[週刊朝日百科]日本の歴史50 弥生 稲作の伝来と普及の謎
文部科学省教科書調査官 三谷芳幸氏による連載
「ここまで変わった日本史教科書(50)弥生時代」 発
縄文時代と弥生時代の区分の問題縄文時代と弥生時代を区分する指標は、使用された土器の違い、と、水稲農耕の有無、とされる。
そして、
1980年(昭和55年)頃までの教科書では、弥生土器の出現、と、水田稲作の開始、は同時であり、両者が見られる紀元前3世紀から弥生時代が始まる、という図式だった。
しかし、
1970年代末から1980年代にかけての新たな水田遺構の発見によって、こうした教科書の図式に変化がもたらされる。
具体的には、福岡県の板付遺跡で、夜臼(ようす)式土器の出土する層から、次いで佐賀県の菜畑遺跡で、より古い山ノ寺式土器の出土する層から、水田跡が発見された。
夜臼式土器と山ノ寺式土器は、一般に縄文土器の最終型、突帯文土器に分類される。
つまり、土器的には縄文時代とされる層から水田遺構が出て来てしまったのだ。
板付は、一説に帯方郡の出先機関の軍事拠点だったとされる「一大国」があったところである。
菜畑は、佐賀県唐津市西南部であり、唐津には松浦川や松浦橋があり、唐津湾沿岸は松浦潟とも呼ばれ、かつては長崎県北部の松浦市と同じ郡を構成し、一帯が松浦地方とされる。そして一説にこの松浦地方は弁辰系の「末盧国」があったところである。
ともに、可能性として、これらの水田遺構は、大陸からの渡来民(それを「弥生人」と呼ぶかどうかは別として)によるものなのか、先住民である縄文人によるものなのか、ということになる。
ここで、時代区分の指標の問題が絡んでくる。
もし土器を指標とすれば、夜臼式土器と山ノ寺式土器は、一般に縄文土器の最終型、突帯文土器に分類されるから、①縄文時代に縄文人によってこれらの水田遺構がつくられた、という話になる。とはいえ厳密に言えば、イネと稲作ノウハウがふって湧くことはないから、それらを明治初期のお雇い外国人のような伝道者が伝えたとして、その指導に縄文人が従って始まった、とせねばなるまい。
一方、もし水田稲作の有無を指標とすれば、②その時点で稲作があったのだから、その時点は弥生時代とするしかなく、水田稲作をしていたのはたとえ形質的に縄文人であっても、文化的には「弥生人」とせねばならない。
冷静にこうした議論の全体を俯瞰すると、素人目にみてもトートロジー的な混乱がある。
そして、この種の議論に決着をつけるその仕方によっては、「実際に起ったこと」の説明を逆に複雑にして分かりにくくさせる嫌いがある。
なぜなら、①と②は、時代区分を縄文にするか弥生にするかという論題を除けば、どちらも互いにバッティングせずにありえて両立しうることだからである。
結果的に、岡山県の津島江道(つしまえどう)遺跡などでも水田跡が確認され、同時期に西日本でも稲作が行われていたことが明らかになったこともあり、こうした発掘成果を受けて、教科書には、水田耕作は「縄文時代晩期」に始まった可能性が高いと書かれるようになった。
つまり、稲作の開始と弥生時代の始まりは一致しない、ということになった。
しかし、事態はそのような単純なことだけでは済まなかった。
近年の教科書では、弥生時代の始まりの方を早めて「弥生時代早期」という新たな時代区分を加え、紀元前4世紀あるいは紀元前5世紀とする記述も定着していて、実質的には後者の立場に近い年代観が採用されているという。
以上が、本書の最期に収録されている、文部科学省教科書調査官 三谷芳幸氏による連載「ここまで変わった日本史教科書(50)弥生時代」の内容の整理である。
話はここで終わっていない。
三谷氏も記事の終わりに触れているように、2003年に国立歴史民族博物館が「弥生時代の始まりを紀元前10世紀とする」研究結果を発表したのである。
三谷氏は、「この説はすぐに教科書で紹介されるようになったが、まだ学界に異論があり、本文で全面的に採用されるに至っていない」としている。
2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。
これによると、
弥生早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から
弥生前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から
弥生中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から
弥生後期のはじまりが紀元50年頃からとなり
古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉
となる。
春成秀爾氏(国立歴史民俗博物館研究部教授)は
「
弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたけれども、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。
弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」
と述べている。
民博の時代区分にのっとると、一般に縄文土器の最終型、突帯文土器に分類される夜臼式土器と山ノ寺式土器が、その弥生時代早期に位置づけられることになる。
大陸では周王朝(西周)が最盛期すなわち安定期にあり、春秋戦国時代のような、国家の興亡による朝鮮半島や中国大陸からの強い渡来圧力があったとは考えにくい時期である。
(国家の興亡に絡む渡来の可能性としては、紀元前11世紀半ばに殷が滅びてその遺民が被差別民として「商人」化し、一部が朝鮮半島北部東岸に至ってそこで遠隔地交易拠点を形成し、さらにその一部が島根半島に渡来して環日本海交易ネットワークのハブ拠点=出雲を形成する、その展開がこの弥生早期あるいはすでに縄文晩期にあったと考えられる。)
縄文土器の最終型が使われつつ水田稲作が始まった時期を「突帯文土器文化期(3000~2800年前ごろ)」と呼ぶならば、それは、初期水田稲作が縄文生業から弥生生業への大変革となったものの、あくまで縄文的な文化伝統の枠内で原初的な水田稲作が部分的に取り入れられたに過ぎなかった。
なぜなら、水田稲作が始まっているにも関わらず、米を焚いて食べる土器がそれに適した弥生式土器になっていない、本来、木の実や豆の煮炊きに適した縄文式土器で間に合わせていたからである。
それは特殊な過渡期的な状況であり、渡来民である大陸人(弥生時代ではないので「弥生人」とは呼べない)と先住民である縄文人との関係性が影響していると考えられる。具体的には水田稲作が大陸人によってもたらされたが、イネを耕作して米を食べる縄文人は従来の縄文文化の枠組みの中で稲作も米食もやっていたということである。
そのような形で大陸人が縄文人に同化したとは考えにくいから、
大陸人は定住化せずに「移動民」として稲作拠点にやってきては収穫した米を交易品目として他所に流通させたか、
そのような稲作拠点を開拓する「転住民」として新天地を求め続けたかした
と考えられる。
そして先住民の縄文人の方も、そうした大陸人に同化しようとせず、大陸人の指導で水稲耕作をするものの、
「定住民」として従来の自分たちの生活文化の大枠を変えないで、米食には消極的で少なくとも米だけを主食とすることはなかった
と考えられる。
(弥生早期あるいはすでに縄文晩期に、殷遺民の「商人」由来の朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易民が渡来したと思しき、島根半島西部の環日本海交易ネットワークのハブ拠点=出雲は、その活動を維持すべく後背地に稲作拠点を設けた筈である。
その際、遠隔地交易民である「出雲族」は後背地の縄文人を稲作民化したが、彼らを支配するのではなく交易相手としたと考えられる。その場合の大陸人「出雲族」と先住民の縄文人の有り方が以上のような関係性になる。)
この時期、北部九州にはまだ呉(紀元前473年滅亡)の遺民を祖とする「安曇氏」は渡来していない。
しかし、春秋戦国時代の国家の興亡による渡来民の流入はまだなかったものの、すでに大陸からの渡来民の渡来と稲作の伝来はあったということである。
それは縄文晩期よりはるか前に遡る。
そもそも中国での水田稲作が、イネの栽培種を交易によって他に伝播させうるような大規模拠点で行われた初めはいつ、どこだろうか。
それは、河姆渡遺跡に間違いない。
河姆渡遺跡は、紀元前5000年頃〜紀元前4500年頃の新石器文化(約7000年前〜約6500年前)で、浙江省東部の杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域に広がる。
水稲のモミが大量に発見され、大規模なイネ栽培が行われていたことが明らかになった。
