ライフワーク雑学の現在経過。 |
やっと最近、ライフワーク雑学が、日本人の集団志向の2タイプの内の1つ「信長志向:自由に活動する個々が適宜に集団を構成する」の起源に差し掛かってきた。それは、朝鮮半島南端と北九州を拠点とした、海上移動性に富んだ交易民だった「倭人」。国が存在する前の、くにのもとになる共同体とは異なるネットワークに向かった志向性。
今の日本人に分かりやすく言えば、「お上だのみではない集団志向」。ヤマト王権に対峙した出雲とそれをハブとする環日本海交易圏にも繋がっていく。
ところが、これがとても難解でかつ重大な論題であることが今更ながら分かってきた。
というのは、
①朝鮮半島側「倭人」と北九州側「倭人」が盛んに対岸交易をしたことにフォーカスすると、稲作や土器がどちらからどちらに伝播したといった、縄文弥生移行期の伝来論がぶっ飛んでしまう。
②取り扱い注意の、朝鮮半島の民族起源論に立ち入らざるを得ず、朝鮮半島にいた縄文人と同じ形質の者と、縄文時代からいた「倭人」をイコールで結ぶ話をしなければならない。(「倭人」イコール「呉人・越人」とする説もあるが、その場合、形質は大陸系になり史書が区別したことと符合しない。)
③今の日本人が失っている転住民としての「お上だのみではない集団志向」、それは戦前戦後の日系移民一世が渡航先で協働するなか回復したものだが、それがヤマト王権樹立までの「倭人」を起源とするという、現代的な論題でもある、
といったことからだ。
補記)
1990年代、3年つづけてアメリカ西海岸のモンタレーのジャズフェスティバルに行ったことがある。ある年、宿泊ホテルについたゴルフ場でプレイし終えてクラブハウスに帰ってきた時のことだ。
サンルームのティーサロンで日系人のご高齢の夫人たちがおしゃべりをしながらご亭主たちがプレイを終えて帰ってくるのを待っていた。
私は彼女たちのオーラに何か、懐かしくて、そして誇らしいものを感じ、圧倒された。
やがてほどよく日焼けして色つやのいい肌の精悍な顔つきをした老紳士たちがプレイを終えてやったきて、それぞれに妻たちを抱擁した。私はさらに圧倒された。
あれから20年たった今、私は、30代だった当時の私が何に圧倒されたか分かっている。
それは、日本人が失ってしまったものであり、自分がよほど、人と競うということではなく自分の弱さに負けないという意味で、よほど頑張らなければ、あの何かを仲間とともに成し遂げたオーラは持ち得ない、という予感だった。
それは、一人、海外に出て、どうにか自分だけでも喰えるようになる、といったことで実現することでもない。
私個人としては、放射能に被曝することを避けて移住すればそうなる訳でもなく、はたまた目下の私の最優先課題である母の安らかな晩年を見守りそして看取るということでそうなる訳でもない。
何かもっと違う次元とアプローチの事柄で、今は、ライフワーク雑学に没頭することでそれに関わる具体的な目標や指標が見えて来るということだけ、だからライフワーク雑学に没頭してしまうのだ、ということだけが分かってきた昨今である。
追記)
日本人の発想思考は、どこの国の人も母国語で思い考える以上、日本語の特性を反映する。
では日本語の特性は何か。自他の未分化性、人間と自然の未分化性、人工と自然の未分化性、これらは日本文化の特性でもある。具体的には、情緒性を包含した身体感覚を表現する擬態語が多様にありかつ多用する、同様の身体語が多様にあり多用する。
これにはポリネシア語と日本語だけが母音主義であることや、述語主義が密着している。
以上の特性は、有史以前の石器時代に由来する「部族人的な心性」の特性でもある。これは、世界各国の現代人の深層心理や幼児心理や大衆心理に通じる。暗黙知や身体知に通じる。
日本人は、「部族人的な心性」をベースに温存しながら「社会人的な心性」を形成してきた。
一方、中国人や欧米人は「部族人的な心性」を捨象するか限界づけて「社会人的な心性」を形成してきた。明示知や形式知を特化して重視してきたということでもある。
ざっくり整理すると、
中国人の発想思考の特徴は、共時性に則った〈意〉起点。
英米人の発想思考の特徴は、因果律に則った〈知〉起点。
日本人の発想思考の特徴は、縁起に則った〈情〉起点。
縁起とは、共時性と因果律が渾然一体の未分化状態の原理。
言語の特性の話に戻ると、
大和言葉=和語のひらがなをベースに
