縄文文化とその頂点拠点としての出雲再考の備忘録。 |
昨日、たまたま本屋に立ち寄り、
ちょうど、そこを確認したいと思っていた情報が整理されている本=
朝日新聞出版 最新刊行物:分冊百科:週刊 新発見!日本の歴史:週刊 新発見!日本の歴史 50号 http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16050 #asahi_pub
に遭遇して最期の一冊を買ったことを書いた。
すると、
ブログの過去記事に以下の2つにアクセスがあった。
「日本人らしさ」の起源と「移動民〜転住民〜定住民」(1)
http://cds190.exblog.jp/22197083/
同(2:前半)
http://cds190.exblog.jp/22219850/
そこのことだろ、と言わんばかりだ。
誰だか知らないが共通の関心事において一緒に考えている人たちがいるらしい。
その通り、そこを最新の学説で確認しておきたかったのです。
検討はいろいろと俯瞰しつつ落ち着いてやるつもりです。
出雲大社への旅の道すがらの雑考(7:結論)
で提示する仮説に、
オークニーの巨大石造神殿の背景との対照を含めて盛り込みたいと思っています。
オークニーは今から5000年前から1000年間、ストーンヘンジなどの巨石文明に先立つほど500年より開花している。
前者はグレートブリテン島の北端で、後者は南部に集中している。
よってオークニーの遺跡群は、バルト海やスカンジナビア半島と海路で交易していたと考えるのが自然である。
そこで北ヨーロッパの諸民族の古の様相を探ると、
北ヨーロッパの古くからの現住民は、
>「この種の色素をもつ人々の多くはずんぐりしており、顔は幅びろく獅子鼻である。彼らはモンゴロイドが完成した寒地適応の路を部分的にたどってきたのであった」
>ずんぐりした身体つきの方が、表面積が少なくて、体熱の発散をふせぐ。この方が寒地適応型なのだ。もちろん、ここでモンゴロイドの典型とされているのは、氷原の狩猟民族、エスキモー人のことである。
>バルト海は北ヨーロッパの中心部であり、凍りついた海の上には、ツンドラ草原がひろがっていた。曇りがちな空の下で、狩猟民が紀元前3000年もしくは2000年頃まで、つまり古代エジプト帝国がアフリカ大陸からオリエントに進出していたころまで、氷河期と同じ生活をつづけていた。
出雲には出雲大社の前身があって信仰生活が存在する前から、大陸へ黒曜石などを運んだか大陸からそれを採りに来たかする交易があったと思われる。
北ヨーロッパでは、前述した原住民のいるところへ、
>「紀元前5000年をこえないある時期に、おそらくイランから農耕民・牧畜民としてユーラシアの草原に入ってきた」人々が
>「紀元前2000年代に中央および北西ヨーロッパに到達した。彼らがここに来たのは雲多い時代の終末期であった。彼らは第一には原住民との混血により、第二には環境的淘汰によって、あるいはこの2つの経過にしたがって、皮膚、毛、眼に関するブロンディズムの遺伝子を獲得したのだろう」
ということがあった。
要はウラル山脈の氷河の融解によって地表があらわになり、ざっくり言えばユーラシア大陸の中央部からの民族の移動と交易が、片やヨーロッパ北西端とその沖合のグレートブリテン島に向かい、片やアジア極東とその沖合の日本列島に向かった。
そういう俯瞰で対照を探ってみたい。/