イネの他に、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、マメなどの植物、ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や魚豚、犬、水牛などの家畜も発見された。
干欄式建築(高床式住居)が数多く発見されていて、石器は少なく、石斧など工具として使われた磨製石器や装飾品が発見されている。木器や骨器が多く発見されている。
河姆渡文化は、太湖周辺から杭州湾北部に分布した馬家浜文化(ばかほうぶんか)とほぼ同時期にあたり、異なった文化が互いに影響しあいながら共存していたと見られる。
大規模な稲作拠点は、自給自足のための米を上回る生産をして、交易拠点の後背地となっていたと考えられる。
今から7000年から5000年前まで(紀元前5000年から紀元前3000年)のヒプシサーマル(気候最温暖期)に、海面が低い位置で安定していて栄えたが、今から5000年から3900年前(紀元前3000年から紀元前1900年)には海面水位が上昇し頻繁に氾濫し放棄されたと考えられている。
黄河中下流の二里頭(紀元前2100年頃〜)の新石器から青銅器に至る文化は、この終盤からの時代である。
殷(紀元前17世紀〜)はさらにその後の時代である。
二里頭遺跡は都市や宮殿を伴い、都市国家の祖型の様相を示すが、河姆渡遺跡は交易拠点群とその後背地をなす大規模稲作拠点群の広がりであった。
ここで、
6400年前(縄文前期)の岡山県の朝寝鼻貝塚遺跡におけるイネ栽培が正しければ、
それは、
世界最古級の河姆渡遺跡が生まれた7000年前の600年後
放棄された6500年前の100年後
ということになる。
また、
約6000年前(縄文前期)の岡山県の彦崎貝塚遺跡の地層から検出(2005年)された2000〜3000個という大量のイネのプラントオパールも、イネ栽培を示すとされている。
こちらは、イチョウの葉状からジャポニカ米の系統とみなされている。
小麦・キビ・ヒエやアフリカ原産のシコクビエ、コウリャンも少量ながら発見されている。
これまででイネ栽培が始まっていたとされる約4000年前(縄文後期)をはるかに遡ること2000年以上前の朝寝鼻貝塚遺跡と彦崎貝塚遺跡を考え合わせると、
瀬戸内地方の沿岸に
杭州湾から瀬戸内海に至る海上交易によって
最初は米が交易されていたがやがてイネの栽培種がもたらされた
と考えられる。
こうした経緯においても、
大陸人は定住化せずに「移動民」として稲作拠点にやってきては収穫した米を交易品目として他所に流通させたか
そのような稲作拠点を開拓する「転住民」として新天地を求め続けたかした
先住民の縄文人も、そうした大陸人に同化しようとせず、大陸人の指導で水田稲作をするものの、「定住民」として従来の自分たちの生活文化の大枠を変えないで米食には消極的で少なくとも米だけを主食とすることはなかった
という経過が展開したと可能性がある。
春秋戦国時代の国家の興亡による渡来圧力が働くのは、
民博の時代区分にのっとると弥生後期(Ⅴ期)
教科書の区分にのっとると弥生後期および弥生終末
に相当する。
後漢ないし魏や西晋の時代である。
この時代に、
大陸からの強い渡来圧力があり、すでに土着民によって水田稲作が展開していたところに
渡来民が進出して「一大国」そして「奴国」、「末盧国」が成った
と考えるのが自然である。
この辺りの話には時代区分の取り方の違いによる落差は少なく影響はあまりない。
稲作の伝来と普及についての見方
1980年代の教科書の記述では、
九州北部に伝来した後の稲作の普及については、弥生前期(=紀元前3世紀)に西日本まで
弥生中期(=紀元前2世紀〜紀元1世紀初頭)に関東地方まで
弥生後期(=1世紀半ば〜3世紀初頭)に東北地方まで広まった
ということだった。
時空的に分かりやすく整理されていて容易に記憶した人も多かったに違いない。
しかし、
青森県の垂柳(たれやなぎ)遺跡で紀元前100年ころ(弥生中期末)の水田跡が検出され
同県の砂沢遺跡で弥生前期(紀元前800年ころ〜400年ころ)の水田跡が検出され
また東北各地で九州北部の稲作文化に密着する遠賀川系土器が発見されて
東北地方には(1世紀半ば〜3世紀初頭よりも)もっと早い時期に稲作が伝播していたと考えられるようになった。
逆に、
関東地方は狩猟・採集・漁撈の存在感が大きく、東北よりもおくれて稲作を受容したことが明らかになった。
以上を受けて、
前述の教科書の記述はみられなくなったという。
なぜそれまで、北九州への大規模な伝来、そして北九州からの全国への東進伝播という図式が容易に常識化し、まったく疑われなかったのか。
私は、2つのことが前提されたためではないかと思う。
1つは、
様々な弥生人と縄文人の関係性が想定されたのだろうが、
基本的に弥生人を「定住民」とし縄文人とともに「定住社会」を構成したという前提。
いま1つは、
そのような弥生人主導の「定住社会」が、戦前、漠然と記紀の神武東征の時空に重ねられた、西から東への展開という前提。
そして戦後、皇国史観からの脱却をはかるマルクス史観による進化論的な発展という前提。
両者はともに、一つのパラダイムで日本列島全体の稲作および稲作社会を画一的に捉えるという前提であることで一致している。
それは一般的な日本国民の「単一民族」意識とも通底している。
しかし、すでに検討したことからも明らかなように、
日本列島の各地に、時期を違えて多様な大陸人が渡来し、現地の先住民である縄文人と多様な関係性を構築している。
個別具体的な「実際に起ったこと」には諸説あろうが、このことは間違いない。
また、日本人には古来、「定住民」だけがまともで「定住社会」だけが社会の当たり前の姿であるという価値観が、誰に言われる訳でもなく前提されている。すべての中間団体がその前提で成立してきたからだろう。
そのため、「実際に起ったこと」としては、大陸人は交易者にしろ侵攻者にしろ「定住民」ではなく、交易拠点や転戦拠点を行き来する「移動民」であったり、新しい交易拠点や転戦拠点を開拓すべく移り住む「転住民」であったりしたことが、軽視および無視されてきた。
個別具体的な「実際に起ったこと」には、大陸人も縄文人も「定住民」として「定住社会」を構成する「くに」ないし「国」とその中間団体ばかりでなく、「移動民」が構成主導する「移動社会」とその中間団体、「転住民」が構成主導する「転住社会」とその中間団体が存在した。
一般的に「出雲族」「テュルク族」「濊(わい)人」「倭人」「安曇氏」などと呼びならわす族的結合も、それぞれに異なる有り様を示す中間団体の存在を暗黙裡にあるいは無自覚的に想定している筈なのだ。
たとえば、関東地方をパスする形で東北地方、しかも本州最北端の東北北部に水田稲作がもたらされていて、しかもそれは水稲稲作ばかりをする「選別型農耕」の大規模稲作拠点であり、なぜか限られた期間で放棄され東北北部の水稲稲作はその後、奈良時代の開拓史を待たねばならない。
このような展開をした主体がいた訳で、その中間団体が関与していた訳で、それを問うという設問の立て方も必要だ。しなくてよいというものではない。仮説を立てて他の仮説との整合性を検討していくことは意義があろう。
東北各地で九州北部の稲作文化に密着する遠賀川系土器が発見されていることからも明らかなように、日本列島内には遠隔地交易のネットワークが機能していたことは間違いない。
私は、
弥生前期の砂沢遺跡、弥生中期末の垂柳(たれやなぎ)遺跡は、大陸人の「転住民」が新交易拠点を開拓しようとしたが結果的に放棄したもの
と仮説する。
水田稲作の北限に挑戦するかのように「選別型農耕」を選んだのは、
基軸通貨的な交易主品目となっていた乾田水稲耕作の温帯ジャポニカ米を現地生産で調達することで
その大規模稲作拠点を後背地とする沿岸部の遠隔地交易拠点が何らかのビジネスチャンスを捉えようとした
と考える。
結果的にビジネスチャンスが破綻したゆえの、後背地の大規模稲作拠点の放棄だった
と考える。
市場環境の変化による撤退ということは、大陸人由来の交易者「転住民」が構成主導する「転住社会」にはありがちなことであるのは、現代世界の企業活動と同じである。
ちなみに砂沢遺跡では、弥生前期の遠賀川式土器がみつかる一方で、縄文文化の象徴である土偶もみつかっている。
これは、大陸人に指導されて水田稲作をした縄文人が弥生式土器で米食もしたものの、信仰生活においては自分たちの縄文文化を維持したことを示すものと考えられる。
弥生前期や弥生中期末に、なぜ津軽半島の付け根のような稲作北限でわざわざ水稲耕作の大規模拠点の開拓が挑戦されたのか。
それを後背地にもつことで、津軽半島沿岸部の遠隔地交易拠点が何らかのビッグビジネスを展開できたから、と考えるしかない。
