そして現在は、新幹線熱海駅前から急坂が始まり海岸沿いの国道135号に行き着いてしまうが、かつてはそこから先が、今日の海底遺構がある陸地になっていて、交易拠点が形成され港湾インフラが構築されていたと考えられる。
伊豆七島の各島からは縄文遺跡が発見されている。
さらに三宅島の弥生遺跡が発見されその時代には定住が始まっていたと確認されている。
そこで注目したいのが、岩に張りついで生息し殻の大きさは最大で10cmの
オオツタノハという、遠洋の島嶼で捕獲が大変な希少貝で作った貝輪である。
縄文後期のシェア最大はベンケイガイで、これは日本海側では北海道以南の、外洋に面した水深3m〜20mの細砂底に生息している。身は食用になるがやや深い海底に生息することから、生貝の採集を目的とした漁は行われていない。東北〜関東地方では、おびただしい数の貝輪やその未製品が見つかる遺跡もあり、その貝殻も生貝を採集したのではなく、海岸に打ち上がる貝殻を利用したことが確認されている。
ベンケイガイが打ち上がる海岸は東日本において十数箇所確認されている。特定の海岸に継続して大量に打ち上がること、そのような海岸の近くには貝輪製作遺跡が存在していて、縄文時代にもそうした大量に打ち上がる貝で貝輪を製作したこと等が明らかにされている。
オオツタノハは、ベンケイガイと対照的に
遠洋の島嶼の岩に張りついで生息していて捕獲が大変な希少貝だった。
そして、
オオツタノハの縄文時代の特徴は、
多量には出土しないものの東海地方から北海道まで極めて広範な東日本に分布
1箇所にまっとまった見つかり方
という。
この地域からみつかった貝輪の総数は約5000点、よってこの時期のオオツタノハ製貝輪の比率は5パーセント程度ということになるという。
見つかった遺跡数は70箇所程度、1つのムラで持っていた数はせいぜい2から3点ほどだったことになる。ところが、まれに土器などに入れられたままの状態で10点前後がまとまってみつかる事例がある。特に有名なのは、千葉県船橋市古作貝塚のもので、蓋が付いた特殊な形の二つの土器の中から、オオツタノハ製9点を含む計51点の貝輪が発見された。同様の事例は、千葉県・茨城県に数例知られているという。
弥生時代には、
貝輪などがみつかる条件となる「貝塚」遺跡が減少することから、オオツタノハ製貝輪の検出事例は縄文時代と比べるとかなり少なくなるが、それでも100点ほどが知られており、一遺跡からみつかる数は縄文時代よりむしろ多くなる傾向があるという。
発見場所は、
北関東の再葬墓や洞窟遺跡から人骨などと一緒に
三浦半島の海蝕洞穴遺跡など
と限られており、縄文時代のようにムラからみつかる事例はあまりないという。
縄文後期から弥生時代にかけてのオオツタノハ製貝輪の分布から分かることは、
入手が大変な希少貝で作った貝輪が、支配層の威信財となった
縄文社会において支配層が固定化して特定地域に集住するようになった
ということである。
縄文中期までは、縄文社会の支配層が固定化せずに、縄文人部族の族長や呪術師は実力主義の選任制で交代があり、部族人同士の間に階級格差がなかった。
よって、交易や交通は、そうした縄文人部族を対象にした陸路交易や沿岸交易や島嶼交易であり、その連鎖が遠隔地交易に結果していた。
私個人的には、
それが、支配層が固定化して特定地域に集住するようになると、交易や交通は、縄文人部族の支配層を対象にした威信財の「贈与」が前提になった。威信財は、縄文人部族の支配層の地位を維持するとともに、交易者が彼らとの交易関係を維持されるという「贈与」経済のメタ交易産品だった
と考える。
つまり、縄文後期段階でシェア5%の希少貝輪であるオオツタノハ製貝輪の交易者による部族支配層への「贈与」(儀礼的交易)が、一般的な交易産品の交易関係(ルーティン的交易)を締結維持した。
ここで、縄文後期段階でシェア最大の普及貝輪であるベンケイガイ製貝輪は、威信財ではあってもオオツタノハ製貝輪には遠く及ばない一般的な交易産品であり、その部族の何らかの一般的な交易産品とやり取りされたのではないか
と考える。
このような交易と交易産品の構造変化が生じると、交通も構造変化が生じた筈である。
先ず遠隔地交易に専従する交易民が発達し、
彼らはオオツタノハ製貝輪の「贈与」(儀礼的交易)によってなるべく大きな数を限った縄文人部族の支配層と交易関係を締結維持し、
定期的な遠隔地交易(ルーティン的交易)としてベンケイガイ製貝輪をはじめとする一般的な交易産品とやり取りをする。
それら一般的な交易産品は、この支配層がいた特定地域の大部族と、周辺の地域の他部族との間で近隣交易(ルーティン的交易)された
と考える。
であるとすると、
貝輪を作る製造拠点は、原材料の産地ではなく、原材料を持ち込みやすく、かつ遠隔地への外洋航海に出やすい立地となっていった筈であり、
実際にそのような変化を見ることができる。
伊豆諸島の南部の三宅島・御蔵島・八丈島にオオツタノハの生息域があることが確認されている。
伊豆大島・三宅島に貝輪製作を示す証拠が検出している。
「東の貝の道」では、縄文時代と弥生時代でその中心地やたどったルートが大きく異なり、オオツタノハ製貝輪のもつ意味や価値、貝輪生産体制などが大きく変化した可能性が指摘されている。
縄文時代、
ある集団がオオツタノハの生息場所を知り、貝輪の素材とするために黒潮を横断しながら島へと渡り、命がけで「捕獲」して貝輪に仕上げた。この貝輪は、縄文時代後期前半には、東海地方から北海道へと広域に分布する。
伊豆大島の西岸の元町港近くにある縄文時代早期から弥生時代にかけての下高洞(しもたかぼら)遺跡が注目されている。発見当時、「伊豆諸島初の貝塚遺跡」として注目を集めた。貝層中や包含層中からは、膨大な数の土器・石器類・骨角器類、食用にされたサザエなど岩礁性貝類、カツオやサメなどの魚類、ウミガメ、イノシシなどの獣骨(卜占に使うものでもある)も多量にみつかっていて、島嶼部の縄文人の生活を具体的に示す重要な資料となっている。
特に注目すべきものがオオツタノハ製貝輪で、検出された数はおよそ30点、しかし発掘当時の状況を示す記述によると、実際にはもっと多くの資料があった可能性があるという。残された資料のほとんどが貝輪製作時の「残骸」とみられ貝輪づくりがおこなわれた証拠とされる。
弥生時代、
オオツタノハ製貝輪を作った集団が三宅島にいた。
三宅島ココマ遺跡の調査では、発掘したのがわずかに0.1立米ほどであったにもかかわらず、最小個体数にしておよそ40点のオオツタノハが発見された。この数は、縄文時代には通常一つのムラで1から2点しか持っていなかった貝輪であることを考えると非常に膨大な量といえる。
さらに、その状態が伊豆大島の下高洞遺跡と同様に貝輪製作の際生じた破片ばかりであったことから、弥生時代にオオツタノハ製貝輪の材料の入手と加工を手がけた人たちが残したものであると判明している。
三浦半島の南側には、
弥生時代から古墳時代にかけての「海蝕洞穴遺跡」が50箇所ほど知られている。
このうちの数箇所の遺跡からオオツタノハ製貝輪がみつかっている。この中には貝輪の内縁や表面を入念に磨いた完成品もあるが、多くは研磨処理がなされていない「未製品」の状態であり、この遺跡が伊豆諸島からの「最初の陸揚げ地」で、洞窟内で「貝輪の最終仕上げ」までの加工をしていたとみられている。
三宅島ココマ遺跡の人たちの本拠地は三浦半島南岸にあり、ココマ遺跡は季節的に貝輪づくり集団が訪れる場所(キャンプ・サイト)だった可能性も指摘されている。
一方、
