縄文時代から弥生時代への移行をめぐる論題(2:前半) |
歴史学者による最新の時代解説
立命館大学教授 矢野健一
「稲作伝来と普及の謎 なぜ縄文人は稲作を選んだのか」 発
従来の時代区分では、弥生時代が西暦1年と紀元前1年を区切る0年を真ん中にして紀元前4世紀くらいに始まったとされ、新しい時代区分では始まりをもっと遡らせる。
これに関連しその前の縄文時代は、弥生時代早期の前の縄文時代晩期が連動して早まるが、1万年間とされる全体としては影響はないに等しい。
むしろ、今から1万6500年前の土器が見つかったがために、これまで縄文時代が今からおよそ1万2000年前に始まったとされていたのをどう解釈するかがややこしくなってしまった。縄文時代の始まりがおよそ4500年も早まっている。
素人の私としては、「縄文時代=新石器時代」という理解をそのまま4500年早めればいいのかどうか判然としない。
そもそもなぜ専門家は、土器で区切る年代区分と、石器で区切る年代区分(打製石器を使っていた旧石器時代と磨製石器を使うようになった新石器時代)とで連続性を想定しようとするのだろう。
同じようなことは、縄文時代と弥生時代の時代区分においても、土器を指標にするのか、水田稲作の有無を指標にするのかで起こっている。
門外漢の私としては正直、勘弁してくれ、と言いたい。
私としては、モノ起点の時代区分に囚われないで、なるべく時代区分の指標となる概念の影響を受けない形で社会構造というコト起点でチェックしていくしかない。
縄文時代に入って、入った時なのか入って4500年たった時なのか、いずれにせよ今から約1万年前に地球が温暖化して氷河が溶け出し日本は大陸と海で切り離された。
それまでは、旧石器時代なのか新石器時代がすでに始まっていたのかはともかくも、日本列島と大陸の間が陸地でつながっていた。
(更新世の終わり今から約2万年前には、ほぼ現在に近い地形であるが、最終氷期最盛期のため海面が低下し日本海と外洋を繋ぐ海峡は非常に狭かった。)
旧石器時代には、石器は打製石器で、人々は獲物を求めて移動する「移動生活」だった。
打製石器というと園山俊二原作のギャグ漫画「ギャートルズ」に出てくる打製石斧のようなシンプルなものを想像しがちだが、木の棒に小さな石を埋め込んで槍として使った細石器など替え刃的な合理性をもった複雑なものもあった。
家は簡単なテントや洞穴で、10人くらいで生活をしていたとされる。動物や魚や木の実を食べていて、まだまだ「定住生活」を前提とする農耕にはまったく至っていない。
旧石器時代の狩猟採集生活と次の新石器時代=縄文時代のそれとの違いは、
前者ではナウマンゾウのような大型哺乳類を対象としたのだが、後者の時代にはそれが絶滅(今から約2万年前)していたことと、
今から約1万年前に「地球が温暖化して氷河が溶け出し日本は大陸と海で切り離された」その前と後ということである。
つまり、
大陸と地続きの半島状の日本列島にいた旧石器時代人から、
海で囲まれた島嶼状の日本列島にいた新石器時代人への変化である。
狩猟採集する自然環境が地勢ごと大変動すれば、当然、収穫物が大きく変わり、「移動生活」のパターンも大きく変わった。
一番明快なのは、日本列島では大陸のように広域を移動する遊牧民のようなパターンは展開しようがなくなったことである。
そして、海浜部と山間部が近く、大陸に比べて細かい山々に細かい平野が区切られて、回遊する圏域も狭くならざるを得ない。狩猟民と漁撈民の距離感も大陸の内陸民と沿海民のようには大きくはならなかったことである。
旧石器時代は200万年もあり、その間に人類は、類人→原人→旧人→新人と発展していった。
群馬県の岩宿(いわじゅく)で関東ローム層から打製石器が発見され、また沖縄では港川人の人骨が出土して、後期旧石器時代には日本列島ないしはそれに相当する大陸半島?に人類がいたことが分かっている。
最新の形質学的研究では、港川人は縄文人の祖先ではなく、オーストラリア先住民やニューギニアの集団に近いとされ、5万〜1万年前の東南アジアやオーストラリアに広く分布していた集団から由来した可能性が高いとされる。