なぜなら、もし大陸人が単純に定住して縄文人を取り込む形で「定住社会」を構築するだけであれば、生産立地的にも、縄文人という労働力的にも、稲作漁撈よりも畑作牧畜を推進した方が合理的である。実際に大陸の北方では新石器時代人が畑作牧畜民になっている。騎馬民族化した遊牧民も畑作をしていて、匈奴などはその不作のために侵攻したのだった。
また、もし大陸人が単純に定住して縄文人を取り込む形で「定住社会」を構築するだけであれば、食糧の安定確保のためには稲作も水田で米だけをつくる「選別型農耕」ではなく、畑で雑穀もつくる「網羅型農耕」を展開した方が合理的である。実際に二里頭が栄えたのは数種の穀物の栽培を網羅することによる不作リスクの回避が奏功したからだった。
主体およびその中間団体が、そうはしなかったのは、「定住民」の「定住社会」を志向しなかったからと考えるしかない。
考えられる可能性は、「移動民」の「移動社会」を志向したか、「転住民」の「転住社会」を志向したか、ということである。
結果的に私個人的には、
主体およびその中間団体の周辺で、基軸通貨的な交易主品目となっていた乾田水稲耕作による温帯ジャポニカ米の量産に専念する大規模稲作拠点を後背地にもった遠隔地交易拠点だからできるビジネスチャンスを捉えたから
と仮説した。
そしてそれが放棄されたのは、市場環境の変化によって、後背地における米の現地生産の必要性が無くなり、沿岸部の中継地としての遠隔地交易拠点だけで十分になったため、と考えた。必ずしも「定住社会」の集落の放棄のように気候変化や自然災害に原因を求める必要はない。
一般的に、先にアワやキビなどの雑穀が普及していて、そこに陸稲がそして水稲が普及したという進化論的なプロセスが前提されている。
しかし、以上の弥生前期・中期末の津軽半島の水田跡のような、大陸由来の交易者「転住民」が主導して先住民の縄文人が稲作民化したと思しきケースもあるから、雑穀から米へという進化論的なプロセスはけっして普遍的ではない。
6000年以上前の朝寝鼻貝塚遺跡や彦崎貝塚遺跡のプラントオパール
約4000年前の板屋Ⅲ遺跡の籾圧痕
以上を考えに入れない
一般論としては、
①日本列島にイネやアワ・キビが伝来したのは紀元前1000年ころ(約3000年前)で
②水稲耕作がその100年後の紀元前900年ころに始まっている
とされる。
これは進化論的プロセスにそう。
遺物遺構を進化論的プロセスで解釈できる。
しかし、「実際に起ったこと」には進化論的プロセスにそわないケースも多々あり、
同じ①②の展開も、大陸由来の交易者「転住民」の渡来を前提すれば以下のように仮説できる。
①の段階の縄文晩期終末では、
大陸由来の交易者「転住民」が、米を交易品目としていなくて
穀物はもっぱら自分たちの安定した食糧として複数の雑穀を自分たちで栽培し
最もリスクなく効率的に食糧を量産できる雑穀の「網羅型農耕」を展開した
雑穀でも縄文人にとっては新来の希少価値があり、渡来民は彼らの狩猟産品と交換してタンパク源を補った
(この段階では、渡来民は縄文人を労働力としてよりも交易相手・交易恊働者として看做していた。)
②の段階の弥生早期では、
大陸由来の交易者「転住民」が、基軸通貨的な価値をもった乾田水稲耕作による温帯ジャポニカ米を交易主品目としていて
大規模拠点で水稲耕作による量産に特化した「選別型農耕」を展開した
(この段階では、渡来民は縄文人を労働力として看做し、稲作民化する必要から大陸人と縄文人の関係性は支配・被支配、あるいは管理・被管理となった。)
そして①の段階は、
縄文晩期終末よりずっと前、つまりは
6000年以上前の朝寝鼻貝塚遺跡や彦崎貝塚遺跡のプラントオパール
約4000年前の板屋Ⅲ遺跡の籾圧痕
まで遡ることができる。
ここで、西日本の穀物栽培が縄文にまでさかのぼるとした「縄文後晩期農耕論」を振り返っておこう。
「縄文後晩期農耕論」は、弥生時代の本格的な水稲耕作を受け入れる母体が縄文時代に準備されていた筈だというもので、進化論的な発展段階シナリオをイメージしていた。
そして大規模拠点での水田稲作による「選別型農耕」の受け入れは北部九州から始まり東進伝播したというザックリとしたイメージが付随した。
結果、漠然とした「稲作進化東進の常識」が合成された感じがする。
しかし「稲作進化東進の常識」を否定する重大な事実として最終的に以下のことが判明している。
①これまでのレプリカ法で判明したもっとも古い確実なイネ籾の圧痕資料は、島根県飯南(いいなん)町板屋Ⅲ遺跡の縄文晩期終末の土器である。
②縄文後晩期の焼畑農耕として重視されるアワやキビの出現も、確認される圧痕資料はいずれも縄文晩期終末であり、①のイネの出現を越えることはない。
その上で、
縄文後晩期の焼畑農耕は、打製石器の土掘り具などの増加を根拠としているが、圧痕資料が出て来ないことから根拠に乏しいとされる。
縄文晩期終末、つまり弥生早期前夜に、イネとアワやキビの穀物耕作がほぼ同時に北九州以外で展開していたことは確かである。
これは、
穀物栽培のなかった日本列島に複数の穀物種を持ち込み
気候風土への適性を調べるかのように北九州以外でも耕作を始めた者がいた
ということではなかろうか。
だとすれば、
縄文時代からの穀物栽培の進化論的な発展段階シナリオがまず崩れ、
弥生時代からの水田稲作の東進伝播も、西日本に限ったとしても疑わしくなってくる。
穀物栽培のなかった日本列島に複数の穀物種を持ち込み
気候風土への適性を調べるかのように北九州以外でも耕作を始めた者
とは、
大陸由来の新拠点開拓型の交易者「転住民」ではなかろうか。
なぜならば、
交易者であれば、穀物の生産拠点をやみくもに開拓することはなく
日本列島内の某かの遠隔地交易拠点の後背地にそのニーズを満たす穀物栽培の拠点立地を探査した筈であり
そのような見立てができる穀物栽培拠点を多くの遺跡として見受けるからである。
雑穀の場合、米とは異なり山間地の畑でも耕作可能という点が大きく違う。
また、焼畑などが水田稲作に比べて手間が掛からない点も大きく違う。
たとえば、山間に鉄資源の採掘拠点を求めその後背地に産鉄民を送り込む産鉄拠点を求めた場合、鉄資源の採掘と燃料木材の伐採を縄文人との恊働に依存することになる。
交易者「転住民」は産鉄拠点開拓にあたり、産鉄民、採掘民、伐採民の食糧の調達を限られた労働力で効率的にはからねばならないため、複数の穀物の「網羅型農耕」を選択するしかなかった。
弥生時代の本格的な穀物栽培は、乾田(灌漑水田)稲作に特化した労働集約型の「選別型農耕」であり、それは河口や盆地の平野部の「定住社会」の人口増加を促し、そのための農耕生産力の増大が必要なので労働力の拡大再生産志向=稲作拠点の大規模化志向を内在させている。
これに対して、
縄文時代の植物利用方法は、主食を賄えるマメ類の栽培は行われていたもののクリやトチの管理栽培を基本とし、それは人間の方が山間部を回遊してする収穫を自給自足分に限定し森林資源を維持するもので、決して消費者としても労働力としても人口増加を促すものではない。
よって、
山間部の森林資源に頼る縄文文化は、一般的には平野部の水田という生産手段に頼る弥生文化と理念的にも環境的にも相反する。
しかし、
山間部の産鉄、鉄資源採掘、燃料木材伐採を連携させる弥生文化は、
山間部の森林資源に頼る縄文文化と親和性が高い
(伐採に匹敵する植林をするとして)。
大陸由来の産鉄民が産鉄に徹し、
そのお膳立てを山間部の先住民である縄文人が従来の生活枠組みに採掘と伐採を取り込んでする
という恊働関係が成立するからだ。
「縄文後晩期農耕論」は、縄文文化は植物についての知識が豊富でそれが農耕文化を受け入れる母体になったという。
確かにそうかも知れない。
しかし、縄文文化が集約的な労働を必要とする穀物栽培の母体を用意したとは言えないのも確かだ。
つまり、
一般論として、縄文の採集栽培文化が無条件でシームレスに弥生の田畑農耕文化に繋がったという進化論的プロセスはありえない。
私個人的には、
山間部の森林資源に頼る縄文文化と親和性が高い
山間部の産鉄、鉄資源採掘、燃料木材伐採を連携させる弥生文化において
集約的な労働を必要としない雑穀の畑作が導入され
それによって従来の狩猟採集の労働を軽減した縄文人が採掘と伐採の労働を担った
といった迂回的な経路をへて縄文の採集栽培文化は弥生の田畑農耕文化に繋がった
と考える。
合わせて、
そうした両者の繋がりを集落ごとの共有空間化したものが「里山」となったのではないか
と考えている。
島根県飯南町は、出雲国の西部にかつてあった中海、神門水海に注いでいた神門川の源流を発する中国山地の町である。
周知のように出雲地方は、古事記の出雲神話や出雲風土記の記述に中国や朝鮮との盛んな交流や渡来人の活動を想像させる内容が多々ある土地柄である。
出雲半島の西部海浜から東部海浜にかけて中海が並んでいた。その河川下流域は、大陸由来の交易者「転住民」が意思をもってすれば乾田(灌漑水田)稲作に特化した労働集約型の「選別型農耕」を展開できる平野部が広がっていた。
しかし、