黒曜石という交易産品については、
縄文後期か弥生中期後葉までの縄文・弥生文化移行期における関東地方南部から東海地方東部の遺跡で出土した黒曜石の産地分析の結果から、以下のことが分かっている。
伊豆諸島を除く関東地方から東北地方において、
縄文中期後葉末に神津島から信州へと産地がシフトして以降、
弥生中期前葉に至る縄文・弥生文化移行期は、信州系の出土が約6〜8割を占め、神津島産の出土量は減少している。
こうした本州側の変化に対して、
伊豆大島の龍ノ口遺跡では、信州系黒曜石の出土が知られていて、神津島のみならず多地域からの黒曜石の流通が予想されている。
従来、神津島の産黒曜石といえば、斑晶の含有量が少ない斑晶(石基の中の大きな結晶)の含有量が少ない恩馳島産を指すことが多く、実際の産地分析の結果もそうだった。砂糠崎産は例外的だった。
この関東平野および東海地方に広く流通した神津島の恩馳島産に対して、
砂糠崎産の伊豆諸島北部から伊豆半島南東部にかけての極めて狭い範囲の流通が、縄文中期後半から弥生中期前葉までの間存在した可能性が指摘されている。
その背景として、
縄文後期、関東平野で主に流通する黒曜石が、神津島産から信州系へと大きく変化する中、神奈川県西部では安山岩、房総半島ではチャートなどの在地石材も流通して、打製石鏃など小型打製石器の素材となる。そこで、砂糠崎産の黒曜石の流通が始まり、それらと補完関係をなした。それが、再び恩馳島産が流通を独占する弥生中期中葉まで継続した
ということが指摘されている。
合わせて、
伊豆大島の下高洞遺跡は、対岸の伊豆半島の姫宮遺跡と同様に信州系や天城産の黒曜石を搬入していること
砂糠崎産については、剥片・石核の法量分析から、姫宮遺跡などの本土部の遺跡の石材消費のあり方に近い傾向があること
以上から、伊豆諸島の遺跡が、神津島産の黒曜石の流通に携わるための居住ではなく、すでに黒曜石の消費地となっている遺跡も存在したこと
が指摘されている。
ここで、
縄文・弥生文化移行期である
縄文中期後半から弥生中期前葉までの間
黒曜石の神津島産から信州系へのシフトに伴って
伊豆諸島と伊豆半島南東部の黒曜石の流通において
恩馳島産がシェアを落として砂糠崎産がシェアを拡大した
そして弥生中期中葉、再び恩馳島産が流通を独占する
という経過が、
同じく縄文・弥生文化移行期の
貝輪を作る製造拠点は、原材料の産地ではなく、原材料を持ち込みやすく、かつ遠隔地への外洋航海に出やすい立地となっていった
という経過と交易と交通において何らかの重なりがあると考えられる。
なぜなら、
交易と交通は、複数の交易産品を扱い輸送するものだからである。
私は、こう考える。
縄文・弥生文化移行期に
それまで主要交易産品の産地を起点とした近隣交易(沿岸交易や島嶼交易)の連鎖が遠隔地交易に結果していた交易(交通)が
主要交易産品の遠隔地交易が交易(交通)の幹線となり大きな縄文人部族が主要な交易拠点(交通要衝)となり、近隣交易(沿岸交易や島嶼交易)はそこから派生する形に構造転換した。
ちょうど、
東京・名古屋・大阪を「ひかり号」で一気に繋ぐ東海道新幹線ができて
地域密着としては
東海道本線という在来線がダイヤ変更したり「こだま号」が対応した
のと同じような展開である。
伊豆諸島と伊豆半島南東部における砂糠崎産のシェアの拡大は
「ひかり号」の登場による在来線のダイヤ変更に相当し、
その後再びの恩馳島産の流通独占は
「ひかり号」と連絡する「こだま号」の対応のようなものだったのではないか
縄文時代の
伊豆大島の下高洞遺跡がオオツタノハ製貝輪の製造拠点は、
近隣交易として伊豆諸島南部から原材料を持ち込み本土部の消費地に繋げる
地域密着の在来線
弥生時代の
伊豆諸島からの「最初の陸揚げ地」である三浦半島の「海蝕洞穴遺跡」群が製造本拠地
その貝輪づくり集団が季節的に訪れる三宅島のココマ遺跡が「遠隔地への積み出し地」であったとすれば
前者の三浦半島南側が
伊豆半島東岸から関東南部の環東京湾地方までに向かう「こだま号」の交易拠点(交通要衝)
後者の三宅島が東海地方や東北地方までに向かう「ひかり号」の交易拠点(交通要衝)
に相当する。
弥生時代中期中葉には、太平洋側のこの海域にも「阿多隼人」のような黒潮に乗るだけでなく風上に進める外洋航海能力を持った渡来系の交易民が出没していて、彼らが南西諸島と同様に縄文人交易民の活動海域を限った沿岸交易や島嶼交易の近隣交易を連動させた可能性は十分にある。(「ひかり号」→「こだま号」→在来線)
「阿多隼人」であれば、鉄生産能力もあり、舟釘とともに貝輪に高度な加工を施す軟鉄製の小型工具も製造供給することもできた。
(弥生時代中期中葉は、民博の時代区分では紀元前200年前後。
中国大陸の統一国家を秦が成立させたのが紀元前221年、続く統一王朝である前漢が成ったのが紀元前202年。「阿多隼人」の祖は、それらの都市市場を狙って中国南部沿岸への上陸を求めたが許されなかったために南西諸島に展開したマレー系の遠隔地交易民とする説があり、私もこれを採用している。秦、前漢ともに鉄生産を国家が独占する鉄官政策をとったが、彼らが上陸して交易拠点を持つことを許さなかったのは、そこが鉄生産拠点ともなることを嫌ったためと考えられる。)
弥生時代中期中葉、海上移動性に富んだ遠隔地交易民には、「阿多隼人」の他に、縄文時代以来、朝鮮半島南端と北九州沿岸を拠点に行き来してきていた縄文人交易民の「倭人」、四隅突出型墳丘墓を共通墓制とし始めていた同盟「出雲族」、紀元前334年に楚に滅ぼされた越の遺民稲作民を上越(越:こし)に入植させていた「安曇氏」がいた。
しかし、太平洋の外洋航海の遠隔地交易を得意とするのは「阿多隼人」だけだった。
「倭人」は玄界灘の活動海域から九州西岸に展開してそこで「阿多隼人」とそれが率いた当該海域の縄文人交易民と交易したが、その先に自ら展開することはなかったと考えられる。
「出雲族」は津軽海峡を抜けて東北地方の太平洋沿岸に展開することはあったが、関東地方沿岸にまで自ら展開することはなかったと考えられる。
「安曇氏」は瀬戸内地方と環大阪湾地方に紀元前300年前後から展開していた可能性があり、紀元前100年前後以降、博多湾地方を本拠地として占有して瀬戸内地方に石器素材の製造拠点の展開を活発化させていた。しかし、その先に紀伊半島を南下して自ら積極的に展開することはなかったと考えられる。
この3者に共通するのは、主に日本海や玄界灘を活動海域として、内海や潟湖といった比較的に小さな内湾を交易拠点(交通要衝)とし、沖合離島を外洋航海の中継拠点としたことである。
一方、
「阿多隼人」が得意としたのは、もっぱら太平洋の遠隔の島嶼と沿岸を行き来する外洋航海であり、太平洋側沿岸に比較的に小さな内湾が乏しいため(東京湾や伊勢湾は大きな内湾)、独特な交易拠点(交通拠点)の開拓ノウハウと運営ノウハウを有したと考えられる。
長い歴史スパンで見ると、
「阿多隼人」は、太平洋を外洋航海する遠隔地輸送者に徹してそれとしてサバイバルし続けている。
ここで、留意すべきは、
「阿多隼人」は、主要交易産品の生産地をネットワークしたが、大陸の消費地につなぐことは、南西諸島から台湾を経由して中国南部以外にはなかった。よって、朝鮮、華北、華中を最終消費地とする対外的なネットワークに接続する「倭人」「出雲族」「安曇氏」が、「阿多隼人」を下請け的に動かすことによってしか、「阿多隼人」の海上輸送としての交易活動は成立しなかった
ということである。
では、誰が「阿多隼人」を動かしたのだろうか?
