論じたならば、 縄文時代から弥生時代への移行をめぐる論題も異なる展開をできる ということを、 以下、検討していきたい。 縄文時代から弥生時代への移行をめぐる論題は 「定住民」至上主義・「定住社会」至上主義で論じられてきた 縄文時代と弥生時代の線引きは、最初は、稲作が伝来普及して米を炊く弥生土器が普及したのが弥生時代というものだった。 しかし、それで規定した縄文時代の晩期から稲作が行われそれまで弥生土器とされていたものも使われていたことが分かる。 弥生時代の始まりを早めればいいように素人目には見えるが、それも行われたが、早まった縄文時代の終わりよりもさらに早い時代に稲作と土器による炊飯が確認されてしまった。 なんでこういうスッキリしない決着なのだろうか。 要は、文明文化で縄文時代と弥生時代の線引きをするという考え方がブレたのだった。 私は、このようなブレが必然的に生じてかつ許容される土台として、 「定住民」至上主義・「定住社会」至上主義で文明文化を論じてきた ということがあると思う。 象徴的に述べると、 「定住民」至上主義・「定住社会」至上主義は 特定の領域(たとえば日本列島)に限定して文明文化の変化を論じる というパラダイムにある。 一方、 たとえば中国大陸、朝鮮半島、日本列島をとらえた天気図を想像してほしい。 南西から北東に走る秋雨前線が西から東に移動してく天気予報の解説図を想像してほしい。 こちらは、 特定の領域に限定せずその周囲の領域も捉えて(文明文化の)変化前線の移動を論じる というパラダイムにある。 これが、 新拠点開拓型の「転住民」とその「転住社会」 定住拠点間を行き来した「移動民」とその「移動社会」 を重視する論じ方 である。 定期的に同様の進路を辿って来る秋雨前線が 定住拠点間を行き来する「移動民」 =秋雨前線が通る前後の変化は緩やかで小さい 不定期に多様な進路を辿って来ては去る台風が 新拠点開拓型の「転住民」 =台風が通る前後の変化は激しく大きい そんな文明文化の伝播論としてのアナロジーも まんざら的外れではあるまい。 秋雨前線のような「移動民」が文明文化の伝播者とすれば、 縄文時代から弥生時代への転換地帯の方が 西から東へ漸進した、北から南へ漸進したということになる 台風のような「転住民」が文明文化の伝播者とすれば、 縄文時代から弥生時代への転換地域の方が 伝播の主体と内容によって多様な進路で推移したということになる こうした 新拠点開拓型の「転住民」とその「転住社会」 定住拠点間を行き来した「移動民」とその「移動社会」 を重視する論じ方をすれば、 多様な栽培種(熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカ)の多様な稲作(陸稲、水陸未分化、湿田、乾田)が時期と経路を異にして伝来伝播したことの説明が無理なくできる。 そうすれば 縄文時代と弥生時代の線引きのトートロジーや考え方のブレによる混乱を回避できる。 それは、 縄文時代から弥生時代への転換は地域によって違う 転換地域の方が推移したのだから違って当たり前なのだ という 従来の常識からすれば開き直りともとれる非常識に他ならない。 だからこの考え方は学術的には認められないとは思うが、 誰にでも分かる単純明快な理屈へのパラダイム転換発想ではある。 私としては、 「定住民」至上主義・「定住社会」至上主義で 特定の領域(たとえば日本列島)に限定してその文明文化の転換を捉える というパラダイム 新拠点開拓型の「転住民」とその「転住社会」 定住拠点間を行き来した「移動民」とその「移動社会」 を重視して文明文化の転換地帯・転換地域の推移を捉える というパラダイム どちらが正しいということではなくて、 どちらか一方に偏らずに、考え合わせるべきではないか と考えるのである。 従来の縄文時代と弥生時代の線引きは、「定住社会」とその「定住民」を主題としていて、 ざっくり言ってしまえば 縄文人が定住していた日本列島に弥生人が転住してきて混淆して定住化した という筋書きを大枠として展開してきた。 