縄文晩期終末の土器からイネ籾の圧痕資料が見つかったのは平野部ではなくて
川の源流近くの水の豊かな山間地だった
ということに注目する。
いったい、朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点から渡来した「出雲族」の交易者「転住民」は、どのような新拠点を開拓しようとしたのだろうか。
縄文晩期終末とは紀元前1000年の直前で、ちょうど殷が滅亡してその遺民が「商人」化して朝鮮半島北部東岸に逃れた一派が、環日本海交易ネットワークを前提した遠隔地交易拠点を形成した時代である。
さらにその一派が日本列島の島根半島に渡来し、西部の神門水海という潟湖様の中海に環日本海交易ネットワークのハブ拠点を構築した、と私個人的には考えている。
環日本海の交易拠点群のそれぞれを、中国亡命民から成り上がった交易ビッグマンたちがその構築運営者として率いていた。
交易ネットワークとは実質的に彼ら交易ビッグマンたち同士の同盟だったと考えられる。
その同盟の盟主が、出雲のハブ拠点を率いたその構築運営者でもあるメタ交易ビッグマンで、これを出雲神話のオオクニヌシが象徴している。
彼らの遠隔地交易は、漠然とお互いの産品を交換するものと、一般的に考えるでもなく思われている。
しかし私個人的には、
中国亡命民から成り上がった環日本海の遠隔地交易拠点の交易ビッグマンたちが恊働した交易は
当時の極東最大の市場である中国の王宮や都城を商品の最終消費地として想定するものであり
彼らの恊働とは具体的には原材料を持ち寄ってそれをアッセンブルして完成品を共同生産することだった
と考えている。
そして重大なポイントは、
彼らの交易課題には
文明文化の先進性を誇る市場に向けて
文明文化の後進性のある東夷の資源を活用するという大命題が宿命づけられていた
ということである。
もちろん中国の王宮や都城に倣った市場が朝鮮でも生まれてくるが、それはもっと時代が下った紀元後のことである。
殷が滅びたのが紀元前11世紀後半、その後の西周の中国安定期に環日本海交易ネットワークの対中国市場向けの活動が活発化したとして、それは紀元前8世紀初頭にかけてのことである。
殷が青銅器文化で、その殷を鉄製武器によって周の連合が一蹴してしまった。よって西周は利器は鉄器で、青銅器はもっぱら威信財や祭具として展開した。中国王朝型の市場が成長しはじめ、富裕層の民需も立ち上がっていく時代である。
航海を伴う遠隔地交易の場合、なるべく軽くてかさばらない希少価値のある商品が目玉となる。
その上で、文明文化先進の中国市場に向けて、文明文化後進の東夷の交易拠点群が共同生産できる商品は限られている。
私個人的には、
翡翠や珊瑚のような各種宝石を環日本海の交易ビッグマンたちが出雲に持ち寄り
島根半島西部の神門水海隣の山地が産銅地帯であることを背景に
出雲で青銅をベースとして各種宝石をあしらった宝飾品にアッセンブルする
そうした高付加価値化商品の共同生産がなされた
と考えている。
青銅というとイメージが湧かないかも知れないが、遠目からは金と見まがう金銅なのである。
王宮の妃がつける宝飾品は金無垢がベースだが、あまたいる官女がつける宝飾品は宝石は本物でもベースは青銅=金銅でよい。
都城の富裕層の婦女は金無垢ベースだが、あまたいる庶民の婦女は青銅=金銅ベースでよい。
市場的には後者の方がボリュームゾーンを形成する。
ボリュームゾーン普及多売型の宝飾品を、環日本海の交易ビッグマンたちは恊働によって共同生産できたのである。
このような具体的なビジネスメリットがなくて、どうして環日本海の交易ビッグマンが恊働して交易ネットワークを形成することがあろうか。
島根半島西部の神門水海がハブ拠点となったのは、
当時の洋の東西の遠隔地交易港の条件である潟湖様の中海であることを必要条件として満たし
隣の山地が産銅地帯であり中海沿岸に青銅器工房を展開できたことと
近くの玉造温泉に勾玉などの宝石加工工房を展開できたことを十分条件として満たしたから
と考える。
私個人的には、神門水海という中海の北部水域、ちょうど出雲大社の大鳥居がある丘陵頂部から日本海とともに見下ろせる水域が、大型の貸し舟を展示ブースとした水上見本市会場となったと考えている。商品を持ち込む交易者が大型の貸し舟=展示ブースで商品サンプルを見せ、商品を仕入れる交易者が小型の貸し舟を移動手段として会場水域を回遊した。
つまり、
「出雲族」がハブ拠点で展開した遠隔地交易とは
中国の都市国家の城塞市場よりも先鋭的なプロ同士=BtoBのビジネスメッセだった
と考える。
朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点から日本列島に渡来した、新拠点開拓型の交易者「転住民」の「出雲族」が、最初にしたことは何だったか。
それは、銅や鉄や金といった金属資源と翡翠のような宝石資源の在り処の探査だったに違いない。
その上で、どのような金属素材の生産拠点とどのような金属器の製造拠点や宝石の加工拠点をつくり、どのようにその産品をアッセンブルすれば中国市場を狙う高付加価値化商品になるかを構想した筈である。
そして、環日本海の交易ビッグマンたちが共同生産するビジネスモデルの大枠を設定し、ビジネスモデルの提案や恊働の交渉をする会議体が設けられ(「神議り」)、遠隔地から商品を仕入れる交易者を集客するための話題性あるデモンストレーション・イベントが構想され、その具現化にふさわしい立地や環境が最終的に選定された。
私個人的には、
そのようにして島根半島西部の神門水海の北部水域が水上国際見本市会場となっただけでなく、
河川を少しく遡ったところの大型の四隅突出型墳丘墓群が、平らな頂部をステージとして、宝飾品であれば美女モデルたちがそれを身につけて実際に模擬祭祀をデモンストレーションする万博パビリオンとなった
と考えている。
(参照:出雲大社への旅の道すがらの雑考(10:総括 その6 結論仮説)
話が脱線したようだが、そうではない。
朝鮮半島北部東岸の遠隔地交易拠点から日本列島に渡来した新拠点開拓型の交易者「転住民」の「出雲族」の場合、
以上のような総合的なマーケティング構想という深慮遠謀をもって、
最初に鉱物資源の採掘拠点を山間地に探し出し、そこでの活動を支える食糧生産拠点として山間地の穀物栽培拠点を展開した
という可能性を主張したいのである。
逆に言えば、
大陸由来の交易者がわざわざ日本列島にきて山間地で雑穀栽培をするかさせるかするには、背景に深慮遠謀をともなった大きな動機が不可欠なのである。
また、
先住民の縄文人の方も、主体的に新来の大陸由来の雑穀栽培をしたとしても(アワやキビの野生種は日本列島になくその栽培種は外来)、わざわざ三瓶山のような飯南の山間地でする動機が不可欠だが、彼ら自身には見当たるものがない。
もちろん、穀物の栽培種と栽培法の伝播には、遠隔地交易者も民族移動も介在しない、言わば自然発生的な伝播もあり、それは追って検討する。
しかし、それは概ね中国大陸を北上したり朝鮮半島を南下したりといった陸続きのケースである。その延長に長江を下って海に出て海流に乗って日本列島へという渡海のケースもあるがそれは概ね海岸沿岸のケースである。いきなり火山近くの山間地ということは、自然発生的にはありえない。
ちなみに、島根県飯南(いいなん)町板屋Ⅲ遺跡では、7000年以上も前の地層から、ヒョウタンとキビに混じって、稲のプラントオパールが検出されている。
これは縄文早期にあたり、アカホヤ火山灰層(7300年前)の上下層からも出土して年代確定されたという。
中国の河姆渡の水田遺跡の年代にも相当するものの、こちらは山間地の陸稲稲作か湿田稲作だったと考えられる。(河姆渡は籾から熱帯ジャポニカと推定されている。板屋も陸稲栽培に適した熱帯ジャポニカの可能性が高く、水陸未分化で湿田稲作もしたのではないか。日本列島への温帯ジャポニカの伝来とその乾田稲作は後世のことと考えられる。)
以上から分かることは、
火山を形づくるマグマに金属元素が含まれているため金属鉱床は火山近くにある。そういう経験則を大陸由来の「出雲族」は持っていたのではないかということ。
そして、金属鉱床の探査や採掘のための大陸人の渡来は縄文早期から始まっていて、以後綿々と繰り返されていた。当初は、探査や採掘の拠点に「移動民」としてやってきて成果を持ち帰る形で食糧持ち込みだったと考えられるが、
土器からイネ籾の圧痕資料が見つかった縄文晩期終末の段階では、探査や採掘の従事者が「転住民」ないし「定住民」として拡大し、彼らのための食糧生産拠点が「網羅型農耕」によって営まれるようになっていたと考えられること。
そして、米が熱帯ジャポニカということは、イネ他の穀物栽培種ともども穀物栽培指導者が朝鮮半島から来った可能性が高いこと
である。
主に陸続きの大陸を前提とする自然発生的な穀物の栽培種と栽培法の伝播については、以下のような日本への水稲耕作の伝来ルート説がある。