「倭人」は、
朝鮮半島南端側と北九州沿岸側の津々浦々を母港とする海洋性部族群の緩やかな族的結合であり、基本的には縄文時代以来、縄張り本拠地での定住と縄張り海域での活動にこだわった。自分たちの「くに」を建てたり独自経済圏を形成する志向性を欠いた。
「倭人」は九州西岸で「阿多隼人」およびそれが率いた当該海域の縄文人交易民と交易したが、弥生時代中期中葉までに、太平洋の遠隔輸送を「阿多隼人」に求めることは無かった。
2世紀後半、「倭国大乱」が極東に知られ、「倭人」は「濊(わい)人」に西日本への侵攻と征服王朝樹立を持ちかけこれを全面的にバックアップした。その一環で「阿多隼人」に神武東征への加勢を求め、「阿多隼人」はこれに応じてその功績から初期ヤマト王権で天皇に近侍して高速航海船の建造と操舵を担う。初期ヤマト王権で、その「管理貿易」を「安曇氏」とともに政商型交易者として独占した「倭人」は、太平洋の遠隔輸送を「阿多隼人」に求めることは十分にあり得た。と考えられる。
特に、北部九州〜瀬戸内地方〜環大阪湾地方、そして上越地方に展開していた「安曇氏」が、初期ヤマト王権では、いわゆる「国譲り」させた同盟「出雲族」が形成していた主要交易産品の生産地の縄文人部族のネットワークと、「テュルク族」が建てて連合していた産鉄地帯を含む「くに」ぐに、つまりは本土部の国内外交易を継承したために、「倭人」が政商型交易者として「安曇氏」に対抗するには太平洋の遠隔輸送をする「阿多隼人」との連携は必須だったと考えられる。
同盟「出雲族」は、
脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者として、中国の都市市場を最終消費地として狙う環日本海交易ネットワークの盟主として、そのハブ拠点を島根半島西部に展開し、日本列島の主要交易産品の生産地をネットワークして広範な後背地経済圏を形成した。
同盟「出雲族」が成立する前は、その前身となる諸派の「出雲族」が全国に展開していた。その一部が太平洋の遠隔輸送を「阿多隼人」に求めた可能性がある。
具体的には、紀伊半島、東海、関東、東北の太平洋の遠隔輸送であり、主要交易産品としては海亀の甲羅、椿油、赤珊瑚などが上がる。
しかし、神武東征で初期ヤマト王権が成立した時には、いわゆる「国譲り」で「出雲族」本流は歴史の表舞台からは去って、その交易資源は移譲されていたから、同盟「出雲族」が「阿多隼人」を動かすということは無くなっていた。
「安曇氏」は、
国家主義の「管理貿易」前提の政商型交易者として、中国の巨大「領域国家」の楽浪郡との交易を主眼に博多湾地方を対外的拠点とし、その活動を支えるべく北部九州から瀬戸内地方そして環大阪湾地方に各種生産拠点を群展開した。
その活動の一環で、太平洋の遠隔輸送を「阿多隼人」に求めた可能性がある。
具体的には、四国、紀伊半島、東海の太平洋沿岸の遠隔輸送であり、物流させた産品としては各種生産拠点で必要とされる石器素材などが上がる。
神武東征の前夜には、魏の外臣化し出先機関となっていた「安曇氏」=「伊都国」は、魏朝貢交易を始めて魏に冊封された「テュルク族」と自動的に同盟関係になっていて、「テュルク族」の「くに」ぐにの貢納品及び下賜品の集荷分配の中継拠点として宇佐の地(「女王国」)を提供して魏朝貢交易を補佐していた。それが神武東征の終盤に裏切って「伊都国」長官(ニギハヤヒ)が、「テュルク族」の「くに」ぐにの連合政府「邪馬台国」の宰相難升米(ナガスネヒコ)を謀殺し、神武東征の難航を打開しその勝利に貢献した。初期ヤマト王権の成立に当たっては「邪馬台国」の魏朝貢交易の継承が喫緊の課題となったが、これを女王壱与の擁立によって遂行し、その功績を持って「安曇氏」は初期ヤマト王権の政商型交易者として重用されるようになった。
よって、「安曇氏」も初期ヤマト王権の政商型交易者として太平洋の遠隔輸送を「阿多隼人」に求めることができる立場にあったと考えられる。
なお「出雲族」も「安曇氏」も、
縄文人部族と交易関係を締結維持したり、縄文社会を稲作共同体に再編して支配管理するべく、
族長や呪術師や部族幹部に威信財として「贈与」する貝輪を「阿多隼人」を介して調達したと考えられる。
具体的には、「阿多隼人」が、オオツタノハ製貝輪を南西諸島と伊豆七島の産地で島嶼交易をする縄文人交易民から調達し、ベンケイガイ製貝輪を打ち上げられる海浜部で沿岸交易をする縄文人交易民から調達し、まとめて「出雲族」や「安曇氏」に調達したと考えられる。
◯「沿岸交易」の連鎖と「外洋航海による遠隔地交易」と両者の連携の様相
日本海沿岸と玄界灘沿岸の古代の海上交易拠点には似通った港湾インフラとしての構造が見受けられる。
それは
❶沿岸交易の小型船が発着して荷上げ荷下ろしをする内海ないし潟湖の奥部
❷外洋航海船の風待ちの停留ができる内海ないし潟湖の入り口部
❸外洋航海船が発着できる外海に面した沿岸部や沖合の小さい島
❹外洋航海船の中継基地となる沖合の大きい島
などの要素から成り立っていることである。
筑紫の場合、
❶は博多湾の奥部
❷は博多湾の入り口部
❸は志賀島とそれに連なる沿岸部
❹は壱岐
島根半島西部の場合、
❶は神門水海の奥部
❷は神門水海の入り口部
❸は日御碕とそれに連なる沿岸部
❹は隠岐
島根半島東部の場合、
❶は入海の奥部
❷は入海の入り口部
❸は美保埼(関)とそれに連なる沿岸部
❹は隠岐
である。
ところが、太平洋沿岸には、このような比較的小さな内湾が乏しい。
伊豆七島は伊豆半島東海岸のどこからでも目視できる。しかし、外洋航海してきた大型船が接岸できる自然の良好は乏しい。山が海まで迫っていたり断崖絶壁が連なっていたりしない長い砂浜は数が限られる。それも、伊勢湾や東京湾のように広い平野部が後背地として広がる訳ではない。
弥生時代中期中葉、陸路の発達していない段階では、主要交易産品の生産地や原材料の産地に近い、砂浜湾岸部が交易拠点(交通要衝)として選ばれたと考えられる。
「熱海(あつうみ)ヶ崎」の砂浜海岸は、黒曜石産地の北にあたり、黒潮に流されずに大島や三浦半島と行き来できる海域に面して好立地であった。
そして、古代熱海を、
日本海日本海沿岸と玄界灘沿岸の古代の海上交易拠点には似通った港湾インフラとしての構造の条件に照らすと、
❶は「熱海(あつうみ)ヶ崎」の砂浜海岸
❷は「大規模な隠れ湊」
❸は初島
❹は大島
が代替していると言える。