ミトコンドリアDNA(母系)の分析による縄文人のルーツ解明によると、東南アジアの少数民族と現代のアイヌおよび琉球弧人が共通の因子を持つとされ、形質人類学においてこの両者と縄文人が特に近いとされることから、縄文人のルーツの一つに東南アジアの旧石器時代人が存在したとの見方が可能とされる。
日本列島が大陸と地続きだった時代か、離れた時代か、東南アジアから東北方向への移動を陸上か、海上か、あるいは両方か繰り返して日本列島に至った、そういう縄文人がいたということである。
一方、縄文中期以降のものとされる茨城県や千葉県出土の縄文人の化石人骨から採取されたミトコンドリアDNAは、ブリヤートの人々と共通の因子があるとされる。つまり、縄文人の母系のルーツの一つがバイカル湖周辺にあるとの見方もある。
日本列島が大陸と地続きだった時代か、離れた時代か、バイカル湖周辺から西方向への移動を陸上か、海上か、あるいは両方か繰り返して日本列島に至った、そういう縄文人がいたということである。
私は、縄文人のルーツそのものには関心がない。
関心があるのは、後期旧石器時代の世界には、日本列島ないしは後のそれに相当する大陸半島?に遠来するような「移動民」がいて、陸上、海上の高い移動能力をもっていた、という事実である。
つまり「陸上移動民」や「海上移動民」の世界的な生息である。
私たちは、その一部の日本列島ないし後のそれに相当する大陸半島?に辿り着いた者を「縄文人」と呼び倣わしているに過ぎないのだ。
つまり、
たとえば、「縄文人」と同じ出身地の同じ神話を継承する者が朝鮮半島にも辿り着いていて、朝鮮人の祖先として「◯◯人」と呼び倣わされていたりするのである。
では、「縄文人」は同時代の他所の「◯◯人」と異なるどのような文化的特性を育んだのか。
当然、①極東の日本列島の自然環境に対応して暮らして行く中で培われる文化的特性、というものがまずある。
そして、それに加えて、
同時代の世界中の人類が「陸上移動民」や「海上移動民」だった訳だが、
その中でも②「縄文人」の移動性は海に囲まれた日本列島内の「陸上移動性」と、大陸から少し離れた日本列島を起点としたりその沿岸を経巡る「海上移動性」であったことをベースとする文化的特性があった。
①と②の掛け算が、同時代の他所の「◯◯人」と異なる多様多彩な文化的特性を育んだと考えられる。
約3万年前から約1万年前までが後期旧石器時代だから、以上はその前半の1万年間の話である。
この後期旧石器時代前半の岩宿の打製石器の主は、日本列島がまだ大陸と地続きの半島状だったことと岩宿が関東平野の北西奥、本州のほぼ中央に位置することから、1万年間に陸上「移動民」ないし陸上「転住民」としてその陸上「移動性」を強化していったということになる。
つづく後期旧石器時代後半の1万年間には、そしてその後、日本列島が大陸から離れ半島状だったものが島嶼状になっていくに連れて、海上ふくむさらに活発な「移動」能力や「転住」能力を獲得していたということになる。
つづく新石器時代=縄文時代の「縄文人」は、前の時代から日本列島に生息した者と、その時代に渡来した者から成る。
後者の渡来は、どこから来るにせよ、可能性としては、
一つには、前者が活発な陸上、海上の「移動」能力や「転住」能力の持ち主でそれを遠隔地に向けて発揮した反応として、その地からの後者の渡来があったという経緯が考えられる。
比較的近い島嶼や大陸沿岸部からの渡来があったとすればこの経緯だろう。
そしていま一つには、そうした前者との交流なしの自律的な後者が渡来したという経緯が考えられる。ただしその際、最終的にこの地に留まったのは、この地が自分たちにとって最善と考えたからであって、その根拠は自然環境の出身地との親近性にあったと考えられる。
遠く離れた大陸内陸部から東日本へ、東南アジアから西日本へ渡来があったとすればこの経緯だろう。
ただ、どこから渡来したかという出身地自体には余り意味がない。
それよりも、出身地で営んでいたどのような生活文化を日本列島でどのように「縄文文化」の形成に展開したかが重要である。
ここで主題に入るための基礎知識として土器に関わるベーシックな話にフォーカスしておきたい。