水田稲作の伝来ルートについては諸説あるが、当時の航海技術やイネ育成の北限、そして日本列島でもっとも早く稲作が行われたのが北部九州地方であり、そこにみられる石器や墓などの文化が朝鮮半島南部と近いことから、山東半島から遼東半島を経て朝鮮半島を南下して北部九州に上陸したルートが最有力とされている。
そして宮本一夫氏が、山東省棲霞県楊家圏遺跡のボーリング調査によって、紀元前2500年前ころの龍山文化の地層から多量のイネの化石であるプラントオパールを検出し、山東省膠州趙家荘遺跡から水田跡が発掘され、この説が裏付けられたという。
宮本氏は朝鮮半島から日本列島の農耕を四段階に分けた。
①華北型農耕を特徴づけるアワ・キビ栽培が紀元前4千年紀後半に南下して朝鮮半島北部に広がり
②遼東半島に伝わった稲作が紀元前3千年紀後半に朝鮮半島中南部に達してアワ・キビと複合し
③さらに紀元前2千年紀半ばに水田が山東半島から遼東半島を経て朝鮮半島に広がり
④そして紀元前8世紀にその穀物栽培コンプレックスが日本列島に伝来した
これは、福井県水月湖のボーリングコアから得られた菱鉄鋼と方解石の量比を基準に北米の樹木の年輪から得られた結果に照らして分かる寒冷期
①紀元前3300年ころ
②紀元前2300年ころ
③紀元前1600年ころ
④紀元前1200年ころ、前1000年ころ、前750年ころ
にそのまま対応するという。
つまり宮本氏は、農耕の伝播とそれに伴う集団の移動つまりは「転住」は、寒冷化という環境変動のストレスモデルにもとづくという仮説を提示したのであった。
この説は、日本列島への農耕の伝播をとらえて、
④そして紀元前8世紀にその穀物栽培コンプレックスが日本列島に伝来した
寒冷期④前750年ころ
とするものと言えよう。
「穀物栽培コンプレックス」とは、陸稲と雑穀を前提する「網羅型農耕」と水稲に特化する「選別型農耕」の複合ということで、
要は両者が適材適所で立地により選択されて展開したということである。
ただし、そうした動向の背景を極東レベルで俯瞰すると、寒冷化という環境変動のストレスが背景にあったという主張である。
寒冷化という環境変動のストレスが背景にあったということは、二通りの解釈ができる。
一つは、
寒冷化という環境変動のストレスを嫌った農耕民が南下した
ということで
これは当たり前だが、農耕民の南下については説明できるが北上については説明できない。
一つは、
寒冷化という環境変動のストレスが北方民の南下を起こし
順次、南方民が逃亡するということが
民族レベル、「くに」レベル、「国」レベルで起った
ということで
中国大陸や朝鮮半島では実際にそのような事態が繰り返している。
ここで気づくのは、寒冷化という環境変動のストレスで大方のことが説明できるがやはり稲作民が稲作の北限を北進させてまでした農耕民の北上は、人間の意志によるものであり、これは説明できない。敢えてすれば、寒冷化が収まり逆にヒプシサーマル期(気候最温暖期)に農耕民が北上するという説明ができる。しかし、寒冷化によりそこに暮らせずに南下するのが自然発生的とすれば、気候最温暖化によってストレスフリーになってもそこで暮し続けられるのに敢えて北上することは、意志によるしかなく目的志向的とでも言うしかない。そして、稲作の北上に関しては、栽培種を品種改良してするのでなく温暖化に乗じての北上であれば、また寒冷化すれば戻ってこなければならない。しかし実際にはそのような後戻りする稲作の北上はなく、栽培種を品種改良して北限を北進させることを繰り返してきた。これは明らかに、何らかの背景や動機に基づいた目的志向的な動向である。その点は、遠隔地交易民の新拠点開拓型の「転住民」が介在する穀物の栽培種と栽培法の伝播と通底している。
水稲耕作の北限の北進は、稲作民自らが自分の水田を耕しながらしたとは考えにくい。やはり、何らかの新拠点開拓型の「転住民」交易者が、より寒冷に強い新栽培種を、より北方の水稲耕作をしていない土地に持ち込み、そこを新たな生産拠点化する形で展開したと考えられる。「くに」ないし「国」が成立していた時代であれば、「くに」ないし「国」を超えて自由に行き来する遠隔地交易民が生産拠点の構築からそこへの稲作民の入植、さらには収穫の買い取りと流通までを手がけ、米の生産地と消費地の拡大を並行させることで、稲作の北進は総合的な市場開拓成果として定着していった筈である。よって、農耕の伝播の全体を、南下と北上を合わせて説明するのは、寒冷化による環境変動のストレスその時代の穀物の生産と消費の新状況を新市場として創出していく交易者の動きその両方ということになる。
たとえば、 ④そして紀元前8世紀にその穀物栽培コンプレックスが日本列島に伝来した
寒冷期④前750年ころ
の農耕の伝播を朝鮮半島から北部九州地方に限ってみてみよう。
農耕民自らが自然発生的に渡海したとは考えられないから、やはり朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした海上移動性に富んだ交易民「倭人」の介在を想定せざるを得ない。
そして、朝鮮半島には温帯ジャポニカの遺伝子がなかったから、朝鮮半島南端を拠点とした「倭人」が関わったのは熱帯ジャポニカの陸稲栽培と湿田稲作だったと考えられる。
それが同族である北九州沿岸を拠点とする「倭人」に伝播しての渡海=南下があったのだろう。
それが、湿田稲作に特化した「選別型農耕」と、雑穀栽培メインで陸稲栽培・湿田稲作もする「網羅型農耕」のコンプレックスということになる。しかし、実質的には後者が大方で、前者は湿潤なために雑穀が発育不全となる例外的な立地や気候条件において収穫を確保するケースに限られたのではないか。(熱帯ジャポニカは陸稲耕作に適する。)
縄文人交易民である「倭人」は、この当時、自分たちの食糧として、なるべく手間をかけずに安定した穀物の総収穫量を求めたのであって、稲作を雑穀栽培よりも優先する、水田稲作を陸稲栽培より優先する、乾田稲作を湿田稲作より優先するといったことはなかったのではないか。
北部九州(北九州東部沿岸)の板付遺跡は縄文晩期から弥生中期に至る集落遺跡であるが、「安曇氏」が渡来してくるまでは、「倭人」の交易拠点とその後背地としての穀物栽培拠点があり、これも前述のコンプレックスだったと思う。
寒冷期を脱した後の紀元前5世紀に、呉が越に滅ぼされその遺臣を祖とする「安曇氏」が五島列島経由で北部九州(北九州東部沿岸)に渡来して交易拠点をもち、その後背地として稲作拠点を設けた。
彼らは、長江下流域の大規模稲作拠点でしていた乾田稲作に特化した「選別型農耕」をもたらした、というか同じ農耕ができる後背地をもつ交易拠点を選択したのだろう。
この段階では、
北九州東部沿岸が「安曇氏」による乾田稲作に特化した「選別型農耕」
(この時、温帯ジャポニカが「安曇氏」により長江下流域からもたらされ、乾田稲作の大規模展開が始まったのではないか。)
北九州西部沿岸が「倭人」による雑穀栽培メインで陸稲栽培・湿田稲作もする「網羅型農耕」
(「倭人」が朝鮮半島からもたらしたのは熱帯ジャポニカで、水田稲作をしても湿田だったと考えられる。)
この両者が結果的に北九州におけるコンプレックスを形成したと俯瞰できる。
「安曇氏」が紀元前334年に楚に滅ぼされた越の遺民を北陸の越(こし)に入植させたり、
「安曇氏」が越(こし)人を入植させたと思しき津軽半島の付け根の砂沢遺跡の水田跡が出現した弥生中期初めには、
どうも乾田稲作による温帯ジャポニカ米が基軸通貨的な交易主品目にしようとしていた意図や、なっていた気配を感じる。
弥生中期終わりの紀元前後には「安曇氏」は北部九州の拠点を安定化さていた。
そして遼東公孫氏を通じて後漢の郡の出先機関として「伊都国」「奴国」「一大国」を建てる。
1世紀から3世紀にかけて朝鮮半島の領域国家化が進む。
後漢が朝鮮半島の直接経営に乗り出してきた当初、「安曇氏」はこれにすぐに対応したのだった。
やがて「安曇氏」は後漢朝との直接的な朝貢交易を望んだが、公孫氏があくまで帯方郡の出先機関の長として「安曇氏」を手なずける結果となった。
領域国家化とは管理貿易化であり、それは主要産品の国内貨幣との交換レートを国家が決められることに依拠する。
貨幣がない場合は、基軸通貨的な交易主品目がそれに代わる。朝鮮半島では、中国人産鉄民が亡命した弁辰で鉄素材が貨幣のように使われた。
これは単純な理屈で、その「くに」の売れ筋の交易主品目に対して、周囲の「くに」ぐにの交易者が自分たちの主要産品との交換を求めてくる、すると結果的にさまざまな主要産品の価値を評価する基準として基軸通貨的な位置づけを得てしまうのである。
文明文化先進の中国の知見をもった「安曇氏」は、こうした理屈を承知していて、栄養価が高く美味しい乾田稲作による温帯ジャポニカ米が、日本列島および朝鮮半島南部で売れ筋=基軸通貨的な交易主品目になることを見抜いていたのだろう。