そして、 それは西日本の話であって 西日本を中心に本州・九州・四国が弥生時代に「弥生文化」を展開したが 稲作の伝わらなかった北海道では「縄文文化」が続いて「続縄文文化」が展開した 稲作の伝わらなかった南西諸島では「縄文文化」に相当する「後期貝塚文化」が継続した とされる。 この捉え方は、 同じ日本列島でも 西日本を中心に本州・九州・四国が<内> 蝦夷のいた本州と北海道そして南西諸島は<外> と前提している。 そしてこの前提は、 <内>の定住社会を<外>の定住社会と対照的に捉えるために <内>の定住社会として均質性を重視しがちである。 だが、縄文時代、縄文人交易民は、 日本列島の内外を遠隔地交易した「移動民」であり また三内丸山を出現させて放棄した「転住民」でもあった。 朝鮮半島南端と北九州沿岸には①の「倭人」=「倭人」がいて大陸人と交流していた。 そして忘れてはならないのは、 大陸にも縄文人と同様の新石器時代人がいた という当たり前のことである。 大陸人は、土器作りでは縄文人と並行したが、穀物栽培では先行し、穀物食に対応した土器作りでも先行したと考えて自然である。 縄文時代と弥生時代を土器形式や稲作有無で線引きするならば、同様の線引きができる転換地域が大陸で先行推移して日本列島で後行推移したと大筋で言える。 しかし、稲作は時期と場所を違えて、また栽培種と栽培法を違えて、異なる伝播者によって多様に伝来しているから、これはあくまでざっくりとした観念的な一般論でしかない。 こうしたざっくりとした観念的な一般論が、西日本を中心にした本州・九州・四国という<内>を前提とした、「定住社会」とその「定住民」を主題とした捉え方なのである。 なぜ、そう言えるかというと、 ざっくりとした観念的な一般論が、具体的な伝播者という主体を捨象している からである。 弥生人という渡来した新たな「定住民」が、縄文人という先住した「定住民」への文明文化の伝播者である、というこれまたざっくりとした観念的な前提が共有されている。 しかし、文明文化の先行地と後行地を行き来することで遠隔地交易を成立させた交易民の「移動民」が、文明文化の伝播者としていたのは間違いない。 ①の「倭人」=「倭人」は、穀物栽培が朝鮮半島で先行するまでは、文明文化の落差のない朝鮮半島南端と北九州沿岸を行き来していた。それが穀物栽培が朝鮮半島で先行した時に、文明文化の落差が生じて、前者から後者への文明文化の伝播者となったことも間違いない。 また、 原理的に考えれば、 遠隔地交易のチャネルが誕生するに当たっては、必ず主要交易品目の生産拠点や中継交易拠点を開拓する新拠点開拓型の「転住民」がいたことも間違いない。 そもそも①の「倭人」=「倭人」が自然発生的に朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした始まりにおいて、前者から後者に来ったか、後者から前者に来ったか、あるいはその両方かの新拠点開拓型の「転住民」がいなければならない。 両者を定期的に行き来した交易民の「移動民」の一部が新拠点開拓型の「転住民」になったと考えられる。 最初は狩猟採集をする「定住民」の部族の構成員の一部が、定期的に交易をする「移動民」となり、さらにその構成員の一部が新拠点を開拓する「転住民」となったのだろう。 ①の「倭人」=「倭人」の場合、定期的に行き来して顔を合わせて交易する「移動民」同士が姻戚関係を結び、バイリンガルの言語能力を身につけながら専業化し、さらにその一部が恊働して新しい交易拠点の開拓に乗り出し「転住民」となったのではなかろうか。 そして弥生時代には、②の「倭人」=「出雲族」のように、中国系渡来人の交易ビッグマンを盟主として、文明文化先進の中国の都市市場(「交換」経済)と文明文化後進の日本列島の縄文文化を温存した生産拠点(「贈与」経済)とをネットワークして、後者の原材料を前者の商品にアッセンブルする、言わばグローカルなビジネスモデル型の「転住民」も出て来た。 