日本の新石器時代である縄文時代について特筆すべきことが2つある。
1つは、
人類の文明発祥の地とされるメソポタミアでも、土器は今からせいぜい8千年くらい前に使われ始めたとされているのに対して
ということである。
つまり、縄文人に当時の新石器時代人としての先進性をみない訳にはいかない。
縄文土器が出現した今から1万6500年前は、日本列島でナウマンゾウのような大型哺乳類が絶滅した約2万年前の3500年後で、より小型の哺乳類も穫ってしまい主食を獣肉から木の実へと変更する事を余儀なくされた時期と考えられている。
また、ドングリやトチノミは食べるためには灰汁を使って渋抜きをする必要があり、そのため灰が必要であった。
ナウマンゾウのような大型哺乳類を狩猟したのも、それが絶滅してより小型の哺乳類を狩猟したのも日本列島ないし後のそれに相当する大陸半島部?に限らない。
当然、大陸でも行われた。
だが、獣肉の代替食料となるドングリとトチノミが分布していた温帯落葉広葉樹林帯は限定され、東日本と朝鮮半島北部と中国東北地方であった。この中で後2者は、獣肉の容易な確保が何らかの形でできた*。
つまり、木の実の主食化の可能性と緊急性の両方があったのが日本列島で、ゆえに土器普及が他に先駆けたと考えられる。
ちなみにドングリを渋抜きして主食化することは、飢饉や戦後の食糧難時代にあっただけでなく、米の栽培困難な東北山村で大正期あたりまで日常的にあった。
また、ドングリの渋抜きには、流水で数日さらす方法と、煮沸による方法があり、特に後者の場合、木灰汁を用いることがある。日本では、前者は西日本から広がる照葉樹林帯で、後者は東北地方や信州に広がる落葉広葉樹林帯でみとめられる。
こうしたことは、縄文時代から連綿と続いた生活文化なのだろう。
土器の製造と使用の成熟化は、「移動生活」が「転住生活」に、「転住生活」が「定住生活」に転換することと相関関係にあったと考えられる。
一つところに腰を据えるほど、集住拠点に集められる採集物が多様化し、その調理のための土器が発達する。
逆に土器が発達するほど、調理法も発達して保存可能な採集物が多品種・多量化して「定住生活」化が促進される。
このようなダイナミズムは人類普遍のものである。
こうした地政学的な民族動向には、
人々をして、生き延びるためには渡来の出身地や経由地の来歴の違いで争わずに集住して共生するしかない、と覚悟させたのではなかろうか。
特筆すべきいま1つは、(すでに述べたことの繰り返しになるが)
基本的には、今から約1万年前からの地球温暖化で日本列島が海で大陸から隔てられてしまったために
日本の新石器時代と世界の新石器時代で大きな違いがある
ということである。
世界では農耕や牧畜がはじまっても、日本列島は農耕が本格化せずに採集経済にとどまっていた。
後には、世界は青銅器そして鉄器を使うようになっても、日本では金属器は使われないままだった。
これは、
日本列島において農耕が本格化し鉄器が実用品として普及するのは弥生時代であり、それは最終的には西日本に大陸から弥生人が渡来してきて達成された。
人口の少なかった西日本の縄文人は弥生人に同化し
と言っていいのかも知れない。
新石器時代の縄文人の生活は土器を使う以外、旧石器時代の人とどう違ったのだろうか。
旧石器時代にマンモスなどの大型動物をとりつくしたせいか、新石器時代にはシカやイノシシなどの動きが俊敏な中小動物をとるようになる。そこで槍ではなく弓矢が使われるようになり、石鏃(せきぞく)という石の矢じりが登場する。
発掘調査から、関東地方や中部地方で出土する石鏃が、長野県の和田峠産の黒曜石であり、かなり遠い地域間で交易が行われていたことが分かっている。
また、新潟県姫川で産出した翡翠(硬玉)が北海道にも渡っていることが確認され、縄文人は丸木舟で海上「移動」して交易をしたと考えられている。
つまり、ざっくり言えば、
狩猟採集する小集団の「移動」が採集栽培する大集団の「定住」に向かうのに並行して
定住拠点同士の交易のための「移動」も盛んになった
ということである。
集住拠点に定住する「定住民」と集住拠点間を移動する「移動民」の役割分担および恊働ということが生まれた
と見ていい。