「熱海(あつうみ)ヶ崎」の交易拠点(交通要衝)としての好条件は、弥生時代中期中葉、陸路の発達していない段階で、すでに「阿多隼人」にこのように認識されていたのではなかろうか。
太平洋の外洋を、黒潮と偏西風に乗って東進し、逆にそれらに向かって西進して遠隔地交易の輸送を担ったのは「阿多隼人」とその後裔だったと考えられる。
但し、「阿多隼人」はそのような外洋航海ができる高速船の造船と操舵の技術を持った輸送民であって、遠隔地交易のビジネスモデルを構想して推進したり、ヤマト王権成立後はその「管理貿易」の利権を得て輸送民を動かしたりしたのは、「出雲族」(「国譲り」まで)や「安曇氏」だった。その際、遠隔地間の外洋航海という主要幹線は「阿多隼人」に担わせ、隣接する主要交易産品の産地間を連鎖する沿岸航海や島嶼航海という地方幹線は縄文人交易民ないしその後裔に担わせたと考えられる。
◯ ヤマト王権の国内外交易の担い手の様相と変遷
初期ヤマト王権の段階で、政商型交易者として重用された「安曇氏」は、「出雲族」が譲渡した彼らが縄文人部族との交易によって形成した日本列島内の交易ネットワークを含めて(「倭人」の活動海域であった西北部九州と九州西岸を除いた)日本列島全体の「管理貿易」を独占したと考えられる。
この段階では、ヤマト王権は全国各地の有力豪族を中央集権的に率いるに至っていなかった。つまりは、全国各地の有力豪族の縄張りを通行するには通行料(交易品の一部を納付)しなければならなかった。「安曇氏」は、天皇に初物を貢納する天皇直轄の「贄人」として通行特権を得て通行料を免除されて、「管理貿易」としての国内交易を展開すると同時に、それを「管理貿易」としての対外交易に接続した。この国内外の「管理貿易」体制において、「安曇氏」は、遠隔地間の外洋航海という主要幹線を「阿多隼人」に担わせ、隣接する主要交易産品の産地間を連鎖する沿岸航海や島嶼航海という地方幹線を縄文人交易民ないしその後裔に担わせた。
(中国の巨大「領域国家」の外臣化し郡出先機関として「くに」を建てて政商型交易者に徹してきた百戦錬磨の「安曇氏」にとって、ヤマト王権の国内外の「管理貿易」体制を任されて整えることは容易だった。「贄人」には、政治勢力化=軍事勢力化せずに経済勢力に徹した「安曇氏」がなり、中央で全体を構想推進する「贄人」、地方各地で現場を計画運営する「贄人」、北部九州で対外交易を交渉遂行する「贄人」が役割の分担と連携をしたと考えられる。)
第21代の雄略天皇の時代に、それまでの各地の有力豪族による連合体であった初期ヤマト王権が大王による専制支配に転換し、大王を中心とする中央集権体制が始まったともされる。
記紀によれば、反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せて帝権を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨。養蚕の推奨、新羅への出兵、呉への遣使などの政策を積極的に実施したとされる。
この「呉」とは、劉宋(420年〜479年)のことであり、雄略天皇の治世は5世紀と考えられる。
(「安曇氏」が「贄人」として整備した国内外の「管理貿易」体制は、「贄人」という役職があったかどうかは分からないが、初期ヤマト王権の樹立直後から整備が着手され、雄略朝下で拡充したと考えられる。
養蚕の推奨は、後に「安曇氏」の精神的支柱とされる安曇野を想起させる。
呉への遣使は、「安曇氏」が(呉越同舟の)呉の遺臣を祖とし、(魏呉蜀の)魏の外臣化しながらも呉とも交易したことを想起させる。
新羅への出兵は、4世紀後半とされる神功皇后の三韓征伐の際に、その陣頭指揮をとった軍船が「阿多隼人」の建造操舵した高速航海船と考えられることを想起させる。
初期ヤマト王権の国内外の「管理貿易」において、それを独占する政商型交易者である「安曇氏」=天皇直轄の「贄人」が、高速航海船の建造操舵の能力を買われて天皇に近侍した「阿多隼人」を動かすということは、極めて自然な関係性だったと言える。)
このような<天皇〜「安曇氏」=贄人〜「阿多隼人」ないしその後裔>の関係性は、6世紀から7世紀にかけて、具体的には磐井の乱(528年)から白村江の戦い(663年)とその敗戦にかけて大きく変化する。
ヤマト王権の「管理貿易」としての対外交易に、中央の政治勢力=軍事勢力である有力豪族が北部九州に展開して触手を伸ばし始めた。経済勢力=交易勢力に徹した「安曇氏」(政治勢力=軍事勢力化した「物部氏」を除く)は、北九州の本拠地を失い(競合を回避してむしろ積極的に手放し)、全国のアズミに発音の似た地名の交易要衝に分布した。白村江の敗戦後、北部九州に唐の占領軍本部が駐留しそれが撤収した後は新羅が政治干渉する時期が続いたともされている。そしてこれが契機となって、「安曇氏」は本拠地の北部九州を完全に捨てたのではなかろうか。
大化の改新(645年)で中大兄皇子が、そして即位した天智天皇がとった唐化政策も、こうした国内での唐と新羅の動きに応じたものだったと考えられる。対外交易は、経済マターではなく政治・外交マターになってしまい、成り行き次第ではヤマト王権の対外交易を取りまとめる政商型交易者は唐や新羅のものになる可能性もあった。
ところが壬申の乱(672年)で大海人皇子が勝利、天武天皇・持統天皇は唐化政策を日本化していく。中国の律令体制(一官制で政治権力者と宗教権威者が一致)に対して、律令神道体制(二官制で政治権力者と宗教的権威者が分立)に向かっていく。これは、政治体制である律令体制において徴税・納税という「交換」経済が上位下達的に展開する(<朝廷の公経済>)のに対して、宗教体制である神道体制において貢納・便宜供与という「贈与」経済がボトムアップ的に展開する(<天皇の私経済>)、両者の並立体性であった。前者が国家経済体制であり、後者が民間経済体制であるとも言える。
なぜこのような日本独自の体制づくりに向かったのだろうか。
私個人的には、
蘇我氏や葛城氏のような天皇を凌駕する政治権力者が政権についても
宗教権威者としての天皇の地位と経済的な後ろ盾が奪われずに維持されるようにした
それは
唐の占領軍が中央政権を奪取したり、新羅の干渉が中央政権を傀儡化したとしても
「領域国家」の域外だった蝦夷=東北に亡命政権を打ち立てて経済的に自立できるという、最悪事態を想定したリスクヘッジ体制でもあった
と考える。
神道体制は民間経済体制でもあったが、それは具体的にどのようなものだったのか。
神道体制とは、記紀をパブリック・リレーションの戦略コンテンツとして成立した。