こうした「移動民」や「転住民」の交易民ないし交易者は、 文明文化先行地の「弥生的時空」と 文明文化後進地の「縄文的時空」とを 行き来したり、ビジネスモデルとして接続した。 それは、 彼らの思考と行動そのものに、縄文時代の時空と弥生時代の時空、そして両者の境界領域なり接続領域なりが線引きとして内包されていた ということに他ならない。 さらに、 文化人類学では、戦争や侵略や海賊行為も交易の一形態とされる。 海賊は交易船と紙一重で後者が前者に豹変する可能性が認識されている。 海戦隊や陸戦隊の兵隊のことを交易民とは呼ばない。 だが、 戦争や侵略も侵攻型の「移動民」や転戦拠点開拓型の「転住民」によって、武器武装や兵糧の調達や輸送が行われるのであって、それは実質的に交易行為でもある。 弥生時代には、④の「倭人」=「テュルク族」が鉄器を媒介に縄文人を支配して「くに」を建て、鉄資源を求めて「くに」ぐにを建てていった。 これも、時間軸と空間軸を変えた交易行為と言える。 最終的に、「女王国」の卑弥呼を共立して魏に朝貢して鉄素材を下賜してもらう朝貢交易を展開する。そうして保全された体制は、交易体制でもあったと言えよう。 この時期、朝鮮半島南半では、前漢による朝鮮半島北半の四郡設置以来、「くに」の「領域国家」化が進んだ。 従来の自由貿易が管理貿易に圧迫されていくと同時に、軍事的需要が高まり、弁辰で生産される鉄の争奪戦が、後漢と馬韓・辰韓・弁韓、そして「邪馬台国」(「女王国」)の間で繰り広げられたいった。 この動きに当初から対応したのが③の「倭人」=「安曇氏」だった。 後漢帯方郡の出先機関として北部九州に「くに」を建て、建前としては後漢への朝貢交易を管理貿易として担った。実質的には帯方郡公孫氏との交易であって、その朝鮮半島南半への影響力によって弁辰の鉄素材や鉄器を入手したと考えられる。 一方、 「領域国家」化のために小国群から未勝目料をとれなくなった(これも物品の搾取という交易)騎馬民族の「濊(わい)人」を、 管理貿易化で従来の自由貿易では喰えなくなった①の「倭人」=「倭人」が全面的にバックアップして日本列島(西日本)に征服王朝を建てさせる。 南九州に上陸させて(天孫降臨)そこで養兵する(日向三代)だけでなく、弁辰人に協力して建てた「末盧国」を兵站基地とし、鉄製の武器武装、鉄部材で強化した軍船を調達した。 神武東征は、 匈奴に同行した鉄生産専従民であった④の「倭人」=「テュルク族」の鉄製武器武装と ①の「倭人」=「倭人」が調達した鉄製武器武装との 性能競争でもあった。 これは今風に言えば、 あくまで自社工場での自前生産にこだわった④の「倭人」=「テュルク族」と アウトソーシングによる適宜な調達に徹した①の「倭人」=「倭人」との 交易の経営戦略の競合でもあった。 以上のような①〜④の「倭人」の交易行為からすると、 縄文時代の交易と交易民の様相と 弥生時代の交易と交易民の様相との最大の違いは 後者が「領域国家」化に向かう極東グルーバルの潮流において軍事経済的な色彩が濃厚である ということだと思う。 言うまでもなく、軍事経済は、侵攻「移動民」や転戦「転住民」が構成する軍隊を前提している。 このような捉え方は、 狩猟や農耕を重視して 「定住社会」とその「定住民」を主題とするのではなく 交易や戦争を重視して 「転住社会」と「転住民」 「移動社会」と「移動民」を主題として初めてできる。 また、 土器形式や稲作有無といった遺跡や遺物から割り出されるどちらかというとモノの想定と検証を土台とするのではなく 交易や戦争といったコトの推移を構造的に俯瞰し歴史の潮流として仮説し整合性を検証する検討から導かれる。 多様な「倭人」支配層によって縄文語を母体に「和語」が形成された 新拠点開拓型の「転住民」とその「転住社会」 定住拠点間を行き来した「移動民」とその「移動社会」 を重視して文明文化の転換地帯・転換地域の推移を捉える というパラダイムで いかに縄文文化から弥生文化への転換地帯・転換地域を捉えるか。 