温帯ジャポニカの乾田稲作という長江下流域の栽培種と栽培法は、朝鮮半島にはなかったから、日本列島に生産拠点をもった交易者は交易上有利な立場に立てる。紀元後に後漢が鉄生産の国外流出を解禁し、やがて弁辰の鉄が基軸通貨的な交易主品目になったが、これに対抗し役割分担するような基軸通貨的な交易主品目を目指したのかも知れない。
「安曇氏」が北九州東部に「伊都国」「奴国」「一大国」を建てた時代に、「倭人」は弁辰人が北九州西部に「末盧国」を建てることを全面的にバックアップする。「末盧国」は、「濊(わい)人」が有明海から南九州に上陸し兵を養う橋頭堡としての意味合い、そして「濊(わい)人」が「邪馬台国」を討つべく海上東征に向かった際にその同盟国である「伊都国」を攻めるという目的を秘めていた。
よって「末盧国」の穀物栽培は、最大限の兵糧の効率的な確保が課題だったから、耕作地が限定される湿田稲作に特化した「選別型農耕」もするが特にそれにこだわらずに、耕作地が限定されない雑穀栽培メインで陸稲栽培・湿田稲作もする「網羅型農耕」とのコンプレックスを展開したと考えられる。
おそらく「濊(わい)人」が神武東征に勝利し、それに功績のあった「安曇氏」ともども「倭人」が征服王朝の征服協力者となった後に、北九州西部の「倭人」は、北九州東部の「安曇氏」の栄養価が高く美味しい乾田稲作による温帯ジャポニカ米に転じたのだと思う。
私は、
水田稲作は朝鮮半島から日本に伝播したのではなく
逆に日本から朝鮮半島に伝播したという説に対して、
乾田水稲耕作による温帯ジャポニカ米については
という条件付きで、半分、賛成している。
朝鮮半島南部は、日本の弥生式土器が輸入されたり、現地で生産されているという。
それは漠然と日本人と朝鮮人の行き来が盛んだったからと思われているが、私は、乾田水稲耕作による温帯ジャポニカ米ならではの米の炊き方が弥生式土器を用いることでできたためではないかと考えている。
それであれば、日本との人の行き来がなくても、朝鮮半島南端の「倭人」と同南部の朝鮮人が乾田稲作による温帯ジャポニカ米を美味しく食べようとすれば、弥生式土器の輸入や現地生産が自然と促される。
そして何より「安曇氏」が構想した、乾田稲作による温帯ジャポニカ米が基軸通貨的な交易主品目となる経済圏が朝鮮半島南部にまで広がる。それを見越して「安曇氏」は喜んで「倭人」に温帯ジャポニカ米の栽培種と乾田稲作を伝授したに違いない。
この時の乾田稲作による温帯ジャポニカ米の九州から朝鮮半島への伝播も、
自然発生的な南下とは逆の
目的志向的な北上であり
その時代の穀物の生産と消費の新状況を新市場として創出していく交易者の動きだった
と言える。
(補説)
<中国大陸における栽培イネの発生と稲作の北上について>
野生イネから発生した栽培イネには、アジア栽培イネとアフリカ栽培イネがあるという。結実後も親株が枯れず株が生き続ける多年生型と、枯れて毎年種子で繁殖する一年生型があり、その中間型もあるという。原始的栽培型は、中間型の野生イネから生じたとする研究もある。
野生イネと栽培イネの違いは、種(米)が熟した時、野生イネは種が自然に地面に落ちるのに対して、栽培イネは落下しないで稲穂状になること(脱粒性の変化)という。結実後も親株が枯れない多年生型は、栄養分が親株に行く分、種(米)に行かない。一年生型の方が種(米)に栄養分が行く。種の栄養価が高く脱粒しない大きな稲穂が育つように栽培種は改良されてきた。
アジア栽培イネは、インディカ種とジャポニカ種に大別される。ゲノム研究によって、遺伝子的には両者は20万年以上前に分かれたことが判明した。
考古学の調査によって、人の手に由る栽培については中国長江流域で約1万2千年前とされていることから、栽培の起源は確定している。しかし、その品種に関しては、ジャポニカ種とインディカ種に分化する以前の両方の特徴を持っているとの指摘もあり断定はされていない。
アジア栽培イネの原産地は中国南部の長江下流域とする説、東南アジアとする説がある。
以上を総合的に勘案すると、
①野生イネの段階で、遺伝子的には20万年以上前に後にインディカ種の栽培イネになるものとジャポニカ種の栽培イネになるものに分かれていた。
両者の野生イネがインド北部からインドシナ半島北部を経て中国大陸南部にかけた山地エリアで生息していた。
②その北限が、ヒプシサーマル期(気候最温暖化:7万年前から1万年前にいたる最後の氷期のうちのある時期と,8000年前から5000年前にかけて)に北上。
その帰結として東南アジアと長江流域で人間の手が加わりアジア栽培イネが誕生した。
③だとすれば、イネ栽培は、東南アジアでは山岳地帯で先行してから平野部に伝播した、長江流域では山地に近い上中流域で先行してから河口に近い下流域に伝播した、と考えるのが自然である。
直接的に平野部に伝播したとするのは不自然である。(私見)
と考えられる。
もともとの原始型のイネ栽培は、米以外の雑穀と同じ畑作である陸稲栽培と、湿地における自然発生的な水稲耕作と、その中間型の水陸両用の耕作があり、それぞれに適した栽培イネに品種が進化するなり改良されるなりしていった。そうした経過が、長江流域の山地に近い上中流域から河口に近い下流域への伝播においても展開した。水稲耕作も、灌漑のない湿式から灌漑による乾式が工夫され、最終的に水田が群化して稲作拠点が大規模化していった。
中国大陸を、先に陸稲栽培が雑穀の畑作に加わる形で北上し、追って水稲耕作が追加ないし陸稲耕作に代わる形で北上していった(すべて「網羅型農耕」)。
こうした穀物の生産が共同体としての生産拠点における生産性を高めつつ拡大すると、富の蓄積が支配被支配の体制を生み、それが大集落が小集落を率いる累層的階層構造に展開し、「くに」そして「国」が形成されていった。
<穀物の「網羅型農耕」発生と中国文明と中国王朝の誕生について>
紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにかけて、長江下流に大規模な稲作と玉を使った神権政治で栄えた「良渚文化」があった。
紀元前2300年ころから紀元前2000年ころにかけて、山西省の山岳地帯に世界最古の天文台を持ち暦にそって農業を発展させ、祭事で民を治めていた龍山文化後期の「陶寺文化」があった。
こちらは中国神話に登場する君主の堯の都ではないかと推察されている。
紀元前3000年から2000年にかけて世界的に大きな気候変動があり、内陸部では乾燥、低温化が進んで飢餓が起き、民衆の反乱が勃発し、南部、沿岸部では季節風の異常による大雨と洪水によって河川流域の集落は壊滅。
隆盛を極めた二つの文化圏は一気に衰えていった。
両者に続いて紀元前2100年ころに出現し、紀元前1800年ころまたは紀元前1500年ころにかけて存在した「二里頭文化」は、地理的に両者の中間地点にある。
北の麦、南の米を同時に育て、更に粟、稗、大豆も栽培。様々な作物を同時に育てることで気象異常などの環境の変化に耐えて発展することが出来たとされる。
これが計画的な「網羅型農耕」の発生に他ならない。
伝説だった夏王朝が実在したことを、大規模宮殿の版築による基壇(地層鑑定は紀元前1800年から紀元前1500年頃)の発見が証明した。
宮殿の周りを囲うように道路が走り規則的に区画分けされた都市があった。都市には下水管の設備まであった。すでに長期的な都市計画に沿った都市づくりが行われていたことが判明した。
この都市構造や、南門から入ってすぐ主殿があって主殿を回廊が囲う独特の宮殿建築の構造は後の中国王朝にも受け継がれ、最後の王朝清の紫禁城を中心とする北京の都にまで続く都城建設の原型となったとされる。
中国王朝の繁栄は、まさに「網羅型農耕」によって可能になったと言えよう。
<寒冷化による北方の畑作牧畜民の南下と南方の稲作漁撈民の渡来について>
①紀元前3300年ころ
②紀元前2300年ころ
③紀元前1600年ころ
④紀元前1200年ころ、前1000年ころ、前750年ころ
という寒冷化にともない朝鮮半島から日本列島に向けた南下動向として、
①紀元前4千年紀後半
華北型農耕を特徴づけるアワ・キビ栽培がに南下して朝鮮半島北部に広がり
②紀元前3千年紀後半に
遼東半島に伝わった稲作が朝鮮半島中南部に達してアワ・キビと複合し
③紀元前2千年紀半ばに
水田が山東半島から遼東半島を経て朝鮮半島に広がり
④紀元前8世紀に
その穀物栽培コンプレックスが日本列島に伝来した
ということがあったことはすでに述べた。
では、
寒冷化にともない中国大陸では何かあったかというと、北方の畑作牧畜民の南下である。
これは稲作の北上と逆のルートを辿ったと考えられる。
畑作牧畜民は、その生業スタイルを展開しやすい所から南下したのであって、展開しにくい所に飛躍的に南下したとは考えにくい。
よって、
①紀元前3300年ころの寒冷化では
北方内陸部にいた畑作牧畜民が黄河上中流域から下流域を経て朝鮮半島北部に向かった。