古代に中国語=漢語の漢字を混交し始め、
戦後、アメリカ英語のカタカナを混交して
現代の日本人は発想思考してきた。
その内容には英語だけで翻訳しきれないもの、
中国語だけで翻訳しきれないものを含んでいる。
象徴的には、カラオケ、カワイイ、カイゼン、バ、ネマワシ、モッタイナイなど世界語になっている概念。
世界化した日本文化の特徴も、以上に重なる。
カラオケ、コスプレ大会やアニソン合唱をするジャパンアニメ、キッチンではなく目前で調理する寿司や鉄板ステーキ、トヨタのカイゼンやセブンイレブンの現場店員による単品管理発注など、すべて〈集団志向×場の身体知・暗黙知〉が介在している。
これを日本人が得意としその成果を自然体で編み出してきた発想思考に、日本語の集団対話が働いている。
つまり、日本人の集団志向は、場における日本語で対話するそれなのだ。
漫画の作家と編集者の協働成長、アニメの制作体制、ファッション誌と読者モデル、109のショップとカリスマ店員、AKBアイドルと応援団などなど、日本人が当たり前と思っている〈世間〉構造が実はユニークの源泉。
一般的に日本の〈世間〉として日本人が意識しているのは「家康志向:集団を身内で固める」世間。それは、中の秩序や行動様式は違うが、大枠としては世界中どこでも同じにある。一方、前述したような「信長志向:自由に活動する個々が適宜に集団を構成する」世間も、海賊からロックグループ、サッカーのプロチームまで大枠として同じにあるが、どこか違う。それらが個人主義の個人の流動性があっての集団志向であるのに対して、先に集団理念があってそれに傾倒した個々が集まる集団志向、という大差。正確に言うと、非営利活動のNPOやNGOが「信長志向」だが、日本の「信長志向」の場合、日常的な営利活動の中に、「道」や「修行」が一体化している。職場がそういう共同体になっている。
この集合性とか結束性に、情緒性を包含した身体感覚が鍵になり、それを厳密に共有できる日本語が働く。大工や料理人が見習いから棟梁や花板にまで修行する過程は、技の身体感覚を場の協働感覚にまで高めるが、そこに日本語の対話が効果的に働く。そこには「家康志向」のように身内だからこの程度でいいだろうという逃げ場がない。
そんな日本人の知識創造の協働や集団の起源はどこにあったのだろうか。
そんな問いかけから歴史を遡ってしまった。
「家康志向」は定住民の定住社会のものであるのに対して、「信長志向」は転住民の転住社会のものであるから、後者の起源を遡っていき、日本人としての起源として「倭人」に至った。
「倭人」の〈世間〉構造を検討し終わりではなく、そこを折り返して、「出雲」や「安曇氏」や「ヤマト王権の支配協力者になった渡来系氏族」への展開を検討する。「信長志向」が慢性化して「家康志向」になりそれが硬直化して「信長志向」が再起するの往還運動。それが平清盛、織田信長、明治維新、戦後昭和、バブル期とあり、そろそろ予兆がで始めてきた。
次回の時節の「信長志向」の有志たちが、自身の集団志向の起源やその知識創造の組織管理と促進活性のヒントを求めた時、それに体系立ててかつ具体的に応えられるようにしよう。
日本語の特性を活かすパラダイム転換発想「コンセプト思考術」でベーシックはおさえている。20年近く研修してきた実績もある。だが20世紀バージョンなので、いずれ21世紀バージョンにしなければなるまい。
雑学ライフワークの先は長い。
(「コンセプト思考術」は、話し言葉の4つの基本概念要素の組み立て方によって概念を構築したり分析するもの。
4つの基本概念要素とは、<コトの意味><コトの感覚><モノの感覚><モノの機能>で、日本型の発想思考の特徴は、<コトの感覚>と<モノの感覚>の密着にある。
そこで、以上述べて来た「情緒性を包含した身体感覚を表現する多様な擬態語や身体語の多用」「場において身体知や暗黙知を重視してする集団対話」が活躍する。また、自他の未分化性は主客関係において「おもてなし」、人間と自然の未分化性は生活世界において「ここちよさ」、人工と自然の未分化性はアニミズム的仮想において「もったいない」といった和語の感受性に展開する。)
参照:「パターン認識としての<かたち・かた・か>」http://cds190.exblog.jp/4643989/
参照:「Rの法則『魔法の言葉 オノマトペ』がヒントくれた」http://cds190.exblog.jp/21733030