私は言語がカギだと考える。 ①の「倭人」=「倭人」は、縄文人交易民だから縄文語を話していた。 交易においては交易相手が話す朝鮮語や中国語を織り交ぜたのだろう。 この時、文明文化先進の大陸の新概念は、対外的には大陸語を用いて、対内的には「新しい縄文語」を造語して用いたと考えられる。 ②の「倭人」=「出雲族」は、中国由来の交易民だから中国語を話していた。 だが島根半島西部に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を構築し、それを支える後背地経済圏を本州各地の生産拠点や交易拠点のネットワークにより構築する際、首長の娘を娶って姻戚関係を結ぶなどして縄文語にも慣れ親しむようになったと考えられる。 この時、青銅器や鉄器の文明に関わる新概念は、大陸人には中国語を用いて、縄文人には「新しい縄文語」を造語して用いたと考えられる。 ③の「倭人」=「安曇氏」も、中国由来の交易民で楽浪郡公孫氏や帯方郡公孫氏と交易したから中国語を話していた。 だが、五島列島そして北部九州を拠点とし、労働力として先住民の縄文人を動員した際には、彼らに中国語を教えて話させたとは考えにくい。労働力を組織し管理するに必要な縄文語を学んで話すようになっていったと考えられる。 この時、稲作はじめ穀物栽培に関わる新概念は、大陸人には中国語を用いて、縄文人には「新しい縄文語」を造語して用いたと考えられる。 ④の「倭人」=「テュルク族」は、身内ではテュルク語を話していた。 だが、労働力として先住民の縄文人を動員した際には、彼らにテュルク語を教えて話させたとは考えにくい。労働力を組織し管理するに必要な縄文語を学んで話すようになっていったと考えられる。 この時、鉄資源の採掘、鉄素材の生産、鉄器の製造に関わる新概念は、身内ではテュルク語を用いて、縄文人には「新しい縄文語」を造語して用いたと考えられる。 以上が、ヤマト王権樹立までの①〜④の「倭人」の言語状況である。 これが、 ⑤「濊(わい)人」が建てた征服王朝であるヤマト王権が<倭>とされたその民 として 征服協力者の「倭人」と「安曇氏」、 被征服者であり傀儡化した「出雲族」と傀儡化した「テュルク族」 を支配層として含み、 一般的な庶民としての縄文人 を被支配層として含んだ 「和人」という全体集合 となる。 そして、 その言語状況では、互いの意思疎通をはかる共通語として「和語」が形成されていた 筈である。 私個人的には、 ヤマト王権が樹立する前段階で ①〜④の「倭人」の交易者が互いの意思疎通を可能にする共通語として「和語」が形成されていて ヤマト王権が樹立して後段階で 支配層が互いの意思疎通を可能にする標準語として「和語」が再編統合されていった と考える。 具体的には、 縄文人が話してきた縄文語を母体にして ①〜④の「倭人」がそれぞれに造語した「新しい縄文語」を網羅的に取り入れて標準語とされ 最終的には、律令神道体制の「領域国家」の完成とともに、その運営に必要な漢語の混交使いをする「日本語」に収斂した と考える。 先ず、 征服者の「濊(わい)人」は、身内では「濊(わい)人」の言語を話したが、それを征服協力者の「倭人」と「安曇氏」や、被征服者で傀儡化した「出雲族」と「テュルク族」に話させたとは考えられない。 文明文化先進の「領域国家」を目指すにおいて、文明文化後進の「濊(わい)人」の言語を使わせる訳はないことと、「濊(わい)人」がキングメーカーとして天皇(大王)を建ててその私経済を利益源泉とする黒幕的支配をすべくその存在を表舞台から消し去っていたと考えられることから、それはあり得ない。 つまり、 ヤマト王権を樹立した征服者の「濊(わい)人」は、①〜④の「倭人」が互いに意思疎通できる共通語を採用することを基本的な方針としたと考えられる。 