律令神道体制以前は、全国の主要各地に祭政拠点としての社(やしろ)があった。律令神道体制において行政拠点の国衙や郡衙と祭祀拠点の主要神社に分離する。古事記の神話がその主要神社に祭神を割り振り、祭祀や祭りの内容を方向づけた。
一方、記紀は支配層を構成する主要氏族を、その祖を神々や天皇ゆかりの者に設定することでその宗教的権威を正当化した。それにより、天皇と支配層とは一蓮托生の宗教的権威共同体となった。主要神社は、かつて主要豪族が主要古墳を造営したように、主要氏族によって造営された。
以上だけであれば、神道体制は単なる宗教体制であり、上位下達型の中央集権的なピラミッドになってしまうが、神道体制は経済体制であった。
具体的には、持統天皇が伊勢神宮の絡みで具現化した。
伊勢神宮の最初の式年造替(内宮690年、外宮692年)で、神社の高床式穀倉をモチーフとした建築様式が標準化され、そこでの祭祀様式も標準化された。式年造替は、建物を建て替えるだけでなく、神宝と呼ばれる祭具や装飾も作り替えられた。また日々の祭祀には御食の食材をはじめ様々な産品が必要とされた。そこで建物の材料、装飾や祭具、祭祀に必要な食材などを、生産地の生産者が貢納する体制が構築された。持統天皇が、官僚の反対を押し切って繰り返した環伊勢湾地方を巡る行幸によって、彼らを「信仰共同体」に組織したのだった。
それは、実質的には、主要神社を消費センターとした地方経済圏の創生であった。
この地方経済圏創生のビジネスモデルが、全国各地の主要神社を消費センターとして行われていき、それらが交易ネットワークとして横つながりしていった。
これを構想推進したのが、北部九州の本拠地を失って全国の交易要衝に分布していた中央地方の「贄人」=「安曇氏」だった。
おおよそ
神道体制=<天皇の私経済>を「贄人」=「安曇氏」が民間経済として担い
律令体制=<朝廷の公経済>を政権担当者が国家経済として担った。
しかし、
両者には中間的な領域があり、そこで双方の利権占有者が競合した。
たとえば、
外国や異民族の朝貢に伴う交易は、天皇に由来すると捉えれば前者、外交に由来すると捉えれば後者となる。
また、
神道体制のもと「安曇氏」が利権占有者であった地方各地の主要交易産品の調達拠点に対して、
台頭した「藤原氏」が新たな宗教的権威を打ち出して利権占有者となろうとする動きも出てきた。
伊豆および伊豆七島、熱海が崎はそのような競合の場となった。
以下、具体的に検討していきたい。
『続日本紀』には、777年、
渤海国使が帰るときに海石榴(つばき)油を所望したので贈った、との記述がある。
椿油の日本における代表的原料植物は、東京都の伊豆大島、利島や長崎県五島列島福江島、新潟県の佐渡の椿が有名で、なぜかみな離島である。
潮風が椿の生育にいいのかとも思うが、そんな島や海浜部は日本中いたる所にある。
大陸の先進文明を誇った王朝の宮廷需要に応えるべく、数多ある離島の中でも伊豆大島、五島列島、佐渡という国際交易航路の中継地の島が生産積み出し拠点となったと考えるのが妥当だろう。
『日本書紀』には、天武天皇の時代、麻績王(おみのおう)の子の1人を伊豆大島に流罪にし、もう1人を五島列島の血鹿嶋(ちかのしま)に流罪にしたとある。
麻績王は麻続王、麻積王とも称され、出自をめぐって大友皇子(天智天皇の太子)、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説あるが、「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり本人も因幡に流されている。因幡は白兎神話の昔から隠岐島と関係深い。
ちなみに、680年に駿河国から分けるかたちで伊豆国が設けられ、724年に 伊豆国は遠流の地として定められ、平安末には源頼朝が流されている。
隠岐と因幡国の関係性は、伊豆大島と伊豆国の関係性に重なる。
注目すべきは、
後鳥羽上皇が流された隠岐、順徳上皇が流された佐渡など、貴人が流された離島がそろって宮廷必需品の国際的な名産地になっていることだ。
伊豆大島、五島列島、佐渡の椿油そして、隠岐のアワビなどである。
追って詳しく検討するが、
熱海ヶ崎でも古代からアワビが海女によって穫られている。
その熱海ヶ崎は、第5代孝昭天皇の時代に創建されたと伝わる伊豆山神社のある伊豆山の足下である。もともとの社はこの地の共同体の祭政拠点であり、海路による遠隔地交易の拠点港と一体だったと考えられる。
私個人的には、そのような共同体を「安曇氏」が転住および定住して形成したと考える。
アワビは、古代人に珍重された全海産物中の王者だった。
だが、ここで思い出してほしいのは、
新鮮な食材そのものの味を大切にする日本料理で日本人は、生のアワビを活用するが干しアワビには見向きもしない
一方、中華料理は古来、干しアワビを活用してきた
ということである。
そもそもは、秦の始皇帝がアワビを不死の薬として求めて徐福を日本に派遣したという伝説がある。石決明(せっけつめい)と呼ばれた干鮑の持ち帰りが期待された。ちなみに中国はアワビの住む岩礁が少ないという。
祝儀に用いる干鮑を細かく切った熨斗鮑(のしあわび)の由来も、長生不老の薬として寿ぎて添え贈るようになったことという。今私たちが冠婚葬祭に使っている熨斗の原初形である。
高級な干しアワビの産地としては、青森県や岩手県が知られており、大間町産のもの(広東語で「禾麻鮑 オウマパーウ」)や、大船渡市吉浜産のもの(「吉品鮑 カッパンパーウ」)は香港で非常に高値で取引されている。大きいほど高価になる。
古代でも、良質で大きいものは東北地方産であり、前項(7)で検討した山形県北端に位置する飽海とその沖の飛島も、干しアワビの流通および海運の中継拠点だったのだろう。
飽海と飛島の関係性は、ちょうど国府のある島根半島東部と隠岐の関係性、そして「熱海ヶ崎」と「初島」「大島」の関係性に重なる。
宮廷に珍重されたとしても干しアワビの国内消費量は限られていて、国内生産量のほとんどが輸出に回されたと考えられる。そして当然、輸出向けの干鮑はいちいち中央の都に運ぶ必要はない。
特定の政商型交易者に干しアワビの国内外交易利権を与え、各地の干鮑を集荷させ直接に輸出させ、見返りとして朝廷に大陸からの輸入品を上納させたと考えられる。
私は、その政商型交易者が天皇直轄の「贄人」であり、イコール経済勢力に徹した「安曇氏」だったと考えている。