それに追われた山東半島にいた稲作漁労民は大陸沿岸を南下したのだろう。
(渡海して瀬戸内地方の朝寝鼻貝塚遺跡や彦崎貝塚遺跡へ至ったということはないと思う。
それぞれ紀元前4400年、4000年と時期が合わないからだ。)
②紀元前2300年ころの寒冷化では
畑作牧畜民は長江上中流域に南下し
そこから中国南部およびインドシナ半島北部への南下と
長江下流域への東進に分派したと思われる。
その際、後者は、
まず長江中上流域の陸稲栽培・湿田稲作も雑穀栽培と合わせてする「網羅型農耕」の稲作漁労民が逃亡した。
彼らは、湿田水稲耕作特化の「選別型農耕」に転じていた長江下流域をスルーして渡海し、日本列島に至った。
彼らは、日本列島でも河川の水源近くの山間地で陸稲栽培・湿田稲作も雑穀栽培と合わせてする「網羅型農耕」を展開したと考えられる。
(約4000年前の板屋Ⅲ遺跡の籾圧痕は、これに該当する。)
③紀元前1600年ころの寒冷化では
畑作牧畜民は長江下流域および長江以南の地に南下した。
長江下流域と中国大陸南部沿岸にいた湿田水稲耕作特化の「選別型農耕」の稲作漁労民は渡海し、日本列島に至った。
彼らは、日本列島でも河川の下流域の平野部で湿田水稲耕作特化の「選別型農耕」を展開したと考えられる。
④紀元前1200年ころ、前1000年ころ、前750年ころの寒冷化では
すでに国家の興亡による渡来圧力が働く時代になっていて、寒冷化による逼迫した食糧事情が国家間の対立や国内の動乱を加速させたのだろう。
一般論として流通している
◯日本列島にイネやアワ・キビが伝来したのは紀元前1000年ころ(約3000年前)で
◯水稲耕作がその100年後の紀元前900年ころに始まっている
はこうした中国の国家の興亡による渡来圧力が影響していると考えられる。
二里頭で穀物の「網羅型農耕」を創出した禹は「交易者」だった
中国最古の王朝、夏王朝は長年伝説と思われてきたが、発掘調査の結果、紀元前2000年、石器の道具を使っていた新石器時代に現実に二里頭に存在したと判明した。
夏王朝には人間と自然の共生を成功させた文化英雄についての以下のような話がある。
伝説によると、
ある若者が十数年も各地を経巡り治水工事をして周りそれを成功させて人々に王に立てられた( 筆者注:舜が禹に帝位を禅譲して建国した経緯に相当)
という。
二里頭の当時の地層の調査から分かったことには、
地元のアワやキビだけでなく、北西の黄河上流の小麦、野生種を栽培種にした大豆、南の黄河流域の水稲の5種類の穀物を栽培していた。当時の洪水と旱魃が繰り返す気候変動のために、中国の各文化圏は衰退したが夏王朝だけが繁栄した理由がこれだった。
二里頭のある中原は、黄河、長江、淮河などの支流が集まる交通の要衝で、農耕情報も集まった。
若者(禹)が各地を経巡った伝説は、禹は単に治水土木集団を率いただけでなく、各地に適した栽培種と栽培法を伝播する交易者だったことを示す。だから、各地の農耕情報を収集して洪水でも旱魃でもいずれかの種類の穀物が収穫できる体制を構築することができたのである。
メソポタミアでも小麦だけを栽培していた当時、中原は世界トップの先進農業地域となった。
これは「網羅型農耕文化」の世界での発祥に他ならない。
一般論として、イネの揺籃の地は中国南部の長江下流域であると言われる。
そしてそれを特徴づけるのが、長江流域の華中の、水稲栽培を中心としてブタの家畜飼育に特化した「選別型農耕文化」である。
一方、黄河流域の華北は、アワ・キビの雑穀にブタ、イヌ、ウシなどの家畜飼育を加え、狩猟動物も多岐にわたる「網羅型農耕文化」である。
中国大陸から日本列島への稲作伝播には多様な時期と経路が推定されているが、日本列島におけるブタの家畜飼育の伝播の有り方が一つのヒントになる。
縄文時代の遺跡では狩猟獣であるシカ・イノシシがほぼ一対一の比率で出土するのに対して、弥生時代の遺跡では「イノシシ」が増加する。これは大陸から導入された家畜としてのブタが混入していたことが指摘され、それを「弥生ブタ」と称するという。
つまり、
中国大陸から日本列島への稲作伝播は、
縄文時代は
アワ・キビの雑穀にブタ、イヌ、ウシなどの家畜飼育を加え、狩猟動物も多岐にわたる「網羅型農耕文化」
弥生時代は
水稲栽培を中心としてブタの家畜飼育に特化した「選別型農耕文化」
と、ざっくりと大枠としておさえることができる。
北部九州を念頭にされる
◯日本列島にイネやアワ・キビが伝来したのは、縄文晩期終末の紀元前1000年ころである
◯紀元前900年頃になると水田稲作が開始された
という一般論は、日本列島全体に普遍化することはできないが、
稲作伝播の側面から縄文時代と弥生時代を分ける目安
と、ざっくりと大枠としておさえることができる。
このような日本最古の水田跡として、玄界灘周辺の平野部の遺跡がある。
板付遺跡では、水田の雑草種実は検出されているが畑の雑草はなく、稲作に特化している状況が推測されている。
一方、菜畑遺跡では、田畑共通の雑草の種実もみつかっていて、獣骨や魚骨も多彩であり、採集狩猟も活発だったことが分かっている。
以上について、
日本列島に穀物栽培が定着した段階には、「選別型農耕」(板付遺跡)と「網羅型農耕」(菜畑遺跡)が並存していて
これは朝鮮半島南部で形成された「イネ、アワ、キビ等々の選択肢の幅の大きな農耕複合」がそのまま日本列島に持ち込まれたため
と説明されている。
私はその説明を受け入れながらも、
どうしてそのような、土地土地での農耕選択がなされたのか、という論題を論じたい。
単刀直入に言って、
渡来人(いわゆる「弥生人」)と先住民(いわゆる「縄文人」)の関係性によって
異なる社会ないし共同体が形成され、それに適した農耕が選択され、選択した農耕に適した立地が選定されたのではないか
と考える。
ともすると、この立地だったから、この農耕が選択され、このような社会ないし共同体が形成された、という逆順の説明が一般的である。
しかし、多様な渡来人=弥生人が強い動機をもって渡海してくる以上、それがたまたま上陸して行き着いた所ということは考えにくく、それぞれが求めた社会ないし共同体を形成すべく、先住民=縄文人との関係性を想定した農耕が選択し、農耕に適した立地を選択したと考えるのが自然だと思う。
つまり、
菜畑遺跡と板付遺跡は、渡来人=弥生人と先住民=縄文人の関係性が異なる社会ないし共同体が志向された
という可能性を検討すべきだと思う。
菜畑遺跡は、
弥生時代早期初頭の水田跡を中心にした遺跡で、
唐津市の南西部、海抜10メートル前後の平野に衣干山から延びた低丘陵の先端部に位置する。
東側には松浦川によって形成された砂丘があり、当時この一帯はその砂丘の後背湿地であったと考えられている。
湿地周辺の陸稲耕作から始まり、その上の弥生時代早期初頭の土層から水田遺構が確認され、さらにその上層の弥生時代中期までの水田遺構も確認されている。
水田遺構は18平方メートル余りで小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培されたと推測されている。花粉分析の結果、イネ属の花粉は夜臼式土器(柏崎式土器)以前から出現し、弥生時代早期初頭の土層の上部で突発的に増加。このような突発的増加は人間が搬入したものと考えられる。
「田畑共通の雑草の種実もみつかっていて、獣骨や魚骨も多彩であり、採集狩猟も活発だった」ということを考え合わせると、
縄文人の社会パラダイムにおいて、陸稲畑作から始まって水田稲作が追加されたという展開であろう。
一方、板付遺跡は、
縄文時代晩期から弥生時代中期の集落遺跡で、
福岡平野の中央よりやや東寄りに位置する。
御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含む。
当初の発掘調査で、弥生時代前期の土層から、断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出され、板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土し、日本最古の環濠集落であることが確実となった。
後の発掘調査で、縄文時代晩期末の土層から大区画の水田跡と木製農機具、石包丁なども出土し、用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認された。畦の間隔から水田の一区画は400平方メートルと推定され、花粉分析から畑作栽培も推定された。この結果、水稲農耕それ自体は弥生時代最初の板付Ⅰ式土器期よりも溯ることが明らかになった。
大陸との交流を物語る銅剣、銅鉾、磨製石器が発見されている。大正時代に、弥生土器に金属器がともなうことの初めての報告がなされている。
「水田の雑草種実は検出されているが畑の雑草はなく、稲作に特化している状況が推測さている」ということを考え合わせると、