「濊(わい)人」としては、支配層を形成する①〜④の「倭人」の内の特定の「倭人」勢力を利することは避けた筈だ。「出雲族」と「安曇氏」の母語である中国語は回避され、「テュルク族」の母語であるテュルク語も回避される。 では、 縄文人交易民の「倭人」の母語である縄文語がよいかというと、被支配層である縄文人の言語そのままでは、縄文人交易民の「倭人」を利することが甚だしいのと、文明文化先進の「領域国家」を目指すにおいて、文明文化後進の縄文語をそのまま用いることは得策でないことから、回避された筈である。 そこで、 縄文語を母体にして ①〜④の「倭人」がそれぞれに造語した「新しい縄文語」を網羅的に取り入れたものを ⑤ヤマト王権=<倭>の民である「和人」が使うべき「和語」とした と考えられる。 縄文文化から弥生文化への転換地帯・転換地域とは、 ①〜④の「倭人」のそれぞれにおいて 「新しい縄文語」が造語された画期的な知識創造場であった。 そして、 最終的にヤマト王権樹立によって、 支配層を占めた①〜④の「倭人」が⑤ヤマト王権=<倭>の民である「和人」に再編された際に 互いが意思疎通をはかるための公用語としての「和語」が形成され 支配層が「和語」を用いて知識創造を恊働する「領域国家」的な言語状況が構築された と考えられる。こうした多民族複合的な状況が言語状況を含む形で日本列島(西日本)では展開したが、朝鮮半島では展開しなかった。 朝鮮半島にも、朝鮮半島版の縄文人=新石器時代人がいて、朝鮮半島版の弥生人=中国からの渡来人がいて、先住民を支配する形で小国群をつくり「くに」を形成した。またそれらに対する騎馬民族「濊(わい)人」の侵攻と二重支配もあった。 だが、日本列島とは2つの点で大きく違った。 1つは、朝鮮半島の新石器時代人(朝鮮半島南端を拠点とした朝鮮半島側の①の「倭人」=「倭人」を含む)、漢人の亡命者や亡命民、騎馬民族の「濊(わい)人」の3民族の複合で、日本列島の縄文人と①〜④の「倭人」に「濊(わい)人」を加えて6民族の複合に比べてシンプルであったことである。 なかんずく3民族の文明文化の先進後進の格差が大きく、たとえば産鉄民は漢人の亡命者や亡命民だけだった。 これに対して①〜④の「倭人」は、②の「倭人」=「出雲族」、④の「倭人」=「テュルク族」が産鉄民を含んだ。①の「倭人」=「倭人」、③の「倭人」=「安曇氏」も鉄素材や鉄器の交易をしたし、産鉄民の誘致や入植もできた。つまり、文明文化の先進後進の格差が小さい中で(軍事的な対立を含む)交易が展開し、互いが意思疎通できる共通語への需要が大きかったと言えよう。 いま1つは、朝鮮半島には前漢、後漢、魏、西晋と「領域国家」の帝国の直接経営が台頭してきてその文明文化の先進性や圧倒的な軍事力と、自然発生した小国群や漢人亡命者によって建てられた「くに」が対峙したため、文明文化状況的に中国の影響をもろに受けたことである。 この側面が日本列島にはなかった。 古代朝鮮語がいついかに生まれたかは明らかになっていないが、言語状況的に、朝鮮半島版の縄文語が中国語の影響をもろに受けたことは間違いない。その言語状況は、縄文語を母体としつつ①〜④の「倭人」によって造語された「新しい縄文語」を網羅的に取り入れた「和語」が収斂していった日本列島とは大きく異なった筈だ。 そもそも縄文時代の悠久の古から、南西諸島から千島列島までを含む日本列島において、グラデーションのように差異を連続させた言語状況があった。 それを「縄文語」と称して前提している。 弥生時代には、南西諸島が「後期貝塚文化」、北海道が「続縄文文化」として縄文文化が継続展開した。西日本と、おおよそ蝦夷支配域を除いた東日本が弥生文化となった。 言語活動も文化であるから、言語状況もこれに応じた。 ヤマト王権樹立後は畿内の朝廷を中心に支配層が組織され、西日本と蝦夷支配域を除いた東日本の支配層の言語状況としては、共通言語(標準語)として(縄文語を母体としつつ①〜④の「倭人」が造語した「新しい縄文語」を網羅的に取り入れた)「和語」が採用された。 