こうした宮廷需要の絡んだ国際交易は象徴的には王朝同士の「管理貿易」であり、日本は<天皇の私経済>であり、それを専門的に担う政商型交易者によって計画推進された。
中国や朝鮮の王朝がヤマト王権から輸入したいものは、干しアワビや椿油に留まらない。時代が下るに従って輸出品目が増えこそすれ減ることはなかった。その巨大な国内外交易利権を得た政商型交易者は、輸出品目の生産から国内流通、国際貿易まで一手に担う独占体制を敷いた。
その独占性と効率性を確保して生産拠点と交易拠点をネットワーク化するには、<朝廷の公経済>の「管理貿易」の拠点である博多湾や大阪湾を介在させない、貴人が流されたような離島とそれと連絡する陸の孤島的な僻地のセットこそが最適だった。
問題は、物流は海路だが、通信は律令体制=<朝廷の公経済>下にある計画道路の宿駅伝馬制の早馬を利用するしかないことだった。天皇直轄の「贄人」は通行特権だけでなく、計画道路の宿駅伝馬制の早馬を利用する通信特権も持ったと考えられる。そうでないと、国内外交易ネットワークの活用を計画推進するための情報のやり取りができないからだ。博多湾や大阪湾を中継させると、「贄人」による交易利用と、国司による行政利用とがそこで混み合ってしまう。中継させなければ、混雑に対する調整の必要がない。
また、
<天皇の私経済>には、表向きの建前と内向きの実質との隔たりがあった。
表向きの建前としては、全国各地から集荷される産品は、各地の「信仰共同体」から天皇への貢納品である。しかし、内向きの実質としては、大陸交易の輸出品である。計画道路の宿駅伝馬制の早馬を利用する通信も、そのための商業通信に他ならない。
<朝廷の公経済>の「管理貿易」拠点である博多湾や大阪湾を中継させると、物流的にも通信的にも建前と実質の乖離が露見しやすい。中継させなければその心配はない。
(私個人的には、
<天皇の私経済>の国内外交易に関する記録がほどんど無いことが、むしろそれが秘密にされたことの証ではないかと考えている。
たとえば、国内外交易の物流を可能にするのは沿岸交易船であり外洋航海船であるが、それが交易ネットワークとして機能するためには、通信が国内各地同士でより頻繁かつより正確に行われることが不可欠である。その通信は陸路で早馬を乗り継ぐ、全国ネットワークの計画道路の宿駅伝馬制という公的インフラを利用するしかなかった。天皇直轄で初物貢納を担う贄人は通行特権を得ていたが、贄人は計画道路の宿駅伝馬制を利用して通信をしたと考えられる。
しかしそうした記録はないし、そもそも藤原京の造営と並ぶ巨大公共事業なのにも関わらず、計画道路の建設についての記録が乏しいのである。計画道路は、表向きには<朝廷の公経済>において国司の通信網および軍道として造営されたが、実際の利用頻度は贄人による<天皇の私経済>におけるの国内外交易の通信網としての利用の方が多かった。そうしたことの全体が暗黙の秘密とされて詳しい記録が残されなかったのではないか
と考える。)
中国の三大珍味の1つフカヒレ(他2つは干しアワビと燕の巣)は、時代が下った明の時代に中国料理に登場したと一般的には言われている。
また江戸時代の長崎貿易では、輸出品であった水産物のうち煎海鼠(いりなまこ)と乾鮑と鱶鰭(ふかのひれ)の3つが「俵物」と呼ばれた。俵に詰めて輸出された。
しかし、フカヒレが今も東北の気仙沼が中国向け輸出品のシェアのほとんどを占めること、中華料理に干鮑と同じく味を損なわずに干物を戻す高度な料理技術があることを思うと、私はフカヒレも古代から中国の宮廷食材として流通していたのではないかと疑いたくなる。
また、中国料理では、干貝または乾貝(中国語 ガンペイ gānbèi、広東語 コンプイ)と呼ばれる干し貝柱がよく使われる。ホタテガイ、イタヤガイ、タイラギなどの貝柱をゆでてから、天日干しした干物である。水戻しや粉末状にしてスープや炒飯などの具材として用いられる高級食材である。
そのホタテガイの自然分布の日本列島における南限は、日本海側が能登半島、太平洋側が東京湾とされ、大規模な商業的漁業が可能なのは東北地方の三陸海岸以北であるという。
ホタテガイも、鮑やフカヒレと同様に中国では良質のものを大規模に漁獲できないことから、古代から食材にうるさい中国宮廷が干貝を日本から取り寄せていた可能性がある。
中でも生産地が広範囲に及んだ干鮑の巨大利権をめぐっては激しい競合が中央と地方各地の両方で起こった筈である。
最終的には、天皇による中央集権を強化した天武・持統両天皇の時代に、全国各地の干鮑利権の分配は厳密に再設定され、天皇直轄の贄人の地方での活動も再編成されたと考えられる。
しかしそのような決着をみない、大王による中央集権が徹底されない時代には、大王家と有力氏族の権力闘争を反映した激しい競合が展開したのだろう。
(北部九州に留まった)「安曇氏」が、磐井の乱(528)から白村江の戦い(663)にかけての時代、最終的には安曇比羅夫の戦死を契機に、本拠地である志賀島一帯から離れて全国各地に分布したのはそんな時代だった。
そしてそれは、経済勢力に徹した中央と地方の「安曇氏」が連携してサバイバルすべく、宮廷必需の様々なハイエンド商品を中国から輸入する際、それと交換できる希少高価な輸出品となる干鮑の生産拠点・物流拠点・貿易拠点をネットワークしてその利権独占を死守したということだった。
私個人的には、
女性の海人(あま)、海女についての貴人が絡む和歌や物語がたくさんあることは干鮑利権に関係している
と捉えている。
そもそも海人(あま)を風俗として記したのは『魏志倭人伝』だった。
海人(あま)についての最古の記録は『魏志倭人伝』に、海中へと潜り好んで魚や鮑を捕る、とある。
海女については日本が先だ朝鮮が先だという無形世界遺産絡みの「海女争い」があるという。しかし時代をずっと遡れば、同じ太平洋島嶼からの海洋民が日本列島にも朝鮮半島にも渡来した訳で、素潜りして貝や海藻を穫る男女などどちらにもいたと考えるのが自然だろう。
鮑を穫った土地土地で生ものとして地産地消すのは自然発生だから、鮑をとるどのような海女がどこにいても不思議ではない。
しかし、
干しアワビを全国各地で集荷して国内の中継拠点を経て離島の貿易拠点に輸送するネットワークを展開するとなると、相応の輸入需要のある輸出先とそこからの輸入品を想定した国内外の利権的体制が形成された。そのような可能性がいろいろなことから読み取れる。
朝鮮半島では、後世、李氏朝鮮王朝の時代(1392〜1910年)には、済州島産のアワビが宮中への献上品とされ、宮中宴会の記録に干アワビが多く登場している。