日本最古の環濠集落は、あくまで弥生人の社会パラダイムに則っていて、その枠組みの中で労働力としての縄文人の食糧を調達すべく雑穀の畑作も行われたのだろう。
以上、菜畑遺跡と板付遺跡のケースを検討したが、
「イネ、アワ、キビ等々の選択肢の幅の大きな農耕複合」がそのまま日本列島に持ち込まれたとしても、
渡来人=弥生人という伝播者それぞれの意図、そしてそれを反映した各地の先住民=縄文人という受容者との関係性というものが個別具体的にあり、それに制約された農耕状況が社会状況として展開した
と考えるのはいたって自然だと思う。
板付遺跡は、後に「安曇氏」が後漢に朝貢して郡出先機関として建てた「伊都国」と、「奴国」とともセットの「一大国」の前身の一部であろう。
呉の遺臣を祖とする海上移動性に富んだ交易民である「安曇氏」が、後に「奴国」となる交易拠点を支えた後背地の食糧生産拠点だったと考えられる。
中国の河姆渡遺跡以来の環濠集落の知見のある呉人の後裔が、中国との交易のための拠点をつくるべく渡来したとすれば、それが日本最古の環濠集落となることはいたって自然だ。
一方、菜畑遺跡は、後に弁辰人が建てた「末盧国」の前身の一部となる食糧生産拠点だったと考えられる。
「末盧国」を建てることを全面的にバックアップしたのは、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点とした海上移動性に富んだ交易民である「倭人」で、彼らはもともと縄文人の交易民の当該海域に活動を限った一派だった。「倭人」は、後に朝鮮半島の騎馬民族「濊(わい)人」を有明海から上陸させて南九州で兵を養わせ軍船を調達して畿内への海上東征(神武東征)を全面的にバックアップし、「末盧国」はこうした動きの橋頭堡および後方支援基地となったと考えられる。もともと「倭人」の北九州沿岸部の拠点群=母港群のための後背地の食糧生産拠点だったのだろう。
彼らは朝鮮半島南端を拠点とする同族の「倭人」から、穀物の栽培種と栽培法を入手して、自給自足のために収穫を安定的に最大化するべく、陸稲耕作と雑穀栽培をする「網羅型農耕」を展開したと考えられる。後の「末盧国」は、この食糧生産拠点を縄文人を農耕民化することで大規模化したのだろう。
渡来民=弥生人と先住民=縄文人の関係性による共生域の展開可能性について
ざっくりとその展開可能性を整理すると、
①平和裡な伝播受容によって水田稲作重視の「選別型農耕」になった共生域
②平和裡な伝播受容によって水田稲作を含む「網羅型農耕」になった共生域
③渡来民の自立ないし侵攻によって水田稲作重視の「選別型農耕」になった共生域
④渡来民の自立ないし侵攻によって水田稲作を含む「網羅型農耕」になった共生域
⑤土着民が伝播を受容せずに縄文時代からの採集経済を固守する「網羅型農耕」を続けた共生域
とある。
よって、
朝鮮半島南部で形成された農耕文化複合がそのまま日本列島に持ち込まれた、と言っても、
大きくは平和裡な伝播受容か、渡来民の自立あるいは侵攻かに分かれ
これに土着民が新来の民も文化も受け入れなかったか、を加えて
農耕文化複合のあり方には多様性があった
と考えられる。
たとえば、
いかなる経緯でも共生域が「くに」の素型になるような共同体に拡大していけば、管理被管理あるいは支配被支配の関係性が生まれ、恊働作業の大規模化と生産性の向上、最終的には税や上納の拡大などを理由に乾田稲作に特化する「選別型農耕」が進んでいく。
一方、
乾田稲作に適した土地が少ない山間地や乾田耕作ができない寒冷の遠隔地では、一般的には自給自足を最優先するべく乾田稲作を含まない「網羅型農耕」が進んでいく。
ただし、
東北北部の砂沢遺跡や垂柳遺跡のように、乾田稲作米を交易主品目としてその大規模生産を目的とするケースでは、当然、乾田稲作を重視する「選別型農耕」が選択される。
⑤土着民が伝播を受容せずに縄文時代からの採集経済を固守する「網羅型農耕」を続けた共生域の中にも、縄文晩期終末からイネやアワ・キビの穀物栽培が展開していたところがあった。
ただしこの段階のそれは、あくまで縄文人の共同体や生業スタイルの枠組みの中で受け入れられていたということである。
田んぼがあって、人の手の入った森林という意味合いの原初的な里山があってという、いわゆる日本人の原風景とされるものは、この⑤ではない。
それは、
里山を共同で管理する共同体やその生業スタイルが成立する
②平和裡な伝播受容によって水田稲作を含む「網羅型農耕」になった共生域
④渡来民の自立ないし侵攻によって水田稲作を含む「網羅型農耕」になった共生域
において
縄文人の狩猟採集の生業スタイルを共同体ごとに近隣山間に保全する動きから生まれたのだろう。
以上のような渡来民=弥生人と先住民=縄文人の関係性による共生域の展開可能性に照らせば、
日本列島の全体に、地方地域の地政学的条件の入り組み方に応じて多様な農耕文化複合としての多様な弥生文化がマクロにそしてミクロに分布した
ということは間違いない。
こうした文化的に多様な共生域をネットワークして交易する「移動民」や、金属器などをメンテナンスしてまわる「移動民」にも、対応する共生域ネットワークに応じて多様性が生じた筈だ。
たとえば、
水田稲作をベースとする「選別型農耕」の共生域ネットワークを巡回する「移動民」
と
狩猟採集をベースとする「網羅型農耕」の共生域ネットワークを巡回する「移動民」
とでは、
交易する物品やメンテナンスする金属器が異なり、需要の量や頻度も異なり、
おのずと「移動民」が大集団なのか小集団あるいは単身なのかという構成や移動手段も異なった筈だ。
具体的には、
水田稲作をベースとする「選別型農耕」の共生域は、その規模と生産量が拡大していったから開墾や灌漑工事の道具の大きな需要があったろう。
一方、狩猟採集をベースとする「網羅型農耕」の共生域は、縄文文化の名残が強く、土地土地の狩猟採集の道具といった個別的な需要があった筈だ。
このような多様な「移動民」のあり方の可能性を踏まえると、
そもそも新来の水田稲作を伝えた新拠点開拓型の「転住民」の一部が、鉄製農具を伝える者を兼ねていたり、
新しい共同体の生業スタイルや生活スタイルに適応した土器(食料を保存したり調理する容器、祭具、葬具)の製作技術を伝える者を兼ねていた公算が高い。
私たちは近代以降の分業や専門という観念に慣れ親しんでいるが、彼らがまったく別々の集団だったり縁もゆかりもない個別の単独者だったとする方が不自然に思われる。
弥生文化は多様である。
「定住民」とその「定住社会」だけを捉えても、「選別型農耕」と「網羅型農耕」が日本列島をマクロに分布し、一地方地域に限っても平野部と山間部でミクロに入り組んで分布している。
さらに、多様な新拠点開拓型の「転住民」や彼らから派生したとおぼしき、拠点間を行き来する多様な「移動民」による、新来の文明文化の伝播があった。
それは、マクロな東進伝播論やタンジュン素朴な伝播内容の進化論では説明できまい。
そして、
文化というものの本質を、その時々の一過的な成果よりも、むしろ成果に行き着くための民族や集団や個人の継続的な志向性に見出すという文化論的立場からは、「移動民〜転住民〜定住民」のあり方と相互の関係性こそを重視し、仮説をもって検討していくことで社会としての全体像と部分像と両者の関係性がホロニックに見えてくる。
三谷芳幸氏は、連載記事の最期を「田植えや灌漑システム、完成された技術が伝来?」というタイトルで、教科書の稲作技術の記述の変化の解説で締めくくっている。
その中でこう述べている。
「かつては、排水不良の『湿田』から灌漑システムを備えた『乾田』へ、という技術の進歩が想定されていたが、水田遺構の調査によって、稲作の開始当初から乾田を利用していたことが判明し、乾田は早くから存在したと述べる教科書もみられるようになった。
大陸から伝来してきた水田耕作は、すでに完成された技術体系を持っていたと考えられるようになったのである」
大陸由来の稲作技術は、
平野部で大きな労働力を動員してできる灌漑づくりの水田稲作に特化した「選別型農耕」から
山間地で限られた労働力でできる狩猟採集と兼業できる雑穀栽培主体の「網羅型農耕」までを
体系化していた。
そして、
伝来し普及する主体である渡来民=弥生人と、それを享受し恊働したり享受せず恊働しない土着民=縄文人との関係性において成立可能な稲作技術がそれぞれの農地条件を踏まえた形で展開した。
つまり、
北九州への大規模な弥生人による伝来、そして北九州からの全国への東進伝播という漠然とだが根強く流布して常識化している図式はまったくもって当てはまらない。
渡来民=弥生人による交易交流や侵攻支配といった経済的および政治的要因を度外視して単純に技術論だけを捉えたとしても、
同じ地方で平野部か山間部かという地域の違いで異なる稲作技術が適応的に展開している。
本書にはそれを具体的な最新知識で解説している記事があるので次項(1)で検討したい。
(1)
につづく。