被支配層の縄文人は土地土地の縄文語を話し続け、それが現代に至る方言の起源になったと考えられる。 一方、 南西諸島では「沖縄語(琉球語)」が「本土語」の「和語」と分岐していく。 これは、九州から南西諸島への大規模な移住が発生した結果と考えられる。 私個人的には、ヤマト王権樹立後、九州に留まったものの中央に離反した海洋系縄文人の「隼人」や山野系縄文人の「熊襲」の内、九州豪族といった軍事勢力にならなかったものが、交易勢力として南西諸島に離脱したのではないか、と考えている。 特に「隼人」はそもそも南西諸島と九州を行き来する縄文人交易民だったから、九州から南西諸島への大規模移住の大方を占めたと考えられる。 その支配層が九州では「和語」を話していたが、南西諸島に離脱して島々の現地人を被支配層として取り込んでいく際に、現地人が話し続けていた土地土地(島々)の縄文語を母体として取り入れ直し、「沖縄語(琉球語)」をはじめとする各島の方言が形成されていったと考えられる。 「沖縄語(琉球語)」と「和語」の分派だから、当然、文法的な骨格や母音主義であることが一致し、似通った言葉や言葉遣いが多くある。 一方、 北海道では、ヤマト王権の支配を免れた、そもそもの縄文社会が継続し、部族社会の全体で支配層も被支配層も土地土地の縄文語を話し続けた。それを一括りにして「蝦夷語」と言って良いだろう。 「蝦夷語」も「沖縄語(琉球語)」と同様に、「和語」と文法的な骨格や母音主義であることが一致し、似通った言葉が多くある。それは「蝦夷語」が「和語」が母体とする縄文語だからだろう。 このように整理すると、 縄文文化ないし縄文時代と、弥生文化ないし弥生時代との線引きは 支配層被支配層の区別なく土地土地でその土地の縄文語が話し続けられた言語状況から 遠隔地交易をする支配層が生まれ土地土地を横断する共通語として「和語」を話す言語状況への転換 によってできる ということになる。 「和語」は、 そもそもは、縄文語を母体にしつつ、①〜④の「倭人」が造語した「新しい縄文語」を網羅的に取り入れて形成されていった交易言語(戦争も交易として戦争言語でもある)だった。 そして最終的には、ヤマト王権が全国統一を果たし律令神道体制が一貫した「領域国家」=「日本」となった段階で、「和語」を母体に律令体制の運営に不可欠な漢語を混交遣いする「日本語」が支配層の共通言語=公用語とされた と言えよう。 問うべきは、 悠久の古からの「古い縄文語」に対して「新しい縄文語」とは具体的にどういうものだったのか ということになる。 抽象的には、縄文文化に無く弥生文化によってもたらされた新しい概念を表現するために造語されたものと、原理的に定義できる。 では具体的には、どのような言葉だったのだろうか。 「新しい縄文語」としての穀草部位と顔パーツの同音同義語 花(はな)と鼻(はな)が同音異義のようでいて、実は同音同義だという話がある。 どちらも「パッと目につくもの」という同義だというのである。 「和語」には、そういう同音異義のようでいて実は同音同義である言葉がたくさんある。どうしてそういうことがあるかというと、ある語義を捉えるパラダイムのもとでは異義でも、別のパラダイム(意識的かつ無意識的な考え方の基本的な枠組み)のもとでは同義になるからだ。 花(はな)と鼻(はな)に加えて端(はな)もそうだし、端(はし)と橋(はし)も、ともに結界を意味してそうである。 名詞に限らない、形容詞にもそういう同音同義語がある。たとえば、赤らさまの「あか」と、明るいの「あか」は「裸で露である」という同義である。赤ん坊の「あか」、明かりの「あか」も同じだ。 これは、日本語が述語主義であることの一環である。 述語主義とは、述語になる内容こそが実体である、という捉え方だ。 つまり、「パッと目につく」「裸で露である」という状況の方が物事の実体である、というパラダイムである。 