ミクロな視点からマクロな視点に脱してそこから回帰するパラダイム |
ちょっと前に買った、最新知識の網羅をうたう歴史週刊誌の内容に、私が一番知りたかったことが欠けていたのが発端だ。
それは稲作伝来についてで、
弥生時代のはじめ紀元前300年ころ①とされていたのが、
縄文晩期終末ないし弥生早期の紀元前1000年ころ②とされ、
縄文前期の紀元前4400年ころ③とされるようになった
ことに関連する。
①は一般に、朝鮮半島からの渡来人=弥生人によって立てられた国々が大規模な集約的な稲作を展開したことに関連し、国史的な時代区分の弥生時代に重なると看做されてきた戦後昭和までの常識。教科書でもそう教わる。
②は一般に、縄文人が集落で恊働したもので水田もあったと分かり、縄文人も水田稲作をしていたと沸き立った。最近の教科書はこれも書き加えられている。
私は、
歴史週刊誌は確かに学者たちの最新知識を網羅していて、とても参考になったのだが、こと私が一番知りたかったことについてはスルーしている。
ある学者が①、他の学者が②、さらに他の学者が③についての記事を書いていて、①②③の差異や位置関係を明快に論じるものはなかった。
ならば、自分で検討するしかない、ということになったのだ。
私の得た今のところの結論は、
②は、寒冷化という気候変動のストレスによる農耕民の南下
その帰結として日本での稲作開始
③は、逆に温度上昇という気候変動によって
野生イネの北限が上昇し長江流域で栽培イネが誕生
その稲作が北上しすぐに北限に達して海上を東進
その帰結として日本での稲作開始
ということである。
時間軸を長くとって月から極東を眺めると図のような大きな動向をみてとることができる。
つまり、
先ず寒冷化による「畑作牧畜民」の南下があり、
それから逃れて南下した「稲作漁撈民」の東進、渡海しての日本列島への渡来
マクロから考えて、ようやく②と③の本質的な差異や位置関係がはっきりしてきた。
②は、
彼らが雑穀とイネを同列に「網羅的」に捉え畑作を進化させていったという文脈である。
彼らは当初から家族や集落で狩猟採集も兼業する者たちだった。
③は、
当時の品種が中国で北限にすぐに達して海上を東進する。
その担い手は海上移動を得意とする者で、当初より漁撈と稲作を家族や集落で兼業する者たちだった。
(上の図では南下した畑作牧畜民が4000年前=紀元前2000年ころ長江流域に至り、3000年前=紀元前1000年ころさらに中国南部に至り、稲作漁撈民が渡海し日本列島に至ったことを示している。
③は温度上昇という気候変動によると述べたが、それは海面上昇をともなっていた。つまり東南アジアの半島や島嶼で陸地が浸蝕された訳で、そこからの民族移動もあった筈である。
そもそも縄文人は形質的にそちら方面*を先祖の一つとすることが分かっている。この民族移動が、第何波かの縄文人の渡来となった可能性も否定できない。
インドシナでもともと漁撈と芋などの栽培をしていて、陸地が浸蝕されてそこを脱した者たちの一部が、長江河口域に辿り着き漁撈と稲作をするようになり、さらに海上を東進して日本に辿り着いた可能性もある。
縄文人の遺伝子分析の成果では、東南アジアの旧石器時代人をルーツの一つとすると述べたが、縄文中期の人骨からはバイカル湖周辺がルーツの一つであると分かっている。
これは②の寒冷化に応じた民族移動に関係するのだろう。
ここ数日かけてこのようなことが分かり、
そもそも②と③の違いを、水田稲作が整っているか粗放か、陸稲か水稲か水陸未分化か、乾田か湿田かといったモノモノしい事柄で考えていたミクロな視点のパラダイムに限界があったと気づいた。
おそらく私も含めて日本人は自分たちのおいたちや歴史にすら、ミクロな内向きな視点で見がちなのだから、他のいろんなこともそうである可能性が高い。
ミクロな視点からマクロな視点に脱してそこから回帰するパラダイムに立ちたいと改めて思った。/
*埼玉県浦和市で発掘された5900年前の縄文時代前期の人骨(浦和1号)のミトコンドリアDNAの分析結果から、
浦和1号と同じ配列をもつ現代人は、東南アジアのインドネシア人とマレーシア人だけではないことが分かった。
更に南方からフィリピン人と台湾の原住民が加わった上、中国の漢族も加わった。
これは気温上昇とそれにともなう海面上昇に応じた民族移動に関係するのではなかろうか。