古代の朝鮮諸国の宮廷も、日本の宮廷同様に干しアワビを消費していた公算が高く。その料理法は、箕子などの中国系王族によって中国の宮廷料理の影響を受けたものだったと考えられる。箕子は殷の政治家で箕子朝鮮を建国した訳だが、中国内陸部の殷ではアワビのような海産物を干物で得て料理していたから、それに倣って朝鮮半島沿岸で穫れたアワビを干物にして料理した公算が高い。
朝鮮半島南端と北九州沿岸は、縄文時代以来、縄文人交易民の一派である「倭人」が本拠としていた。
そして「倭人」も日本列島各地沿岸の縄文人も、ともにアワビを今私たちがしているように貝殻ごと焼いて食べていたのだろう。
朝鮮半島では、中国からの亡命交易者が朝鮮諸国の宮廷御用達の干しアワビを特権的に担い、それに対して、朝鮮半島南端の海上交易民「倭人」もアワビの漁獲とその干しアワビへの加工を組織して集荷し納品したと考えられる。
その際、干しアワビの余剰が見込まれ、それを中国系交易者が中国市場に輸出し朝鮮諸国の宮廷必需品(絹糸や絹布)に交換して輸入する、そういうビジネスモデルを展開したのではなかろうか。
北部九州を拠点とした「安曇氏」は、朝鮮半島西岸を行き来して楽浪郡や帯方郡との交易活動を展開する中で、朝鮮半島における「倭人」や中国系交易者の交易活動を知っていて、初期ヤマト王権で政商型交易者として重用された段階から日本列島の鮑産地を抑えて干しアワビの集荷拠点を設けて行ったと考えられる。
「安曇氏」には、
朝鮮半島北部を介して華北と交易する<北交易チャネル>
とともに
東シナ海を渡って直接にあるいは南西諸島を経て華中と行き来する<南交易チャネル>
があった。
<北交易チャネル>は、帯方郡がおかれる以前の楽浪郡が置かれた前漢代からあり、帯方郡が置かれた後漢代を経て、それが滅びた後は魏との直接交易に転じた。
<南交易チャネル>は、呉越同舟の呉越の呉が滅びた後、その遺臣を祖とする「安曇氏」は越と、そして越を滅ぼした楚と直接交易して形成され、秦漢代を経て、三国志の魏呉蜀の呉、魏との直接交易、さらには雄略朝の劉呉との直接交易にまで展開した。
「安曇氏」が北部九州の本拠地を失い全国各地の交易要衝に分布していった、磐井の乱(528)から白村江の戦い(663)にかけての時代、<北交易チャネル>は大きく変化している。
推古朝(593年〜628年)の時代、倭国が技術や制度を学ぶための朝貢使=遣隋使が、600年〜618年の18年間に3回から5回派遣されている。
舒明朝の630年、その後200年間、停止含めて20回行われた遣唐使が始まる。
これは、
交易の主眼が産品の輸入や高度人材の招聘入植から
(律令国家の内実を整えるための)知識の移入や技術の移転に変わったこと
そしてその「管理貿易」の主体が<朝廷(の公経済)>になったこと
を意味している。
そして、遣隋使そして遣唐使は隋唐の主に都との行き来だから、朝鮮半島は経由しても通過点でありスルーされるようになった。
遣隋使、遣唐使は、隋唐の側からすれば朝貢であり下賜品を持ち帰り、それは正倉院の宝物になっている。
また、留学生は書物はじめ様々な大量の文物を支給金で買って持ち帰った。
これらは、律令国家としての威信財や知識財という国家主導の文化交流や技術移転であり、今で言えば文部科学省や経済産業省が行うような<朝廷の公経済>に含まれる。
これとは対照的に、
経済勢力に徹した「安曇氏」が、政商型交易者の遠隔地交易民として扱ってきた交易産品は、鉄素材や絹布などの大陸から輸入品も、米や干しアワビなどの大陸への輸出品も、単品的な超希少性を誇る類のものではなかった。この点は、脱国家主義の「自由貿易」前提のベンチャー型交易者である「出雲族」も同じで、銅剣や銅鐸といった威信財を扱ったが、それらは単品的な超希少性を誇る類のものではなかった。
結果的に、
北九州の本拠地を失って全国の交易要衝に分布した「安曇氏」と、宗像地方で「安曇氏」と協働して大陸交易をしてきて独り留まった「出雲族」本流の後裔と思しき「宗像氏」は、経済勢力に徹した交易者として<天皇の私経済>に専念していった。天皇直轄の令外官の「贄人」となった「安曇氏」は、今で言えば、宮内庁の備品、消耗品、営繕用資材、器具等物品の管理及びその検査を管轄する用度課の役人および出入り業者。天皇に近しい海洋豪族とされる「宗像氏」は、今で言えば、皇室御用達の総合商社のような位置づけになる。
(白村江の戦い(663)の前後には、朝鮮半島情勢から朝鮮半島経由の安全な華北との行き来ができなかった。
ちなみに、
白雉朝の654年の第3回は、往路は新羅を経由して山東省に入っている。
斉明朝の659年の第4回は、百済情勢から北路は使えず江南路を選択している。
第2船の一行は往路で、唐と百済の戦役により暫く長安に幽閉抑留された。660年の百済滅亡の後、一行は勾留を解かれて洛陽へ向かっている。
第1船は往路で百済の南の島に到着、その後、逆風で遭難し南海の島「爾加委」(喜界島と推定される)に漂着し略奪に遭い、大使が殺された。生き残った5人は島民の船を奪って脱出、大陸の括州(現在の浙江省麗水)に至り、役人に護送されて洛陽に運ばれた。長安の第2船の一行同様、洛陽にて抑留されたと推測されている。
復路は、越州から出発、舟山郡島の須岸島南岸に到着、その後、暴風に遭い9日間漂流し耽羅(済州島)に漂着、耽羅国王子等9人を伴って帰国。
天智朝の665年の第5回は、留学僧の定恵や郭務悰を伴い250余人の大使節団と共に来日した唐使の劉徳高らを送る使節で、白村江の戦い以降に悪化していた唐との関係改善を、日本側が求めていた動きであると推測されている。劉徳高が封禅の儀(帝王が天地に即位を知らせ天下泰平を感謝する儀式)の会場である泰山に近い地域の役人であったことから、送使とは言いつつ、式典参列を意図した使節である可能性が指摘されている。そうであれば、道教の聖地、泰山が山東半島の西部であることゆえに往路は北路だったと考えられる。
667年に、唐の百済鎮将(旧百済占領軍)の劉仁願が派遣した文官の司馬法聡と共に帰国。百済鎮将の関わりからして、復路も北路だった可能性が高い。)
(補説:「東シナ海難航の歴史的な不思議について」
遣唐使船の難航は周知の事実だが、不思議なことに、遣隋使船・遣唐使船が倭人・日本人だけだとリスキーなのに隋唐の高官が同乗するものは安全に航海している。それは、隋唐の航海船とその操舵が技術的に優り、倭国・日本の航海船とその操舵が技術的に劣ったためだろう。しかし、そのような技術的欠陥は、古来、故地の長江河口域と東シナ海を横断して交易してきた「安曇氏」には明らかだった筈だ。つまり、「安曇氏」は遣隋使船・遣唐使船について意図的不作為として協力しなかった公算が高い。