一方、主語主義とは、主語になる内容こそが実体である、という捉え方で、「何が」と主語になる主体や対象の方が実体である、というパラダイムだ。欧米語も中国語もおおよその外国語はこれである。 日本語の述語主義をもっとも象徴するのは、擬態語、オノマトペであろう。 たとえば、政治家は演説で何かにつけて「しっかり」「きっちり」を多用する。聴衆の庶民は往々にして、その政治家が何を具体的にどのように「しっかり」「きっちり」するのかという政策やロジックを詳しく聞かない。演説する政治家の表情や態度や口調に情緒的に反応してしまいがちだ。 擬態語、オノマトペは日本語に限らず世界の言語にある。 しかし日本語ならではの特徴がある。 一つは日本語が述語主義にあるから、擬態語が擬声語、擬音語とともに著しく多く、かつ日常的に多用されていること。 これは、微妙な形容詞の多さにも通じる。たとえば、フランスの化粧品会社は化粧品のモニタリングに日本語を活用している。それは肌の感触を表現する形容詞が他の言語に比べて格段に多いからだという。 もう一つは、擬態語のほとんどが、情緒性をともなった身体感覚、ないしは身体感覚をともなった情緒性を表現していること。 つまり、単純な状況についての客観表現よりも、主体や対象の情緒性や身体感覚について、状況に思い入れた主観表現の意味合いが色濃い。つまりは低コンテクスト(文脈依存性が低い)ではなく、話者と聴者の関係性や話し聴く場という文脈への依存性が高い高コンテクストであることである。 たとえば、「まあまあです」「ぼちぼちです」と言われてあなたは、話された擬態語からではなく、話した主体の話し方や話す場など諸々からコンテクストを踏まえた上で、具体的に「どうまままあなのか」「どうぼちぼちなのか」を捉えるしかない。 花(はな)と鼻(はな)が同音異義のようでいて実は同音同義だという話は、 こうした日本語の述語主義は「和語」の母体である縄文語に由来し、 かつ、穀物栽培の伝来による新概念の話だから 縄文時代ないし縄文文化と、弥生時代ないし弥生文化の線引きに関わる。 原始日本語の研究成果では、 花(はな)と鼻(はな)がともに「パッと目につく」ものという同義を表現するように 穀物の草の部位の名前と、人の顔のパーツの名前が同音同義で構成されている ということなのである。 花(はな) と 鼻(はな) =パッと目につくもの 葉(は) と 歯(は) =生え変わり枯れ落ちるもの 茎(くき) と 歯茎(はぐき)=(は)がはえて来るところ 芽(め) と 目(め) =裂け目から現れて息吹き生命が輝くところ 穂(ほ) と 頬(ほお) =伸びやかにほとばしるところ 実(み) と 耳(みみ) =何かを受け止めて集約するところ これらの同音異義語は偶然の一致ではなく、全体構造として述語主義における同音同義語群を形成している。 縄文時代の終わりから粟稗などの雑穀栽培そして稲作が行われるようになった。 人が穀物を食べて命をつなぐようになった。 そのような穀物の草、穀草と人を一体化する捉え方が、穀物栽培伝来以前にはなかった「新しい縄文語」を造語させたと考えられている。 私は、 このような穀物栽培由来の「新しい縄文語」の出現をもって、縄文文化と弥生文化との線引きをすべきであり 文化内容から時代を区分するのであれば縄文時代と弥生時代の転換をそこに見出すべきである と考える。 ただし、すでに述べたように、 線引きは全国一律に想定するべきではなく 転換地帯ないし転換地域が日本列島を多様に推移した その推移をもたらしたのは交易民である「移動民」「転住民」である と考える。 (付記) 琉球語(琉球方言)と日本語(本土方言)の分岐との絡み 縄文由来の「和語」において、穀草の部位の名前と顔のパーツの名前が述語主義において同音同義になっている。 その造語において穀物と人間の一体化する呪術原理(類感呪術と模倣呪術)が働いたと考えられる。 このような造語パターンは他の言語でもあるのか調べてみた。 