一方、後世、鑑真の日本への渡来も難航している。
鑑真の場合、出航を何度も邪魔されていて、出航しても遭難し、難航を繰り返して疲労で失明してやっと来朝できている。
留意すべきは、鑑真の来朝目的である。聖武天皇が、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった状況に対して、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと高僧を中国に求めたのだった。
東大寺の大仏造立、国分寺・国分尼寺の全国展開と仏教を国教として新興する聖武天皇が、朝廷の律令体制において僧侶を官人化することが目的だった。
経済勢力に徹した「安曇氏」は、律令神道体制の神道体制において<天皇の私経済>を潤す役割を、「贄人」という令外の官として担っていた。彼らは、主要神社を消費センターとした地方経済圏を言わば民間主導で運営してきた。それに対して、官人化した僧侶の一部が、官寺であり国衙と深い関係を持つ国分寺を消費センターとした全国ネット経済体制を言わば官主導で運営することを危惧したのではないか。
今で言えば、文科省の省益に連なる利権と経産省や宮内庁の省益に連なる利権とが棲み分けているように問題無さそうだが、当時の「神仏習合」という宗教状況においては、対立的な経済勢力が形成されていくことが危惧されたとして自然である。
主要神社を消費センターとする地方経済圏も、天皇への初物貢納を建前とする国内外交易ネットワークも、そのパラダイム(考え方の基本的な枠組み)は、地域地方の庶民が構成する「信仰共同体」が貢納することで成り立つボトムアップ型の「贈与」経済であった。
一方、東大寺大仏の造立は、全国規模の庶民、豪族、貴族の有志の自主的な寄進や労働で成り立つボランティア型の「贈与」経済であった。その経済規模は、当時の国家予算の3倍、現在で言えば300兆円という莫大なものだった。また、大仏造立のキーマンに抜擢された行基は、全国各地を遍歴して庶民を説いて主体的に参加させた治水土木というボランティア型の公共事業を成功させていた。この動きと国分寺の全国展開、そして後の荘園の発達につながる墾田永年私財法と連携すれば、庶民の民間活力の利用において、仏教系=朝廷系の経済勢力と神道系=天皇系の経済勢力が競合していくことが危惧された。
聖武朝の時代、天然痘によって貴賤を問わず4分の1の人々が死んでいて国家の根幹を揺るがしかねない状況に陥った。それを未然に防げなかった神道ではなく、世界一の規模を誇る金色の大仏造立を象徴として鎮護国家を主眼とする仏教に、庶民、豪族、貴族の身分を問わない期待が集まったことも大きい。
このような状況下、
交易僧が増えてもそれが私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)であれば、「神仏習合」という宗教状況を利用して「安曇氏」の中央地方の「贄人」が取り込むことができただろう。しかし、伝戒師によって官人化した僧侶となるとそうは行かない。そこで、伝戒師として鑑真が来朝することを、経済勢力に徹した「安曇氏」の首長なり幹部なりが阻んだ可能性がある。
「領域国家」の政商型交易者に徹してきた「安曇氏」には、環境変化を見越して俊敏に国際的な謀略を発揮してきた文化的遺伝子が息づいている。前漢楽浪郡から後漢帯方郡へ、さらには魏、そしてヤマト王権へと後ろ盾を首尾よく鞍替えしてきたこと、神武東征終盤に同盟していた「テュルク族」の連合政府「邪馬台国」の宰相を謀殺し「濊(わい)人」の神武東征難航を打開し、成立直後の初期ヤマト王権に「邪馬台国」の魏朝貢交易を継承させたことなどである。
さらに、
呉が魏に滅ぼされる直前、呉王の孫権が2人の将軍に命じて日本に水軍を送ろうとしたが南西諸島で難航し諦めて帰ったということがある。私個人的には、これも「安曇氏」の謀略だった可能性を捉えている。
「安曇氏」は、公孫氏帯方郡の外臣化しつつも、古来から故地の呉との交易をしていた。公孫氏が魏と対立し呉王の孫権と結ぼうとしている状況で、日本に水軍を派遣しようとしていた孫権に近づいたと考えられる。何故なら、これを本拠地北部九州で受け入れてしまっては、「安曇氏」は完全に公孫氏側ということになってしまうからで、是非とも回避しなければならなかった。そこで「安曇氏」は、公孫氏帯方郡を後ろ盾にする立場から呉に対して水先案内人を買ってでて、南西諸島ルートに誘導し難航に陥らせ水軍を帰還させたのではないか。帰還した2人の将軍は死刑になっている。呉と敵対しこれを滅ぼした魏にとっては、これは功績であって、それ故に「安曇氏」は後ろ盾を公孫氏帯方郡から魏に首尾よく鞍替えすることができたと考えられる。
おそらく、神武東征終盤の際も、東征軍が大阪湾で大敗を期したタイミングを見計らって「伊都国」長官(ニギハヤヒ)が「邪馬台国」宰相の難升米(ナガスネヒコ)を暴殺している。呉の水軍を南西諸島で帰還させた際もそのタイミングを見計らったのは、華北の魏を、遼東から帯方郡にかけての公孫氏と華中の呉で挟撃する動静を見極めてのことだったのだろう。
私個人的には、神武東征は、北九州から瀬戸内地方を年月をかけて東進して大阪湾で敗北したのを受けて、別動体として南九州に待機していた「阿多隼人」が黒潮に乗って一気に海上輸送した水軍が紀伊半島南部から奇襲したと考えていて、「安曇氏」はそのことを事前に察知していたのではないか。「邪馬台国」は魏の冊封国であり「安曇氏」は魏の出先機関の外臣であり、同盟関係と言っても対等ではなくあくまで「邪馬台国」を補佐する立場にあった。しかし、大阪湾で大敗した「濊(わい)人」を助けて新王朝を樹立させればその政商型交易者として主導的な立場に立てるという目論見も当然あった筈だ。
呉の水軍を南西諸島に誘導した段階でも、島嶼の連鎖を渡りながら魏と呉の戦況をうかがっていて、もし魏が滅ぶような展開であれば北部九州に上陸させ、朝鮮半島への進軍のお先棒を担いでいたのだろう。
このような用意周到な国際的な謀略性が文化的遺伝子として備わっていたから、「安曇氏」は長い歴史スパンをサバイバルできたに違いない。
「安曇氏」が謀略を発揮して鑑真の来朝を阻むということについて、その動機と能力があったことは間違いない。)