まず、穀物栽培が朝鮮半島から南下して伝来したルートを前提に、朝鮮語(韓国語)にあるのか調べると無かった。 つまり、伝来した穀物栽培文化側の要素としてこのような造語パターンがあった訳ではないことになる。 次に、世界の言語が子音主義(子音が有意味音)であるのに対して、日本語とともに母音主義(母音が有意味音)であるポリネシア語(たとえばハワイ語)を調べると無かった。 母音主義は太平洋島嶼に共通した<部族人的な心性>を温存する言語の土台であって、「古い縄文語」からの土台でもあるから、伝来した現地文化側の要素としてこのような造語パターンがあった訳ではないことになる。 残るのは、穀物栽培が南西諸島から南下して伝来したルートを前提に、日本列島のどこかで穀草の部位の名前と顔のパーツの名前が述語主義において同音同義の「新しい縄文語」として造語された可能性である。 そこで、沖縄弁=琉球語(琉球方言)について調べてみた。 すると、沖縄弁は「和語」=日本語(本土方言)と文法や語彙の基本構造が同じで、穀草の部位の名前と顔のパーツの名前が述語主義において同音同義群を形成していた。 つまり、穀物栽培が伝来し定着した南西諸島で、土地土地(島々)の「古い縄文語」において「新しい縄文語」が造語され、それを含めた縄文語を母体として和語が形成された様相を示している。 しかし、 これだけでは ・本土で造語された「新しい縄文語」が南西諸島に至った可能性 ・南西諸島で造語された「新しい縄文語」が本土に至った可能性 ・本土で形成された「和語」や日本語(和語を土台に漢語を混交)が南西諸島に至った可能性 もあり、そのどれかは判断できない。 そこで琉球語(琉球方言)について調べると、以下のことが分かった。 >琉球語(琉球方言)と日本語(本土方言)が分かれた時期は、おおよそ紀元前後以降、奈良時代以前と考えられている。 >琉球語(琉球方言)と日本語(本土方言)の類似の程度から言って、分岐の時期が弥生時代よりもさらに古く遡るとも考えられない。 >ある時期に九州から南西諸島への大規模な集団移動があり、この集団の言語が琉球語(琉球方言)の母体になったと考えられている。 >言語学者の服部四郎は、二言語間の共通の語彙を比較する言語年代学の手法を使って、京都方言と首里方言の分岐年代について1450~1700余年前という計算結果を示している。 琉球語(琉球方言)と日本語(本土方言)の分岐は3世紀末〜6世紀半ば ということは、 この分岐以前に ・本土で造語された「新しい縄文語」を含んだ和語が南西諸島に至った可能性 この分岐とともに ・本土で形成された「和語」や日本語(和語を土台に漢語を混交)が南西諸島に至った可能性 が濃厚と思われる。 南西諸島から南九州にかけては縄文人交易民の「隼人」が行き来していた。 「隼人」は、神武東征に協力したヤマト王権樹立に貢献した後、畿内にとどまった「隼人」が天皇に近侍したのに対して、九州に留まった「隼人」は離反して九州豪族になっていった。 「隼人」の離反の動向は 琉球語(琉球方言)と日本語(本土方言)の分岐の3世紀末〜6世紀半ば に時期的に一致する。 ある時期に九州から南西諸島への大規模な集団移動があり、この集団の言語が琉球語(琉球方言)の母体になった とは、 ヤマト王権に離反した「隼人」が九州から南西諸島に大規模な集団移動をして ヤマト王権で話された後世の京都方言に連なる「和語」および日本語(和語を土台に漢語を混交)を差別化して改変したものが後世の首里方言に連なる琉球語の母体となった ということではないか。 そして、 この琉球語には、それが形成された当初段階から、縄文語を母体とした「和語」そしてそれに漢語を混交させた日本語に含まれた、穀草部位と顔パーツの同音同義語の「新しい縄文語」も継承された ということではないか。 (完)
by cds190
| 2014-11-11 15:45
| ■日本文化論からの発想
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